12/27/2009

クリスマスからおやすみへ

勤めている会社の仕事納めは28日の月曜日なのだが、まあはっきりいって「やっとれません」という気分なので今年は早々に休みをもらって、すでにお正月休みに入らせてもらった。正月明けまでの9連休、社会人としては贅沢なお休みである。

金曜日のクリスマスは山手駅近くにあるイタリア料理の総菜屋さんが提供するクリスマスセット(ハーブを詰めて焼いたローストチキン1羽とラザニア2人前で3300円也)を予約注文してあり、これとケーキとワインでメリークリスマスであった。父親になって初めてのクリスマス。いろんなことを思いださぬわけがない。またそれについてはいずれ書ければいいと思う。

まだ生まれて9ヶ月の子供に何かプレゼントを買ってやろうと考え、最近の様子からみてビニール製のボールがいいだろうということになった。会社帰りにオモチャ売り場のあるショッピングセンターにでも寄って捜そうかと思っていた。その前に、妻にも何か安くても気の効いたものを買ってやろうかと思い、それはオモチャ売り場では捜せそうにないので、ふと思いだした丸の内のコンランショップに出向いてみることにした。

数年前にこのお店が出来たとき、仕事関係で知り合いだった人がその仕事を担当しており、妻と2人でオープニングに招待してもらったのだった。当時アパート住まいだった自分たちには買うものがないなあなどと思ったものだが、久しぶりに訪れてみるとなかなかいいものがいろいろあることがわかった。歳をとったということなのだろうか。

お店に入ってすぐにてんとう虫をデザインしたかわいらしいボールを発見し、子供にはこれを買うことに決めた。ボールは大中小の3種類があったが、中と小を1つずつ買うことにした。妻にはキノコをデザインしたガラスの容器に入ったチョコレート。これも4色あったうちから緑と赤を選んだ。それぞれをラッピングしてもらいあさっりとプレゼントの買い物が終わった。僕は買い物に迷いがない。プレゼントはそれぞれ好評だった(と信じている)。

帰宅すると妻から唐突に、このご近所での忘年会が翌日開催されるのだと告げられた。会場は横浜駅近くの居酒屋らしい。何だずいぶん急だなあと思いつつも、やはり4月に越してきて以降はじめてのご近所行事なので、これは参加しとかなければいけないかということで、参加することにした。

行ってみると、全20世帯のうち来ていたのは半数より少し多い程度だった。うちもそうだが、小さな子供を連れて家族で参加しているところが多く、借りた居酒屋の座敷スペースはそれはもう大変な騒ぎであった。僕はもう20年以上居酒屋に行っているがあんな光景を見たのは初めてだった。短い時間であったが大きな混乱もなく、楽しい時間を過ごすことが出来た。ご近所の奥様旦那様と飲むというのは不思議な感じがするものである。

とまあこんな感じでお休みは始まり、そのなかで今年1年が終わろうとしている。僕や妻にとっていろいろな事柄のバランスが大きく変わり、人生の大きな節目となる1年だった。そんなことを振り返りながら、今年はこの横浜で家族3人で新年を迎えようと思っている。幸いしばらくは寒さも少し和らぐようだ。

12/20/2009

ほうちゃん

山手に引越して8ヶ月。ようやく本格的な冬の寒さがやってきた。

週末に子供が風邪を引いてちょっと熱を出したりもしているのだが、幸い大事にはいたっていない。水気の少ないサツマイモのおかゆを妻が作ってくれて僕が食べさせていたら、途中で咳き込んだ拍子に食べたものを全部もどしてしまった時はちょっと慌てたが、一番びっくりした当の本人がその場で大泣きしたものの、すぐに泣き止んで残ったご飯をすぐにまた元気よく食べてくれた(少しお湯を足して柔らかくしてあげたが)。医者からもらった薬が効いているのか、いまは落ち着いている。

念のため予定していた妻がお世話になっているお宅への訪問お出かけは中止となった。遅い年賀状の準備をしたり、親戚からの頂き物へのお礼の品を送ったり、ワンサイズ大きくなった子供のおむつとミルクを注文したりと、ネットは音楽以外にも大活躍である。気がつけば「お買い物」のお出かけはこの1年でさらにずいぶんと減ってしまった感がある。最近では外出のほぼ100%は外食が目的の中心にある。それ以外の買い物はそのついでに何かのあればという感じで、そのほとんどは食材である。

日曜日は早起きしてウォーキング。山元町からフェリス女学院の間を抜けて港の見える丘公園へ行き、そこで日の出を眺めて北方小学校から上野町を通って山手駅まで戻る道程。人通りのほとんどない寒い早朝に横浜らしい街並みを駆け抜けるのは気持ちがよかった。1時間弱でおよそ7000歩の運動になった。

山手駅前の商店街は最初はずいぶん地味だなあと思ったのだが、何度も往来しているうちにそこで頑張っているいろいろなお店の魅力が感じられるようになってきた。そのなかで一番僕が気になっていたお店をようやく訪れることができた。「ほうちゃん」というホルモン焼のお店がそれである。

僕は未だに1人でお店に入ってお酒を呑んだことがない。晩ご飯を食べるついでにビール1杯とかいうものも含めてだ。それをするくらいならお酒を買って家で飲む。お店に独りというのは、そこの人と知り合いででもない限りどうにも居心地が悪く、いわゆるおひとり様の世界というのはいまのところ自分には縁遠いもののようだ。

「ほうちゃん」のことを知ったのは山手に移って間もない頃。赤ちょうちんにホッピーののぼりとともに「串焼きホルモン」の看板、これはもう惹かれないはずがない。しかし子連れで飲み屋に入るわけにもいかず、たたでさえ呑みに行ける機会が減っている上に、山手で呑める人というのもおのずと限られてくる。

そしてとうとう先の金曜日になって、みなとみらいに住む以前の職場の同僚を誘って行くことが出来た。これもこちらの都合で2回も延期になった結果ようやく実現したというわけだ。

結論を言えばこのお店は最近入った飲み屋の中で最も僕の理想に近いお店だった。ホルモン串焼きと串揚げを中心にしたメニューは店主がこだわっているだけあって、なかなかのものだ。

おまかせホルモン串焼き4本セット400円は安い。まずはこれを注文すべし。串揚げはハムカツとソーセージを食べたが1本130円は手頃でうまい。そして一品料理では、大トロホルモンとポン酢で食べるミニホルモン鍋といえるポンホルなど、どれもとても素晴らしい。これだけまとめてホルモンを食べたのは初めてというくらい、2人でひたすら唸りながら食べて飲んだ。

生ビール2杯ずつとホッピー1本に中身のお替わりを2杯と合計5杯ずつを飲んで、料理合わせてお勘定は8千円ちょっとだったと思う(2人それぞれ万札をとりだした以降の記憶が少々あやしいのだが)。いわゆる激安のお店というわけではないが、中身がしっかりしていて良心的な価格だと思う。チェーン店にはないしっかりしたところが魅力である。

僕が日頃おつきあいさせていただいている、すべての呑ん兵衛の皆さん。いつかこのお店でぜひ一杯やりましょう。どうぞ遠慮なく「ほうちゃん行きましょう」と声をかけてください。楽しみにしてますよ。

12/13/2009

アパショネード

スタン=ゲッツが晩年にケニー=バロンとのデュオで演奏した「ピープルタイム」が、CD7枚組の完全盤で再発されている。この知らせをネットで見かけた時は一瞬触手が動いたのだが、そこのところは最近抑制が利いていて、すぐさま天の声が聞こえてくる。

「待て、えぬろぐよ。それを買ったところでお前は今後何回それを聴くと思うか?そのなかの2枚分はもうお前のお気に入りのはず。それで満足すればいいのではないか?そんなものよりもっと他に聴かなければならないものはたくさんあるはずじゃ。商売に惑わされてはいかんぞ。」

というわけで、久々にゲッツの名に触れたところで僕が思いだしたのは、彼が生前何かのインタビューで「あなたが最も気に入っている自分の作品は?」と問われて答えていた作品のこと。それが「アパッショネード」である。さっそくiTunesでダウンロードしてみた。

これはゲッツが亡くなる2年前に行われたセッションで、7菅からなるホーンセクションにシンセサイザーやエレキギターなど電子楽器を交えた、いわゆるオーケストラ作品である。ピアノは晩年のパートナーであるケニー=バロンが参加し、変わったところではジェフ=ポーカロがドラムを務めている。

ゲッツの返答は音楽を一聴すればすぐに納得できる。ディテールまでかなり綿密に作り込んだアレンジメントの上を、おなじみの軽快なテナーサックスが駆け巡る。こんな気持ちのよい音楽はそうそうあるものではない。

かなり寒くなってきたものの、まだ冬らしさは感じられない。仕事ではゴタゴタ続きだが、前年を下回ったもののなんとか無事にボーナスも支給され、少しほっとした週末だった。子供を抱っこしてゲッツの咆哮に耳を傾けていたら、いつの間にやら彼はすやすやと眠りに入っていた。それほど(?)心地よいサウンドをたたえたアルバムである。名作!

Stan Getz - Apasionado iTunesでダウンロード

12/06/2009

ディア サムワン

最近話題になっている、ベーシストAnders Christensenのアルバム"Dear Someone"がアランの店から届いた。前回のろぐで書いていたもしかしたら最後のCD購入になるかもしれない3枚のうちの1つがこれだった。

このアルバムの中身を聴いてみたいと思ったのは、素晴らしいこのジャケットを見てのこと。


実にいい雰囲気で、どこかうらやましい様な感じさえするスナップショットである。ちなみに右側の長身の男性がAnders本人のようだ。おそらくは彼の活動拠点であるコペンハーゲンの街の一角だろう。

内容の方もこのアルバムジャケットの雰囲気にぴったりで、とてもリラックスした雰囲気のシンプルなトリオ演奏が漂ってくる。どこかで聴いたことのあるメロディは、思わず口ずさみたくなってしまうものばかり。この雰囲気作りに一番貢献しているのは、おそらくモチアンのドラムだと思う。

この週末はちょっと体調を崩してしまった。僕の休みに期待していた家族には申し訳なかったが、この作品のおかげもあっていまのところは何とか持ちこたえている。

評判通り、一聴の価値ある素晴らしい作品だった。

11/29/2009

カートとパット

最近気になっている音楽作品についてiTunes Storeで検索してみると、実に様々な作品がダウンロードで購入できることがわかる。1年ほど前に個人的なダウンロード熱が高まった頃に比べても、内容の充実ぶりは明らかである。

非圧縮デジタルオーディオであるCDに比較して音質の問題はあるが、はっきり言って現在の自分のリスニングスタイルからして、CDである必要性はもはやほとんどないといっていい状況にあり、将来もっと広い家に住んで高級オーディオの世界を満喫しようなどとという考えももはやなくなった。もしそれにかけるくらいのお金があるなら他にやりたいことがある。

むしろラックや段ボールに何枚も収まっているCDの存在が、目障りとは言わないまでも、日に日に気にかかるようになっていく。この1、2年ほどの間に何度か行ったり来たりしてきたこの思いだが、どうやら自分のなかである方向に舵が切られたように思う。いまアランの店から到着待ちになっている3枚のCDがひとつの区切りになるのかもしれない。

さて、先週末にダウンロードで購入した作品のひとつが、ギタリスト、カート=ローゼンウィンケルの最新作「リクレクションズ」である。今回はギタートリオによる真剣勝負の作品ということで、ただでさえ期待が高まるところに、ベースがブランフォードのグループで活躍するエリック=レヴィスということで、これはもう買うしかないとリリースを待ちこがれていたのである。

選曲はスローからミディアムテンポのものばかりを集めたかなり渋い内容。全8曲中モンクとショーターがそれぞれ2曲に、"You Go To My Head"や"More Than You Know"などのスタンダード4曲という構成になっている。数回聴いてみた感想としてはかなり密度の濃い内容で、僕にとって重要なギター作品になることは間違いない。

ギタートリオの名盤といえば、個人的No.1作品としてパット=メセニー等による「クェスチョン アンド アンサー」がある。僕にとってこの作品の存在感は圧倒的なものであり、パットの参加作品のなかで最高のものであると同時に、数あるギターアルバムのなかでも最も重要な作品のひとつだと考えている。

今回の作品を聴いて久しぶりにパットの方を聴いてみたくなり、少し聴き比べてみたのだが、やはりカートの作品はいまの時点ではまだ、これを超えるものではないなと感じた。「クェスチョン アンド アンサー」が僕にもたらす興奮は異様なものなのだということを改めて感じたわけである。

これについて書き出すと長くなりそうなので、それはまた別の機会に。誤解のないように繰り返しておくが、カートの今回の作品はとても素晴らしい。このグループでライヴがあるなら絶対に聴きに行くべきだと思う。それは僕にとってのギタートリオ名盤No.1の座を改めるべきかなと感じさせる程のものだったというわけだ。

カートのこれまでのアルバムが欲しくなってきたのだが、これからはダウンロードということになるだろう。しかし、そうすると購入に拍車がかかりそうで、それを抑えるのがまた大変である。

それにしても購入手段が変わっても日本で買う音楽はやはり高い。ものが安くなることと仕事が無くなることのどちらがとかいう議論ではなく、様々な音楽が一律で同じ様な値段になっている必要はないだろう。洋楽は原産国の価格で買えるようにすべきではないだろうか。

11/23/2009

勤労感謝と剣菱

勤労感謝の日とは一体どういう日なのか。

働いている人にありがとうと労う日なのかなと思うのだが、ではお父さんの肩を揉んであげましょうというような習慣があるかといえば、僕は知らない。かといってメーデーのように労働者が集ってお祭りをするわけでもない。家で妻とそんな話をしながら、これは日本の祝祭日の中で一番主旨が知られていない日なのかもしれないという結論に至った。

Wikipediaによると
国民の祝日に関する法律(祝日法)では「勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう」ことを趣旨としている。1948年(昭和23年)公布・施行の祝日法で制定された。
と記されている。詳しくはリンク先を参照してみて欲しいが、日本の長い歴史のなかでの意外な経緯がある日なのだということがわかる。それにしても「勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう」とは、いまの日本ではずいぶんと忘れられた意識ではないかと感じた。

週末の楽しみといえば少し前はショッピングがその代表だったが、最近ではほとんどのものをネットで買えてしまうので、そのために週末に出かけることはかなり減った。この3連休はiTunes Storeで2枚のアルバムをダウンロードした。やっぱりこれはとても便利な仕組みだ。いずれもなかなか聴き応えのあるものだった。それらについてはまたいずれ。

10日ほど前にアランの店に注文したCDの発送連絡がなかなか来ないので、ついでにそれらをキャンセルしてダウンロードしてやろうと図ったのだが、キャンセルを申し出たところ「昨日発送した」というメールが彼から届いた。いわゆる「そば屋の出前」かもしれないが、まあ今回はアメリカからの小包を待つことにしようと思う。

初日に元町へ食事をかねて3人で出かけたのだが、以前からそろそろ買い替えようかと思っていた通勤用のバッグをお店で眺めてみたのだが、結局その日の夜にお手頃なものをネットで見つけて買ってしまった。

結局、3連休は中区から一歩も出ることなく過ごした。近所の中華料理屋さんでお昼を食べて、本牧の三渓園を見て回ったり、次の日も本牧でお昼を食べて市民公園を散策したりして過ごした。ベビーカーが大活躍だった。

三渓園から本牧通りに出たところに「ラ・ネージュ」という洋菓子屋さんがある。テレビなどでも取り上げられる有名なお店らしいが、僕らは連休中になんと2回もここを訪れてしまい、店内で美味しいケーキを楽しませてもらった。とても丁寧なつくりであり、かつ味はかなり積極的である。しっかりした甘さやコクでまったくイヤミを感じない。いいお店を見つけた。

ケーキに満足した僕は近所にあるディスカウントの酒屋さんで日本酒を買った。「剣菱」という神戸は灘のお酒である。関西では飲み屋さんの看板でもよく見かけるのだが、日本酒好きの間では全国的にも比較的有名なものだ。今回は900mlの瓶を買ってみた。久しぶりの剣菱。やっぱりうまい。千円で4夜くらい楽しめるのだからこれは安いものである。

今宵含め3連休の夜はこれでゆっくり微睡んだ。昨夜も最近の僕にしては割としっかり呑んだのだが、今朝は目覚めがよく朝まだ暗いうちからウォーキングに出かけた。さすがにスリークォーターのタイツでは寒いので、フルレングスとウィンドブレーカーで出かけた。朝はまだ曇り空だったが、東の空がゆっくりと明るくなってくるのはやはり見ていてすがすがしい。

おかげで今日は昼間のお出かけと合わせて1万8千歩を歩いたが、あまり疲れはない。週末中心に子供を抱っこしたりするおかげで上半身も少しは鍛えられているようだ。

自分たちなりに、勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝し合うことが出来たのではないだろうか。

11/15/2009

イリアーヌとマーク

僕は毎日京浜東北線で通勤している。最近では乗降ドアの上部車内に液晶モニターを装備した車両がずいぶん増えた。いわゆるデジタルサイネージというものである。広告を主目的に天気やニュース、グルメや豆知識などちょっとした情報提供番組が、通勤電車という環境をよく考慮した構成で流されている。嬉しいのは(当然だが)音声が全くないこと。言語情報はすべて文字で提供される。

そこで流れるコンテンツのひとつにある航空会社のテレビCMがある。熟年夫婦がリタイア後の海外旅行でニューヨークを訪れるという設定を、飛行機がジャズクラブのバーカウンターに着陸するという映像イメージでうまく表現している。

ステージでは赤い衣装を身にまとった黒人女性が、優しそうなジェスチャーでミディアムテンポのラヴソングを歌っている。この映像は一般向けにかなりデフォルメされたジャズという音楽のイメージの典型例だと思う。

通勤時にこの映像を何度も眺めているうちに、僕は飛行機に乗ってマンハッタンに行きたくなる代わりに、優しい女性ヴォーカルを聴きたいという気持ちを催すようになった。初めてそう感じたのはもう2ヶ月ほど前のことだ。

ヴォーカルはあまり得意な分野ではない。ましてや優しい、つまりはオシャレな女性ヴォーカルとなると、どうも敬遠してしまう。やはり金の匂いが感じられるからだろうか。

いざ聴いてみたいと思っても、何を聴いていいのかがわからない。自分が欲したのは、コンテンポラリーな人であまりお歳を召していない人というイメージなのだが、すぐ思い浮かぶのはどうしても金の匂いが気になる人ばかりで、なかなか触手がのびない。

そんなある日に飲み会で訪れた新宿でほんの暇つぶしにディスクユニオンに入った際、慣れないヴォーカルコーナーを物色していて、あるCDに目が留まった。イリアーヌ=イリアスの"Dreamer"である。

まあ言ってしまえば半分はそのジャケットにある彼女に惹かれたのであるが、参加メンバーも悪くなかったし、中古で値段がお手頃だったというのもあって、僕はそれをそそくさと購入してそのまま飲み会に向かい、その週末にそれを聴いてみたのであった。

これはなかなか完成度の高いボサノヴァアルバムだと思った。僕が求めていた映像イメージの音楽とは少し異なるものだが、優しい女性ヴォーカルを耳にしたかった僕の欲求はこれで十分に満たされた。

僕はすっかりエリアーヌのファンになり、先週また2枚のアルバムを取り寄せた。うち1枚はビル=エヴァンスに捧げた"Something for You"である。エリアーヌはピアニストとしてもなかなかの腕前で、こちらの作品ではビルにゆかりのあるお馴染みのナンバーを心地よく歌い弾き聴かせてくれる。

実はこの作品にはもうひとつのトリビュートがある。それは2つの作品にベーシストとして参加しているベーシスト、マーク=ジョンソンの存在である。ご存知の通り彼はエヴァンストリオ最後のベーシストとして、多くのレコーディングやライヴをともにした人物であるが、そのマークはイリアーヌの夫だと知って、ははーんなるほどねと思った次第。

アルバムのラストには、エヴァンスがマークに渡したカセットテープに収められていた演奏がそのまま収録され、そこにイリアーヌが演奏をつなげてエヴァンスに向けた短いメッセージを歌うという粋な趣向になっている。

イリアーヌの歌声とピアノは仕事のストレスを癒すにはもってこいである。いまでは休日に家族でいる時のBGMとしても活躍してます。おすすめ!

