11/25/2007

カサンドラ=ウィルソン「トラヴェリング マイルス」

 寒さが少しずつ増してくる。火曜日に新宿に勤める幼なじみと久しぶりに一杯やることになっていた。同じ会社に勤める同年の翻訳者もいっしょだった。このメンツだと新宿のどこかで熱燗でもやるのかなと期待していたのだが、今回用意してくれたお店は三丁目のタイ料理屋「バーン・キラオ」だった。まあ楽しく飲めるならどこでもいい。

地下鉄の駅まで迎えにきてくれた幼なじみとお店に向かう。入り口が下町の印刷屋さんの様な門構え(アルミサッシの引き戸である)で一瞬あっけにとられるが、店内の雰囲気からこの店はイケるなと感じさせてくれるものがあった。まあ地元の彼等ご推薦のお店に基本的にハズレはないのだが、この店の料理は本当にうまい。いままで食べてきたタイ料理店の中でもピカイチではないだろうか。

翻訳者の男は実はつい数日前に酔っぱらって転倒し、右の肩甲骨を骨折したところだった。事前に骨折のことは聞いていて、その日は来られるかどうかわからないとのことだったが、まさか骨折が数日前のこととは思っていなかったので、来てくれていることに感謝しつつも少し心配になった。先にどこかでやっていたという彼は、既に出来上がりの様子だったが、まあ酒癖の悪い男ではないのでその点は気にはならない。見た目はギブスも何もつけずに元気そうである。

僕の肋骨折から半年が経過しようとしていた。確か、医者からは骨がくっ付くのに酒はあまりいいとは言えないと言われ、確か1ヶ月くらいは酒を断った覚えがある(後半はかなりいい加減な禁酒だった)。まあ彼の場合は医者に何と言われたのかは知らないが、酒をやめるところまではいっていないところをみると、あまり気にしなくてもいいのかなと思い、僕もビールを飲み始めた。美味しいタイ料理に骨折のことはいつしか忘れ、いつもの宴にすべりこんでいった。

とりあえず話は骨折の顛末を前菜代わりに(と言っては失礼か)始まり、最近聴いている音楽(僕はiPod touchの映像を自慢げに見せびらかした)の話から、NHK朝の連続ドラマ「ちりとてちん」を皆が視ているというあたりでもうすっかりいつもの雰囲気になった。最近僕は毎日7時半には自宅を出ているので、ちゃんと視ているのは土曜日だけなのが残念だ。やはりNHKの朝ドラはいいなあと、それなりの年齢になった男3人が、少ないタイ料理をつまみながら次々とビールを空けていく様子に、隣のテーブルの客たちはややあっけにとられた様子なのが、目線の隅でかろうじてわかった。

今回は話のなかで、僕の幼なじみの男の家庭に最近になって起こったある出来事が披露された。詳しくは書かないが、ある年齢に達したお子さんのいる家庭では最近決して珍しくないことだ。まあどちらかというとあまり人には公にしたくはないことだと思う。彼も少しは酒の勢いを借りたのかもしれないが、やはり基本的には身内以外の誰かに話したかったのだと思う。僕らは少し神妙になりつつも、自然とその話題を論じることになった。親とか家族とか子供とか、いろいろな情の話題は宴に微妙な抑制をもたらし時間の流れが濃くなった。

途中から仕事の打ち合わせと称して、彼等の以前からの仕事仲間で僕も少し面識のある女性も合流し、打ち合わせを5分で済ませて、その先はいままで交わされたテーマ、骨折、音楽、ちりとてちん、幼なじみの家庭に起こったこと、等々をもう一度順番にリプライズして異なる視点から検討しようという、長い終楽章に突入したらしい。彼女用に料理が追加され、ビールやらタイウィスキー「メコン」の水割りなどが投入され、素晴らしい夜が更けていった。お店を出たのは夜の11時過ぎだったが、外はもうかなり冷え込んでいた。それでも4人で1万5千円だから、これはもう安いというしかない。

3連休前の木曜日は夕方から仕事で10人程度のお客様を相手に、僕が講演めいたお話をさせていただいて、そのままその人たちとの懇親会に参加した。まあ仕事は無難に済んだが、どうも食べたのか飲んだのかよくわからないままお開きになってしまったので、ちょうど仕事が終わったという妻と新丸子で待ち合わせ、最近開店した安い串焼き屋で一杯やって帰った。この時は久々に熱燗にありつけた。料理も安くておいしく、なかなかいいお店だったと思う。

