3/25/2004

エルヴィス=コステロ&ザ ブロドスキー カルテット「ジュリエット レターズ」

Elvis Costello & The Brodsky Quartet:  春、新しい門出の時期である。僕にも会社で人事発令があり、4月からは新しい職場で仕事を始めることになった。自分にしてみれば、何かリセットボタンのような気分である。あまり不安や心配はない。会社で僕の隣に座っている女性は、組織の変更などがある度にどことなく嫌な思いがするのだと言う。本人いわく「私は『愛着型』なんです」。家庭、職場、学級、ゼミ、サークル、ご近所さん・・・愛着のわく集まりというのは、本当に理想だ。確かに最近、変化変化と変わることばかり言い過ぎるご時勢だ。「愛着型なんです」という言葉に、少し切ない重みを感じてしまった。

 先日の読売新聞で見かけた記事は春にしては寂しい内容だった。学生の自殺が増えているのだそうだ。就職難が原因か?という見出しになっている。少し前から、中高年の自殺は増えていた。リストラとか倒産とかそういうものが原因?と言われている。養鶏会社の会長夫妻の悼ましい事件も記憶に新しい。僕は、就職難やリストラは確かに引き金になっているのかもしれないが、「そんなことならいっそ死んだ方がましだ」という「そんなことなら」が一体どういうことだったのかを考えてみる時、そこにあと少しの客観性があれば、何か違う方向があったのではと思わずにいられない。多重人格では困るのだろうが、自分のなかにいる人間は1人というのも、なんとなく寂しいのではないだろうか。

 自宅近所のゴミ捨て場に、こども会の廃品回収だろうか、児童向けの本が数冊、ひもで括られて出されてあった。その一番うえにあったシェークスピアの「ロミオとジュリエット」の表紙絵に、ゴミだらけになっても互いの名を呼び合う二人の悲壮な姿が目に入って、僕には妙に印象に残った。この作品は舞台ではもう何度も上演されているし、映画化もされている。おまけに作品をモチーフにしたパロディやらテレビCMやら風刺画なども含めると、悲劇の恋の物語としてその話を知らないものは日本においてさえ少ないのではないかと思われる。

 ちなみに、大阪なんばあたりの路地裏で、風俗店の看板を持って立っているおじさんに訊いてみる。「えー?ロミオとジュリエット?うーん、よー知らんけど、っんーまー知っとるよー。あれやろ、ロミオとジュリエットちゅう男と女がおって、その二人がまあその、なに、愛し合うんやろ。せやけど二人の結婚はまわりから反対されてしもて、アカンようになるんやろ。ほんで、なんやわからんけど、ロミオがジュリエットのうちの窓のとこへ行って『ロミオぉ〜』とか『ジュリエーッと』とかいうてるうちに、ようわからんけど二人とも死んでしまうんやろ」これは、ほぼ正解であろう。(このインタビューはもちろんフィクションである)僕自身は原作を読んだことはおろか、映画すらも見たことはないが。

 シェークスピアの「ロミオとジュリエット」の舞台となった北イタリアのヴェローナという街に、ジュリエット・ハウスなる建物が存在するらしい。ヴェローナはもちろん、あの物語を町興しに利用してきたわけで、毎年その悲劇に想いを重ねる数多くの人がヴェローナを訪れるのだそうだ。それどころか、世界中から「ヴェローナ市 ジュリエット様」と宛名書きされた手紙が、数えきれないほど届くのだそうだ。中身の多くは、シリアスで悲痛な独白とのこと。しかしなんと驚いたことに、その手紙にせっせと返事を書いている人たちがいるらしい。北欧のサンタクロースさんにも同じような話があるらしいが、大変な人生相談である。その人たちの活動を報じる小さな新聞記事に目をとめた、あるミュージシャンの奥さんが、その切り抜きを夫に見せたことから、今回ご紹介するこの作品が生まれたのだそうだ。

