2/28/2010

記念撮影

子供の満1歳の誕生日が近づいてきたので、近所のフォトスタジオで記念写真を撮ってもらいました。

たまたま妻の知人から評判を聞いていたライフスタジオという写真館の横浜店が自宅のすぐ近所にあり、誕生日が近いこの時期にキャンセル待ちを申し込んでいたところ、昨日の土曜日の夕方に連絡があって、急遽日曜日のお昼に撮影と相成りました。

アットホームな雰囲気の中にも、いろいろと工夫を凝らしたスタジオがいくつか用意されていて、スタッフの方々の応対も素晴らしくとてもいい記念撮影になりました。




2/27/2010

降臨から瞑想へ

前回の音楽でコルトレーンのことを書いたが、案の定、最近は彼の演奏を楽しんでいる。中心にあるのは"Major Works of John Coltrane"という2枚組のCD。これは、"Ascension", "OM", "Kuru Se Mama", "Selflessness"という、インパルス時代の中期にリリースされた4枚のアルバムからそのタイトル曲をひとまとめにしたもの。どえらいヘビーなセットだ。

僕はもうインパルス以前のコルトレーンはほとんど聴かない。いまでも時折聴きたくなるのは、ブルーノートの"Blue Train"くらいのもの。プレスティッジの作品は早々に色褪せてしまったし、アトランティック時代の作品は、彼が次々にステップを登る様を見るようで悪くないのだが、やはり続くインパルスに向けた身繕いといったところで、どうしてもそちらの方に手が伸びてしまう。

コルトレーンのインパルス時代は3つに分けられると思う。

前期はエルヴィンやマッコイ等とによるいわゆる「黄金のクァルテット」によるもので、"A Love Supreme"までがそれにあたる。一方の後期はというと、エルヴィンとマッコイが退団してしまって以降亡くなるまでの作品がそうで、"Live at the Villege Vanguard Again"から"Expression"がそれにあたる。そして、この2つのユニットの間にあるのが中期ということになり、作品では"Ascension"から"Meditations"までということになる。

中期の特徴を要約するなら、前期を代表するリズムセクションのエルヴィンとマッコイがいる一方で、ファラオをはじめとする後期の音楽性を代表する新しい若手がいるということ。当然、音楽にはフリーの色彩が強く出てくるのだが、黄金のクァルテットを土台にしているので、全体としては従来の安定感の上に新しい音楽が開花しつつあるという、満開前の梅や桜の様ななんとも微妙な色合いの音楽になっているのが魅力である。

今回、久々にこれら中期の代表作品(果たしてこれを"Major Works"と言ってしまっていいものなのかは意見が分かれるところだと思うが)をまとめて何回か聴き直してみた。

先ず"Ascension"は2つのテイクが収められているが、コルトレーンが当初何を迷って最初のテイクをリリースしたのかわからない。僕の耳にはリリース直後に差し替えられた2番目のテイクの出来が圧倒的にいいのは明らかだ。

ソロの口火を切るトレーン自身の演奏は確かに甲乙つけがたいものがあると思うが、それ以降の音楽の流れ、例えば集団即興とソロの受け渡しや、各人のソロ演奏の出来については、最初のテイクではメンバーがまだこのアイデアを十分に消化できてない感がある。結果、音楽の勢いやパワーにおいて2つのテイクにはかなりの差がある。僕のiPodからは最初のテイクはすでに消去した。

次に"OM"と"Kuru Se Mama"だが、ジュノ=ルイスの詩の朗読を入れてその世界を音楽で体現する試みは、残念ながら僕にはあまりピンと来ない。トレーンやファラオの叫びはそれなりの音楽として聴けるが、音楽のスタイルとしてこういう形でなければならない必然性の様なものがわからない。言葉の意味というか詩の魂が直接的に伝わってくるなら、また異なる感想があり得るのだろうと思うが、器楽音楽の観点からしか受け止められない身には、少々辛い音楽と感じる。

一方、これまであまりまともに聴いてこなかった"Selflessness"は、意外にも素晴らしい作品だということがわかった。コルトレーンらしい美しい旋律をテーマに、ファラオとギャレットを従えた3人のサックスがソロを折り重ね、途中マッコイの見事なソロを経ての3人の集団演奏もこの時期のサウンドとして完成された感がある。これは間違いなく中期を代表する演奏の1つだと思う。

