8/29/2004

トニー=ウィリアムス ライフタイム「ビリーヴ イット」

  会社の出張で関西方面に出かけた。出張先は奈良県生駒市の山中に開かれた学研都市にある。朝4時半に起床して自宅を出発し、なんとか会議開始の10時には間に合った。ちょうど金曜日だったので、その日はそこから神戸に向かった。奈良から大阪に向かう近鉄奈良線の車窓から見下ろされる大阪の夜景がとてもきれいで、ふと銀河鉄道とはこんな感じなのかもしれないと思った。

 久しぶりに訪れた神戸の街は、3年ほど前に比較すれば賑わいが戻っていて、ジャズの生演奏が流れるオープンカフェの前を通り過ぎて、ちょうど慌ただしく出勤するホステスさんの姿が目立つ時間となった歓楽街へと向かう。神戸には事前に宿を確保してあり、大学時代からの付き合いになる音楽仲間達と、三宮駅北側の加納町にあるジャズバー「Y's Road」で夜遅くまで飲んだ。皆それぞれに疲れを抱えているようだったが、集まって音楽の話をするうちに屈託のない昔の雰囲気に還ることができた。マスターも3年前には客足が途絶えて、「仕事探そかなあ」と悲しいセリフをもらしていて心配していたのだが、この日はカウンター(といっても狭いのだが)はちゃんとお客さんで埋まっていてにぎやかであった。ときおりライブ演奏もやっているらしい。来月には近くに条件のいい話があったのでと、お店を移転することになっているとのことだった。ともかく先行きやってゆくことがあるのはハッピーなことである。

 帰る前に、大阪にも少しだけ立ち寄って梅田近辺を歩いてみた。前の日、朝が早かったことや、会議が予定より長引いてしまったり、移動が案外大変だったこともあって、かなり疲れてしまってはいた。それでも、自分が学生時代を過ごした街を歩いてみるのはいいものだ。神戸も大阪も表面的には東京や横浜と同じ様な店が目立つが、少し踏み込んでみるとやはり「らしさ」はそのままである。お店は相対的に関西の方がいい、僕はいまでもどこかでそう思っている。

 さて、前回のろぐの最後にお約束した通り、先週末に観劇前の渋谷で購入したCDを1枚紹介する。トニー=ウィリアムスはまさにグレートなジャズドラマー。マイルス=デイビスの黄金のクインテットといわれる時代を支えた人物としてジャズファンの間では知らない人はいない。圧倒的なパワー、そして繊細で多彩なリズム表現を駆使して、ジャズの枠を超えて新しいドラム演奏のスタイルを創り上げた。彼は音楽的には伝統より革新を重視し、マイルスグループでの活動に並行して、同世代のミュージシャンたちとさらに新しいジャズに取組んでいた。その多くは1960年代のブルーノート4000番台と呼ばれる作品群に遺されている。そのあたりの作品については、いずれまた取り上げる機会があることと思う。

 トニーが1969年にマイルスのグループを離れた時、マイルスは既にエレクトリックやロックに対する関心を強めていたわけだが、トニー自身もまたロックに対する関心はマイルス以上に強かった。彼はしばらくして「ライフタイム」というユニットを結成する。メンバーはギターのジョン=マクラフリン、オルガンのラリー=ヤングという編成だった。お気づきのように、ジャズの象徴ともいえるホーン(トランペットやサックス)と決別し、ロックを象徴するエレキギターそしてキーボードがメインになっている。そしてリズムは4ビートから8ビート、そして16ビートへと変化してゆく。いわゆる「フュージョンミュージック」の具体的な形に向けて音楽が動き始めていた。

