3/30/2006

矢野沙織クインテット@六本木サテンドール

前回に続けて「3夜連続ライヴ」の2回目は、3月27日(月)の夜、六本木のジャズクラブ「サテンドール」で観た、矢野沙織クインテットについて。

矢野沙織は最近話題の女性アルトサックス奏者。1986年10月生まれというから若干19歳である。名前はCDショップでもらうフリーペーパーとかで目にしていたが、そんなに若い子だとは思っていなかった。初めて演奏を耳にしたのは、NHKの「トップランナー」に出演したのを観たとき。といっても、実際それも録りだめてあったものを、今回観に行くことになったので、予習のつもりで1週間前にチェックしたという次第。

長い休みの最中、一度だけ会社の同期仲間2人と、一杯やる企画があった。場所は、自宅から電車で3駅のところにある武蔵中原の「とんかつ武蔵」。この店はトンカツはもちろん、いろいろな料理がおいしいお店。値段は決してお手頃とはいえないが、その価値は十分にある。店が狭いのですぐ一杯になってしまうのが難だが、この日は運良く座敷の一角に陣取ることが出来た。

同僚の一人が、以前このろぐでもとりあげたサテンドールの常連で、僕がたまたま矢野沙織のライブがあるね、と振ってみたところ、その2人で観に行く予約をもう入れているとのこと。なんだ、じゃあ僕も行きたいと言ったら、その場でお店に電話して人数を変更してもらった。

おかげで当日はまたバンドの真正面のボックス席である。さすがに前回の渡辺香津美の時とは違って、店内は5〜6割程度の入りだった。まあこのくらいがちょうどいい。まだ始まる前のステージに目をやって、今回はトランペットも入ったクインテットだと知った。3ステージ制だったので開演は少し早めだった。

「トップランナー」で観た印象と少し違って、実際に観た矢野沙織は意外に大きな人だった。番組の時はアフロっぽいパーマヘアだったが、今回は少しウェーヴのかかったヘアスタイルで登場。トランペットも市原ひかりという女性だった。

この市原という人は、演奏が始まってから、もしかしたらそうかなと思ったのだが、途中演奏された彼女のオリジナル曲を聴いて、2週間程前に川崎駅前のショッピングモールで、休日のアトラクションで演奏していた人と同一人物だということがわかった。彼女もまだ23歳である。若い女性2人がフロントのジャズクインテット、現代という時を感じる。

演奏の方は、1950年代の割と馴染み深いジャズスタンダードを中心に、ときおり市原のオリジナル曲が演奏された。2人が交互にMCを務めながらの進行は、さながら大学の学園祭の様な雰囲気にも感じられ、ほのぼのとした感じだった。

矢野のアルトはテレビで初めて聴いた際に思った通り、(チャーリー)パーカー調のストレートなジャズ演奏である。メジャーレーベルからCDデビューしているだけあって、なかなかスムーズなソロをとる。市原の方も、指と唇がよく動いていて、なかなか流暢なソロを聴かせてくれる。例えるなら陽気な曲を演奏しているケニー=ホイーラーに似た感じだ。

しかし、やはり僕には2人ともジャズという意味では、まだまだこれからの人かなという印象だった。特に市原は、曲が進むに連れて音使いの単調さが気になるようになった。矢野はなかなか健闘していたとは思うが、やはりオリジナリティとかそういう意味では、まだかなり物足りない様に感じた。まあこんな娘が、往年のジャズのスタンダードを器用に「ジャズっぽく」演奏してくれるなら、おじさん達は大喜びなのだろうが。

途中、来日中のローリング・ストーンズのバックバンドとして来日中の、ティム=リーヴスという白人のテナーサックス奏者が紹介され、1stステージで「オレオ」、2ndステージで「バット ノット フォー ミー」に飛び入りした。僕は彼のことは全く知らなかったが、やはり本場で活躍するプロのミュージシャンらしく、ソロからはロリンズやコルトレーン、ショーター、ロヴァーノなどいろいろな人のスタイルの片鱗がきらめいて、なかなか見事な演奏だった。彼のソロには、さすがに若い2人もじっと聴き入り、時には感激を隠さなかった。このコントラストはなかなか面白かった。

