12/27/2008

ヤングリクエスト

今日、妻と外出しているときに、また突然にある音楽が頭の中によみがえって何度も繰り返された。それはずっと昔、僕が小学生か中学生の頃に聴いていた深夜放送の主題歌で、大阪の朝日放送ラジオの人気番組だった「ABCヤングリクエスト」のテーマだった。もう30年以上も前の記憶である。

なぜこれが突然頭に鳴り始めたのか僕にはわからない。こういうときにいつもそうであるように、急に何か引き出しの様なものが開いてその音楽がひゅっと姿を現す。僕はその歌をほとんどそらで歌うことが出来るのだが、途中に「聞きましょう、夢のリクエスト」という部分があって、そこの雰囲気を思い出すと思わずグッときてしまった。

Wikipediaによるとこの主題歌は20年間続いた番組のなかで、何人ものアーチストに引き継がれて歌われたらしい。僕の記憶にあるのは2代目の岡本リサによるもののようだ。家に帰ってネットで調べてみると、もう二度と聴くことは出来ないと思っていたその歌が、なんとニコ動にアップされていた。(初代の奥村チヨのバージョンに続く2曲目の方である)

これには本当に驚いた。いまこれを書きながらその歌を久しぶりに耳にしている。うーんやっぱりちょっと涙腺がうるうるきますなあ。このストリングスとホーンの感じが、僕の深夜ラジオのイメージそのものである。なんとも懐かしい。その頃住んでいた社宅部屋の様子や、古いナショナルのラジオのこととか、隣の部屋で寝ていた父や母のことまでが思い出される。

歌詞にまつわるエピソードはウィキを読んで初めて知った。そしてメロディーを書いたキダ=タローさんはやはり偉大な人である。

もうすぐ2008年も終わりである。無事に仕事納めもすませ、今年は9日間の年末年始休暇である。しばらく家を空けて妻とそれぞれのふるさとに帰省する。前にも書いたように、これから年末は居場所を転々とすることになる。体調に気をつけつついろいろな人との交流を楽しみたいと思っている。

2009年は僕にとって人生の大きな節目を迎える年になるだろう。そのことを考えると、自分がいままで生きてきたことを、少し振り返ってみようかなという気になっている。年末に自分の実家に帰って、僕が学生時代を過ごした場所を巡ってみようというのも、少しそうしたことを意識しているからかもしれない。急にヤングリクエストの音楽がよみがえってきたのも、何かそういうつながりなのかもしれない。


さて、今回でこのえぬろぐはまる5年を経過することになる。僕がなぜこれをここまで続けてこられているのか、音楽が好きというのももちろんだが、やはりこうして何かを言葉にしたため、「表現する」ということが好きというのが一番の理由なのだろう。

このろぐはこういう調子で来年以降も続けて行きたい。運営しているGoogleのシステムの都合で、年明け早々には少しサイトのリニューアルを行うことになりそうだが、それについてはまたあらためてお知らせしたいと思う。

ここまで5年間の書き散らかしを読んでくださっている皆さん、ありがとうございます。これからもたまに覗きに来ていただければうれしいです。

では皆さん、よいお年を。

(追伸)ABCヤングリクエストのテーマソングはニコ動と同じものをYouTubeでも聴くことができますよ

12/23/2008

天空 曇りのち晴れ

このところ職場の人間的なことでちょっとしたトラブルがあり、それに少々手を焼いていた。上司や同僚などとも対応を話し合っていたのだが、皆頭を抱えるばかりという状況だった。そんななか先週のある日に僕は気分転換もかねて、たまたま申し込んであったセミナーに参加した。

ところが思いもかけず、そのセミナーの内容から悩みに対するひとつの対処法が突然もたらされたのである。具体的な内容は書かないが、何とも不思議な偶然を感じずにはいられなかった。もちろんそれを知ったところで実質的な業務上の課題解決にはならないのだが、少なくとも閉塞的な悩みに客観性が加わることで、気分的にはずいぶん楽になった様な気がする。

朝、渋谷のセミナー会場に向かう気分は今ひとつもやもやしていたのだが、お昼前に会場を後にするときの気分は、その日の冬空同様晴れ晴れとしていた。気分が良くなった僕は、会社がある田町駅で降りて少し早いお昼を少し以前に友達から教えてもらったつけ麺ラーメン屋「天空」で食べた。

ここのつけ麺は旨い。昼時は混雑していて早い時間から店内にかなりの行列ができるのが難点だが、それでも並ぶ価値は十分にあると思う。この日は初めてつけ麺の大盛りを食べてしまった。相当な分量だと思ったのだが、心地よい満腹感であった。