 その人はエルビス=コステロ。もう十分に長いキャリアを持つロック界の大御所アーチストだ。知らんなーという方には、最近メジャーになった作品として、映画「ノッティングヒルの恋人」の主題歌「シー」(カタカナで書くとなぜか間が抜ける)を歌った人といえば、ご記憶の方も多いことだろう。男性ヴォーカルで切なバラードを歌わせると、とても印象的な声だ。あの映画は、ロマンスものが苦手な僕でもなかなか楽しめた。日常に少しだけ振りかけられる非現実性のスパイスが、とても絶妙な作品だった。「んなアホな」とは決して感じさせない素敵なラブストーリーだった。

 僕はこの「ジュリエット・レターズ」を買うまで、コステロのレコードは1枚も持っていなかった。彼がロックの大物だということは知っていたが、もうそれほどロックに興味はなかった。しかし、CD屋でたまたまもらったフリーペーパーで紹介されていたこの作品の記事を読んで、その編成に少なからず興味をいただいたのだ。コステロはヴォーカルに専念し、バックには、クラシックの世界で話題になりつつあった新鋭の弦楽四重奏団、ブロドスキー・カルテットが全曲で伴奏を勤めているという。それ以外にはピアノもギターもドラムもなし。なにそれ?もういくら想像してもわからなかった。とにかく聴くしかなかったのだ。

 作品の着想は先に書いた通り、人々の様々な思いが綴られた手紙を題材にした20曲で構成されている。英語の歌を聴いても歌詞がわからないという方は(もちろん僕もその一人です)、是非とも訳詞のある国内盤を手にしていただきたい。ロミオとジュリエットになぞらえた、切ない愛の歌ばかりかと思いきや、世の中には実に様々な人々の感情が渦巻いているんだなあと思い知らされる。時代が電子メールになってもショートメールになっても、これは変わらないだろう。これがこの作品の大きな魅力である。

 そしてもう一つの魅力は音楽である。これはもう「さすがイギリス!」と言っておきたい。形式は完全にクラシック、それもオペラか古いミュージカルの様であるが、その魂にはロックもフォークもブルースもジャズも顔を覗かせる。こんな音楽の着想はアメリカや日本では絶対に出てこないだろう。大げさではなく、数百年の芸術の伝統があるところにしか生まれない作品だ。

 最初の数曲はちょっとクラシックっぽくて重さを感じるかもしれないが、じっくりと耳を傾けてみてほしい。僕は6曲目の「アイ・オールモスト・ハド・ア・ウィークネス」で世界が開けた。財産にしがみつくおばあさんのシニカルな手紙に綴られた歌詞も最高である。それ以降はもうすべての曲が、こんな音楽があったのか、という目から(耳から)鱗の連続となった。僕はまる2週間、このCDを携帯用のプレイヤーに入れっぱなしにして、通勤の行き帰りと休日のスポーツクラブの行き帰りやファーストフードの店内で聴き続けた。季節は春だった。美しかった。

 コステロはこの作品の発表後、なんとこの編成でツアーを敢行。日本でも東京で2日間だけのコンサートを行った。僕はいまでもそれを観ることができなかったことを悔やんでいる。その後発売されたプロモーションビデオ作品はいまも大切に持っている。このプロジェクトはおそらくもう二度と繰り返されることはないだろうが、僕にとっての音楽の歴史にそれは確実に刻まれることになった。1枚の新聞記事からこれだけの音楽的驚きが誕生したことは、本当に素晴らしいことだと思う。広さと深さそして楽しさと重み、すべてが凝縮されている。もやもやもやもやという春霞を、何かリセットしてみたいという方は是非!(もちろんそうでない方も)

Elvis Costello
The Brodsky Quartet
ヴェローナ市公式サイト(イタリア語)