結局、酒も飲み放題コースを選んだので、3ステージを通して楽しませてもらった。ただし3rdステージは、ティムも出なかったし、彼女達もかなり疲れてきたのか、内容は新鮮味に欠けた。それでも3ステージを通して演奏するパワーはさすがである。

バックを務めた3人の男性のうち、ピアニストはどちらかというとフロントの2人に近い世代の人で、音楽的印象も似ている。リズムの2人はもう少し世代が上で、こちらは堅実にしっかりとした演奏を聴かせてくれた。やっぱりベースっていいなあということを実感させてくれた。

まあ少し否定的なことも書いたが、全体的にはとても楽しめた夜だった。3ステージはあっという間に終わってしまった。常連客の彼が、ここで度々酒と音楽を楽しみに訪れたくなる気持ちはよくわかった。僕もまたちょくちょく訪れてみたいと思う。いい場所だ。

なんとか終電に間に合って午前様で帰宅した。翌日はオーネット=コールマン。いま考えればすごい続き方だ。でもいろいろ聴くのは面白い。生演奏は聴けば聴く程、自分でも演奏したくなるものだ。そう考えるとまた、やはりプロというのは凄いものだなと思った。

3/29/2006

オーネット=コールマン・クァルテット@東京芸術劇場

東京は桜が満開である。先の日曜日の夜から3夜連続で生演奏を鑑賞するという贅沢な時間を過ごした。それぞれに非常に充実した音楽体験だったので、その内容についてまとめておこうと思う。

先ずは昨夜(3月28日)、東京池袋の東京芸術劇場で観た、オーネット=コールマンから。

未だに興奮が醒めないでいる状態だ。いままでいくつもジャズのライヴを観て来たが、昨日の体験は僕にとってはいままでで一番素晴らしい音楽体験だったかもしれない。それほど充実した素晴らしいコンサートだった。

彼は今年76歳になる。あのソニー=ロリンズと同い年である。ロリンズは昨年「最後の来日」を自ら宣言して公演を行った。僕は観に行かなかったが、内容はそれなりに充実していたものの、やはり本人の衰えもそれなりのものだったらしい。

僕はもうオーネットを生で観る機会はないだろうと諦めていたところに、突然、来日公演の報が届いたので、すぐさまチケットを入手した。チケットが届いてみると、なんとピアノの山下洋輔が前座を務めるという企画だとわかり、一瞬嫌な予感が頭をよぎった。いまの彼の体力では、もはや十分な時間がもたないのだろうか。

以後、ほとんど何の情報もないまま月日が経った。2週間程前に、たまたま入った本屋で見かけたジャズ雑誌に、オーネット来日直前緊急電話インタビューというのが掲載されていた。それによると、彼は非常に元気で強い演奏意欲を持っているらしいことと、今回の来日では2人のベースとドラムからなるクァルテットで、新曲を中心に演奏したい、などと語っていた。それを読んで少しは安心した。

そしてコンサート当日。前日が初日で会場は渋谷のオーチャードホールだった。見ない方が良いとは思いつつ、気持ちを抑えきれずにネットでいくつかレビューを探して読んでみた。オーネットについて悪く書いたものはなかったが、山下のことを悪く書いたものや、今回の企画に疑問を呈する向きのものがあり、あまりいい印象を受けなかった。

そんな不安を抑えつつ会場へ足を運ぶ。東京芸術劇場はバブル経済の末期にオープンした、超大型のコンサートホール。客席は3階まであって2000人以上を収容する。観た限り1階2階はほぼ満席。かなりご年配の方の姿も目についた。それはそうだ。オーネット初期の代表作「ジャズ来るべきもの」が発表されたのは、1959年のこと。もうほとんど半世紀前の出来事なのだ。

最初、山下洋輔がステージに現れて、30分程4曲を演奏した。僕は彼のCDは持っていない。最新アルバムからと言って2曲演奏したが、以前の荒々しい山下というよりは、キース=ジャレットのちょっとアグレッシヴなソロピアノに似たような感じで、あまり面白くない。最後に「初心に還って」として弾いた「ぐがん」が一番よかった。