さて、前回のろぐで触れたマーシュ、コニッツ、エヴァンス等によるハーフノートでのライヴ作品について補足しておきたい。その後何度か聴いてみて、これはとんでもない名演だなあと改めて感心してしまった。このメンバーから演奏に興味を持った人はもちろん、そうでない人も是非ともチェックして損はない作品である。

コニッツのソロ部分を聴いていると、ヴァーヴの名作「モーション」を彷彿とさせる場面が何度もある。両作品のリズムセクションは、ジミー=ギャリソン&モチアン(ハーフノート)とソニー=ダラス&エルヴィン(モーション)であり、ベースもドラムもそれぞれかなり異なるスタイルの持ち主なのだが、コニッツやマーシュの音楽のもとではそのことをあまり感じさせないのが不思議である。

さらに、ギャリソンとエルヴィンがその後コルトレーンの下で全く異なるスタイルのリズムセクションとして組むことになるというのも不思議な縁である。ジャズの世界におけるフロントというかリーダーの役割とその重要性について考えてしまった。

ここでのエヴァンスはもう完全なサイドマンであり、主役はあくまでもマーシュとコニッツである。再発売に際してエヴァンスの名前が一番始めに掲げられているのは、発売者の商業的な意図でしかない。ただそれでこの作品の素晴らしさをより多くの人に知ってもらえるのなら、まあさほど責められることでもないのだろう。

また追加収録された演奏について、マーシュやコニッツについてはそちらの演奏の方がいい云々と前回は書いたが、あれは素直に早とちりだったと訂正しておきたい。それはもう一重にリズムセクションの力量の差と言えるだろう。技巧と表現の微妙な関係の事例がそこにはある。

先週末には今年のCD購入を締めくくる(?)大物商品がアメリカから到着し、週末からじっくり楽しませてもらっている、コニッツ&マーシュの音楽とはまた趣向の異なるジャズであるが、いまの厳しい環境にあっては、聴くものを励ましてくれる様なパワーのあふれる内容である。それについてはまた次回に触れ、今年のログの書き納めとしたいと思う。

12/14/2008

居酒屋ジャズ

忘年会シーズンだが、今年は公的な忘年会はすべてパスして、私的な忘年会しか出ないことにした。懐が寒いという訳ではないが、公的なものとなると、どういう訳かお金はたくさん払わされるし、いまはそれに出てもあまり楽しくない。別にそういう想いまでして出る義理もなかろうというわけだ。

年末には大晦日に向け、京都、和歌山、神戸、広島と西日本で4連続飲み会を予定している。実家の様子を見がてら和歌山に帰郷し、その後妻の実家へと向かう旅程のなかで、こういうスケジュールを組んでみた。

日頃、4連荘で飲みに行くいうことなどとはすっかりご無沙汰であるのに、毎夜転々と寝泊まりする場所を変えて飲むわけだから、果たして体が持つのか少々気がかりではある。インフルエンザ流行も話も聞かれるこの頃なので、気をつけたいと思う。

なのでその前に関東でやる年末飲み会は、気心知れた人とこじんまり楽しくやりたいと思った。そんなわけで先週は2回の飲み会があった。

ひとつは会社関係の同僚で妻もよく知る2名の女性たちとの飲み会。お店は会社近くの田町にある「塚田農場」というところ。いろいろと珍しいものを食べさせてもらったのだが、どれもおいしかった。この2人はとにかくよく飲む。話も豊富で楽しいのだが、いずれも独身というのが僕らにはどこか気がかりである。

もうひとつは、妻の会社関係のつながりで結成している男3人の会。1人はその会社の社員だが僕ともう1人はそこの社員の夫というつながりである。いままにでも何度も宴をともにしている。今回の会場はその会社がある恵比寿の老舗居酒屋「さいき」だった。

早めの集合が功を奏してなんとか予約なしで陣取ることが出来た。有名なお店なのでネット上にもいろいろな情報がある。お店の雰囲気はいいし料理の具合もいい。店主のさりげなく一本気なこだわりがしっかり反映されている。常連客が多い店というのが好みの判断の分かれ目だろう。

話題に花が咲きとても楽しい飲み会だった。勢い2軒目に行こうということで、その筋並びの居酒屋「えびす村」に入る。ここは以前にもそのうちの1人と訪れており、今回は店主自慢の「トンカツ」を目当てに入ることにした。もうかなり酔っぱらっていたのだが、何かパンチのあるものが食べたかったのだろう。僕は生ビールとホッピーを飲んで、案の定酩酊の帰宅となった。

