4/07/2007

ジョン=ケージ「アトラス エクリプティカリス」

 あっという間に1週間が過ぎた。この間も父親の容態は不安定だった。金曜日の夕方、仕事の出先から叔母に連絡をしてみたところ、あまり芳しくない様子であることを知った。本来なら週末にまた帰ってあげたいところなのだが、どうもこのところの疲れがたまって肉体的とも精神的とも言えぬ、妙な疲労を感じていた。とりあえず実家に戻るのは来週にしてこの週末は自宅で過ごすことにした。

週の始め月曜日に、同じ和歌山出身の旧友と新宿で飯を食った。彼の親父さんもちょうどある病気で入院しており、先日の手術には彼や彼のご家族皆で帰ってあげたのだそうだ。やはり家族からもたらされる作用は、病気の本人にしてみればとても力強いものなのだなと、彼の話を聞きながら、自分達の先週末を思い出してそう感じた。

東京は「花冷え」の1週間だった。それでも週の後半に向け少しずつ暖かさを取り戻し、この週末は過ごしやすい気候になった。「衣替えしなきゃ」と洋服を出し入れする妻を家において、僕は少し街をぶらぶらした。何を考えるともなく、何を探すでもなく。

街は就職で上京した若者を中心ににぎわっていた。景気を反映してか、ここ十年くらいの間で考えると、この時期の東京のにぎわいとしては最も多いような印象を受ける。街中で見かける彼らに自分の同じころの姿を重ねることはなかった。たぶんいまの自分はいまの春に何かの始まりを感じてはいないのだろう。

今回もまたケージの音楽を紹介しておきたい。ケージの全作品を発売することをめざしたシリーズを続けているアメリカのmode recordsから発売されたCD3枚組の作品である。といっても2枚は以前LPで発売されていた作品のCD化で、今回はそこにこれまで未発売だった新しい音源を1枚追加したセットになっている。今回取り上げたいのは、その新しい音源である。

作品名はケージが1961年に作曲した楽曲のタイトルである。これはケージが作曲に際して参照した書籍のタイトルからとったもの。"Atlas Eclipticalis"とは直訳すれば「楕円形の地図」とでもいうことになるが、本の内容は天空に散らばる星々の配列を克明に記した、いわば「星の地図」である。

この作品について書かれたものに、本作品が「星座図を元に作曲された」とするものがあるが、これは実はかなり重大な間違いである。星座は天空の星の配列に人間が勝手な思い込みで、様々なものの姿を見出して作り上げた「人為的」なものである。ケージが参照したのは、そうした人の意思を排した純粋な星の配列であったことは、彼の音楽の根底にある「偶然性」という意味において極めて重要なことである。

この作品はどういう音楽なのか。ケージは星図の任意の場所に幅の狭い五線譜を重ね合わせ、そこに入った星を音符に見立ててそれを写し取ったのである。星の明るさは音の大きさに反映された。そうして写し取った数多くの音列を複数まとめたものを1つのシステムとして、それをオーケストラを構成する86のパート別に分けていったのである。これがこの作品の楽譜である。

ケージはこの作品の演奏について、それらのパートをいかなる組み合わせで演奏してもよいとしている。つまりフルートのソロ作品として1人でフルートのパートだけを演奏してもいいし、10人のアンサンブルで演奏してもよい。もちろん全パートを同時にオーケストラで演奏してもいい。演奏時間やテンポは特に決められておらず、指揮者あるいは演奏者がそれを決定する。

今回紹介する3枚組CDの、最初の2枚にはこれを10人で演奏した2種類のバージョンが収録されている。そして今回初めてリリースされた音源である3枚目には、全パートをオーケストラで演奏したいわば「完全版」が収録されている。これはケージ自身の監修のもと行われた1988年の演奏を記録したもの。ちょうど僕の心はケージの音楽に傾いていたところに、オーケストラ版を聴いたことがなかったこともあって、今回のセットがリリースされたことはうってつけのタイミングだったわけである。これも何かの「偶然」だろうか。

もう「えぬろぐ」ではよくあることかもしれないが、ここまでの話を読んでいただいた多くの人は「果たしてそれは音楽といえるのか」という疑問を抱くだろうと思う。そしておそらくそれと同時に、実際にそれがどんな音楽(演奏)なのについて、少しは興味をお持ちだろうとも思うのだがいかがだろうか。

この音楽をわかりやすく言うなら、それぞれの音は天空の星のひとつひとつである。そしてその瞬きを表現したものが作品全体ということになる。ケージは必ずしもそういう言い方をしていないが、少ないパートで演奏される場合、それは星があまり見えない空を表しているのかもしれない。そしてオーケストラで演奏される場合は、いわゆる満天の星空を表しているとも考えられる。

星空を見て、そこにどんな音楽を想起するかは個人の自由だ。ある人はホルストの「惑星」を思うかもしれないし、ある人は「星影のステラ」だったり「星に願いを」かもしれない。その音楽が何だって構わないのだが、「星空の音楽」と言った場合、それらの音楽とこの作品は明らかに異なる点が一つある。それはこの作品が実際の星を音符にしているという事実だ。それに対して、ホルストや星影のステラはあくまでも作曲した人の主観的なイメージが反映された音楽に過ぎないのである。音楽としてどちらが自然か、というような議論はもはや意味がないだろう。

初めて耳にした「完全版」の演奏は、まさに「満天の星」であった。僕にとっては非常に感動的なものだった。僕の実家の和歌山でも、相当に山奥の方に行かないとこんな星空は絶対に見えないだろう。そこに僕は、長らく忘れていた星空の本当の姿を「見る」ことができたのである。

おそらくこのつたない文章を読んでいただいて、少しは音楽の様子が想像できる方もいらっしゃると思うのだが、たぶん実際に聴いてみた時の印象はもっと強く明確なものとして伝わってくるのではないかと思う。

この音楽は多分じっくりと傾聴するものというよりも、ある意味それとともにいるという様に楽しむのがいいと思う。大きい音で聴いてもいいし、小さな音で楽しむのもいい。星空の楽しみ方は人それぞれだろうが、無心に星を見つめるのも、その光の配列と流れに任せて何かの思いにふけるのも自由だ。この音楽はそういう楽しみ方を実際に与えてくれるように思える。それは人が勝手にイメージしたものよりも、もっと自然に星空と同じ想いをもたらしてくれる。

これを聴きながら僕が考えたのは、ぼんやりとではあったがやはり父親のことだった。そういえば父も星が好きで、家には僕が幼い頃からビクセンの天体望遠鏡があった。あれはどこにいったのだろう。

Atlas Eclipticalis オランダのケージ研究家 André Chaudron氏の運営するサイトにある、本楽曲の解説(英語)

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