週末、ディスクユニオンでCDの買取り強化キャンペーンをやるというので、今回は思い切って「箱もの」を中心にかなり処分した。「コンプリート何々」と銘打ったこの手のセットは、いまの僕の感想を言えば、蒐集心をくすぐり満足させるものではあっても、音楽を聴くうえでは結局あまり意味のないものだと言える。

これまでにも何度か書いた様に、未発表になった音源にはそれなりの理由があるのであり、アルバムにある順番で曲が並べられているのにも、その作品としてのある意図が込められているのである。前回のろぐで書いた様な想いもあって、僕の中でディスクを蒐集しようとする姿勢に変化が起こり、いままでその考えを捨てられないかすがいの様な役割を果たしていたそうしたセットを、いくつかのお気に入りを残してかなりの数処分してしまった。手元には4万円と少しの現金が入ってきた。

それと引き換えに1枚だけCDを買った。それが今回の作品である。カサンドラ=ウィルソンがマイルスの作品に取り組んだこのアルバムも、既に発売から10年が経過しようとしている。前回彼女の作品を取り上げて以来、あのアルバムを時折聴いている。ちょうど最近もそうだった。この作品はDVDも発売されており、本当はそれがお目当てだったのだが、お店にはなかったので中古品で並んでいたCDアルバムを買うことにした。

不思議なことに彼女の歌を聴くと、僕はなぜかベースに手がのびる。理由はよくわからない。どんな音楽にも大抵ベースは入っている。僕は当然それを耳にする。それは素直に耳に入ってくることもあるし、何の印象も残さないこともある。カサンドラがベースについて何か特別な思い入れがあるようにも思えなくもない。今回のアルバムでもやはりそれは起こった。彼女の音楽のスタイル上ベースは非常に重要な役割を担っている。

収録されている音楽はマイルスを広く聴いている人にはおなじみのものだろう。そこに彼女のオリジナルが数曲絡む構成。選ばれているのは、"Someday My Prince Will Come"の様な1950年代のものから、"Time After Time"や"TUTU"といった最晩年のものまで実に多彩であるが、この選曲がまた僕には非常に共感できるものばかりである。いずれも彼女の世界の音楽として見事に仕上げられている。これはもうカッコいいと言うほかはない。もっと早く聴いとけばよかったと思えなくもないが、やはりこの作品はいまの僕がこうして出会う運命になっていたのだと思うのが自然だ。

箱もののCDが退出して1列が空になったCDラックを見ながら、カサンドラの音楽を頭において久しぶりにベースを弾いてみた。音楽は人とのつながりを生み出すものでもあり、同時に極めて個人的なものでもある。

11/18/2007

配信と映像

iPod touchとMac Bookを使い始めてから、僕の音楽視聴のスタイルに少し変化が出てきた。簡単に言うなら「配信」と「映像」がその変化を表すキーワードになっている。

先ずは配信について。

僕はこれまで一生懸命CDを買い揃えてきたが、そろそろこうした購入スタイルを考え直す時期に来ていると感じ始めている。直接のきっかけは、米国のアマゾンで始まった音楽配信サービスのカタログを見たこと。このサービスは日本ではまだ受けることができないものの、その内容はかなり驚異的なものである。例えば、このところ熱心に取り上げているインドのタブラ奏者、ザキール=フセインのほとんどの作品がアルバム単位で揃っている。ジャズの大御所たちが1950年代から70年代にかけて録音した、代表的な名演についても同じ。レーベルごとのコンプリートセットまでしっかりと揃っているのだ。

もちろん大手のなかでも、ECMの様にまだ配信に関しては頑なにノーコメントを貫いているところも多い。僕のお気に入りで言えば、フリー系のレーベルもほとんどはまだ大手の配信サービスに楽曲を提供している訳ではない。障壁のなかで大きなものは著作権とコピーの問題、それと音質の問題だろうと思う。しかし、それももはや時間の問題ではなかろうかと思うようになってきた。

それらの問題にある程度の懸念は残りつつも、それよりも簡単に音楽を聴きたい人に届けることができる手段としてのインターネットの魅力は、あきらかに音楽会社にとっても懸念を上回るものを持っている。それは、LPからCDに移行する際にいろいろと意見が出されたのとよく似ていると思う。LPとCDのどちらが音がいいか、そこに明らかに大きな差異がある訳ではない。いまの音声圧縮の技術は相当なところまで来ている。加えて音楽を楽しむスタイルも多様化の一途をたどっている。ちょっとした音質の違いは、利便性の前にはさほど大きな問題ではなくなる。