とまあ、ここまで聴いてくると同時期の他の作品もどうしても気になってしまう。いつものコルトレーン病を発症してしまったわけだ。"Live in Seattle"と"Meditations"を改めて聴き直す。

前者はかなり荒削りな印象があるが悪くない。30分を超える大作"Evolution"は素晴らしい名演。途中のトレーンのソプラノソロは他の演奏にはない独自の雰囲気があり、この時の彼の状態を考えると興味深いものだがある(後に現れるギャレットの肉声による叫びは確かに怖い)。その前に置かれたギャリソンとギャレットによる長いベースソロが楽しめるのも僕には嬉しい。

そしてやはり中期の最高傑作は"Meditations"だと思う。ラシッドの参加がエルヴィン脱退のきっかけと言われるなど、いろいろと曰くのあるアルバムだが、音楽の完成度はあの"A Love Supreme"に匹敵するほどずば抜けて高いものだ。大学生の時に初めて聴いて受けた衝撃は、25年たったいまでもいまもそっくりそのまま覚えている。まったく見事な作品だ。

こうして聴いてみるといずれも非常に重みのある見事な作品ばかりで、あらためてトレーンの素晴らしさを実感する。確かに重い音楽だが決して難しいものではないと思う。僕はこれからも折にふれこれらを聴いていくことになるだろうし、このろぐであれ他の何をきっかけにしても、できるだけ多くの人にこれらの作品が聴かれることを切に願う。

2/24/2010

オン ザ ロード

ジャック=ケルアックの小説「オン ザ ロード」を読み終えた。いまは本当に感動と充実の気持ちで一杯だ。まったく素晴らしい作品。

先の「キャッチャー イン ザ ライ」も良かったが、時間と空間の圧倒的なスケール感、そして登場人物たちの感情の豊かさや破天荒振りなど、僕という人間の欲望の根底に激しいビートとして響いてきた。憧れであり疑似体験であり慰めでもあった。

今回読んだのは図書館で借りた河出書房の新訳版。以前に従来訳の文庫版を読んでいたので2回目ということもあるのかもしれないが、新訳はとても読みやすかった。1ページ目から作品の世界に引き込まれる感覚があった。退屈さを感じる部分はまったくなかったといっていい。さすがに老舗出版社が意を決しただけのことはある。素晴らしいことだ。

400ページ以上もあるハードカバーを、毎日通勤バッグに携え、行き帰りの電車の中で読んで、時には家で夜にお酒を飲みながら少し読み進めた。貸し出し期限ぎりぎりの2週間きっかりで無事読み終えることができた。小説はいいものだ。僕はやっぱり翻訳文学が好きなんだろう。

主人公のサル、そしてディーンをはじめとする親友達、ロードの行きずりに出会う人々。こんな時代はもう来ないなどと思ってはいけないなと感じた。それこそ人々が忘れてはいけない希望であり憧憬なのだと思う。

論に囲まれ険しくなる人の生き様を突き進む原動力、それを大切にしなければならない。単純にハチャメチャがいいとかいうことではない。登場人物たちはエネルギッシュな行動と衝動の一方、驚くほど繊細で深い洞察力にも溢れている。

いま僕の身の回りに起こっているいろいろなこと、それらを受け止めるための心構えのひとつとして、こんな考え方や生き方そして時代もあるんだよということが、とても心強いものに感じられた。

いい時にいい本を楽しむことができた。

2/21/2010

お風呂で初潜り

子供をお風呂に入れるのはいまのところもっぱら僕の役割になっている。ベビーバスを使っていた2ヶ月目くらいまでは、妻と2人でわいわいやっていたのだが、バスが小さくなってくると、ちょうど夏場に入るところだったのもあって、風呂場に小さなスポンジマットを敷いて、シャワーで身体を洗ってあげていた。この頃から入浴は僕の担当になった。

離乳食を始めると食事の時間というのを決めて、生活のリズムをもたせるようにしたほうがいいということで、お風呂の時間もだいたい午後9時前くらいに落ち着いてきた。8時半頃に先ず妻が先に入浴し、その後僕が入って途中でこどもを受け取って洗ってあげるわけだ。

