12/24/2007

クリス=ポッター「フォロー ザ レッド ライン」

 3連休のクリスマス。初日は空模様がイマひとつだったものの、あとの2日間はいい天気に恵まれた。日曜日には茅ヶ崎の街に出かけ久しぶりに湘南の海を眺めた。自転車にボードを乗せて浜までやって来るサーフィンを楽しむ人たちがうらやましく感じられた。やはり今度住み変えるなら僕は海のそばに移りたい。

iPod touchを買ってからこれで音楽映像を視るのが楽しくなってしまい、主にジャズ関係の安い輸入DVDを買ったりしている。今月だけで5枚買ってしまったのだが、「へえ〜そんなDVDがあるの」と感心して取り寄せてみたところ、何のことはない、日本などで放映されたテレビ映像を、そのままディスクに焼いた海賊盤だったりするものが多い。いけないこととは知りつつ、貴重な映像なので楽しんでしまう。

それとは別に、押入れに長らくしまってあったVHSテープを引っ張りだしてきて、少しずつDVDレコーダで焼き直す作業にも着手している。20本ほど残してあったテープにはジャンルを超えたいろいろな音楽が入っている。正規に売られたものもあれば、中古で買ったもの、テレビ放送を録画したものなど様々だが、いまとなってはどれも貴重なものばかりだ。この3連休でディスク5、6枚分の映像がデジタル化された。

最近になってデジタルで収録された映像は非常に鮮明だが、ビデオテープの映像もそれはそれでいい味を感じさせてくれる。我が家には大画面の薄型テレビはないが、それでもその差は歴然としたものを感じる。でも僕はアナログの映像作品でDVD化されているものを買おうとまでは思わない。やはり音楽が主役だからだと思う。それにiPod touchの小さな画面で楽しむのなら、その差は問題にならないと思っている。絵があるのとないのとではだいぶん印象は変わってくるが、それがデジタルかアナログかは良し悪しや好き嫌いには関係ない。

というわけで今月はちょっとした映像ラッシュになっている。CDは既に書いた通り12月になって枚数にして100枚ほどを処分した一方、新たに購入したのは3枚だけだった。今回紹介するのはそのうちの1枚である。そしてこれがおそらくは2007年最後の紹介作品になる。

クリス=ポッターはマイケル=ブレッカーとボブ=バーグ亡き後、現代のジャズサックスシーンで最も重要な演奏家の一人である。1971年生まれというからまだ36歳であるというのに、これまでの演奏経験は既に相当なものである。最近では、僕が尊敬する大好きなベーシスト、デイヴ=ホランドのグループで長らくフロントを努めている。その一方で、自身のグループでも活動をしアルバムも出しているのだが、僕は何故かいままで彼のリーダー作を買ったことがなかった。

この作品は2007年の2月に、ニューヨークのジャズクラブ「ヴィレッジヴァンガード」で収録されたライヴ盤である。最近、ホランドのグループに参加しているドラムのネイト=スミスは知っていたが、エレピとギターの2人、クレイグ=タボーンとアダム=ロジャースは初聴だった。なんとこのグループにはベースがいないのである。そしてこの4人が新しいジャズをたっぷりと楽しませてくれる。収録作品は1曲を除いてすべてクリスのオリジナルだ。

当然のことながら4人のテクニックは凄まじい。加えてやはり現代の演奏家らしく、ジャズ以外にもいろいろな音楽のエッセンスを随所に感じる。ライブ演奏独特の熱気も手伝って、音楽に引き込まれていく開いた口が塞がらないような見せ場(聴かせ場)がどのトラックにもしっかりとある。非常に聴き応えのある1枚だ。

同時期にもう1枚買った森山威男のコルトレーン作品ライヴ盤もよかったが、やはりトレーンミュージックの焼き直しの感から抜け出すのは容易ではない。それなりの作品であるがそれまでの作品でもあった。あと個人的にはどうしてもベースの演奏が頼りなさげで気になったのが惜しいと感じた点だった。

さて、このろぐもこれで丸4年が経過することになる。2007年はいろいろなことがあったが、既に書いた様に、僕にとってはいままで以上にいろいろなことが大きく前に進んだ年であった。父のことを始めとして、本当にいろいろな経験した年だった。まだ始まったばかりのこともあるし、いい教訓を残してくれたこともあった。父がいなくなった寂しさの一方で、個人的にはこの流れをとめないで続けて生きたいと思える1年でもあった。皆さんにはどんな年だっただろうか。

えぬろぐは2008年もこの調子で続けていくつもりである。気が向いたときに読みにきていただければうれしいと思う。どうぞ皆さん、よい年末年始をお迎えください。

The Official Site of Chris Potter 公式サイト

12/16/2007

温泉と紅葉の山道

先々週の金曜日に、会社を休んで湯河原の温泉旅館に1泊2日の旅行に出かけた。今年はいろいろなことがあった。妻と2人泊まりがけでこうした温泉旅行をするのも久しぶりのことだ。

行き先にはいくつかの候補があった。先日出かけた南房総も捨てがたかったが、今回はなじみのところでのんびりしようということで、結婚以来何度かお世話になている湯河原の「近藤」という小旅館に行くことに決めた。おじゃまするのはたぶん今回で4回目になると思う。部屋が全部で数室で比較的手頃な値段で泊まることができる。浴場もこぎれいで24時間お湯に入れるのもうれしい。

旅館のチェックインが午後3時だというので、湯河原の次の駅である熱海にお昼に着いて、そこから歩いて湯河原を目指そうという計画を立てた。川崎の家を出たのは午前10時だった。川崎から横浜までのしばらくの間は東海道線もまだ少し混んでいたが、大船を過ぎたあたりですっかりお客さんも少なくなった。平日の昼間の電車は気持ちいいものだ。

僕はiPodで久しぶりにアルバート=アイラーのラストライヴを聴いた。快調に吹きまくるアイラーの演奏と、電車の座席から眺める神奈川の車窓の景色が、平日に仕事を休んでくつろいでいるという気持ちよくマッチした。湘南の海はおだやかでとてもきれいだった。

熱海は新幹線の駅ということもあって、湯河原よりは駅前が大きい。夜は旅館でごちそうなので、軽くお昼を食べようと少し駅前をうろうろした結果、商店街のはずれにあったラーメン屋さんがよさそうだったので、そこに入った。みそラーメンが売りのお店で、僕はそこにのりとゆで卵を入れた「熱海ラーメン」を注文した。初老の白髪店主が作るラーメンはなかなかおいしかった。


腹ごしらえもすんで、さてここから少し歩いて湯河原を目指そうということになったのだが、ここで少し番狂わせがあった。というのも熱海の東側から湯河原に至る道のりが、想像以上に入り組んでいて観光地図が役に立たない(考えてみれば湯河原と熱海はまあライバルの様なものでもある)ことがわかったのと、坂がかなり厳しく、僕が踏破するのに少し体調の不安を感じたのである。

結局、少し道をいったところで今回は断念し、そのまま電車で一駅戻って湯河原に入ることにした。歩く気満々でいた妻は少々不満気であったが、まあ体調が悪くなってしまってはせっかくの温泉も楽しむどころではない。歩くのは翌日でもできるので、とりあえずその日はおとなしく午後3時ちょうどに宿に入らせてもらうことにした。結果的にはその方がよかったと思う。湯河原駅から旅館までは歩いて20分ほどなのだが、途中にある神社の紅葉がきれいに色づいていた。

旅館は少し古びた様に映ったものの、こじんまりとしたたたずまいはいつもと変わりないものだった。僕らがその日の最初のお客だったようで(当たり前か)、奥から出てきた主がいつもの様に丁重に迎えてくれた。温泉に一番近い部屋に通され、入れてもらったお茶を飲んで一服したのも束の間、僕らはすぐに温泉に向かった。お湯は少し熱かったが、足を伸ばしてゆっくりつかれるお湯は最高である。少し気配のあった体調の不安もあっという間に飛び去った。

食事までの間まだ2時間ほどあった。妻は読書をするというので、僕はiPodに入れてあったブランフォードのライヴ映像をじっくり楽しんだ。これを観るのも久しぶりだったが、この映像をこういう場所でこういう形で楽しむことになるとは、少し前までは想像もできないことだった。確かに画像は小さいのだが音楽映像は音楽がメインなので、意外にもこういうスタイルでもそれなりにしっかり楽しむことができる。浴衣姿で畳の上に足を伸ばして楽しむ「至上の愛」も格別だった。

今回はいつもの食事に刺身の皿盛りを追加で頼んであったので、お刺身づくしの豪勢な夕食となった。小さなお鍋までついてあって、最後にそれで雑炊を作って平らげた。完全な食べ過ぎである。夜9時前になって再び温泉へ。またしても誰もいないお風呂場でのんびりと腹ごなしをした。僕は温泉に行くとなぜか頭髪を洗わない。

その夜は近くのコンビニで買ってあった紙パック入りのワインを部屋で飲んだ。これが意外にも美味しかった。おつまみはなかったがさすがに夜ご飯を食べ過ぎたのでちょうどよかった。テレビではドリームズ・カム・トゥルーのドキュメンタリー番組をやっていて、しばらくそれに見入ってしまった。最近のろぐで日本の国民的人気音楽とは誰かという話を書いたことが思いだされた。もしかしたら一番近いのは彼等かもしれないなと思った。

翌日、朝風呂と朝食を堪能し旅館を後にした。旅館の部屋に置いてあった観光チラシで見た「もみじの郷ハイキングコース」というのを歩いてみることにした。ところがこれがまた実にいい加減な地図しか載せられておらず、さんざんあちこち道をいたり来たりした末に、よくわからないので下から上るのをあきらめて、バスで奥湯河原の入り口まで行って、コースを下ってくることにした。バス停に向かう途中でやはり同じチラシをもったおじさん3人組に道を聞かれた。僕らもわからないで困っているのだと、いままで行った道を説明したところ、この地図はなっていない観光協会に文句を言っておこうなどというわりには、楽しそうなおじさん達だった。


バスで10分ほど上って奥湯河原入口のバス停で降りてみると、ハイキングコースの入口はすぐにわかった。実際にはかなりな山道でそれはそれで歩き甲斐もあって楽しかったのだが、肝心の紅葉の方は大して本数があるわけでもなかった。山道は落ち葉がたくさん積もっていてなかなか趣があった。ところどころから見える遠くの山々がきれいに色づいていた。途中休憩もしながら2時間ほどの行程だっただろうか。

ハイキングコースを終えたところを歩いて下っていると、向こう側から3人の男性が登ってくる。よく見てみるとさっきのおじさん達だった。彼等はなんと彷徨ったあげくに自力でようやくこの登り口までたどり着いたようだった。「おや、あなた方は・・・」と驚いた様子で、僕らがバスで上ってコースを降りてきたのだと説明すると「いやあそれが正解だよ」とここまでの苦労をまくしたてて最後にまた観光協会がどうのこうのと言っていたが、それでも楽しそうだったのが印象的だった。

おじさん達と別れてほんの少し歩くと、それが僕らがさっきおじさん達に遭った場所に近いところだということがわかった。僕らがバスに乗ってハイキングコースを降りてくるのに2時間ほど経過しているわけだから、その間出来の悪い地図と格闘しながら付近をうろうろしたのに違いない。お気の毒である。

僕らは近くの「万葉公園」内にある、いろいろな足湯を集めた施設「独歩の湯」で少し足を休めた。まああまり風情のある場所ではないが、疲れた足を休めるにはいいお湯だった。そのまままたバスに乗って湯河原の駅まで降り、駅前にある小さなおそば屋さんでお昼を食べて電車に乗って家に帰った。地図に関する番狂わせが続いた旅だったが、それもまあ面白いものだった。温泉は楽しめたしご馳走にも満足した。またいつか来たいと思うが、今度湯河原を訪れるのは、しばらく先のことになるだろうなあと思ったのも正直なところである。

12/09/2007

カールハインツ=シュトックハウゼン「イン フレンドシップ」

 ドイツの作曲家カールハインツ=シュトックハウゼン氏が、2007年12月5日にキュルテンの自宅で亡くなったそうだ。79歳だった。死因は現時点では明らかにされていない。

シュトックハウゼンは僕の音楽生活のなかで最も大切な人物の一人だ。

僕がシュトックハウゼンのことを知ったのはいつだったか、いまははっきりとは思い出せない。少なくとも名前だけはかなり以前から知っていたが、初めて彼の音楽に触れたのはいまから10年以上前になる。ピアニストのマウレッツィオ=ポリーニの来日演奏会でのことだった。ポリーニはその年の来日で4回の東京公演を催したが、そのうち3回がベートーベンばかりのプログラム、そして1回がシュトックハウゼンばかりのプログラムだった。

その直前にポリーニの演奏するショパンをCDで聴いて、クラシックピアノの魅力にある程度目覚めていた僕は、当時まだ結婚していなかった妻を誘ってその演奏会に出かけることにした。もちろん僕が買ったのはシュトックハウゼンの演奏会だった。実際には当日までにプログラムが変更され、いくつかの演目がリスト後期のピアノ曲とシェーンベルグのピアノ曲に差し替えられ、近代のピアノ音楽が現代につながっていく軌跡をたどるという趣旨になっていた。たぶんチケットの売行きを気にした主催者の配慮だと思うのだが。

有名なシュトックハウゼンのピアノ曲第9番、10番、11番などが演奏された他に、やはり有名な彼の初期の電子音楽作品「少年の歌」と「コンタクテ」がテープで演奏された。これはいまから考えれば非常にポリーニらしい計らいだった。この演奏会を期に僕は彼の音楽のファンになり、少しずつ彼の作品を集め始めることにしたのだった。

彼の音楽に触れるのは実はあまり容易なことではない。1969年以降、作品の版権はすべて彼自身が設立した出版会社の管理に置かれ、すべての作品はそこから言わばインディーズ作品という位置づけでリリースされている。一部のタワーレコードなど大きなCDショップで入手できるのだが、値段が高い上に作品の内容に関する情報が極めて少なく、なかなか現代的な買い方をするには手の出しにくい代物である。作品に対する世の評価は、ゴミ、難解、天才、神とかなり様々なものに満ちあふれている。

いろいろと論はあるだろうが、現代における音楽というものについて、音、時間、空間の様な極めて哲学的な本質論から、シンセサイザーやショーパフォーマンス、音楽ビジネス、教育といった現代的なテーマに至るまで、シュトックハウゼンほど広く深く考え、なおかつ自ら実践した人間はおそらくいないだろう。20世紀の半ば以降、音楽を取り巻く環境は言わば断層的に変化してしまったわけだが、シュトックハウゼンの業績はその変化の橋渡しを多面的に行ったことだと僕は思う。

彼の死はもちろん残念ではあるが、幸いにも彼の業績はしっかりと記録に残されている。彼が音楽生活の後期に最も意欲的に取り組んだオペラ「光」も全編が完成されている。晩年の連作「音」は完成しなかったのは残念だが、どんな偉大な芸術家にも未完の大作は訪れるものだ。僕にとっては2005年の来日公演で、生のシュトックハウゼンの生の姿と、彼が生で操る音楽に触れることができたことが、僕の音楽人生のなかでの最も貴重な経験の一つだと思っている。

僕は彼の音楽については十数枚のCDを持っている。いずれの作品も敬意を表さないわけにはいかないものばかりだ。いずれまたこのろぐでも少しずつ紹介できればと思う。今回は彼の死を悼んで、彼がともに音楽と人生のパートナーとして過ごした女性管楽器奏者、スザンヌ=ステファンのために作った作品をまとめたものをあげておきたいと思う。

全集の23番に相当するこのCDには、"IN FRIENDSHIP"、"DREAM FORMULA"、"AMOUR"と題された管楽器独奏の3つの組曲が収録されている。これらの表題に作曲者が演奏者に込めた想いに考えをめぐらせるのは自由で自然なことだと思う。僕にはそれが「音楽を作る」ということへの人間の関わり方の究極形だと思う。音楽は人が人のことを想い奏でるものだ。彼の業績に感謝し冥福を祈りたい。


この週末にあった出来事—湯河原への温泉旅行—については、また来週あらためて書こうと思う。

12/02/2007

イヴェッチ=サンガロ「イヴェッチ ノ マラカナゥン」

 奇数月の月末は、仕事で定期発行しているレポートの発行日になっている。それなりに追い込みモードに入ったわけだが、新しい戦力も順調に仕事慣れしてくれて、これまでに比べてずいぶん楽になった。今回はネット動画と呼ばれるものとその周辺に関する状況をまとめ、これからそうしたものがどういう方向に向かっていくのかというもの。とにかくいろいろなファクトがあり過ぎて、状況をまとめるだけでもひと苦労であった。まあ限られた時間のなかでやる内容としては、満足のいくものに仕上がった。

ディスクユニオンのCD買取り査定アップキャンペーンがまだ続いているので、週末に今度はクラシック関係のCDを40枚ほど見繕って、売りに出した。この手はいつもお茶の水のクラシック館に出している。キャンペーン効果で買取り担当者は超多忙な様子だった。できれば査定に少し時間が欲しいという。まあこの周辺ならディスクユニオンやら楽器店やらがあるし、少し足を伸ばせば秋葉原にも行ける。なので4時間ほどその辺りをぶらぶらすることにした。

一頃寒くなったものの、この週末はまた少し暖かい気候だった。細身のブーツカットデニムにセーター、ジャケットでちょうどいい感じ。クラシック館を出て吉野家で牛丼を食べる。お店は混雑してサービスの要領の悪さが露呈する。ジャズ館を少し覗き、楽器店などを見て歩いた。いますぐに欲しいものはないので、あまりお店を見ても刺激を受けない。

そのまま秋葉原へ。歳末商戦ということもあってか街は賑やかだった。いまやこの街の象徴にもなったメイド姿の女の子が何人も街頭に立って、お店の宣伝をしていた。メインストリートに活動拠点を置いているアイドルグループのイベントに、何人もの人が行列をして並んでたりした。こういう様子を見るにつけ、僕はこうした文化がこの街に根付いてよかったなと思う。家電製品の街からパソコンの街へ、そしてそこから発生した新しい文化が街を活き活きとさせている。好きなことがあればそれにのめり込む。素晴らしいことだ。

夕方まで待って、査定の結果は2万5千円ほどだった。クラシック関係もまだかなりの値段で取引してもらえるようだ。春までにまた次のキャンペーンがあるだろうから、もう少しいまの持ち物を整理してみようと思っている。

妻が仕事で浜松に出張した。秋野不矩という女流画家の美術館が静岡の天竜にある。そこの取材に出かけたのだ。この人は、初め日本画家として活動していたが、人生の半ば(50歳頃)にインドを旅行したことから、その世界に目覚めてしまい、以後何度もインド周辺に足を運んで、素晴らしい作品をたくさん残した。彼女のインド旅行は80歳、90歳になっても続いた。最後に行ったのは92歳のアフリカ旅行だったと言うから凄まじい。来年が生誕百年ということからまたいろいろと話題になることと思う。

浜松のお土産だと言って、うなぎの白焼きを真空パックにしたものを買って帰ってくれた。僕は初めて食べたが、これが美味しかった。蒲焼きもおいしいが、やはりタレがくどく感じられることもある。その点白焼きは、お醤油でいただくのでさっぱり食べられ、うなぎの脂の美味しさが嫌みなく楽しめる。もちろん脂の少ない国産うなぎならではの味わいだと思う。

3週間ほど前に、以前から少し気になっていたブラジリアンポップスのDVDでよさそうなものを渋谷のタワーレコードで見つけていた。その場で買ってもよかったのだが、海外からならもう少し安く買えるのではないかと思い、結局ネット通販で取り寄せることになり、それがようやく届いた。今回の作品はそのDVDである。

イヴェッチ=サンガロはブラジルでは知らない人はいないという位の国民的大スターである。彼女が昨年末にリオのマラカナン・サッカー・スタジアム(日本で言えば国立競技場の様なところ)で行ったスペシャルコンサートの模様を収録したのがこのDVDだ。とにかくアリーナ含めてスタジアム一杯に集まった観客の熱狂が素晴らしい。

イヴェッチは今年35歳になるらしいが、歌声は力強く清々しい。さらに整った顔だちと見事な健康的肉体はDVDならではの魅力として堪能できる。イヤらしい意味で書いているのではないが、このDVDが僕の目にとまったのはジャケットにある、エナメルスーツで熱唱する彼女の姿があったから。イヤらしいですか、やっぱり。。。

彼女は日本でいうなら・・・と考えてみて、僕はいまの日本にはこういう人はいないのかもしれないなあと思った。こういう大規模なコンサートをできる人はいる、しかし国民的スターと言うと果たしてどうか。僕には日本の人気者達も素晴らしいと思うが、最近では何かその人なりグループの個性を出すこと(別の言い方では世界を作ること)を意識しすぎて、普遍的な魅力を醸し出すところに皆あまり関心がないように思うのだがどうだろう。

もう一つの魅力はやはり音楽だ。ステージはそれなりに大掛かりだが、音楽はしっかり人間の手で演奏されている。当たり前なのだが全員極めてレベルが高い。3管のホーンセクション、そしてラテンミュージックには欠かせないパーカッションセクション、コーラスやダンサー含めかなり大きなアンサンブルだが、いずれも素晴らしく息もぴったりの演奏を聴かせてくれる。それに合わせて展開されるイヴェッチの力強い歌声、改めて彼女は歌がうまいなあと思う。こういうライヴでここまでしっかり歌える人はなかなかいないのではないだろうか。

南半球は真夏のクリスマスだ。12月はいつもあまり好きな時期ではないのだが、今年は年半ばにいろいろなことがあったせいか、最近になって気持ちが落ち着いてきていつもと違った年末になりそうな気がする。今月もいろいろな人と呑みに行こうと思う。

11/25/2007

カサンドラ=ウィルソン「トラヴェリング マイルス」

 寒さが少しずつ増してくる。火曜日に新宿に勤める幼なじみと久しぶりに一杯やることになっていた。同じ会社に勤める同年の翻訳者もいっしょだった。このメンツだと新宿のどこかで熱燗でもやるのかなと期待していたのだが、今回用意してくれたお店は三丁目のタイ料理屋「バーン・キラオ」だった。まあ楽しく飲めるならどこでもいい。

地下鉄の駅まで迎えにきてくれた幼なじみとお店に向かう。入り口が下町の印刷屋さんの様な門構え(アルミサッシの引き戸である)で一瞬あっけにとられるが、店内の雰囲気からこの店はイケるなと感じさせてくれるものがあった。まあ地元の彼等ご推薦のお店に基本的にハズレはないのだが、この店の料理は本当にうまい。いままで食べてきたタイ料理店の中でもピカイチではないだろうか。

翻訳者の男は実はつい数日前に酔っぱらって転倒し、右の肩甲骨を骨折したところだった。事前に骨折のことは聞いていて、その日は来られるかどうかわからないとのことだったが、まさか骨折が数日前のこととは思っていなかったので、来てくれていることに感謝しつつも少し心配になった。先にどこかでやっていたという彼は、既に出来上がりの様子だったが、まあ酒癖の悪い男ではないのでその点は気にはならない。見た目はギブスも何もつけずに元気そうである。

僕の肋骨折から半年が経過しようとしていた。確か、医者からは骨がくっ付くのに酒はあまりいいとは言えないと言われ、確か1ヶ月くらいは酒を断った覚えがある(後半はかなりいい加減な禁酒だった)。まあ彼の場合は医者に何と言われたのかは知らないが、酒をやめるところまではいっていないところをみると、あまり気にしなくてもいいのかなと思い、僕もビールを飲み始めた。美味しいタイ料理に骨折のことはいつしか忘れ、いつもの宴にすべりこんでいった。

とりあえず話は骨折の顛末を前菜代わりに(と言っては失礼か)始まり、最近聴いている音楽(僕はiPod touchの映像を自慢げに見せびらかした)の話から、NHK朝の連続ドラマ「ちりとてちん」を皆が視ているというあたりでもうすっかりいつもの雰囲気になった。最近僕は毎日7時半には自宅を出ているので、ちゃんと視ているのは土曜日だけなのが残念だ。やはりNHKの朝ドラはいいなあと、それなりの年齢になった男3人が、少ないタイ料理をつまみながら次々とビールを空けていく様子に、隣のテーブルの客たちはややあっけにとられた様子なのが、目線の隅でかろうじてわかった。

