3/24/2007

ジョン=ケージ「プレリュード フォー メディテイション」

 ジョン=ケージの音楽を求めてCDラックの前に立つ。

僕には聴きたいと思う音楽がいつもたくさんある。アマゾンのトップページを開くたび、いままでの履歴から毎回いろいろなCDを推薦してくる。それは高柳昌行だったり、YUIだったり、のだめオーケストラだったりする。そのどれもに少なからず興味を抱き、時に購入することもある。

なぜその音楽を聴きたいのか、ということをあまり明確に意識したことはないし、そんなことを考えても意味がないと思うことがほとんどだ。だけど、いまジョン=ケージの音楽を僕が求めるの理由というか原因のようなものについては、なんとなくわかるような気がする。

僕はケージの代表的な作品については、一通りCDを持っている。スイスの現代音楽レーベル"HatHut Records"がリリースした一連のケージ作品のシリーズは、僕の大切な宝物だ。これを揃えるまでに随分といろいろなお店を回ったものである。以前取り上げた「7つの俳句」が収録されているのも、このシリーズのもの。同じタイポグラフィで統一されたジャケットデザインは、シンプルだがコレクターの心をくすぐる。

全部で十数枚あるシリーズのなかで、僕が最もお気に入りなのが今回の作品である。ケージの4つの作品を、前衛ピアニストのヒルデガルド=クリーブが演奏している。作品の中核をなす2曲は彼女の長年の盟友でトロンボーンのローランド=ダヒンデンとのデュオである。

冒頭の"Prelude for Meditation"は1944年のプリペアドピアノ作品。わずか1分少しの超短編だが、このアルバムの導入曲として見事な役割を果たしている。「響き」を美しく表現することが求められる作品であり、クリーブの演奏とhathutの録音エンジニアの腕前は息が詰まるほどに見事だ。

続いて本作品のメイン2曲。先ずはケージの代表作の一つである"Ryoanji(龍安寺)"。ここではトロンボーンとパーカッションのデュオとして演奏され、パーカッション部分はクリーブがピアノを金属片で叩く音が用いられている。2つの異なる材質からなるもので演奏されることは、作曲者の指示に基づいている。17分間にわたって繰り広げられる石庭の音宇宙が見事である。

そして40分間にわたる"Two(5)"。ここでは音と音の間隔はさらに広げられ、時に無音部分が数十秒続くこともあり、音楽的瞑想はさらに深い段階に入ってゆく。やさしいタッチでありながらとがったガラスのような輝きをもつピアノの音色と、丸く連続的な音程変化をもつトロンボーンによる音の邂逅に、僕はいつも時間を忘れて恍惚となる。

アルバムの最後は1948年のピアノ曲"Dream"。これは個人的には20世紀で最も美しいピアノ音楽の一つとして挙げておきたい作品であり、とりわけこのアルバムでのクリーブの演奏が素晴らしい。夢の極地にまで至った瞑想は再び還るでもなく永遠に続くでもなく、CD演奏が終わったことに気づかないこともあるほどに、止まった時間として存在することもある。

残念ながらこのCDは現在廃盤になっており、かなり入手は難しい状況だと思う。しかしhathutは過去の優れた録音を定期的に再発しているようなので、この作品も近い将来必ず再び世に出回ることになるだろうと信じている。

僕がこのところケージの音楽を求める理由、それはやはり父のことだと思う。確実に近づきつつあるブラックホールのような深い闇。そのことを想うと、僕は無意識のうちに、ケージが生み出した必然や偶然を超え音の有無を超えた音楽にすがりたい気持ちになるのだろう。

HatHut Records
Hildegard Kleeb
Roland Dahinden

3/19/2007

和歌山 大阪 京都 奈良

出張で関西に行けることになり、ちょうどいい機会なので実家に立ち寄って親父の様子を見て来ようと考えた。本当は業務ついでにそんなことをしてはいけないのだが、せっかくだからと上司も快く認めてくれた。ところが、明後日から出発という段になって、叔母から親父が急遽入院したと連絡が入り、準備もそこそこに僕はその日に荷物をまとめて実家のある和歌山に向かった。