仕事で帰りが遅くなるお父さんのなかには、なかなかそういう機会がないとか、なかにはそれは自分の仕事ではないと考える人もいるらしい。僕の場合はこちらを優先して生活しているので、お風呂だけはなんとかいっしょに入りたいという一心で、仕事や飲み会はそこそこに途中で放って帰っている。おかげで妻の負担も少しは軽くなるようだ。

秋になってシャワーでは寒い気候になってくると、湯船にお湯を張って入れてあげるようになった。お風呂が苦手な赤ちゃんも多いと聞くが、幸いなことにうちの子は基本的には好んでいる様だ。頭と顔を洗うときに泣くのはどこでもそうだろうと思う。石けんをつけたままの顔を手で拭って目に入り大泣きするのは毎度のことである。

冬になるとゆっくりあったまってもらわないとカゼをひいてしまうので、湯船におもちゃを浮かべて少しでも長く浸からせる様にした。おもちゃといっても、使わなくなったスヌーピーの絵が描かれたプラスチックのコップだったり、使い終わったお好み焼きソースの容器を洗ったものだったりする。これはなかなか効果がある。おかげでお風呂は楽しいひとときである。

そんな昨日のお風呂の時間、いつかはそういうことにもなるだろうと思っていたことが突然起こった。身体を洗う前に湯船につかってあったまっていたのだが、浴槽内にある小さな段に座らせて遊んでいた子供が、少しずつ前に出てきていることに気づかず、突然座ったままの姿勢で潜水してしまった。頭のてっぺんから5cmくらいの深さまでどっぷりと。

すぐに引っ張り上げたので大事には至らなかったが、てっきり大声を張り上げて泣くのかと思いきや、単にびっくりした様な顔をしてきょろきょろするだけで、「うわあ、びっくりしたね〜」と笑いかけると、彼の方もさも楽しそうに笑い出したのである。一緒になって僕も笑ったのだが焦り隠せるわけもなく、浴槽の中にもかかわらず一瞬ブルッと震えてしまった。

気がつけばもう11ヶ月目に入った。あとひと月で満1歳である。早いものだとは思わない。これが時間というものだ。今日入浴前に体重を測ったら10.6キロあったそうだ。とうとうハイハイはせずに不完全なつかまり立ちをはじめ、椅子やテーブルなど低い家具の周りを危なっかしげにつたい歩きする様になった。

僕らはまだまだいっしょにお風呂に入ることになるだろう。

2/14/2010

ボビーのワイズワン

久々の読書を挟んで、音楽の方はようやくエヴァンス一辺倒から抜け出した。またいろいろなものを聴くようになった。その中から、先日iTunes Storeで購入した作品を1点ご紹介したい。ジャズ ヴァイブラフォン奏者のボビー=ハッチャーソンの新作"Wise One"だ。

タイトルからしてコルトレーンへのトリビュートものとわかるのだが、収録の9曲すべてがコルトレーンのアルバムに収録されているナンバーというのも、かなり気合いの入れようである。僕が知る限り、ボビーとトレーンが直接共演した記録はないと思う。だけど彼の演奏にコルトレーンの影響があるのは明らかだと思う。彼がトレーンに抱いている想いがこの作品というわけだ。

上京してまだ数年のころ、ブルーノートにシダー=ウォルトン(だったと思う)のグループを聴きにいき、その時のゲストがボビーだった。同じ会社にいた大学の後輩の女の子を誘って行ったと記憶しているが、僕の目当てはボビーの演奏を生で聴くことにあった。

「ボビー=ハッチャーソンっていう鉄琴を演奏する人がゲストで出るんだよ」と同行者に説明すると「てっ、テッキンって、あの鉄琴ですかあ?」と不思議そうな顔をした。それはそうだ。多くの人にとって鉄琴は学校の音楽室にある木琴の親戚程度の記憶でしかない。

予想通りというか興行主の思惑にハマったというべきか、シダーの渋い地味なピアノに対して、ボビーのマレットさばきは何とも華麗なものだった。これには彼女も本当に目を丸くしていた。

彼の音楽遍歴は、ブルーノートレコード4000番台の歴史といっても過言ではない。"Happenings"や"Components"などの代表作に加え、様々な作品にサイドマンとして参加している。1980年代にも先にご紹介したトニーの新生ブルーノート第1作"Foreign Intrigue"のなかの"Life of the Party"で目の覚める様なソロを聴かせてくれる。

