2/26/2006

ティエリ=エスケシュ「ポール=クローデル『十字架への道』に基づく即興演奏集」

ティエリ=エスケシュはフランスの音楽家。作曲家でありオルガン演奏家でもある。僕は彼のことを、前回のろぐで参照した浮月主人様のサイトで知った。前回のコシュローとともに、「スーパーコンピュータのような明晰な頭脳を持つ」と評されたエスケシュに非常に興味をもった。

案の定、前回のコシュローと同様、作品を入手するのはなかなか容易ではなかった。たまたま秋葉原を訪れた際に立ち寄った、石丸電気のクラシックコーナーで今回の作品を見つけることができ、早速買い求めたのである。

タイトル通り、この作品はエスケシュによるオルガン即興演奏と、14編からなるクローデルの詩の朗読が交互に現れる構成になっている。ポール=クローデルは19〜20世紀にかけて活躍したフランスの詩人・劇作家で、あのカミーユ=クローデルの弟に当たる人物だそうだ。20世紀初頭には駐日大使として日本に滞在し、日本文化にも強い関心を示した。「十字架への道」は1911年に書かれた作品である。

僕は大学で5年間フランス語をやったが、まったくものにならなかった。従って、いまのところこの詩が何を詠っているのかは知らない。それでもフランスが誇る大物役者ジョルジュ=ウィルソン(映画「かくも長き不在」などが有名)による朗読は、フランス語独特の抑揚と音韻を最大限に活かして、この詩の内容を音楽的表現として醸し出してくれているように思う。

そして、それに前後するエスケシュのオルガン演奏。はじめて耳にした彼の演奏は限りなく圧倒的なものだった。僕は冒頭の1分半ほどのイントロダクションで、あっという間にこの作品の世界そして彼の音楽の虜になってしまった。その後に続く朗読と即興の交錯はひたすら感動と興奮の連続である。

浮月氏がエスケシュを「スーパーコンピュータ」と表する理由は、非常に感覚的に同感できる。彼は、オルガンという複雑な楽器を、その幅広い音域や音色を見事に使いこなす。その点では前回のコシュローも同様なのだが、僕が感じるのは、エスケシュがオルガン音楽そのものを、教会音楽やいわゆるクラシック音楽の世界にとどまらない、もっと幅広い現代の様々な音楽との関係の中で再構築し、それを表現できる能力を持っているということだ。

エスケシュの即興音楽では、リズム、メロディー、ハーモニーという音楽の3要素、そしてシンセサイザーやオーケストラに匹敵するバリエーションに富んだオルガンという楽器の音色に加え、これまで世界に現れた様々な音楽の様式が、瞬時に音楽として表出するという意味で、非常に驚異的な内容である。数ある現代の即興音楽のなかでも、間違いなく最高水準のものといって過言ではないと思う。

そういう彼の音楽をはじめて体験してみて、なんとなく僕の頭に浮かんだのは、将棋の羽生善治氏のことだった。僕は将棋に詳しいわけではないが、羽生氏が棋界に登場した際の衝撃については、いろいろな人が触れているのを見聞きしたことがある。一言でいえば、従来の将棋指しと比較して、CPUもメモリもストレージもすべてのスペックが一桁上の性能を持っている、ということらしい。それまでの将棋のすべてを、ニュートラルな天上的視点から分析し、それを即座に自己の将棋に活かしているという人もいた。

音楽に限らず、いま様々なものはジャンル細分化の道を進んで来ているわけだが、エスケシュの音楽はいわゆるクラシック音楽から現代音楽(いずれもおかしな表現なのだが)に至る領域に軸足を置きながらも、商業主義の力も受けて急激に拡散する音楽全体を再構築する試み様に、僕には感じられた。それはフュージョンとかクロスジャンルといった表面的なものではなく、より本質的なものとして行われているように思える。