3/19/2004

ソニー=ロリンズ「ザ ソロ アルバム」

渋谷の道玄坂にあるジャズ喫茶Jazz@Grooveさんが、今月をもって閉店することになったらしい。これで渋谷からはジャズ喫茶と名乗るお店はなくなるのだそうだ。僕もこのお店には何度か足を運んだ。狭い店内に大きなスピーカー。対面式でない座席、つまり学校の教室のようにスピーカーに向かって席が並んでいる。そして大きな音量。もちろん人とお話などはできない。はじめて行ったとき、一番前の席しか空いてなくて、まあいいかとスピーカーとはパソコンのモニターに向かうぐらいの距離で、ジャズを浴びた。はっきり言って気分はよかった。1時間ぐらいして、マスターがとんとんと僕の肩を叩き、後ろのテーブルが空いたことを教えてくれた。場所は道玄坂のホテル&風俗街のはずれにあり、経営はとても苦しかっただろうと思う。

僕もいずれは音楽を聴かせるお店をやってみたいなどと夢のようなことを考えている。でも少し仕事で経理とかをかじったら、それは非常に難しいということがよくわかる。喫茶店というだけでも経営は難しいのに、そこへわざわざ対象客をジャズ好きに思いっきり絞り込み、お客は一杯のコーヒだけで何時間も入り浸り、私語厳禁などと店内に貼り出してしまうわけだから、これはもう今日のシビアな感覚から言えば、儲け度外視の自己満足でやらなければとても無理である。

ジャズ喫茶が消えるというのはもちろん淋しいことだが、なにかそこにジャズ(というか「あの頃のジャズ」とでも言いたげなセマーい文化)そのものが招いた、必然のようなものがあるようにも思う。その喫茶のすぐ近くにある名曲喫茶「ライオン」は創業80年の老舗だが、未だに健在である。クラシック音楽にそれほど興味がない人にも、ぜひ行っていただきたい。しかしJazz@Grooveさんについては、大変申し訳ないが、相当ジャズが好きという人以外にはあまりお勧めする気にはなれない。それだけストライクゾーンが狭いのだ。

一般の人にとって、ジャズと言えば浮かぶイメージはやはりサックスではないだろうか。とりわけテナーサックスは、ジャズのシンボル的楽器と言えるだろう。僕自身もジャズにのめり込み始めた当初は、サックスの作品ばかり立て続けに買った時期があった。その頃は、まだテナーとアルトの区別もろくにつけられなかったものだ。

では、一番ジャズらしいテナーサックス奏者は誰か、という馬鹿げた問いをあえて設定してみれば、いろいろご議論は絶えないことと思うのだが、これまた多くのジャズファンからすれば、それはソニー=ロリンズということになるのではないかと思う。ちなみに僕にとってのテナーのヒーローはジョン=コルトレーンである。しかし、コルトレーンを心良く思わない人もいることをよく知っている。さっきの話ではないが、1960年代後半以降、ジャズを難しい顔をして聴くような、ある意味、排他的なイメージを持たせた戦犯として、真っ先に槍玉にあげられるのは大抵コルトレーンだ。

その点、ロリンズを悪く言う人はあまりいない。あまり聴かないという人はいても、はっきり嫌いだという人にはお目にかかったことがない。ジャズをある程度集めた人なら、彼の1950年代の名作の数々を、誰しも数枚は持っているに違いない。僕自身も、もちろんたくさん持っている。でも、僕がよく聴く、というか時折どうしても聴きたくなるのが、他でもない、1986年録音の「ザ・ソロ・アルバム」なのである。

あーもっとロリンズのソロを聴きたい、という方にはこのうえない作品だと思うのだが、どうもあまり人気のある作品ではないようだ。タイトルからもおわかりのとおり、演奏者はロリンズただ独り。つまり完全なソロコンサートだ。場所はニューヨーク近代美術館の中庭。ここでほぼ1時間にわたってロリンズがひたすらテナーを吹き捲くる。途中、いろんなスタンダードナンバーの断片がヒョッコリと顔をのぞかせては、客が沸く。これを生で聴いた人は本当にラッキーだ。