 この「ビリーヴ イット」は1975年の作品。ジャケットには「The New Tony Williams Lifetime」とある。メンバーは一新され、エレクトリックピアノのアラン=パスクァ、エレキベースのトニー=ニュートン、そしてイギリス出身のエレキギターのアラン=ホールズワースという布陣だった。このアルバムでは、いわゆるフュージョンの原型とも言える音楽が展開されているが、内容はこれ以降に出た軟弱なフュージョンとはとても比較にならない。目玉は「2人のアラン」の華麗なソロ演奏、そして「2人のトニー」による超強力なパワー(これに匹敵するリズムと言えばレッド ツェッペリンぐらいか?)、そしてバンドとしての一体感だ。フュージョンというより「ジャズロック」とでもいうべきものだろう。今回が初CD化というのも驚きである。

 最初にヘッドセットで聴いた時は、正直、ああフュージョンだなあ、似た様な曲ばっかだなあとか感じた。しかし家に帰ってステレオで聴いているうちに、不思議ともう一回聴いてみようかなと思うようになり、グイグイとその世界に惹き込まれていった。一説にはバンド加入脱退記録の金メダリストと言われるホールズワースの唯我独尊的な超絶技巧ソロ、それに負けじと応えるパスクァ、そして時折突拍子もないフィルインをカマすトニー。ライブ感に溢れ、曲を追うごとに凄みを増すかのような演奏に、僕自身もなにか自分でもよくわからない「あの頃」に飛んでいくような気がした。

 大学の頃、僕もフュージョンに興味をもってCDを聴いたり、仲間と演奏をしたこともあった。だけど、僕はどうしてもあの軟弱な雰囲気がイマイチ好きになれなかった。いま考えてみると、その頃に蔓延したフュージョンは、トニー等が創り上げた音楽スタイルのうえで、単に技巧やアレンジを楽しんでいただけのように思える。そこにはそれがどこからやってきた誰の音楽で、これからどこに向かおうとしているのか、そういうものが何も感じられないようだった。

 このライフタイムの演奏からは「どうだい、これが俺たちの考えるイマの音楽さ」という彼らの4人の言葉がはっきりと聞き取れる。繰り返し聴くうちににじみ出てきた時代を超えて生き残る作品の本質だった。それは音楽を創りだす者にとっての本当にあるべき姿だと思うし、僕自身が聴いている音楽に求めているものなのだなということを、あらためて気付かせてくれたように感じた。とてもすぐにできることではないが、演奏についてもそうありたいと思う。

 大阪から帰ってくる新幹線の中でもこれを聴いていた。品川の駅に降り立ってみると、Tシャツ一枚では寒いくらいの気候になっていた。関西に向けて発っていく新幹線を見ながら、また近いうちに大阪や神戸を訪れたいと感じると同時に、やはり自分でも音楽を演奏したいと強く感じていた。

Tony Williams(Drum World) 名ドラマーを一堂に集めた情報アーカイブにあるトニーのコーナーです。この凄まじい演奏を是非とも目と耳で!(要Quicktime)
The Unofficial Allan Holdsworth Web Site 熱烈なホールズワースファンによる充実のサイト。神の手が迫る!
近鉄ホームページ
神戸市

8/22/2004

宮藤官九郎/河原雅彦「鈍獣」

  今回は音楽の話はお休みである。その代わりと言っては何だが、渋谷のパルコ劇場で舞台劇を鑑賞したのでそれについて少しばかり書いておこうと思う。

 演劇と言えば、小学校から高校生までの間には、何年かに1回の割合で観る機会があった。もちろん授業の一環であって、テーマは戦争だったり同和問題だったりした。大学時代になると、学園祭で演劇部のアングラ劇などの上演もあったようだが、ともかく母校の学園祭には一度も顔を出したことがないので、そういうものを観る機会はなかった。就職して上京すると、ちょうど東京は小劇場ブームの真最中で、カルチャー誌には必ずと言っていいほど何らかの演劇のレビューが載っていたのは知っていた。しかし根っからの音楽マニアがそんなものに興味を示すわけもなく、結局、こちらに来てもただの一度も演劇を観る機会などなかったのだ。