山下の前座が終わり10分の休憩のあと、いよいよオーネットの登場である。なぜかこの時になって急に緊張して来た。期待と不安が入り混じる。先ずオーネットの息子でドラムのデナード=コールマン、そして2人のベーシスト、トニー=ファランガとグレッグ=コーヘンが現れ、彼等がそれぞれのポジションにつくと、オーネットの名がアナウンスされ、自身がステージに登場した。

彼が登場するや、会場からは興奮に満ちた拍手。スポットライトに照らされたオーネットは、やはり歳をとったのがはっきりとわかる。ステージを歩く歩幅も小さい。それでも中央のポジションに立つ姿は威厳に満ちていた。手には愛用の白いアルトサックス、そして脇のテーブルにはトランペットとヴァイオリンもしっかりスタンバイされている。うわあ興奮して来たあ。

このクァルテットでオーネットは、途中、聴衆に話しかけたりすることもなく、続け様に8曲を演奏した。いくつかは既に発表されている作品だった。いずれの演奏も、もう素晴らしいの一言に尽きる。オーネットが演奏する音は、いままでCDで聴いて来た「あの音」そのもの。陽気なテーマに始まったかと思うと、もはや「インタープレイ」などと軽々しく表現してはいけない、驚異的な4人の集団即興コラボレーションへと姿を変容させていく、その様はまさに圧巻であった。

2ベースとドラムという編成は、最初話を聞いた時はどういう演奏をするのかなと思っていたのだが、実際に聴いてみると、何のことはない、アルバム「フリージャズ」ではじめて手がけて以来、1970年代以降のユニット「プライムタイム」で試みられて来た、ダブルクァルテットのスタイルそのものであった。いわばプライムタイムの究極形である。

向かって左に位置したファラガは、ほとんどアルコ(弓弾き)でハイノートを中心に演奏。その音は時に「ソングX」でのパット=メセニーのシンセギターを彷彿とさせる、オーネット流ハーモロディックな和声パートを演じる。一方のコーヘンは、4ビートを中心にしたオーソドックスなジャズベーススタイルがメインだが、ドラムのデナードが繰り出す恐るべきポリリズムに素早く呼応し、時に超ハイテンポになったりと変幻自在なベースワークを楽しませてくれる。

それにしてもデナードのポリリズムは本当に凄まじかったなあ。彼はなぜかレコーディングスタジオの様に、アクリル板のつい立てに囲まれたドラムセットで演奏した。いわゆるジャズドラマーのスタイルとはかなり異なる叩き方だが、グルーヴやスウィングといった感覚に満ちあふれながら、さらにオーネット流の音楽を演出するサムシングなリズムファクターをしっかり表現する。

そんなこんなで興奮の演奏が続いた後、突然アナウンスが流れて山下がステージに戻ってくる。ここからが新しい試みとなるコンサートの最終章である。先ず、山下を入れてのクインテットでの演奏。ここでなんとハンプトン=ホーズのブルース「ターンアラウンド」(だと思う)を演奏した。いままでクァルテットだったところに、いきなり正確なピッチで奏でるピアノが入って来たので、一瞬耳が戸惑う。それでもメンバーはこの雰囲気を楽しんでいるようだった。

続いて、再びアナウンスが流れて日本人の女性ヴォーカリストが登場。フリー系のヴォーカリスト、ジーン=リーを思わせる様なスタイルで、ヴォーカルと山下のピアノをフューチャーした作品を演奏した。彼女はその1曲だけでステージを去り、最後に再びクインテットで「ソングX」を演奏。ここでは山下もかなりグループとの融合を聴かせ、健闘を示したと思う。

会場からのスタンディングに感謝しながらいったんステージを後にしたメンバーだったが、熱狂的なアンコールに応えて再び舞台へ。先ずオーネットが山下の手をとり、それを高らかに掲げてみせた。山下は感無量の様子。そして再びスタンバイしたかと思うと、初期の名曲「ロンリー ウーマン」を演奏した。同じオーネットスタンダードなら、僕は「ダンシング イン ユア ヘッド」をやって欲しかったが、まあいい。もちろんその演奏も最高だった。