こういう企画を仕掛ける人も大したものだと思うが、これを受けたロリンズ氏もさすがだと思う。裏ジャケットでしてやったりと微笑んんでいる彼の写真が好きだ。後半ちょっと疲れたようにも聴こえるが、全編ご機嫌なサックス演奏が一杯である。大きな川にかかる橋の下とか、ひろい公園の木の下とか、大学の学生会館の裏とか、駅前の雑踏のガード下とかで、一人でサックスを練習する人が、突然こんな風に吹き出したら、たちどころに人が集まってくるに違いない。多少の編集はしてあるらしいが、それにしてもすごいパワーだ。おまけに楽しい。

ロリンズ氏は御年74歳。最後のジャズの巨人とかいわれるが、2000年録音の近作「ディス・イズ・ホワット・アイ・ドゥ」でも、お元気で何よりである。先にとりあげたドラムのマックス=ローチ氏とグループを組んで大ヒットしてから、もう半世紀が過ぎたわけだ。自分のスタイルをベースに新しいことに挑戦し続ける姿は、まるで奇跡のようだ。すぐに諦めてはいけない。

The Complete Sonny Rollins
Jazz@Groove
MoMA:ニューヨーク近代美術館(時折のぞくと楽しいです)
名曲喫茶ライオン

3/13/2004

ピーター=コウォルド「デュオ2-ヨーロッパ-アメリカ-日本」

Peter Kowald:  NHKで木曜日の深夜放映されている(近々日曜日に変更されるらしいが)「トップランナー」という番組が好きでよく観ている。アートやスポーツなど様々な分野で活躍している人が毎回ゲストに出演するトーク番組だ。世界の大舞台で活躍するスポーツマンの話題はよく見かける一方で、アートの方面はまだまだである(実際日本のスポーツ報道はちょっと過剰ではないかと思えるのだが)。

 昨年の秋頃だったか、その番組で振付師の金森穣という人が出演した。僕は彼のことは全く知らなかった。まだ30才とこの世界では非常に若い世代と思うのだが、評価は世界的にもかなりのものらしい。番組中の彼の発言や、振付けのサンプルとして演じられた簡単な実演例を見て、僕は素直に感動し、ショックを受けてしまった。最近、同番組で観たなかで一番印象に残る人だった。彼の公演が6月に新潟と東京で行われるらしいので、興味のある方はチェックしてみてはいかがだろうか。

 最近、日本の若いアーチスト(もちろん音楽には限らない)が世界に進出しているのを知るのが、とてもうれしい。一方で、日本=工業製品、ものづくり、そしてそれを支える大和魂体育会的精神論という認識が、当の日本自身からなかなか抜けないように思えるのがとても残念だ。かつての産業の中心であったものづくりの世界は、匠や技の世界が中心で、それはアートの世界に共通していた。しかし、現在の産業(そして政治の世界も)は、手法中心のロジックの世界に陥ってしまい、とても空しい一面がある。ポリシーが長続きしないのだ。右脳左脳という議論ではないが、感性から素直に具現化につながるべきところを、なぜなぜという理屈が邪魔して、本来の力を余計な方に向かわせているように思える。「失敗をおそれず」ということと異なる次元での矛盾がある。もちろん挑戦者もそれなりに相当ハングリーでなければならないことは当然なのだが。

 今回のCDは、ドイツのベース奏者、ピーター=コウォルド氏の作品集である。タイトルにもある通り、この作品集は、彼が欧州、米国そして日本の様々な演奏家とサシで共演したものを集めたもので、「2」とあることからもわかるように前作も存在する。

 彼らはいわゆる「フリーミュージック」と言われるジャンルの演奏家たちである。おそらく当人たちがそう自称したいわけでは決してないと思う。彼ら自身はみな「音楽家」だと思っているのだが、ではどんな音楽ですかとなると「自由な音楽」ということになる。いわゆる即興演奏(インプロヴィゼーション)なのだが、一般に親しまれている調性(ハ長調とかニ短調など)の音楽に基づいた即興演奏と区別されるために、「フリーインプロヴィゼーション」といわれることが多い。「フリー」とは何からの自由かとなると、音楽の基本3要素と言われる「メロディ」「ハーモニー」「リズム」からの自由ということになるのだろう。あまり面白い説明ではないのでこの程度にしておく。聴けばその意味は簡単に理解できる。