少し大げさかもしれないが、僕がエスケシュの音楽から受けた衝撃は、そのくらい大きかった。これからいろいろな作品を聴いていくことになると思うが、それが非常に楽しみで仕方ない。残念なのは、そうした彼の作品を入手するのが非常に困難であるということ。これまでにインターネットと量販店を捜しまわり、今回の作品を含め現時点で5つの作品に手を伸ばすことができている(うち3作はまだ手元にはない)。それらは、いずれまたこのろぐで紹介していきたいと思う。

僕はこれまでも、興味を持った音楽については、手当り次第にいろいろと買い求めては聴いて来た。このことはきっとこれからも続いていくだろう。しかし今回は、先々週のメシアンに始まり、オルガン音楽という線に沿って自分の求めるままに進んでみたわけだが、いつにも増してというか久しぶりにその歩みに力が入ってしまったようだ。

わずか2週間という短い時間であったにもかかわらず、ふと気がつけば自分が広い音楽の宇宙のなかで、随分と遠いところまで来てしまったように思う。まだ一つの作品しか耳にしていないものの、僕にはエスケシュの音楽が、そうした「境地」と呼ぶに相応しい並外れて高い芸術性に溢れたものだと確信している。そして、その音楽はオルガンという線に沿って見つめて来た僕の目線を、再び音楽全体へと戻してくれたように思える。

最後に、前回のろぐに際してリンクと引用を快諾していただき、音源の入手に関しても貴重なご示唆をいただいた浮月主人様に、改めて感謝の意を表しておきたい。彼のガイドがなければ、僕がエスケシュに至る道をこれほどまでにスムーズに駆け抜けることは、到底不可能だっただろう。

久しぶりにインターネットの本質を通し、今後永く愛すべき芸術家に出会うことができた。

Escaich ユニヴァーサルミュージックによるエスケシュの公式サイト
Calliope 今回の作品の発売元カリオペ社のサイト

2/19/2006

ピエール=コシュロー「ノートルダムのオルガニスト」

先週は3人の男と酒を飲んだ。皆それぞれにワケあり。何にもないのは僕だけか。3人のうち2人は、大学時代の同期生。といっても僕の場合は、留年しているから、彼等は入学時の同期生である。彼等とは同じ日に、僕の勤め先近くの行きつけ「カドー」で飲んだ。

1人の男とはかなり久しぶりで、正月にもらった年賀状に、メールアドレスが書いてあったので、誘ってみたところ、実現の運びとなった。会うのは5年ぶりだった。以前、彼と飲んだのもこの店だったらしい。仕事のこと、そして彼の離婚と再婚に関する話を興味深く聞かせてもらった。彼は変わった男なのかもしれないと思ったが、いまの時代における同世代の男の例として、なかなかリアリティのある話だった。

もう1人の同期生は、バンド仲間。この日は急に声をかけたにもかかわらず、忙しいなか時間を割いて来てくれた。彼は急に辞令が出て来週から沖縄に勤務することになったという。メールで知らせてもらった一報に、僕も驚いたけど、なぜか反射的かつ正直に「うらやましい」という失礼な返事をしてしまった。実際に会ってみると、週末に家族会議、今週には仕事の引き継ぎと現地での家探しだね、と言いながら淡々とビールを飲んでいた。やはりうらやましかった。

「カドー」に行くのは、今年になってからはじめてだった。お店に新しいバイトの女の子が入っていて、これがかなり魅力的な女性である。聞けば大手プロダクションに所属する、女優さんの卵なのだそうだ。本業の関係で、必ず毎日お店に入れるというわけではないらしく、たまたまお目にかかれた我々はラッキーであったか。中年男3人でしばしメロメロとなり、別件で中座した転勤の彼は、名残惜しそうに店を後にした。

もう一つの飲み会は、以前からこのろぐにも登場している、小学生以来の幼馴染みとだった。彼は1週間前に心臓の手術をしたばかりだった。WPW症候群という、僕もはじめて耳にする病気なのだそうだ。手術といっても、開胸するわけではなく、足の付け根あたりからカテーテルを入れて、心臓の一部の組織を熱で変成させるというものらしい。おかげで術後翌日には退院、その1週間後にはこうして酒が飲める。不思議なものだ。