あまり数は多くないが、僕が一番好きなヴァイブ奏者はボビーで、あとはウルトラテクニシャンのマイク=マイニエリがお気に入りというところだろうか。大御所ミルト=ジャクソンはMJQの演奏しか知らないのだが、クラシックの室内楽みたいなお上品さがどうもあまり印象に残らない。ゲイリー=バートンも上手いとは思うがそれ以上の何かを催すことがない。どうしてこうなったのかはわからないが、これが僕のヴァイブラフォン体験の現状だ。

今回の作品では、ボビーは特に気負うでもなくトレーンゆかりの作品を丁寧に演奏しているという印象だ。もう70歳に近いはずだが、こうして元気な演奏が聴けるのはうれしい限りだ。先に紹介したECMの"Mostly Coltrane"の様なモダンな解釈もなく、ひたすらボビーの色で描いてゆく。そこがとても気持ちいい。

結局、僕はいまだにトレーンが大好きなのだ。

どうやらまたまたコルトレーンの波がやってきそうな予感がする。ちょうど仕事も面白くないところなので、せめて音楽では自分の心底にあるものをしっかり楽しんでみたい。結構なことだ。

Bobby Hutcherson - Wise One Bobby Hutcherson - Wise One iTunes Storeでダウンロード

2/11/2010

ヘイリーさんからコメントをいただきました

今年1月12日に書いたろぐ「ヘイリー=ローレンの歌声」(元々「ハリー=ローレン」と書いていましたが、正しくは「ヘイリー」と発音するのだそうです)に対して、なんとヘイリー本人(正確には日本語ができるスタフを介して)からコメント寄せられた。ちょっとビックリです。ありがとうございます。

Facebook・・・そろそろ始めてみようかなあ。

キャッチャー イン ザ ライ

先週買ったJ.D.サリンジャーの"Catcher in the Rye"(村上春樹訳版)を読み終えた。週末から読み始めて、熱海の旅館や通勤電車の中で少しずつ、決して速くはない僕の読書スタイルで着実に進んでいき、それでも祭日だった今日の午前中でようやく物語は完結した。

僕が海外の小説に興味を持った(半分は格好だが)高校生の頃から訳本は出ていて「ライ麦畑でつかまえて」という何とも不思議なタイトルは、興味をそそるには十分だった。だけどなんとなくそのタイトルから、恋愛小説のような内容を勝手に想像していたまま30年が経過してしまった。結果的にそれを読むことになったのは、サリンジャー氏の訃報に触れたことがきっかけだった。

村上が翻訳を手がけたことで大きく話題にはなったのは知っていたが、タイトルが原題をカタカナに置き換えただけのものになっていたことで、ああそう言うタイトルだったのねと思っていた。今回、本を買って読んでみようかと思って、アマゾンのレビューを眺めて思ったのは、どちらの訳がいいかというような議論が出ていて、なんだそういう論争もあるんだなと思った。

僕は村上の作品が好きだったし、新しい訳の方が感覚に合うんじゃないかな程度の思いで、サリンジャーの世界を楽しむ通訳として彼を選んだ。野崎訳を読んでいないことも幸いしてか、そういうことは何も気にならなかった。肝心なのは作者の世界なのだから。

感想としては、とても面白かった。読み始めてすぐ彼ーホールデン=コールフィールドの世界に引き込まれた。何度目かで高校を退学になった16才の少年が過ごした数日間の「物語り」。おそらくは作者自身の個人的体験をもとに書かれているのだと思うが、こういう若い感覚は60年前と意外に変わっていないんだなと思う。草食系だとか、20年前は携帯電話なんかなかったとか、そういうのは表面的な話だ。

主人公ははっきりいってろくでなしだ。何かについて感じるなら、9割がたはこっぴどくけなしてしまわないと気がすまない一方で、表向きは時にとても他人に気を遣う。僕自身はホールデンをろくでなしと思ったが、もちろん魅力的な側面もたくさん持ち合わせている。物語りを通じたほんの短い期間でも彼はちゃんと少しずつ成長している。