こうして2時間を超えるコンサートは終わった。僕も、そしてオーネットを全く聴いたことがなかった妻も、最後には立ち上がって、ステージから手を振るオーネットに拍手を贈り続けた。彼は登場した時と同じ様に、ゆっくりと舞台から去っていった。

正直、これほどの感動を残してくれるとは期待していなかっただけに、歓びと興奮が入り混じった状態そのままに帰路についた。帰って早速、オーネットを聴きながらビールを飲んだのはいうまでもない。

東京公演はこれで終わり。後は札幌と大阪でそれぞれ一夜ずつのコンサートが予定されている。今回のツアーの模様はぜひとも映像化してもらいたいと思ったが、少なくとも今回はテレビカメラは回っていなかった。せめてCDとして発売されることを期待したいものだ。

オーネットは元気だった。そして音楽探求もまだまだ意欲的だった。最後に聴かせたいくつかの作品は、そうしたことの何よりの証拠だろう。僕は今回の公演で彼の素晴らしさを再認識した。そして彼の音楽はもっと多くの人に理解され、愛される価値のあるものだということをあらためて強く感じた。それはもはや狭い意味での「フリージャズ」などという限定されたイメージではなく、「ジャズ」そのものの本質的な息吹に満ちた音楽芸術に他ならない。

これからも出来るだけ末永く、その創作と探求を続けてもらいたいと思った。感動!

3/25/2006

アンデルス=ヨルミン「ジーイー」

 休みが終わって、水曜日から仕事に復帰した。まだ頭が本格回転ではないものの、12日間休んだところで、からだが仕事を忘れてくれるわけではないというのは、頼もしくもあり、どことなくもの哀しくもある。復帰して3日間はあっという間に過ぎ去った。

休みが残すところあと2日となった月曜日、前回のろぐで触れた愛用のベースを、調整に出すことにした。以前から少し気になるところがあった。あるポジションを押さえて弾くと音がビビるという症状だ。弦を張り替えたり、弦の高さを調整してみたりしたけど、どうしてもなおらない。

楽器はとてもデリケートなもの。エレキギターやベースの場合、ノイズが入るとかそういう電気系統の問題であれば、まだ自分で部品を交換するなどの対応をすることができなくもないが、音がビビるといった楽器本体の構造に関わる問題になると、これはもう素人が手出しするものではない。大抵は失敗に終わる。信頼できる職人に任せるのが懸命だ。

以前からいつか調整に出したいと思っていたので、ネットでそういう修理に対応してくれる工房を探していた。今回お願いすることにしたのは、東京文京区にある「ギター工房 弦」というところ。お店のサイトを見ていると、日々の作業状況を写真で掲載してくれていて、なかなか信頼感が持てそうだと思った。

お店は山手線の大塚という駅から歩いて10分程のところにある。平日の真昼間にベースを抱えて電車に乗って出かけた。東京で勤めるようになって18年が経ったが、この駅で降りたのははじめてだった。変化が激しい南側に比べ、山手線の北側、特に上野と池袋の間にある駅は、どこも落ち着いていてある意味懐かしい雰囲気を残した駅前風景である。

愛用のベースは、TUNEというメーカーのWBシリーズというもの。その名の通り、ウッドベースの表現を意識した作りになっている。お茶の水の楽器店で初めてこれを試奏した時、僕自身結構ピンと来て気に入ったのだ。しかし値段もそれなりに高価である。

自分がいま使っている楽器との出会いは、ちょっと気恥ずかしいところがある。実は僕はこの楽器をインターネットのオークションで手に入れた。通販で楽器を買うということ自体、相当抵抗はあるのだけれど、しかも個人から買うというのはかなりな冒険だった。いまから3年半程前のことだ。

「あーあ、WBがもう少し安く買えないかなあ」と思って、ダメもとでオークションを検索したところ、なんとそれがあったのだ。ほとんど奇跡的タイミングだと感じた。確か終了2日前くらいだったと思うが、まだ誰も入札していなかった。

出品者の説明では、楽器としての調子は非常にいいが、相当使い込んであるので見栄えという意味ではそれなりにキズなどがあり、そういう主旨を理解の上で入札して欲しいとのこと。この言葉が僕の決断を促すには十分なものだった。僕は4万円で入札し、無事それを落札することができた。