今回は話のなかで、僕の幼なじみの男の家庭に最近になって起こったある出来事が披露された。詳しくは書かないが、ある年齢に達したお子さんのいる家庭では最近決して珍しくないことだ。まあどちらかというとあまり人には公にしたくはないことだと思う。彼も少しは酒の勢いを借りたのかもしれないが、やはり基本的には身内以外の誰かに話したかったのだと思う。僕らは少し神妙になりつつも、自然とその話題を論じることになった。親とか家族とか子供とか、いろいろな情の話題は宴に微妙な抑制をもたらし時間の流れが濃くなった。

途中から仕事の打ち合わせと称して、彼等の以前からの仕事仲間で僕も少し面識のある女性も合流し、打ち合わせを5分で済ませて、その先はいままで交わされたテーマ、骨折、音楽、ちりとてちん、幼なじみの家庭に起こったこと、等々をもう一度順番にリプライズして異なる視点から検討しようという、長い終楽章に突入したらしい。彼女用に料理が追加され、ビールやらタイウィスキー「メコン」の水割りなどが投入され、素晴らしい夜が更けていった。お店を出たのは夜の11時過ぎだったが、外はもうかなり冷え込んでいた。それでも4人で1万5千円だから、これはもう安いというしかない。

3連休前の木曜日は夕方から仕事で10人程度のお客様を相手に、僕が講演めいたお話をさせていただいて、そのままその人たちとの懇親会に参加した。まあ仕事は無難に済んだが、どうも食べたのか飲んだのかよくわからないままお開きになってしまったので、ちょうど仕事が終わったという妻と新丸子で待ち合わせ、最近開店した安い串焼き屋で一杯やって帰った。この時は久々に熱燗にありつけた。料理も安くておいしく、なかなかいいお店だったと思う。

週末、ディスクユニオンでCDの買取り強化キャンペーンをやるというので、今回は思い切って「箱もの」を中心にかなり処分した。「コンプリート何々」と銘打ったこの手のセットは、いまの僕の感想を言えば、蒐集心をくすぐり満足させるものではあっても、音楽を聴くうえでは結局あまり意味のないものだと言える。

これまでにも何度か書いた様に、未発表になった音源にはそれなりの理由があるのであり、アルバムにある順番で曲が並べられているのにも、その作品としてのある意図が込められているのである。前回のろぐで書いた様な想いもあって、僕の中でディスクを蒐集しようとする姿勢に変化が起こり、いままでその考えを捨てられないかすがいの様な役割を果たしていたそうしたセットを、いくつかのお気に入りを残してかなりの数処分してしまった。手元には4万円と少しの現金が入ってきた。

それと引き換えに1枚だけCDを買った。それが今回の作品である。カサンドラ=ウィルソンがマイルスの作品に取り組んだこのアルバムも、既に発売から10年が経過しようとしている。前回彼女の作品を取り上げて以来、あのアルバムを時折聴いている。ちょうど最近もそうだった。この作品はDVDも発売されており、本当はそれがお目当てだったのだが、お店にはなかったので中古品で並んでいたCDアルバムを買うことにした。

不思議なことに彼女の歌を聴くと、僕はなぜかベースに手がのびる。理由はよくわからない。どんな音楽にも大抵ベースは入っている。僕は当然それを耳にする。それは素直に耳に入ってくることもあるし、何の印象も残さないこともある。カサンドラがベースについて何か特別な思い入れがあるようにも思えなくもない。今回のアルバムでもやはりそれは起こった。彼女の音楽のスタイル上ベースは非常に重要な役割を担っている。

収録されている音楽はマイルスを広く聴いている人にはおなじみのものだろう。そこに彼女のオリジナルが数曲絡む構成。選ばれているのは、"Someday My Prince Will Come"の様な1950年代のものから、"Time After Time"や"TUTU"といった最晩年のものまで実に多彩であるが、この選曲がまた僕には非常に共感できるものばかりである。いずれも彼女の世界の音楽として見事に仕上げられている。これはもうカッコいいと言うほかはない。もっと早く聴いとけばよかったと思えなくもないが、やはりこの作品はいまの僕がこうして出会う運命になっていたのだと思うのが自然だ。

箱もののCDが退出して1列が空になったCDラックを見ながら、カサンドラの音楽を頭において久しぶりにベースを弾いてみた。音楽は人とのつながりを生み出すものでもあり、同時に極めて個人的なものでもある。

11/18/2007

配信と映像

iPod touchとMac Bookを使い始めてから、僕の音楽視聴のスタイルに少し変化が出てきた。簡単に言うなら「配信」と「映像」がその変化を表すキーワードになっている。

先ずは配信について。

僕はこれまで一生懸命CDを買い揃えてきたが、そろそろこうした購入スタイルを考え直す時期に来ていると感じ始めている。直接のきっかけは、米国のアマゾンで始まった音楽配信サービスのカタログを見たこと。このサービスは日本ではまだ受けることができないものの、その内容はかなり驚異的なものである。例えば、このところ熱心に取り上げているインドのタブラ奏者、ザキール=フセインのほとんどの作品がアルバム単位で揃っている。ジャズの大御所たちが1950年代から70年代にかけて録音した、代表的な名演についても同じ。レーベルごとのコンプリートセットまでしっかりと揃っているのだ。

もちろん大手のなかでも、ECMの様にまだ配信に関しては頑なにノーコメントを貫いているところも多い。僕のお気に入りで言えば、フリー系のレーベルもほとんどはまだ大手の配信サービスに楽曲を提供している訳ではない。障壁のなかで大きなものは著作権とコピーの問題、それと音質の問題だろうと思う。しかし、それももはや時間の問題ではなかろうかと思うようになってきた。

それらの問題にある程度の懸念は残りつつも、それよりも簡単に音楽を聴きたい人に届けることができる手段としてのインターネットの魅力は、あきらかに音楽会社にとっても懸念を上回るものを持っている。それは、LPからCDに移行する際にいろいろと意見が出されたのとよく似ていると思う。LPとCDのどちらが音がいいか、そこに明らかに大きな差異がある訳ではない。いまの音声圧縮の技術は相当なところまで来ている。加えて音楽を楽しむスタイルも多様化の一途をたどっている。ちょっとした音質の違いは、利便性の前にはさほど大きな問題ではなくなる。

音楽を購入するということの意味は、CDを買って手元に置くということから、データをダウンロードして手元に置くという時代を経て、さらに配信サービスにあるデータにアクセスする権利を所有する、という方向に変わりつつある。もちろん手元にCDなどを持っておきたい人はそうすればいい。僕は部屋の壁にずらりとCDを並べることには、さほど興味はない。

そして、もう一つの映像について。

iPod touchに映像を入れて持ち歩くことを覚えてから、どういう訳だか僕は映像を視ることの喜びがいまさらながら増えた様に感じている。以前までは、移動中に手元で映像を見るなんてとんでもないと思っていたのだが、音楽の映像に限って言うなら、そういう状況での説得力は(もちろん演奏や映像の表現内容が優れているという前提だが)相当なものだ。

特に僕の通勤の様に、30分かそこらの電車移動においては、映像表現を通じて音楽に接する方が、むしろ音楽そのものに集中してよりよく鑑賞できるようにさえ感じる。これが映画だと時間的な制約で難しいとは思うが、テレビのバラエティショーの様なものだったら、笑いが欲しいときなどは意外とイケるのではないかと思っている。いまはまだ始めたばかりなので、単にもの珍しさゆえに新鮮に映っているだけなのかもしれないが。

この週末には手元にある音楽関係の映像を、せっせとiPodに入れるのに時間を費やした。同時に、出かけた渋谷で、いままであまり積極的に購入してこなかった、ライヴ演奏の映像作品を少し購入してみようかなと、売り場を物色してみたりもした。結局、何も買わなかったのだが、中古を含めかなり面白そうな作品が世の中には出回っているのだなと思った。

そういえば、僕が上京した頃、まだ渋谷の東急ハンズ近く前の裏通りに店を構えていたジャズ喫茶「スウィング」のことを思い出す。ここの店主は相当に有名なジャズLPのコレクターであったのだが、ある時期からお店でそれらをかけるのをやめてしまい、レーザーディスクやビデオなどの映像ばかりを大きなテレビで上映するスタイルに変えてしまったのだ。理由の真相はわからない。20分前後で終わってしまうレコードを取り替えるのが、単に面倒になったのかもしれない。

変わったジャズ喫茶だと思ったが、僕はCDを買い漁った後に、よくそのお店に何度も足を運んだ。当時はそれくらいの映像設備を揃えるのは、かなりお金のかかることだったので、自分にはとても手の届かない贅沢だと思っていた。僕が上京して数年間はお店はあったが、1997年に突然閉店、店主は今年の春に92歳で亡くなったらしい。あそこで見せてもらったものはいまもはっきりと覚えている。

このように考えてみると、やはり表現芸術というものに対する時代的な要請というものが大きな影響を持つことがわかる。もちろん表現というものは、そういうことを意識してもしなくてもいい。どちらが優れた表現が可能かなどというのは、あまり意味のない話だろう。しかし、常に新しいものに意識を向けるというのは大切なことだ。深みや緻密さに欠けるとか退廃的だとか言うのは簡単だが、僕はそれはしたくはない。便利だと思えば、それは新しい素晴らしさなのである。

11/10/2007

ザキール=フセイン「リズミック インプレッションズ」

 めっきり寒くなった。薄手のコートを着て会社に行く日もあり、週の後半にはそこに薄手のセーターが加わった。真ん中水曜日にはちょっとしたプレゼンがあり、前半は少し慌ただしかったが、後半はちょっとのんびりさせてもらった。

金曜日にはしばらくご無沙汰していた飲み友達と、久々に恵比寿駅前にある居酒屋で一杯やった。そしてこの日、今シーズン最初の熱燗を飲んだ。お店の「お酒」、つまり銘柄を指定するのでなく「酒」と言えば出てくるもの、は大関だった。相手はそれを常温(いわゆる冷や)で飲み、僕は熱燗で飲んだ。好みから言うと少しぬるいお燗だったが、料理もなかなかおいしく、話も弾んで楽しいひと時となった。

熱燗にはお刺身に代表される淡白な和食のおつまみが合うとばかり思われがちだが、僕の趣味から言わせてもらうと意外に揚げ物がよく合う。それも天ぷらや魚の唐揚げなどだけでなく、カツやコロッケも結構いけるのである。昨夜も舞茸の天ぷら(たくさん出てきた)に加えて、宴たけなわになった最後のオーダーは、お店の大将ご推薦のロースカツだった。ジューシーかつサクサクなカツ(ややこしい)が、お燗酒にはよくあった。僕は徳利3本飲んだのだが、お店のメニューには2合と書いてあったものの、僕の感じだとあれは2合よりかなり少ないと思う。まあおいしく楽しいお酒だから細かいことは忘れてしまおう。

少し前のろぐでとりあげたタブラ・ビート・サイエンスに触発されて購入したザキール=フセイン関係のディスクが、かなり遅れてだったが今週相次いで到着した。おかげで僕の「タブラブーム」に火がついたようだ。今回は先ず、ザキール本来の姿であるインド音楽に基づく即興演奏をまとめた作品集から。

構成は至ってシンプルで、インドの伝統的な楽器サロドやコーラスなどがベース的に奏でるパターンの上で、ザキールのタブラが自由奔放に暴れ回るという演奏である。その意味で、インド音楽の基本的なエレメントを知る上でも、またタブラの様々な表情と魅力をじっくりと堪能するうえでも、非常にもってこいの作品といえるだろう。あらためてタブラという楽器の表現力の豊かさには驚かされる。これは飽きない。

ラヴィ=シャンカールの様なシタールの名手との派手な競演からすると、本作は一聴して少し地味な印象も受けるのだが、一度CDをスピーカを通して大きな音量で聴いてからは、もうその凄さに開眼(開耳?)してしまい、ヘッドフォンで聴きまくったのがこの一週間だった。いつものハマりパターンである。

タイミングよく、今日は長らく待ち望んだタブラビートサイエンスの2枚組DVDも到着してしまい、タブラ三昧の音楽生活にまた油を注ぐことになりそうだ。最終的にはタブラ購入に至ってしまうのではないかと恐れ始めている。

ザイールの演奏はYouTubeなどでも簡単に視聴することができるので、興味のある方はご覧いただきたい。以下はその一例である。ただし、現在のインターネット動画では、彼の指先の細やかなテクニックを堪能するには、絵的にやや品質不足なところも否めないのも事実である。

11/03/2007

豚まん

木曜から金曜で関西に出張した。今回の行き先は京都と大阪。いずれも大学関係者との仕事だった。木曜日の夜、京都の街でかなり気温が下がり、宴席の帰路で体が少々冷えてしまい、もとから溜まっていた疲れもあってか、軽く風邪を引いてしまったようだ。今日はほとんど一日寝てばかりだった。幸いいまのところは調子は落ち着いた。

大阪で何かお土産を妻に買おうと思い、「大阪のお土産といえば」と職場の同僚が言っていたのを思い出して、初めて蓬莱の「豚まん」を買った。いわゆる「肉まん」である。ちなみに僕は職場にお土産を買って帰ったことはほとんどない。豚まんは生ものなので、職場などに買って帰るには不向きなものだ。

関西では「551の蓬莱」で知られるこの名品だが、このところこの手の商品に対する世の見方は少々厳しい。赤福餅問題がその象徴かもしれないが、もっと広い意味では食品を「生産する」とはどういうことなのか、ということについて、世の中がよく考えていないのがいけないのだと思う。あれだけの量の食べ物を毎日数多くのお店に出荷するというのが、どうしてできているのかということを考えれば、我々買う側にもある程度の覚悟は必要な面もあると思うのだがどうだろうか。

551の由来については、蓬莱のウェブサイトを見ればすぐわかることだが、昔はテレビやラジオのCMでさかんに「ココ一番!」といっているのが流れていたので、関西人の間では常識かと思っていたのだが、意外に知られていないようだ。最近は情報が多すぎるからなのか、何でもイメージとして受け流されてしまい、深く(たいした深さでなくとも)考える習慣が薄れているようにも思う。

本当に久しぶりに食べた蓬莱の豚まんは、とてもおいしかった。1個百数十円だから、コンビニの肉まんとさして変わらない値段だが、やはりこちらには何かうまいエキスが感じられる。それが歴史や伝統なのか、科学や合理性なのかはわからない。それでもうまいものはうまいのだ。まだあと2個あるから、明日食べることになると思う。ちょうど寒くなりつつあるから豚まんにはいい時期だ。

先月の半ばにアメリカから取り寄せているCDの到着が遅れている。いずれも先に取り上げた、タブラ奏者ザキール=フセインに関する作品だが、早く聴きたくて指先ばかりが動いている。今週は久しぶりにビル=エヴァンスの「パリ コンサート」を聴いた。以前のログでも書いたが、この作品は間違いなくビルの代表作であり決定的名演である。悲しいことに最近また入手が難しくなりつつあるようだ。エヴァンスが好きで未聴の方は是非。

11月はまたいろいろと忙しくなりそうだが、体調に気をつけて乗り切って行きたい。そろそろ熱燗がうまくなる季節なので、いろいろな人と呑みに出かけたいと思ってもいる。

10/27/2007

スティーヴ=コールマン!(その後)

 台風が近づいていて、土曜日の今日外は大雨である。お出かけをあきらめて、久しぶりに朝は遅くまで寝た。家で洋服の整理をしたり、このろぐを書いたりして過ごしている。そうした作業中にも音楽は聴いている。iPod touchにはだいぶん慣れた。以前のnanoに比較して、音は少し良くなったように感じるのだがどうだろうか。

さて、実は結局この1週間というもの、会社の行き帰りには前回取り上げたコールマンの"Invisible Paths"をず〜っと聴き続けてしまった。家に帰っても、ビールを飲みながらまた聴いた日もあった。金曜日の朝などは、会社の最寄り駅を降りて歩く途中、その時聴いていた10曲目"Facing West"の演奏に合わせて、思わず歌ってしまった程だ。う〜ん、やはり予想通りハマッてしまいましたよ。これは素晴らしい!

前作の"Weaving Symbolics"もよかったが、いろいろな編成の音楽を含んだ2枚組だったので、時に耳にするのがしんどいこともあったのは事実だ。その点、今回の作品は全くのソロ演奏のみ。しかも演奏時間は最も長いものでも7分半、たいていは5分以下というシンプルなものばかりだ。

もちろん、ある程度彼の音楽に馴染んだ人の方が喜びは大きいとは思うが、初めての人でも一聴して何かが引っかかったら、とりあえず繰り返し聴いてみるといいだろう。お勧めとしては、3曲目"Possession of Images"、8曲目"Fecundation:070118"、10曲目"Facing West"あたりを差しあたっては聴いてみてはどうだろうか。

というわけで、今回の音楽は前回と同じ。来週もまた同じとなるのが怖いので、ネットで注文している新しい音楽が早く届いて、耳をいったんこの空間から連れ出してくれることを願うばかりだ。

10/21/2007

スティーヴ=コールマン「インヴィジブル パス:ファースト スキャッタリング」

 MacOSの新版"MacOS X 10.5"のリリースが10月26日と発表され、10月1日以降にMacを購入した人には、安価に新OSへのアップグレードが提供されることも発表された。この報を受け、我が家に新しいMacを迎え入れることを決めた。

当初"iMac"にするつもりだったのだが、以前使っていたiBook以来、会社から借りていたWindowsマシンでしのいできた食卓上で使うことを考え、結局"MacBook"を購入することにした。新しいMacを買うのは5年ぶりだった。これが長いのか短いのかは微妙なところだ。アマゾンで「お急ぎ便」を選択、十数万円の買い物に三百円の追加料金は安いものだ。金曜日の夕方に注文し、土曜日の夜には新しいMacが届いた。

いまさら改めて言うまでもないのだが、やはりMacはいい。使いやすいし、持つ喜びが深い。今回から無線LANを本格的に使うことにもなり、ワイドスクリーンの見やすさや新しいキーボードなども含め、使いやすさはいままで以上だ。そんなわけで今回が新しいMacでの初めてのろぐとなる。

仕事がまた少しずつ忙しくなってきていて、また少し緊張が抜けない独特の疲労感を残す週末である。それでも土曜日は渋谷に出かけてみた。前回とりあげたザキール=フセインのもう少しピュアな演奏を収録したCDを求めてみたのだが、結局渋谷では見つけることができずネットで取り寄せることにした。

日曜日には、仕事の知合いで以前から交流のある男が、横浜のみなとみらい地区にマンションを買ったというので、訪問することにした。行ってみると、クィーンズスクェアのすぐ隣にある30階建てのマンションの一室だった。奥様と2歳の娘さんとともに食事をとりながらくつろがせてもらった。

みなとみらいに住むというのは、ある種の憧れ的なことかもしれない。彼らはまだ住み始めて半年だそうだが、やはり一長一短ではあるようだ。何と言っても素晴らしいロケーションはそれとして、生活のためのインフラという面では毎日の食材を買うお店や、病院、学校などの点ではまだまだ課題はあるようだ。

みなとみらい地区の居住施設はこれからも増え続けるというわけではなく、結果的にそうしたインフラが今後どの程度まで整備されるのかについては、不透明な部分もある。過去の例として、神戸のポートアイランドや六甲アイランド、あるいは東京のお台場などのことを考えると、少々気がかりな感じもしないわけではない。

週末は気持ちのよい秋晴れになった。先日買った新しいブーツを履いて気分もよかった。渋谷も横浜もたくさんの人でにぎわっていた。街を行く人の格好もぐっと秋らしくなったように感じた。

僕のアイドルミュージシャンの一人、スティーヴ=コールマンが新しい作品をリリースした。今回は、何とCD1枚に収録された16曲すべてが、彼のアルトによるソロパフォーマンスになっている。こういう企画に僕はとにかく目(耳)がない。発売の事実を知るや、すぐさまネットで取り寄せた。アメリカの業者だったが品物が届くのは早かった。

スティーヴの音楽に特に大きな変化がある訳ではない。しかしソロというスタイルをとることで、僕の耳には彼の音楽の構造美が、よりはっきりと伝わってくるように感じられた。全編通して、目に見えないが確実に存在する「道」に沿うかたちで、滑らかに音の列が紡ぎだされていく。

この手の音楽はできればある程度大きな音でスピーカーと対峙するような姿勢で、さもなくば装着感のよいヘッドフォンでじっくりと味わいたいものである。僕はサックスのソロ演奏によるCDを数枚持っている。そのどれもが非常に素晴らしい音楽であるが、この作品はその中にまた新しい世界を押し拡げてくれる。

これまでのスティーヴの音楽を総括するうえでも、あるいは21世紀の新しいジャズを感じるうえでも、これはきわめて重要な作品であることは間違いない。まだ3回しか聴いていないが、この先聴き重ねていくことに、ある種恐れにも似た期待感がこみ上げてきている。やはりスティーヴ恐るべしである。

10/14/2007

タブラ・ビート・サイエンス「ライヴ イン サンフランシスコ」

 たぶん最初はベースの練習のつもりで、そういうことをし始めたのだと思う。弦を弾く右手の人差し指と中指で、机やら畳やら手が触れたものの表面をリズミカルに叩いていた。そのうちベースの演奏とは無関係に、より細かいリズムを求めてそこに中指が加わり、3連や6連あるいは5連といった細かいリズムを叩くようになった。そこに小指と親指が参加するようになるまでに、そう時間はかからなかったように思う。

いろいろな音楽を聴くようになってインドの音楽に触れたとき、シタールとともに打楽器であるタブラのことを知った。この楽器はとてつもなく多様な表現ができるのだが、その奏法は手で叩くというより、鍵盤楽器のように指先で弾く物に近い。その凄さを知ったのは、ラヴィ=シャンカールがモンタレーポップフェスティヴァルに出演したライヴ映像で、タブラ奏者のアラ=ラーカを視たときだった。

シャンカールの超絶技巧のシタールに勝るとも劣らない技で、メロディとリズムを同時に演奏するそのパフォーマンスに僕は度肝を抜かれた。指先の動きに目がついていけない。右手と左手の指で音を出すギター等と違って、指1本で音をたたき出し、しかもピアノのように重い鍵盤を叩くわけでもない。これは指の動きの細やかさをフルに引き出せる理想的な楽器である。

ザキール=フセインはアラ=ラーカの息子である。彼の死後その道を継いで現在はインドの人間国宝として、タブラ界の頂点に立つ重要人物である。彼は1970年以降、インド音楽だけでなく世界の様々な音楽との交流を進めている。ジャズの世界でおなじみなのはギタリストのジョン=マクラフリンとシャンカール等とのユニット「シャクティ」がある。

今回の作品は、ザキールがエレクトリックベーシストのビル=ラズウェル(この人のことをどう紹介したものか難しいので、ここでは名前だけにしておく)と組んだユニット"Tabla Beat Science"によるライヴ演奏である。このユニットはザキールをはじめとするインド系アーチストと、テクノ・エレクトロニカ系アーチストからなるハイレベルなコラボレーションである。週末に出かけた渋谷でタワーレコードに入り、試聴器にあったこの作品を耳にしてためらいもなく買ってしまった。

こういう異種交流企画は最近では何も珍しくない。しかし思いつくのは簡単でも、結果を出すのはまったく容易でないというのが、音楽に限らずどのような世界においてもこの手の企画の常であろう。もともと異なる文化を背負って長年営まれてきたものだから、それを簡単に混ぜ合わせて表面をつくろっても、結局は内容の薄っぺらなものになってしまうのは当たり前である。

このユニットについても試聴してみるまでは半信半疑だったのだが、その心配は無用であることはすぐにわかった。やはりそこはザキールやラズウェルといった人の凄いところだろう。僕は試聴器で彼等の代表作"Tala Matrix"を最初に聴いたのだが、DJ Diskのスクラッチとそれに絡むアジアンパーカッションの饗宴はまったくもって壮絶である。さっそくiPodにこれを入れると同時に、彼等の演奏を収めたDVD作品も注文した。

だいぶん気温が下がってきて、いろいろな意味でいい気候である。味覚と食欲が旺盛になる、いい音楽との出会いもある。それでも自分の内には、まだ何かを捜し求めている様なところがある。それが何なのかをわかっている自分がいる一方で、それが出てこないように抑える自分がいる様にも思える。それは何かを捜しているのではなくて、何かを避けようとしている自分であるようにも思える。秋は微妙だ。