11/08/2009

近場で過ごしてトニーを観る

インフルエンザがかなり身近に迫っている。会社では本人だけでなく家族が感染した場合も、出勤を見合わせる規則になっているのだが、先週は僕の職場だけでも5人がそれでお休みとなってしまった。いずれもお子さんが感染してしまったケースがほとんどである。

僕たち大人は満員電車に乗ろうがオフィスで初対面の人たちと長時間会議をしようが、意外に感染することはないようにも思える。やはりそれなりの抵抗力があるということなのだろうか。わが家では子供はもちろん心配だが、妻が感染したとなるとそれはまた一大事である。

そんな状況なので、週末は人ごみを避けてもっぱら家の近所で過ごすことにした。土曜日は近所の森林公園にポットでコーヒーを持参し、途中で公園近くのパン屋で菓子パンを買って、園内の広い芝生にマットを敷いて3人で食べた(子供はまだ見ているだけなのだが)。日曜日の今日も山手駅前商店街の「やまて食堂」でお昼を食べて、帰りにスーパーで買い物をして早々と自宅に戻ってきた。

「会うたびにいろんなところがしっかりしてくるね」と食堂のおばさんが声をかけてくれた。店内のテレビでは「NHKのど自慢」が流れていた。初めて食べたハンバーグ定食はとても美味しかった。どのメニューも本当に完成されている。

僕は夕方になってウォーキングに出かけた。本牧市民公園から三渓園方面を回って山頂公園を経て戻るという1時間と少し約1万歩のコースになった。ブラブラ歩くのも楽しいが、ランニングのウェアに着替えて両手を振って早足に歩くのは、それなりの運動になる。僕にとっては1万歩くらいが心地よい疲れが感じられるようだ。

本牧市民公園から海側は本牧の港湾エリアである。僕はまだそこに足を踏み入れたことはない。今回初めてその近くまで行ってみたのだが、いま住んでいる場所とはまた異なる港街の姿がそこにあるように感じられた。いずれまたゆっくり散策してみたいと思っている。

帰ってみるとHMVから荷物が届いていた。この店はネット通販の初期に嫌な思いをしたこともあってほとんど利用していないのだが、今回はどうしてもこの店以外で扱っているところが見つからなかったので、しかたなくそこで注文したのである。

届いたのはトニー=ウィリアムスが1989年に自己のグループで行ったスタジオライヴを収録したDVD。"Jazz Door"というテレビで放映された映像などをDVD化して販売している(おそらくは)海賊レーベルのものだ。

ここに収録された映像はパイオニアがレーザーディスク用のコンテンツとして制作したもので、おそらくは過去に一度そのフォーマットで商品化されたものだと思う。DVDに収録された映像はVHSテープレベルのもので音も特段優れているわけではない。以前にご紹介した新生ブルーノートレーベルでの作品から7曲が1時間弱のライヴ演奏になって収録されている。

トニーほどの大物となると映像作品などはいくらでもありそうなものなのだが、パッケージ化されたものとなると意外にもそれは少ない。しかも、1960年代後半のマイルスグループのものや、1980年代前半のハンコック等とのコラボレーション(V.S.O.P.など)のものがほとんどであり、特にこの時期の作品となるとパッケージ化されたものはほとんどないといっていい。

もっとも最近ではYouTube等に多数の映像が掲載されているので、そういう意味では時代の変化を痛烈に感じる。本作品の映像もYouTubeにちゃっかりアップされている。


このDVDが発売されたことを知った時は、ブートであることはわかっていてもどうしても観てみたいと思った。しかし、ちょっと忙しさにかまけているといつの間にかほとんどのお店で在庫切れとなっていた。レーベルのウェブサイトは(当たり前だが)なく直販もないあたりはいかにもである。それがたまたま(マニアの少ない?)HMVで売れ残っていたというわけだ。

夕方に妻が子供と僕らの食事を用意してくれている間、子供の面倒をみながら鑑賞させてもらった。映し出されるのはまぎれもないあの頃のトニーである。トレードマークになっている黄色のグレッチのセットを力強く打ち鳴らす姿は素晴らしい。

収録用に設定されたスタジオライヴなので、野外フェスの様な恐るべき激しさはやや控えめになっているが、全編を当時のオリジナルナンバーでしっかりと聴かせてくれる。メンバーもマルグリューやウォレスをはじめ勢揃いである。画質や音質が悪くても満足できる内容だった。

子供はトランペットのかん高い咆哮やドラムの激しい連打に反応するようで、画面を見ながら時折得意の(?)ハスキー笑いをあげて喜んでいた。

この日の夜ご飯は、初めて3人で一緒にテーブルで食べた。妻と僕が食事をしながら代わる代わる子供にも食べさせ、楽しい食事となった。

(右に顔だけ映っている僕が左手にカメラを持って撮影しました)

11/01/2009

ザ ロング マーチ

11月に入った。僕にとっては大きな変化があった2009年は残りあと2ヶ月である。明日の月曜日を休暇にすれば火曜日の文化の日とつながって4連休とすることができるのだが、あいにく休暇を取るのは諦めざるを得なかった。残念。

今日は2ヶ月ぶりに髪を切ってもらった。今回からサロンを変えてみた。以前2回お世話になったところも悪くはなかったが、カラーを自分でやることにしたので、それが売りだったそのお店に通う理由がなくなったのだ。

ヘアサロンの料金というのはよくわからないものである。基本的には技術料ということなのだろうが、よく考えてみると実際には、場所代だったり雰囲気代だったり接客代だったり性格代だったりと様々である。同じ施術でも、5千円で十分なおつりがくるお店から、その何倍もかかるお店まで様々である。その意味ではそれは飲み屋の世界に通ずるものがあると思う。

録り溜めてあったテレビ番組「探偵!ナイトスクープ」の少し前の放送分を観ていると、秋田県の高校生から次の様な調査依頼があった。

「日本の大阪というところには『ジャンジャン横町』という不思議な商店街があるそうで、昼間なのにそこにいる人はみんなお酒を飲んでおり、その入り口にシラフで立った人も、出口にくる頃には酩酊状態になるらしく、しかもそれに1円のお金もかからないという。そんな竜宮城の様な場所が本当にあるのでしょうか?」

調査を指示されたのは桂小枝探偵。ジャンジャン横町のことを少しでも知る人にはお察しの通り、地元の人気者である彼が横町を歩くだけで次々にお店やそのお客から声がかかり、酒とつまみを奢ってもらうままに飲み続け、わずか1時間で酩酊状態で出口にたどり着くという内容である。

「竜宮城は本当にあった」という結論にはしてなかったが、絵に描いた様なことの展開も、あの界隈独特の風俗が素晴らしい効果を発揮して、とても現実味あふれる夢物語に仕上がっていた。熱燗の2合徳利を注文すると1合徳利がオマケでついてくるお店など、新世界以外のどこにあるだろうか。

今日はとても暖かい1日だったが、明日からは寒くなるらしい。スーパーで買い物をしたついでに、270ml入りの大型辛口ワンカップを買ってみた。おつまみとして相変わらず小さなゴマシオの袋がついている。今日は常温で飲んでみようと思うが、そろそろまた熱燗の季節がきたようだ。まあ身体を気遣いつつそれを癒せる範囲でこれからも酒が呑み続けられればいいと思う。

今宵のお酒のお供はマックス=ローチとアーチー=シェップによる1979年のデュオコンサートの模様を収録した、Hathutレーベルの作品"The Long March"である。以前に2枚に分かれてリリースされていたものが、最近になってCD2枚組となって再発された。


この作品、実はかなりの銘盤である。ローチは1970年代以降、様々なフリー系のミュージシャンとのコラボレーションを残しているが、彼なりになされたフリージャズへの展開は1960年の代表作"We Insist!"に始まる、ブラックムーヴメントに起因するものであるから、その意味でシェップとの共演は深く共有された黒人文化が互いに響き合う様に感じられ、非常に感銘を受ける内容になっている。

両者とも演奏はそれまでのモダンジャズの歴史全体を踏まえたものになっており、その意味ではフリーを敬遠する人にも親しみやすい内容だと思う。シェップがソロで謡い上げる"Sophisticated Lady"や"Giant Steps"の素晴らしさ、そしてそれに負けず劣らずに響くローチのドラムソロ。さらに2人の演奏が激しく交差する"The Long March"や"South Africa Goddamn"、そして最後の"It's Time"などはただひたすら感動的である。

本作品はアマゾンでは取扱い中止になっているが、ディスクユニオンはじめまだ比較的いろいろなところで入手可能である。芸術の秋にジャズをしみじみ感じる作品としてお勧めしたい。

10/25/2009

ファーストミーティング

妻が以前からお茶を習っている先生に子供を会わせたいというので、僕も付き添いで川崎の宮崎台というところまで出かけた。

先生という人には兼ねてから僕も間接的にお世話になっている。お茶菓子を妻にお土産として持たせてくれたり、お稽古の打ち合わせに自宅までくれた電話に僕が出て少し世間話を交わしたりしたこともあった。が、何と言っても一番の恩は、数年前僕がヘルニアに苦しんだときに、最終的に落ち着く先となった医者を紹介してくれたことだろう。

実際にお会いするのは今回が初めてであり、面倒くさがりで人見知りをする僕としては、あまり気の進まない一面もあった。茶道という世界には思想や器物に対する関心はあるものの、あの流派の様なものの存在が、僕には鼻についてどうもいい気がしない。

訪問させていただいた先生のご自宅は、非常にこじんまりとまとまったお宅で、2階がほとんど茶道教室のために割り付けられた間取りになっていた。その日は他の生徒さん2名とともに僕らも茶室に通され、妻も少しだけお手前をさせてもらった。もちろん僕はお客ではなくただの見学者と化して、子供の面倒を見ながら椅子に座らせてもらったまでだ。

短い時間だったが、先生ご夫妻と年配の生徒さんたちに暖かく迎え入れていただき、子供もぐずることなくとても楽しそうにしていたのがよかった。やはり和室はいいものである。

僕自身はいまのところお茶を習う気はないが、妻がお茶を立ててくれるのなら、それに付き合う(というかそれを楽しめるというべきか)本当に必要最低限のことは知っておいて損はないと思った。所作があるのは理由があるからであり、それを体得するのがその道なのだから。

わりと早めにおいとまさせていただいたので、横浜に戻って来たのはまだ4時過ぎだった。お腹がすいていたのと帰ってまた食事の準備をするのも大変だろうと思い、関内駅の近くにあるファミリー向けイタリアンのサイゼリアに入った。これもまたほとんど初めて入った様なものだったのだが、驚いたのはその値段である。

ペペロンチーノパスタが299円、ミラノ風ドリアも299円、そして一番驚いたのがグラスワインが1杯100円だということ。子供もいるし荷物もあったので酒は生ビール1杯だけにした。料理の味は油がしっかり使ってあってまあこんなもんだろうというものだが、決して悪いものではない。パストとドリアにワイン2杯ずつだとしたらジャスト1000円である。

初めてのことが続いた週末の夜は、妻が頼まれた少し作業をしたいというので、僕は寝室にiPodとウィスキーを持ち込んだ。実はベッドでウィスキーを飲むのは意外にも初めてだった。これはあまりいいものではないが。やはりベッドという場所が本来持つ寛ぎとウィスキーがもたらすそれは僕にとっては相容れないものだと感じた。

先々週から続いている菊地雅章ブームはいまも続いており、今週はテザードムーンの「ファースト ミーティング」が届いた。そのタイトル通り、ユニットのデビュー盤となった同名のアルバムに先だって行われたセッションを録音したものである。デビュー盤とは重なる演目もあるが、やはり空気感は少し違っていてこちらもまた非常に素晴らしい内容となっている。

実は本作と正式のデビュー作の間に、菊地が富樫雅彦と創った極めて重要な作品「コンチェルト」の収録が行われている。これは僕にとっては少々意外な事実だった。

菊地ブームはまだしばらく続きそうだ。

10/18/2009

トスカを試す

予想通りこの1週間はほとんど菊地の音楽を聴いていた。週の後半にはネットで注文していたテザードムーンの作品Experiencing TOSCA"が届いた。これがまた素晴らしい作品だった。

タイトルにあるトスカはプッチーニの有名なオペラの題名。その音楽を題材にした8つの作品が収められている。インナーの記述によればすべてコンポジションと書かれており、付された収録時の写真からも事前に楽譜が用意されていたことが伺える。

僕の勝手な誤解かもしれないが、ジャズマニアを称する人はこの手の企画が苦手である。オペラを題材にしたと聞いただけで、何かジャズの純粋性(よくわからないが)が損なわれたと感じるようだ。

僕はプッチーニのトスカを知らない。従って各楽曲のテーマやモチーフからそのオペラを想起することはまったくなかった。だからこれらの作品はプッチーニに敬意を表しつつ、テザードムーンの3人の創造性が存分に発揮されたものとして、素直に受けとめることができた。


菊地もゲイリーもポールも、ここに集う3人の音はいずれもいわば夕方の音だ。明るさはあるが影が長く空気は気怠くやや重い。しかし確実に陽の光はある。特に菊地のピアノの重さや暗さといったら、それはかなりのものだ。音の重さでいえばマル=ウォルドロンと並ぶ次元ではないか。その重い宝刀で切り出される旋律の輝きの素晴らしさ、それが彼の魅力だと思う。

菊地の音楽で一番有名なのはたぶん「ススト」だと思うが、あれはマイルスとギル(=エヴァンス)へのトリビュートで彼らの音楽性をかなり意識して出しているように感じる。代表作には違いないが、僕にとっては番外編的な作品だと思っている。

いくつかのスタンダードナンバーが盛り込まれた前回の作品に比べ、プッチーニを題材にしつつも全編オリジナルで臨んだこの作品は、このユニットの持つさらに深い魅力が表されていると感じる。この素晴らしさはなかなか言葉にできるものではない。

テザードムーンの最近の作品は、すべてドイツのWinter and Winterというレーベルから発売されている。前回の作品のベースとなった最初のセッションを収めたもの以外には、シャンソン歌手エディット=ピアフに因んだものや、作曲家クルト=ワイルの作品集などがあるようだ。

今回の作品の衝撃度からして、これから僕がそれら3枚に手を伸ばすことは先ず間違いないだろう。この3人がこんな素晴らしい活動をしていたことを知ることができて本当によかった。これはヤラレます!

10/12/2009

繋がれた月

菊地雅章がゲイリー=ピーコックとポール=モチアンらと結成したトリオユニットによる作品「テザード ムーン」を聴いている。

菊地は以前から僕がとても好きなピアニストのひとりだ。たぶん初めて買った彼の作品がこれだったと思うが、他にも冨樫雅彦とのデュオによる「コンチェルト」については、少し前に簡単に紹介したことがあるが、あれも僕にとってはとても重要なピアノ作品のひとつである。

テザードムーンはこのユニットの名称で、他にも数枚の作品がリリースされている。いままでは菊地というピアニストへの興味から、彼の他の作品を折に触れ買い集めて来たのだが、今回このユニットについてもう少しいろいろ聴いてみようと思い、さっそくアマゾンを通じて2枚ほど注文を出した。

このユニットはキースらのトリオによる「オールウェイズ レット ミー ゴー」の様に、誰がリーダーというものではない。そのことは音を聴けばすぐわかると思う。ゲイリーは2つのユニットに共通する人物であり、ポールもキースとゲイリーとのトリオ演奏がCDでリリースされている。

演奏はかなりジャズのフォーマットに軸足を置いた内容になっているが、菊地の演奏特有の張りつめた空気はこのユニットでもしっかり現れていて、キースの演奏とはひと味違うテンションが醍醐味である。素晴らしい演奏であり、自分自身の主体的な意欲をかき立ててくれる内容だ。何度も聴いて来た作品だが、聴くたびに新鮮な気持ちにさせてくれる魅力がある。

体育の日を含む3連休はいい天気に恵まれた。初日の早朝、久しぶりに本牧周辺まで1時間ほどのウォーキングをした。とても気持ちよかったのだが、前日会社のグループの宴会で少し飲み過ぎたのと、その後、日中に同じコースを再びベビーカーを押して買い物に出かけたせいか、ちょっと疲れてしまいその日はお酒も飲まずに早々に床についてしまった。取り寄せ中の他の作品がとても楽しみである。

子供は体重が9キログラムになり、そろそろきちんとしたベビーカーを買おうと連休中にいろいろと見て回り、結局、妻が一番気にいったものを買うことになった。ようやく寝返りをするようにもなった。笑ったり泣いたりといろいろな表情がたくましく現れ、興味を持ったものにはどんどん手を伸ばす様になった。子育てもこれから新しい段階に入ったように感じさせる連休だった。

10/05/2009

神戸

妻と子供を広島において過ごした10日間、久しぶりにゆっくりと自分の時間を過ごすことができた。オーディオセットを前に、最近買ったCDを聴きながらゆっくりお酒を飲む。これで仕事がなければと思うことしきりだったが、それは致し方ない。

一方、子供もすっかり妻の実家の人々と馴染み、至れり尽くせりの優雅な時間を過ごしたそうだ。妻もしばし子育てやら家事から離れ、ゆっくりできたと喜んでいた。毎日、メールや電話での連絡は欠かさなかったが、時折携帯で送られてくる子供の写真には、最初は微笑ましく感じてそれから徐々に寂しいさがこみ上げてくる、そんな感じだった。

妻と子供が広島を引き上げる際、僕らはその途中で神戸に立ち寄る計画をたてた。10年前に入籍に7ヶ月遅れて結婚式を挙げたホテルモントレ神戸に3人で宿泊することにしたのだ。ついでにホテルの近くにある、年末に神戸の友人と食事をした沖縄料理のお店を予約し、そこで彼も交えて食事を楽しんだ。この時期にしては暑い週末だった。

ホテルは外観や内装、サービスいずれの面でも時代を感じさせたが、変わらずそこにあった。僕らがそこで挙式をした証のプレートもちゃんと残っていた。相変わらず、結婚式場としては一定の人気がある場所らしく、この週末もウェディングの準備にスタッフは忙しそうだった。

食事の後、妻と子供をホテルに帰して、僕らはいつものジャズバーY's Roadに飲みにいった。時間が早かったのもあって客は相変わらず僕たちだけだった。マスターも交えてウィスキーを飲みながらいろいろな話をした。短い時間だったがとても楽しかった。やはり神戸はいい街である。そこに大切な友人がいるというのは貴重なことである。

翌日はホテルの充実した朝食バイキングを堪能し、チェックアウト時間ギリギリまで子供とのんびりした後、新神戸駅近くの布引ハーブ園に登るロープウェーに乗った。ハーブ園は少し歩かねばならなかったので見送ったが、いい天気で神戸の港が一望できた。

帰りの新幹線のなかでも子供は比較的いい子にしていてくれた。授乳ができる多目的室がある11号車は赤ちゃん連れの家族やお母さんが多い。今度はカバンを忘れることもなく、無事に夕方5時頃横浜の自宅に帰った。

2週間ぶりに家に帰った子供だったが、ベビーベッドに横になるなり、そこにあるオモチャなどを見てすぐに記憶を戻したようで、嬉しそうにはしゃぎ始める姿にどこか少し安心した気分になった。さすがにその日は2人ともぐったりだった。

僕は月曜日は仕事の休みをもらい、家でのんびり3人で過ごした。久々に3人で食卓を囲み、昼寝をしたり子供をお風呂に入れてあげたりした。子供は離乳食を食べる様になった。声も少しまた変わったように思う(相変わらず声量は大きい)。腰を支えて立たせると、両手をバタバタと振り回す仕草に「マエストロ」という呼び名がついた。