それでも、入院前は本人含めご家族もかなり心配していた。当日には和歌山の実家からご両親が駆けつけた。術後に元気に手を振った彼に、お母さんは涙を流されたという。心臓の手術となれば、心配するのも無理もない。当のその男も退院後、解き放たれた気分になったのか「人生観が変わった」とか言いながら、急に車を買替えて家族のヒンシュクをかったらしい。ともかく僕も安心した。ここでも非常に不謹慎ながら、なんとなくうらやましいような気持ちになった。

さて、音楽の方はこれがもう「オルガンブーム」に火がついた一週間となった。先ず、フランスのオルガン音楽に関する秀逸な解説と音源紹介が掲載されているサイト「風琴音楽史探訪」を発見し、そこで紹介されていたなかで(前回のメシアンの自演集も載っていた)一番興味を持った作品を手に入れることから始まった。それが今回の作品である。

コシュローがどういう人だとか、オルガン演奏とはどういうものかといったことについて、いろいろ書いてみたいとも思うのだが、ここではその辺は一切略すことにする。僕自身もまだ聴き始めたばかりだし、先のサイトを作られている浮月主人氏の業績を拝読してしまった以上、ものを書くのは憚られる。

少しだけ触れておくとすれば、オルガン音楽が即興演奏をベースに成り立っており、それは神父の説教と同じく演奏者が祈りの一部として自己の脳裏に直感した音楽を行なうものであるということ。そしてパイプオルガンという楽器が、基本的な構造はそのままに、長い歴史の中で今日もなお技術的に発展し続け、その外見や構造が大きく進化し続けているということ、この2つが、僕が直感的にこの音楽にいま惹き付けられている根本にあるように思う。

このろぐをはじめてから思うのだが、いくらアマゾンがロングテイルだと言っても、僕が欲しいと思う、そしてその筋の専門家が名盤とする、作品の多くはネットでも手に入れるのはまだまだ簡単ではない。存在を知ることは確かに容易くなったが、それだけでも有難いと思わねばならないのはわかっていても、やはり存在を知ったからには、実際にそれと邂逅してみたいと思うのは、人間誰しもであろう。

アマゾンでは取り扱いなし、頼みのイーベイもダメ。最後に発売元のサイトを探し当てたが、なぜかこの作品だけout-of-stockとなっていた。これは気長に中古を捜し続ける長期戦かと覚悟を決めようしたその前に、一応量販店を覗いておこうと、足を運んだ渋谷のタワーレコードにそれは置かれていた。CD3枚組で5500円もしたが、もうそんなことを躊躇している場合ではなかった。久々に量販店に感謝した瞬間であった。

作品の内容については、先のサイトの浮月主人氏の紹介文をここにそのまま引用させていただく。
コシュローの即興録音とはまさに「書かれざる」作品群なのだ。(本作品は)彼の作品演奏、コンサート即興、典礼即興の 3 面からベストチョイスでとりまとめられたもの。オルガン即興演奏史に深い爪痕を残したコシュローの濃厚な生命の記録。
コシュローの素晴らしさはもちろんのこと、オルガン音楽とは何かを理解するうえで必要な要素が、非常にコンパクトにまとめられている。

ちょうど、前回のろぐの最後に触れた、オルガン奏者ラトリーによるオリヴィエ=メシアンのオルガン作品全集(CD6枚組)も海外から到着。少しだけ部屋で大きな音で鳴らしてみたが、やはり録音がきれいでとてもよさそうである。しばらくブームは続きそうだ。新しい世界はやはり楽しいものだ。