10/08/2007

ジョン=コルトレーン「ライヴ トレーン:ヨーロピアン ツアーズ」

 9月の連続3連休に続いて、またまた3連休である。確実に涼しくはなっているが、まだいつもよりも気温が高いように思う。さすがに半袖で出かけることはなくなった。

iPodをiPod touchに買い替えた。iPhoneが発売になって、すぐにこういう商品が出るだろうだと予想はしていた。仕事柄綿密に情報の収集もしていたので、発表日だった9月5日の早朝にアップルのオンラインストアにアクセスして購入した。商品が届いたのは先週の初めだった。

先週はいろいろと準備やらトラブルでしばらくは振り回された。古いOSのMacをいつまでも使っていて、今度新しいOSが出たらMacごと買い替えようと思っていた矢先だったので、先ずはそこでつまづいた。ならば会社から借りているWindowsマシンを使ってと思ったのだが、これも古いマシンなのでソフトは最新でも動作がびっくりするほど鈍い。

結局、なんとか満足に使えるようになったのはこの3連休になってからだった。通勤にデビューするのは今週からにしようと思う。それにしてもあのタッチスクリーンのインターフェースは、事前にいろいろな写真や映像を見ていたものの、やはり実際に手にしてみると大きな衝撃である。やはりアップルはすごい会社だ。

iPod touchは無線LANが使えるので、これを機に自宅に無線LANを導入したのだが、これが思いのほか便利である。決して先端を行っているわけではない僕だが、いろいろなものが便利になっていくことをこうしていまさらながらに実感した週末だった。

土曜日には新宿に買い物に出かけた。まだ少し季節は早いのかもしれないがブーツを買った。前回と同じお店で同じようなデザインのもので今回は茶色にした。去年買った黒のブーツともども今年は積極的に使ってみようと思う。会社に履いていけないのがつくづく残念である。

日曜日はステーキのチェーンレストラン「フォルクス」に行きたくなり、東急線の上野毛まで行って久しぶりにあの雰囲気を楽しんだ。少し前にテレビで人気の大食いの女性タレントが、美味しそうに大きなステーキを何枚も食べるのを見て以来、気になっていたのだ。別にお店は何でもよかったのだが、「ステーキ=フォルクス」という単純貧素な発想でこうなったしまった。

最近あまり見かけないなあと思っていたら、少し経営にリストラがあってフォルクスそのものはいまは独立した企業になっていないのだそうだ。おそらく数年前のアメリカ牛肉騒動の煽りを受けたのだろうと思う。

上野毛のフォルクスは静かな住宅街の中の幹線道沿いにある。休日の午後1時過ぎだったが、お店の中は程よい人の入りだった。ランチタイムでメニューが少し限定的な感じになっていて、お目当ての大きなステーキは残念ながら食べられず、150gのサーロインステーキで我慢した。それでも恒例のサラダバー(これがなかなかしっかりしている)もあって、1600円と昼飯にしてはちょっと贅沢だったが、おなか一杯になって満足した。おなじみの牛の形をした鉄板皿も愛嬌があっていい。

満腹感を少し落ち着かせようと、僕等はそこから自由が丘まで歩くことにした。気候はちょうどよかった。自由が丘では「女神まつり」の最中で、何のどういうお祭りかは理解できなかったが、いつもの倍以上の人手で賑わっていた。予想外の出来事だったので、どこかでのんびりお茶を飲もうとはなしていたのだが、それもあきらめて田園調布駅の方に移動し、駅にあるカフェでコーヒーとケーキを食べた。この連休はちょっと食べすぎたようだ。

愛用してきたiPod nanoの最後のお勤めとなった先週は、コルトレーンの1961~1964年のヨーロッパツアーの音源を集大成したセットを楽しんだ。音はさほど良くないがライブならではの緊張感と解放感が混在する奔放な演奏は最高である。やはりコルトレーンはいい、素晴らしい。いつか聴かなくなるのかなあなどと考えた頃もあったが、やはり当面はやめられそうにない。

新しいiPodにはいままでの倍の音楽が入るので、これを含めたくさんのコルトレーンをとりあえず放り込んだ。他にも先に取り上げたクリフォード、定番のマイルス、キース、ビルをはじめジャズやら現代音楽やらポップスなど手当たり次第に放り込んだ。アルバムのアートワークをめくって選べるインターフェースは本当に楽しい。

新しいiPodに最近お気に入りで聴いている音楽を半分、残り半分はこれからの音楽のために空けてある。それもすぐに一杯になるのだろう。

9/30/2007

アンドレイ=キリチェンコ「モルト オゥ ヴァッシェ」

 9月最後の日。東京は週末から急に気温が下がり、今日の日中は20度を下回るとのこと。早朝ベッドで寒くて目を覚まし、冬用の布団をかぶってまた眠った。朝から雨降りの空模様である。たまには雨が降るのも仕方ない。それは必要なことなのだから。

9月の最終週は仕事でレポート作りに明け暮れた。7月から一緒に仕事をするようになった若手の力もあって、なんとか約束の期限内に形にまとめることができた(それにしてもぎりぎりだったが)。僕はそのあたりの納期感覚というものがちょっとルーズだから、それをきっちりやり遂げるという意味でも、やはり物事は独りでやるより2人の方がいいと実感した。2人より3人の方がいいかどうかについては、また難しい問題が関わってくるように思う。僕の感覚ではそれはかなり次元の異なることだと思う。

今回のレポートでは最近のアップル社について少し分析してみたのだが、ある素晴らしい技術とかアイデアというものがあった時、それを活かすか殺すかは企業なり個人なりの才能次第だということを実感させられた。そしてもう一つは10年という時代観に対する姿勢ということ。技とか趣味とか何かのテーマについて、10年後の自分はあるいは自分たちはこうなっているということを見通し、それに向かって粛々と行動するというのは本当に難しいことだ。彼らはそれをやり遂げたし、その成果をいま享受している。

今日は、先々週に渋谷のタワーレコードで買った3枚のCDから1枚をご紹介しておく。

アンドレイ=キリチェンコという人は、ウクライナを拠点に活動するアーチストだそうだ。1976年生まれというから今年31歳。はじめは作詞や歌で活動しロックグループでギタリストとしてもやっていたそうだが、90年代の半ばから新しいテクノ音楽の流れとなった「エレクトロニカ」のアーチストとして活躍しているのだそうだ。僕はお店の試聴機でこの作品に出会うまで、彼の存在については一切知らなかったが、ウェブなどで調べてみるとその世界ではかなり知られている人物らしく、参加作品もかなりの数にのぼるようだ。

今回の作品は、最近アムステルダムで行われた彼の42分間のソロパフォーマンスを収録したもの。コンピュータから放出される存在感のある電子音と、彼が奏でるアコースティックギター、その音を拾ってエフェクタを通してループする音などが幾重にもかさなる音世界は、非常に完成されたオリジナリティと芸術性に溢れている。

僕が見た情報に間違いがなければこのパフォーマンスはライヴであり、ここに収録されている演奏がその一部始終なのだそうだ。もちろんコンピュータを使っているので、作品の構造をあらかじめ用意することは可能だし、事実そうなのだと思うのだが、それにしてもこのパフォーマンスの衝撃は相当なものである。お店で最初の2分を聴いて何かただならぬ雰囲気を感じ、家に買って帰って42分間を通して体験した僕は、一発でこの世界の虜になってしまった。

分厚いビニール(ユニットバスのカーテンみたいなもの)に必要な情報が印刷され、それを3つに折りたたんでCDを包んで、真ん中をピンで留めるという奇抜なジャケットも面白い。ジャケットの記載によるとこのCDの生産数は500枚とのことだが、実際のところはどうなのかなと考えてみて、やはりそれは本当なのかなと思った。

インターネット時代のいまとなっては、ネットワークによる自由な流通を本人さえ望むのであれば、ディスク媒体はせいぜい500枚もあればあとはネットワークやらディスクのコピーを通じていくらでも音楽は拡散してゆくと考えられる。参考までに、アルバムのジャケットやディスクの盤面には著作権に関する記載は一切ない(もちろんそれは著作権を放棄しているという意味ではない)。

僕はこれをタワー渋谷店の4階で購入した。まだ置いているかどうかはわからないが、この音世界はなかなか言葉で伝えられるものではないし、そうすべきでもないものだと思う。興味のある方は是非とも一聴することを強くお勧めする。毎回そういうふうにしているのだが、上記ジャケット写真をクリックするとこのCDの発売元である"Staalplaat Records"のサイトにジャンプして購入することができる。キリチェンコという人の作品については、これから少しフォローしてみたいと思っている。

Andrey Kirichenko 公式サイト

9/24/2007

東京湾ダイヤモンド

涼しくなった。日本では今月2度目の3連休。初日の土曜日に久しぶりに妻と2人日帰りでちょっと遠出をした。いままで行ったところがないところということで僕らが向かったのは、房総半島の東京湾側いわゆる「内房」だった。

午前中に家を出発、電車で川崎駅に行って駅前のバスターミナルから東京湾横断道路を通って木更津に行く高速バスに乗り込んだ。所要時間は1時間。意外にも海底トンネルに入ってから、海ほたるを経て終点に着くまでには、それほど時間はかからなかった。この季節にしては暑い日だったが、日差しは真夏のそれよりはやわらかだった。

初めて訪れた木更津の街。少し前に映画で話題になったりしたので、若者の街というイメージを勝手に抱いていたせいか、実際に歩いてみて受けた印象は少しギャップを感じ、かつて栄えた海辺の町という感じだった。駅前の人通りは少なくのんびりした雰囲気がいやでもまとわりついてくる。駅から海側に向かって進んでみるとさびれたホテルが目立った。

港の先にある中の島大橋は気持ちのいいロケーションだったが、その先にある中の島公園は一面靴が隠れてしまうくらいの深い草に覆われ、都会の整備された公園の雰囲気とはまた違った懐かしいにおいがした。係留場につながれた数十隻のヨットが静かな波にだるそうに揺られ、マストに帆を張るロープの金具がぶつかって、乾いた金属音がランダムに響くのを聴くのが気持ちよかった。

木更津駅に戻ってそこから内房線に乗ってさらに南へ、浜金谷駅に向かう。途中車窓からの景色は海沿いのそれになり、一層田舎度合いを深めた。こういう景観をみるとなぜか心が晴れる。海は自然である。

浜金谷を目指したのはそこから横須賀市の久里浜に向かうフェリーに乗るのが目的だった。それだけだとつまらないので、近くにある景勝地「鋸山」にロープウェーで登った。高度300メートルちょっとを所要時間3分と少しで行き来する路線が、往復で900円もする。山上の駅に着くといきなり電気仕掛けの子供向け遊戯具が迎えてくれる。観光業もあの手この手と大変である。

鋸山はかつて建築用の石材を切り出す採石場であり、その跡が山肌を鋸のような形にしていることからその名前がついたらしい。山の上にはそうした石切り場を巡る山道が観光用に整備されている。

巨大な岩壁に大仏が彫られており、それを奉ったお寺(なぜか日本寺という)があるのだが、その大仏をはじめとする一連の採石場跡を見物するためには、寺の境内だということで拝観料600円を払わねばならない。時間がなかったというのもあるが、僕としてはそんな拝観料なら遠慮するよという思いで中に入るのは辞退した。山上のロープウェー駅の上にある展望台からの眺める景色も十分素晴らしかった。

ロープウェーで下に降りそのままフェリー乗り場へ。少し土産物を見たりしながら、時間にあったフェリーに乗り込んだ。人間だけなら大人600円というのは割と安い気がした。少なくともさっきの拝観料よりはずっといい。40分と少しの航海だったがちょうど日没の時刻に重なり、東京湾に沈む夕日と湾内を行き来するいろいろな船を見ながらのクルーズを甲板で楽しんだ。

フェリーは比較的混雑していた。途中、湾内で何隻もの船を見かけた。大きなコンテナ船やタンカーもあり、陸上の休日とは無関係に活動する東京湾の一面がうかがえた。大きな船の姿は僕に夢とか勇気に似たような感情を運んできてくれるように感じる。海と船はロマンに満ちている。空や宇宙もいいけど、僕にはやはり海が一番そういうものを感じられる。

金谷港で停泊しているときに船の周りを飛んでいたウミネコが、航海中もずっと船と一緒についてきてくれた。久里浜の港に入るとみんな水面に降りて一休みしている様子は、とても愛らしかった。彼らがそこで一夜を明かすのか、また一休みして金谷に戻るのか、それともまったく別のどこかに行くのかはわからなかった。

久里浜港に降りるともうすっかり暗くなっていた。普通だったらバスか何かで駅に向かうところだろうが、多少は土地勘があったので僕等は歩いて久里浜駅まで行った。そのままどこかで食事をして帰ろうかということになったのだが、結局のところ電車と徒歩で平間まで戻ってきて、近所の焼肉屋で遅い夕食をとった。山と海の空気をたくさん吸って歩いた後のビールと焼肉は格別だった。

あとで地図を見てわかったのだが、この日僕等はちょうどダイヤモンド型に東京湾を巡ったことになる。こうした遠出をしたのは久しぶりだった。内房は東京からはかなり遠く通勤をするにはちょっと無理があるところだが、三浦や湘南の海岸とはまた異なる趣はやはり僕にはしっくり来るものだった。どうせ住むのならやはり海辺でのんびりと暮らしたいものだという気持ちは十分に感じられた。海はいいものだ。

9/16/2007

クリフォード=ブラウン「コンプリート エマーシー レコーディングズ」

 43歳になった。

最近はあまり誕生日といわれても特にピンと来るものはなかった。歳をとったなあということはわかるのだが、(くだらない内容にせよ)人生が充実していると実感できているので、まだ年齢の壁のようなものを感じて落ち込むということはない。40歳になったときも、40歳代かあという何か大台に乗ったような思いはすぐに忘れてしまっていた。

ところが今年の誕生日の実感は、最近のものとは少し違っていた。それは歳をとったという重みを感じたのではなかった。やはり父がいなくなったことが、何か年をとることをいままでと違ったように感じさせているようだった。それは寂しさのような要素ももちろんあるが、それとは別に何か新しい期待のようなものを感じさせる様でもある。ただそれだけのことだ。

妻が中目黒のイタリアンレストランを予約してお祝いをしてくれた。2人とも初めて行くお店だったが、とても満足できる内容だった。今回はお店のアラカルトメニューを組み合わせたコースにしたのだが、とかくイタリアンのコース料理というのは、どこかうそ臭い感じがするものと思っていたのだが、今回は単においしいというだけでなく、時間の過ぎ方とかお店の雰囲気とか、いろいろな意味での「ひと時」がとても心地よく感じられたのがよかった。

食事の前に僕は髪を切り、独りで渋谷で時間を過ごした。タワーレコードに長い時間居座り、新しい音楽に耳を傾け、結果的に3枚のCDを買った。これらの作品についてはまたいずれ取り上げてみたいと思っている。自分にとっての新しい何かを象徴するような3枚の様に感じている。

誕生日のお祝いというわけではないのだが、月初にアップルから発表された新しいiPodを待ってましたとばかりに購入した。発表当日の朝5時に起きて、同社のウェブ直販サイトで買った。もちろんお目当てはiPhoneで話題の新しいインターフェースを備えた"iPod Touch"である。いま使っているiPod Nanoは大のお気に入りだが、そろそろ新しいものが欲しいなとも思っていた。

品物が届くのは月末になる。これからはいままでの倍の容量の音楽が持ち運べるようになる。写真や映像が見られたり、無線LANでウェブを楽しめるのも魅力的だ。いまから待ち遠しい気持ちをもとに、手持ちのCDをデジタル化する作業を進めることにする。まず着手したのは、いくつか持っているジャズのボックスセットをデジタル化することだった。今回の作品はその一つである。

ジャズトランペット奏者クリフォードブラウンの、短い人生における絶頂期を収録した10枚組みのセットである本作は、間違いなくジャズの歴史の中での最重要音源の一つに数えられる名作である。1954年から56年にかけてのバラエティに富んだセッションは、この時代のジャズの様子を凝縮した音の巻物だ。

盟友で先月83歳で亡くなったマックス=ローチをはじめ、直後にブラウンとともに自動車事故で命を落とすことになるリッチー=パウエル、さらにハロルド=ランドやソニー=ロリンズといった多彩な演奏家とのアルバムセッションやジャムに加え、ダイナ=ワシントン、サラ=ボーン、ヘレン=メリルという素晴らしい女性ヴォーカルとのセッション、さらには僕が愛聴するストリングスを交えたセッションなど、内容の素晴らしさはいくつかあるこの時代のコンプリートボックスのなかでも一、二を争うものである。

しかし、こういう完全版と称するセットにもいくつか問題はある。一言でいってしまえば、いくらCDとはいってもやはり複数のディスクに分かれてしまっているものを、気軽に楽しむにはもはや少し面倒を感じる時代になってしまった。

加えて、この全集の編集に音源の倉庫で骨を折られた児山紀芳氏には大変申し訳ないのだが、やはり別テイクといわれるものをいくつも重ねて収録してあるのはどうも使い勝手が悪い。未発表になったのにはそれなりの理由があるのだから、それらは参考資料として別にするなどの工夫が欲しかった。

そこで今回は10枚のCDからマスターテイクだけを取り出してデジタル化することにした。それでも全部で78曲、時間にして6時間程度になるだろうか。これらをごっそり手持ちのiPodにいれ、通勤時にそれを頭から順番に繰り返し聴いてみたのが先週である。

まあわかってはいるのだけど、なんとも贅沢なフルコースである。これらの演奏がすべてもう50年以上前に収録されたものというから、あらためてクリフォード=ブラウンという人の才能(演奏家としてだけでなくグループやシーンをまとめ上げるリーダーとしても)には驚かされる。ここに収録された演奏をしたとき、彼は若干24~26歳だったのだ。

すべての楽曲に貫かれる彼のトランペットの普遍性と、参加する演奏者の違いがセッションごとにはっきりと際立つジャズの魅力。こうしてマスターテイクだけを並べて聴いてみると、本当に1曲の無駄もない素晴らしさには、もはや圧倒とか脱帽とかそういう言葉も意味を成さないと思える。

久しぶりに超上質の1950年代のモダンジャズに浸った。それは誕生日を迎える直前の行いとしては、何かとてもいいタイミングだったように思える。もちろんこれからもこの音楽を何度も聴くことになるだろうことは確実だが、父のことや母のことも含めた、自分にとっての何か大きなものを、ここで一度総括したかのような気持ちがそこに重なった様に思えた。

ところで、これからクリフォードの演奏を聴いてみようと思われる方は、こうした高価なセットを購入する必要はないと思う。マスターテイクを収録した10枚の代表アルバムは、いまや定番中の定番としてとても安価に手に入れることができるし、おそらくは50年を経過したこれらの演奏については、何らかの形で非常に安価のボックスセットが出現するはずだ(すでにあるのかもしれない)。ともかく誰でも一度は聴いておく価値のある音楽である。この輝きは当面褪せることはないだろう。

僕はまた新しい時代とその音楽を求めて進んでいく。

9/09/2007

ピーター=コウォルド「オフ ザ ロード」

 夏休み前にアランの店で買った、ピーター=コウォルドのドキュメンタリー「オフ ザ ロード」について。

この作品は2枚のDVDと1枚のCDをセットにしたもの。いずれのディスクにも、ピーターが亡くなる2年前の2000年に行った全米ツアーの模様が収録されている。ツアーに同行した映像作家ローレンス=プティジュヴが記録した。

1枚目のDVDがツアー全行程を72分間にまとめたドキュメンタリー映像「オフ ザ ロード」で、同名のCDにはその中から8つのパフォーマンスがフルヴァージョンで収録されている。もう1枚のDVDは「シカゴ インプロヴィゼイション」と題された映像で、同ツアー中にシカゴで行われたライヴとスタジオセッションの模様を中心に構成された83分間の作品である。

ピーターについてはこれまでに2度このろぐで取り上げている。僕のお気に入りのベーシストであるが、彼の音楽スタイルはいわゆるフリーインプロヴィゼーションなので、演奏に対する印象にはやはり偏見が付きまとうことだろうと思う。

一つだけ書いておきたいのは、フリーといえどもそれぞれの演奏には明確な音楽的モチーフ(テーマ)、それもかなり簡潔なそれが存在する場合がほとんどだ。演奏はそれを土台に、演奏者の想像力と技量を自由に注ぎ込んで発展させてゆく。そのことを知っていれば、さほど聴くことに難しさはないのではないかと思う。その意味では映像のある演奏を聴く(視る)方が敷居は低いかもしれない。

もちろん優れた演奏やそうでない演奏は玉石混交であるが、それはどのようなジャンルの音楽についても共通のことだ。フリーミュージックのことを、取りとめのないものとか、難解なもの、あるいは滅茶苦茶なものというのは、外見で人を差別するようなものだと僕は思っている。ある意味において、こんな緻密で、人間臭い音楽は他にない。月並みだが、僕がこうした音楽を愛する一番の理由はそこにある。

全米ツアーといっても、もちろんショービジネスとして行われる総勢百何十人で機材何トンとかいうものとはまったく異なる。映像はドイツからニューヨークのJFK空港にベース1本と手荷物で降り立ったピーターとローレンスが、タクシーでマンハッタンに入るところから始まる。ブルックリンブリッジ(たぶん)を渡る車窓からの映像に、はっきりとワールドトレードセンターが映し出される。時は西暦2000年である。

そのままダウンタウンに入ったところでタクシーを降り、翌朝ピーターがまず行うのは中古自動車の情報が載った雑誌に目を通すこと。向かった先は壁に"Cheap Cars"と書かれた中古自動車屋である。そこでベースを積むことができるバンを品定めし、怪しげな(といっては失礼か)店主の前にお金を並べ、それを店主が数えて商談成立のシェイクハンドとなる。ピーターの全米ツアーはここから始まる。

大体の雰囲気はご想像がつくと思うが、これはいわゆるロードムービーである。ニューヨークからシカゴ、アトランタ、オースティン、サンフランシスコなど全米の主要都市を車1台で周るのだ。ローレンスの映像もほとんど家族旅行の記録に近いタッチになっているのだが、随所にさすが映像作家と思わせるカットが散りばめられている。

各地で繰り広げられる奇想天外な音楽セッションの合間に、コンビニで買い物をしたり、道端のカフェで食事をしたり、自動車の修理屋に立ち寄ったり、友人宅で談笑したりする様々なピーターの日常が挟み込まれる。一方で、道すがら出会った人々にもしっかりとカメラとマイクが向けられ、映像を見るものにも旅全体の雰囲気が味わえるように工夫されている。そこに映されたピーターと彼の周囲を取り巻く世界は、やはり素晴らしい人間性に溢れている。

僕が初めてアメリカに行ったのは1994年頃だったと思う。以来もう十何年も行ったことがない。こういう自動車を使った旅というのもいいかもしれない。でもいまの僕にはこれだけの運転する自信は到底ない。ならば列車の旅でもいいのかな。地に足の着いた風を感じられるアメリカ旅行がしてみたい、ふとそんな気分になった。

9/02/2007

パウル=パンハウゼン「パルティータ フォー ロング ストリングス」

 土曜日の早朝、自宅から200メートルほど離れた木造アパートが火事で全焼してしまった。午前4時半ごろだったそうだ。そうだ、というのは僕も妻もその騒ぎには気がつかなたったから。

その日僕等は武蔵小杉駅まで歩き、そこから久しぶりに2人で渋谷に出かけた。妻にとってはお初となる「壱源」のラーメンを食べ(やはり旨い)、気の向くままに街をぶらぶらして買い物をした。途中、立ち寄ったアップルストアで、新しいiMacを品定め中にアクセスしたヤフーのニュースで火事のことを知った。「住所を見ると近くだね」などと話していたのだが、帰りに平間駅から自宅に戻る途中で、それがいつも前を通っているアパートだと知った。

電話線工事の作業車が出て、焼けたケーブルの補修にあたっていた。アパートは6世帯からなる2階建てのかなり古い木造建築で、ほぼ全焼という有様だった。ニュースによると2人の居住者が亡くなられたらしい。今日通りかかると、1回のある部屋のドアに花が供えられていた。