届けられた楽器は確かにかなりボディにキズがあった。でも音はまぎれもなくWBのそれだった。以来、僕は少しずつこれ自分のメイン楽器として手なずけてきた。ここ1年半くらいでようやくいい感じになって来たところだったのだが、そこで例の音のビビりが出始めたというわけだ。先の持ち主の時期から数えて、もう10年以上の期間が経過しているはず。なんらかのガタが来ているのだろうと思っていた。

「ギター工房 弦」はマンションの1階にあるこじんまりとしたお店。そこで事情を説明して15分くらい楽器をいろいろと診てもらった結果、原因がほぼ特定された。僕が考えていたのとは全然違うことが原因だった。そのあたりはさすが職人だと思った。

さて、それを修理するのに2万6000円位かかるとのこと。想定していた金額をかなり上回るものだったけど、それでこの楽器がまた生まれ変わってくれるならという気持ちで、思い切って投資することに決めた。ということで楽器は現在その工房で修理中である。出来上がりは月末。4月からは新しく生まれ変わった楽器と、前回触れた新兵器で、気持ちも新たにベースをやっていきたいと思う。

そんな訳で、今回もベースのソロ作品である。アンデルス=ヨルミンはスウェーデン出身のベース演奏者。北欧ジャズの大御所達のサポートを中心に活躍する彼が、ECMレーベルから初めて発表したソロアルバムである。自身の作品の他、シベリウスの賛美歌を元にした作品や、オーネット=コールマンの「ウォー オーファン」などをベースソロで演奏している。

いくつかのソロ演奏の合間に、ブラスアンサンブルの小品が挿入される構成になっていて、全体を通して北欧らしい静寂と優しさが伝わってくる内容。先にとりあげたホランドやヴィトウスに比較して、あまりベースに演奏に馴染みのない人でも、すんなりと入っていきやすく聴きやすい作品に仕上がっている。

忙しさばかりがつまされる時代、低音を主体とするスローな世界に、ゆったりと身を委ねるのもいいだろうと思う。僕もこういう表現を目指してみたいと思っている。

Anders Jormin アンデルス=ヨルミン公式サイト

3/19/2006

ミロスラフ=ヴィトウス「エマージェンス」

 長い休みに書くろぐ、2つめのテーマは「ベース」について。

以前にも書いたかもしれないが、僕はいつかは自分でもベースのソロ演奏を、音楽作品として残してみたいと考えている。ライヴをやってそれを録音して残すというよりも、スタジオレコーディングとしてあるコンセプトを持ったアルバムを作りたい、それがいまの僕のささやかであると同時に大それた音楽的目標である。

休みに入ってすぐに、久しぶりに楽器に関連した道具を購入した。MTR(Multi-Track Recorder)というもので、録音機能を中心に、音楽を制作するいろいろな機能がまとめられている。僕が購入したのはZOOM社のMRS-8という商品。この世界でも技術の進歩と低価格化は凄まじい。

8トラックのデジタルレコーディング機能に、ドラムマシン、ベースマシン、エフェクター、アンプシミュレータがついて、記録用の外部メモリ1GBを含めて3万5千円ほどだった。インターネットで注文して、お金を振り込んだ翌日の朝には品物が届いた。本当に便利な時代になったものだ。

機能の詳細はいちいち説明しないが、僕からすれば十分すぎる程の内容である。これで何をするのかといえば、もちろん自分のベース演奏を記録するのだ。まだいじくり始めてから3日しか経っていない。ようやく基本的な操作と、音色を自分の好みに近づけるところまで漕ぎつけた。

最近では、バンド活動も自然消滅的に休止してしまい、なんとなく自分でベースを手にしては、頭の中から余計な考えを追い払うかのように、無心にベースをつま弾くということが多くなっていた。それはそれで楽しみ方の一つかもしれないけど、やっぱり自分が楽器をやるのは、自分のなかにある何かを表現したいということは絶対に無視できない。

自分が演奏したものと向き合うのは、楽器演奏の基本姿勢として一番大切なものだと思うが、僕はその意味ではあまり厳しくないので、こうしていったん録音してそれを鍛錬しようというわけだ。そしていずれその中から自分が遺したいと思う演奏の形がはっきり見えてくるだろう。