A Pseudo-POSEIDONIOS 浮月主人氏のサイト。僕もまだ全貌が把握できていません。

2/12/2006

オリヴィエ=メシアン「オルガン作品集」

 一時の厳寒に比べれば、幾分はマシになったが、それでもまだまだ寒い毎日である。仕事のピークも超えて、家で酒を飲んで音楽を聴く余裕もできた。寒い部屋で落ちついて深深とした音楽を聴くのもよい。ということで、今回取り上げるのはオルガン音楽、いわゆるパイプオルガンである。

パイプオルガンのイメージを一言でとなれば、やはり「荘厳」とか「重厚」になるだろうか。もともと教会に設置されている楽器であるため、宗教的イメージが強い。当然、オルガン音楽の多くは宗教曲である。

一番有名なのは、やっぱりJ.S.バッハの諸作品、なかでも「トッカータとフーガニ短調」は誰でも一度ならずとも聴いたことがあるメロディだろう。タイトルを聴いて「?」という方も、死刑のメロディとか言われれば、「ああ、あれね」となるはず。なぜあの曲にそういうイメージがついているのか、僕にはわからない。たぶん、テレビ番組か何かでそういう使われ方をしたのが、定着してしまった悪い例なのだと思う。

オルガン音楽なんて重苦しくて家で聴く気にはならない、という人は多いと思う。僕自身はCDを数枚持っているけど、確かに真夏とか昼間に聴きたくなるものではない。大きな音で鳴らしても、なかなかいいように響くはずもなく、却ってうるさく聴こえてしまう。そして、部屋に宗教的な雰囲気が醸し出されることが、意外なほど嫌悪感を増大させるものだ。

フリージャズやへヴィーメタルなんかは、わからない人からすれば、単にうるさいとか騒々しいだけである。しかし、オルガン音楽は音楽的にはきれいな和声であっても、その独特のけたたましさがやはりうるさいと感じられてしまいがちである。加えて、日常生活の場である自宅の部屋に、教会的雰囲気がかくも不釣合いというか、居心地を悪くさせるものかと思い知らされる。

オリヴィエ=メシアンはフランスの作曲家。20世紀全般に活躍し、特にいわゆる現代音楽の時代を担った作曲家たちを育てた役割で知られている。作品数も多い。彼は、また教会のオルガン奏者でもあり、オルガンの構造にも精通していたため、非常に奥の深いオルガン作品を多く遺している。

今回の作品は、1956年に48才だったメシアンが、フランスの教会にあるパイプオルガンを使って、それまでの自身のオルガン作品を演奏したものを収録した自作自演集である。CD4枚に8つの作品が収められている。

はっきり言っておくが、この作品の素晴らしさは相当なものである。僕にとっては、たくさんあるコレクションのなかでも、かなり重要な音楽作品の一つである。内容は相当に聴き応えがあり、ある意味で重いものではあるが、先に書いたような典型的なオルガン音楽とは異なり、宗教性よりも豊かな音楽性に溢れた作品である。

僕がこの作品のことを知ったのは、ジャズを熱心に聴きまくっていた社会人になりたての頃だったと思う。ジャズ批評誌で「私の好きな1枚のジャズレコード」という特集があり、確か100人ほどのジャズ愛好家が、自身の想いを1枚の作品に込めて綴ったものが、1冊の本にまとめられているものがあった。これはなかなか面白い読み物だった。実のところ、このろぐをはじめるに際しても、その本の存在が大きなヒントになっているほどだ。

その中で、誰が書いていたのか思い出せないのだが、確かジャズミュージシャンの誰か(もしかしたら日野皓正氏か元彦氏だったか)が、なんとこの作品をあげていたのである。そもそもジャズレコードではないわけだが、僕はそういうのが結構好きである。その原稿内容を許した編集部も含め(単にダメだと言えなかっただけかもしれないが)、いかにもジャズらしいと思ったものだ。

それは、彼が当時ニューヨーク在住だったジャズピアニスト、菊地雅章氏のマンションを訪ねた際に、部屋になんとも言えないかっこいい音楽が流れていたという話であった。彼は、菊地氏にそれが何なのかを尋ねるのをためらい、菊地氏が席を外した際にこっそりオーディオセットのところまで行って盗み見したら、それがメシアンの自演オルガン作品集だったというわけである。