広島と神戸の想い出は子供にどう残ったのかわからないが、3人には忘れることのできない想い出になった。

9/27/2009

独り音楽 独り酒

シルバーウィーク開けの2日間は、会社に行っても鉛のような時間を過ごしただけだった。

木曜日は今年からメンバーになったお役所など社外の人との交流会があり、夜には宴席までついていたのだが、まだ初顔合わせだからということもあって、同じ年頃の似た様な人が集まっているだけという印象で、つまらない酒だった。

金曜日の夜は、翻訳会社をやっている幼馴染みとその同僚と総勢3名で、新宿の丸港水産という漁港近くの居酒屋を再現した様な、海鮮居酒屋で呑んだ。粗末な木のテーブルそれぞれにカセットコンロが置いてあって、その上で注文した海産物を焼いて食べるという趣向。蛤などはそのまま火にかけ、イカや魚はホイルに包まれて出てくる。

ビールに加えてこのメンバーならではのホッピーもたくさん飲んで(一昨夏のホッピー事件の教訓からセーブはした)、話もそこそこに楽しかった。ただやはり家に帰って独りというのは気分的になんとも言えない空洞をつくる。

週末はウォーキングをしたり、最近ではめっきり食べる機会の減ったラーメンとか韓国料理(カルビー麺だったが)などを食べ、夜はもっぱら(これも久々にじっくりと)CDを聴いてウィスキーを飲んで過ごした。バルコニーで飲んでもよかったのだが、せっかくオーディオセットで音楽が聴けるので今回は部屋の中でしみじみと味わった。

先日、アランの店から届いたDMにまんまと乗っかってしまい、1981年のウッドストックジャズフェスティバルでの、チック=コリアを中心としたグループの演奏を収録したライヴ盤"The Song is You"を購入した。ディジョネットとヴィトウスをリズムに、フロントをコニッツとブラクストン、そして1曲だけメセニーが客演するという変わった内容である。

ブラクストンとコリアは合わないというのが、1970年代のユニット「サークル」での教訓だったはずなのだが、何故か両者を再び共演させて、やはり合いませんなあということを確認した様な内容になっている。

冒頭の"Impressions"ののっけから聴かれる、コリアの安っぽい不協和音の連打にブラクストンが「おい、やめろよ」とばかりに演奏を中断するくだりに、その不調和の象徴を聴くことができる。"All Blues"ではいまや化石とさえ感じられるメセニーのシンセギターもあって、いやあ古めかしいですなあという感じである。

もちろんそうした内容もこのドキュメンタリー作品の一部であって、演奏全体がしょぼいということではない。コニッツがこの手のセッションに参加するのは珍しいと思うが、このメンバーの中にあっても、あのコニッツ節はそのままでなかなか堂々たる演奏である。

試しに「サークル」分解後に、ブラクストンがコリアに代えてトロンボーンのジョージ=ルイスを入れて録音した1976年の"Quartet (Dortmund)"では、もうこれ以上はないというブラクストンミュージックの傑作を聴くことができる。

いやはや困ったことにまたCDとオーディオセットで音楽を聴く楽しみを思い出してしまったようだ。週明けからの仕事のことを考えると憂鬱で仕方ないが、とりあえず今宵は、いままで撮りためた子供の映像を眺めながら、独り寂しくせめて音楽と酒を楽しませてもらうことにしよう。

9/23/2009

初めての新幹線

子供が満6ヶ月を迎えた今週、初めて3人で妻の実家がある広島に帰省した。子供にとっては初めての新幹線を使った長旅。大丈夫だろうかと気を揉み過ぎて、新幹線乗車前の在来線に僕がカバンを忘れてしまうハプニング。車中で子供に飲ませるミルクの用意の他、デジカメやら僕の身分証、定期券などが入っていたので、かなり焦ってしまった。

幸い、新幹線車内からすぐさま鉄道会社に連絡をとったおかげで、それは無事に駅の遺失物係に届けられ、4日後に先に横浜に帰省した僕の手に戻った。

心配された新幹線の4時間、子供はかなりいい子でいてくれた。のぞみ号には11号車に多目的室というのがついており、赤ちゃん授乳などに利用できてとても便利である。途中、何度か授乳やら気を紛らわせるためにデッキやグリーン車に抱きかかえて連れて行ったりしたが、最後の10分くらいでぐずり始めた以外は、途中30分の睡眠含めとても落ち着いていてくれた。やはり自由に歩き回れる列車の旅はいい。

妻と子供は2週間を広島で過ごす。義父母は大層待ちこがれてくれていたようで、わざわざ広島駅まで出迎えに来てくれるなどもう大歓迎だった。その様子を見ているとどうしても自分の両親のことを思い出してしまうのだが、こればかりは仕方ないことだ。僕は4日間広島に滞在し、妻の実家を中心に1泊だけ実兄のマンションで過ごした。

滞在2日目の夜に、兄が妻と僕を招待して広島市内の料理屋で食事会を催してくれた。ビルの中に目立たない様に作られたいわゆる「隠れ家」的お店で、小さな個室で自慢のお刺身を始めおいしい料理を堪能し、妻も大満足だった。せっかく広島に来ていたのだから日本酒を呑めばよかったと後悔した。

子供を実家に預けるのはやや不安だったのだが、案の定その夜は妻が帰宅するまで延々と泣き続けたのだそうだ。妻の妹も含め誰が抱っこしてもダメ。挙げ句には義父が車に乗せて少し周辺を連れ回してくれたらしいが、何の効果もなかったそうである。さすがの義母もその夜はぐったりだったそうだ。

僕は3日目に少しひとりで広島市街をうろうろしてみた。だいぶんこの街の地理がわかるようになった。今回はお好み焼きはもういいやといことで、もうひとつの名物つけ麺を賞味しようと思った。平和公園の無料の無線LANサービスを使ってお店を検索し、八丁堀を少し北に外れたところにある韓国料理屋「一瑞」で食べてみることにした。

ここのつけ麺は比較的有名らしいが、ラーメンをベースにしたつけ麺とはかなり趣が異なり、真っ赤なタレにあっさりと調理された麺とレタスやキュウリ、チャーシューなどの具をつけて食べる独特のもので、僕はかなり気に入った。狭いお店を2人の韓国人のお母さんが切り盛りしていて、他のメニューもなかなか美味しそうである。また行ってみたい。

僕は4日目の朝に広島を発った。これから来週の土曜日までは横浜の自宅で独りで過ごす。何とも寂しいものだが、せっかくの機会なので自分の思う様に時間を過ごしてみたい。連休最終日の今日は市内で見つけた博多ラーメンのお店で食べたりしたが、他に特に出かけるでもなく、家でのんびりと音楽を聴いたりして過ごした。

夜はバルコニーでビールやらウィスキーをやって過ごした。広島にいる間はあまり音楽を聴く時間はなかったが、聴いたのはキースらの"Always Let Me Go"とコルトレーンの"The Complete 1961 Village Vanguard Recordings"の2つ。特に前者は、久しぶりに何度か通して聴いてみた。これは以前にも取り上げたが、キーストリオとしてではなく3人の名前をクレジットした全編オリジナルの内容。何度聴いても素晴らしい作品で、このトリオによる演奏を収録した作品の中でも1、2の出来だと思う。

2日間仕事に出たらまた週末である。体調もようやく戻りつつあるので、また朝のウォーキングを再開したいと思っている。

9/13/2009

フリーマン エチュード

さて、バルコニーのウッドデッキで夜にビールを飲みながら聴いた音楽とは、ジョン=ケージの「フリーマン エチュード」という作品。この音楽の詳細はウィキペディア(英語版)に詳しい。作品スコアの一部も掲載されており、非常に興味深いエピソードなので是非ともご一読をお勧めする。

簡単に紹介すると、曲名はケージにヴァイオリンのためのエチュードの作曲を依頼したパトロン、ベティ=フリーマンの名に由来する。ベティはこの作品をヴァイオリニストのポール=ズコフスキーに演奏してもらうことを企図し、そのポールがケージに出した作品の条件は「伝統的な記譜法によって一音ずつ記録された音楽」だった。

ケージがとった作曲スタイルは先に紹介した「エチュード オーストラルズ」と同じ、星図表に五線譜を偶然性に基づいて重ね合わせる手法(Chance Operation)だった。ケージはポールの要望に従って、得られた音列に音の長さや強弱などこまかな指示を書き込み、それを音楽として仕上げたのだが、実際に出来上がったものは極めて演奏することが難しいものとなった。

当初ケージは1巻が8つの作品からなるものを4巻作曲するつもりでいたのだが、ポールがこの作品を「演奏できない」と諦めたこともあって、実際には最初の2巻で作曲は頓挫してしまった。

最初の2巻が発表された数年後、現代音楽専門のアルディッティ弦楽四重奏団のリーダー、アーヴィン=アルディッティがこの作品に興味を示し、持ち前の超絶技巧で本作が、ケージが当初想定した通り(あるいはそれ以上に)演奏可能であることを示した上で、続編の作曲を促したことがケージの創造意欲を再びかき立てたのである。

こうして1990年に4巻すべてが完成し、アーヴィンによる初演が行われた。結果的にこの作品は、最初の2巻がベティに献上され、後半の2巻はアルディッティに献上される形になったのである。今回僕が購入したのはアメリカのモードレコードから発売されている、アーヴィンによる本作品の全曲演奏であり、CD2枚に全4巻が収録されている。

先の「エチュード オーストラルズ」を聴いてその素晴らしさに驚嘆した僕は、すぐさま本作の購入を決めてモードレコードに注文を出したのだが、同社のオーナーでプロデューサのブライアンから返って来た連絡は、残念ながらこれらの作品は現在廃盤でストックもないという意外なものだった。

ブライアンが僕にくれた提案は、マスターディスクをCD-Rにコピーしたものを安価で販売するという、インディーズレーベルならではものだった。しばらく考えた僕は彼の提案に同意したが、条件としてCDに添付されるブックレットのPDFファイルか紙のコピーをつけてくれと頼んだところ、結果的にブックレットだけは少しの余部があるということだった。

かくして、モードからは本作品ともう1枚のケージのオーケストラ作品(これもやはり廃盤だった)の3枚のCD-Rが、オリジナルのブックレット付きで送られて来たのである。CD-Rには作品のタイトルとモードの作品であることのクレジットが手書きで加えられて来た。もちろんこれらはそのまま通常のCDプレイヤーで演奏可能だ。
ヴァイオリンの技法の限界に挑んだこの音楽は、ピアノによる作品とはかなり表情が異なる。ピアノには残響を含めた複数の音の持続が可能な特徴がある一方で、ヴァイオリンの特徴はある意味ピアノとは対極的な特性を持っている。ひとつの音につけられる表情は明らかにヴァイオリンの方が豊富である。しかし、それ故に、その表現は演奏する側にもあるいは受け取る側にもかなりの幅を持つものになる。

誤解を恐れずに書くと、ピアノ(あるいはその延長にあるキーボード)による音楽が好まれる理由のひとつに、その表現上の特性としてある不安定さが少ない(ある意味での純粋さとも言える)ということがあると思う。揺らぎのない正確な音程と一定の音色があらかじめ保証されている安心感は、本来の音程から逸脱する揺らぎに対するストレス(一方でそこに例えようもない魅力があるのも事実である)から人々を解放する。

現代のピアノという楽器が持つ構造は実は極めて複雑で、先の「エチュード オーストラルズ」は音の持続性と響きという観点で、その特性をうまく使った作品になっているが、こうした特性に、実際には多くの人が気がついていない。その証拠にさらに現代化されたピアノである電子ピアノでは、そうした特性は完全に無視されている(当然のことだが、ケージのあの作品は電子ピアノでは演奏できない)。

なかなか簡潔に書くのは難しいのだが、一聴するとフリーマンエチュードは非常に表情が豊かである。しかしそれ故に、構造上ただでさえ親しみにくいこの音楽は、一層受け手に様々な揺らぎに対する寛容性を要求することになる。しかし、アーヴィンによって巧みに弾き出されるこの作品の真価はまったくもって素晴らしいものであると僕は思う。

もちろん、「オーストラルズ」が豊かでないと言っているのではない。その豊かさは音の響きという深みにあり、それを体感するにはそれなりの聴き方が必要になってくるということだ。それは一部の人には当たり前のことなのだと思うが、現代の多くの人にとっては忘れられたというかそもそも認識されていないことなのだと思う。先のろぐで僕がオーストラルズの楽しみ方として書いたものは、明らかにそういう現代的な聴き方に当たるのだと思う。

これらの音楽に少しでも興味を持たれた方は、やはりまず「オーストラルズ」を最初に聴いた方がいいと思う。ただその深い魅力を味わうには、それなりの環境でじっくりと向かい合うことが必要になる。一方の「フリーマン」は、ヴァイオリンという楽器の特性上、聞き手は否が応でも音楽の全貌にさらされることになる。あとはそれぞれの感性に従うしかない。

ところで、冒頭にあげたウィキペディアの記述の中で、アーヴィンの演奏がテンポというか速さの点において、ケージの意図を誤解しているかの表記があるが、これは個人的にはあたらないのではないかと思う。なぜならここに記録された演奏がケージ自身の監修の下に行われているからであり、ケージが作品の続編を作るに至った理由も、速さを含めたアーヴィンの技巧によるところがあったのは明らかなのだから。

実はこの週末は少し体調を崩してしまい、土曜日の早朝に目が覚めて、強い喉の痛みを感じた。久々に持病の扁桃腺炎を起こしてしまった。幸い高い熱が出るにまでは至らず、近くの病院でインフルエンザではないことも確認してもらった。いまはまだ少し熱っぽく、喉の腫れも感じられるが、症状はかなり落ち着いている。

皆様も体調に気をつけてください。来週は事情により少し更新が遅れます。

9/06/2009

ウッドデッキ

わが家の2階には南北2カ所に小さなバルコニーがある。宅地の道路に面した南側は幅がたかだか1メートル程度のもので、ここはもっぱら物干し台である。一方の北側には3畳程度のものがあって、ここは元々のプランだともう少し狭いものだったのを、少し追加でお金を払って広くしてもらった。

ここからの眺望はなかなかいい。隣地の大きな樹に視野の半分が遮られているとはいえ、ベイブリッジやマリンタワー、みなとみらいなど横浜市街が一望できる。樹も最初はせっかくの景観の邪魔かと思ったが、一緒に住んでみるとこれはこれでなかなか趣があって、結果的には気に入っている。このバルコニーは小さなわが家では数少ない自慢の(?)場所である。

このたび、そこにウッドデッキを施工してもらった。妻の仕事関係の知り合いにそういう業者の人がいて、その人に見積もりをお願いしてみたところ、なかなか魅力的な内容をそれなりのお値段でと言っていただいたので、もうこの際だとほとんど勢いで作り付けてもらうことになった次第だ。

バルコニー一面に木版を敷き詰めてもらい、壁際には収納を兼ねた小さなベンチと、鉢などが置ける小さな棚も作ってもらった。この週末はそこで朝食を食べてみることにした。まだテーブルなどもないので、電気ピアノの椅子を代わりにした。ちょうど気候が涼しくなって来たところなので風がとても気持ちよい。
ここには元々夜間用にと照明をつけてあったので、夜はひとりでそこに出てiPodを聴きながらビールやウィスキーをやってみた。思ったほど虫が飛んでくるわけでもなく、夜景を眺めながらこれまた心地よいひと時となった。外気の音に触れながらの酒と音楽は格別である。

わが家にお越しの皆様には是非ここの素晴らしさを体験していただきたいと思います。ただしお隣のバルコニーやお部屋がすぐそばなので、残念ながら夜にここで歓談することはできません。悪しからず。

バルコニーで夜に聴いた音楽については、、、また次回(笑)。

8/30/2009

南方のエチュード

先週の木曜日、妻がある用事でどうしても日中出かけなければならなくなり、僕が仕事を休んで半日子供の面倒を見ることになった。といっても、妻が留守にするのはほんの7、8時間ほどのことだし、お昼ご飯は用意してくれたものを暖めるだけという気楽な子守りなのだが、僕としてはやはりいくばくかの緊張は禁じ得なかった。

子供につきっきりでいるだけではせっかくの休みがもったいないので、ミルクをあげたり遊んだりする一方で、引越し以降しばらく放ってあったこまごまとした片付けものをやりながら1日を過ごした。最近子供はよく泣いてくれるので、これは結構疲れるものだった。泣いているのをあやしながらもある時はベビーベッドにほったらかして作業を続けたりもした。毎日子供とつきっきりでいる妻の苦労がよくわかる。

夕方になってミルクを飲ませた子供をベビーカーに乗せ、近所の森林公園まで散歩に出た。途中妻から連絡が入り予定より早く戻れたので、40分ほど散歩を楽しんだその足で山手駅までお出迎え。親父の初単独子守りは無事に終わった。妻は妻でいい気分転換になったとか言っていたが、やはりたった数時間とはいえ気が気でなかった部分もあったのだろうと思う。

さて先週来、ジョン=ケージのピアノ曲"Etude Australes"にすっかりハマってしまった。直訳すれば「南方の練習曲集」ということになる。南半球の星図をもとに作曲された32のピアノ作品集で、ケージのピアノ作品演奏の完全版を目指すステファン=シュレイエルマッハが2001年に録音したCDを僕は買い、先週来毎日の様に聴いている。

本作品の解説を含めケージの代表的なピアノ作品については、ピアノスコアの監修なども手がけておられる不破友芝氏による素晴らしい解説があるので、是非ともご一読をお勧めする。この作品に関する解説はリンク先中程にあるが、ケージの音楽を知る上でもできれば全文をご覧になることを強くお勧めする。

2年半前にこのろぐで取り上げた"Atlas Eclipticalis"と同じく、南半球の夜空にまたたく星々がひとつひとつの音を構成するこの作品だが、他のケージの作品同様、メロディーとかハーモニー、リズムという要素ではなく、時間とか空間という観点での新しい音楽の魅力を存分に楽ませてくれる。

言ってしまえばメロディーやハーモニー、リズムといった観点からは、ほとんど何の関連性も認められないピアノの音列が、CD3枚分合計3時間以上にわたって延々と続く音楽である。しかもこれはコンポジション(作曲)であり、インプロヴィゼーション(即興)ではない。

後者は演奏者の意志が明確に込められたものであるが、前者は先ず作曲者の意志が存在する。そして、この作品における作曲者は、その心象をメロディやハーモニー等に込めるに際して、音列を星図から選ぶという手段をとっている。それが作曲手法ということに関するケージの意志である。だからといってそこに表現されるものへの意志を放棄しているわけではもちろんない。

前のろぐでも書いたが、ケージの音楽は静かなホールやオーディオルームで、他の音を排した状況で純粋にその音楽だけを楽しむ、という趣旨の鑑賞方法はあたらないと思う。その意味でもケージの音楽は現代における音楽というもののあり方を予見している。僕はこの作品についてもすぐさまiPodに取込み、3枚のCDに分散された音楽を一気に聴ける形にして、それをいろいろな場面で思い思いに聴いている。

一番のお気に入りは、やはり涼しくなって来た夜長に、開け放った窓から聴こえてくる虫の声や風の音に混じるかたちで、この星空の音列を聴きながらビールを飲むという聴き方である。子供や妻が寝ている部屋で、薄暗い明かりの室内に瞬くピアノの音はとても新鮮であり心地よいものだ。

多くの人がこの素晴らしい音楽に親しむことを願いたい。ケージの音楽は難解でも何でもない。多くの場合その障害は、音楽とは何かということに関する、知らぬ間に出来上がってしまった既成概念にあるのだ。そしてそれを打ち砕く必要などない。ただ少しそれを自分のなかで柔らかくしてみればいいだけの話だ。ケージの音楽が示唆することはそういうことだ。繰り返しになるが、それは音楽だけではない、現代のいろいろな様々な事象に当てはまることでもある。

8/23/2009

ペパローニ

週末に髪を切ってもらい、その帰りに元町で妻と子供と待ち合わせて、ヘアサロンの担当者が勧めるラーメン店で食事をして、元町で買い物をしていつものはらドーナツでおやつを楽しんで家に帰った。髪もすっきりして日頃の運動不足を感じていた僕は、もう少し身体を動かしたかったので、夕方になってウェアに着替えて少し近所を歩いてみようと思った。