ベースは一般には、あまりソロ楽器としては認知されていない。でも楽器による表現を極めるという意味では、どんな楽器についてもソロ演奏は、究極的な形である。それ故に、僕はいろいろな楽器のソロ演奏を好んで聴いて来た。

楽器の構造上の特性によって、表現の幅が楽器によって異なるように思えた時期もあった。でも音楽をいろいろと聴いていくうちに、ある時期からそういうことは実はあまり関係ないのだなと思うようになった。同時に、豊かな表現力を持つように見えて、実は一般には極めて決まりきった表現方法だけが認知されている楽器、具体的にはピアノやギターなど、がいまの音楽にもたらしている問題も見えてくるようになった。そして、その問題は結局またすべての楽器にも還ってくることなのだが。

前回のろぐで、僕の大好きなベーシスト、デイヴ=ホランドのソロ作品をとりあげた。今回は、もう1枚同様のベースソロ作品で、僕がベースのことを考える度に取り出しては聴いているものをとりあげたい。

ミロスラフ=ヴィトウスはチェコ出身のベーシスト。元々クラシックの演奏家からジャズに場を拡げて来た人らしく、その意味では、ビート楽器というベースの原点にウェイトが置かれたホランドに比べ、ベースのメロディックな側面を上手く引き出しているように思う。またアルコ(弓引き)の美しさは素晴らしい。

今回の作品も全編、ヴィトウスのソロ演奏。やはり重ね取りの類いは一切ない。自身のオリジナル作品や、ビル=エヴァンスの演奏で有名な「不思議の国のアリス」、またロドリーゴの「アランフェス協奏曲」をベースにしたものなど、多彩な内容であるが、どの演奏も聴き逃せない深みをもっている。

これらの作品は、ベースという楽器によるソロ演奏ということについて、いつ聴いても僕に何か新しいインスピレーションを与えてくれる。それは演奏技術のことだったり、音楽の表現のことだったり、生き方だったり、勇気だったりする。いずれの作品にしても、とても素人が真似の出来るものではない。だけど目標は高く持っていた方がいい。

アコースティックベースの巨人2人のソロ作品を聴きながら、僕は自分とベースとのこれからについて、あらためて考えはじめた。まだすぐには形にすることは出来ないけど、必ずそれを実現したいと思った。

Miroslav Vitous Web Site 公式サイト トップページにあるLOOK AT THESE HANDSの映像は必見です。

ドストエフスキー/プィリエフ「カラマーゾフの兄弟」

 長い休みも一週間が過ぎ、残すところあと2日となった。とても充実の毎日だ。傍目からは、平日の夜とか普通の週末にやりそうなことを、ただやっているだけなのかもしれない。そんなに休みがあるなら、どこか旅行にでも行けばいいのにという人もいる。だけどいまの僕は旅行よりもやりたいことがたくさんある。

この休みは5つほどの大きな軸に従って行動している。具体的な内容は書かないが、音楽を聴くというのは、その中には入っていない。これは別に休みであろうとなかろうと、僕にとっては変わらないことだから。もちろん毎日何らかの形で—多くはiPodで—聴いているが、いつも以上に聴いているということはないかもしれない。

その中から、2つのテーマを選んで書いてみたい。1つ目はドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」だ。

僕はいまだに読書が苦手だ。一般に、暇つぶしには最適の場所と考えらてれる大きな本屋さんも、僕にとっては決して居心地がいい場所ではない。逆に最近ではあまり長くいると気分が悪くなってくる。いろいろな本のタイトルや表紙に書いてある言葉が、なにか脅迫的なものを持って自分に迫ってくるように思えることがある。これは情報社会の一側面だろう。

そんな僕でも、長いこと読んでみたいと思っている本がある。ドストエフスキーの小説「カラマーゾフの兄弟」がそれだ。何かの音楽だったか映画だったかは忘れてしまったが、その評論のなかでその作品とこの小説の関連性を指摘したものがあって、それがずっと頭の中に残っている。その状態はたぶんもう20年以上続いていると思う。何度か本屋で文庫を手に取ってみたが、どうしてもこれを買って読み切るだけの自信がわいてこずに、その度に断念していたように思う。