メシアンの名前はかろうじて聞いたことがある程度で、もちろんCDなど持っていなかった。しかしその文章で語られたこの作品に、僕は少なからず心を惹かれたのである。早速、慣れないクラシック売り場に赴き、すぐにこの作品を見つけた。4枚セットだということに多少驚いたものの、メシアンが自分のオルガン作品を自分で演奏したものというのは、これしかないわけだし、間違いはなかろうとためらわず購入したのを憶えている。

収録されている作品は、オルガンをかなり繊細に用いたものばかりで、ありがちな荘厳な響きが続く作品はあまりない。もちろん作品は全て宗教的テーマに基づいた内容なのだが、いずれもある意味非常に瞑想的な音楽であり、現代的な音遣いは本当に無駄がなく、聴くほどに深みがどんどん増すのである。

今回、久々にまとめてこれを何度か聴いてみたが、個人的にはいままで以上に味わいが深まったように感じている。やや録音が古くモノラルではあるが、音は決して悪いものではない。しかし、やっぱりこれらの作品をステレオで聴いてみたくなり、今回ついにたまりかねて、グラモフォンから発売されているメシアンのオルガン音楽全集(6枚組)に手を出してしまった。届くのが待ち遠しい。

もう一度書いておくが、このろぐで取り上げてきた作品のなかでも、今回の作品の音楽的素晴らしさは相当なものである。決して立派なオーディオセットは必要ではない。そうしたハンデをものともしない音楽的説得力に、ただただ圧倒されるばかりである。脱帽。

2/04/2006

ブランド X「ライヴ ストック」

 1970年代後半から1980年代半ばにかけて起ったフュージョンブームは、多くの優れた演奏家を生み出す温床になった。面白いことに、このムーヴメントが"Bitche's Brew"に始まる「エレクトリック・マイルス」に触発される形で始まり、マイルスが交通事故の後遺症で活動を休止している期間中に盛り上がり、そして1981年にマイルスが復帰すると程なくして、その勢いは失速するように弱まってしまう。

ブームの立役者としてのマイルスの影響は明らかだろうが、その失速についても単なる偶然というわけでもないように思う。ただ、ロックやポップミュージックの台頭で、「ショウビジネス」という言葉が大きな意味を持つようになった一方で、楽器演奏の力量や作曲能力などからかなりかけ離れた世界で、ミュージシャンという存在が語られるようになりつつあっただけに、その意味でフュージョンが補完的に果たした役割は大きかったと言える。

ところが、誰もが認める「フュージョンの名盤」というものは意外に多くないように思える。期間中実に多くの作品(多数の「それふう」のものも含め)が発表されたにもかからずである。多くない、と書いたのは少し意味が違っているかもしれない。もう少し厳密に言えば、誰もが認める名盤というものが成り立たないとでも言おうか、人々の最高評価は分散してしまう傾向にあることが原因なのかもしれない。

ある人はブレッカー・ブラザーズの「ヘヴィー メタル ビバップ」を、ある人はリー=リトナーの「キャプテン フィンガーズ」を、あるいはスタッフの「モア スタッフ」を押す人もいるだろう。いやいやフュージョンはやっぱり日本だよと渡辺香津美の「キリン」をあげる人もいるだろうし、カシオペアの「ミント ジャムズ」こそ世界に誇る日本の云々と、話はまったくまとまる気配を見せないに違いない。まあ、いまあげた作品はいずれも名盤であることは、間違いないと思うのだが。

これは1990年代半ばからのテクノブームにも相通ずるものがある。ブームの発端となった作品は後世に残る名盤として受け継がれている(はず)だが、ブームの最中にリリースされた多くの作品は、どちらかと言えば一部のマニア—多くは当時自ら楽器演奏に明け暮れ、そうした演奏のコピーを熱心にしていた人—の神棚に祀られる以外は、人々の記憶から薄れてしまっている。