火の勢いが余程強かったらしく、アパートに隣接する3階建ての住居も、その側が半焼していた。あの家にはもう住めないだろう。さらに路地を挟んで向かい側に最近できた新しいアパートの窓ガラスが、熱で割れていたほどだ。そして一番気になるのが、この現場が大きな道路を隔てて消防署の真向かいに位置するということ。距離にして50メートルもないところなのだ。なのにこれほどの状況というのは、やはり出火時間から考えて発見と通報がかなり遅れてしまった結果だと思う。

いままでも火事の現場を何度か見たことがあるが、その恐ろしさとともに、後に残された残骸から受けるなんとも言いようのない虚無感が、一時意識を強く支配する。亡くなられた方含め、被害に遭われた方には本当にお気の毒に思う。


さて、土曜日に本当に久しぶりにベースに触れてみた。父が入院してからなくなるまでの間、ほとんどまともに触れたことがなかったから、もう数ヶ月ぶりということになる。時折、聴いている音楽にあわせて指を動かすことはあった。実際に弦を指ではじいてみると、意外にもすんなりとあの感触を取り戻せたような気がした。何を弾くわけでもなく、指の赴くままのフレーズを奏でながら、あっという間に1時間が過ぎていた。

僕は音楽が好きだ。なるべくいろいろな音楽に、その演奏者や作者の意識と表現に耳を傾けてきた。僕がそれを聴いてみたいと思う動機にはいくつか側面があるが、楽器という面から考えると一つの嗜好としてあるのは、弦楽器が好きだということだろう。ギター、ベース、ヴァイオリン、チェロに始まり、シタールや三味線、琵琶などいろいろな弦楽器に、どことなく魅力を感じ接してきた。弦が伝えてくる振動に何らかの安らぎとか興奮を感じるのだろう。すなわち「弦フェチ」だ。

ベースを久しぶりに触ってみたいと思ったのは、先にアランの店で買ったピーター=コウォルドのDVD作品を視たからだった。この作品についてもいずれは触れることになると思うが、その作品を体験し、久しぶりにベースを触ってみることで、自分の耳がこのところ触れることのなかったある種の弦の響きに向かっていることを感じた。それはある意味でアヴァンギャルドな響きだった。手当たり次第にそういう音楽のCDを取り出しては、その中に響きを自分の耳に入れた。

そうして何枚かのCDを聴くうちに、僕は久しぶりに今回取り上げた作品を手に取ることになった。これは作者の目的からすれば、厳密には音楽作品とは一線を画すものかもしれないが、音を収録した作品なのだから僕にとっては立派な音楽だと思っている。それはかなりの極地に位置する音楽だ。

作者のパウル=パンハウゼン氏は音楽家ではない。空間に何かをインスタレーションすることで表現を行うアーチストなのだそうだ。その彼が1982年から始めた作品に「ロング・ストリング」と呼ばれるシリーズがある。ある決まった空間に長い弦を張って視覚的な表現を構築するとともに、それを弓や指で演奏するというものである。今回の作品もその一環として行われた演奏を収録してある。

収められているのは3曲。以下にタイトルをそのまま書いておく。
1. Partita for 16 long strings of equal length
2. Partita for 16 long strings equally diminishing in length
3. Partita for 16 long strings propotionlly tuned

おわかりのように、いずれも16本の「長い弦」を使って演奏されるものなのだが、少しずつ条件が異なっている。1曲目が同じ長さの弦を同じ音程に調弦したもの、2曲目はある一定の間隔で長さを減じていった16本の弦を調弦したもの、3曲目はある一定の比率で長さを減じていった16本の弦を調弦したものを用いたものとなっている。

演奏の内容を簡単に書くと、1曲目は(当然のことながら)同じ音程とその倍音を交えた弦の響きが延々20分間続くのに対して、2曲目、3曲目は演奏される弦に応じて次々に現れる弦の響きが複雑に入り乱れる26分間の演奏である。2曲目が明確な調整を持たないのに対して、3曲目はある約束事に従った調性がある。そのあたりのこと含め、この作品に至るパンハウゼン本人やその協力者たちによる詳細な解説が、ライナーノートに記されている。

この音は毎日聴きたくなるものではないが、ごくたまに何かの機会に強く渇望してしまう異様に心地よい音楽である。「弦フェチ」にはたまらない、という表現が妥当かどうかは僕には自信がない。しかし心地よさのかなりの部分が、弦の響きそのものにもたらされることは間違いない。変な言い方になるが、ギターやチェロといったいろいろな弦楽器の表現を、究極の上流まで遡ったところにある源泉とでも言おうか、弦の響きの祖先みたいなもののようにも思える。そこには何の主張も感情もない、時間と空間そして純粋な音だけが存在する世界だ。

この世界に浸ると、まるで自分の中の音を感じる何かが掃除される様な気分になる。1曲目はとてもやさしい単調なブラシ、2、3曲目は感触の異なるやや刺激のあるブラシというところだろうか。どのブラシを使うかはそのときの気分次第だ。今回は3本まとめて何回かやってしまった。ブラシの使用前後で音楽に対する感性が変わるかどうかは、実際に試してのお楽しみである。

8/25/2007

コメダ プロジェクト「クレイジー ガール」

 暑い毎日が続いているが、そろそろ夜の気温に少し涼しさを感じられるようにもなってきた。暦では気候の変わり目を細かく捉えているようだが、「異常気象」と言われて久しい現代においても、その本質は意外に変わらないところにわずかな安心を感じたりもする。

土曜日だった今日、夕方にかけて少し街をぶらぶらして帰ってくると、自宅の最寄り駅周辺の商店街でこの時期恒例の夜店が出ていた。子供の頃、父に連れられて行った神社の夜店は、綿アメやらりんごアメ、射的、ヨーヨー釣りといった子供中心の内容だったと思うのだが、都市の商店街が主催する夜店は、そうしたものより焼き鳥やら貝、イカなどの串焼きに生ビールという大人向けの出し物が目立つ。単に自分が大人になったからそういうものが目に付くだけかもしれないが、やはりこれも少子化の諸相かもしれない。

都市といってもこのあたりはかなり下町なので、家族連れに混じって刺青をいれた半裸のオヤジたちの姿も目に付く。商店会の努力でいつもなかなか盛況で、狭い商店街の路上は人で溢れる。そんななかでビールを飲んだりして寛げるほど、僕はこの土地の人間ではない。なので、いつもこの夜店にはありがた迷惑な思いもあったりして、ちょっと複雑な気持ちで雑踏をやり過ごすことになる。

商店街の真ん中にあるスーパーで、久しぶりにウィスキーを買ってみた。銘柄はキリンの「富士山麓」である。この夏にも会った和歌山に住む幼なじみがなかなかの酒好きで、毎日晩酌にスコッチをやっていたのが、僕からこの酒の話を聞いて試してみて以来、ずっと愛飲しているという話をきいた。

僕が新宿の飲み屋で肋骨を折ってからそろそろ2ヶ月になる。あの頃から家でも外でもハードなお酒をやるのは控えるようになっていた。まだ少しだけ痛みが残っているのだが、具合は大分よくなった。その後にあった父の死についても、まだいろいろとやらねばならないことは残っているものの、気持ちの整理も含めかなり落ち着いてきた。いろんなことがあった夏だ。

そんな気持ちがふっと僕をウィスキーに向かわせたようだ。これを書いている今はまだ封を切っていない。これを書き上げたらゆっくり楽しむつもりだ。

前回のろぐで少し書いたアランの店で買った2点が週の初めにさっそく届いた。今回はその中の一つを取り上げておこう。

コメダという名前は、ポーランドのジャズピアニスト、クルジスツォフ=コメダから来ている。彼は1969年にわずか38歳でこの世を去ったが、ポランスキーやワイダなどポーランドを代表する映画監督の作品にもスコアを提供している。コメダプロジェクトは、そんな彼の意を継ぐ形で、現代のポーランドジャズシーンで活躍するミュージシャンを中心に結成されたユニットである。

アランの店でこの作品を見かけたとき、最初は少しフリーっぽい内容を期待していたのだが、聴いてみると実際には、いまや古典の域に入りつつあるかもしれないメインストリームなコンテンポラリージャズであった。コルトレーンや60年代のマイルスクィンテットの音楽をベースにした、気持ちよい演奏が次々に展開される。当然のことながら演奏者の力量は相当なものだ。

8月最後の週末、夏休みの終わりを惜しみつつ夜店を楽しむ子供たちと、夏そのものの終わりにやはり名残惜しそうに夜店の明かりに何かを求める大人たちがいた。僕自身は、やはり少し疲れが溜まっているようだ。今日はろぐはこのくらいにしてウィスキーをやりながら、この作品や同時に買った音楽DVD作品をゆっくり楽しんでみたい。

Komeda Project コメダプロジェクトの公式ホームページ

8/19/2007

DJ KRUSH「MiLight—未来」

 夏休みといっても、とても慌ただしく忙しい1週間だった。前半は主に金融機関を中心に、父親の財産整理に関する手続きをして回った。後半は実家の荷物を整理することと、満中陰(いわゆる「四十九日」)の仏事と納骨というふうに休みなくイベントが続いた。和歌山は連日気温が35度前後で、夕立も含めて雨が降ることはなかった。

財産の関係で、兄と二人で和歌山市内にある金融機関をいくつも回った。こんな経験は一生でも珍しいことかもしれない。手続きの進め方はもちろんのこと、応対の仕方や、お店の雰囲気など各社各様で興味深いものだった。ほとんどマルチ商法の事務所のような地場の証券会社、ベテラン窓口行員の頑張りが有難い地方銀行、品格を感じさせる女性受付につい目がいってしまう大手証券、サービスのサの字も感じられない応対の農協、今日日「新入社員」というバッチをつけた若手男子の接客がものの10分で崩壊し、頼もしいキャリア女性に代わった信託銀行、などなどである。

暑い1日の作業が終わって、兄や僕の妻と飲むビールはやはり格別の味だった。やはり僕の一番のお気に入りは、和歌山駅地下にある「酒処めんどり亭」である。あそこの串揚げの安さと美味さ、のれんを分けて座るカウンターの雰囲気は最高である。もし実家を含め和歌山にあるすべてを清算してしまったら、この愛すべきお店に足を運ぶこともなくなるのかなと思うと、少し残念な気もする。まあそれはまだ先のことだとは思うのだが。

仏事はひたすら訳が分からぬままに過ぎた。このためにいろいろと骨を折ってくれた兄には申し訳ないのだが、死者を送ることになぜあの様な手間と金をかけねばならないのか、理解できるものではなかった。行事の前夜、お墓に入れる骨壺(和歌山では火葬後は大小2つの壷に骨を分け、大きい方を四十九日にお墓に納骨し、小さい方を数年後に本尊のお寺に納骨する習慣がある)を見るのは今日限りと思い、骨壺を開けて父の骨を手に取ってみた。あの日火葬場で見たのと同じきれいに灰化したもろい骨がそこにはあった。

すべての予定を終え、今回は事情あって僕は一人で川崎まで帰ってきた。新幹線のなかではぐったりしてしまった。1週間ほとんど音楽を聴いていないことに気がついた。iPodにある音楽のリストを眺めて、先ずは父のことを考えながらキース=ジャレットの"Bridge of the Light"を聴いた。これで少し疲れが落ち着いた僕は、ちょっとだけ眠ったようだった。

その後、何か新しいものを感じさせてくれる音楽が聴きたくなり、たまたまiPodに収められていたものから今回の作品を選んで聴いた。久しぶりに耳にしたKRUSHの音楽は神妙な力強さで僕の気持ちのなかにしっかりと入ってきた。

1996年に発表されたこの作品では、いつもの様に多彩なゲストとKRUSHのコラボレーションが楽しめる構成になっているのだが、ここでは「未来」をテーマにそれぞれの音楽を展開すると同時に、各トラックの前か後に各ゲストが自分の言葉で「未来」について語る短いトラックを収録するという趣向が凝らされている。

既に録音から10年以上が経過しているのだが、卒業生のタイムカプセルよりもはるかに真剣なメッセージがこめられていて非常に聴き応えのある内容になっている。もちろん演奏トラックの内容も現在のシーンから考えても超一流のものばかりである。最初から最後まで「新しい音楽」を満喫できる72分間である。

最近、こういったクラブミュージックのシーンにはご無沙汰してしまっているので、何がどうなっているのかはよくわからないのだが、少なくとも一頃の様な勢いは失っている様に感じている。多様化するのは好ましい一面もあるが、音楽の本質とは関係のない方向に展開することは、結果的に音楽そのものの内容にそのツケが還ってくることになる。複合化して生まれる新しい価値もそれを支える本質的な土壌の探求がなければ存在し得ないのである。

和歌山から戻ってまた明日からは仕事である。今夜は「新しい音楽」を肴にゆっくりビールでも飲んで、ひと時を過ごそうと思う。

8/12/2007

夏休みの入口

夏休み前の1週間、いろいろな事情で延び延びになっていたレポートの発行に向けて慌しく作業が続いた。幸い、先月から加わってもらった新しい戦力が活躍してくれたおかげで、想定していたよりもずっといい内容のものを作ることができた。感謝である。

金曜日は会社の一斉休日。この日は朝起きてもすぐにまた眠ってしまった。遅いお昼を食べては、また眠った。外は暑い。35度以上はある。さすがに昼間から部屋でエアコンをつけて引きこもった。

続く土曜日。個人的に引き受けている雑誌の原稿を書きあげて夜に入稿した。合間に妻と街に出かけて、タイ料理のランチをとる。街に出かけた目的は、これから和歌山に帰って行ういろいろな手続きに必要な書類を揃えるためだった。戸籍謄本やら印鑑証明書などなど。財産の継承などの手続きはなかなか手間がかかる。

暑くて街で買い物をしようという気にならない。ちょうどいつものアランの店から、新しいものが入荷したとダイレクトメールがとどいたので、ヨーロッパのコンテンポラリージャズの作品を2枚取り寄せてみることにした。つくづく便利なものだと思う。いまから届くのが楽しみだ。

日曜日、突然身体に変調をきたす。激しい下痢、午後からは発熱。下痢は妻も一緒だった。昨日のタイ料理がまずかったのか。この日は一日エアコンも入れずに部屋で横になった。解熱剤の作用もあって夜には調子は落ち着いたようだ。いま帰郷の準備をしながらこれを書いている。

役所から取り寄せた戸籍謄本をまじまじと眺めてみる。僕の名前といっしょに記載されている、いまはもういない父と母の名前。僕を産んでくれたことの事実がそこにははっきりと書かれてあった。届出日は誕生日の9日後、届出人は父だった。42年前のその日にはせた僕の想いは、静かにそして激しい感謝の想いにかわっていった。

8/05/2007

「琵琶劇唱~鶴田錦史の世界」

梅雨があけたようだ。わかっているが、暑い。少し前ならこういう気候を楽しんで外出することもあった。近頃はそれができない。太陽の下に不用意に出て行くとおかしくなりそうである。特に今年はそう感じる。それでも夏はいい。

この1週間は妻が北欧に出張した。僕は独り生活を楽しむことになったわけだ。渋谷にCDを買いに出かけてみた。開放的な服装の女性が目に付く一方、男性の服装はどうも垢抜けない。あれがいいのだというのもわかるのだが、どうも僕にはあのだらんとした感じがダメだ。

最近、渋谷で食べるものといえば道玄坂「壱源」の味噌ラーメンと決まっている。にんにく少々と一味唐辛子を多めに振る。味噌と油のコクがかための縮れ麺によく絡む。

この季節の常として「冷たいラーメン始めました」と手書きの張り紙が、店先に出ている。あれを見るたびに僕が思うのは「無理しちゃってぇ」ということだ。ラーメンを真剣に作ろうと思っている人からすれば、冷やしラーメンはこの季節の頭痛の種だと勝手に思っている。手間はかかる、水は使う、客が注文する理由は単に「暑いから」だけでも要望には応えなければならない。大体、一度あっためたものを何でまたすぐに冷やすのか。環境にやさしくない(おかしいかな?)。


家に独りでいると夜の時間がゆっくり流れるように思う。真夏の夜に久しぶりに音楽をゆっくり楽しめる。以前から少ししっかり聴いて見たかった「琵琶」の音楽CDを2枚買い求めた。一つは、現代の琵琶の巨匠、鶴田錦史の最後の録音となった3曲を収録した「琵琶劇唱~鶴田錦史の世界」(写真上)、そしてもう一つが、彼女の弟子、中川鶴女の最近の演奏3曲を収録した「琵琶散華」である。

最初に買ったのは後者の方だったが、聴いているうちにどうしても前者が聴きたくなり、あらためて買いに行った次第である。両方に共通して収録されているのが、鶴田作の弾き語り「壇ノ浦」である。言うまでもなく平家滅亡の戦を物語りにした作品である。

最初は純粋に琵琶の演奏だけを聴きたいと思っていたのだが、中川の「壇ノ浦」を聴いて僕は琵琶弾き語りの素晴らしさに圧倒されてしまった。「鶴田錦史の世界」には鶴田の演奏は入っていない。演奏するのは3人の弟子たち(そこに中川はまだいない)によるいわゆる三面琵琶である。鶴田は歌(語り)のみである。

最後の録音に際して錦史が選んだのは、いずれも平家の興亡に関連する3つの自作「俊寛」「壇ノ浦」「義経」であった。鶴田錦史はこの収録の1週間後、1993年10月25日に亡くなったのだそうだ。まったく重要なタイミングで録音が行われたものだと感心する。

鶴田錦史という人は、もう芸の道一筋の人だと思っていたのだが、そうでないことを作品のライナーノートを読んで始めて知った。20代までは琵琶一筋だったのが、世の理不尽な壁に突き当たり、突如として水商売の経営に乗り出す。54歳になって武満徹と出会うまでそれは続き、その間、琵琶にまったく触れないことが何年もあったという。これには僕も大いに驚き、そして大いに元気付けられた。

それにしてもここに納められた音楽の素晴らしさはどうだ。まだ十数回しか聴いていない者にとても言葉で書けるようなものではない。演奏自体が持つ時間と空間の拡がりは、すぐに琵琶音楽の歴史が持つ時間と空間の壮大な拡がりへと変貌する。聴くものはただただそれを受けとめるだけ、耳を傾けるだけだ。僕はいつしかiPodに入れて外でも聴くようになってしまった。

20世紀の後半、欧米の方向に大きく触れることになった日本の文化だが、ここに来てそれがまた本来の伝統に回帰してきているように思う。僕もこの作品との出会いを大切に持ってこれからを生きたいと思う。


7/29/2007

父を見送る(後)

葬儀は月曜日の12時からだった。この日、和歌山は台風一過の夏晴れで、蒸し暑い太平洋の風が吹いた。にもかかわらずまたいろいろな人が父との別れにやってきてくれた。実家にタクシードライブをしたとき、到着した父は突然自分の葬式について話した。聞いていたのは僕だけだったが、その内容は「簡素に、できるだけ多くの人に参ってもらってくれ」というものだった。

簡素にというのはそう心がければできることなのだが、多くの人に来ていただくというのが難しい問題だということは、実際にお葬式をやってみてよくわかった。というのも、15年前に退職をした会社でお付き合いのあったいろいろな人、とりわけ父が最も精力的に活動した庶務課時代に交流のあった社外の方々については、彼の思い出話でそうした人の存在を知ることはできても、現在の消息を確認することは容易ではないからだ。遠方だったり、既に音信が途絶えていたりすることも多いうえに、何よりも我々家族には一切面識がない。仕事だけでのお付き合いという人間関係のはかなさとは、こういうことなのかもしれない。それでも、遠方から僕の友人や兄の会社の人、そして広島から妻のご両親も出席してくれた。

読経とともに焼香が進み、葬儀も終盤を迎えた。出棺前に最後に父の顔を見て、それを撫でてあげた。皆でお供えされた花を棺に入れ、ふたを閉じる。喪主である兄から、皆様へのご挨拶。これはなかなか辛いものがある。僕は母の死に際して、母の信仰していた宗教の集まりに参加し、そこに来てくれた人たちを前に挨拶をしたことがある。それまで涙を流すことはなかったが、何か母についてまとまったことを言おうとした瞬間に、急にいろいろな想いが込み上げ、涙と嗚咽を漏らしながらの挨拶となったことはいまでも忘れない。

火葬場に向かうべく、兄が位牌を持ち父と一緒に霊柩車に乗り込む。僕と妻、そして叔母がそれに続くタクシーに乗り込んだ。火葬場までは車で2~30分の道のりだ。兄と僕と妻は、後で拾骨にも行ったから往復2回を同じタクシーにお世話になった。このタクシーの運転手さんこそ、おそらくは一生忘れることのできないこの日の思い出になた人だった。

こういう場合、タクシーの運転手さんは悲痛な思いの遺族を相手にしなければならないわけだが、この運転手さんは実に上手に僕らの心を和ませてくれた。聞けば、地元ではかなり有名な運転手さんで、以前は県を訪れる皇族や政治関係者などをはじめとする賓客の対応をしていた人らしく、現在は独立して個人タクシーの運転手をしている。彼は様々な人生経験に基づいた面白くも示唆と和みに溢れたいろいろな話を、短い時間にたくさんしてくれたのである。

火葬場に着く。和歌山市の火葬場は、すたれていく市の情勢とは裏腹に、とても大きく立派な施設である。冷たく厳粛な雰囲気の施設に到着すると、遺族の代表として5名だけが炉の直前まで行くことができ、残りの親族はその光景をガラスで仕切られた別室から眺める仕組みになっている。兄と僕、僕の妻、そして2人の叔母が炉の前まで行き父を見送ることになった。読経に続いて父の棺が炉の中に静かに入っていく。閉まる扉を見ながら、僕は思わず右手を上げた。「行ってらっしゃい、お父さん」

いったん火葬場から式場に戻る車には、兄も一緒に乗り込んだ。そこでも運転手さんは、兄の心を和ませるようないろいろな話をしてくれた。途中、紀ノ川沿いの道端にある小さな傾いたラーメン店の脇を走ったとき、テレビ番組「鉄腕DASH」の「ソーラーカー」企画の取材をしている現場に遭遇し、一瞬だったがTOKIOの国分太一の姿を認めることができたのには、ちょっと驚いた。(この模様は本日付けの同番組で放映された)

式場に戻って、お参りしてくれた親族に振る舞いをして間もなく、再び3人で火葬場に赴く。また同じ運転手さんが送り迎えをしてくれた。拾骨は僕には初めての経験だった。まだ熱気の残る炉から出てきた父の亡骸は、僕らが入れためがねのフレームや本の燃えかすなどと一緒になって、きれいに真っ白な灰となっていた。係りの人に言われるままに、身体のいろいろな部分の骨を少しずつ拾い、大小2つの骨壷に収めてあげた。その壷を兄が抱え、僕は位牌、妻は遺影を持って車に乗り込む。

この帰路に運転手さんがしてくれたお話が、僕らにはとても印象深いものだったのである。内容は単に仏壇に父をお祭りすることについての話だったのだが、これまでそうしたことの意味や目的について、ほとんど何も考えてこなかった僕ら、とりわけ兄にとって、この20分間のお話は僕らがこれから何をしていかなければいけないのか、ということについてしっかりした意識を持たせてくれる素晴らしいお話だったのである。言葉は悪いが、いきなり押しかけてお経をあげお金を持って帰るだけのお寺の人でさえ、そんな話はしてくれなかった。父のことを含め、僕はまだお寺の人がありがたいと感じたことは、正直言ってない。

その日のうちに初七日を済ませ(いまはそういうものらしい)、お世話になった葬儀場をあとにして、家に帰った。家には葬儀屋が用意してくれた簡単な祭壇に、父の位牌と骨、そして遺影をおまつりした。お線香とロウソクを灯し、用意された電気仕掛けの回り灯籠にも明かりを入れてあげた。

お供えの花や果物の間を抜ける灯篭の光を眺めているうちに、自分がこの期間を通じて涙を流さなかったことに気がついた。正直なところ、多分そうなるだろうという予感はあった。それが良くも悪くも父と僕の関係であったのだ。そして僕自身、そのことを恥じたり残念に思うことは少しもないし、おそらく父も同じ想いだろうという確信が僕にはある。

こうして父を見送る日々は過ぎていった。その後はお役所などで必要な手続きをしたり、遺されたものを整理する準備をしたりして過ごし、ひとまず僕等は川崎の僕の家に戻った。父の位牌と骨は兄が自分の家に持って帰った。

