8/30/2009

南方のエチュード

先週の木曜日、妻がある用事でどうしても日中出かけなければならなくなり、僕が仕事を休んで半日子供の面倒を見ることになった。といっても、妻が留守にするのはほんの7、8時間ほどのことだし、お昼ご飯は用意してくれたものを暖めるだけという気楽な子守りなのだが、僕としてはやはりいくばくかの緊張は禁じ得なかった。

子供につきっきりでいるだけではせっかくの休みがもったいないので、ミルクをあげたり遊んだりする一方で、引越し以降しばらく放ってあったこまごまとした片付けものをやりながら1日を過ごした。最近子供はよく泣いてくれるので、これは結構疲れるものだった。泣いているのをあやしながらもある時はベビーベッドにほったらかして作業を続けたりもした。毎日子供とつきっきりでいる妻の苦労がよくわかる。

夕方になってミルクを飲ませた子供をベビーカーに乗せ、近所の森林公園まで散歩に出た。途中妻から連絡が入り予定より早く戻れたので、40分ほど散歩を楽しんだその足で山手駅までお出迎え。親父の初単独子守りは無事に終わった。妻は妻でいい気分転換になったとか言っていたが、やはりたった数時間とはいえ気が気でなかった部分もあったのだろうと思う。

さて先週来、ジョン=ケージのピアノ曲"Etude Australes"にすっかりハマってしまった。直訳すれば「南方の練習曲集」ということになる。南半球の星図をもとに作曲された32のピアノ作品集で、ケージのピアノ作品演奏の完全版を目指すステファン=シュレイエルマッハが2001年に録音したCDを僕は買い、先週来毎日の様に聴いている。

本作品の解説を含めケージの代表的なピアノ作品については、ピアノスコアの監修なども手がけておられる不破友芝氏による素晴らしい解説があるので、是非ともご一読をお勧めする。この作品に関する解説はリンク先中程にあるが、ケージの音楽を知る上でもできれば全文をご覧になることを強くお勧めする。

2年半前にこのろぐで取り上げた"Atlas Eclipticalis"と同じく、南半球の夜空にまたたく星々がひとつひとつの音を構成するこの作品だが、他のケージの作品同様、メロディーとかハーモニー、リズムという要素ではなく、時間とか空間という観点での新しい音楽の魅力を存分に楽ませてくれる。

言ってしまえばメロディーやハーモニー、リズムといった観点からは、ほとんど何の関連性も認められないピアノの音列が、CD3枚分合計3時間以上にわたって延々と続く音楽である。しかもこれはコンポジション(作曲)であり、インプロヴィゼーション(即興)ではない。

後者は演奏者の意志が明確に込められたものであるが、前者は先ず作曲者の意志が存在する。そして、この作品における作曲者は、その心象をメロディやハーモニー等に込めるに際して、音列を星図から選ぶという手段をとっている。それが作曲手法ということに関するケージの意志である。だからといってそこに表現されるものへの意志を放棄しているわけではもちろんない。

前のろぐでも書いたが、ケージの音楽は静かなホールやオーディオルームで、他の音を排した状況で純粋にその音楽だけを楽しむ、という趣旨の鑑賞方法はあたらないと思う。その意味でもケージの音楽は現代における音楽というもののあり方を予見している。僕はこの作品についてもすぐさまiPodに取込み、3枚のCDに分散された音楽を一気に聴ける形にして、それをいろいろな場面で思い思いに聴いている。

一番のお気に入りは、やはり涼しくなって来た夜長に、開け放った窓から聴こえてくる虫の声や風の音に混じるかたちで、この星空の音列を聴きながらビールを飲むという聴き方である。子供や妻が寝ている部屋で、薄暗い明かりの室内に瞬くピアノの音はとても新鮮であり心地よいものだ。

多くの人がこの素晴らしい音楽に親しむことを願いたい。ケージの音楽は難解でも何でもない。多くの場合その障害は、音楽とは何かということに関する、知らぬ間に出来上がってしまった既成概念にあるのだ。そしてそれを打ち砕く必要などない。ただ少しそれを自分のなかで柔らかくしてみればいいだけの話だ。ケージの音楽が示唆することはそういうことだ。繰り返しになるが、それは音楽だけではない、現代のいろいろな様々な事象に当てはまることでもある。

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