事前に酔いを抑えるために飲んだアミノ酸のおかげで、二日酔いはなんとか回避されたのだが、妻によると帰宅するなり、ふらつきながら服を脱いで「ああ、やっぱり酒はアカン」とか言ったらしい。飽くなき反省は酒につきものである。

円高のおかげでCDが安く買えるというのも、無駄遣いを抑えようという心理をより強くしているのかもしれない。もちろん時と場合にもよるのだが、建前は明らかに無駄遣いである。このところ海外サイトでの音盤購入が増勢を強めているが、さらなる円高が進行していることが、(別に投資家ではないのだが)一層の大物狙いを煽ってくる。

最近届いたCDから、今回は心地よい居酒屋での一夜の様な(?)ご機嫌なジャズをご紹介しておこう。

このアルバムは従来はヴァーヴレコードからリー=コニッツ名義で発売されていた演奏である。今回、復刻専門のジャズリップスというレーベルから、別の未発表音源を加えて再発されている。テナーのウォーン=マーシュとコニッツは白人フロントの双頭として、いくつもの演奏を行っており、この作品もその中のひとつである。

目玉はもちろんエヴァンスの参加であるが、ここでの彼はあくまでもサイドマンである。そして当時リヴァーサイドで彼とジャズ史に残る名トリオを結成していたポール=モチアンも、まるで別人のようにステディなリズムセクションとしての演奏を聴かせる。その違いを生み出しているのは、明らかにこのユニット唯一の黒人であるジミー=ギャリソンの存在だろう。そこがある意味この作品の聴き所かもしれない。

なお、オマケで収録された1976年のロンドンの未発表音源は、その約20年後のマーシュ、コニッツユニットの活躍を収録したもので、これはこれで非常に優れた演奏である。2人のフロントの演奏に関して言えば、こちらの方が優れているかもしれない。これがずっと未発表だったというのも驚きである。

この演奏の10年後にマーシュは世を去るが、最初のセッションから半世紀を経たいまもこれらの演奏はもちろんまったく色褪せるものではない。そしてコニッツは80歳のいまも健在である。

僕はこの演奏に、最初に紹介した恵比寿の居酒屋の居心地に通ずるものを感じる。確かな腕を持った職人が気取らずさりげなく、偶然とも必然ともいえない日常に、当然のように提供する逸品とでも言えばいいだろうか。こんな演奏が毎夜のように街のあちこちで起こっていたこの時代から半世紀。その伝統はいまも世界中のクラブで受け継がれている。

ジャズは素晴らしい。

ビル=エヴァンス、ウォーン=マーシュ、リー=コニッツ
「ライヴ アット ザ ハーフ ノート」

12/07/2008

鏡の中の鏡

12月になった。今年もあと3週間と少しである。この週末はかなり寒くなるといわれていたが、実際にはそれほどでもなかった。

10月半ば以来で髪を切ってもらいにお店に行った。自宅近くの安いヘアサロンで、もうかれこれ2年間同じ人に担当してもらっている。その人がこの年末で結婚を機にお店を辞めるのだと聞いていた。

僕は自分の髪についてはあまり気に入ってはいない。生まれながらの太い髪質もそうだし、中学校で丸坊主を3年続けた後で伸ばしてみたらかかっていた天然ウェーヴもそうだ。おまけに仕事で猛烈な苦労をした訳でもないのに、二十歳代後半からかなり白髪が出始めた。

髪質を変えるのは容易なことではない。天然ウェーヴは一度だけストレートパーマを試してみたが、僕の太い髪にはあまりいい結果をもたらさなかった。白髪は家庭用の白髪染めを一度試したら見事にハマってしまい、以後ずっと髪を切るたびに自宅で続けてきた。

それが3年ほど前にいまのサロンに行くようになってから、お店で染めてもらうことの素晴らしさを知り、それからは自分でやることはなくなった。やはり仕上がりの美しさはプロにはかなわないし、冬に洗面所で寒い思いをしなくてすむ。

髪が太いと、髪の長さがある一定のレベルを超えると急激にヴォリュームが膨張し始める。おまけに強いクセが出るので頭の上に何かの巣か森をのせている様な感じになる。さらには生え際が白いので前髪を上げていると、その巣か森が頭の上で浮いて見えるようになる。頭が小さい方ではないし、身体は華奢な方だから、ますます格好が悪くなるわけだ。