自宅の近くに「根岸森林公園」という都会にあるにしてはかなり広大な公園がある。公園の北側にはアメリカ海軍横須賀基地に駐在する軍人とその家族のための住宅地があり、公園内の一部にも役場や独身寮や売店など街の中央としての機能を集めたエリアが存在する。

当然のことながらそれらの区域は在日米軍地位協定に基づく事実上の治外法権の場所であり、言ってみればそこはもうアメリカなのである。入り口には門番が駐在するゲートが設けられ、通常一般の市民は米軍相手の商売などをしている人を除いては、中に入ることはできない。

周辺の住民にとって公園は憩いの場であり、僕らも休みの日には子供をベビーカーに乗せて3人でぶらぶらと散歩に出かけたりしている。ここに越して来て4ヶ月が経ったが、もう十数回は公園に足を運んでいるのではないだろうか。ここはそのくらい気持ちのいい場所である。

公園内を少し歩いてみた僕は、どこからともなく賑やかな音楽が聴こえてくるのに気がついた。さらには、同じ様な大きなピザの箱を持った人に何人もすれ違った。そうして、少し前に家族で公園を散歩したときに、この日に米軍施設で地域住民との交流を目的にした盆踊り大会が開催されると告知されていたことを思い出した。施設のゲート前を通ると近所の人が続々とその中に入ってくのが見えた。僕はさっそく家に電話をして、3人で訪れてみることにした。

ゲートで空港でやる様な金属探知器による簡単な持ち物チェックを受け、そのまま中へ。奥に進んでゆくと、盆踊りはまだ始まっておらず、特設ステージでロックバンドがギンギンの演奏を繰り広げており、その周囲にたくさんの出店があった。やはりお祭りと言えばロックというのがいかにもアメリカらしくとてもいい雰囲気である。

出店にはステーキやらビール(もちろんバドワイザー、ハイネケン、クアーズ)やらいろいろとそそられるものがあったが、相当な賑わいのなかベビーカーは少々きついので、お目当てのピザを見つけてさっさと購入して引き上げることにした。とにかくこの箱を持ち帰る人を公園でやたら見かけたので、かなりお馴染みのものなのだろうと期待した。

自宅にもち帰ってさっそく食べてみる。日本の宅配ピザの大きいサイズと同じくらいの大きさのペパローニが1450円だった。味はチーズとサラミにペパローニソースといういたってシンプルなのものだが、絶妙の味加減で嫌みがなく本場を実感させるに十分な味でとても美味しい。授乳を続ける妻が最近愛飲しているキリンのノンアルコール飲料「フリー」が進む(ビール好きの僕が言うのもなんだが、あれはなかなかよくできた飲み物である)。

さすがに半分をひとりで食べるのは無理なので、3ピースずつ食べて残り1ピースずつは明日にとって置くことに。最近は食事時になると子供をベビーベッドに置いても泣き止まないので、もっぱら妻が膝にのせて僕らの食事を見物するのが習慣になっている。やはり僕らの仕草や食べ物に興味津々のようである。この日も大きなピザを前に目を大きく見開いてしばらく観察していた。


この1週間も音楽はほとんどケージのものばかり聴いていた。聴けば聴くほどにどんどん味が出てくる。前回にも書いたが、飽和した時代に一石を投ずるという意味で、彼の音楽が示唆してくれるものは本当に大きい。

この週末には少し前に注文した新しいCDが次々に到着。そのなかにケージ禁断の(?)ピアノ曲「エチュード オーストラルズ(全曲)」も入っているのだが、これについてはまだ聴き始めたばかりなのでまた後ほど。それ以外にもいいピアノ音楽が2点ありこれから秋にかけてのしばらくはこれらを楽しんでみたい。

このところまた蒸し暑さが還って来ているが、空気は確実に秋に向かっている。いろいろなことに備えて少し身体を鍛えておかなければならないだろう。

8/16/2009

夏休み〜家族とケージと極上吉乃川

10日間の夏休み。今回はずっと横浜の自宅を中心に家族とともに毎日を過ごした。帰省など泊まりがけで出かけることのない休暇は久しぶりだった。最初の3日間は兄も交えた4人で賑やかに過ごし、今週に入ってからの7日間は家族3人で近場に出かけたりしながら、のんびりとした毎日だった。

休暇の中日には子供を連れて鎌倉の由比ガ浜に出かけた。彼にとっては初めて体験する海。よく晴れた暑い日で、海はビキニ姿の若者や家族連れでとてもにぎわっていた。もちろん海に入って泳ぐというわけにはいかなかったが、妻に抱きかかえながら打ち寄せる波に足をつけて波の感触を体験させてあげた。海が好きな子供になってくれればいい。家族3人で少しこんがりと日に焼けた。


休み中はもっぱらジョン=ケージの音楽を聴いて過ごした。休みだからといって長時間のんびりと音楽が聴けるというわけではないが、わが子の元気な声やら近所を走り回る子供達の楽しそうな声、さらにはいつまでも続く蝉しぐれや暑い日が照りつける音、といったいろいろな音声があふれる中、休日という時間を実感しながら楽しむにはうってつけの音楽だった。

ケージの音楽は時を経るごとに僕にとって(そしておそらくは世の中においても)大切なものになってきている。気がつけば既に20枚近いCDが家にあるのだが、一番のお気に入りは、ヒルデガルド=クリーブとローランド=ダヒンデンのデュオによる"Prelude for Meditation"(HatArt)。美しさと緊張感、優しさと心地よさが絶妙にバランスする音楽はそうそうあるものではない。残念ながら現在は廃盤のようだが、この演奏はこれからも何らかの形で世の中に響き続けるだろうと思う。

ケージを初めて聴く人には、ステファン=ドラリーによる"In a Landscape"がおすすめ。こちらは一時期それなりの人気盤だったので、まだ比較的入手は容易なはずだ。そして最近のものでは、コントラバス奏者ステファノ=スコダニービオの"Dream"がとてもよかった。これらの作品に重なって収録されている、"Dream"そして"Ryoanji(龍安寺)"などは僕のお気に入りだ。

ケージと彼の作品が教えてくれることは多い。無理をしないこと、意志を貫くこと、自分を偽らないこと、権威を信じないこと、無駄を省くこと、早いだけが時間の価値ではないこと、などなど。自分自身、あるいは自分の周囲にある様々なこと、そしてもっと広く現在の社会のことを考えても、いろいろなことに対するひとつの答えをケージの中に求めることができる。

ちょうどタレントの薬物事件が世の中を騒がしているが、それにも通じるものもあると感じる。あの人にとっては、タレントとしての顔の対極に現れたのが今回の事件で明るみになった姿だったのだと思う。そのどちらもが本当の彼女なのであり、そのことはさほど驚くには当たらない。

誰にでもそして何事にも多少の無理はつきものだが、自力でバランスをとれなくなるポイントがその人や事物の限界なのである。我慢は大切だがそれがその先もたらすことをよく考えることは、誰にでも大切なことだ。もちろんそれはとても難しいことなのだが。

休暇中の夜は、少し前にわが家を訪ねてやって来た飲み友達が祝いの品に持って来てくれた一升瓶「極上吉乃川(吟醸)」を少しずつやった。非常にまっすぐなお酒で、最初口にしてみた時は日頃親しんでいる安酒にありがちな面白みに欠けると感じたのが、飲み続けても嫌みや飽きが出てこないところが素晴らしく、これが酒たる所以のひとつだろうなと感じた次第。

こういういいお酒はあまり長く置いておけるものではないのだが、栓を開けてしまえば一気にカウントダウンが始まるので、いただいたのは嬉しかったのだが、開けるタイミングを見計らっていた。兄は日本酒を飲まないので、休暇4日目の月曜日の夜に封を開けて、日曜日の今夜まできっかり7日間で一升がきれいになくなった。休暇ならではのペースである。

暑い夜が続き、エアコンのある2階のリビングで家族3人で川の字になって寝るのも楽しいものである。ケージの音楽が低く流れる薄明かりの涼しい部屋で、妻と子供の寝顔を眺めながら極上の酒を常温で気兼ねなく呑む。平凡かもしれないが忘れられないほど素晴らしい1週間だった。

この機会を与えてくれた家族を始めとするいろいろな人に感謝しなければならない。

8/09/2009

紙風船

今回の書き込みがこのろぐでの300回目のものになるようだ。ほぼ週1回のペースで続けて5年と8ヶ月が経過。その間にいろいろな出来事があり、いろいろな人と酒を飲み、いろいろな音楽に出会った。

実は300回というのは、このろぐを始めた頃にひとつの大きなマイルストーンとして意識されたものだった。というのも、お世話になっているグーグルのブログサービス"Blogger"では、当初は、1つのブログでのエントリーの上限を300本としていた。この根拠ははっきりとは明示されなかったものの、おそらくはシステム上の問題でこの様な制限を設けていたのだと思う。

このことは、ろぐを週1回のペースで書くと決めたことにも少なからず影響している。週1回のペースで書けば5年以上は続けられることになるし、その間にこの制限もおそらくはもっと大きくなるだろうと思った。事実、現在ではその上限は撤廃され、事実上「無制限」ということになっている。

それよりも5年以上もろぐを続けることができたとしたら、それはすごいことだろうなと自分なりに考えていた。できるのかどうか、それすらも想像がつかなかったし、何が何でもやってやろうと言う決意もなかったというのが正直なところだ。

ただ、毎回音楽をアルバム単位で1つ紹介するという原則(最近はややそうなっていないと思われるかもしれないが、自分としてはさほどブレているという意識はない)からして、もし300回まで続けられたら、そのときには音楽について何らかの総括をしてみるのも悪くないなと考えていた。

なので、これから少し考えてこれまでこのろぐで紹介した音楽作品や、まだ紹介していないものも含め、これまでに出会った音楽のなかから、現時点での自分のお気に入りをまとめてみようかななどと考えている。

ちょうど仕事は先の金曜日から夏休みに入った。この春以降は気持ちの上でいろいろと難しいバランスをとる必要があり、新しい家族に恵まれ幸せな家庭の時間に対して、仕事の時間は正直辛い局面にある。10日間の休暇が何をもたらしてくれるのかはわからないが、何かの切り替えになることを期待している。

金曜日から今日まで、広島から兄が遊びに来てくれ、子供と遊んだり食事やちょっとした横浜観光に出かけたりした。最終日の今日は、僕と2人で秋葉原、上野、浅草を歩いて巡り、かなりへとへとになったが、それなりに楽しんでもらえた様子だった。僕は浅草の仲見世通りで、子供へのお土産にと紙風船を買った。

やさしく膨らんだ紙風船を見た子供は、とても興味を示してそれを手に入れたのが、案の定とたんにぐしゃぐしゃにしてしまい、満足げにそれを口元に運んでいた。見ていて愉快な光景ではあったが、これでは風船がちょっとかわいそうなので、子供を妻に抱っこしてもらって両手を操ってもらいながら、紙風船を手で弾ませ合って遊んでみた。カラフルな風船が自分の顔や手に当たりながら弾む様に満足したのか、子供は元気な笑い声をあげてくれた。

これからの1週間は妻と子供の3人でゆっくりとしながら、これまで自分が出会った音楽について少し振り返って考えてみたいと思う。そのことが、とりもなおさず自分自身のこれまでのことを振り返ることにつながる側面もあると思う。

8/02/2009

アメリカンダイニング

先ず前回とりあげたECMの作品についてのフォローから。

この1週間もそれらの作品を中心に聴くことが多かった。結果的に僕が一番気に入ったのはエヴェン=パーカーの"The Moment's Energy"だった。この作品は実によく練られたライヴパフォーマンスである。ユニット名が標榜する通りに、生楽器と電子音の完璧な交錯は見事という他はない。耳慣れない人にはかなり取っ付きにくい音楽であることは間違いないが、多くの人に聴かれるべき音楽だと思う。懐の深さとはこういうことだ。

さて、この週末も子供を連れて近所にあちこち出かけたのだが、以前から気になっていたお店を2つ体験することができた。いずれもいわゆるアメリカンダイニングのお店。1つはアメリカンモーターカー関係のショップ"Mooneyes"が運営する「ムーンカフェ」。そしてもう1つが、横浜でアメリカンダイニングを手広く展開するアメリカンハウスが運営する「TBC Diner 元町本店」である。どちらのお店も観光客目当てに気負ったものなどではなく、地元にすっかりとけ込んだ素敵な場所だ。

妻はいずれのお店でも(2日連続で)ハンバーガーを注文。確かにそれが一番うまそうなのだが、僕はそれらを味見させてもらうことを期待して、他に食欲をそそられたチリプレートやチキンアボガドラップなどを食べた。

ハンバーガーという食べ物は、いまや現代資本主義的ファーストフードの代表であり、同時にいわゆる「ジャンクフード」の代名詞になってしまっているのがちょっと悲しい。本当のハンバーガーはそういうものではない。コンビニのおにぎりが本当のおむすびとは一線を画するものだというのと同じだ。

その点、今回食べたいずれのバーガーも、とてもしっかりしたハンバーグをベースに、トマトやタマネギなどの生野菜を自由に挟み込むスタイルで、ホームメイドな雰囲気も十分あってとても美味しものだった。今度は自分もバーガーをビールをゆっくり味わってみたい。

こういうアメリカンダイニングのお店は、時に気の合う仲間とぶらりと立ち寄ってバーガーやタコスなんかを食べながらビールをやりたくなる。そして、アメリカンサイズのビッグでコテコテのデザートなんかも時々無性に食べたくなるものだ。横浜といえば中華街や家系ラーメンが有名だが、こういうアメリカ料理のお店は隠れた名物であり、これからも長く続けていって欲しいものである。

子供がもう少し大きくなったら、こういうお店で一緒に食事をするのをいまから楽しみにしている。

7/26/2009

ECMの新作を3枚

最近手に入れたECMの新作3枚について。

1枚はピアニスト、スティーヴ=キューンによるコルトレーントリビュート作品。テナーにジョー=ロヴァーノを迎え、コルトレーンバラードを中心に落ち着いたECMらしい仕上がりが心地よい。現時点でECMのウェブサイトにアクセスすると本作品のジャケットが出迎えてくれる。

キューン氏による短いライナーには、彼が1960年に少しの期間だけコルトレーングループのピアニストとして仕事をしたことが記されていて、それがこの作品の動機になっている。ピアノトリオで演奏される"I Want To Talk About You"、テナーとのデュオによる"Central Park West"など本当に美しい音楽で、非常におすすめの作品である。

次はベーシスト、ミロスラフ=ヴィトウスがウェザーリポート時代を回想した作品。先の作品とは異なり、即興性を全面に出した内容になっていて、個人的には今回の3枚の中では一番聴き応えのある作品だと思う。

冒頭の"Variations On W.Shorter"はショーターの"Nefertity"をモチーフにした集団即興演奏。ヴィトウスの正確なアルコ(弓弾き)によるインプロヴィゼーションが冴え渡る。続く"Variations On Lonely Woman"もその題名の通りの内容。こちらはコールマンの名がクレジットされているだけに原曲にかなり忠実な構成になっている。5人が織りなすインタープレイは相当にスリリングである。ラストの"Blues Report"は、おそらくマイルスの"Kind of Blue"に収録されている"Freddie Freeloader"をベースにした即興ブルース。それまでの張りつめた緊張感をクールダウンするような雰囲気になるが、それでもヴィトウスのプレイは強力過ぎて最後まで手に汗してしまう。

万人ウケはしないと思うが、個人的には最近の話題作"Universal Syncopations"よりは優れた内容だと思う(あれは僕にはちょっと散漫な印象だった)。

最後は、フリー系サックス奏者エヴァン=パーカー率いる「エレクトローアコースティック アンサンブル」の最新作。前作もなかなかよかったが、今回は編成がさらに大きくなっている分、内容も濃くなりスケールアップしていると思う。

この作品はかなり好みが分かれる、というか一般にはあまり人気のないものだと思う。ECMのドル箱であるキースのトリオ作品は、おそらく数十万枚のセールスがあると思うが、これなどはその数パーセント程度のセールスではないだろうか。それでも極めてクオリティの高い演奏にハマれば、思わず唸ってしまうことは間違いない。だからECMは素晴らしいのだ!

今日はよく晴れた夏の日曜日だった。

暑い中、ベビーカーに子供を乗せて妻と3人で、昼食と買い物を兼ねた少し長い散歩に出かけた。安い中華レストランでエアコンとドリンクバーを堪能し、その近くのホームセンターで買い物をして、図書館や子供プラザがある市の施設でまた涼み、赤ちゃん用品を揃えたお店があるショッピングセンターに行って子供のミルクを買ってクレープを食べ、そのまま歩いて帰宅。全部で6〜7kmの道のりを5時間かけて楽しんだ。結果的に両腕はすっかり赤く日焼けしてしまったが、いい運動といい気分転換になった。

子供もとても楽しんでくれたようでよく笑ってくれた。大切なひと時だ。

7/19/2009

イノウエさん

わが家では人様からいただいた品物を呼ぶに際して、品物の名前にいただいた人の名前を冠して呼称とすることがある。大抵の場合はその品物が僕らのフィーリングによくマッチして、度々用いられることになった結果として、そのように命名されるようだ。

いくつかの例をあげるなら「ニシモトカップ」「トジマグラス」「ケイコちゃん皿」などといった具合である。もちろんこれら以外にも愛用の日用品はあるし、それらの中には単に「青いお皿」とか「三日月皿」で済んでしまう様なものも多いし、頻繁に使う道具でも、いただいたものなのに贈り主の名を冠せずに使っているものも多い。

なぜそれらがそう呼ばれる様になったのかを考えてみるのは興味深いことではあるが、一定の規則があるわけではなく、多少運命的な側面もある様だ。ここではそれを深く追求しないことにしたい。

このところ、子供が生まれたり家を新築したりで、親しくさせていただいている方々からいろいろなお祝いの品物をいただいた。ありがたいことである。この場を借りてあらためてお礼を伝えたい。

やはり子供が生まれたことで彼に関する品物を贈られることが多い。今日も古くからの知人がわざわざ車で訪ねて来てくれたのだが、祝いだと言って264枚の紙おむつをどさりと持って来てくれた。因みに十数年前に彼のご長女が誕生した際には、僕はお米5キロを持って彼の家にお邪魔したのをおぼえている。男が選ぶ出産祝いは単純明快である。

さて、比較的最近、大学時代からの友人がやはり子供の誕生祝いを宅配便で届けてくれた。かわいい子供服といっしょに、いろいろな原色パーツでできた像さんのオモチャも入れられていた。手足や鼻の先には直径5センチほどのプラスチック製のカラフルなリングがつけられていて、なんとも言えない愛嬌がある。

妻によると、うちの子供はこのオモチャを見るなりいたく気に入った様子で、ようやくものをつかめる様になった両手でたぐり寄せると、さっそくうれしそうにオモチャの手足をナメナメし始めたのだそうだ。

それ以来、このオモチャは贈り主の名を冠して「イノウエさん」と呼ばれる様になった。今回の呼称ケースでは品名が省略されるといういままでに類を見ないスタイルが斬新である。


「イノウエさん」と遊ぶ子供を見ていると、自分の幼い頃にもたいそうお気に入りの犬のぬいぐるみがあったのを思い出した。おそらくは誰かのお手製のもので元々は2歳上の兄のものだったと記憶している。名前は確か「ピッポちゃん」だった。果たしてあれはどこへ行ってしまったのか、両親がいなくなってしまったいまとなっては知る由もない。

うちの子供がいつまでこのオモチャを、お気に入りでいつづけてくれるのかはわからないが、彼がそれに飽きてしまったり壊してしまったりしても、こういうものは長く大切にとっておいてあげるのがいいのだろうなと思った。

子供はいま「イノウエさん」を頭の脇に置いて眠っている。今日も蒸し暑い一日だった。

7/12/2009

お宮参り

子供が生まれて1ヶ月くらい経った頃に「お宮参り」という習慣があるらしい。というからには僕は知らなかったわけである。先の「お食い初め」同様、自分の体験で記憶にないのは当たり前なのだが、周囲の人の動向やら話題からもそのことを知ることはなかった。ちなみに僕自身には「七五三参り」の記憶もない。父はそれなりにかなり信心深い人ではあったのだが。