幸い親父の具合は大丈夫だったものの、2晩泊まった和歌山ではいろいろなことがあった。ここには詳しくは書かないが、主治医の先生との話があり、叔母とのいろいろな話もあり、兄貴と親父と3人での外食があり、僕と親父のちょっとした諍いもあった。東京ではかなり遅い初雪が舞ったそうだが、西日本もとても寒い一週間だった。

結局、僕は予定通り出張に出ることにした。訪問先は奈良県にある研究施設と京都にある大学だった。久しぶりに阪急電車京都線の特急に乗って京都まで移動した。僕がその沿線に暮らしていた二十数年前は、特急といえば十三を出たら京都まで止まらないというものだったが、いまでは当時の急行電車とほとんど同じ駅に停車するようになっていた。それでもセンスのよい阪急電車の車両は相変わらずで、それが僕の心を和ませてくれた。

仕事ではなかなか有意義な人々との出会いがあり、充実した出張になった。そして、いまは休職して京都の大学に籍をおいて活動しているかつての後輩の案内で、百万遍周辺のお店をいくつか楽しませてもらった。移動で乗ったタクシーの運転手は、桜の開花予想がはずれて商売のアテも外れましたわとボヤいたが、まああと1週間もすれば桜の便りは届きそうな雰囲気ではあった。

入院中の親父には悪いと思ったが、京都の食べ物はどれもおいしかった。やはり知らない土地での飲食は地元の人の案内に限る。川崎に残して来た妻には悪いと思ったので、今回は知人のアドバイスも取り入れて、帰りにいろいろな京都の味をお土産にして帰った。京都から和歌山に帰ることも少し考えたのだが、さすがにもうクタクタだった。考えれば、新幹線を始めいろいろな乗り物に乗りまくった4日間だった。疲れるはずである。

移動中、いつもの様にiPodで音楽を聴いた。前回取りあげたキースの作品、それから僕の不安で落ち着かない心を映す様に聴いたのがスティーヴ=ライヒの"Violin Phase"だった。出張中に何度聴いたかわからないほどだった。おかげで極めてメカニカルでかつ繊細なこの曲を、さらに深く理解することができた。

他に、無性にジョン=ケージの音楽が聴きたくなったのだが、残念ながら持ち合わせがなかったのでそれは家に帰ってからじっくりと聴いた。これについてはまたいずれ書こうと思う。

そんなわけで、少し疲れがたまってしまったのでろぐの更新が遅れてしまった。久しぶりに仕事に出た今日も、少し気になって合間に病院の父に電話を入れてみた。寂しそうではあったが、元気そうな声に僕は安心して仕事に戻った。

3/10/2007

キース=ジャレット「ブリッジ オヴ ライト」

 自宅で愛用してきたiBookを不注意でテーブルの上に落としてしまい、電源の接触に問題が発生してしまった。結婚後しばらくして買ったものだからもう7年近く使い続けている、いわゆる貝型の初期iBookである。無理やり新しいOSを動かしているのでアプリケーションの動作は鈍いのだが、キーのタッチもやわらかく、ろぐを書いたりするのには気に入っていた。修理しようかどうしようかまた悩みが増えてしまった。

今回は会社から借りているWindowsマシンを使って書いている。出張なんかにはとても便利な道具なのだが、キーボードが狭く文章を書いたりするのにはなかなか慣れないものである。僕個人の考えとしては、情報の作業を行う画面と居住空間にはある一定の(といってもそんな大げさなものではない)広さや大きさが重要だ。日本人の得意な発想である何でも小さくコンパクトにしてしまうことにも、メリットとデメリットがある。見過ごされがちなことかもしれないが、これは文化や社会につながっていく大切な問題だと思う。