僕の祖父は理容師だった。僕が大学4年生の時に病気で亡くなる少し前まで、娘である僕の叔母と2人で田舎で散髪屋をやっていた。僕は大学生になるまではその2人にしか髪を切ってもらたことがなかった。

そして大学生の間はほとんど自分で髪を切っていた。ストレートヘアの人には信じがたいことかもしれないが、くせ毛の場合、ある程度うまくやれば結構どうにかなってしまうものなのである。

社会人になって上京して寮生活を始めるとさすがにそうはいかなくなり、迷ったあげくに僕が足を踏み入れたのは、いわゆる散髪屋ではなく美容室(いわゆるヘアサロン)だった。なぜそうしたのかははっきり覚えていないが、おそらくはある種のあこがれの様なものを抱いていたのと、祖父や叔母に対する気兼ねの様な気持ちがあったのだろうと思う。

以来、僕を担当してくれる人は、必ず一度は「髪が太くて硬いので切るのが大変だ」という主旨のことを、別の言い回しでにじませてくる。そして大抵は担当してもらうのは女性である。理由は簡単でその方が僕にはいろいろな意味で気が楽だから。

いま通っているお店は担当者を指名するのに料金がかからないので、気に入った人がいると必然的に同じ人を指名することになる。今回で最後になる彼女の前はやはり結婚で退職した女性だった。

途中からうちの妻も同じ人に担当してもらっていたこともあって、僕も打ち解けていろいろな話をしてきたと思う。レスポンスはいまひとつな場合もあったのだが、それが意図的なものなのか天然なものなのかはわからない。

美容師さんというのは鏡を通して人と接する不思議な職業である。お客である僕らもほとんどは鏡で向き合いながらその人と接することになる。そして仕上げの最後に「後ろをお見せします」と言って、後頭部を映した鏡を目の前の鏡の中に見せてくれる。何とも言えない瞬間だ。

2年間も夫婦でお世話になったので、僕は彼女に何かCDをプレゼントすることを思いつき、それはすぐにアルヴォ=ペルトの「アリーナ」に決まった。

彼女のお相手も同じ系列店の美容師さんで、2人は同郷でもあり美容学校の同期だったのだそうだ。結婚のお祝いの意味と美容師という職業を考えると、このアルバムに3つのヴァージョンが収録された作品「鏡の中の鏡」は、とてもいい語呂だと思った。

これほどまでに無駄のない単純なストラクチャのなかに織り込まれた繊細な音の美はないと思う。このアルバムの美しさと素晴らしさを表すのにあまり余分な言葉は要らないだろう。ここに収録された音楽は、すべての人の心を落ち着かせ静かにその心に自身を向かい合わせてくれるはずだ。

音楽が人間に与える境地にはいろいろなものがあるが、この音楽の与えてくれるそれは、最も単純でありながら極めて深遠なものだと思う。


アルヴォ=ペルト
「アリーナ」

11/30/2008

自宅のジャズ喫茶

前のろぐにも書いたように、以前に使っていた4GBのiPod nanoに自宅でBGM代わりに聴く音楽を整理し直してみた。

今回の整理に当たっては、1)対象をジャズに限定する、2)いわゆる名盤といわれるものを中心にしつつ、最近のマイブームも少し反映させる、3)収録に際してはオリジナルアルバムの体裁を尊重する、という3点をポイントにした。

要するに、何を聴くかを選んだり操作するのがいちいち面倒なので、このように音楽を収録したiPodをアルバム単位のシャッフル再生にして、再生ボタンを押すだけでジャズの名盤が次々に流れてくるという、さながらジャズ喫茶の様な気分を味わえるという仕掛けにしたかったのである。

このアルバム単位のシャッフル再生というのは、僕がいま通勤などで愛用しているiPod touchやiPhoneなどでは出来ない。このことを不便に感じている人は多いようで、ネット上にもヘルプを求めるスレがいろいろ出ているがどうやらまだ解決はないようだ。ご存知の方がいらっしゃれば是非とも教えてください。

ポイントの1)については、従来はクラシックやロックなども少し入れてあってのだが、たまにその種の音楽を聴きたいと思っても、数少ない収録曲が聴きたいものとは限らないので、それならばどうしても聴きたいときはその都度CDをかける様にすればいいと思った。