小説は個人的なものだからその主人公は常に正当でヒーローである、と考えるのは間違いだろう。ジョン=レノンを射殺した犯人がこの本を所持していたことが話題になったが、なかにはそういう読み方をする人がいるのは不思議ではない(彼が自身をホールデンと重ねていたかどうかは知らないが)。それはパンクロックの歌詞を鵜呑みにして本当にクスリをやるか、それともクスリの代わりにパンクロックを楽しむかの違いの様なものだろう。

ろくでなしと書いたが、僕自身はホールデンに共通する部分は多いと思う。それがまともなのかどうかはわからない。でもだからこそ、僕はこの小説にすっと引き込まれたのだと思う。

それにしても思ったのは、やはりタイトルは原題カタカナの方がいい。それじゃ何のことかわからないよという意見もあるかもしれないが、「ライ麦畑で・・・」は明らかに意訳だし原題の意味を狭めてしまっている様に感じる。

村上自身もタイトルのことでは少々悩んだのではないかと思うが(それが翻訳を手がけるきっかけだったのかもしれない)、ライ麦とは何かということを深く考えなければ(実際にその必要はない)、さほど難しい英語ではないしこうするのがより現代的だと思う。これからは「至上の愛」ではなくて「ア ラヴ サプリーム」、(名訳だとは思うが)「狂気」ではなく「ザ ダーク サイド オヴ ザ ムーン」でいこう。

久々の読書だった。これを機に少し小説を読んでみようかな。

2/08/2010

ワインブームの一方で開かれた3つの飲み会

先週末に参加した合宿研修の懇親会で、他の参加者たちがワインを美味しそうに飲んでいた。僕はその日遅くに帰る予定でいたので、あまり深酒は慎もうと遠慮したのだが、帰りにホヤの薫製を買ったりしながらも、ずっとワインそれも赤ワインが気になって仕方がなかった。

これまで僕はそれほどワイン好きではなかった。自分ひとりで飲むためにワインを買ったことは一度もないはずだ。もっぱら来客用にとか妻と食事しながら飲むつもりで買うのがほとんどだった。ワインの味や風味が気に入らないのではなく、ワインについてくる理屈が嫌いなのだろう。

結局、日曜日の夕方にどうしてもその晩ワインが飲みたくて、駅の近所まで買いにいってみたのだが、当てにしていたクリスマスにお世話になったイタリア総菜店が閉まっていたので、しかたなくコンビニで980円のオーストラリア産のシラーズというブドウの赤ワインを買った。これが結構イケたのだ。

いまはさすがに1晩でボトル半分がいいところだ。なので1本あれば2晩楽しむことができる。音楽は相変わらずエヴァンスを聴くことが多かった。まあ何度も書いたらくどいので今回はやめておく。

それが無くなったら今度は同じコンビニに売っていたもっと安いプライベートブランドのカヴェルネソービニオンを飲んでみた。600円だったので前のものに比べるとそれ相応の味だったが、決して悪くはなかった。どうやら僕にとっては、自分で飲むワインに1000円以上は払わないということをモットーにしてもよさそうな気がしてきた。結局、この土曜日にもまたスーパーで950円のアフリカワインを買った。

さて独りでワインを楽しむ一方で、今週は3回の飲み会があった。これらはいずれもワインとは縁がない飲み会だった。先ず最初はイタリアに住む大学時代からの友人との飲み会。田町のホルモン屋(彼が仕事の拠点にしているミラノとブリュッセルでは食べられそうにないものを食べさせてあげたかった)でビールとホッピーを飲み、そのあと馴染みのバプでイギリスのビールを2種類やった。

家族の近況に始まり、仕事の話からこれから時代はどうなるのかねえとなって、しまいにはいつもの様に音楽の話で盛り上がった。彼との待ち合わせ前に、書店で拾い読みしたあるビジネス書がなかなか面白かったので、彼にはそれを薦めておいた。僕も買って読もうかと思っているのだが、結局2日後に次の飲み会の前に立ち寄った渋谷の書店で買ったのは、もうひとつ気になっていた本である、村上春樹訳の「キャッチャー イン ザ ライ」だった。