だとすると自分がいままで折に触れて来たいろいろな人の話は、よほどある方向に偏った内容だったのかと言えば、(根拠は十分とは言えないまでも)そういうことではないと思う。おそらくは自分に対して、あるいは自分の前でその種の話題が展開されたことは幾度もあったのだろうが、僕自身がそれに対してほとんど何の興味も示さなかった結果、それは知識としての自分の中にとどまるということなしに、僕の人生の時間のどこかに消えてしまったのだろう。

まあともかく子供を連れて一度近所の神社に出かけてみるのも悪くないということで、今日は3人で本牧神社にお参りに出かけた。ここは元来はかなり立派な神社だったらしいのだが、本牧一体が占領下の米軍に居住地として接収されていたため、その期間は神社としての役割を失い、最近になって返還された後に再び活動を再開したというところらしい。

行ってみると、閑静な住宅街のなかに比較的新しいなかなか立派なお社が建っている。この日はお参りに来る人はほとんどいなかったので、とても静かだった。結果的に僕らはそこを気に入り、地元の神社としてこれからも初詣とか七五三といった折に触れお参りに来る場所とすることにした。

数週間前にアマゾンで予約注文していたECMレーベルの新作が相次いで到着している。もちろんすぐにでも聴きたいのだが、最初からiPodに落としてヘッドフォンで聴くのは、せっかくCDを買っているのにもったいないという気がどうしてもしてしまう。かといって新居のリヴィングでいつでも自由に音楽が聴ける状況ではなく、結果的に泣く泣く開封してすぐのディスクをMacに入れるというのが最近のパターンである。

今回ひとつ考え方を変えて、iPodに入れる音楽を極端に減らしてみることにした。最近買った数枚の新譜と、ごく最近のろぐで取り上げた数枚のアルバムの合計20枚程度に抑えるようにしてみた。実際にこれを持って出かけるのは明日からなのだが、数十枚のアルバムを携えていたこれまでに比べて何か不自由が出るとは思えない。そこのところはかなり確信を持っている。

さて、そこで余ったメモリーに何を入れるなのだが、何でもいいからそこを埋めてしまうのではなく、あまり欲張らずに空けておけばそのうち何かいいことがそこを埋めてくれるに違いないと気長に空けて待つことにした。それが子供の写真や動画ということになるのかもしれないし、思いもかけない何かが僕に新しい夢を見させてくれるのかもしれない。もちろん、結果的にそれらはまた新しい音楽であっても構わない。

少し気持ちにゆとりができたように思う。ECMの新作についてはまた今度。

7/05/2009

スキゾブルー

父の3回忌(亡くなって2回目の命日に行うものらしい)と祖父の23回忌を兼ねた法事を行うため、和歌山の父の実家に向かった。日帰りの帰郷で慌ただしかったのだが、いまの僕にとっては、休日でもそういうふうに日常とは異なる何かに意識を向けることがあったことは、ある意味で救いではあった。法事は父方の親戚だけで簡素に行い無事に済ませることができた。

父が亡くなる前後に和歌山との間を何度も往復してたまった新幹線予約サービスのポイント有効期限が切れるというので、往復の新幹線はグリーン車に乗ることができた。新横浜と新大阪の間は2時間と少しの時間だがやはり乗り心地はいいものである。通常なら倍近い特急料金を払うことになるわけだが、その価値はあるなと感じた。

本当なら和歌山で下車して一杯やりたかったのだが、やはり家には早く帰りたかった。

翌日は子供が生まれて100日あたりを目処に執り行う(らしい)「お食い初め」という儀式を自宅で行った。

実際には離乳食にもまだ早いのだが、鯛や煮物、なます、赤飯などの料理をかわいい食器に盛りつけて、子供に食べさせる真似をする。こうすれば一生食べ物には困らないのだそうだ。自分も親にやってもらったのだと思うのだが僕には記憶はないし(当たり前か)、僕自身自分がこうして親になるまでこの行事の存在を知らなかった。

こちらについても妻が事前に食材やら食器を準備しておいてくれたので、無事に済ませることができた。まだ食べ物を口の中に入れることはできないが、興味深げに目の前の料理を見つめている子供を見てると、早く一緒に食事ができればいいなと思った。

音楽の方は先週から引き続いてクリムゾン週間が継続。和歌山への道中もiPodでこれらを聴きまくった。やはり何度聴いても素晴らしい後期3枚のアルバムと、同時期のライヴを収録したCDボックス。これらはいまの僕にとってはいい安定剤になっている。

少し気持ちが疲れてしまっている。今日はここまで。

6/28/2009

クリムゾン週間

キングクリムゾンのライヴを収録したボックスセットをずっとCDラックの上に置きっぱなしにしてあった。実はこのボックスは引越しする前からこの状態になっていて、引越しに際していったん他のすべてのCDとともに段ボールに収納され、新居でラックに残されるか、段ボールのまま収納のなかでしばらく過ごすことになるかの、厳しい選抜があったにもかかわらず、果たしてまた前と同じくラックの上で「ペンディング」状態になったのである。

前に住んでいたアパートでいつ頃からそうなっていたのかは覚えていないが、理由は容易に目星がつく。単にiPodに収録できる形式に変換しようと思ったのだが、4枚まとめて作業しなければならないのでやりそびれているうちに、僕の耳が求める旬の時期を逃してしまったということだろうと思う。そして、次にCDを入れ替える作業をする際にも、箱が大きいのでなかなかいい収納場所が見つからないまま、結局その場に抑留される結果になったのだ。

引越しの時はともかく段ボールに収納しないわけにはいかなかったので、他の何かと一緒になったのだろうが、いざ新居で整理を終えてみると結局また同じ場所に戻っていた。とにかく僕の頭の中ではここ数年不思議な位置づけになってきたCDなのである。それをようやく意を決してiPodに入れて聴くことにした。僕をその気にさせたものが何であるか、自分にはよくわかっている。

意外にもこのろぐでクリムゾンの作品を取り上げるのは今回が初めてのようだ。

僕にとってのクリムゾンは1974年の解散までのもので、1980年代以降のいわゆる「新生クリムゾン」は同名異グループだと思っている。クリムゾンには2つのライヴ盤を含む9枚の公式アルバムがあるが、僕が未だに魅了され続けるのは、1973〜1974年にかけてリリースされた最後の3つのアルバム、"Red", "Starless and Bible Black", "Lark's Tongues in Aspic"だ。多くの人がクリムゾンの最高傑作としてあげるファーストアルバムについては、僕のなかではそれらに次ぐ作品という位置づけで、「永遠の旋律」として名高いアルバムタイトル曲にもいまはもう残念ながら飽きてしまった。

僕にとって一番のお気に入りは何と言っても、彼らの最後のトラック「スターレス」である。小学生のときに渋谷陽一氏のFM番組で初めて聴いて以来、もう何度聴いたかわからないが、この作品のスゴさを自分なりに理解したのはもう少し大きくなってからだったと思う。

これ以上の陰鬱さがあるかというイントロに続いて意味深な歌詞が歌われた後、まるでお化け屋敷に連れ込まれたかの様なフリップのモノトーン連弾きが続く中間部で、暗闇のなかでエネルギーが少しずつ大きくなりやがてそれは別の世界に向けて一気に流れ出す。そして曲の冒頭から10分を経過して、これまでの旋律が再現されながら最後には冒頭の陰鬱な旋律が巨大な暗黒の力となって聴くものの感性いっぱいに迫ってくる。この展開はもはや鳥肌を超えて失禁の境地であり、個人的にはピンクフロイドの「狂気」の40分間に匹敵するものだと信じている。

"The Great Deceiver"と題された4枚組のライヴアルバムは、残念ながら現在は廃盤になっているようだが、時折中古CD屋さんで見かけることはある。海賊盤の横行に業を煮やしたロバート=フリップが1992年にリリースを決意した1973〜1974年のキングクリムゾンのライヴパフォーマンスを集めたもの。そしてこの作品は見事に僕の心に作用した。ハマった時の常であるが、なにせこの1週間というもの、僕はこれ以外の音楽をほとんど聴かなかったのだから。たぶん4枚合計5時間の演奏を4回は通して聴いたと思う。あらためて大変な内容のセットだなと感服した次第である。

個人的にはロックやジャズのコピーをバンドで演奏するというのはもうやりたくないと思っているのだが、僕が唯一それなりのメンバーとバンドで演奏してみたいと思っているのは、この時期のクリムゾンの作品である。かなり細かく書き込まれた作品も、集団即興の作品もどちらもやってみたいと思っている。もちろんCDに記録された演奏をそのまま再現などというのはご免だが。どなたか一緒にやりませんかねえ。

6/21/2009

父の日

6月の第3日曜日は父の日である。僕が初めて父の日を意識したのはたぶん6歳頃のことだと思う。母親の計らいで兄と2人で近所の商店にお金をにぎって赴き、父が愛用していたタバコ用の水パイプをプレゼントに買ったのを覚えている。

それ以後、父の日や母の日に贈り物をしたことはほとんどなかった。自分が親不孝な子供だったとは思っていないが。やはりいまとなってはそのことを考えるとなんとも寂しい気持ちになる。そうやってつながりを確かめようにも父や母はもういないから。

44歳の今日は僕にとって初めての父の日だった。自分が父親になってはじめての6月の第3日曜日だったということ。子供は今日で満3ヶ月になった。このところ変化が著しく、うれしいときや楽しいときにはっきりと笑顔を見せるようになったのは、ここ10日間ほどのことだったのだが、今日はそれに加えて初めて笑い声を聞かせてくれた。

目の前にあるものをしっかりと見るようになったばかりか、いつの間にかそれに手を出して触ったりするようにもなった。周囲にあるいろいろな刺激から、少しずつそれを吸収して振る舞いを身につけてゆく。


仕事は相変わらずである。先週である案件にひとつの区切りがついたのだが、それは区切りというにはあまりにも薄く細い線だった。それが自分の実力なのだと思うしかなく、実体は自分から遠ざかってゆき自分の影は薄くなる。金曜日にはボーナスが出たが、なんとなくもらうのが後ろめたい気持ちになった。

金曜日の夜、妻の会社で知り合った友人と恵比寿駅前の居酒屋「えびす村」で呑んだ。お互いの仕事の話やら音楽の話、家族の話などで楽しく時間が過ぎた。生ビールにホッピーのジョッキを次々に空け、お店の名物トンカツやホルモン炒めなどを平らげた。久々にリラックスした飲み会で満足だった。

その後、渋谷でもう一軒はしごして赤ワインを飲んで渋谷から東横線で帰ったのだが、やはりしこたま飲んで渋谷から山手まで帰るのは少々辛いものがある。ビジネスシューズが窮屈でたまらなかった。

土曜日にまた妻の友人が子供を連れて遊びに来てくれた。簡単なお昼を用意して3時間ほどを過ごしていった。2歳になる男の子が一緒だった。うちの子供があのくらいになるのはずいぶん先のようでもあり、すぐ先のことのようにも思えた。

その後、近所の家電量販店に出かけエアコンを買った。さすがに蒸し暑さが感じられるようになり、そろそろ取りつけておかないといけないなと考えていた。まだ売り場には人はまばらだった。安い買い物ではないがそこそこ満足な買い物ができた。火曜日には取り付けに来てくれるそうだ。

お店には家電とは関係のないものもいろいろ売っているのだが、妻が明日は父の日なのでウィスキーを1本買ってくれるという。お言葉に甘えて、サントリーの角瓶を1本買ってもらい、その夜はそれをロックでやった。おいしい。家で飲む久しぶりの角瓶だった。

音楽のおつまみはジャック=ディジョネットの新作「ミュージック ウィー アー」。ベースのジョン=パティトゥッチとピアノのデニーロ=ペレスらと組んだユニットによるもの。内容はいわゆるモダンジャズとは明らかに一線を画す新しいスタイルの音楽である(ジャズと呼ぶのはもはやふさわしくないと思う)。聴き所は新旧2つのジャズの偉業に捧げられた最後の2曲、"Ode to MJQ"と"Michael"である。

全般的にキースのトリオにも通じるアプローチの作品だが、役者が異なるだけに面白い結果になっている。よくよく考えてみるとタイトルがスゴい、そしてうらやましい。自分の証を残したいと思うのは人間の本能なのかどうか、いまの自分にはわからないが、本来は意味のない(なかった)人生に、意味を持たせるべく時間を過ごすのが人の生きる道だということは間違いない。

6/14/2009

スタンド!

子供は順調に育ってくれている。表情が豊かになっているのは、感情が豊かになっていることでもある。最近はいい笑顔を見せてくれるようになり、その分よく泣くようにもなった。その訳を十分に知る由はないのだが、眠いとかお腹がすいているという単純なものではないらしい。そんな様子だからこそ泣かれる側も切なくなるのかもしれない。

最近、妻が授乳のことで少し気を揉んでいる。これは男親があまりとやかく言う性格のものではないと思うが、子供を母乳だけで育てるか、ミルクの助けを借りるのかというのは単純な択一問題ではないようだ。ネット上で検索するとそれはそれはたくさんの主義主張やら悩みの相談があふれているし、書店に行ってみても実に多くの書籍があることがその証である。

以前にも書いた通り、僕は本屋さんが苦手だ。本のタイトルや帯に書かれた宣伝文句などが、歓楽街の客引きのようにまとわりついてくるように感じる。仕方なく入ることがあったとしても、なるべく写真ばかりが載ってそうなものをぱらぱらと見てその場を凌ごうとするのだが、たいていそれは無駄な抵抗に終わり、僕は入ったことを後悔しながらさっさとお店を後にする。

本を読むのはできればやっぱり文学作品だけにしたい。最近は仕事が難しくなって来ているので、少し勉強もしなければいけないと思うのだが、どうも経営とか会計の本は近寄りがたいし、ましてやいわゆるビジネス書の類いはほとんど資源の無駄ではないかと思える。経営も子育てもそれだけ悩み深いものであるがゆえに、いろいろな指南がこの世に存在するのだろうが。

iPod touch用のアプリで青空文庫を読むためのものがいくつかあり、その中のひとつを購入して使っている。青空文庫はご存知の通り日本の文学史上の名作を中心にしたオープン型の文学全集である。

作品の中には文体や思想に関する時代的な特徴もあって、必ずしも取っ付きやすいものばかりではないが、自分好みの作家の作品が手軽にしかもタダで読めるので、通勤電車のなかで音楽を聴きながら読んでみるのは悪くない。

電子書籍と言われると、うーんと構えてしまうこともあったが、実際に使ってみるとこれがなかなかいけるものだ。まだ長編は試していないが、芥川龍之介とか太宰治の未完の作品とか、中原中也の詩集とか、そういったものを思いつくままに楽しんでいる。とても新鮮な気持ちになる。いま話題の村上春樹の新作もこれで読めたらいいのになあと思うのだが。

先週、仕事で疲れた帰りの電車の中でどういうわけか中島敦の「山月記」を読んだ。なぜこれを読む気になったのかはわからないが、高校時代に教科書で習ったことがあり僕には強く印象に残っていた。電車に乗っている40分ほどの時間でさっと読んでみて、それは心のかなり奥深いところに響いた。やはり文学はいい。

それにしても自分が聴いている音楽を再生しているのと同じ機械で本を読めてしまう。飽きたら安室奈美恵のビデオクリップを観ることもできて、お小遣い帳にもなるのだから、やっぱりこれはスゴいことである。

先週に続いて、また週末に一組の来客があった。妻の仕事仲間の女性3人組。スパークリングワインを2本と缶ビールにいろいろな食材を持ってやって来て、うちの子供を代わる代わる抱っこしたり、写真を撮ったりして無邪気にはしゃぎ、酔い覚ましに近所の公園まで散歩に出かけてバスで帰るのを見送った。楽しいひとときだった。しかし昼間にワインを飲むのは時に調子が狂う。

最近話題のピアニスト、エリック=リードの新作「スタンド!」をようやく入手。

前に彼の作品「ヒア」を取り上げたのがちょうど3年前のことだと知って、ちょっと驚きもした。あれも素晴らしいピアノトリオ作品だったが、今回の作品も評判通りの強力な内容である。まだ2回しか聴いていないので詳しいコメントは控えるが、冒頭のタイトル曲の弾き始めから、なんとも贅沢な凄みが滲み出てきて、ちょっと身震いすら覚える。

これはもう明日からしばらく通勤時のヘビーローテーションは確実。ずっしりとしたスゴさを感じさせるピアノを聴きたい方は是非!

6/07/2009

フィクション

暑い日曜日となった今日、2組の家族が午前と午後に我が家を訪問してくれた。いずれの家族も直接的には妻の知り合いなのだが、僕もそれぞれのご主人には以前から面識があった。午前に来てくれたのは、妻が勤める会社で契約しているカメラマンのファミリーで、いまの家から比較的近いところに住んでいる。

ご夫婦は僕らよりも年上で、10歳くらいのお嬢さんがいる。さすがにカメラマンだけあって、我が家に着くなり、すぐさま愛用のキヤノンの一眼レフを取り出し(レンズが大きな明るいズームレンズが装着されている)、うちの子供を中心にパシャパシャと写真を撮ってくれる。相手とコミュニケーションを図りながら躊躇なく次々とシャッターを切り続ける、それが人物撮影の極意だということを目の前で示してくれた。

娘さんは奥様がうちの妻と同じ年に産まれたらしい。3年ほど前にご自宅を訪問した際には、まだ幼い感じだったが、今日会ってみると10歳前後とはいえ、もうお姉さんの雰囲気が感じられるようになっていた。なんでも社交ダンスが特技だそうで、その年齢層では全国大会で順位を争うほどのものらしい。

午後からは、僕の職場の同僚で大学の後輩に当たる男の家族がやってきた。実は妻同志が同じ会社の同じ職場で大の仲良しで、今回の訪問もそちらの縁で話がまとまった。こちらは小学校低学年と4歳になる姉妹が子供にいる。彼女達に会うのは僕は初めてだった。

最初はおとなしくしていた2人だが、まあ基本的にはじっと座っているはずもなく、用意したお菓子や果物を平らげた後は、子供と遊んだり親のiPhoneでゲームをしたりと思い思いに遊び始め、帰る頃には我が家のリビングを走り回って、最後には妹がダイニングのベンチから床に転落してあわやというハプニングになった。幸い大事には至らず、涙を見せることもなく元気に帰って行った。

妻が妊娠したことがわかったとき、僕は女の子だったらどうだろうかと思ったこともある。それはちょっとした願望程度のもので、本当のところはどちらでもよかったし、実際に産まれてくると、そのことはますます重要ではないんだなと確信した。

今日はたまたま3人の女の子が我が家に来てくれた。みんなかわいいしそれぞれに個性的である。だからといって、ああうちにも女の子が欲しいなあとは思わない自分に後から気がついた。そしてもちろんそれは女の子がいたらいたでそれなりに逆のことを考えるのだろう。

引越してからFMラジオをたまに聴いている。そのなかで安室奈美恵の音楽をいくつか耳にする機会があった。巷ではかなりの評判になっているようで、僕もずっと気にしていたのだが、遅まきながら実際に音楽を聴いて、やっぱりこれはいいなと思ったので、昨年発売されたDVD付きのベスト盤「ベスト フィクション」をアマゾンマーケットプレースで取り寄せた。

噂通り内容は素晴らしいものだった。音楽も素晴らしいがやはりダンスを交えた映像が圧倒的なDVDは非常に素晴らしい。邦人アーチストのプロモビデオは、時に見ている方が恥ずかしくなってくるようなものも多いが、このアルバムのDVDは収録曲全曲のPVが収録されていて、それぞれに見応え十分だった。自分の信じた道を一貫して進むのは大切なことだと改めて教えられた。