ポイントの3)は要するに未発表テイクを省いたり、全集ものをまるまる収録するのではなく、ちゃんとオリジナルアルバム単位に分けて収録するということである。これについてはこれまでも何度かろぐに書いてきた通り、やはりその音楽が作られた時代のアーチストやプロデューサの意図を尊重することが、その音楽を楽しむうえで一番必要なことだと思うから。

さて、こうして4GBのiPodに82枚のジャズアルバム合計638曲が厳選(?)された。これが完成したのは2週間前のこと。以来、家で食事などのたびにこれをアルバムシャッフルで演奏しているのだが、まだようやく半分を過ぎたところの351曲目である。

ちなみにいま流れているのはキース=ジャレットの"Standards Live"から"Too Young To Go Steady"である。このアルバムは何度聴いてもいいものだ。

こうすることで音楽の聴き方にメリハリが出たのか、このところまたまた音楽CDの購入ラッシュになっている。内容は広い意味でいろいろなジャズが中心になっているのだが、おそらくは、僕がジャズを聴き始めた頃の音楽をまとめてみることで、いま自分が興味のあるいろいろな音楽の位置づけの様なものが、頭の中でクリアになっているのだと思う。

ちなみに、今しがたキースのアルバム演奏は終了し、次に流れてきたのはコルトレーンの"Giant Steps"である。うーん、なんとも楽しいものだ。

キースのあの作品が発売されたのは1985年だから、もう23年も前のこと。あの頃の僕はまだデレク=ベイリーもポール=ブレイもデイヴ=ホランドも知らなかった。

そしてコルトレーンのは、高校生の頃に和歌山市の図書館でLPレコードを借りて聴いた、初めてのコルトレーン体験だった。こちらは1959年の発売で僕が生まれる5年前のことだ。来年でちょうど発表50周年になるんだなあ。

いろいろな思いが頭を巡る。今日はこのまま熱燗でもやりながら少し時間を超えた旅でもしてみようか。

Keith Jarrett
"Standards Live"

11/23/2008

壱源のバラッド

今年の秋は連休が多い。月初の文化の日に続いて、勤労感謝の日も3連休である。9月と10月にハッピーマンデーが導入されているのだから、まあ当然と言えばそうなのだが。

先月、会社で受診した健康診断の結果でちょっと気になる結果があった。僕はどうやら生まれながらにして脈が乱れがちな体質のようだ。いわゆる不整脈である。会社の成人病検診で生まれて初めて心電図を採った35歳のときにそのことを知った。以来、心電図を受診するたびにその結果が出て「要精密検査」となる。

6年半前には専門病院で精密検査を受け、その際にどうやらあまり心配する必要のないものだということが判明し、以来ほとんど気にしたことはなかった。それがなぜか今回は結果が気になり、気にすればするほど胸が重い感じがしたので、前と同じ病院で再度診てもらうことにしたのだ。

忙しい中、わざわざ会社を休んで行ったのだが前回と同じ先生が応対をしてくれた。彼が僕に言ったのは一言「あんまり気にし過ぎるのはよくないよ」ということだった。

ただ以前にも増して僕は身体のことを気にするようになった。お酒を少し(あくまでも少しかもしれないが)減らし、脂分の少ない食事を心がけるようにした。会社でお昼に食べていた中華弁当や揚げ物の弁当をやめ、家でもそういう食事を意識するようになった。これには妻も同意してくれて、近頃は味付けも含めかなりヘルシーなよるご飯が続いている。薄味はいいものだ。

脂といえばラーメンである。こればかりはやはり食べたくなる。そこをなるべく我慢する。カップラーメンはあまり食べることもなくなりそうだ。お店のラーメンはなるべく週末に続かないようにして行くつもりだ。なじみのお店には申し訳ないのだが。

連休初日、渋谷にCDを見に出かけた。といっても半分のお目当てはラーメンである。まあたまにはいいだろうということで、心躍る思いで北海道ラーメンの「壱源」を目指した。しかし、お店はなくなっていた。張り紙さえされていないお店の跡を前に僕はしばらくじっとそこに立っていた。家に帰ってネットの情報で先月18日に閉店したことをようやく知った。運命のいたずらとはこういうことか。とても残念である。

お店に何があったのかはわからない。薄暗い簡素な店内の雰囲気とは裏腹に、とても暖かいお店のお母さん、奥のカウンターで作業するご主人と若い店員さんの顔が浮かぶ。飲食店に限らず、作った人の顔が浮かぶ仕事というのは、とてもかけがえのない大切なことなのだなと思った。仕方なく近くにある「博多金龍」で替え玉をして食事を済ませた。スープはなるべく残した。