父はいまも僕の中に生き続けている。

父を見送る(中)

父が亡くなったときのことは、僕も兄も叔母も直接は知らない。その日の朝、父はいつものように6時ごろに目覚めたのだそうだ。家政婦に話をし、看護士を呼んで身体を拭いて欲しいと頼んだそうだ。看護士2人が準備をしてやってくると、父はうれしそうだったらしく、看護士たちに何やら話しかけたという。その声を聞きながら、家政婦は病室を出て、近くにある病棟の談話コーナーで休憩をしていたそうだ。

そうして間もなく病室が急に慌しくなり、看護士や医師が出入りするようになった。家政婦はあわてて部屋に戻ったそうだ。兄や僕に電話連絡が入ったのはこの頃だった。そして、それから程なくして父は息を引き取った。僕が病院に電話したのがその直後だったというわけである。なので、兄は僕からのメールで初めて父が死んだことを知ったらしい。痛みはやはりあったのだと思うが、前日も眠れたということは、まだ薬でごまかせなくなるほど凄まじいものではなかったのだろう。酸素マスクをつけてモルヒネの注射で眠るだけの父を見るのは辛いと思っていただけに、父のあの安らかな顔を見た僕は、その最後がさっと訪れて父を連れて行ってくれたことを有難く思った。

葬儀屋が来ていろいろな打ち合わせをして帰った。喪主は兄ということになるから、彼はこれからいろいろと大変になる。支えてあげなければいけない。やがて僧侶が枕経をあげにやってきた。午後9時ごろだった。兄も僕もこうした仏事には皆目疎かった。父は長男だったが仏壇は実家にあり、それを見てくれる父の妹たちがいた。そして仏事についても叔母がいろいろとサポートをしてくれた。本当に感謝である。枕経で一先ずその日の用件は終わった。夕食のことは何も考えていなかったので、父が僕らが帰るたびに取ってくれた近所の寿司屋から出前を取り寄せた。父のいる部屋はエアコンをつけっぱなしにして、枕元にはお線香とロウソクが灯された。それを皆で代わる代わる番をした。

お寺や火葬場などの都合もあり、通夜はその翌々日の日曜日、葬儀は連休最後の日の月曜日と決まった。よかった。これで少しでも長く、あれだけ帰る帰ると言って騒いだ家に、父をいさせてあげることができると思った。おかげで通夜や葬儀の準備(といっても実際にはあまりすることはないのだが)も、ゆとりをもって臨むことができた。最初は、いろいろなところから電話で問い合わせがあったりするのかなと思っていたのだが、知らせを聞いた近所の人たちが時折逢いに来てくれたりする以外は、家のなかは比較的静かで、父もゆっくりと家の雰囲気を楽しむことができただろうと思う。

日曜日の午後、葬儀屋の人がやってきて、父の亡骸をお棺に納める作業を丁寧にしてくれた。棺の中には、父の愛用のめがね、長年勤め父の人生の最も重要な期間だったと思われる会社の社員証(なぜこれが家にあるのかはわからない)、そして父が若い頃から親しんだと思われる本として、宇宙の本、音楽の本、日本語の本を一冊ずつチョイスして入れてあげた。母がなくなる前に、僕がプレゼントしてあげた帽子をずっと愛用してくれていたのだが、それは棺に入れず兄に形見として持ってもらうことにした。あと、大好きだった茶粥の茶袋を妻がご飯と一緒に入れてあげた。

こうして準備ができた父の棺は午後5時ごろ、25年間住み慣れた実家を後にした。日本を縦断した台風もちょうど過ぎ去り、空は明るくなり始めていた。霊柩車のクラクションと同時に、父の枕元にご飯を盛って備えてあった愛用のお茶碗を、兄が玄関で割りこわした。続いて僕らもすぐ近くの式場に出かけていった。式場について間もなくお通夜が始まった。親戚や近所の人たち、僕の幼馴染やそのご両親などもわざわざお参りに来てくれた。

その夜、僕等は式場に泊まったのだが、母方の親戚の人が遅くまで残ってくれて、久しぶりに人気のなくなった式場で父の棺を前に酒を飲んだりして時間をともに過ごしてくれた。母が亡くなって以降、母方の親戚とのお付き合いはあまりなく、僕の妻はまともにあって話をすることもほとんどなかったのでいい機会になった。これもまた父が作ってくれた不思議な縁だったのかもしれない。

父を見送る(前)

父の訃報に対して、多くの方からお言葉をかけていただきましたことを感謝いたします。先週末までには既に川崎に戻っていたのだが、父のことをどう書いたものか考える余裕があまりなく、ろぐはお休みとさせていただいた。

4月の後半頃から実質的に小康状態にあった親父の病状に、新たな展開が見られ始めたのは7月に入ってからだった。定期的に見舞いに行ってくれていた叔母からは、その頃から父が癌の痛みを少し訴えるようになったことを聞いていた。叔母の口ぶりではそうは言っても従来と同じ調子であるようにも見えたらしいが、僕にファックスで送ってくれた、主治医が書いたCT検査の所見には、これまでとの明らかな違いがあった。そこには幾つかの新たな転移が見られると書かれてあったのだ。

その知らせを受けた週の水曜日、僕は肋骨の経過を診てもらいに病院に行った。この日はとても混んでいて、僕は予定した時間になってもなかなか呼ばれないでいた。会社の午前休暇を超過しないかが気がかりだったので、時折、隠れて携帯電話の時計に目をやっていたのだが、ある時そこに着信の記録があることを認めた。発信者は父が世話になっている病棟の看護士長だった。父の病状に変化が出ているので、できれば早いうちに病院に会いに来て欲しいという内容だった。

肋骨の方は、本来であればその前の週の検診(骨折後1週間)で終わりのはずだったのだが、骨折時に肺の中に僅かに出血し溜まったものが認められ、それがもし増加していると問題なのでと、もう1週間観察をすることになっていた。つまり骨がくっ付くかどうかについては、もはや医師の関心事ではなかったのだ。幸いその影が大きくなっているということはなく、僕の診察はそれでおしまいということになった。写真を見ても明らかに骨はまだきれいに折れたままだったのだが、先生にそれを尋ねると「骨はまだまだですよ。1ヶ月はみておいてください。大丈夫、ちゃんとくっつきますから」と、妙に自身たっぷりな答えだった。

診察が終わってすぐに、父の病院からの電話について兄や妻に連絡を取った。元々、その週末の3連休に、僕と妻が和歌山に行くことになっていた。兄は主治医と電話で話したそうで、その時点で新たな転移のことと、今月いっぱいかもしれないという余命についての見通しを伝えられたという。その夜には、その日病院に行ってくれた叔母とも連絡がとれ、父の様子を聞くことができた。相変わらず痛がるとはいっており、食事も以前のようには摂らないとのことだった。週末には逢いに行くとして、その後はどうしようか。父はかつて母がそうなったように、やがては強い痛みに対してモルヒネを注射して意識のない状態になって、そのまま1週間ほどで死んでしまうのだろうか、そんなことを考えた。

7月13日の金曜日、僕は骨折以降このところそうしているように、従来より早く会社に出かけた。満員電車の混雑を少しでも避けるためだ。会社の最寄り駅に到着し、徒歩で数分の道を歩いている最中、何気なく眺めた携帯電話に着信記録を認めた。今度はメッセージは入っていなかった。会社についてすぐ病院の連絡をとったところ、そこで出た看護士から父がつい今しがた亡くなったことを知らされた。

少し驚いた、でも僕はとても落ち着いてその知らせを受け入れた。先ず、まだ出社前の準備をしていた妻に連絡をとり事実を告げた。続いて、兄に電話をしたがつながらなかったので、もう知っているのだろうとは思いながら、とりあえずメールを打った。職場の人間に事情を説明し、出向元のオフィスに出向いて出社していた部長代理にも事情を説明した。これから何をしなければいけないのかを考えながら、さっき降りたばかりの駅から再び電車に乗った。

1週間くらいの帰郷になる。慌しく準備をしても2時間程度はばたばたした。翌日に予約していた新幹線を変更し、品川を12時に発つことに決めた。和歌山駅に到着するのは午後4時になる。あらためて距離を感じる。既に知らせを受けて病院に到着した叔母から電話をもらい、僕等か兄のいずれかが到着するまで病院で待ってもらうことにした。結局、出張先から広島に戻りそこから駆けつけた兄とは、同じタイミングで和歌山に着くことがわかり、兄が病院に行って、僕達は先に実家に行って父を迎え入れる準備をすることにした。

父を寝かせてあげる布団に敷く真新しいシーツを駅前のデパートで買った。家の中はある程度片付けてあったので、開けられる窓をすべて開けて新鮮な空気に入れ替え、父が寝起きしていた部屋に布団をしいて父の帰りを待った。父が兄や叔母とともに帰ってきたのは午後6時過ぎ、外はまだ明るかった。病院での待ち時間の間に叔母が手配してくれた葬儀屋の人が同行して来て、父の亡骸にドライアイスを添えるなどの処置をしてくれた。

僕は病院から持って帰ってきたCDラジカセを枕元にセットして、病院でも何度か聴かせてあげた父のお気に入りの音楽を鳴らしてあげた。モーツアルトの「フルートとハープのための協奏曲ハ長調」、フルートはジャン=ピエール=ランパル、ハープはリリー=ラスキーヌである。実家へのタクシードライブ以来久しぶりに会う、そして死んでしまって初めて見る父の顔は、それはとても安らかなものだった。その瞬間、僕の心の底に漂っていた哀しみは消え去ったように思う。「お父さん、おかえりなさい」。

7/13/2007

お知らせ

7月13日の早朝、父が亡くなりました。享年75歳でした。

朝、会社に着いて知らせを受け、いま自宅に戻って和歌山に帰る準備をしながら、これを書いています。

とりあえずお知らせまで。

7/07/2007

山と階段

蒸し暑さは少し感じるものの、夕方以降は急に涼しさを感じる土曜日だ。早いもので骨折から12日目の夜を迎えた。

おかげさまでいまのところ日々順調な回復を続けている。直後にはまったくできなかった、仰向けの姿勢のまま床に就くこともいまはゆっくりとなら問題なくできる。寝返りをうつのにもほとんど痛みを伴うことはなくなった。それに伴って、痛み止めの薬も最近は1日1回で過ごせるようになり、今日は朝から薬も飲まず午後少し外出する際に病院でもらった痛み止めの貼り薬を、患部付近に貼って出かけ、それで効果は十分だった。

来週の半ばにもう一度病院で診てもらい、そこで異常がなければあとはしばらくは胸にサポータを巻きながら生活をし、自然に治癒するのを待つことになる。3連休が過ぎたあたりからは、お酒も普通に飲めるようになるだろう。ただ、これからは外で飲むのはいままで通りとしても、家で飲むお酒は少し控えめにしようかと考えている。骨を折ったこととは直接関係しないのだが、寝る前に飲むお酒はやはりいろいろな意味で心身によくないと思うようになった。

いま考えてみると、階段で足を滑らせたとき、僕はお酒のせいというわけではなく、何かいろいろな要因が絡まって、意識が少し空虚な状態になっていた様に思う。いま憶えているのは、自分が降りようとしている階段を見下ろして、こけたら危ないなあと一瞬思ったこと。にもかかわらず階段を2、3段降りたところで、僕の足は見事に滑ってしまった。ちょうど右足を前に出したときに、左足が前に滑ったのである。お分かりのように、そうすると両足が前に飛び出し、宙に浮いた身体はそのまま階段に落下した。その際、階段の角で左脇近くの背中を打ったというわけだ。

足を滑らせたのはもはやどうしようもなかったとして、浮いた身体をどこにぶつけたかは運命のわかれめだったのかもしれない。あれがもし後頭部だったらと思うと、いまでもゾッとするし、腰をぶつけてまたヘルニアが再発するというのも有難くない話である。そう考えると、肋骨の骨折程度で済んだのは不幸中の幸いだったのかもしれない。骨折の話を聞く度に、自分はこのまま一生骨折と縁もなく終われるのかなあ、と考えたこともあったのだが、その時は意外なほどあっさりと訪れた。人が命を落とす瞬間も、やはり同じように訪れるのかもしれない。


そう思わざるを得ない出来事が少し前にあった。僕の妻がいま僕がいる会社に入社したときの同僚で、数年前からアメリカの関係会社に出向している男がいた。僕らが結婚した頃、妻の同期入社の人たちが集まるバーベキューや飲み会に僕も何度か招かれたことがあり、僕はそうした機会を通じてその男とも面識を持つようになった。まあ仲間内ではなんというか天真爛漫で純朴で、少しヌケたところというか頼りなさげなところも感じさせる、ちょっと三枚目的な性格で皆に愛されていた。

予定では、この6月一杯で出向期間を満了し、日本に帰ってくることになっていたのだという。米国西海岸での滞在の記念にと思ったのか、もともとそういう趣味があったのかは知らないが、6月半ばの週末に彼は仲間3人と有名なヨセミテ国立公園内にある岩山「ハーフドーム」の登頂に出かけた。ここはその名の通り、ドームを縦に半分に切ったような形をした巨大な岩山で、垂直に切り立った壁面を麓から見上げた写真は、ヨセミテの風景写真の定番といってよい。彼はその登山中に不覚にも岩山の斜面で足を滑らせて滑落し、そのまま帰らぬ人となってしまった。

いまのご時世、イメージ検索をすればハーフドームの観光写真はいくつでも見ることができる。写真家アンセル=アダムスの作品で一躍世界に有名になったヨセミテの風景は、普通だったら僕らの心に何らかの癒しや啓示を与えてくれるものであるが、さすがに彼の訃報に触れてからは、しばらくそうした写真を直視することができずにいた。こんなところを滑り落ちたのかと少し考えただけで、その先の思考は強引にでも断ち切らねばならなかった。

ヨセミテの岩山と新宿の飲み屋の階段を同じに扱うのは、少々不謹慎と思われるかもしれない。でもこんな経験をした僕には、不注意で怪我をしたり命を落としたりすることは、どこでも起こりうるのだということを身をもって感じた。


 ジャズピアニストのポール=ブレイの新作"In Mondsee"が、ECMから発表された。新作といっても録音されたのは、2001年の4月というからそれから6年間ゆっくりと寝かせてCD化されたというところが実にECMらしい。因みに今年はブレイの75歳の年にあたるのだそうで、本作のリリースもそれを記念した作品としてのものであることが、同社のウェブサイトに記載されている。

内容は、オーストリアのモントゼーにある有名なピアノを使って行われたソロ演奏。ピアノソロと言えば、1972年にECMからリリースされた"Open to Love"がブレイの大傑作であるわけだが、その30数年後にリリースされた今回の作品もまた、ソロピアノの世界に大きな標を残す作品になることは間違いないだろう。10のインプロヴィゼーションで構成された1時間の作品は、何度も繰り返して聴いても尽きない深い味わいを予感させてくれる。ブレイの演奏は、彼独特のリリカルな表現をベースにしながら、時にジャズらしい力強さや、スタンダード曲のモチーフらしきものを織り交ぜたりしながら、自由に時空間を広げていき、その展開には思わず時間と我を忘れさせてしまう。これは非常に素晴らしいものだ。

このところピアノといえばキースを中心に聴くことが多かった僕だが、今回の作品は久しぶりにキース以外のピアノに深く感動させてくれた。しかし、"Open..."がリリースされたときのブレイの年齢がいまの自分と大体同じとは。。。まだ数回しか聴いていないこの段階で取り上げるのもどうかと思ったのだが、この作品に収められた演奏が秘める価値の永続性を信じ、それを不慮の事故で命を失ったあの男の魂を弔う音楽としてささげたたいとも感じた次第である。

7/01/2007

タクシードライブ

骨折の夜から5日目になった。いまのところ痛みはそれ程でもない。ベッドに寝る際に姿勢を変えるのが一番辛いが、それも少しずつ慣れてきた。以前に患った椎間板ヘルニアの体験がよみがえってきた様に思う。痛みは慣れるとある程度までは(それがいずれ治まるものと信じながらではあるが)、それと付き合って生活を続けることはたやすい。父親のこともあるし、一日でも早く治さないと困るわけで、そのためには少し大げさでも静養することが必要だ。なので、今週後半はどうしてもやらねばならなかったあるプレゼンを除いて、基本的には会社を休むことにした。

おかげで、酒も飲まず毎日決まった時間に寝る生活が続いている。ちょうど2週間くらいお酒を飲まない期間をつくらないといけないかなと、考えていたところだった(言い訳がましいが)。姿勢の関係でベッドでテレビを見るのも難しいので、ベッドに入ったら眠るしかない。これが意外にすんなり眠れてしまう。たぶん寝るのが不自由するので、昼間でもあまり気軽に寝ることができないのがいいのだろうと思う。まあそれでも結構昼寝はしているが。

さて、今回は先週のろぐとして書きかけていた内容に、骨折後に少し手を加えて仕上げたものでご勘弁いただきたい。

先週の土曜日、僕と妻は再び和歌山に帰った。今回は明確な目的があった。それは、父親を彼が生まれ育った実家につれて行ってあげることだ。父が繰り返す「帰りたい」の意味は大きく3つあるように思う。以下ニーズの強い順に、一つは病院を出て自分のペースで生活をすること、もう一つは自分が建てた家に帰ること、そして最後が、自分の生まれ育った実家に帰り、事情があって病院に来ることができない自分の妹に会ったり、自分の両親の存在を感じるものに触れたいこと。今回は、その3番目を実現してあげようという企画である。お分かりかと思うが、ともかく実現するのが一番たやすいのがそれなのだ。

父の実家は、現在の家があるのとは正反対の方角にある。病院からは車で50分位はかかるはずだ。まあ地方の道なので、渋滞とかの心配は大したことではない。問題は父親の身体が往復の長時間のドライブに耐えられるのかということだった。これに関しては、病院の先生や看護士、それに叔母と兄と僕と妻でいろいろと話し合ったのだが、病院側はあっさりOKという一方で、身内の僕らはなかなか踏ん切りがつかないというのが実際だった。

それもそのはずで、この1週間でも父の状態は様々だった。週の前半はもうほとんどうつらうつらと寝るばかりで、ほとんど会話らしいものがなかったらしい。やはりこれでは難しいのではないか、そういう雰囲気が僕らの間に充満した。ところが週の半ばから調子を取り戻し、水曜日に電話で言葉を交わしたという兄の報告では、話している内容はいまいちはっきりしないものの、言葉のニュアンスやイントネーションなどはしっかりしていて、意識はかなりはっきりしている様子だったのだそうだ。さらにその2日後に病院に行ってくれた叔母の話からも、ほぼ同様の状態であることが確認され、結局、土曜日に僕と妻が病院に行き、そこで状態を判断したうえでよければそのままタクシーに乗せて連れて行こうということになった。

この日の和歌山はちょうど梅雨の合間で天気がよかった。病室を訪れてみると、僕らの顔を認めた父が微笑んだ。それを見た家政婦が「わたしらにはこんな顔は見せたことがないよ」と言って僕らは少し恐縮したが、まあそれは本当だろうと思う。話をしてみると、内容は相変わらずちぐはぐな部分も多かったが、言っていることはわかるし、意識がはっきりしていることは明らかだった。決行はすぐに決まった。

あらかじめ地元のタクシー会社に相談をしてあった。車椅子のまま乗れるタクシーや、寝台(ストレッチャー)のまま乗れる車両などもあったが、時間と距離を考えると金額もそれなりになった。なによりも事前に予約をしておく必要があり、そのことが今回の様な状況ではちょっとためらってしまうのも事実だった。しかし結果的にはいまの父の様子から、通常のタクシーで座った状態で乗せ、叔母と僕と妻も乗り込んで行けるところまで行ってみようということになった。

車椅子で病室を出て、エレベータに乗って病院の1階に降りたあたりまではうれしそうだった父だが、そもそも自分がどこに行くのかについてはあまりよく理解していないらしかった。車椅子が病院の玄関に止まったタクシーのところまで来ると、一瞬乗ることを躊躇する場面もあった。やはり病院を離れることにどこか不安を抱いているのだろう。トイレに行くとかなんとかいってゴネるので、叔母がオムツ履いてるから心配ないでしょうとか言いながら無理やりタクシーに乗せてしまった。

往路、父は少し痛がりもしたが概ね順調だった。僕は助手席に乗り、叔母と妻と父が後ろの座席に並んだ。タクシーが走り始めて、すぐに気づいたことがあった。おばが事前に今日は実家に帰るよと本人に説明していたにもかかわらず、やはり父は自分の家に向かうものと思い込んでいることだった。周囲の景色の移り変わりを見ながら、自分たちが逆の方向に走っていることは、ほぼはじめからわかっているようで、途中から「どこへ行くのか」とすねだしたりもした。車が実家に着く頃になると「もう降りる」とか言い出し、表面上は明らかに不満そうではあった。

父の実家は以前は理髪店を営んでいた。お店があったところには、昨年の春まで祖母が寝たきりになっていた介護用ベッドが置かれ、最近までそのうえに荷物が山積みになっていたのを、大慌てで片付けてくれたのだそうだ。といってもお世辞にも部屋はきれいに整頓されているとはいえず、父もそれをみてまた不平をまくし立てていた。この家に住む妹たちは、自分達の兄が到着しても、なかなか部屋に入ってこようとしない。大体察しがつくと思うがこれが父の兄妹そのものであり、彼らの性分であり、彼らの世界なのだ。

父は少しずつ落ち着きを取り戻し、やがて車椅子から降りて祖母が寝ていたベッドで横になりたいと言った。それを手伝った僕と妻は、しばらくして散歩に出かけると言ってその家を出た。それがどういう内容になるかわからなかったが、この家で父と3人の妹だけの時間を過ごさせてあげたかったのだ。わずか45分ほどの時間だったと思うが、そこで何があったのか僕等は知らない(まああまり大したことはなかったと思うが)。

滞在は1時間半ほどだっただろうか。寛ぎ始めた父がそこに居座りたいというだろうことは十分察しがついたので、帰らせるのは骨が折れるだろうなと予想はしていたものの、まあそこはなんとか車椅子に乗せることができた。僕と妻はタクシーが来るまでの少しの間、父を実家の近所をおして散歩した。隣のお宅がどうしたとか、牛乳屋だった家はいまはどうなっているだのと、昔の話をちぐはぐながらしているうちに、お迎えのタクシーが来た。

本来ならば少し回り道をして、彼が長年勤めた会社の工場がある辺りまで行ってあげたかったのだが、僕の方にどこか心の余裕がなく、早く病院に帰さないとという焦りからかまっすぐ戻る道を選んでしまった。

帰りのタクシーでも父は快調そのものだった。そして予想通り、病院に着いてそこで彼を降ろすのが少々骨だった。本人は僕らには降りてもらって、自分はこのまま家に帰るのだという気になっていた。座ったまま「運転手さん、じゃあ車を出してくれ」と言ったり、タクシーカードをホルダーごととってなにやらいじくり回したりとしているうちに、なんとか僕の説得に応じて車から降りてくれた。

こうしてドタバタではあったが、父を連れ出してのタクシードライブは終わった。僕と妻はその後1時間ほど父に寄り添っておしゃべりをし、あとは家政婦にお願いして病院を後にした。もっと長い時間連れ出してあげられればよかったとか、あそこを見せてあげたかったとかいろいろな反省はある。しかし、叔母も僕も妻も、とりあえずやり遂げたと言う思いに満足することはできた。それが父の満足にどこまでつながっているのかはわからなくても。

案の定、後で聞いたところではその夜父は興奮し、眠りもせずに盛んにベッドから降りようとしたらしく、以降、また「帰りたい」を連発する日々が続いているそうだ。なかなかそれに真っ正面から応えてあげられないのだが、父が元気になったのは嬉しかった。

父には悪いと思いつつ、妻と二人で和歌山駅前の魚料理店「銀平」の暖簾をくぐって、ささやかな打ち上げをした。海外出張の準備で来ることができなかった兄にはメールで報告をした。珍しい太刀魚の刺身など美味しい和歌山の魚を食べていると、父が僕らを育ててくれた海に近い社宅街に吹く磯の香りを含んだ風を思い出した。やっぱり帰りのタクシーにはそこを回ってもらうべきだったかなと思うと、少しビールが苦く感じられた。また機会がある、そう信じることで僕は僅かに震えたグラスを持つ手を落ち着かせた。