ひとつ残念だったのはDVDの画質。これはもともと収録された映像のクオリティが云々ということではなく、DVDという規格の問題である。引越ししてテレビを買い替え、デジタル放送でハイビジョンのクオリティを観てしまうと、それがニュース映像やくだらないバラエティ番組であれ、やはり映像の質の高さに目が慣れてしまう。

その点、DVDはもはやかつてのVHSレベルでしかないように見えてしまう。幸い僕はそれほどたくさんのDVDを買い集めてはいないが、やはりお気に入りの作品については、できれば新しい規格のもので再発して欲しいし、この作品もそういうフォーマットで発売されるなら観てみたいと思った。

5/31/2009

フクシアの花に誘われて

生活のリズムはようやく落ち着いてきた。新しい家族と新しい住まいにはとても楽しませてもらっている。毎日に何かしらの新しさがある。一方で新しい仕事にはどうもまだ馴染めない。

自分が元々いた職場だというのは、たぶんその理由の大きなもののひとつだろう。時代は変わり職場の人は大きく変わった。それでも変わらない何かがある。それらは自分自身の中にも同じようにある。解決するのはなかなか厄介な代物である。

百年に一度の景気後退というのは一体誰が言い出したのか。個人的には何を持ってそんなことを言っているのか理解できない。経済は自然現象ではないのだから、大地震や台風と同じ様な表現はあたらない。

景気が悪いと言っても物事の進み方は決して一様ではない。いずれ上向くと思っているものが案外いつまでも下がり続けるというのはよくある話だ。いわゆる「終わった」状態である。多くの場合、当事者はうすうす終わったことに気がついているのだが、どこかでそれを認めたくない、あるいは認めることができないでいる。

音楽の世界でも「何とかはもう終わった」とか「何々の時代は終わり」とか、よく使われる言葉である。しかし服飾やデザインの世界同様、芸術には流行の波があっても、優れたものに終わりはない。それは必ず誰かの記憶にとどまり続け、大切に受け継がれて行くものである。何かの媒体に記録したものがあれば、それはいろいろな人の間を彷徨ってゆく。

少し前にろぐで書いた、元町の中古屋で見かけたサム=リヴァースの中古CDだが、結局あれからそれほど日が経たないうちに、仕事のストレスも手伝ってか会社帰りにさっと途中下車して回収してしまった。「フューシャ スィング ソング」と題されたブルーノートのアルバム。ジャケットがなかなかかっこいい。それが僕を呼び止めたようだ。

フューシャとは植物の名前で、謎めいた魅力をもつ不思議な形の花を咲かせる種である。日本ではドイツ語読みのまま「フクシア」と呼ばれている。

このアルバムはリヴァースのアルバムとしても、あるいはブルーノート4000番台のなかでも決して有名な作品ではない。僕が興味を覚えたのはドラムがトニー=ウィリアムスであること。ちなみにベースはロン=カーター、ピアノはジャッキー=バイアード、そしてプロデューサはアルフレッド=ライオンである。1965年の録音というから当時のジャズシーンはだいたい想像がつく。だからこのアルバムの中身は想像するのが難しかった。

ふらりと入った中古屋、それも、さほどジャズに力を入れているというわけではないお店で、どうしてもある作品に惹かれてしまうということは実際たまにある。まるで棚のなかから「やっときてくれましたね、ずっと待っていましたよ」と急に語りかけてくる様な感じ。

もちろんだからといってそれが必ず当たりとは限らない。見事に騙される場合だってある。それはその時の自分の気持ちに依るところが大きい。気持ちの不安定なときにお店でうっかり相手の誘いに乗ってしまい、損をすることもある。中古屋は売りに出されたCDの溜まり場である。もしそれらに気持ちがあるならそれはきっと穏やかなものではないだろう。

さて今回はどうだったかというと、幸いにもとてもいい出会いだったと言える。収録されているのはすべてサムのオリジナルだが、気をてらったようなところはなく、まるでスタンダードの様な自然なスタイルである。新しい題材をネタにメンバー全員がとてもリラックスしてセッションを楽しんでいる。これはいい買い物だった。

せっかくフクシアのことを知ったので、新居に少しばかりある植え込みで花を育ててみたいと思った。

5/24/2009

錫婚式

めでたく結婚10周年を迎えた。

妻は「早いね」と言った。僕にはこの10年間の出来事を振り返ってみると、ずいぶんといろいろなことがあったと思った。病気に苦しんだ時期もあったし仕事で悩んだ時期もあった。喧嘩をしたこともないわけではなかったけど、おしなべて本当に楽しい充実した10年だったと思う。10年にしては十分過ぎるくらいのものだ。

世の中には「結婚指輪には給料の3ヶ月分を」に続いて、「スウィート テン ダイアモンド」なる成婚10周年のお祝いとしての好適品があるらしいが、うちはあっさりとパスしてしまった。子供は授かったし、家も建てた。それがこの節目の年に起こったわけだから、これに付け加える仰々しさなどあるはずもない。

というわけで、元町のスーパー「ユニオン」でちょっぴり贅沢な食材を買って(普段の食卓には少し贅沢だという程度のものだ)、自宅の近所にあるケーキ屋でデザートを買った。家に帰った後でこっそり近所の花屋に出かけて小さな花束を作ってもらい、それを彼女にプレゼントしてあげた。

ちなみにユニオンでまともな買い物をしたのは今回が初めてだったが、想像していたのと少し違って、案外普通のスーパーなんだなと感じた。もちろんそれでいいのだが。

買い物帰りに3人で「はらドーナツ」に立ち寄って、2階のイートインスペースで休憩した。小さな空間だが素朴な雰囲気で居心地がよかった。前にここのドーナツをお土産にして以来、妻にはすっかりお気に入りの様で、この日も2人でそれぞれ2種類のドーナツを平らげた。

夜は妻がオードブルとメインを、そして僕がパスタを作り、安いシャンパンのハーフボトルで乾杯した。子供は傍らのベビーベッドで、最近よくやるように手足をバタバタさせて祝ってくれた。

僕らの食事の途中でそれにも飽きたのか泣き出してしまい、結局妻は僕の相手を早々に切り上げて子供の世話に立つことになり、僕はひとりで残りのお酒と料理をゆっくりと楽しませてもらった。

子供は満2ヶ月になった。まだ首は据わらないものの、うつ伏せにしてみると一生懸命首をもたげたりする。手足のばたばたなどからしても、力は強そうだ。おかげさまですくすくと育ってくれている。昼間はほとんど寝ずに妻の世話に甘えているようだが、そのぶん夜は比較的よく寝るようになった。最近では夜中に起きるのはほとんど1回だけである。

結婚10年目にして大きく変化した生活のリズムだが、少しずつだが新しいノリもつかめてきている様に思う。そろそろまた飲みに行きませんか?

5/17/2009

フロイド讃歌

子供が産まれて今週で2ヶ月に、そして新居に引越して今週で1ヶ月になろうとしている。職場の異動も重なってなんともめまぐるしい毎日だったが、ようやく少しだけゆとりが出てきた様に思う。

引越しして初めて髪を切りに行った。前に通っていたサロンに行くことも考えたが、せっかくだからと元町周辺で手頃な店を捜して入ってみた。お店が替わればやり方などもまた変わる。白髪を染めてもらうこともあり、実際に技術を施してもらうまでは多少不安だったが、結果には非常に満足だった。

帰りに独身時代によく立ち寄っていた中古CDを覗き、サム=リヴァースのブルーノート作品を見かけて買おうかと思ったのだが、なぜか思いとどまった。代わりに元町の交差点にある「はらドーナツ」で妻へのお土産を買って帰った。神戸にあるお豆腐屋さんが始めたチェーン店だそうで、おからをベースにさくっと揚がった素朴な味に妻も喜んでくれた。

神戸といえば新型インフルエンザの騒ぎが気になる。病気そのものももちろん心配だが、現段階では発症しても症状は軽いそうだ。それよりも過度に騒ぎ過ぎて余計な混乱を招かないことを望みたい。

僕は、先週半ばあたりから目が赤くなり、市販の目薬でも埒があかないので初めて眼科病院に行ってみた。会社近くの小さなところだったのだが、予想に反して院内は老若男女で超満員だった。歯医者の世話になる人が多いのはなんとなく想像ができるが、眼科の世話になったことがなかった僕にはちょっとした驚きだった。

30〜40分ほど待って、ようやく比較的若い髭面の先生に観てもらった。原因は定かでないものの、なにかの雑菌による結膜炎だろうということで、抗菌剤と抗生物質の目薬を処方してもらった。薬を使い始めて2日が経過し幸い病状は快方に向かっている。

出産のお祝いをいただいた人たちへの内祝いも済ませ、親しい間柄の人達に向けて、子供の誕生と新居への引越しをお知らせする挨拶状を送る準備もほぼ終えつつある。

iTunesにプリセットで登録されているインターネットラジオで"4 Ever Floyd"という局を見つけた。いまもそれを聴きながらこのろぐを書いているのだが、文字通りピンクフロイドの音楽だけが次々と流れるという局である。

その流れ方が完全なランダムなのが面白い。おそらくはフロイドの公式作品すべてのCDをiTunesに取込み、それらをアルバムモードではなくトラックモードでそのままランダムプレイしているのだろう。

なので「ウマグマ」に収録された"The Narrow Way Part3"が流れたかと思えば、続いては「ファイナルカット」の"The Gunner's Dream"が流れ、続いて「ウィッシュ ユー ワー ヒア」の"Shine On You Crazy Diamond Part1-5"が鳴り出すという展開である。

自分でiPodを聴くときにはランダムモードはやらないのだが、ラジオとしてこういうふうに聴いてみると、これはこれでなかなか面白いものだと思った。音源が自分の持ち物ではないがゆえの新鮮さがある。

いま"Shine On You..."が終わり、今度は「ザ ウォール」の"Empty Spaces"が始まった。この後誰もが期待する"Young Lust"には行かずに、始まったのは「ウマグマ」の"Sysyphus Part 1"だった。と思ったら今度は・・・。きりがないのでこの辺で実況はやめておく。

フロイドファンの方は是非ともトライして欲しい。もちろんシドの歌声も聴けるし、いわゆる「新生フロイド」の作品も流れるし、グループ名義のアルバムではないかなりレアな作品も流れる。

僕が聴いている限りでは、この局の人は明らかに「ウマグマ」に特別な思いを抱いているのだと思う。しかも各メンバーのソロ作品が収録された2枚目の方に。もう長いこと耳にしていないが、確かにいま考えるとあれは凄いアルバムである。

どうやら僕はこの局にハマったようだ。そのなかで初期のフロイドの素晴らしさを再認識しつつある。同局のウェブサイトにあるリクエストランキングでは、第1位は"Comfortably Numb"なのだそうだ。うーむ、もちろんあれは名曲だが、フロイドの素晴らしさのほんの一端に過ぎないんだがなあ。

心に残るものは決して古くはならない。ああ、しかし・・・この脈絡のなさといったら。

5/10/2009

追い求める旅

連休が明けて2日間出勤。以前からいろいろと忙しい毎日だったのに加えて、連休中は毎日子供を抱っこしたこともあって、連休が終わる2日前に、かつて患ったヘルニアが再発しそうな兆しが現れた。

お尻の谷間が始まるあたりが、わーんと何ともいえない痛みというか痺れのような強い感覚に支配される。同時に下半身の筋肉に怠さか痺れの素のようなものが溜まったように重い感じになる。

これまでも仕事などで少し無理をすると度々同じ症状が出てきたものだが、今回のはかつての最悪期を思い起こさせるに十分な強さで、連休最後の2日間は子供の相手をしたいのを我慢して、少し臥せさせてもらったりもした。

5、6年前にもらった貼り薬と飲み薬でなんとかごまかしたものの、仕事にいくのには少し不安があった。もちろんあのことで自分の人生に得たものも決して少なくはないが、やはりできることなら再発はして欲しくない出来事であるには違いない。

連休明けの朝、電車はお決まりの事故や故障の影響もあってかなり混雑した。少し及び腰での通勤となったが、幸い薬の効果もあって、朝になるとかなり具合は軽くなっていたし、その後症状が悪くなることはなかった。出勤リハビリの様な2日間が終わり、仕事では特に印象的なことも起こらないまま、また週末となった。

我が家のファラオは相も変わらず元気そのものだ。妻は昼夜の区別なくつきっきりでの育児を頑張ってくれている。金曜日には区が派遣している助産士さんの訪問をお願いしたらしく、いただいた暖かいアドバイスのおかげで、また新たな気持ちで子育てに向かえるようになったと喜んでいた。

引越し作業中はやっぱりあまりに多すぎるCDに少々嫌気がさしたりもしたのだが、いざCDで音楽が聴ける環境が新居に整うと、やっぱり古いオーディオセットだけは残してよかったとつくづく感じる。本当に久しぶりに耳にするジャズ作品も棚に並べ、こちらに関してもまた新たな気持ちで音楽に向かおうという気分である。

子供の泣き声にちなんで前回ご紹介したファラオの「ライヴ!」もそんな1枚だったのだが、今回もファラオの作品を取り上げたい。これは新居に越して最初に購入したCDである。

タイトルの「ジャーニー トゥー ザ ワン」は直訳すると「その人(もの)を追い求める旅」という意味。ここでいうその人とは、コルトレーンあるいは彼が追い求めた彼の音楽という意味で間違いないだろう。「ライブ!」の前年にリリースされたオリジナルLPでは2枚組の作品になっていたと思う。

この頃のファラオ作品は、最近の若いジャズファンの間では非常に人気があるらしく、ファラオを聴くなら先ず最初にこれをという表現をネットなどでも度々見かける。確かにこの作品は素晴らしい内容である。

前回紹介したライヴ作品ももちろん素晴らしいが、コンセプトアルバムとしての音楽性の深さは、当然こちらの方がしっかりと充実した内容になっている。「ライヴ!」で重要な役割を果たすピアノのジョン=ヒックスの演奏も存分に楽しめる。

コルトレーンと行動を共にしていた頃のファラオがまだ20歳代後半であり、今回の作品を製作したのが40歳と、コルトレーンが死んだのと同じ年頃にあたっている。そう考えればタイトル表された当時の彼の心境が、このような見事な作品に結実したのは感慨深い。トレーンゆかりのバラード「アフター ザ レイン」「イージー トゥ リメンバー」は2本の美しい献花だ。

素晴らしい作品に触れることで、このところ何かと慌ただしく疲れてしまっていた自分の心身も、リフレッシュすることができたように思う。多くの人にこの作品が聴かれることを願いたい。

5/04/2009

横浜のファラオ

新しい家に移り住んで2週間がたった。引越しの前日からまた妻の母親がきてくれて、引越し後の面倒をいろいろと看てくれた。おかげさまでたくさんあった段ボールは僕のCDやらこまごましたものを除いて、4、5日程度でほとんどかたづいてしまった。

引っ越して最初の週末で僕も自分の荷物の整理をして、週明けの月曜日には空っぽになったおびただしい量の段ボールやら梱包材などを、引越し業者に引き取りにきてもらった。これで家の中はあらかた片付いてしまった。ご近所へのご挨拶も済ませ、なんとかこの家の住人としての格好はついた。

2日間会社に出た後、水曜日からは8連休に入った。最初の3日間は広島から兄がやってきて、泊まっていった。子供がいるのでいままでのように妻と3人で食事に出かけたりというわけにはいかないが、近所にある大きな公園を散歩したり、新しくできた大型家電量販店への買い物につきあってもらったりした。そこでようやくテレビと掃除機を買った。

兄の滞在最終日には、購入した家具で唯一到着が遅れていたソファが届いた。お店で実物を見て選んだつもりだったのだが、いざ自宅にやってくるとこれがなかなかの存在感で、ずっと空けてあったそのためのスペースに感じられていたもの足りなさは、一気に吹き飛んでしまった。

今回は目黒にあるエンライトギャラリーという家具屋さんにお世話になった。2階のリビング全体を東南アジアのテイストで揃えてある。これは以前からの僕らの希望でもあった。おかげさまでとてもいい雰囲気に部屋をまとめることができた。

子供の方は順調に育っている。兄がやってきた2日目には、スリングに収まって4人で元町まで出かけた。初めてバスや電車に乗り、中華街で飲茶も楽しんだ。バスの振動やエンジン音が心地よいらしく、長い信号待ちでアイドリングストップするとしーんとする車内で少しぐずり始めたりする。エンジンがかかって動き始めるとまたすやすやと眠る。

いまのところまだ3時間ごとに母乳とミルクを欲しがり、それ以外にも何かとぐずっておねだりする。もっぱら妻が世話をしてくれていて、夜中に泣いたりしても僕が起きる頃には、汚れたおむつを捨てたりするくらいしかやることがない。

泣き声が大きくコルトレーン級だと以前に書いたが、泣き叫びが激しく続くと声が割れたり裏返ったりするので、最近はもっぱら「ファラオ泣き」と呼んでいる。もちろんファラオ=サンダースに因んでのことだ。

僕はフリーとか現代音楽とかいろいろと聴いてきたせいか、不思議と赤ちゃんの泣き声を耳にしても、あまり嫌な気分にならないようだ。それどころか微妙な声色の変化を楽しんだりしてしまう。自分の子供の泣き声については、1週間もしないうちにこれはファラオの咆哮にそっくりだなあと思ってしまった。

今回CDを整理しながら、このところほとんど聴いていなかったものをいくつか棚に並べてみたのだが、そのなかにファラオの懐かしい作品もあった。「ライヴ」と題されたこの作品は、1982年にアメリカ西海岸で演奏されたものを収録してある。1曲目の"You've Gat to Have Freedom"の冒頭からあの咆哮が全開である。

しかし、ここには1960年代のコルトレーン作品や、マントラー等との演奏で聴かれた凶暴な演奏は影を潜め、ブルースやゴスペルといった黒人のルーツミュージックの世界に立ち返った内容になっている。

コルトレーン死後に発表されているファラオの作品は、クラブ系のアーチストから高い支持を集めているらしいが、それは単なるビートやグルーヴにとどまらない、彼の音楽全体に滲み出るブラックスピリッツに対するものだろうと思う。

連休後半になって少し体調を崩してしまった。折しも新型インフルエンザの問題が毎日のようにニュースで流れており少し心配にもなったのだが、幸い大事にはいたらなかった。

いまお気に入りのソファでは妻が束の間のうたた寝を楽しんでいる。子供はリースで借りたベビーベッドでマイルスのマラソンセッションを聴きながら眠っている。時折、声を上げたりし始めたのでそろそろ目覚めるのも時間の問題だろう。

横浜の新居に響きわたる咆哮は、できれば昼間だけにして欲しいものだが、まだようやく昼と夜の区別ができ始めた本人に自制を促すのは無理なことだ。いましばらくはその泣き音をファラオの咆哮に見立てて楽しむことにしたい。

4/26/2009

川崎を去る

2週間ぶりの更新。前回にお知らせした通り、先週月曜日に自宅の引越しをした。結婚して10年間住み続けたアパートと川崎市にお別れをして、社会人の独身時代を過ごした横浜市に小さな家を建て、そこに移り住むことにした。

家を買うことを決めたのは昨年の夏だった。ちょうど妻のお腹に子供がいることがわかったのと同じ頃。元々は住んでいたアパートの近くにあるマンションを考えていたのだが、想定していたよりも値段が高く内容もよくなかったので、勢い「あのくらいお金出すんだったら戸建てが買えるよなあ」と負け惜しみをいったのが始まりだった。

どういうわけか妻が持て余したエネルギーで物件を検索したのが横浜の山手だった。実際、自分たちにとってまだ手頃な値段で建売の物件がいくつかあった。こうなりゃもうついでだとばかりに、さっそく不動産会社に電話して、翌週現地見学ツアーと相成った。

実際に物件を見てみると確かにこぎれいでマンションに比べれば広いものばかりだったのだが、やはりお手頃なのにはわけがある。どれも駅から遠いしこの付近特有の複雑な地形のなかで突然空きが出た土地に建てられたものという感じだった。