音楽を購入するということの意味は、CDを買って手元に置くということから、データをダウンロードして手元に置くという時代を経て、さらに配信サービスにあるデータにアクセスする権利を所有する、という方向に変わりつつある。もちろん手元にCDなどを持っておきたい人はそうすればいい。僕は部屋の壁にずらりとCDを並べることには、さほど興味はない。

そして、もう一つの映像について。

iPod touchに映像を入れて持ち歩くことを覚えてから、どういう訳だか僕は映像を視ることの喜びがいまさらながら増えた様に感じている。以前までは、移動中に手元で映像を見るなんてとんでもないと思っていたのだが、音楽の映像に限って言うなら、そういう状況での説得力は(もちろん演奏や映像の表現内容が優れているという前提だが)相当なものだ。

特に僕の通勤の様に、30分かそこらの電車移動においては、映像表現を通じて音楽に接する方が、むしろ音楽そのものに集中してよりよく鑑賞できるようにさえ感じる。これが映画だと時間的な制約で難しいとは思うが、テレビのバラエティショーの様なものだったら、笑いが欲しいときなどは意外とイケるのではないかと思っている。いまはまだ始めたばかりなので、単にもの珍しさゆえに新鮮に映っているだけなのかもしれないが。

この週末には手元にある音楽関係の映像を、せっせとiPodに入れるのに時間を費やした。同時に、出かけた渋谷で、いままであまり積極的に購入してこなかった、ライヴ演奏の映像作品を少し購入してみようかなと、売り場を物色してみたりもした。結局、何も買わなかったのだが、中古を含めかなり面白そうな作品が世の中には出回っているのだなと思った。

そういえば、僕が上京した頃、まだ渋谷の東急ハンズ近く前の裏通りに店を構えていたジャズ喫茶「スウィング」のことを思い出す。ここの店主は相当に有名なジャズLPのコレクターであったのだが、ある時期からお店でそれらをかけるのをやめてしまい、レーザーディスクやビデオなどの映像ばかりを大きなテレビで上映するスタイルに変えてしまったのだ。理由の真相はわからない。20分前後で終わってしまうレコードを取り替えるのが、単に面倒になったのかもしれない。

変わったジャズ喫茶だと思ったが、僕はCDを買い漁った後に、よくそのお店に何度も足を運んだ。当時はそれくらいの映像設備を揃えるのは、かなりお金のかかることだったので、自分にはとても手の届かない贅沢だと思っていた。僕が上京して数年間はお店はあったが、1997年に突然閉店、店主は今年の春に92歳で亡くなったらしい。あそこで見せてもらったものはいまもはっきりと覚えている。

このように考えてみると、やはり表現芸術というものに対する時代的な要請というものが大きな影響を持つことがわかる。もちろん表現というものは、そういうことを意識してもしなくてもいい。どちらが優れた表現が可能かなどというのは、あまり意味のない話だろう。しかし、常に新しいものに意識を向けるというのは大切なことだ。深みや緻密さに欠けるとか退廃的だとか言うのは簡単だが、僕はそれはしたくはない。便利だと思えば、それは新しい素晴らしさなのである。

11/10/2007

ザキール=フセイン「リズミック インプレッションズ」

 めっきり寒くなった。薄手のコートを着て会社に行く日もあり、週の後半にはそこに薄手のセーターが加わった。真ん中水曜日にはちょっとしたプレゼンがあり、前半は少し慌ただしかったが、後半はちょっとのんびりさせてもらった。

金曜日にはしばらくご無沙汰していた飲み友達と、久々に恵比寿駅前にある居酒屋で一杯やった。そしてこの日、今シーズン最初の熱燗を飲んだ。お店の「お酒」、つまり銘柄を指定するのでなく「酒」と言えば出てくるもの、は大関だった。相手はそれを常温(いわゆる冷や)で飲み、僕は熱燗で飲んだ。好みから言うと少しぬるいお燗だったが、料理もなかなかおいしく、話も弾んで楽しいひと時となった。

熱燗にはお刺身に代表される淡白な和食のおつまみが合うとばかり思われがちだが、僕の趣味から言わせてもらうと意外に揚げ物がよく合う。それも天ぷらや魚の唐揚げなどだけでなく、カツやコロッケも結構いけるのである。昨夜も舞茸の天ぷら(たくさん出てきた)に加えて、宴たけなわになった最後のオーダーは、お店の大将ご推薦のロースカツだった。ジューシーかつサクサクなカツ(ややこしい)が、お燗酒にはよくあった。僕は徳利3本飲んだのだが、お店のメニューには2合と書いてあったものの、僕の感じだとあれは2合よりかなり少ないと思う。まあおいしく楽しいお酒だから細かいことは忘れてしまおう。