 3年前、仕事の関係である異業種交流会の様な勉強会にメンバーとして、半年間ほど参加することになった。この勉強会は、あるCMプロデューサが企業人を集めてプロデュースとは何かを伝授するというもので、毎回、世の中ではかなり名を知られたいろいろな分野の講師がやってきて、ご講義を拝聴し、討議を行うと言うものだった。その中で、つかこうへい氏の「新・幕末純情伝」という作品を観覧する機会に恵まれた。この時は内田有紀がヒロインを務めており、僕はほとんどその程度のミーハ根性で出かけた(というより受講した)わけだが、意外にも舞台の世界に引き込まれてしまい、なかなか悪くないものなのだなと感じた。それでも、それ以降自分で切符を買い求めて舞台を観る機会はやはりなかった。

 今回の「鈍獣」は、JR武蔵溝ノ口駅近くにある、和歌山ラーメンのお店「まっち棒(MATCH-BO)」に2ヶ月ほど前に入ったことがきっかけだった。このお店は、店長の趣味なのかはたまた心の本業なのか、カウンターに演劇やライブのチラシがよく貼ってあり、その日僕がたまたま座った席の目の前に、この芝居のチラシが貼ってあったのだ。僕の目には暑苦しい3人の男優(生瀬勝久、池田成志、古田新太)となかなか魅力的な3人の女優(西田尚美、乙葉、野波麻帆)を対比したそのチラシにしばらく留り、その内容に興味を持ったのである。

 宮藤官九郎の名前は、聞いたことはあってもそれが誰なのかほとんど知らなかった。この作品の告知ホームページを妻に見せて、それがいま非常に人気のある劇作家なのだと知る。後に映画「世界の中心で愛を叫ぶ」に脇役で出演していることなども知った。妻は宮藤作品ということもあって興味をもったが「人気あるからチケットはとれないんじゃないの」と言った。東京公演だけで26回もあるのだから、まあ何とかなるんじゃないのと思っていた僕だったが、それは甘かったようで、一般発売前にほとんどが売り切れという状況。もちろん確保することはできなかった。

 仕方ないなと、諦めていた先月の半ば、さきの勉強会の同窓会の様なものがあり、そこのメンバーに今回の鈍獣をプロデュースする会社の偉い方がいた。これも何かの縁かと冗談半分にその話を彼にすると、「あっ、そうなの」と言われて、しばらくしてチケットが2枚僕の家に送られてきたのである。こういうものはこういうもんだ、とわけのわからないような納得を無理無理しながら、昨日の東京ラス前公演を観ることができた。会場はもちろん満席で、年齢層は20〜30代が中心、女性の姿が目立った。客席では女優の奥菜恵さんとその夫の姿を見かけた。

  まだ地方公演もあるし、いずれテレビでも放映されるようなので、ストーリ等については書かない。ストーリ構成は、タランティーノの映画「パルプ・フィクション」を思わせるもので、なかなか憎いものだったとだけ書いておこう。ともかく、今回の観劇体験は僕にとってはなかなかのインパクトがあった。役者の個性、ストーリ、演技、笑い、テンポ、演出、舞台装置などいろいろなところで感心させられた。やはり目の前のステージで生身の人間が行うパフォーマンスの素晴らしさ、それがあらためて僕を新鮮な気分にしてくれた。考えてみれば、あまり好ましいことではないのかもしれない。やはり何事も感動の本質は生、ライブである。

 ということで、また新しいものをひとつ体験することができた週末であった。

 なお公演前に、渋谷でCD屋さん巡りを行い、また3枚ほど面白いものを仕入れたので、次回は再び音楽に戻ってそのどれかについて書いてみたいと思っている。

鈍獣 公式サイト
大人計画
西田尚美公式頁
otoha.tv 乙葉公式サイト
野波麻帆
MATCH-BO

8/15/2004

エマーソン・レイク・アンド・パーマ「恐怖の頭脳改革」

  先月初め頃からというもの、本当によくビールを飲んでいる。東京では、真夏日が40日間続いてきたが、今日は一転して急に涼しい一日になり、午前中の雨降りを除けば、エアコンなしでも十分過ぎるくらい快適な日曜日だった。アテネではオリンピックも開幕し、相変わらず派手な開会式だなと感じたが、「オリンピックの原点に帰る」という意図はなかなか上手く表現されているように感じられた。開けて翌日にはさっそく2つの金メダルが日本にもたらされた。今朝起きてテレビをつけたら決まっていたという感じでも、やはりうれしいものである。