ジャズや1970年代のロックのように、その時代をいまに継承しようという強力なシステムはないし、もちろんそれ専門の雑誌などもない。これはフュージョンだからというわけではなくて、そのあたりからジャンルというものが成り立ちにくくなったという見方も出来るが、1990年代のヒップホップなどの例を考えてみると、必ずしもそういうわけでもないように思える。

僕は先にあげた作品の内容をよく憶えている。でもそれをいまさほど聴きたいとは思わない。だからCDも持っていない。代わりに、個人的にどうしても執着のあるごく一部の作品については、ときおりその作品の存在が音になって記憶のなかからわきあがり、無性にそれを聴くことを渇望することになる。今回の作品はそんなアルバムである。僕にとっての「フュージョンの名盤」ということになる。

ブランドX(エックス)は、当時ジェネシスのドラマー兼ヴォーカルとして活躍していたフィル=コリンズを中心に結成されたユニット。1970年代後半を中心に活動し、数枚のアルバムを発表している。「ライヴ ストック」は彼等の3枚目のアルバムで、ロンドンの3つのクラブでの演奏から5曲が収録されている。

この作品は発売された当時結構話題になった。コリンズの知名度は、彼がこのユニットから手を引いた1980年代に開始するエンターテイナー路線("One more night"や"Easy Lover"等々)に比較すれば、まだそれほどでもなかったわけだが、この作品はジェネシスのファン層以外からも幅広い人気を集めるに至った。僕もその一人だった。

僕はこれ以外にこのユニットの作品はほとんど聴いたことがない。そのことはフュージョンの魅力にも関係があるのかもしれない。この作品の魅力は、メンバー全員がライヴ演奏で即興的に一体化するスリルにある。特にベースのパーシー=ジョーンズがライヴに繰り出すスリリングなフレーズはたまらない。最初の3曲(LPでいうところのA面)は特に素晴らしく、2、3曲目がフェードアウトになっているのが惜しいと思っているのは、僕だけではないだろう。

最後に収録された「マラガ ヴィルゲン」が人気あることは知っているが、スリリングだと思うものの、いま聴くとちょっと大げさ過ぎてかえってつまらない印象で、つい笑ってしまう。この作品でコリンズがドラムを叩いているのは3曲だけで、あとの演奏で彼に代わっているのは、ジャコやパット=メセニー等との活動で有名なケンウッド=デナードである。彼と比較してもコリンズのドラムはなかなか上手いと思う。でも彼はドラマーだけでは終わりたくなかったのだろう。まあ大成功したのだから結構なのだが。

フュージョンはライヴが命。スタジオでせこせこトラックを重ねたりするものではない。この作品は正統派フュージョンファンからは、番外編というか亜流の突然変異みたいな扱いを受けているのかもしれないが、僕にとってはやはり後年に残る音楽的エッセンスを十分に持った名盤だ。フュージョンをあまり聴いたことがない人はもちろん、あの頃この手の音楽に熱くなった人にもお勧めしたい作品である。

ということで、今回はえぬろぐらしく(?)音楽べったりの内容にしてみた。実は前回のろぐを書いた直後に、やはり体調を崩してしまい、肩がこちこちになって喉まで腫れてきてしまい、仕事を休んだりしてしまった。やはりちょっと無理をしすぎたようだ。

いまではそれも落ち着き、仕事も一段落して、今日は数年ぶりにスポーツジムにも行った。最近流行のヨガを取り入れたエアロのプログラムなどに出てみたり、クライマーで汗を流したり、プールに浮かんだりして過ごしとても快適だった。ああいうところで集中して運動するのはいいものだ。また暇があれば少しでも通うようにしようと思う。

Brand X-The Annotated Discography 熱狂的ファンによるディスコグラフィー
Brand X なんと公式サイトがあるのですが、残念ながら活動再開以後の内容が中心になっています。