4/25/2010

浅川マキさんを愉しむ

少し前にノーノの音楽を聴きまくっていた時期があった。面白いことに、この手の音楽にハマった時は、決まって途中から別の種類の音楽を耳に入れたくなってくる。ちょうどウィスキーを楽しむのにチェイサーが欲しくなるのに似ている。

ノーノの音楽がウィスキーなら、チェイサーは何か。ジャズではない。ジャズはビールの様なもの。口当たりはいいがウィスキーと一緒にはあまり飲みたくはない。今回僕が聴きたくなったのはロックだった。記憶に刻まれる程何度も聴いたストレートな音楽が欲しくなった。

もの入れの箱に閉まってあるCDを思い浮かべて、聴いてみたくなったのはジミ=ヘンドリックスとグランド・ファンクだった。何となくわかっていただけるだろうか。

それらのCDを取り出すためにポップス系のお蔵を開けた途端、目に飛び込んできたのが浅川マキのベスト盤だった。そういえば今年に入ってすぐに亡くなったというニュースを観た。僕はこのアルバムを持っていることを忘れていたわけではないが、アルバムのカバーにあるマキさんの写真が、ウィスキーとチェイサーを楽しんでいた僕に、突然マスターから薦められたコニャックのラベルの様に映った。

浅川さんのアルバムは今はすべて廃盤になっているらしい。現在は「ダークネス」と題されたマキさん自選のCD2枚組のベスト盤が、全部で4セット発売されている。僕が持っているのはその第1集である。

1枚目は初期作品集、2枚目はジャズミュージシャンとのセッションを集めた内容になっている。どちらもマキさんのブルースであることに変わりはない。実際にこれらの曲順をごちゃ混ぜにシャッフルして聴いても何ら違和感はなく、しっくりと流れる。

時代を感じさせる歌詞だが、やっぱりいま聴いても彼女のメッセージはしんと沁みるものがある。特に夜に仕事帰りの通勤電車のなかで流れると、自分も含めた目の前の人々をそのまま歌っているかの様だ。隣で寝入っているおじさん、ドアにもたれて窓の外を眺めているお姉さん、疲れてもどこかで仕事のことを考える僕。

ブルースの根底にあるのは人間の陰であり鬱だ。そこには決して攻撃や破壊のイメージはない。その原因が自分自身にあることを唄う人は悟っている。基本的なことなのだが、知恵や経験がつくと人はそれを忘れる。

どうやらこれは間違いなく残りの3セットも買うことになりそうだ。国内盤は値段が張るのがちと痛い。

疲れているあなた。マキさんの音楽を聴いてみませんか。

4/18/2010

地潮のドラマー

手に入れたのはもう2ヶ月程前になるだろうか。ジャクソン=ハリスンというピアニストのデビューアルバム"Land Tides"はなかなか素晴らしい作品だ。

レーベルはあのHat Hut RecordsのHatologyである。というとまたフリー系ですかと呆れられそうだが、この作品はそういう趣向のものではない。むしろモダンジャズピアノの王道に位置づけられる作品だろうと思う。

ハリスンは1981年オーストラリア生まれというからまだ30歳の手前であるが、それでいてこれだけ洗練された音空間を作り上げてしまうところはタダ者ではない。僕は冒頭に響く鍵盤の一打で、あっという間にこのアルバムの虜になってしまった。

さらに素晴らしいのは2人の共演者、ベースのトーマス=モーガンとドラムのダン=ウェイスである。彼らはいわゆる「リズムセクション」ではなく、エヴァンスやジャレットのトリオ同様に互いにまったく対等な関係で語り合う。その語り口がもつ独特の現代的な時間感覚が、作品に一貫して流れる魅力だ。あのテザードムーンに通じるところも感じられる。

そのタイム感の中心にいるがドラムのダン=ウェイスである。彼はまったくもって素晴らしい。先の例から引き合いに出すわけではないが、まるでポール=モチアンとジャック=ディジョネットをブレンドしてさらに洗練させたようなドラマー。時代の最先端を行く演奏家だ。

少しだけ彼の作品を追いかけて聴いてみたのだが、その恐るべきパルスの源はインドにあるらしいと言うことがわかった。彼はタブラ奏者でもあり、タブラソロのアルバムやインド音楽のリズムに基づいたドラムソロの作品なども発表している。それらについてはまた別の機会があれば書こうと思う。

この作品がジャズピアノトリオの歴史に新たな1ページを残すものであることは間違いない。52分間続くさり気ない緊張感の連続は、ダンをはじめとする若い世代の恐るべき才能を感じさせるに十分である。これは聴くべし!