 さて、ここしばらくジャズの作品をとりあげてきたが、今回は少し趣向を変えて久しぶりにロックをとりあげようと思う。「原点に帰る」というわけではないのだが、僕が音楽にのめり込み始める小学校5,6年生の頃に和歌山の田舎町で聴いていた音楽だ。通称ELPと略されるこのグループの名前は、バンドメンバー3人のファミリーネームを並べたもの。キース=エマーソン、グレッグ=レイクそしてカール=パーマの3人である。

 ビートルズの出現を境にロックは1970年代までには急速に音楽の主流となっていった。そしてそれはさらに多くのジャンルに分かれていくことになる。その中に、このELPを含め、ピンクフロイド、イエス、キングクリムゾンなどに代表される「プログレシヴ・ロック」(通称プログレ)というジャンルがある。そのまま訳せば進歩的ロックということになる。8ビートのロックをベースに、クラシックやジャズなど様々な音楽のエッセンスを融合すること、エレキギター以外に様々な楽器を使ってサウンドに変化と広がりを追求すること、そして多くは美学的あるいは社会的なテーマの歌詞を含んでいること、といった点がこのジャンルの特色である。音色面では、以前に冨田勳についてのろぐでもふれた、シンセサイザーの起用が大きなポイントだった。

 僕がELPをはじめて聴いたのは「展覧会の絵」というアルバムだった。これは有名なクラシックの組曲をアレンジした大作で、そのことが先ず作品の大きな聴き所となっている。しかし、何度も聴いていくうちに僕の耳は、多くのELPフリークと同様に、キース=エマーソンという人の見事なキーボード演奏に魅せられていった。もちろん魅惑のシンセサイザーもフィーチャーされているのだが、彼が長年引き続けたハモンドオルガンの奥深さも特に素晴らしいと感じたものだ。いま考えてみると、随分と音楽的には早熟だったと思う。

 ELPには再結成も含めて大きく3つの活動期があるが、やはり1971〜1974年にライブアルバム含む6枚の作品をリリースした最初の活動期において、その魅力を存分に出し切ったと言っても過言ではないだろう。この作品「恐怖の頭脳改革」はその最後にあたる作品で、ここでは多重録音や当時まだ珍しかったポリフォニックシンセサイザー(要するに和音が出せるシンセサイザー、当時はまだなかったのです)、またシンセドラムなどが駆使され、異常なまでに高まっていたメンバーの(特にエマーソンの)作曲に対するインスピレーションも相まって、それまでの4つのアルバムを遥かに凌ぐ壮大な音楽が展開されている。

 ちょうど近所で仲の良かった友達が、僕の家に遊びにきて音楽を一緒に聴いたりしているうちに、やはりこのELPにカブレてしまい、彼がお小遣いで購入したLPレコードを、僕の家のステレオで聴こうとやってきたのが、僕のこの作品との出会いだった。僕はその際に録音させてもらったカセットテープを、それこそ何百回と聴いたものだ。つい最近久しぶりにCDで聴いてみたが、あれから20年以上経ったいまでも、作品の細部にわたるまですべて記憶している自分の耳が恐ろしかった。