6/28/2007

あばら3本

ろぐの更新が遅れてしまった。

先週の週末に叔母と僕と妻の3人で、父親を病院から彼が生まれ育った実家に連れ出したことなど、書きたいことはいろいろなのだが、例によってまたbloggerの調子が悪かったり、そうこうしているうちにちょっとしたアクシデントが起こってしまった。

火曜日の夜に、僕が会社に入ったばかりの頃の上司(当時の部長)が、このたびめでたく会社生活から引退されるということで、当時のメンバーでちょっとしたお別れ会が開催された。その会場となった新宿の居酒屋で、階段から足を滑らせて転倒してしまい、不覚にも左の肋骨を3本折ってしまった。全治3週間から1ヶ月だとのことだ。

特に入院したり手術したりするわけではなく、胸にコルセットを巻きつけて日常生活を送りながら治癒を待つというスタイルなのだが、いまはまだ折ったばかりなので打撲の痛みもあって少々つらい。

また調子のいいときに少しずつ書いていきたいと思う。骨を折ったと聞くと少しびっくりするかもしれないが、日常生活ではすべての動作がゆっくりになるというだけで、特に大きな不自由があるわけではない。とりあえず僕は元気ですから、どうかご心配なく。

6/16/2007

ミワコ=アベ「ヴァイオリン作品集」

 父の具合を案じながらの1週間がまた過ぎた。今週は妻も仕事が忙しく、久しぶりに会社帰りに外で友達と飲んで帰ることが2度あった。1度は、妻の会社の人で、以前からよく飲みに行っている男と、僕の自宅に比較的近い新丸子のお店で夜を楽しんだ。彼もたまにろぐを見てくれていて、父ことをいろいろと心配してくれていた。彼自身に関する、昔の話から近況に至るまでのいろいろなお話を聞かせてもらううちに、僕の心の中にある悩みや苦しみも少し相対化されて、冷静に考えられるようになった。こういうとき、話せる友達というのは本当に大切だ。

もう1回は、珍しく会社の同僚2人と会社がある田町で飲んだ。まあ必然的に仕事の話になるわけだが、そこはさすがに3人ともそろそろ会社での役割や立場を自覚している人間である。つまらん愚痴大会に陥ることもなく、何か久しぶりに少しまじめに仕事の話を酒の席でした様に思う(他の2人はそう思っていないかもしれないが)。まあ内容はともかく、うまいビールをたっぷり飲むことができた。東京は入梅したと思ったらすぐに真夏の気候になったから、旨さはまた格別だった。少しだけ父親のことから自分の意識が遠のいていた時間になった。

この週末に父を彼の実家に連れて行くという計画の実施を前提に、段取りや父の様子を見守る1週間だったわけだが、いろいろな事情があって今週末はそれを見送ることに決めた。仕事が特に忙しいわけではなく、こうしてビールを楽しむだけの時間的な余裕があるというのに、父を看てあげることができない。いろいろな経緯で、父や兄や僕の意思でこうした生活スタイルになっているのだが、やはりいざ今回のような状況になってみると、そのことがとてももどかしく、実際に和歌山に行って帰ってくるのに要する以上の、エネルギーがストレスとなって消費されるように感じられる。結果的にそのストレスを和らげてくれることの一つとして、こうした友人たちと楽しむひと時だったりビールがあるのは有難いものだ。

今回取り上げるのは、アランのお店Jazzloft.comで買ったクラシック音楽の作品。彼の店は、フリー、アヴァンギャルド系のジャズに加えて、クラシック音楽というかいわゆる現代音楽の取扱いも豊富である。つまり、まさに僕好みのお店ということになる。僕が彼の店から買うときは、CD1枚だけだと送料の関係でちょっと割りにあわないので、必然的に購入枚数が複数になってしまう。今回の作品は、アランから届いたダイレクトメールに推薦作品として掲載されていたもの。何かもう一枚というとき、お店の人のお任せで買うというスタイルは、こういう時代になってもしっかり機能している。

20世紀から今世紀にかけて活動している作曲家8人のヴァイオリン作品が収められているのだが、いわゆる「難解」という僕の嫌いな言葉のイメージで取られそうな作品はほとんどなく、非常に美しく親しみやすい作品が揃っている。8人の作曲家うち、僕が名前を聞いたことがあったのは、最初に収録されているヘンリー=カウウェルだけだった。 20世紀の代表的ヴァイオリニストである「シゲティに捧ぐ」と題された、彼が唯一残したヴァイオリンソナタは、コンパクトな5つの楽章からなるとても美しい作品。一度聴くと、とことん愛し続けたくなる音楽である。僕もアランの店の試聴でこれを耳にして、このCDの購入を決めてしまった。

演奏者のアベミワコは、日本人の女性ヴァイオリニストで、欧州で修業を積みいろいろな演奏活動を行い、現在はオーストラリアに居を構えて、現代の音楽作品に力を注いで幅広い活動をしている方なのだそうだ。僕はこの作品に出会うまで、彼女のことは知らなかった。

アルバムを通して聴くと、まるで全体で一つのソナタを聴いているかのような気分になる。これはこの様な作品集を作るうえでの一つの理想だと思うが、実際にはなかなか難しいことだと思う。理由の一つに、やはり作曲者や作品の知名度が先行してしまうことがあると思う。その点、今回の作品はその道の専門家を別にして、ほとんどのリスナーにとっては気にする必要のないことだと思う。音楽に限らず、こうした先入観を持たずに物事に向かう姿勢というのは大切だ。何か困難に遭遇したとき、自身にどこまでそうしたリセットをかけられるか、あるいは同じ状況にある同僚にそうした視点を持たせてあげられるか、これは様々な集団を扱ううえで重要なことだろう。

すべての作品がそれぞれに聴きどころを持っている。僕が特に気に入ったのは、冒頭のカウウェルのソナタと、中盤に収録されたチャールス=ドッジという人の「ヴァイオリンとテープのための練習曲」である。この作品中で唯一エレクトロニクスが登場する小品2曲であるが、これがまたアルバム全体の中で調和的な存在感を示している作品である。

昼間は暑かったが、夜には僕の住んでいる付近では涼しい強めの風が心地よく吹き流れている。風の音に合わさって、今回の作品にある先入観のない優しく繊細なヴァイオリンとピアノの演奏を楽しむのはいいものだ。いろいろと考えることはたくさんあるけれど、この作品の持つ世界に包まれるひと時は、僕に自分の進む世界の広大さと明るさを示してくれているように感じた。

Miwako Abe Move Recordsのサイトにあるミワコ=アベに関する紹介。

6/11/2007

デイヴ=リーブマン「バック オン ザ コーナー」

 金曜日に会社からお休みをもらい、3週間ぶりに和歌山に帰った。

前回のろぐにも書いた通り、このところ父親の様子は病状こそ比較的落ち着いているものの、認知症的な症状、つまりボケた様な状況が出てきていて、自分がいまいる場所が分からなかったり、意味不明の(というかつじつまの合わない)言動を繰り返す様なこともあったりで、病院の人の手を焼かせてしまっている。先週早々にはまた例によって「家に帰る」を繰り返し、さすがに叔母も音を上げてしまい、とうとう仕方ないことに家政婦さんを病院に住み込みで雇うことになった。

父が入院している病院は「24時間完全看護」をうたっており、家族が同伴する必要はないということにはなっているが、実態はかなり異なる。彼のケースに限らず、病棟の同じフロアでもそうした家政婦の存在がかなり目につく。実際に家政婦を雇ってみて、家政婦とはこういう人ということがわかると、それが実感できる様になった。いままで付き添いの身内の人だと思っていた人の多くが、そういうヘルパーなのだ。完全看護とは名ばかりだ。いまの時代にはやや信じ難いことだが、これが特に地方における日本の医療の実態である。単に人が足りないということだけではない。ある意味においてサービスのレベルやプロとしての意識の問題なのだと思う。

今回は兄と一緒に2日間にわたって訪れた。僕等が着いて家政婦さんとは挨拶をして少し話をして、しばらく休みがてら外に出てもらうことにした。僕等だけになると、父はベッドから起き上がり、立ち上がろうとする。僕が支えてようやくベッドに腰掛ける姿勢に落ち着いた父は、しばらくして泣き出した。思う様にならない身体、言葉、意識、そして周囲の理解。息子達を前にしてもお構いなしにしくしくと涙を流すその姿に、かけてあげられる言葉は少なかった。

薬の効き具合やら本人の体調、精神状態その他いろいろな要因が重なり合うことで、父の意識や機嫌は目まぐるしく変わる。ただ、兄や僕ら、あるいは叔母がいるときは概して調子がよいので、やはり根本にあるのは寂しさが大きいのだろうと思う。こちらとしても非常に辛いところだ。可哀相だというだけではどうにもならない。本当に難しい問題である。

さて、前々回のろぐに続いて今回もリーブマンの作品を取り上げる。タイトルはマイルス=デイヴィスのエレクトリック時代の名作"On the Corner"をもじったもの。同作でサックスを演奏していたリーブマンによる、マイルストリビュート作品である。この作品もアランの店Jazzloft.comで存在を知って、購入したもの。ジャケット写真からのリンク先も彼の店になっているので、今日のある人は買ってあげてください。

メンバーとしてギターのマイク=スターン、そしてベースにアンソニー=ジャクソンが入っている。マイクもデイブとは時期が異なるが、マイルスグループのメンバーであった。彼の名を一躍有名にしたのはそのことが大きい。他にはトニー=マリノという人が時折スティックベースで参加する。

この作品で特に素晴らしいのは、なんと言ってもアンソニーのベースワークである。まあ彼のベースはどの参加アルバムを聴いてもハズレは少ないのだろうが、この作品ではロックビートのベースドラムにガッツリと合わせた「本当のベース」とでも言える演奏が存分に堪能できる。しかも、彼のトレードマークとなったフォデラの6弦ベースから繰り出されるねちっこい低音は、スピーカで聴いてみて「ああ、やっぱりこういうのがベースだよなあ」と心から感じさせてくれる演奏だ。その意味ではヘッドフォンやラジカセでの視聴はお勧めできない。

アンソニーはフュージョン全盛の1970年代後半から1980年代にかけては、かなりハイテクな演奏も披露していたが、最近は低音の魅力でのいかにもベースらしい演奏と、それでいて誰にも真似のできない個性を兼ね備えた演奏を同時に聴かせてくれる。今回のセッションは音楽の性格上、ライブセッションの荒々しさに溢れた内容であるが、アンソニーのベースは荒れ狂うソロイストたちをしっかり支える音楽の土台を見事にこなしている。

演奏曲目には緩急に富んだ様々なスタイルの音楽が繰り広げられるが、まるでライブハウスのステージを見るようなワンタイムセッションの生々しさが素晴らしい。アルバム全体を通して非常に楽しめる内容だ。最近眠ってしまっている自分のお気に入りのオーディオシステムをお持ちの方は、是非ともこの作品を楽しんでみることをお進めする。もちろん音は「大きめ」で、誰にも気兼ねしないでいい状況を作って臨んでいただきたい。21世紀においても、エレクトリックマイルスの真髄を彷彿とさせる名作である。

6/04/2007

マイケル=ブレッカー「ピルグリマージュ」

 気がつけばもう6月である。

親父の所為にする気はないのだけど、4月以降ばたばたとして仕事にいまひとつ身を入れていなかったツケが一気に出てしまった。5月末発行予定のレポート作成が難航し、結局この土日も家で作業を続け、それでも作ることができなかった何点かのアイデアを泣く泣くあきらめ、極めて不本意な内容ではあったがようやく今日になって発行することになった。

こういう作業は徹夜してどうなるというものではないので、家でも思う様に作業がはかどらないときは、しばらくパソコンを離れて妻に構ってもらったり(動物である)、夜が更けると酒を飲んでしまったりしながら、いわばダラダラと作業が続いた。それでも約束は約束である。仕事の力が衰えたかなあ。

親父の方は、薬のおかげで痛みに苦しむことはあまりないそうだが、それと引き換えに(何にでも便利なものにはウラでツケがたまるものだ)意識や挙動の方が少し的を得ない。そこへ持ってきて最近になって急にあることが気になり始めたらしく、家に帰るといって騒ぎ出し病院の人の手を焼いているようだ。もう歩くことはできないのだが、それでもベッドを降りて部屋から這い出し、小銭入れを握りしめてエレベータで下に降りようとするのだそうだ。連れ戻そうとする看護士には手を挙げるという始末である。

病院のことはあまり詳しくわからないのだが、この病院はこうしたことがあるたびに、家族や身内に助けを求めてくる。もちろん僕も知らぬ振りをしたいわけではないのだが、何かと言っては近くに住む叔母に親父のところに来て欲しいだの、付き添って病室に泊まって欲しいだのと言ってくる。医師の見識と技量も重要だが、看護の方針や体勢というのはまた別の意味で重要なポイントだ。

そんなわけであまり落ち着いて音楽も聴いていないのだが、先に亡くなったマイケル=ブレッカーが最後に遺した作品が気に入っている。タイトルの意味は「巡礼の旅」という意味。アルバムに収録されている最後の作品のタイトルにもなっているのだが、このタイトルがマイケル自身がつけたものなのかは疑わしい。

作品の内容は、いたってストレートなマイケルワールドでいっぱいある。一時は、楽器が吹けないほど衰弱したこともあったそうだが、この演奏が録音された2006年8月のブレッカーはすこぶる調子が良い。特に何を気負うわけでも予感するわけでもなく、いままで通り自分の音楽を吹きまくっている。確かにブローのピークが一時期に比べて弱い様に思えなくもないのだが、音楽は快調そのものである。

メンバーはピアノにハンコックとメルドゥを含む超豪華メンバー。僕にとってうれしいのはドラムを全編ジャック=ディジョネットが叩いていることだ。キースのトリオでの繊細な演奏とはまた違い、ジャック独自のグルーヴが存分に楽しめる。その意味での一押しは4曲目の"Tumbleweed"だろう。こんなご機嫌なジャック節を聴くのは久しぶりかもしれない。

国内盤のタイトルは「聖地への巡礼」とそのまんまであるが、あまり遺作だ何だと騒いだりせずに味わいたい作品である。マイケルはただひたすら生きようとしている。僕の父のいまの様子もそれと変わらない様に思う。死に至る病を宣告された者がより自分らしく生きようとしている。ただそれだけのことだ。

5/26/2007

デイヴ=リーブマン/リッチー=バイラーク「リデンプション」

 久しぶりにかなり強力なジャズCDに触れることができた。今回はこれを紹介したい。

内容は、サックスのデイヴ=リーブマンとピアノのリッチー=バイラーク、そしてベースのロン=マクルーアにドラムのビリー=ハートからなるユニット「クエスト」が、15年ぶりの再結成により演奏した記録である。録音されているのは6曲、2005年11月の欧州ツアーから前半3曲がスイスのバーデンにおける演奏、後半3曲がその前日に行われたフランスのパリでの演奏だ。

Questとは「探求」と言う意味である。このユニットはリーヴマンとバイラークの双頭ユニットととして、確か日本側の企画で誕生した。1981年から数枚のアルバムがいろいろなレーベルを通じて発売されている。デイヴは1970年のデビューから現在に至るまで、ほぼ一貫してコルトレーンミュージックの継承者としてコンスタントに演奏活動を続けている人だ。一時期、ソプラノばかりを吹いたこともあったが、基本的にはトレーンと同じくテナーとソプラノを中心にした強力かつ自在な演奏が魅力である。

今回の作品でも、コルトレーンに所縁の作品が2曲"Ogunde"と "Dark Eyes"収録されており、デイヴはいずれもテナーで挑んでいる。また冒頭のモンクの"Round Midnight"は、リッチーとの息のあったデュオ演奏。リッチーはやさしく美しい側面と鬼気迫るハイテク演奏を自在に使いこなし、この難しいコード進行の作品を見事に演奏している。僕も昔、この曲を演奏したことがあるが、これだけこの曲を自分のものとして扱えたらさぞかし楽しかっただろうなあと感心するばかりである。

3曲目に収録された2人のオリジナルをつなげたメドレー"WTC|Steel Prayer"が、これまた非常に素晴らしく感動的な演奏である。いずれもタイトルどおり9.11の悲劇をテーマにしたものだが、ジャズという自由を根底にした芸術家らしく、悲劇を乗り越え美しい愛に昇華させてゆく展開には、思わず聴き惚れてしまった。そして、最後の2曲オーネットの"Lonly Woman"とビリーのオリジナル"Redemption"も事実上メドレーとして演奏されている。前半ではデイヴが木製の横笛を披露、後半ではソプラノに持ち替えて4人の壮絶なインタープレイが炸裂する。

2~3週間前に、ここは最近少しご無沙汰していたアランのお店「ジャズロフト」 (jazzloft.com)から、最近のお勧めCDに関するメールをもらったのだが、今回の作品はその中から出会った。発売元は僕のお気に入り、スイスのhathutである。ここの作品は若干入手するのが難しい。僕の知る限りで最も確実なのはアランの店だ。何せ彼のところはレーベルのサイトに特約店として掲載されているほどなのだから。そうでなければ、東京近郊の方はディスクユニオン各店で、あるいはタワーレコードの基幹店(関東なら渋谷店か新宿店、関西ならなんば店か梅田店)であれば出会えるのではないかと思う。

毎回プレス枚数が限定されて少ないのがhathutの特徴だが、今回の作品にはジャケットに枚数の記載がなく"2007,1st edition"とある。さすがに彼らもこれには自信があるようだ。ともかくこの手の音楽に一度でも共鳴したことのある方なら、間違いなくお勧めの内容である。熱い男達の汗が全編にみなぎる快演、必聴!

David Liebman 公式サイト

5/22/2007

パット=メセニー「トラヴェルズ」

このところBlogger.comの調子がいまひとつである。今回もそのおかげで少し更新が遅れてしまった。毎週末の更新を心待ちにしていただいている皆様には、お詫び申し上げたい。

ここしばらくは、難しい音楽から遠ざかっている、というより意図的に遠ざけているといった方がいいだろう。前回のデクスターや前々回のライもそういう傾向の現れだと思うし、それ以外には以前取りあげたウィントン(=マルサリス)のライヴ盤を何度も聴きなおしたりしていた。これなどは捉えようによっては、難しい音楽に入るのかもしれないが、高度な技術に裏付けられた音楽であっても、僕にとっては聴く側に緊張を強いている音楽とは思えない。彼が聴衆に求めているのは、あくまでも"enjoy"そして"relax"である。

そして今回とりあげるメセニーのライヴ盤。これについては、2週間ほど前にまったく久しぶりにラックから取り出し、少し聴いてからすぐにiPodに入れることに決めた。以後、ほとんど毎日欠かさずこれを聴き続けているように思う。僕にとってはいろいろと想い出深い作品である。

メセニーについては、ブラッド=メルドーとのデュオ作品を少し前にとりあげた。最近ではあの続編も発売されたようで、再び彼の活動が精力的になってきた様に思う。しかしながら以前にも書いた通り、僕にとってのパットは、ある時点で終わってしまった。

「トラヴェルズ」と題された本作品は、1982年に行なわれたメセニーグループの全米ツアーの模様を収録したものである。収録されているのは、彼らを代表する名曲に加えて、ツアー中に生まれたと思われる新曲も含まれている。パットのシンセギターの代表的演奏となった冒頭の"Are You Going With Me?"はもちろん見事であるが、僕には少し曲調が飽きてしまっているので、同じギターシンセの名演なら後半に収録されている"Song for Bilbao"がお気に入りだ。この曲は、先頃亡くなったマイケル=ブレッカーのアルバムでも演奏されている。

変則チューニングのアルペジオが美しい"Phase Dance"やそれに続くラテン調の"Straight on Red"もカッコいい。最後を飾る"San Lorenzo"は実は簡潔なテーマを、緩急と強弱の演出で見事なダイナミクスを表現する作品だ。技巧やスケール感で魅了する作品の混じって、旅のなかの静的な一コマを象徴するカントリー調のバラード"Goodbye","Farmer's Trust","Travels"も素晴らしい感性に溢れている。それは紛れもなくアメリカのフィールドを象徴する音楽だ。

そんなふうにどれもこれも素敵な演奏ばかりなのだが、なかでも僕の一番のお気に入りは何と言っても2曲目に収められた"The Fields, The Sky"だ。この作品では単音中心の演奏とは別の意味で、パットの素晴らしいギターワークを存分に楽しむことができる。一応、グループでの演奏になっているが内容はパットのギターの独壇場である。その見事さは正確で力強く、明瞭で美しい。僕はこの翌年の来日公演でこの演奏を生で見ることができたのだが、そのときに受けた衝撃はいまでも忘れられないでいる。

この作品の後、グループはECM最後の作品となる最高傑作"First Circle"、そしてGeffin(現在はNonsuchに権利が移っている)レーベル移籍第1弾となる、こちらも傑作"Still Life"を発表してゆくわけだが、この2枚組のライヴ盤は、彼らがそうした作品の前にこれまでのグループでの音楽活動をいったんまとめてみよう、という思いがあった様に感じられる。

この音楽が僕の心の中に深く残り、それがいまこの時期に再び蘇ってきている理由の一つに、それらが持っているハンドメイドな感覚とでも言おうか、人の手のぬくもりやそれに伴うゆらぎ、あるいはゆとりという意味での遊びの感覚に溢れているという点がある様に思う。

これに続く以降の作品になると、グループの音楽はアンサンブル面での完成度を追求し、それはそれで見事な作品になっていくのだが、一方で何かの約束事に束縛された様な、息苦しさにも似た感覚を帯び始めた様にも、僕には思える。特に"Letter from Home"以降のグループのアルバムは、正直言っていまとなってはあまり聴きたくない作品になっている。もう熟れすぎてしまっているように感じるのだ。そしてそのことは、最近になって発売されたグループとしてのアルバムを聴いても、あまり変化がないように僕には思える。

先の土日で、連休以降2週間ぶりに父親を見舞った。定期的に面倒を見てくれている叔母からは、小康状態という印象を受けていたのだが、やはりここ最近でまた痛みのレベルが強くなってきており、病気が確実に進行していることは目に見えて明らかだった。2日間の短い滞在だった。日曜日の別れ際、父は言った、「お父さんも頑張るけど、もしアカンかったらその時はしゃあないで」。

僕はその言葉を振り払えないまま病院を後にし、特急電車と新幹線を乗り継いで帰路についた。耳からは今回のパットの音楽を繰り返し流し込み、なんとか心のバランスを保つことができたのかもしれない。



5/13/2007

デクスター=ゴードン「モンマルトル コレクション」

久しぶりの「連休」だった。土曜日には電車にも乗らず、近所をぶらぶらしたり昼寝をして過ごした。日曜日も川崎の街まで少し出かけては見たが、母の日商戦でにぎわう街にどこかついていけない自分がいた。それでも、アパートのベランダで育てている植物の面倒を見るためのいくつかの小道具を買って帰った。

植木鉢を耕すのにちょうどいい小さなスコップ、それから一昨年植えたブドウが今年は元気よくツルを伸ばしているので、それを這わせるネットを買った。あとは、うまくできれば夏にビールで乾杯しようと、枝豆の種を買った。これらは家に帰って早速活躍した。

いま住んでいるところから歩いて5分ほどのところに、最近になってインド人によるインド料理のお店が開店しているのを、連休前に発見していた。先週日曜日の夜に続いて、今日のお昼も妻と一緒にそこで飯を食った。本格的なインドカレーとナン、それにチャイがセットになったランチが650円で楽しめる。最近、近所でインド人の家族を見かけるようになったのは、これと関係があるのだろうか。店はとても混んでいたが、なんとか注文をさばいている。

チキンのカレーとマメのカレーをそれぞれ注文し、テーブルの真ん中に2つ並べてシェアして食べた。食事はシェアして食べる、これは大切な習慣だ。どんな料理でも大きなお皿に盛り付け、みんなでつっつきながら食べる、家族が何人いても、あるいはお客様が何人来ても、こうした習慣を大切にしたいと思う。

夕食は土曜も日曜も妻と家で酒を飲んだ。スーパーで買ったお刺身と泡盛だったり、パスタとフレシネだったりした。泡盛のボトルを買ったのは久しぶりだった。こういうのは旨くていいのだが、つい飲みすぎてしまう。このところの日々がああいう状況だっただけに、ついつい酒がすすんでしまう。