4/11/2010

.....苦悩に満ちながらも晴朗な波...

「楽園への道」を読んでいると、僕は自然とノーノの音楽を催した。理由はわかっている。フローラ=トリスタンの物語が、労働運動をテーマに欧州と南米という舞台で展開されるから。

ノーノについては以前も少し書いたかもしれない。生い立ちなどについてはウィキペディアなどを参照していただきたい(あまり十分な内容ではないが)。

僕はいわゆる現代音楽もいろいろと聴きかじってきたが、いままでのところでその人の作品をできるだけ多く聴いてみたいという気になるのは、ケージとノーノそれから武満の3人である。

ノーノの作品に関しては、僕は世に出ているCDは8割がた持っている。これで彼の全作品の7割程度はカバーしているはずだ。といっても枚数にしてたかだか10枚程なのだが、それが世間一般の彼に対する評価だと思う。低い評価のようでもあり妥当な評価のようでもある。

この2週間はもっぱら彼の作品を中心に耳を傾ける毎日だった。

ノーノは約半世紀におよぶ音楽家としての人生のうち、最後の10年間を除く期間においてイタリア共産党に在籍し、資本主義やブルジョワ的なものへの反発と告発を作品のテーマにおいて活動した。

そのことが彼の作品にもたらしている特徴はいくつかある。特に声楽による言語メッセージを含んだ作品が多いことや、作品のタイトルに象徴的で強いメッセージをもった言語表現がつけられていることもその現れだ。

今回とりあげた「.....苦悩に満ちながらも晴朗な波...」(原題は".....sofferte onde serene...")というタイトルもいかにもノーノらしい。これは僕の大好きな作品のひとつである。

この音楽は偉大なるピアニスト、マウレッツィオ=ポリーニ夫妻に捧げられたピアノ曲である。あらかじめテープに収録され加工されたポリーニの演奏と、楽譜に記されたピアニストによる生の演奏が、言わばインタープレイとして挑発し合いながら展開するという仕掛けになっている。

なので、本来は生演奏で聴くのが一番いいのだが(もちろんどの様な音楽もそうあるべきだと思う)、僕は残念ながら数少ない機会を逃してしまった(数年前のポリーニ・プロジェクトで2度演奏されている)。しかしCDでもじっくりと聴けば、テープの部分と生の部分は比較的容易に判別できる。

この音楽が持つ独特の緊張と躍動に満ちた美しさには、とてつもなく素晴らしく深い趣がある。現代音楽のピアノ作品として極めて重要なものだと思う。ポリーニ自身は一時期「ある種のジャズ」に興味を持っていたこともあるらしい。そのせいもあってかテープ演奏とのインタープレイはとてもリアルな緊張感に満ちている。

タイトルの意味については、ノーノ自身が語った内容がCDのライナーに記されている。彼が住んでいたヴェネツィアという海の上にある水の街で、様々に鳴り響く鐘をモチーフに人々の生活や思いを表現したものということらしい。それがなぜこの様な音楽になるのか、不可解に思われる人も多いかもしれないが、これがノーノの音楽である。

共産主義と資本主義のどちらが正しいかに対する答えはないが、社会的な実践という面では後者に少しだけ分があった、というのが今日までの状況から言えることだと思う。

ノーノがある時期共産主義に共鳴し、それを創作の原動力としていたことは、政治思想の是非を超えた芸術の世界において非常に好ましい成果をもたらしたといえる。そして社会主義に失望し、より純粋に音の表現に向かうことになった最後の10年間の作品においても、そこに強いメッセージを込めることは変わらなかった。そしてそのことは結果的にさらに素晴らしい作品群を残すことにもつながったと思う。