数年前の結婚して間もない頃、通勤電車の中で運良く座ることが出来たので、座席で音楽を聴いていた。次の駅を発車して気がつくと、僕の目の前に一人の若い女の子がたって一所懸命本を読んでいる。その娘の身なりは茶髪でかなりルーズな感じだったのだが、彼女が読みふけっているカバーを外した文庫本のタイトルを見て、僕はちょっとギョッとした。それは「カラマーゾフの兄弟」だった。

その日、家に帰って、僕がその小説のことを気にかけていることと、その日たまたま出くわした出来事について妻に話したところ、彼女は「ふーん」と興味深げに話を聞いてくれた。そして、程なくして妻はその作品を古本屋で買って来て読み始めたのである。この辺は、気になるCDがあれば、すぐに手に入れて聴いてみる自分と似ていると思ったが、僕はこの小説を買って読んでみようという気にはどうしてもなれなかった。

日頃、日本の現代小説を中心に読んでいる妻にとっても、この作品はやはりなかなかの苦行(?)だったようで、何度か挫折しかかりながらも、大方1ヶ月程かけて完読したようだった。でも僕は自分が読んでいないので悔しさもあったのか、「ふーん読み終えたんだ」程度で流してしまい、しつこく感想を求めたりしなかった。

それでも、読み終えられた3冊の文庫本は、僕にはしばらくの間プレッシャに似た特別な存在感を放って棚に置かれていた。その時も結局僕は作品を読むことに取りかかることは出来なかった。挫折するのが怖かったのかもしれない。

そのうち、ふとしたことから旧ソ連時代にこの作品を映画化したものがあり、その評価がなかなかのものであることをネットで知った。しかも、その作品はDVD化されていた。

小説の日本語訳は新潮文庫のもので上中下の3巻組。ページあたりの文字数が最も多い版のもので、どの巻も厚さが1.5センチ以上ある。今回紹介するプィリエフ監督の映像作品も3部構成になっており合計で3時間48分ある。少し前までは大きなDVDショップで見かけることがあったのだが、販売元で絶版になったらしく、最近はネットでも購入できない状況になっていた。

今回、長い休みに入るにあたって、最初は小説を読む(休暇期間中に読み終えることは無理にしても)ことも考えたのだが、やはりそれだと休暇のすべてをそれに費やすことになってしまうので、その映画を手に入れて観てみることを、目標の一つにすることにした。「観てから読むか、読んでから観るか」とかいう映画の宣伝文句があったが、どこかで邪道と思いつつも現代的感覚と開き直って「観てから読む」つもりで、長年の懸案に挑むことにしたわけである。

ところがこのDVDの入手がちょっと難航した。頼みのネット系が全滅。今回に限っては輸入盤というのもないから、国内の主要なネット販売で在庫切れが確認された結果、あとは店舗を地道に回るしかなかった。何軒か大きなソフト屋さんを回った。幸い、秋葉原の石丸電気に店頭在庫が1点あり、無事に手に入れることができた。

それでもやっぱり心の準備に時間がかかってしまい、買ってから5日経過した昨日の夜、はじめてこれを通しで観賞した。重厚、そして圧倒的だった。4時間は長いと思ったが、実際にはあっという間に過ぎた。

作品のあらすじなど概要は略す。ストーリはどちらかと言えば短い期間に起った出来事で展開するのだが、そこに関わってくる登場人物の深い人間性とその人間模様の壮大さは、まったく持って圧倒的である。アマゾンのサイトにあるレビューなどを読むに、この映画は原作から比較すれば省略された部分がかなりあるものの、基本的なストーリと作品のテーゼそのものは原作にかなり忠実なようである。

こういう作品は小説でも映画でも、最近はあまりない。というか、もう世に出ることはないのかも知れないなとさえ思った。一人の人間が物事を突き詰める深さは、もはや深くなっていない。いまの時代は深さより広さを追い求める傾向がある。そしてそこで重要になるものも、「論」より「情」になってきているようだ。贅沢とはそういうことだろう。