酒にあう理屈抜きに楽しめる音楽は何かなと考え、これも久しぶりに取り出したのが今回の作品である。デクスターの演奏に耳を傾けることは、ここ2,3年はなかったかもしれない。彼の演奏は長いキャリアを反映して非常に数多く残されている。僕も有名なものはひと通り耳にしたが、一番のお気に入りはブルーノートの諸作を抑えて、このモンマルトルのライブ盤である。

この演奏が行われ収録されたのがいまからちょうど40年前、そしてそれがCD化されて僕が初めて耳にしたのが約20年前である。CD2枚にぎっしりと収められた12曲は、コペンハーゲンの短い夏の盛りの一夜に繰り広げられた、熱い演奏から選りすぐられた名演ばかりである。

僕がこの演奏を好きな理由は、ライブ盤というものは数多くあれど、この作品ほど自然にジャズクラブの様子を音楽で伝えてくれるものはないと感じているから。別の言い方をすれば、ストレートなジャズの醍醐味を理屈抜きに味わえる、そんな魅力がこの作品にはある。

サックスによるジャズの醍醐味といえば、コルトレーンやロリンズというのはもちろん代表なのだろうが、彼らの作品にはアルコール片手に気楽に楽しむというのとはちょっぴり違う世界が出来上がっているのも事実だろう。聴き手はそれぞれの世界に入り、それぞれのいい意味での「孤独」な世界を楽しむのだ。

デックスのこの作品はそういう意味とは少し性格が異なる。僕はこの作品をアルコールなしには楽しむ気になれない。ビールでもなんでもいい、一杯の酒と冒頭の"Sonnymoon for Two"のご機嫌な演奏で、酒好きのジャズ好きならあっという間にデキあがってしまう。あとはわが家が居心地よいジャズクラブに早変りするのを素直に楽しめばよい。時折メンバーから繰り出されるご機嫌なフレーズに、ふと自分の脇に目を向ければ、にっこり微笑む隣の客の顔が目に浮かぶ、本当にそんな気分にさせてくれるのだ。

自分と向き合うことをなんとなく避けたい気持ち。独りになるのはなんとなく避けたい気持ち。そんななかで、僕は久しぶりにこの作品を訪れた様に思う。放っておけば自分の中に湧き上がってくる気持ちを、この連休は少しだけ遠ざけておきたかったのかもしれない。

5/09/2007

ライ=クーダ「マイ ネーム イズ バディ」

 ろぐの更新間隔がずいぶんと空いてしまった。読んでいただいている皆様にはご心配をおかけしてしまった。お詫びしたい。

最初に言っておくと、父親の容態は現時点では小康状態が続いており、いろいろな問題はあるものの自分で食事をしたり、人と話をしたりするには何の問題もない。この一ヶ月ほどの間は詳しい検査を受けていなかったので、先の月曜日にCTなどの撮影を行い、間もなくその結果を医師から教えてもらう段取りになっている。

多少言い訳がましくなるが、ろぐが滞った経緯を含め近況をご報告しておきたい。4月の最終土曜日から始まったいわゆる「大型連休」に入ってすぐに、妻と僕は父親の様子を観に和歌山に行った。今回は会社から借りたノートPCを持参していたので、余裕があれば連休中に一度はろぐの更新ができるかなと思っていた。

ところが、帰郷する2日前に受けた注射で一時的に非常に気分がよくなっていた父が、勝手に自宅への一時外泊の手続きを進めてしまい、兄や僕らが和歌山に到着したその日の夕方には、もう福祉タクシーを呼んで家に帰るのだと言い張った。自宅への一時外泊は、ガン患者のケアにおいて非常に重要な意味を持つ。たとえ末期の状態でもよほどの事情がない限り、医師側もできる限りそれが実現できるような手配をしてくれるのが普通である。

痛みの発作が再発した場合に備えての緊急用の薬―貼り薬や飲み薬などいくつかが渡されたが、その多くはモルヒネ系のいわゆる麻薬である―をいくつか手渡され、僕らが病院を出発したのは夕方6時頃だったと思う。車椅子の父を乗せた福祉タクシーには兄が乗り込み、妻と僕は、病院の近所のスーパーで当面必要そうな買い物をして後からタクシーで追いかけた。

父を責めるわけにはいかないが、この外泊はかなり無理があった。先ず、それまでの度重なる帰郷である程度片付いていたとはいえ、自宅で父親を迎え入れる準備など何もできていなかった(もちろん僕らの心の準備も)。もちろん自宅には介護ベッドもナースコールもない。加えて、その2日前に受けた注射の効果は早くも失われており、父の意思とは裏腹に痛みの発作が再び起こり始めていた矢先だったのだ。

僕らが実家に着いて玄関を開けると、すぐになかから兄の悲痛な叫び声が聞こえてきた「早く来てくれー!」。あわてて応接間に駆けつけてみると、苦しそうな父親がソファーに座るとももたれるともいいがたい状態で寄りかかっている。口からはしきりに「痛い」と「寒い」を繰り返した。

その日は比較的暖かな気候だったのだが、父をいつもの部屋に運んだ僕らは、電気毛布やエアコン、石油ストーブを動員して部屋を暖め続けた。僕らにはパンツ一丁でも汗だくになる温度だったが、それでも父は寒がった。痛みに加えて、痩せ細って身体の脂肪分がほとんどないので、体温調節などの代謝機能が弱って新しい環境になかなかなじめずにいるのだろう。これは予想外のことだった。

結局、その日の夜遅くにかなり効果の強い貼り薬を処方し、漸く落ち着いた父はそのまま翌日に朝遅い時間まで眠り続けた。僕は兄と応接間にマットを敷いて寝た。この家ができて25年ほどになるが、もちろんこんな経験は初めてである。

2日目には少し状態が落ち着き、好物の茶粥やお刺身などを口にできるようになった。寒さを訴えることもなくなり、部屋の窓をあけて外の風を感じるのが気持ちいいといえるまでになった。山の斜面に開かれた宅地で、車がないと買い物にも不便な土地柄で、いろいろな苦労もあったが、実家の部屋で父が気持ちよさそうにしている姿は、そうした苦労を報いて十分余りあるものだった。

それでも薬の作用からか時折言うことが理にかなっていないこともあった。夕方頃になると、以前僕らが母親とともにこの家で4人で暮らしていた頃に、父が家で部屋着として使っていた着物を着たいと言い出したり、食堂で僕らと一緒に食事をしたいなどと、無理難題ばかりを言い始めたりもした。父からすれば、そうしたことこそが家に帰ってきたことの確実な証であり、病気を克服して自分の人生を取り戻すことの象徴なのだろう。

3日目の早朝になると再び発作が出始め、痛みや息苦しさを訴えるようになった。このまま僕らに任せていて家にいることに、いろいろな意味で限界を感じたのだろう、昼前には病院に帰ると言い出した。一応、外泊許可はその翌日までとなっていたのだが、僕らもそろそろ限界かなと感じていたところだった。

当然のことだが父は機嫌が非常に不安定になり、僕らにも当り散らしたりした。結局、身体の状態から車椅子でタクシーによる移動は無理と判断し、事情を説明して救急車で搬送してもらうことにした。これまでの経緯から、目の前の父が今すぐに命にかかわる状況ではないとわかってはいるのだが、サイレンの音を常に頭上に聞きながら、救急車のなかで酸素マスクをつけて横たわる父を見つめていた僕の目には、うっすらと涙が浮かんだ。

こうして連休中で最も大変だった3日間が過ぎた。病院に運ばれた父は比較的落ち着きを取り戻し、すぐに眠り始めた。それを見届けた僕と兄は夕方には病院を引き上げ、実家に戻った。途中、スーパーでいろいろな食材を買い込み、家に帰って留守番をしてくれた僕の妻とともに3人でビールを飲んだ。後味の悪さと安堵感が入り混じった不思議な味だった。

父が病院に戻ったのは月曜日だった。僕はその後土曜日の朝まで実家にとどまり病院に通った。その間にもまたいろいろなことがあったのだが、それはまたいずれ機会があれば書くことにしたい。ともかく連休とはいえほとんど休んだという実感がないままに9日間が過ぎたというのが正直なところだ。いまさらだが介護というのは、情が基本にあることはその通りだと思う一方で、いまの世の中の仕組みはそれだけでは実が伴わないというのが現実だ。

滞在の途中、以前からこのろぐにもちょくちょく登場する同郷の2人が、和歌山市内まで出てきてくれて、つかの間の楽しいひと時を提供してくれた。僕らが通った小中学校がある県中部の町では、学校や町そのものの統廃合といった問題がさらに現実味をもって進んでいるらしい。僕自身はそれを単純に地域間格差だなどとは思わないが、これも情だけでは何にもことが起こらない問題なのだと思う。

8日ぶりに川崎に戻った。雨が降った日曜日はほとんど一日中ごろごろしていたが、目の下のクマが取れる気配はなかった。ろぐの更新を試みたのだが、ブログのシステムを運営しているGoogleのトラブルでそれができなかった。その状況は結局数日間続き、昨夜になってようやく会社側がトラブルを認め復旧作業に取り掛かったようだ。

職場の仲間には悪いと思ったが、たまたま仕事の予定が少なかった今日の水曜日に休暇をとらせてもらい、先ずはシステムが復旧したところでこのろぐを書いた。

この間、iPodを持っていたにもかかわらずほとんど音楽を聴くことはなかった。ヘッドフォンは癒しには向かないものだ。行き帰りの新幹線の中で聞き始めたライ=クーダの新作が心地よかった。ジャケットとタイトルにある通り、バディという名の猫の目を通してつづられる様々な世相が、ライ本来の音楽であるアメリカンルーツミュージックに乗って次々に展開するご機嫌なアルバムだ。

ジャケットは本の形式になっていて、各楽曲に関する本人の解説が掲載されている。歌詞とともにじっくり読んでみるとなかなか面白い内容になっている。参加ミュージシャンも豪華絢爛である。まあ言葉はこのくらいにして、是非とも音楽そのものを楽しんでもらいたいものだ。

昨日から真夏のような気候になっている。今日も昨日以上に気温が高そうだ。いまからコーヒーでも飲んで、半袖のTシャツで久しぶりに少し街をぶらぶらしてみようと思う。いろいろなものを目にするたびに、父のことを気にすることになるとは思うが、それもいいだろう。忘れるよりはずっといい。

4/23/2007

アンドリュー=ヒル「ポイント オブ ディパーチュア」

 先週の金曜日にまた仕事を休ませてもらい、再び和歌山に親父を見舞いに行った。病気が進むとともに肉体的な苦しみとは別に、深い心理的な葛藤に襲われてかなり混乱しているとの話が叔母からあり、これはさすがに彼女だけに続けて看病をお願いしておくわけにはいかないなと考えた。

金曜日の朝、僕が川崎を発つ直前に叔母からかかって来た電話では、その前の夜における父の荒れようは相当なものだったらしい。これはもう限界だ。その夜は僕が病室に泊まり、その翌日は幸運にも仕事の都合がついた兄も来られることになり、彼に替わってもらうという段取りになった。

僕自身も明らかに少し体調が悪いのを感じていたが、それでも夕方には病院に到着してさっそく病室に向かった。部屋は既に個室に移っていた。一週間前に比べて、やはりまた少し痩せたのは明らかだった。自分たち家族に会うことが、父にどういう精神的作用を及ぼすのか、期待と不安が入り混じりながら部屋に入った。

親父はベッドにごろんと横になって天井を見つめていたが、僕を見るなり表れた表情に、幸いにも短期的には僕の訪問は非常にいい方向に作用したことを感じた。叔母から聞いていたその日の朝までの様子は一変したようだった。そのことは、部屋に来てくれる看護士さんたちの様子からもはっきりとわかった。僕は内心やれやれと苦笑いするしかなかったが、まあそんなことを特に意識することもないように振舞うしかなかったし、それが一番自然だと思った。

担当の看護士さんに促されて、病院から歩いて5分ほどのところにあるラーメン店「まるやま」にラーメンを買いに行き、病室で親父と2人で食べた。もうもうと湯気をあげるラーメンを見て「こんなにようけ食われへん」(こんなにたくさんは食べられない)と言っていたが、それでもお椀に取りながら半分を食べてしまった。さすがに味が濃厚なのでこれ以上食べさせてはいかんと思い、そこまでにしてもらったのだが、親父は久しぶりのラーメンに満足したようだった。

病院で一夜を過ごすのは僕にとって初めての経験だった。考えてみれば母親が入院してそこで命を終えた時でさえ、僕は病院に泊まることは一度もなかった。そういうことはすべて父がやってくれていたからだ。精神的にも落ち着き、おなかも満足した父は、昨夜あまり眠っていないせいもあって、すぐに眠くなったようだ。疲れていた僕も早く横になりたかったので、夜の8時は早くも消灯となった。

病室の付き添い用に用意されたソファーベッドが最悪の代物で、寝心地はとてもいいとはいえなかったが、消灯してからも少し親父と話をしたり、時折求めてくる飲み物を飲ませてあげたり、夜中に一度排泄の処理ついでに看護士さんに来てもらって身体を拭いてもらったりするのを手伝ったりしながら、一夜は過ぎた。午前2時半に時計を見たのを最後に、気がつくと朝の6時半になっていた。

結局、その日土曜日の昼には僕の妻も来てくれ、夕方には兄も到着して、親父にとってはまた寛いだ週末になったことと思う。兄も見るからに調子が悪そうだったが、我慢して病室の寝心地の悪いソファーベッドで一夜を過ごした。日曜日に僕らが帰るときには、少し疲れたような寂しいようなそんな表情にも見えた。その日は叔母にも来てもらわずに一人で寝るといっていたが、その後どういう展開になっているのかいろいろな意味で気がかりである。

叔母から聞いている父の入院中の行状は、確かに理解しがたい部分もあるが、いろいろな事情や状況を考えてみると、僕にはそれがあながち不可解で不条理な出来事であるとは思えいなと考えるようになった。詳しいことは、またいずれ書く機会があるだろうと思う。でも、そのことから僕自身が自分の中で自覚したり確認したりすることはたくさんある。

ジャズピアニストのアンドリュー=ヒルが亡くなったそうだ。75歳で死因は肺がんだったらしい。今回の作品は彼が1964年にブルーノートに録音した代表作である。タイトルの意味は彼の音楽的キャリアの新たな展開を示唆するものであるが、それから42年後の今日が文字通り彼にとっての「出発点」になった。この作品に収録されたジャズの先進性は、いま聴いてもあまりにも斬新である。この音楽的輝きが失われることは当分ないだろう。

ヒルが僕の父と同じ歳だったことは、彼の訃報にふれた今日まで知らなかった。そして、今回の作品が録音されたと同じ年に僕は生まれた。その時、アンドリューや僕の父は33歳だったことになる。

父には少しでも長く生きていて欲しい。そして、少しでも長くそばにいてあげたいと思う。

4/15/2007

再び和歌山へ

親父の様子を見に週の半ばの水曜日から3日間の休暇をもらい、再び和歌山に帰った。最初の2日間は、兄と僕の妻も一緒だった。それぞれ忙しいなかではあるが、なんとか時間をつくって集まることができた。結局僕は土曜日の夕方まで4日間を親父と一緒に病院で過ごした。

滞在中、特に前半は概ね非常に良好な時間を過ごすことができた。兄が一晩病室に泊まり付き添った。状態が良好なので主治医から久しぶりに入浴の許可が出て、看護の人に手伝ってもらいながら、兄が(おそらく三十数年ぶりに)親父の背中を流したりもした。風呂から上がって「最高のリラクゼーションや」と喜ぶ父の姿は、本当に微笑ましいものだった。

僕も食事や排泄の世話をしながら、調子がいいときはいろいろな話をした。3日目の午前中などは、和歌山県の現状と将来について僕の知らない知識をいろいろと披露しながら、1時間にわたって熱く語り続けた。その内容や語り口は非常にしっかりしたもので、叔母から聞いていた数日前までの様子がうその様だった。途中で少し顔を出した叔母は、もりもりと食事をする親父の様子に「狐につままれたみたいや」と驚いていた。

親父の様子は簡単に言うなら、体調としては深刻な病気を抱えながらも、僕達が訪ねた時点では思ったより落ち着いていた。その一方で、精神的な状態が非常に不安定になっていて、そのことが原因でいろいろな問題を引き起こしている様だった。父はある意味で自分の考え方ややり方に固執しがちな性分で、かなり神経質なところがある。人付き合いをするうえでは、その深さによってはやや難しい側面を持っている。

僕の滞在期間の後半になって、ちょっとした体調の変化やいくつかの些細な要因も重なって、その精神的なバランスが一気に崩れてしまった。それを理解するのはかなり難しい。看護や医師など病院の人にはもちろん、兄や叔母でさえ理解できないと嘆くこともある。それは僕も同じだが、この4日間で親父の心に少し近づくことができたという実感は持っている。不安定さを露呈した状態の父を残して、和歌山を離れることにはかなり抵抗があったが、それでも僕は川崎に戻り、できるだけいつもと同じように日曜日を妻と一緒に過ごした。

入院して医師の治療を受けたり、看護の人たちのお世話になるというのは、ある意味特殊な状況下で人間の信頼関係を築いてそれを維持してなければならないことである。しかし、そうした人々の努力にかかわらず、患者側はもちろん、提供されるサービスの側にもいろいろな見込み違いや不行き届きな部分―ある意味人間的部分と言ってもいいかもしれない―が出てくるのはやむをえない。そして、そうしたことにはお構いなく、病気はそれ自身の時間軸を持って活動を続けてゆく。

いまはあまり詳しく書くことはできないが、親父という人間のこと、癌という病気のこと、病院という仕組みのこと、そしてそれを見守る僕たち家族のこと、本当にいろいろなことを考えながら時間を過ごしている。僕が家に帰ってきた今日も、夕方になって病院で騒動が持ち上がり、家族としての判断を求められて電話で兄と話し合うなどあわただしい状況が続いている。

滞在中には、親父のこと以外にもいろいろな出来事があった。小学生からの旧友との和歌山市内でのひと時、まったくの偶然でもたらされた二十数年ぶりの従妹との再会、病院近くにある老舗ラーメン店など、それは親父のことがきっかけで僕にもたらされた日頃離れていた自分のふるさとでの時間でもあった。

父の状況はこれから短期間でさらに目まぐるしい展開が予想される。いまはそれが少しでも父にとってよい結果をもたらしてくれる様に、僕としてできることを考え、行ってあげたいと思う。

4/07/2007

ジョン=ケージ「アトラス エクリプティカリス」

 あっという間に1週間が過ぎた。この間も父親の容態は不安定だった。金曜日の夕方、仕事の出先から叔母に連絡をしてみたところ、あまり芳しくない様子であることを知った。本来なら週末にまた帰ってあげたいところなのだが、どうもこのところの疲れがたまって肉体的とも精神的とも言えぬ、妙な疲労を感じていた。とりあえず実家に戻るのは来週にしてこの週末は自宅で過ごすことにした。

週の始め月曜日に、同じ和歌山出身の旧友と新宿で飯を食った。彼の親父さんもちょうどある病気で入院しており、先日の手術には彼や彼のご家族皆で帰ってあげたのだそうだ。やはり家族からもたらされる作用は、病気の本人にしてみればとても力強いものなのだなと、彼の話を聞きながら、自分達の先週末を思い出してそう感じた。

東京は「花冷え」の1週間だった。それでも週の後半に向け少しずつ暖かさを取り戻し、この週末は過ごしやすい気候になった。「衣替えしなきゃ」と洋服を出し入れする妻を家において、僕は少し街をぶらぶらした。何を考えるともなく、何を探すでもなく。

街は就職で上京した若者を中心ににぎわっていた。景気を反映してか、ここ十年くらいの間で考えると、この時期の東京のにぎわいとしては最も多いような印象を受ける。街中で見かける彼らに自分の同じころの姿を重ねることはなかった。たぶんいまの自分はいまの春に何かの始まりを感じてはいないのだろう。

今回もまたケージの音楽を紹介しておきたい。ケージの全作品を発売することをめざしたシリーズを続けているアメリカのmode recordsから発売されたCD3枚組の作品である。といっても2枚は以前LPで発売されていた作品のCD化で、今回はそこにこれまで未発売だった新しい音源を1枚追加したセットになっている。今回取り上げたいのは、その新しい音源である。

作品名はケージが1961年に作曲した楽曲のタイトルである。これはケージが作曲に際して参照した書籍のタイトルからとったもの。"Atlas Eclipticalis"とは直訳すれば「楕円形の地図」とでもいうことになるが、本の内容は天空に散らばる星々の配列を克明に記した、いわば「星の地図」である。

この作品について書かれたものに、本作品が「星座図を元に作曲された」とするものがあるが、これは実はかなり重大な間違いである。星座は天空の星の配列に人間が勝手な思い込みで、様々なものの姿を見出して作り上げた「人為的」なものである。ケージが参照したのは、そうした人の意思を排した純粋な星の配列であったことは、彼の音楽の根底にある「偶然性」という意味において極めて重要なことである。

この作品はどういう音楽なのか。ケージは星図の任意の場所に幅の狭い五線譜を重ね合わせ、そこに入った星を音符に見立ててそれを写し取ったのである。星の明るさは音の大きさに反映された。そうして写し取った数多くの音列を複数まとめたものを1つのシステムとして、それをオーケストラを構成する86のパート別に分けていったのである。これがこの作品の楽譜である。

ケージはこの作品の演奏について、それらのパートをいかなる組み合わせで演奏してもよいとしている。つまりフルートのソロ作品として1人でフルートのパートだけを演奏してもいいし、10人のアンサンブルで演奏してもよい。もちろん全パートを同時にオーケストラで演奏してもいい。演奏時間やテンポは特に決められておらず、指揮者あるいは演奏者がそれを決定する。

今回紹介する3枚組CDの、最初の2枚にはこれを10人で演奏した2種類のバージョンが収録されている。そして今回初めてリリースされた音源である3枚目には、全パートをオーケストラで演奏したいわば「完全版」が収録されている。これはケージ自身の監修のもと行われた1988年の演奏を記録したもの。ちょうど僕の心はケージの音楽に傾いていたところに、オーケストラ版を聴いたことがなかったこともあって、今回のセットがリリースされたことはうってつけのタイミングだったわけである。これも何かの「偶然」だろうか。

もう「えぬろぐ」ではよくあることかもしれないが、ここまでの話を読んでいただいた多くの人は「果たしてそれは音楽といえるのか」という疑問を抱くだろうと思う。そしておそらくそれと同時に、実際にそれがどんな音楽(演奏)なのについて、少しは興味をお持ちだろうとも思うのだがいかがだろうか。

この音楽をわかりやすく言うなら、それぞれの音は天空の星のひとつひとつである。そしてその瞬きを表現したものが作品全体ということになる。ケージは必ずしもそういう言い方をしていないが、少ないパートで演奏される場合、それは星があまり見えない空を表しているのかもしれない。そしてオーケストラで演奏される場合は、いわゆる満天の星空を表しているとも考えられる。

星空を見て、そこにどんな音楽を想起するかは個人の自由だ。ある人はホルストの「惑星」を思うかもしれないし、ある人は「星影のステラ」だったり「星に願いを」かもしれない。その音楽が何だって構わないのだが、「星空の音楽」と言った場合、それらの音楽とこの作品は明らかに異なる点が一つある。それはこの作品が実際の星を音符にしているという事実だ。それに対して、ホルストや星影のステラはあくまでも作曲した人の主観的なイメージが反映された音楽に過ぎないのである。音楽としてどちらが自然か、というような議論はもはや意味がないだろう。

初めて耳にした「完全版」の演奏は、まさに「満天の星」であった。僕にとっては非常に感動的なものだった。僕の実家の和歌山でも、相当に山奥の方に行かないとこんな星空は絶対に見えないだろう。そこに僕は、長らく忘れていた星空の本当の姿を「見る」ことができたのである。

おそらくこのつたない文章を読んでいただいて、少しは音楽の様子が想像できる方もいらっしゃると思うのだが、たぶん実際に聴いてみた時の印象はもっと強く明確なものとして伝わってくるのではないかと思う。