前回のろぐについて実のところを白状すると、ほとんど書き上げた段階で以前あの作品を取り上げていたことを思い出した。僕の中では取り上げたのはコルトレーンの「アセンション」の方で、あの作品は参考作品として扱ったつもりだったのだが、実際には逆だったのだ。まあ過去にも2回取り上げた作品もあるし、実際にその週に聴いて一番印象に残った作品なのだからよしとすることにした。今週も仕事帰りに一度聴いたが、聴きたいと求めて聴く作品は、大抵の場合見事に僕の心を癒してくれる。

今回は、前回少し触れたキースの作品を取り上げる。1994年に発売されたこの作品はECMのクラシック音楽作品のレーベルである"ECM NEW SERIES"からリリースされたものである。キースは同レーベルから数枚の作品を発表しており、その多くはバッハやモーツアルトなどを演奏した作品であるのだが、この作品はキースの作曲作品集になっている。その意味では、少し前にとりあげた"In the Light"に通ずる内容である。僕がこれを聴いてみようと思ったのも、あの作品との出会いがきっかけになった。

ここに収められた音楽の素晴らしさは、僕自身にとっては最近の大きな喜びのひとつと言っていい。奥が深く、優しく、そして重要なのは多くの人に開かれた音楽であるという点で、この作品は本当に素晴らしいものである。収録作品は4曲。ヴァイオリン、ヴィオラ、オーボエのそれぞれとオーケストラのための作品、そしてヴァイオリンとピアノのためのソナタがありこの作品ではキース自身がピアノを演奏している。

 作品は彼がクラシック音楽にのめり込んだ1980年代半ばから1990年に書かれたもの。キースの音楽キャリアの中でも明確に一つの頂点といえる時期のものである。こうした彼の音楽的発展とその思想については、DVDのドキュメンタリー作品"The Art of Improvisations"(写真右)に詳しいので、興味のある方は一見されることをお勧めする。

日頃ほとんど音楽など聴かない人が、この作品を突然家に持ち帰って聴いたとしても、本人や一緒に暮らす人に大きな感銘を与えることだろう。逆に毎日いろいろな音楽に入り浸っている人にとっても、結果としては同じことになるのではないだろうか。

あくまでも僕個人の意見だが、この作品をして「馴染みにくい」はもちろんのこと、「単調だ」とか「面白みに欠ける」と評することもまたあり得ないことだろうと思う。まったくキースのことを知らない人にとって、この作品が彼への入り口になることがあったとしても、何ら驚くにはあたらないだろう。

僕自身にとっては、いろいろなまわり道をした結果たどり着いた大切な音楽作品であると思っている。たぶんこれからいろいろな機会にこの作品に耳を傾け続けることだろう。その度にここにある音楽は僕に音楽の喜びをもたらし、新しい側面を見せ続けてくることだろう。

案の定、現在は店頭で入手することはかなり困難なようだが、アマゾンなどの海外通販を通じればまだまだ容易に買うことができると思う。日頃音楽への接し方の如何を問わず、このろぐを読んでいただいているすべての方に、自信を持ってお勧めしたい音楽作品である。

3/04/2007

ローヴァ サキソフォン クァルテット「ジョン コルトレーンズ アセンション」

 久しぶりに土日をのんびりと過ごせたように思う。春を通り越したような陽気になった今日の日曜日は、妻と多摩川沿いに二子玉川まで自宅から歩いてみた。これまでも何度か歩いたことがあるのだが、あの界隈に行くには川沿いを歩くのが一番近い。お昼に家を出て、目的地に到着したのは午後2時少し前だった。途中、河原のいろいろなところでいろいろなスポーツに興じる人たちを見かけた。

長袖のTシャツ1枚でも十分に暑かった。それでも途中でどうしても水が欲しくなるという程でもなく、着いたら河原でハンバーガーでも食べようと決めて、いろいろな話をしながら淡々と歩いたように思う。僕は妻に最近気になっている高柳昌行の音楽作品について話して聞かせ、最近の人間が持っているこだわりとはどういうものだろうかについて意見を求めたりした。