 彼らの音楽は明らかにマイナーな存在だが、僕は結構この手の音楽が好きだ。なんでこんな気持ち悪い音楽を聴くのかといわれても、「耳慣れない」「普通と違う」「先が読めない」という感覚を心地悪いと感じるか面白いと感じるか、その違いだけだと思う。その先の「なぜ」にはもはや意味はない。もちろん経済的価値(=ビジネス)がどうのというのは、もはや音楽の目的とは次元が異なる議論だろう。売れないから意味がないという発想は当人たちにはないのだ。

 この作品では6名の日本人を含む18名のフリーの大物演奏家がコウォルド氏と共演している。通常、フリーの作品は曲が長い場合も少なくないが、ここに収録されている作品はあえて3〜5分程度に凝縮して演奏されており、その意味ではいろいろな演奏をコンパクトに聴きやすくまとめてくれている。それがこの種の音楽をもっと世の中に紹介したいという、コウォルド氏の意図でもある。とても見事な企画だ。いろいろな楽器(声も含め)にできる表現の追求、という意味では間違いなく彼らはある先端を行っている。そこがこうした音楽の大きな魅力のひとつでもある。

 超大御所揃いの海外勢に加え、トランペットの近藤等則氏、尺八の松田惺山氏、トロンボーンの河野雅彦氏、三味線の佐藤通弘氏、琵琶の半田淳子氏、そしてドラムの豊住芳三郎氏と日本勢もすばらしい演奏を披露している。フリーミュージックを聴いてみた方には、おすすめの1枚だと思う。

 そんなコウォルド氏だが、実は2002年に亡くなられていたことを、このアルバムを買ってはじめて知った。ご冥福をお祈りする。残念だ。

Free Music Production
Peter Kowald
Peter Stubley氏の"European Free Improvisation Pages"にあるPeter Kowaldのコーナー(コウォルド氏の映像があります(要Quicktime)
金森穣

3/06/2004

ライ・クーダ/ヴィム・ヴェンダース「エンド オブ バイオレンス」

東京にある大型展示場で最近「セキュリティーショー2004」なる展示会が開催され、たいそう賑わったのだそうだ。その名前からも推察されるように、ドアロックや監視カメラ、セキュリティシステムなど防犯設備や用具の総合展示会で、賑わいの背景には昨今の物騒なご時勢があることは自明である。僕の周りでも泥棒に入られたりひったくりに遭ったりとそうした被害を受けた人が少なからずいる。防犯意識というのは、人間に対する性悪説だから、どことなく寂しいものだ。でも起こる時は一瞬だ。財産を奪われる、場合によっては命がなくなる。起こってしまってからでは遅いのだ。犯人が捕まることと、償いはほとんどの場合、結びつかない。社会の所為にするか、他人の所為にするか、それで納得できないのなら自分の所為にするか、それを金で賄うか、やはり妙な商売である。

さて、今回のCDは映画のサウンドトラックである。つまり本当に紹介したいのはその映画の方ということになる。えぬろぐでは初めての映画だ。断っておくが、これが僕にとってのベスト映画というわけではない。無人島に持っていく1枚のDVDにはあたらないかもしれない。しかし2000枚程もあろうかというCDコレクションの一方で、DVDはまだ10枚前後というなか、僕がわざわざ所有しているのだから、それなりのお気に入り映画ではある。