ほぼ半日にわたって4つの物件を見せてもらったのだが、どれも立地の点でいまひとつ決め手に欠けるものばかりだった。すっかり日も暮れ、今日はこのくらいで帰ろうかとしたとき、ものは試しにと、あと少し値段が高くなってもいいとしたらどんな物件があるのか、と店の人に尋ねたのが運のつきだった。

「昨日売出になった分譲物件ですが、ものすごい人気で・・・」と見せられた1枚の図面。まだ建物はなく、分譲の区画だけが決められており、そこに業者が指定した仕様と部材を使って、条件内で自由に家が建てられるのだという。帰宅ついでに日の暮れた現地まで車で送ってもらい、真っ暗な土地だけを確認した。駅からは十分に近く、とてもいい条件の場所だった。

結局、翌日曜日の朝に2人で相談して、その物件を買うことにした。ただし景色のよい北側の土地が買えればという条件で。この12時間即決が功を奏して僕らは目当ての区画を手に入れることができた。

もちろん安い買い物ではない。たくさんのお金を借りなければならなかったが、産まれてくる子供との新しい生活含め、何か大きな節目を感じそれに突き動かされるようにことを進めた様に思う。

以後、妻のお腹が大きくなるのに合わせて、家の姿も図面上から実際の形になるまで進化していった。自分たちが家を設計するなど考えていなかったので、最初はとても不安だったが、親切で熱心な設計士さんのおかげで、引渡しが行われたのは子供が産まれた翌日だった。

少し余裕を持って引越しの日を決めていたのだが、それでもまだ生後1ヶ月である。とても自分たちだけで荷造りをするのは無理と判断し、引越し業者の人に荷造りをすべてお任せするコースを選ぶことにした。

引越し前日、引越し屋の制服を来たおばさん3人がやってきて、てきぱきてきぱきと自分の家の荷造りをやり始めた。それはもう驚く様な働きぶりだった。わずか4時間で狭い2LDKに詰まった荷物の8割は段ボールに収められた。翌日には平日ということもあって数名の作業員がやってきて、ものの2時間でアパートは空っぽになった。

こうして僕らは10年間住んだアパートをタクシーで後にした。続きはまた次回。

4/12/2009

3つの新生活

この春から生活に新しい展開が3つある。

ひとつは家族に子供が加わって3人での生活を始めること。

10年前に結婚生活を始めた時は、独身生活が終わって生活が一変するだろうと思っていた。というか周囲からそう聞かされていたのだが、実際に暮らし始めてみると、妻も仕事をしていたこともあって、お互いのペースをつかむのに少し戸惑いはあったものの、慣れてみると意外に独身時代と本質的には大差ない生活を過ごしてきた様に思う。

子供ができると生活はかなり変わるというのは、たかだか2週間暮らしてみただけで十分実感できる。それでもまだ妻の母親が手伝いにきてくれていたので、かなり助かっていた部分があるのだが、それも今日でいったん帰っていただくことにした。彼女も疲れるだろうし、こちらもあまり甘えてばかりいるわけにはいかないから。

2つめの新生活は、4年間勤めた関係会社出向を終えて、親会社の元々いた職場に復帰することになったことだ。これは実際には寝耳に水というわけではなかったのだが、僕の部下や周囲の人からするとやや唐突なことだったかもしれない。

この4年間は自分のある意味での能力を試す上でいろいろと有意義なことが多かった。管理職の難しさや、小さいながらも新しいことを立ち上げることの楽しさと苦しさを味わった。いろいろな経歴の部下に恵まれ、いろいろな知識や経験を身につけさせてもらった。

特に最後の2年間弱は、これまでの会社生活のなかで最も有意義な期間であったことは間違いない。大きな問題を抱えてしまった時期もあったが、自分がやりたいと思ってたことを実現する手助けとなり、まだ道半ばではあるがそれなりの成果を実感することもできた。出向を終えるに際して唯一名残惜しいと感じるのは、そのことである。

新しい職場で与えられたミッションは重い。ただでさえ会社全体があまりいい意味でなく極めて緊張している時期である。新しく部下となる2人の若手は、このうえもなく頼もしいようだ。前任者の指導が素晴らしかったのだろう。自分への反省がつのる。

そして、3つめの新しい生活について。これまでこのろぐでは明言を避けてきたが、このたび横浜に小さな土地を手に入れ、そこに新しい家を建てた。あと1週間と少しでそこに引越すことになっている。詳しくは追々書いて行こうと思っている。

別に子供ができたから家を買ったというわけではなく、たまたまタイミングがあってしまっただけである。3つの新生活がこうもきれいに一致するとは思っていなかったというのが正直なところだ。

そんなわけでただいま超慌ただしい毎日である。会社でも家でもなかなかゆっくりとできない。先ほど風呂上がりに体重を量ってみたら、ここ1ヶ月で2キロは確実にやせていた。妻もこれからしばらくは新しい家で子供の面倒を中心に一日中大変な毎日だろうと思う。子供はもちろん、親である自分たちも身体は大切にしなければならない。

次の週末から1週間が引越しが始まる天王山となる。幸いいろいろな準備をかなり以前からしてきたし、今回は引越し業者にお任せする部分もあるので、いまのところは特に焦りはない。ただ少しばかり疲れがたまっている。もしかしたら来週のろぐはお休みさせていただくことになるかもしれない。

このふってわいたようなしあわせを、ながくしっかりとかみしめたいものだ。

4/05/2009

再度絶賛

前回ご紹介したブランフォードの新作"metamorphosen"を再度絶賛しておきたい。

子供が我が家にやってきて1週間がたった。妻は授乳を中心に昼夜問わずいろいろと苦労してるのだが、義理の母親が手伝いにきてくれているので食事の用意なども含め非常に助かっている。

ただでさえ狭いアパートで急遽4人での生活という状況に突入し、比較的のんびりさせてもらっている僕でさえ、立ったり座ったりの回数が倍以上に増え常に何らかの緊張が続いている。

おまけに4月から異動で仕事が替わり、会社でも落ち着かない状況に直面している有り様だ。当然、自宅で音楽をゆっくり聴くことはできないので、必然的に通勤時のiPodが貴重な音楽時間となるわけだ。

先々週来、そのひと時はほとんど毎回ブランフォードを聴き続けてきた。とにかく素晴らしい作品。同時期に買った他の作品にも耳を傾けたいのだが、どうしてもこの作品を前にしては印象がかすんでしまう。これが前世紀のジャズを知る人にだけアピールする音楽

日に日に表情豊かになってゆく子供といるのはやはりいいものである。最近では音や動きに反応するようにもなり始めた。ミルクを飲んでよく寝てくれる時もあるが、いろいろな合図を泣き声で知らせてくれることも度々である。

あまり落ち着いて文章を書ける状況でないので、今回はこのくらいでご勘弁願いたい。ともかく、ブランフォードの新作は必聴の名作なのである。是非お聴きください!

3/29/2009

変容

子供が産まれて1週間。母子揃って退院の日がやってきた。自宅に近い病院なので、入院中はほぼ毎日会社帰りに立ち寄って、2人の様子を見に行った。妻は産後の治療に並行して、さっそく子供の面倒を看なければならないから大変である。

あわただしく7日間が過ぎ、ミルクととびきりの泣き声を交互に繰り返す子供の顔にも、少しずつ表情が出てきた。少しずつ開いてきた瞳には何が映っているのだろうか。

退院の日、新しい家族を迎え入れるために、部屋をきれいに掃除したり子供の寝具を用意したり、部屋を暖めたりと、いろいろやらなければいけないことがあってそれだけで目が回ったが、やはり気持ちはうれしいものである。帰宅前に病院でたっぷりミルクを飲ませてもらったおかげで、子供は珍しくすやすや眠っていた。

広島から妻の両親もやってきてくれ、5人でタクシーに乗ってアパートまで帰ることにした。荷物をまとめて会計を済ませていよいよご帰宅である。3月下旬にしては寒い日だった。自宅は25度近くある病院の中とはずいぶん違うので、それが心配だったのだが、毛布や布団をしっかり用意してあったので、子供は車中から眠ったまま我が家に到着した。

しばらく義母が一緒に泊まってくれて、少しお手伝いをしてくれることになり、4人での新しい生活が始まったところである。僕もミルクの作り方や飲ませ方を教えてもらったり、一緒にお風呂に入れるのを手伝ったりしている。できる限りは自分も同じように子供の面倒を看てあげたい。

子供の名前は、少し前から妻と2人で考えてきたものに落ち着いた。特に深い意味を込めるでもなく、自分たちが尊敬する人の名前から字をもらい、あとは語感から判断してしっくりくる響きを考えた。自分たちを含め近しい人の名前から字をもらったり、苗字との間に意味的なつながりもたせたりするのは、あまり好みではない。

さて、そんな状況なのでなかなか音楽を聴く暇もないのだが、新しい家族が加わったお祝いの意味もかねて、産まれる少し前に相次いで到着したCDのなかから、とびきりの演奏を捧げてみたい。ブランフォードの新作"Metamorphosen"である。

メンバーは、カルデラッツォ、レーヴィス、ワッツからなる不動のクァルテット。今回も凄い内容である。冒頭の"The Return of the Jitney Man"からしてもう興奮がとまらないが、現時点でのベストテイクは、レーヴィスのベースソロ"And Then, He Was Gone"とそれに続くワッツの作品"Samo"である。これはもうただただ唸り続けるばかりの内容である。まだ3月だが早くも今年のベストアルバムはこれだとの予感である。

子供の表情や反応、鳴き声の音色などはどんどん変容してゆく。これからしばらくはいままでとはかなり異なる生活のパターンになるだろう。ろぐの更新は引き続き頑張って行きたいと思う。

3/22/2009

誕生!

3連休初日の金曜日。天気もあまりぱっとしないし、家でのんびりすることにした。近所のインド料理屋で2人揃ってカレーを食べ、少し買い物をして帰宅した。

夕方になって、最近届いたマイケル=マントラーのCD"No Answer/Silence"を居間のオーディオで聴いていたら、横になっていた妻が「お腹の子供が動いてる」と言う。妻の耳にもちょっと不思議な音楽に響いたのが、子供にも伝わったのかななどと考えた。

そうこうするうちにお腹が少し痛むと言う。陣痛かなあ、どうなのかなあなどと言っているうちに、痛みは規則正しい間隔で現れるようになり、それはすぐに10分から5分間隔になった。面倒を見てもらっている近くの産科院に何度か電話するうちに、ほどなく病院へ来なさいとの指示が出て、僕はタクシーを呼んだ。

妻はかなり痛そうだったが自分で起き上がってアパートの階段を下り車に乗り込んだ。幸い病院の場所を知る運転手さんで、病院まではワンメータで着いてしまった。着いてすぐに当直の看護士さんが様子を診てくれ、もうかなり状況が進んでいることを教えてくれた。時間は午後10時だった。もしかしたら今日中に産まれるかもしれないとも。

強い痛みで辛そうな表情の妻を励ますといっても、手を握って「頑張ろうね」と声をかけてあげるぐらいのことしかできない。とにかくこの状況では男は無力である。病院のCDプレーヤを借りて、妻がお産のときに聴きたいといっていたキース=ジャレットの"The Melody At Night, With You"をかけてあげた。

結局、それから日付が変わってそう経たないうちに子供は産まれた。妻の側から僕もその一部始終を見させてもらった。頭が出てきた時は「おおっ!」と思ったが、続いて手が出てきたときは正直少しギョッとした。

先生のサポートと慣れた手であっという間に子供は妻のお腹から産まれてきた。看護士さんがすぐに妻にも見えるように彼を持上げ、それを見た妻が「ああ、出た」と初めて安堵の表情を見せたその瞬間、子供は高らかに産声を上げた。元気な男の子だ。

狭い道を頑張ってくぐって出てきてくれた子供と、この子を10ヶ月間胎内に育んで最後に無類の苦痛を味わいながら産み出してくれた妻には、ただただ感謝感動するばかりである。このことは一生忘れないでいられるだろう。

妻が産後の処置を受けるため僕は分娩室を出た。なんやかんやで1時間半近く待つ間、兄に携帯メールで連絡を入れた以外は何をしてたのかよく覚えていない。待っている間、隣の部屋でキースのピアノが流れるのが聴こえた。産後の処置も辛そうだったが、彼女のいろいろな気持ちもあのピアノで少しは癒されただろうと思う。

再び分娩室に戻り家族3人で初めてのひと時を過ごした。お互いに子供を抱いて写真を撮ったり、話しかけてみたりした。子供はとにかく大きな声で繰り返し泣いた。それは何よりの音楽だった。

結局午前4時前に僕は病院を後にした。かなり眠気があったのと、早朝でもまだ辺りは真っ暗で風も少し冷たかったのだが、僕の足取りは雲の上を歩いてるように軽かった。家に帰ってシャワーを浴び、本当はすぐに眠って翌朝の用事に備えなければならないのだが、やはりビールでひとり祝杯をあげてしまった。

というわけで、新しい家族が誕生しました。妻とともに、またこのろぐにもちょくちょく登場することになると思います。これからも見守ってやってください。

3/15/2009

マーグ財団の夜

一昨日の金曜日、勤めている会社に入って以来20年の付き合いになる男から携帯に連絡が入った。少し前にメールをもらって何やら話がある様子だったので、近々飲みに行こうということになっていたのだが、どうやらその誘いのようだ。

彼とは入社して3〜4年の期間はかなり頻繁に飲みに行っていた。いまも時折足を運ぶいくつかの行きつけの店はそうしたなかから巡り会ったものだ。技術職なのだが人との接点のところで機転のきく性分だからか、会社ではかなり忙しい職場に取り付かれる男で、そうこうするうちにだんだんと飲みに行く機会も減っていった。

僕がほとんど職場を異動することもなく時間が経過して行くなか、彼はいくつかの職場を移り歩き、やがて大阪勤務となってしまってからは、ほとんど飲みにいく機会はなくなってしまった。それでも不思議と最低限の消息は何らかの形でお互いに通わせ合っていたようだ。

2年前のこの時期、彼は再び東京勤務になった。もともと関西の出身同士なので独身寮でも気があったのだが、喜んで赴任して行った大阪勤務になった時とはうって代わって、こちらに戻ってきた時は決まりが悪そうにしていた。

それからも時折思い出したように連絡を取り合い「飲みに行こう」となるのだが、いつもなかなかタイミングが合わず実現しない。結局、それから彼と飲みに行ったのは今回が3回目だった。まあ考えてみれば悪くないペースではある。

前回に続いて今回も東京に戻ってきた彼がお気に入りだった西小山の「カフェカウラ」で一杯やることにした。マンションの1階にあるワイン好きのご夫婦がやっている小さなカフェで、美味しい料理と軽めのお酒、そしてやわらかい光加減が素敵なお店である。

彼との会話はいろいろな次元を行き交い、時に理屈っぽく熱くなることもあるのだが、一方ではかなり独特なボケとツっこみを交えて展開するので、僕にとってはとても楽しい一時になる。もちろん今回も例外ではなかった。

この日、彼の話の主題は「また大阪に戻ることになった」ということだったのだが、そんな話も最初のうちで、やがて会話は仕事のことから会社がこの先どうなるのかという話になりかけるのだが、辛気くさい話も面白くないので、時折お店の外を眺めては傘をさしている人を数えて、やっぱり今夜は雨やなあ、などとどうでもいい内容に転換したりした。

実際、傘をさす人の割合は短い間にも時々刻々と増減したので、いつの間にか野球かサッカーのテレビ中継に興じるように、帰りにビニル傘を買った彼が雨派で傘を持たない僕が晴れ派に分かれて、どちらが優勢かを競うようになった。

しばらくするとその遊びにも飽きたので、話がまた日本経済のこれからみたいな内容に戻って一気に白熱するかと思いきや、彼がお店の美味しそうなソーセージをフォークにさしたまま床に落とすという失態を演じ、今度はそれをお店の人に白状して謝るか気にせず黙って食べるかで飲み問答となり(それだけでお互いグラスワインが1杯ずつ空いた)、食べることを躊躇する彼に代わって、僕が自分のソーセージを半分彼に分けて、問題の1本は僕が引き取って平らげた。

この日はお天気が悪かったせいもあってか、お客はこの変な男性2人だけだった。お互い4杯ほど飲んだところで彼が先ずトイレに立ち、その後僕が続いた。お店のトイレに通じるドアの手前に大きなポスターが飾ってあり、それが前回来店した時の記憶を甦らせながら僕の目に飛び込んできた。

ミロが描いたというそのポスターには"Nuits de la Fondation Maeght"の文字がある。

直訳すれば「マーグ財団の夜」という意味だが、正確にはフランスにあるマーグ財団美術館で開催された「現代音楽の夕べ」というイヴェントを告知するものである。ポスターの下段には、日本のピアニスト高橋悠治がケージや武満の曲を演奏することなどが記されている。

これを見た僕がギョッとしないわけがない。僕にとって最も重要な音楽アルバムのひとつである、アルバート=アイラーのラストレコーディングのタイトルそのものだからだ。僕はもちろんCDも持っているが、大学生の頃に買った2枚のLPレコードはいまも手元に残してある。これはいずれ額に入れて家のどこかに飾るつもりでいる。

お店の人にその話をしたりするうちにさらに夜も更け、お腹も満たされて、今夜彼と再会した目的もほとんど果たされたように感じた。彼は少しぼやきながらも再び巡ってきた大阪勤務を喜んでいるのは明らかだったし、同じタイミングで僕の身に訪れるいろいろなことについても素直に喜んでくれた。

彼と飲む機会はまたしばらく遠くなることになるだろうが、それはまた楽しみにとっておけそうなことである。せっかく見つけたカフェカウラは、もったいないので僕が他の誰かと一杯やるのに使わせてもらうことにしよう。

快調に吹きまくるアイラー最後の咆哮とそれに熱狂するフランスの観客たち。この数週間後に訪れる謎の死については、誰にも何も言う資格はない。ただあるのはこの素晴らしい演奏だけだ。

3/08/2009

お片付け

このところ大層な勢いで自宅の片付けを進めている。結婚していまのアパートに越してきて10年間が経過した。そもそも50平米もない小さな2LDKの間取りだから、そんなにモノはないハズだと思うのだが、いろいろな物陰に要らないモノがキノコのように群生しているのは、どこの家もだいたい同じ事情だと思う。

少し前にも書いたが、モノを捨てることに抵抗を感じるようになった。時代がそうなりつつあるのか、単に僕が年取ったからそう感じるだけなのかもしれない。もともと周囲からは比較的物持ちのいい性格だと見られているようだ。だけど自分が浪費家ではないと言い切る自信はない。

気がつけば景気が悪いこともあって、社会全体がお片づけモードである。それも今回はかなり大掛かりな大掃除である。余計な人を片付ける、余計な部門を片付ける、余計な制度を片付ける、余計な会社を片付ける。そうしたことに合わせて余計なモノが大量に片付けられようとしている。

片付けているつもりの人がいつのまにか片付けられてしまうなどということもよくあることだ。自信たっぷりの人ならいざ知らず、世の中で自信を持って仕事をしている人はいまは少数派だと思う。そんな状況だから人は少しずつ疑心暗鬼になっていくのだと思う。

何事もそうだと思うが、何かを片付けろと言われても正しくそれを成し遂げるのは意外に難しい。片付けというのは一種の自己否定だから自分でそれをやるのは難しいのだろう。だからといって人にやってもらえばいいというものではない。余計にややこしい作業である。

ディスクユニオンが買取強化キャンペーンをやっているので、先週CDやDVDの整理をして数十点のメディアに泣く泣く見切りを付けて送り出した。それらは現在まだ査定中だが、それなりの値段がつくとの自信はある。

今日がキャンペーンの最終日ということもあって、外出がてらさらに十点ばかりのメディアに見切りをつけてお茶の水に向かうことにした。3月だというのに寒い日曜日だ。

途中、川崎駅のホームでカメラを持った鉄道マニアが大勢集まっているのに遭遇した。彼らのお目当ては、今月で廃止されるブルートレーン「富士」の姿だった。川崎駅は通過となるのだが、撮影する条件としては悪くないのだろう。鉄道警察による構内整理が出るほどのにぎわいだった。