映画とはいえはじめて触れてみた「カラマーゾフの兄弟」の世界はやはり重厚なものだった。随分回り道をしてもったいぶった体験になってしまったわけだが、見終えてしばらくすると、原作を読んでみたいという想いが強く沸き起こってくる。それはしばらくそのままにしておいても、そう簡単には醒めてしまうことはない性質のものだ。近いうちに、僕は必ず原作に目を通すことになるだろう。

ドストエフ好きーのページ ドストエフスキー研究家(?)のさいごさんによる、大変素晴らしいドストエフスキー情報サイト。今回の作品についての解説はこちら

3/10/2006

デイヴ=ホランド「エメラルド ティアーズ」

 あるビジネス月刊誌から、連載記事を書いてみないかとのオファーをいただき、先月末の発売分から担当させてもらっている。4ページに5000文字と図表が2、3点。とりあえず半年6回分ということになっている。もちろん会社の仕事の一環である。

このろぐの他に、昨年から会社がやっている情報発信サイトでコラム的なブログを担当させてもらっていて、文章を書くのはだいぶん慣れた。しかし書けば書く程、自分の文章が嫌になる。変な言葉遣いのクセはなかなか直らないものである。

月に一回の連載というのは、ある程度覚悟していたものの、実際かなりハードである。なにせ普通に仕事をこなしつつ、たまに会社のブログを書いて、趣味とはいえ毎週このろぐも書きながらなのだから。それでもなんとか続いているのは、やはり下手でも文章を書くことを楽しめているからだろうと思う。

今月は連載の締め切りが、6日の月曜日だった。書く内容は大体決めていたのだが、仕事が忙しくて週末に自宅で書く短期勝負しかないかなと考えていた2日木曜日の朝、田舎の親父から電話があった。祖母が亡くなったとの知らせだった。この日は、僕の母親の命日である。

親父の母親で93歳だった。この数年間は寝たきりで、周りのことはほとんど認知できないという状況だった。72歳の叔母がずっと付ききりで看病してくれていた。この正月に訪問したときは、まだ手を握ったりすると、声をあげたりしてくれていた。それが祖母と会話した最後だった。

いろいろ考えることはあったが、ここに詳しく書くことでもないと思う。ともかく、通夜や葬儀やらのために田舎に帰ることになり、週末の予定は大きく変わった。原稿の締め切りを延ばしてもらい、週明けから会社で他の業務に並行して少しずつ文字を並べ、家に帰ってそれを文章にまとめる。そんなことを続けてようやく仕上げた。ろぐの更新が遅れたのはそういう事情である。

実は、今日から僕は長い休みに入る。会社の規定で満40歳になった次の年度に、平日連続7日間の休暇を取得することが決められている。結局、年度もおしせまったこの時期にそれをとることにした。21日祝日までの12日間連続の休暇である。

別に海外旅行に行くとかそういうことは何も考えていない。仕事がないというスペシャルな平日を楽しみたい。いろいろなことをやってみるつもりだ。先ずは遅れていたろぐの更新からというのは、休暇の始まりにはちょうどいい。

前回まで3回にわたってオルガンをとりあげて来た。あれは僕の音楽人生のなかでちょっとしたマイルストーンだった。これからもオルガンは聴いていくだろうが、今回は原点に戻るという意味と、祖母への想いも込めて、僕が好きなベーシスト、デイヴ=ホランドのソロ演奏作品をとりあげる。

この作品は全曲ホランドのベースだけ。二重録りなどの加工も一切ない。内容はフリーフォームなものから、フリー系の音楽家アンソニー=ブラクストンのコンポジション(作曲作品)、マイルス=デイビスの「ソーラー」など、多岐にわたっているものの、全編を通して彼のスタイルとポリシーがしっかり貫かれている。散漫や退屈は一切ない、スリルと緊張の連続である。前回までのオルガン即興と比較しても、なんらひけをとらない、彼独自の音宇宙だ。

僕もベースを演奏する。こういう作品を聴いていると、本当に音楽表現の奥深さを実感する。音楽に限ったことではないが、表現の本質は演奏する人の中にあるもの。動機が貧しければすぐに底が見える。技量は二の次だ。自分にとっての音楽は半端なものでは終わらせたくないという思いを新たにしたい。

Dave Holland 公式サイト