少し前のろぐでとりあげたタブラ・ビート・サイエンスに触発されて購入したザキール=フセイン関係のディスクが、かなり遅れてだったが今週相次いで到着した。おかげで僕の「タブラブーム」に火がついたようだ。今回は先ず、ザキール本来の姿であるインド音楽に基づく即興演奏をまとめた作品集から。

構成は至ってシンプルで、インドの伝統的な楽器サロドやコーラスなどがベース的に奏でるパターンの上で、ザキールのタブラが自由奔放に暴れ回るという演奏である。その意味で、インド音楽の基本的なエレメントを知る上でも、またタブラの様々な表情と魅力をじっくりと堪能するうえでも、非常にもってこいの作品といえるだろう。あらためてタブラという楽器の表現力の豊かさには驚かされる。これは飽きない。

ラヴィ=シャンカールの様なシタールの名手との派手な競演からすると、本作は一聴して少し地味な印象も受けるのだが、一度CDをスピーカを通して大きな音量で聴いてからは、もうその凄さに開眼(開耳?)してしまい、ヘッドフォンで聴きまくったのがこの一週間だった。いつものハマりパターンである。

タイミングよく、今日は長らく待ち望んだタブラビートサイエンスの2枚組DVDも到着してしまい、タブラ三昧の音楽生活にまた油を注ぐことになりそうだ。最終的にはタブラ購入に至ってしまうのではないかと恐れ始めている。

ザイールの演奏はYouTubeなどでも簡単に視聴することができるので、興味のある方はご覧いただきたい。以下はその一例である。ただし、現在のインターネット動画では、彼の指先の細やかなテクニックを堪能するには、絵的にやや品質不足なところも否めないのも事実である。

11/03/2007

豚まん

木曜から金曜で関西に出張した。今回の行き先は京都と大阪。いずれも大学関係者との仕事だった。木曜日の夜、京都の街でかなり気温が下がり、宴席の帰路で体が少々冷えてしまい、もとから溜まっていた疲れもあってか、軽く風邪を引いてしまったようだ。今日はほとんど一日寝てばかりだった。幸いいまのところは調子は落ち着いた。

大阪で何かお土産を妻に買おうと思い、「大阪のお土産といえば」と職場の同僚が言っていたのを思い出して、初めて蓬莱の「豚まん」を買った。いわゆる「肉まん」である。ちなみに僕は職場にお土産を買って帰ったことはほとんどない。豚まんは生ものなので、職場などに買って帰るには不向きなものだ。

関西では「551の蓬莱」で知られるこの名品だが、このところこの手の商品に対する世の見方は少々厳しい。赤福餅問題がその象徴かもしれないが、もっと広い意味では食品を「生産する」とはどういうことなのか、ということについて、世の中がよく考えていないのがいけないのだと思う。あれだけの量の食べ物を毎日数多くのお店に出荷するというのが、どうしてできているのかということを考えれば、我々買う側にもある程度の覚悟は必要な面もあると思うのだがどうだろうか。

551の由来については、蓬莱のウェブサイトを見ればすぐわかることだが、昔はテレビやラジオのCMでさかんに「ココ一番!」といっているのが流れていたので、関西人の間では常識かと思っていたのだが、意外に知られていないようだ。最近は情報が多すぎるからなのか、何でもイメージとして受け流されてしまい、深く(たいした深さでなくとも)考える習慣が薄れているようにも思う。

本当に久しぶりに食べた蓬莱の豚まんは、とてもおいしかった。1個百数十円だから、コンビニの肉まんとさして変わらない値段だが、やはりこちらには何かうまいエキスが感じられる。それが歴史や伝統なのか、科学や合理性なのかはわからない。それでもうまいものはうまいのだ。まだあと2個あるから、明日食べることになると思う。ちょうど寒くなりつつあるから豚まんにはいい時期だ。

先月の半ばにアメリカから取り寄せているCDの到着が遅れている。いずれも先に取り上げた、タブラ奏者ザキール=フセインに関する作品だが、早く聴きたくて指先ばかりが動いている。今週は久しぶりにビル=エヴァンスの「パリ コンサート」を聴いた。以前のログでも書いたが、この作品は間違いなくビルの代表作であり決定的名演である。悲しいことに最近また入手が難しくなりつつあるようだ。エヴァンスが好きで未聴の方は是非。

11月はまたいろいろと忙しくなりそうだが、体調に気をつけて乗り切って行きたい。そろそろ熱燗がうまくなる季節なので、いろいろな人と呑みに出かけたいと思ってもいる。