面白かったのは、通過直前までは比較的のんびりと待っているふうだった彼らが、直前の列車が走り去るとにわかに緊張を高めて一斉に目的の方向に注意を向けたこと。このとき一瞬にしてあたりの空気が変わったのに続いて、通過電車の去来を告げる構内放送で緊張が一気に高まった。事情を知らない一般の人々までその方向に注意を向け、なかにはカメラや携帯電話で写真を撮ろうとする人までいた。

富士号がかなりのスピードでホームに滑り込んできて、走り去るまでわずか十秒間ほどの出来事である。ネームプレートを掲げた勇姿を収めるチャンスなど普通のカメラならわずか1、2秒しかなかったはずだ。

列車が通過すると、マニア達はそそくさとホームを後にして散り散りとなって行ってしまった。名残惜しいが実質的により優れた代替え手段がいくつもある以上、廃止は仕方ないということだろう。ここでも片付けが進んでいる。それは必要なことであって決して悪いことではない。

心なしかお茶の水の街も人が少ないように感じた。それでもディスクユニオンは元気に営業してくれていた。今回はCDとDVDあわせて11点を引き取ってもらったが、査定金額は8880円となかなかのものだった。また誰かの耳を楽しませてくれるのであればその方がいい。

査定を待つ間、お茶の水駅前にあった「博多天神」でラーメンを食べた。久々に食べる博多ラーメンはやっぱり美味しかった。もちろん無料の替え玉を楽しんだのは言うまでもない。これなら500円を払う価値は十分にある。満足だ。

いいなと思う音楽はいろいろあるのだが、それについてはまだ次回。

3/03/2009

10年目の命日

少し気分の落ち着かない週末だったせいか、ろぐの更新が遅れてしまった。このところまた季節が冬に戻ってしまい寒い毎日である。関東ではこれから明日の朝にかけて雪が降り少し積もるとのことだ。

この月曜日に仕事でひとつのイベントがあった。営業部門からの要請で最近話題のとあるコンビニエンスストアチェーン大手の社長を相手に、ちょっとしたプレゼンを行うことになっていたのだ。

自分の出番はほんの20分弱程度なのだが、それに続く営業部門のプレゼンを含め、事前に先方との内容打ち合わせが1ヶ月半ほど前からあった。正直この手の仕事の進め方は厄介なことも多い。

僕が発表する内容は飾りの様なもので、消費を取り巻く大きなトレンドは現在こうなっていると思いますという内容を、流通業大手の社長相手にするという、まさに釈迦に説法そのものである。こういう時はやっぱり自分で考えたことを多少大胆に言い切るのがいい。何処かで見聞きしたような内容を寄せ集めてわかったような話をするのは一番悪い。

肝心の営業からの話がいまひとつぱっとしない内容だったので、イベントとしては必ずしも成功だったとは言えなかった。それでも、相手の社長は僕らが用意したしがない材料をもとに、いろいろな持論を展開してくれ、恥ずかしくもそれが僕にはとてもいい勉強になった。

当たり前のことを言っているようで、その言葉が突く本質の迫力はやはり相当なものである。具体的なことをここには書けないのが残念だが、社長就任時に若手から抜擢されたことが話題になった人物だけに、経営者の資質ということを見せつけられた思いである。

経営に限ったことではないだろうが、自身でよく考えること、それを自分でしっかり表現すること、これはとても大切なことだ。振りをしたり寄りかかるのはそうしたことが出来たうえで、使い分ける高等なテクニックだ。器にない人は真似をしたり寄りかかることから離れることができない。実体のない寄りかかりは早晩崩れさる。

その日、僕は仕事を終えると早々に帰宅した。家では妻がちょっとしたごちそうを用意してくれていた。別にひと仕事を終えた僕へのおもてなしというわけではなく、この日は母の十回目の命日だったから。

テーブルに写真を用意して、生前母が僕に買ってくれた小さな花器に妻がかわいらしいチューリップの花を生けた。白ワインのハーフボトルを開けて乾杯した。母はたぶんそこそこお酒はいける口だったと思うが、妻も交えてゆっくり食べて飲むという機会はほとんどなかった。

こういう何かのイベントで食事をするときには、キースの"The Melody at Night, With You"がうちの定番になっている。誰かのことを明確に想う気持ちにあふれたこの演奏は、母のことを想う気持ちにも十分通じるものがあった。

食事の後、シャワーを浴びて、独りでもう少し酒を飲んだ。今度は同じキースの"Spirits"を聴きながらだった。自分のなかで何かをやり直したいと思う気持ちがそうさせたように感じた。

これら2つのアルバムは、いずれもキースにとってのあるひとつの区切りを表現するものである。それらにまつわるエピソードとキースの音楽に対する資質は、DVD作品の"Art of Improvisation"に詳しい。

2/21/2009

マイケル=マントラー讃

伊豆の温泉旅館の部屋やラウンジで過ごした心地よいひと時は、大切な人生の想い出になった。そのなかで新しく僕の心に刻みつけられることになったのが、マイケル=マントラーの音楽である。

マントラーの新作"Concertos"が発売されたのは昨年の11月だった。それが僕の手元に届いたのは今月の初めだったが、最初にさっと聴いてみたそのときからこれは素晴らしい音楽だと直感した。じっくりと聴いたのは温泉旅行に持参したiPodを通じて。往路で1回、入浴後夕食前に部屋で1回、翌昼に眺望のいいラウンジでまた1回、そして帰りの車中で1回と計4回これを聴いた。その後体調が回復してからも毎日これを聴いている。

収録されているのは、トランペット、ギター、サキソフォン、マリンバヴィブ、トロンボーン、ピアノ、パーカッションという楽器の名前が冠された7曲である。アルバムタイトルからお分かりのように、それぞれの楽器をメインにフィーチャーした小さな協奏曲集というスタイルになっているわけだが、それぞれの作品とその演奏の素晴らしさはもはやただものではない。

冒頭ではマントラー自身のトランペットが高らかに歌い上げたかと思えば、続くルーペのエレクトリックギターが奏でる旋律がまた何ともいえない美しい流れである。こういう調子で、ラストのニック=メイスン(ピンクフロイドの!)によるパーカッションまで、全く気が抜けることのない緻密な音楽協奏曲の時間が経過してゆく。

ちなみにマリンバとピアノ(演奏者はシュトックハウゼンの息子である)の2曲はソロパートまで完全に書き込まれた作品で、パーカッションのみがソロイストのパートが全面アドリブである。そして残る4曲は一部にアドリブパートが挿入されるスタイルになっている。詳細はマントラーのウェブサイトに全曲のスコアが掲載されているので、興味のある方は是非ともご覧いただきたい。

本作が発売された昨年は、マントラーを有名にした1968年の"The Jazz Composer's Orchestra"からちょうど40年目に当たるわけだが、今回の作品の方法論があの歴史的な名作の現代的再演を意識したものであることは、本人もライナーノートで認めている。前作でファラオ=サンダースをフィーチャーした衝撃的演奏"Preview"のモチーフは、今作のサキソフォンのなかでもはっきりと聴くことが出来る。

オーケストラパートはその規模はほぼ同じであっても、楽器の構成は管弦楽に代わり、奏でられるアンサンブルにも重ねた年月の熟成が繊細さのなかににじみ出ている。セレクトされたソロイスト達の顔ぶれにも、マントラーのその後の音楽活動の幅広さが現れている。

これを機にまた40年前の作品を繰り返し聴いてみたのはもちろんだが、あらためて作品としての完成度の高さに唸ってしまうばかりであった。コリエルをフィーチャーした"Communications #9"の緻密さを再発見し、"Preview"にはわかっていても何度でも打ちのめされる(マゾである)。そしてなんと言っても、2つの作品でソロ演奏を披露するラズウェル=ラッドの聴き比べはなんともエキサイティングだ。

いやもう、マントラーという芸術家に深くハマってしまいそうである、というか既にハマったのは間違いない。昨日には、メイスンをはじめジャック=ブルース(!)等を迎えたロックスタイルのユニットによる"Live"も取り寄せ、活動の幅広さにまたとてつもない位置に座標を拡げられてしまって、楽しく混乱している。

うーん、素晴らしい!これだから音楽はやめられん。わはははははっ!

ノロ

伊豆の温泉から川崎の自宅に戻ったのは土曜日の夕方、和歌山から出張で上京した幼馴染みと川崎駅地下街のビール屋で一杯やることになった。これまでも何度かろぐに登場している彼だが、相変わらずの飲みっぷりにこちらも調子を合わせてしまい、おかげさまでそれはそれはたくさんのビールをいただいたわけである。

レシートによると、大きめのワイングラスより一回り大きい専用のビアグラスに入ったお店自慢の生ビールを、2人で15杯ほど飲んだ後、ウィスキーのオンザロックを彼はダブルで2杯、僕もシングルで2杯いただいた。彼は平気だったようだが、僕はすっかり酩酊寸前で自宅に戻った。

さすがに翌日曜日の朝までは少し頭が痛んだが、起きる頃には気分もなんとか平常に戻ったかに思えた。妻と少し散歩がてら武蔵小杉にある餃子の王将まで出かけ、餃子やラーメンを食べ、イトーヨーカドーで買い物をして家に戻った。

お腹の調子がおかしいと思い始めたのはその日の夜からだった。汚い話で恐縮だが、もう完全な下痢なのにお腹が緩くて超特急というわけではなく、トイレでさんざん頑張ってようやくそうしたものが力なく流れ出てくるという状況。いまにして思えばもう腸が完全に機能不全に陥り仕事ができないという状態だったのだ。

夜半までそういう状況で苦しんでいたら、ある時急に吐き気がした。主にお昼に食べたもので胃に残っていたものが逆流してきて、洗面所で激しく嘔吐。あまりの激しさに嘔吐物が鼻のなかにまで流れ込んで詰まってしまう始末で、これはさすがに辛かった。

胃の中身が全部出てしまうと気分は急に楽になったが、全身がだるく、消化器系が機能停止状態にある何ともいえない不健康さが心身に充満した。翌月曜日の朝は少し甘い野菜ジュースを少し飲むのが精一杯だった。仕事は休んだ。

そうこうしているうちに午後になると今度は高い熱が出てきて、一時は38.8度にまであがった。それまでは単に飲み過ぎでお腹をこわした程度に考えていたのだが、ここにきて職場の人間と交わしたメールにあった「ノロウィルス」という言葉に、妙に納得してしまったのである。確かにネットで調べてみると、「腹痛→下痢&嘔吐→高熱」と絵に描いた様な症状経過をたどっていた。

このウィルスは経口感染で潜伏期間が短いのが特徴らしい。いったいどこでもらってきたのだろうかと、いろいろ考えてみたのだが、ビール屋で一番最初に出てきたおつまみが、大きな巻貝をそのまま昆布出しで煮たもので、引っ張り出した身のうち僕はオシリの方の柔らかい部分を食べた。それがその日の陽気もあってか少しねっとり感じられたのをいまでも思い出す。

まあ結局のところ原因はよくわからないし、本当にノロウィルスなのか単なる飲み過ぎなのかもはっきりしない。おかげで僕は火曜日も仕事を休んでしまい、今週は3日間仕事をしただけだった。おかゆや肉の少ない食事を摂り、アルコールも金曜日の夜まで一切飲まなかった。おかげで体重は2kg減り、体脂肪率に至っては5ポイントも減少した。

妻にうつったら大変だと心配になったのだが、幸いそれは大丈夫だったようだ。

まあ何はともあれ、やはり暴飲暴食はいけないということだ。それと栄養面でも量的にも節制した食事は健全な身体の状態をもたらしてくれる、このことにあらためて気づかせてもらった。身を以て反省した一週間であった。

2/17/2009

望水

子供が産まれたらしばらくはのんびり旅行どころではないだろうからと、1日仕事を休んで伊豆の温泉旅館に出かけることにした。

今回お世話になったのは伊豆北川温泉「望水」という宿。伊豆では比較的お高い宿として有名らしい。そんなところに少し料理のグレードアップまでして予約を入れた。倹約が強いられる昨今のご時世からすれば、なんたることかと思われるかもしれないが、これも亡き父母が遺してくれた旅行券があったから。

会社を定年て円満退職する際に、夫婦で海外旅行でもどうぞとばかりに、会社や年金組合から退職金とは別に旅行券が支給されるのがはやった時期がある。父が退職したのは16、7年前のこと。不動産と株のバブルは崩壊していたが、まだその本当の影響が姿を現すには至っていなかったころのことだった。

海外とりわけヨーロッパに旅行するのは母親の念願だったが、臆病な父はなかなか腰を上げず、しまいには母に「誰か友達と行ってこい」とかいう始末だった。結局、母親はロマンチック街道を夢見ながら病に倒れ、残された父もこの旅行券を使うことはなかった。父の遺品を整理していて、タンスの奥に隠すようにしまわれていた旅行券が出てきたときは、そんな悲しい思い出だけがよみがえった。

結局、兄と折半して貰い受けることにした。気風のいい(といっていいのか)兄は、早々に北海道旅行を楽しんだようだが、我が家ではなかなかこういうものを使う機会がなかったので、今回の旅行で大胆に使ってしまおうと考えた次第だ。

伊豆北川(ほっかわ)温泉は、熱川温泉のすぐ近くにある海岸沿いの温泉街である。川崎から伊豆急熱川駅まで踊り子号に揺られて(本当によく揺れた)約2時間で到着。そこからは迎えの車で5分ほどのところにある。現れた玄関からは平屋建てのように見えるが実はこれが最上階で、建物は岸壁に沿って8つの階からなっている。

部屋割りの関係で事前に予約してよりもグレードの高い部屋に通された。通常の和室のほかに、応接セットがおかれた小さな洋室と小さな和室がついている。天気は雨こそ降っていなかったが、これから翌朝にかけて春の嵐と予想されていた。海は少々荒れ模様だったが、おかげで窓からは心地よい波音が十分に楽しめた。

こんな経験を滅多にしない僕らにとっては、食事も設備もサービスも特に言うことなしである。正直他には何もないところなので、旅館でのんびりできるプラン(チェックアウトも通常より1時間延長)にしたのが正解だった。部屋を出た後も結局眺望のいいラウンジで音楽を聴いたりとのんびりした時間を過ごした。このとき聴いた音楽についてはまた別のろぐで。

プライベートガゼボ「さゞ波」での貴重な入浴シーン(妻撮影)


部屋の窓から空を眺める(海の上に広がる雲はいいものである)

2/08/2009

丈夫で長持ち

理由あってテレビやオーディオ関係の設備を一部リニューアルすることを考えていた。一番の目的はテレビを買い替えること。デジタル放送に対応した薄型テレビに我が家もようやく乗り換えようかと思い始めた。アナログ放送の終了までにはまだ少し時間はあるが、調べてみると薄型テレビの値段もずいぶんと安くなってきている様だ。

そもそも正月に兄の家に遊びに行って、そこで超大型のプラズマテレビやら最新式のデジタルAVアンプなどを目の当たりにしたことにも影響されたのだと思う。確かにあのシステムは値段相応の凄いものだと思った。ハイビジョン放送で観たアルプスの自然の情景などは、本当にそこにいる様な感じすら覚えそうだった。

しばらくはすっかりその気になっていたのだが、最近になってそれがかなりトーンダウンし始めた。もちろんお金の問題はある。経済の先行きがまったく不可解で仕事の将来も含めてこれから一体どうなるのやらという不安もある。しかしそれとは別に、新しくモノを買うということに少し慎重にならないといけないなという気持ちが強くなってきた。

最近のデジタル系耐久財というやつは実に寿命が短い。すぐに壊れるということではなく、すぐに仕様が古くなってしまう。使っていて深い愛着がわく様なものではないのをいいことに、接続するインターフェースが新しいものになったというような理由で、特に未練も持たれないままお払い箱になってしまう。

先日、2002年に買ったコンピュータを業者に引き取ってもらった。幸い15000円程の値を付けてくれたのでまだよかったと思っているのだが、実際には買った値段の10分の1以下である。おまけにそれよりももっと以前から使っている大きな17インチのCRTモニターはそのまま残されてしまった。これはお金を払って処分業者に引き取ってもらうしかなさそうだ。

同じ買うなら安いにこしたことはないのだが、一方で、できるだけ長く使える品物を選びたいものである。別に電気製品に限ったことではない。家具でも車でも、そして洋服やブーツもそうだし、音楽ももちろんそうだ。気をつけなければいけないのは「安い=寿命が短い、使い捨て」では決してないし、「高い=長く使える」も決してそうとは言い切れない。

だまされてはいけないのだ。

2/01/2009

フットルース

レポートの作成が佳境となるなか、これからの仕事のこととか組織のこととかいろいろと気を揉むことが多く、なかなか思うように作業がはかどらなかった。結局、自分が一番力を入れているレポートの発行は、週明けに持ち越しとさせてもらって、仕上げは共同作業者と分担のうえ、それぞれ自宅に持ち帰っての作業ということになった。

それでも金曜日の時点ではあらかた作業は済んでいるとやや軽く考えて、土曜日はお天気が悪いらしいから一日家で作業をしてレポートを完成し、日曜日はまたのんびり出かけようなどという気でいた。

しかし実際に持ち帰ってあらためて作業経過を眺めてみると、やっぱりまだ5割程度しか出来ていないことに否応でも気がつかされる。追い込まれている最中に時折間をさす楽観というのはそういうものだ。いわゆる悪魔のささやきというやつだ。

結局、日曜日に行こうと思っていた散髪も返上し、それでも十分な余裕を織り込ませながら2日間作業に取り組んだ。おかげでなんとか9割がた作業を終えることができた。最後の仕上げは、月曜日の朝に相方の作業内容を見て午前中で一気にまとめあげよう。またそんなささやきが頭の中をかすめ通った。

夜は妻に代わって僕がパスタを作った。これまでも月に2、3回はこういう感じでやってきているが、パスタは慣れるといろいろな材料を自己流にアレンジして(といっても加熱して炒めるというのがほとんどなのだが)作ることが出来る。

今日はブロッコリーとスナックエンドウ、スーパーで買ったドイツ語っぽい名前のソーセージ、それに卵焼きが入っている。ベースはオイルとニンニクと赤唐辛子である。うちのパスタはともかくすごい分量。今回も350g程度あったと思う。妻は毎回おいしいと言ってくれるが、実際に他人に食べてもらう機会がこのところほとんどない。

最近気がついたのだが、僕はどうやら冷え性のようだ。あるいは冷え性になったという方が正しいのかもしれない。この季節、気がつくと足先や手先が冷たい。血の巡りが悪くなっている証拠だというが、数年前椎間板ヘルニアで苦しんで以来、どこか感覚のおかしい左足は特に冷えを感じる。

もうすぐ父親になるのだからいまのうちから身体をもう少ししっかりさせておかないとなあと思う。なにせ僕はもう44歳だ。子供をだっこしたり一緒に走ったり、もしかしたら取っ組み合いをしなければならなくなるかもしれない。筋力はともかくスタミナをつけておかないといけないだろうか。そんな心配をよそに妻のお腹は順調に大きくなっている。

少し前に取り寄せたポール=ブレイの初期の演奏を収録したCDがお気に入りだ。"Complete Savoy Sessions 1962-63"と題されたこの作品は、従来"Footloose"のタイトルで知られるブレイ初期の代表作のセッションを収録した完全盤である。ブレイ自身の作品の他、当時の妻カーラやオーネットの曲の入っている。

人の演奏スタイルについて誰々の影響が云々とかいうのは、あまり意味がないと思うようになった。ECM時代になってから最近に至る彼の作風を代表する「音数が少ない」という印象とはかなり異なり、当時のジャズピアノのスタイルからそれほど大きく外れているわけでもない。ベースはスティーヴ=スワロウ、ドラムはピート=ラ ロッカが努めている。

もちろん彼の独自性は既にそこここに感じられ、それがパウエルやエヴァンスらのスタイルとうまく入り交じっている、そういうところがこの作品の魅力なのだと思う。意外にこれから長い付き合いになりそうな予感がするピアノトリオ作品である。何事も多少の怪しさがなければつまらない。