映画のタイトルはずばり「暴力の終り」。誰もが望むところかと思いきや、これは意外に簡単な問題ではない。それがこの映画の結論でもある。監督のヴィム=ベンダースは、映画通にはかなり有名な人だ。世のなか的評価での彼のベスト3は「パリ・テキサス」「ベルリン天使の詩」そして「ブエナヴィスタ・ソシアル・クラブ」だと思う。本作はそれら3作に共通する、見終わった後に残るどこか心地のよい切なさのようなものはない。ストーリは難解ではないが、ラストシーンに表現される主人公のテーマに対する結論はなかなか難解である。暴力の終り、すなわちあらゆる集団にとっての平和な社会の実現とは、そういうものなのだろう。

この作品には、暴力の他に重要なテーマがもう1つある。それは「情報化社会」である。いま現在の僕自身の職業柄、その点が僕をこの作品に惹きつけるのだろうと思う。作品の発表は1997年だから、撮影が行われたのは1995,6年頃であろう。世間から身を隠さねばならなくなった主人公のバイオレンス映画プロデューサ、マイク=マックスがロス郊外のキンコーズでメールをチェックするシーンで使われるのは、懐かしいNetscape Communicator Ver2.0である。他にも携帯電話やパソコンを使ったテレビ電話、そして街中に設置された監視カメラ、そして監視衛星などが、物語の重要な舞台装置になっている。

ストーリは、バイオレンス映画の人気プロデューサ、マイクが仕事を巡るトラブルから、殺し屋に拉致されて命の危険にさらされることから始まる。一方、FBIが極秘に開発した犯罪防止のためのハイテクシステムの評価を任された元NASAのエンジニアが、そのシステムに対する疑念に悩み、情報をこっそりマイクに流すなか、偶然にもシステムが捉えた彼の拉致事件を通じて、このシステムが持つ恐ろしい矛盾の事実を知ってしまう。

マイクとエンジニアとその周辺の様々な人物を通じて、暴力の終わりというテーマが、最先端の社会である情報社会と、家族という最も原始的な人間社会の遠近法を通じて描かれていく。人々の思惑と愛憎が絡みながら、物語は思わぬ方向に展開してゆく。サスペンス映画として観ても、それなり手に汗握る場面もあって十分に楽しめる。しかし、ラストで観る者にこの作品のタイトルに表されるテーマ「暴力の終り」が再び突きつけられ、波乱の一時をくぐり抜けた主人公マイクが彼なりの結論を独白するのだが、言葉は平坦でもやはり内容は難しいものである。ある意味、未消化の重いテーマを観る者の考えに委ねて物語は幕を閉じる。

僕はこの映画を日本で劇場公開された1998年に、東京の恵比寿にある小さな映画館で観た。並ぶ必要はない程の評判だったが、上映時間の直前に入り口の前で待っていると、前回を見終わった観客が、皆何とも言えない複雑な表情で中から出てきた。結婚前の妻とのデートだったのだが、ストーリも知らない僕たちは、その人たちの表情をみて何となく笑っていた。泣いてる人はいないし、興奮している人もいなかった。笑っている人もいなかった。一様に目の焦点が脳みその方を向いている、そんな表情だった。2時間余後、僕たち二人も同じ顔をしていたのだろう。

ギタリストのライ=クーダは、アメリカン・ギターミュージックの神様のような存在で、多くのヴィム=ベンダース作品で映画音楽を担当している。前出の「パリ・テキサス」「ブエナヴィスタ・ソシアル・クラブ」はともにライの存在なくしては語れない作品である。僕はこの映画を見終わってから、DVDが発売されるのを待ちきれずに、サウンドトラックのCDを買ってしまった。音楽ももちろん素晴らしいが、それ以上に映画の印象が強かった。僕としては珍しいCDの買い方をしてしまった。

この作品から、はや8年。あらためてこれを作った人たちの時代観には脱帽である。僕は観たことはないが、いま話題の「ロード・オブ・ザ・リング」も、もちろん結構かと思う。だが、それとはまた別の意味での映画の素晴らしさを実感できる作品として、これを是非ともおすすめしたい。




Ryland Peter Cooder -The Master and his Music

Wim Wenders official site