僕はこの作品以降のノーノの音楽を特に多くの人に薦めたい。

さて、肝心の本作品はいったいどんな音楽なのかと言われれば、それはもう聴くしかないと答えざるを得ない。しかしインターネットのこの時代、この作品全編の演奏映像が、なんとYouTubeに2本に分かれてアップされている。素晴らしいことだ。もちろん音質などの点でこの映像だけでこの作品を判断するのは好ましくないが、興味のある方は是非ともご覧いただきたい。



4/04/2010

楽園への道

このところ音楽の話題が少ないのは、また仕事の行き帰りに読書をしていたから。読んでいたのはペルーの作家マリオ・バルガス=リョサが書いた小説「楽園への道」。先にご紹介したケルアックの「オン・ザ・ロード」と同じ河出書房新社世界文学全集の第2巻である。竹之丸地区センターのライブラリで借りた。

この小説は19世紀前半を生きた女性活動家フローラ=トリスタンと、19世紀後半を生きた画家ポール=ゴーギャンのそれぞれの半生を綴った物語り。それぞれの人物が後世に名を残すことになる人生への第1歩を踏み出した時から亡くなるまでを描いている。すなわち、トリスタンは労働運動家としての行脚に旅立つその日から、ゴーギャンはパリを離れてタヒチに渡るその日から物語りが始まる。

全部で22の章からなり、フローラとポールそれぞれのお話がかわりばんこに現れる構成。物語りの途中でわかることなので、種明かし的になってしまうかもしれないが、ある程度知られた史実であるということに免じて書くと、実はこの2人は血縁関係にある。すなわちフローラはポールの祖母にあたるのだ。しかし2人の間には面識はない。

章ごとに半世紀の時間が前後し、地理的舞台も赤道と日付変更線を何度も前後する。さらにそれぞれの物語のなかでも、己の人生の前半を回想するシーンが何度も現れ、ポールの章のなかで突如として祖母フローラの逸話が語られたりする。壮大なスケールでの時間と空間を描く構成はまさに圧巻である。

本をこれまであまり読んでいなかった僕が言うのも説得力がないのかもしれないが、じっくりと時間をかけた、地道な取材と緻密な構成で描かれたこうした作品こそ、文学が本来もつべき醍醐味だろうと思う。一時の思いつきでさらりと描かれる最近の人気小説には、切なくももろい感性に満ちているが、人の心を捉えて揺さぶる力の差は歴然としたものがあると思う。

最終章で克明に描かれる2人それぞれの死に様が、異なる時空を行き来して綴られてきた2つの人生の物語りが、作品のタイトルである「楽園への道」という言葉によって、はかなくも見事に結びつけられるようで感動的だ。僕はまだ本を読んで涙を流したことはないが、ゴーギャンの命が消え入ろうとする最後のシーンでは、涙腺がうるうると来てしまった。

今回はいろいろあって2週間の貸し出し期間内に読み切ることができず、3週間お借りしてしまいセンターにはご迷惑をおかけした。ゆっくりとではあったが完読することができ、得難い感動をものにすることができたことに感謝したい。

歩く

4月に入った。桜が満開である。日曜日の今日はご近所の家族が集まり、森林公園でお花見会が催された。あいにくの曇り空で公園は少し肌寒かったが、日頃あまりお話しすることのない隣家の人たちと楽しいひと時を過ごした。

ところで、4、5日前からその気配はあったのだが、今日になって突然、子供がひとりで立って歩き始めた。午前中はまだつたい歩きの途中で距離の短いところを2、3歩歩いたりする程度だったのが、午後になると壁をつたわずにリヴィングルームの真ん中を、きゃあきゃあ声をあげながらドタドタと歩いている。これには妻も僕もちょっと驚いた。

夜には部屋の中でクリスマスに買ってあげたボールを使って、子供とサッカーのまねごとをした。ボールを蹴れるわけではないが、僕が彼に向かって蹴ってはずむボールを、彼は楽しそうにあとを追ってくる。うーん、こんなにあっという間に発達するものなのだろうか。

彼はまたひとつ前に進んだ。