マクドナルドの食べ物を口にするのは久しぶりだった。僕はそれほど強い嫌悪感を抱いているわけではなく、たまに妙に食べなくなるのも事実である。だんだんその間隔が空いていっているように思うのもまた事実だ。僕はかなり腹ぺこだったので、最近話題になっている「メガマック」というやつに挑戦することにした。ビッグマックのダブルヴァージョンという商品で、3枚のパンズに4枚のハンバーグを挟んだ食べ物である。

腹は減っていたので完食はしたものの、やはり僕はその食べ物に対して歳をとり過ぎていた。一度食べられたのでもう満足という感じである。おかげでそれまで歩いて消費したエネルギーがすっかり還ってきた。帰りはそこからさらに溝の口まで歩いて、少し買い物などをして電車で家に戻った。足が心地よい筋肉痛になった。

話は前後するが、昨日の土曜日は独りで渋谷に行った。渋谷のディスクユニオンが中古CDの買取り強化をやっているというので、僕はここ1、2年に買ったCDを中心に失敗した買い物を少し見繕ってみた。結局、押入にしまってある段ボール箱にまで手が延び、いろいろと考えた末に14枚を今回は処分することに決めた。

見積もってもらったらキャンペーンの上乗せ分も込みで8千円と少しになるというので、僕はそれらを処分することに同意してお金を受け取った。代わりに欲しい音楽がいろいろあったのだが、年があけてからかなり積極的に購入をしているので、今回はぐっと我慢することにした。それでもいずれ買うことになるだろうというものが3セットはあった。

少しお小遣いが入ったので最近お気に入りのラーメン屋さん「壱源」で、少し贅沢をしようとみそチャーシュー麺を食べてみた。しかしこれも僕のような歳の人間にはいささか過剰な肉だった。やはり普通のみそラーメンが如何にバランスを考慮しているかを改めて実感しながら店を後にした。というわけで少々肉をとり過ぎた週末であった。

家で処分するCDを見繕いながら、僕はこのろぐのことを考えた。今回は何を取り上げようかと考えるうちに、このところ僕の耳がキース=ジャレットとコルトレーンを中心にした音楽が回っていることに気がついた。キースについては、もはやスタンダード中心のピアノトリオよりも彼自身によるオリジナル作品、特にピアノソロとピアノ以外の楽器による作品群そして作曲作品といったところに興味が集中している。最近また非常に素晴らしい作品に巡り合えたので、近いうちにそれを取り上げてみたいと思っている。

コルトレーンについては、やはりマイケルとアリスの一件以来そのことが僕の耳を彼の音楽に向かわせているように思う。それについても、僕の関心事はほとんど全て彼の後期作品に向けられている。歳とともにそうした作品は聴くのが辛くなると誰かが雑誌か何かに書いていたのを時折思い出すのだが、今のところ僕にはそういう徴候はない。それどころかむしろそういう音楽を求める気持ちが強くなっていく様にさえ感じられる。

今回もそうした関係のなかから作品を取り上げることにした。実はこの作品は以前にも一度紹介したものである。ローヴァ サキソフォン クァルテットがコルトレーンのアセンション録音から30年経過した1995年に、それを記念して開催したイベントで自分達の4人に、2人のトランペットと2人のベーシスト、ピアノ、ドラムを加えてオリジナル作品と同じ編成でその再現に臨んだ記録だ。

前にも書いたと思うが、この演奏はかなり強力で原作を凌ぐ圧倒さを持っている。原作から経過した時間のなかで、その精神は着実に進化しいまの時代に脈々と受け継がれている証を呈している。最近、コルトレーンの原作を聴いてみてどうしてもまたこの演奏が聴いてみたくなり、iPodに入れたところヘヴィーローテーションと化してしまった。仕事に疲れた時でも、帰りの電車でこういうものが聴きたくなるのは、やはり僕はここから何かをもらっているのだろう。何かが吸い取られているのではなく、何かを浪費しているわけでもない。肉を食べ過ぎた身体にはいい刺激になっているのかもしれない。

疲れたら静かな音楽を聴いてリラックス、僕にとっての音楽はそういうものでないことだけは確かなことだ。それはまだしばらくは続くことだろう。僕は歩き続ける。

Rova ローヴァ公式サイト