この音楽は多分じっくりと傾聴するものというよりも、ある意味それとともにいるという様に楽しむのがいいと思う。大きい音で聴いてもいいし、小さな音で楽しむのもいい。星空の楽しみ方は人それぞれだろうが、無心に星を見つめるのも、その光の配列と流れに任せて何かの思いにふけるのも自由だ。この音楽はそういう楽しみ方を実際に与えてくれるように思える。それは人が勝手にイメージしたものよりも、もっと自然に星空と同じ想いをもたらしてくれる。

これを聴きながら僕が考えたのは、ぼんやりとではあったがやはり父親のことだった。そういえば父も星が好きで、家には僕が幼い頃からビクセンの天体望遠鏡があった。あれはどこにいったのだろう。

Atlas Eclipticalis オランダのケージ研究家 André Chaudron氏の運営するサイトにある、本楽曲の解説(英語)

4/03/2007

紀州の桜

先週末は妻と二人で和歌山に行き、入院中の父を見舞った。土日一泊二日の旅程は、仕事がさほど忙しくなければまだ平気だと思うのだが、期末の諸々があって身体は少し疲れていた。土曜日は病院に直行し、夕食時まで父の傍らにいた。夕方頃になって少し元気を取り戻し、ベッドにゴロンとなりながらもいろいろとしゃべる様子を見て、少し安心した。

その夜はJR和歌山駅の地下にある「酒処めんどり亭」で妻と二人で軽く飲みながら食事をした。駅の近くにある有名な食事処が出店している、カウンター席だけの店。名物は串焼きと串カツである。新鮮な材料を確かな手でしっかりと調理して出される品々はどれもうまい。ちなみに串はほとんどが1本110円という信じられない値段である。ビール3杯にお燗酒、串をいろいろにやっこ、枝豆、最後に〆の名物とりめしの小さいのをいただいて、4100円であった。

翌日は、兄と甥っ子がやってきた。甥っ子はちょっと事情があって妻や僕と会うのは結婚式以来だから、8年ぶりということになる。小学5年生になっていた。将棋の相手をしてくれとせがまれ、見栄を切って30年ぶりに将棋をしたが、何とか勝つことができ面目は保った。あれが以下に頭を使うかということを改めて実感した。

その日も父はまた少し元気になり、僕らは夕食前に発ったのだが、兄の話では食事も完食だったそうだ。短くて親不孝な見舞いだったのかもしれないが、何らかの元気をあげることができ、帰りの新幹線では少し気持ちが明るくなった。

日曜日の病院と駅の行き帰りに、歩いて和歌山城のなかと通り抜けた。桜が満開でたくさんの屋台が出ていて園内はにぎわっていた。電車の窓から見える山々では山桜がところどころで満開になっていて、それもまた美しかった。こんな春なら少しでも永く続いて欲しいと願った。

めんどり亭 駅地下のお店の情報はありません

3/24/2007

ジョン=ケージ「プレリュード フォー メディテイション」

 ジョン=ケージの音楽を求めてCDラックの前に立つ。

僕には聴きたいと思う音楽がいつもたくさんある。アマゾンのトップページを開くたび、いままでの履歴から毎回いろいろなCDを推薦してくる。それは高柳昌行だったり、YUIだったり、のだめオーケストラだったりする。そのどれもに少なからず興味を抱き、時に購入することもある。

なぜその音楽を聴きたいのか、ということをあまり明確に意識したことはないし、そんなことを考えても意味がないと思うことがほとんどだ。だけど、いまジョン=ケージの音楽を僕が求めるの理由というか原因のようなものについては、なんとなくわかるような気がする。

僕はケージの代表的な作品については、一通りCDを持っている。スイスの現代音楽レーベル"HatHut Records"がリリースした一連のケージ作品のシリーズは、僕の大切な宝物だ。これを揃えるまでに随分といろいろなお店を回ったものである。以前取り上げた「7つの俳句」が収録されているのも、このシリーズのもの。同じタイポグラフィで統一されたジャケットデザインは、シンプルだがコレクターの心をくすぐる。

全部で十数枚あるシリーズのなかで、僕が最もお気に入りなのが今回の作品である。ケージの4つの作品を、前衛ピアニストのヒルデガルド=クリーブが演奏している。作品の中核をなす2曲は彼女の長年の盟友でトロンボーンのローランド=ダヒンデンとのデュオである。

冒頭の"Prelude for Meditation"は1944年のプリペアドピアノ作品。わずか1分少しの超短編だが、このアルバムの導入曲として見事な役割を果たしている。「響き」を美しく表現することが求められる作品であり、クリーブの演奏とhathutの録音エンジニアの腕前は息が詰まるほどに見事だ。

続いて本作品のメイン2曲。先ずはケージの代表作の一つである"Ryoanji(龍安寺)"。ここではトロンボーンとパーカッションのデュオとして演奏され、パーカッション部分はクリーブがピアノを金属片で叩く音が用いられている。2つの異なる材質からなるもので演奏されることは、作曲者の指示に基づいている。17分間にわたって繰り広げられる石庭の音宇宙が見事である。

そして40分間にわたる"Two(5)"。ここでは音と音の間隔はさらに広げられ、時に無音部分が数十秒続くこともあり、音楽的瞑想はさらに深い段階に入ってゆく。やさしいタッチでありながらとがったガラスのような輝きをもつピアノの音色と、丸く連続的な音程変化をもつトロンボーンによる音の邂逅に、僕はいつも時間を忘れて恍惚となる。

アルバムの最後は1948年のピアノ曲"Dream"。これは個人的には20世紀で最も美しいピアノ音楽の一つとして挙げておきたい作品であり、とりわけこのアルバムでのクリーブの演奏が素晴らしい。夢の極地にまで至った瞑想は再び還るでもなく永遠に続くでもなく、CD演奏が終わったことに気づかないこともあるほどに、止まった時間として存在することもある。

残念ながらこのCDは現在廃盤になっており、かなり入手は難しい状況だと思う。しかしhathutは過去の優れた録音を定期的に再発しているようなので、この作品も近い将来必ず再び世に出回ることになるだろうと信じている。

僕がこのところケージの音楽を求める理由、それはやはり父のことだと思う。確実に近づきつつあるブラックホールのような深い闇。そのことを想うと、僕は無意識のうちに、ケージが生み出した必然や偶然を超え音の有無を超えた音楽にすがりたい気持ちになるのだろう。

HatHut Records
Hildegard Kleeb
Roland Dahinden

3/19/2007

和歌山 大阪 京都 奈良

出張で関西に行けることになり、ちょうどいい機会なので実家に立ち寄って親父の様子を見て来ようと考えた。本当は業務ついでにそんなことをしてはいけないのだが、せっかくだからと上司も快く認めてくれた。ところが、明後日から出発という段になって、叔母から親父が急遽入院したと連絡が入り、準備もそこそこに僕はその日に荷物をまとめて実家のある和歌山に向かった。

幸い親父の具合は大丈夫だったものの、2晩泊まった和歌山ではいろいろなことがあった。ここには詳しくは書かないが、主治医の先生との話があり、叔母とのいろいろな話もあり、兄貴と親父と3人での外食があり、僕と親父のちょっとした諍いもあった。東京ではかなり遅い初雪が舞ったそうだが、西日本もとても寒い一週間だった。

結局、僕は予定通り出張に出ることにした。訪問先は奈良県にある研究施設と京都にある大学だった。久しぶりに阪急電車京都線の特急に乗って京都まで移動した。僕がその沿線に暮らしていた二十数年前は、特急といえば十三を出たら京都まで止まらないというものだったが、いまでは当時の急行電車とほとんど同じ駅に停車するようになっていた。それでもセンスのよい阪急電車の車両は相変わらずで、それが僕の心を和ませてくれた。

仕事ではなかなか有意義な人々との出会いがあり、充実した出張になった。そして、いまは休職して京都の大学に籍をおいて活動しているかつての後輩の案内で、百万遍周辺のお店をいくつか楽しませてもらった。移動で乗ったタクシーの運転手は、桜の開花予想がはずれて商売のアテも外れましたわとボヤいたが、まああと1週間もすれば桜の便りは届きそうな雰囲気ではあった。

入院中の親父には悪いと思ったが、京都の食べ物はどれもおいしかった。やはり知らない土地での飲食は地元の人の案内に限る。川崎に残して来た妻には悪いと思ったので、今回は知人のアドバイスも取り入れて、帰りにいろいろな京都の味をお土産にして帰った。京都から和歌山に帰ることも少し考えたのだが、さすがにもうクタクタだった。考えれば、新幹線を始めいろいろな乗り物に乗りまくった4日間だった。疲れるはずである。

移動中、いつもの様にiPodで音楽を聴いた。前回取りあげたキースの作品、それから僕の不安で落ち着かない心を映す様に聴いたのがスティーヴ=ライヒの"Violin Phase"だった。出張中に何度聴いたかわからないほどだった。おかげで極めてメカニカルでかつ繊細なこの曲を、さらに深く理解することができた。

他に、無性にジョン=ケージの音楽が聴きたくなったのだが、残念ながら持ち合わせがなかったのでそれは家に帰ってからじっくりと聴いた。これについてはまたいずれ書こうと思う。

そんなわけで、少し疲れがたまってしまったのでろぐの更新が遅れてしまった。久しぶりに仕事に出た今日も、少し気になって合間に病院の父に電話を入れてみた。寂しそうではあったが、元気そうな声に僕は安心して仕事に戻った。

3/10/2007

キース=ジャレット「ブリッジ オヴ ライト」

 自宅で愛用してきたiBookを不注意でテーブルの上に落としてしまい、電源の接触に問題が発生してしまった。結婚後しばらくして買ったものだからもう7年近く使い続けている、いわゆる貝型の初期iBookである。無理やり新しいOSを動かしているのでアプリケーションの動作は鈍いのだが、キーのタッチもやわらかく、ろぐを書いたりするのには気に入っていた。修理しようかどうしようかまた悩みが増えてしまった。

今回は会社から借りているWindowsマシンを使って書いている。出張なんかにはとても便利な道具なのだが、キーボードが狭く文章を書いたりするのにはなかなか慣れないものである。僕個人の考えとしては、情報の作業を行う画面と居住空間にはある一定の(といってもそんな大げさなものではない)広さや大きさが重要だ。日本人の得意な発想である何でも小さくコンパクトにしてしまうことにも、メリットとデメリットがある。見過ごされがちなことかもしれないが、これは文化や社会につながっていく大切な問題だと思う。

前回のろぐについて実のところを白状すると、ほとんど書き上げた段階で以前あの作品を取り上げていたことを思い出した。僕の中では取り上げたのはコルトレーンの「アセンション」の方で、あの作品は参考作品として扱ったつもりだったのだが、実際には逆だったのだ。まあ過去にも2回取り上げた作品もあるし、実際にその週に聴いて一番印象に残った作品なのだからよしとすることにした。今週も仕事帰りに一度聴いたが、聴きたいと求めて聴く作品は、大抵の場合見事に僕の心を癒してくれる。

今回は、前回少し触れたキースの作品を取り上げる。1994年に発売されたこの作品はECMのクラシック音楽作品のレーベルである"ECM NEW SERIES"からリリースされたものである。キースは同レーベルから数枚の作品を発表しており、その多くはバッハやモーツアルトなどを演奏した作品であるのだが、この作品はキースの作曲作品集になっている。その意味では、少し前にとりあげた"In the Light"に通ずる内容である。僕がこれを聴いてみようと思ったのも、あの作品との出会いがきっかけになった。

ここに収められた音楽の素晴らしさは、僕自身にとっては最近の大きな喜びのひとつと言っていい。奥が深く、優しく、そして重要なのは多くの人に開かれた音楽であるという点で、この作品は本当に素晴らしいものである。収録作品は4曲。ヴァイオリン、ヴィオラ、オーボエのそれぞれとオーケストラのための作品、そしてヴァイオリンとピアノのためのソナタがありこの作品ではキース自身がピアノを演奏している。

 作品は彼がクラシック音楽にのめり込んだ1980年代半ばから1990年に書かれたもの。キースの音楽キャリアの中でも明確に一つの頂点といえる時期のものである。こうした彼の音楽的発展とその思想については、DVDのドキュメンタリー作品"The Art of Improvisations"(写真右)に詳しいので、興味のある方は一見されることをお勧めする。

日頃ほとんど音楽など聴かない人が、この作品を突然家に持ち帰って聴いたとしても、本人や一緒に暮らす人に大きな感銘を与えることだろう。逆に毎日いろいろな音楽に入り浸っている人にとっても、結果としては同じことになるのではないだろうか。

あくまでも僕個人の意見だが、この作品をして「馴染みにくい」はもちろんのこと、「単調だ」とか「面白みに欠ける」と評することもまたあり得ないことだろうと思う。まったくキースのことを知らない人にとって、この作品が彼への入り口になることがあったとしても、何ら驚くにはあたらないだろう。

僕自身にとっては、いろいろなまわり道をした結果たどり着いた大切な音楽作品であると思っている。たぶんこれからいろいろな機会にこの作品に耳を傾け続けることだろう。その度にここにある音楽は僕に音楽の喜びをもたらし、新しい側面を見せ続けてくることだろう。

案の定、現在は店頭で入手することはかなり困難なようだが、アマゾンなどの海外通販を通じればまだまだ容易に買うことができると思う。日頃音楽への接し方の如何を問わず、このろぐを読んでいただいているすべての方に、自信を持ってお勧めしたい音楽作品である。

3/04/2007

ローヴァ サキソフォン クァルテット「ジョン コルトレーンズ アセンション」

 久しぶりに土日をのんびりと過ごせたように思う。春を通り越したような陽気になった今日の日曜日は、妻と多摩川沿いに二子玉川まで自宅から歩いてみた。これまでも何度か歩いたことがあるのだが、あの界隈に行くには川沿いを歩くのが一番近い。お昼に家を出て、目的地に到着したのは午後2時少し前だった。途中、河原のいろいろなところでいろいろなスポーツに興じる人たちを見かけた。

長袖のTシャツ1枚でも十分に暑かった。それでも途中でどうしても水が欲しくなるという程でもなく、着いたら河原でハンバーガーでも食べようと決めて、いろいろな話をしながら淡々と歩いたように思う。僕は妻に最近気になっている高柳昌行の音楽作品について話して聞かせ、最近の人間が持っているこだわりとはどういうものだろうかについて意見を求めたりした。

マクドナルドの食べ物を口にするのは久しぶりだった。僕はそれほど強い嫌悪感を抱いているわけではなく、たまに妙に食べなくなるのも事実である。だんだんその間隔が空いていっているように思うのもまた事実だ。僕はかなり腹ぺこだったので、最近話題になっている「メガマック」というやつに挑戦することにした。ビッグマックのダブルヴァージョンという商品で、3枚のパンズに4枚のハンバーグを挟んだ食べ物である。

腹は減っていたので完食はしたものの、やはり僕はその食べ物に対して歳をとり過ぎていた。一度食べられたのでもう満足という感じである。おかげでそれまで歩いて消費したエネルギーがすっかり還ってきた。帰りはそこからさらに溝の口まで歩いて、少し買い物などをして電車で家に戻った。足が心地よい筋肉痛になった。

話は前後するが、昨日の土曜日は独りで渋谷に行った。渋谷のディスクユニオンが中古CDの買取り強化をやっているというので、僕はここ1、2年に買ったCDを中心に失敗した買い物を少し見繕ってみた。結局、押入にしまってある段ボール箱にまで手が延び、いろいろと考えた末に14枚を今回は処分することに決めた。

見積もってもらったらキャンペーンの上乗せ分も込みで8千円と少しになるというので、僕はそれらを処分することに同意してお金を受け取った。代わりに欲しい音楽がいろいろあったのだが、年があけてからかなり積極的に購入をしているので、今回はぐっと我慢することにした。それでもいずれ買うことになるだろうというものが3セットはあった。

少しお小遣いが入ったので最近お気に入りのラーメン屋さん「壱源」で、少し贅沢をしようとみそチャーシュー麺を食べてみた。しかしこれも僕のような歳の人間にはいささか過剰な肉だった。やはり普通のみそラーメンが如何にバランスを考慮しているかを改めて実感しながら店を後にした。というわけで少々肉をとり過ぎた週末であった。

家で処分するCDを見繕いながら、僕はこのろぐのことを考えた。今回は何を取り上げようかと考えるうちに、このところ僕の耳がキース=ジャレットとコルトレーンを中心にした音楽が回っていることに気がついた。キースについては、もはやスタンダード中心のピアノトリオよりも彼自身によるオリジナル作品、特にピアノソロとピアノ以外の楽器による作品群そして作曲作品といったところに興味が集中している。最近また非常に素晴らしい作品に巡り合えたので、近いうちにそれを取り上げてみたいと思っている。

コルトレーンについては、やはりマイケルとアリスの一件以来そのことが僕の耳を彼の音楽に向かわせているように思う。それについても、僕の関心事はほとんど全て彼の後期作品に向けられている。歳とともにそうした作品は聴くのが辛くなると誰かが雑誌か何かに書いていたのを時折思い出すのだが、今のところ僕にはそういう徴候はない。それどころかむしろそういう音楽を求める気持ちが強くなっていく様にさえ感じられる。

今回もそうした関係のなかから作品を取り上げることにした。実はこの作品は以前にも一度紹介したものである。ローヴァ サキソフォン クァルテットがコルトレーンのアセンション録音から30年経過した1995年に、それを記念して開催したイベントで自分達の4人に、2人のトランペットと2人のベーシスト、ピアノ、ドラムを加えてオリジナル作品と同じ編成でその再現に臨んだ記録だ。

前にも書いたと思うが、この演奏はかなり強力で原作を凌ぐ圧倒さを持っている。原作から経過した時間のなかで、その精神は着実に進化しいまの時代に脈々と受け継がれている証を呈している。最近、コルトレーンの原作を聴いてみてどうしてもまたこの演奏が聴いてみたくなり、iPodに入れたところヘヴィーローテーションと化してしまった。仕事に疲れた時でも、帰りの電車でこういうものが聴きたくなるのは、やはり僕はここから何かをもらっているのだろう。何かが吸い取られているのではなく、何かを浪費しているわけでもない。肉を食べ過ぎた身体にはいい刺激になっているのかもしれない。

疲れたら静かな音楽を聴いてリラックス、僕にとっての音楽はそういうものでないことだけは確かなことだ。それはまだしばらくは続くことだろう。僕は歩き続ける。

Rova ローヴァ公式サイト

2/24/2007

セシル=テイラーを観た

先週の水曜日に東京初台のオペラシティで、セシル=テイラーの来日公演があった。本来は1月初旬に予定されていたのだが、セシル自身の体調の都合で延期となり、この日ようやく実現したものである。忙しいさなかであったが、もうこれを逃しては彼の演奏を生で聴く機会はないだろうと、〆切が迫っているレポート作りも早々に放り出して会場に向かった。

ほぼ1年前にこのろぐでレビューしたオーネット=コールマンの時と同様、今回もなぜか山下洋輔とのジョイントコンサートになっていた。最初に言っておきたいのだが、個人的には今回の企画は音楽的な観点からは成功とはいえないという感想を抱いた。

オーネットの時もなぜ「わざわざ」山下を当てるのかという素直な疑問はあったのだが、結果的には新しい音楽を追究するオーナットの姿勢を聴衆の一人としてうまく受け入れることはできた。しかしながら、今回それはかなり難しいだろうことは初めからある程度予想はできたし、結果的にもその通りとなった。

コンサートは二部構成で、最初にそれぞれのソロを披露し、続いてデュオでの演奏した。セシル観たさに気持ちがはやったのか、僕はまず初めにセシルが出てくるものと思い込んでしまっていた。会場が暗くなって山下が登場した時は、大好物のとんこつラーメンを待っていたらみそラーメンが出てきた時の記憶がよみがえった。余談だが、その時僕はそのみそラーメンを食べたのだが、それは格別にまずかった。後日同じ店でみそラーメンを注文して食べたら、それはそれなりにおいしかった。ものの評価は必ずしもその本質だけでは決まらない。

山下はオーネットの時と同じ格好で舞台に現れ同じ台詞をしゃべった「とうとう僕の人生の中でこの時がやってきました」。彼は2曲の演奏を披露し、ピアノを交換する段取りの後いよいよセシルが登場した。彼が舞台に現れないうちから、木の玉で作ったと思われる楽器(もしかしたら首飾りかもしれない)のじゃらじゃらという音が響き渡った。続いて彼の即興詩の朗読が始まったかと思うと、セシルが牛歩戦術の様なダンスをしながら舞台に現れた。この登場にオペラシティに集まった聴衆はあっけにとられた。

おもむろにピアノの前に座ると彼は20分近くかけて、たっぷり1つの演奏を披露してくれた。その前の山下の演奏がなかったらもっとピュアに楽しむことができただろうが、それが非常に悔やまれる。山下がいかに偉大なアーチストであろうとも、セシルの前ではその影響でスタイルを作ったピアニストに過ぎない。

ピアノという楽器の特性上、一定の音楽の様式に乗っ取った演奏をするうえでは、同じ曲を演奏しても音楽の複雑さ(これもよく考えればあまり意味のないことだと思うのだが)とはまったく無関係に、演奏者の個性がそこに反映される様を楽しむことができる。ある意味それが現代のピアノミュージックの大きな楽しみ方になっている。

ところが、本来はより自由な表現を求めて様式の枠が取り払われたはずのフリーフォームな演奏となると、途端に表現の限界が露呈する。それでも現代音楽の様に一聴した感じではフリーフォームのように思えても、実は細部まで綿密に構成された音楽の場合は、やはりコンポジションとしての楽しみ方は不変である。しかし、インプロヴィゼーションとなるとピアノ本来の雄弁さは急に影を潜めてしまう様に思えてならない。今回のコンサートで僕が一番感じたのはやはりその点だった。

考えてみれば、ジャズの世界ではピアノはサックスやトランペットともに花形楽器の一つであるが、フリージャズの世界に限って言えば、そこはほとんど管楽器と打楽器の独壇場といっていい状況である。セシルはその世界で数少ない(もしかしたら唯一の)スタイリストでありその個性は強力であるが、フリーの世界で他にどんなピアニストがいるかと考えてみれば思いつく人がいない(もちろん山下は思いつくが)。

コンサートのことを「日米フリージャズの競演」とか「2人の強烈な個性が激しくぶつかり合い・・・」と表現することはまったく持って構わないと思うのだが、実際に聴いてみた僕の感想は、演奏が激しくなるほど2人の個性は薄れ、その交わりの中に何か新しいものが聴こえたかと言えばそれはなかったということになる。その意味ではやや残念な結果であった。個人的にはセシルの単独公演か、それが無理なら打楽器とか管楽器とかそういう人とのデュオなりを期待したかったところである。別に同じジャンルの人間で紫綬褒章の「文化人」である必要はないと思うのだが。

とはいえ、フリーピアノインプロヴィゼーションの醍醐味を存分に味わえる内容ではあった。前半はそれなりに民族衣装っぽい出で立ちでショーアップ(?)していたセシルだったが、後半のデュオでは大好きなスポーツウェア(膝丈のナイロンパンツにTシャツ)に着替えて現われ40分以上に及ぶ熱演を繰り広げてくれた。アンコールに応えて5分ほどのデュオパフォーマンスも披露してくれた。セシルは観客の拍手を浴びるのが苦手らしく、すぐに舞台から去ろうとするので山下が懇願して観客に再度挨拶するのが微笑ましかった。

会場にはかなりのご年配の方も含め年齢層の高い聴衆が集まっていた。考えてみればセシルはもう半世紀以上も演奏家として活動している。1960年代のジャズに青春を謳歌した人の中にも、密かにセシルを支持してきた人は少なくなかったのかもしれない。まぎれもなく彼は「ジャズジャイアント」なのだから。オーネットともにその姿と元気な演奏を生で楽しむことができたのは、僕の人生でも大切な体験である。

以後、セシルの演奏をいくつも聴いた。やはり一番のお気に入りでこのろぐでも初めの頃に取り上げた"Dark to Themselves"は、iPodで聴きながら思わずうなってしまう名演である。このユニットがもしいま僕の目の前に現れたらしばしの発狂を楽しめそうである。他にも何枚か持っているソロ演奏やユニット演奏、デュオ演奏などの作品を聴き漁った。やっぱりセシルの音楽は素晴らしい、万歳!