 1曲目の十字軍をテーマにした「聖地エルサレム」がもう既に神々しい。レイクのクリアなヴォーカルにエマーソンの重厚なハモンドオルガン、そして後半には見事なシンセサイザーによるオブリガート、たった3分にも満たない作品なのに、もう圧倒的なスケールと密度である。この歌は内容的に一種の軍歌であり、いまこのご時世にこんな作品をリリースしたら確実に大きな物議をかもすであろう、その意味ではやはり古き良き時代である。そして、南米の現代音楽家ヒネステラの作品に取組んだ「トッカータ」ではパーマが大きくフィーチャーされ、シンセドラムのソロ演奏パートは、その後いろいろな映像や舞台の演出でお目にかかることになった。レイクのバラード「スティル・ユー・ターン・ミー・オン」、エマーソンのホンキートンクピアノ(意図的に調律を少し狂わせたピアノ)が楽しい「詐欺師ベニー」という小品2曲を挟んで、いよいよ本作のハイライト(おそらくはELPの最重要曲でもある)「悪の教典#9」になる。この作品は3つのパートからなる30分近い組曲で、このグループが完全燃焼した恐るべき成果が記録されている。これはもう文字では表現しようのない素晴らしさなので、気になる人はぜひとも作品を聴いていただきたい(それなりの集中力が必要です)。

 後にラジオのインタビューに応えたエマーソン氏が、この頃のことを振返って「あるアイデアから次のアイデアに移ってしまうのが少々速すぎた」みたいなことを語っていた。この作品のリリース後、大掛かりなツアーも成功させたELPは、2年間活動を休止し、新たな出発となった次の作品からは、各自のソロを充実させる一方で、グループとしてはオーケストラとの共演でさらなるスケールアップを図った。確かにサウンドはよく練られたものになっていて、それはそれで素晴らしいものだったが、グループとしては長続きはしなかった。やはり理屈抜きにがむしゃらに突き進んだあの時期が、本人たちも音楽的に一番充実していたのではないだろうか。大きなことを成し遂げようとして関わる人が増え、マネジメントやらの問題が絡んでくると、人間本来の勢いは不思議と精気を失うように思える。

 いま聴いてみると、彼らの音楽にはジャズやクラシック、特に20世紀の現代音楽のエッセンスをかなりしっかり取り込んで、自分たちのオリジナリティを創り上げていることがわかる。こういう音楽ができる人は、この先そうそう出てくるものではないだろう。1970年代というロックにとっては短い黄金期に遺された貴重な財産だろう。まだ子供ではあったが、その時期に同じ時代の人間としてこの音楽を体験することができたことは、やはり僕自身には貴重な体験だったと思う。

 プログレは様々な音楽がミックスされていることから、パンチのあるストレートさはないが、ハマる人には深いところでその虜になってしまう。僕はその後プログレ体験が中学2年頃まで続き、楽器演奏に興味を持ち始めた後は、フュージョンやジャズに足を踏み入れ、さらに様々な音楽に興味を拡げることができた。一方、その友人はその後もエマーソンフリークであることを続け、自らピアノを独学で学んで、シンセサイザーやハモンドオルガンを購入して演奏に取組む一方、聴く方では海賊盤収集に飽き足らず、テープのフリートレードなどにも手を染めて、日本ではちょっと有名なELP系プログレコレクターになった。いまは札幌で歯科医をしており、最近は愛する娘さんのピアノレッスンに熱をあげて、ご自宅にグランドピアノを買おうかと頭を悩ませているそうだ。

 短いお盆休みに、久々に自分の音楽体験の原点にあたる作品に触れてみて、やはりまた当時と同じ熱さがこみ上げて来た。こういう原点回帰ならたまにやってみるのも悪くはない。今度、この作品を同じように聴く機会はあるのだろうか。それはたぶんあるだろうと思う。

The Official ELP Global Web Site 公式サイト
ELP Digest 個人ファンサイト

おまけ:週末に鎌倉に出かけて山の中のハイキングコースを散策した。その折に見かけた竹林の写真です。

8/08/2004

アンリ=テキシェ「モザイク マン」

  土曜日に川崎の自宅から横浜桜木町までを歩いてみた。午前11時過ぎに家を出て、国道1号線に出るまでが45分、そこから国道沿いに歩くこと2時間、横浜みなとみらい地区の真ん中にあるショッピングモールの中華レストランにたどり着いたのは、午後2時半頃だった。自宅からここまで約20km弱。途中、コンビニで水分を補給すること2回、天候は薄曇りでちょうどよい歩き日和だった。大きな国道沿いに歩くのは、距離が短くて済むし、しっかりした歩道があるので効率的なのだが、行き交う自動車に並んで歩くのはそこそこのストレスを感じるもので、意外に疲れる。それでも、目的地に着いて飲んだビールはこのうえなく旨かった。