ワインといい本といい、いままであまり嗜まなかったものに手を出す僕。何かが変わろうとしているのだろうか。それでもやはりビジネス書の書棚は何度その前にたっても気分が悪くなってくる。背表紙や帯に書かれているくだらない宣伝文句が、まるで歓楽街で大勢の客引きのなかでもみくちゃにされているかの様な気がする。

僕が気に留めている本は少しはマシな内容そうなのだが、やっぱり書棚の雰囲気が購入を思いとどまらせてしまった。その点、小説の方も状況は多少共通するものであるが、こちらは悪質な客引きというよりは、決まり文句を繰り返すだけであまり狙いを定めずにきょろきょろしている呼び込みという感じであって、比較的無視したり振り払うのは容易い。

実は同じ書店(パルコの地下にある)でこの日は子供のために絵本を1冊買ってあげた。「たいようオルガン」という子供向けとするだけにはもったいないくらい絵が奇麗なものだったので、つい買ってしまったのだ。これもワインの所為だろうか、たぶん関係ないだろう。

本のことはまた後日。

この夜は翻訳会社の幼馴染みの推薦で、道玄坂にある和歌山県出身の人がやっている魚料理のお店で一杯やることになった。カウンターだけの狭いお店で、自慢だけあってお魚はなかなか美味しいものを揃えてある。ただ渋谷らしくお店がせまいので、となりに座ったカップルの女性客が、僕らが話す関西弁にいちいち興味を持ってくるのが、いやでも気になってしまった。

彼とも家族の話から始まり仕事の話になって、途中もう1人の幼馴染みでいま和歌山に住んでいる男に電話をかけて「いまからおいでよ」といわんばかりの少々イヤミに雰囲気だけを聞かせたりしながら、やがて音楽の話になった。そこで僕の提案でお店をかえて、以前から一度行ってみたいと思っていた百軒棚のロックパブ「BYG」に移動した。彼には以前六本木のバウハウスを紹介してもらっているので、今回はそのお返しである。

木造の古い建物のなかが壁が釘かなにかで引っ掻いて描いた落書きだらけだった。僕らが入った時は半分も埋まっていなかった座席は、9時を過ぎたあたりから一気に満席になった。ちゃんとお客に聴かせる目的で流されるロックに身をゆだねて楽しむお酒はもちろん悪くなかった。ジミヘンがかかったあたりでお互い一気に酔いが回った。

最後まで空いていたとなりのテーブルに、金融機関の管理職みたいなスーツを着た男と、ずいぶん年の若くて短いスカート姿の女性のカップルがやってきて、並んでいちゃつきながら飲み始めた思ったら、ジミヘンの長いソロが終わらないうちに1杯だけで楽しそうに店を出て行った。同伴なのかホテルにでも行ったのか、まあおそらく前者だろう。

さて、3つめの飲み会は日曜日の夜、熱海の温泉宿の部屋だった。前の流れからしてこう書くとずいぶん怪しげだが、相手は妻である。実は月曜日に仕事はお休みをもらって、家族3人で日曜から1泊で熱海の温泉旅館に行ったのである。帰省を別にすれば家族3人初めてのお泊まり旅行である。

旅の詳細はまたあたらめて書いてみたいが、心配された子供の方はずいぶんいい子でいてくれて、さほど手もかからぬうちに先に妻の布団ですやすやと眠りについてくれた。あらかじめ駅前のコンビニで買ってあった酒を、隣の小部屋に移って2人でのんびりと飲んだ。妻は梅酒ソーダで僕はワンカップの日本酒だった。

子供の寝顔を眺めながら2人でささやきで会話をしつつ、ちびちびと飲むお酒。妻と酒を飲むのは本当に久しぶりだった。別になんという会話があるわけではないのだが、そこはやはり夫婦の様な人間関係でしかあり得ない様な、特別な飲み会なのである。なによりも妻の「あ〜ちょうど梅酒ソーダをゆっくり飲みたかったんだよなあ」という満足そうな表情が、この時間の貴重さを象徴していた。おかげで僕もこんなに引き延ばして飲んだことはないというほど、ゆっくりとワンカップをやった。

旅行は大満足のうちに終わり、またいつもの生活に戻って僕は1日遅れで月曜日の夜にろぐを書いている。これから土曜日に買ったアフリカワインの残りをやろうと思う。音楽はマイルスの「キリマンジャロの娘」。お疲れさまでした。