 その後、海沿いの公園でのんびりと横浜港を眺めながら時間を過ごした。静かな入り江では時折ボラが水面に跳ね上がった。近くに作られた野外ステージでは、矢井田瞳のコンサートの準備が行われていた。そのすぐ近くのヘリポートからは遊覧飛行のヘリコプターがひっきりなしに離着陸を繰り返す。パシフィコ横浜のホールでは、コミックマーケットが開かれていて、アニメや漫画の主人公のコスプレを決めた若者でにぎわていた(話には聞いていたがこういう現場を観たのは初めてだったので少々驚いてしまった)。道中の国道もそれなりに楽しかったが、やはりこういう人が集まるエリアでは、一帯だけで同時に実にいろいろなことが行われているのだなということをあらためて知った。

 前回のろぐで紹介したウィントンの7枚組は、まったく強力な内容である。この1週間もほとんどその7枚を繰り返し楽しむことに費やされた。1枚1枚を毎回とりあげてもいい位だ。僕は結果的にこのウィントン=マルサリスというアーチストに対する思いを新たにした。彼のやや原理主義的な主張もいまとなっては理解できる。ここに記録されている素晴らしい音楽は、急速に広がるジャズのなかで、いま一度その源流を振返るという意味で、ひとつの時代的な要請であったように思えるのだ。ジャズにとって、こんなことができるアーチストは、やはり彼しかいなかったのだ。

 NHKの夜の番組で、歌手の森山良子がジャズシンガーに挑戦し、ニューヨークの名門クラブブルーノートの舞台に立つという番組をやっていた。彼女の父親のエピソードから始まり、森山自身がニューオリンズのバーボンストリートに足を運んで当地のジャズを楽しむ映像などもあり、なかなか楽しめた。ステージのハイライトでマイケル=ブレッカーが登場したのには驚いた。

 さて、そんななか、たまたま出かけた渋谷のディスクユニオンで、中古CDを漁っていて見つけたのが今回の作品である。タイトルの「モザイクマン」とは、ジャケットにあるアフリカの草原を駆けるシマウマの模様にも表されている、アンリ自身のジャズに対するそして現代に通じるひとつの概念である。ジャズは黒人と白人の文化が出会ったことから始まった、というのが通説になっている。リズムやメロディ、ハーモニーなどジャズ音楽のベースになっているは、明らかに黒人の音楽文化であり、まあそのあたりからウィントンのような考え方も出てくるのだろう。テキシェはヨーロッパジャズの人間だから、この作品の意味にもウィントン等の考えにアンチする意味もあったのかもしれない。

 しかしまあそうした歴史的経緯と、音楽の内容そのものは別物と考えたいところである。どちらの意見も間違ってはいないし、どちらの音楽も素晴らしい。音楽はどんなものであれ、争いとは縁のないものであってほしいものだ。スポーツ観戦に熱狂している人たちの話を聴いていると、ついそういう気持ちになる。

 アンリ=テキシェの作品は、記念すべきえぬろぐ第1回目のCDだ。いま読み返してみると、半年前のこととは言え、いったい何書いてんだかという感じでちょっとお恥ずかしいが、あのアルバムはやはりいま聴いてもはじめて耳にした時の感動がよみがえる。相変わらずアメリカからはいいジャズの便りが聞こえてこないが、僕も一度アメリカからヨーロッパへとジャズが広まった道を旅してみたいという気持ちになった。まだまだこの音楽にはいろいろな楽しみがありそうだ。

横浜みなとみらい21公式サイト
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