最近はCDを買うにしてもネット経由が多いのだが、やはりショップはたまには覗いてみたくなる。ネットの侵攻は着実に進んでいる。最近驚いたのは、ディスクユニオンが中古品を含めた店頭在庫CDのネット検索ができるサービスを始めたこと、そしてドイツのECMレーベルの諸作品がiTunes Storeで配信されるようになったことだ。

いずれも僕個人としては「とうとうここまできたか」とある意味で感慨深いものがある。前者はCDの流動性を高めることの、そして後者は音響というものに対する業界の認識の鈍化を象徴するものだと思う。自分は音質にはわりとこだわりの少ない方だと思う。「音が良い」というのはあくまでもライフスタイルの問題で決まるのだから。

渋谷のディスクユニオンに立ち寄る。奇しくもECM中古盤の大放出というのをやっていた。そのなかでながらく中古で探していた作品を見つけることができた。ポール=ブレイの「バラッズ」。ジャケットを一目見ればECMのかなり初期の作品であることがわかる。カタログナンバーは1010番だから、単純には10番目の作品ということになる。

この作品には2つのピアノトリオによる演奏が収録されている。ブレイとドラムのバリー=アルトシュルは同じで、ベースがゲイリー=ピーコックとマーク=レヴィンソンに分かれる。録音は1967年とあるから、ECMが創設される少し前のものだ。よって作品には同レーベル作品にお馴染みのマンフレッド=アイヒャーのクレジットはなく、代わりにすべての楽曲を提供したのがアネット=ピーコックであるということと、意味深なメンバーのスナップ写真が掲載されている。

このCDはミュンヘンのECMからは正式にはCD化されておらず、ユニヴァーサルミュージックの日本法人の企画ものとして日本で復刻されているものだ。だから今の時点ではかなり貴重なのである。先に書いたクレジットと写真の持つ意味については、復刻盤のライナーノートにちょっとしたエピソードが載っている。

ブレイの音楽に対しては好き嫌いははっきり分かれるところだと思う。家に帰ってさっそく聴いてみたのだが、もう前半の"Ending"だけで完全にノックアウトされてしまった。本作品が"Open to Love"や"Fragments"と並んで彼の重要作品であることに個人的には異論はない。ブレイが1960年代後半の時点で、これほどまでに美しく緊張感のあるピアノトリオ演奏をしていたのは驚きである。キースが現在のECMの表看板だとすれば、ブレイは創業当初からある隠れメニューといったところだろうか。

しばらく探していたこの作品に出会ったその日に、なじみのラーメン屋がなくなってしまったことを知ったことは、おそらく今後この作品を聴く折にふれ思い出させることになるのだろう。まあそれも悪くないかもしれない。

ポール=ブレイ
「バラッズ」

11/16/2008

パス イット オン

このところ週末はあまりいい天気にならない。この土曜日も午前中はまだよかったのだが、午後になると雨が降ったりした。日曜日はずっとどんよりした曇り空で、時折雨が落ちた。近場を少しうろうろしたりしたが、家の中で片付けや整理をして過ごすことが多かった。

僕は少し前から気になっていた、ハードディスクに入れてある音楽の整理をした。こういう作業でも「音楽の整理」と呼ぶのだから、以前とはずいぶん様変わりである。ホコリで手が汚れたり、重い箱をさげて腰が痛くなったりすることはないが、代わりに目と肩が疲れてしまう。

気になっていたのは、マイルスと(ビル=)エヴァンスそれぞれのボックスセットのデータを、正規のアルバムに組み直すという作業。そう言われてわからない人には何のことやらと思われるだろうが、今の時代ならではの整理上の問題の一つである。それといわゆる名盤といわれるジャズのアルバムを、まとめてディスクに収録する作業である。

ボックスものはある期間の作品について録音順に収録されているもので、実際に発売されたアルバムとは曲順が異なりアルバムとして聴くには非常に不便である。ジョーヘンやクリフォードのボックスセットをアルバム単位にまとめ直してみて、やはり本来こうあるべきだよなと納得していた。マイルスとエヴァンスのセットは収録作品が多いので、ちょっと面倒な作業になる。

以前にも書いたかもしれないが、やはり未発表テイクと呼ばれるものには、そうなった理由があるのだから、そこにプレミアム性を見いだすことはできるとは思うが、それは実際のところはあまり大したものではない。たくさんのCDを持っていろいろと聴くようになると、ますますそういうことはどうでもいいように思えてくる。

おかげで、マイルスのプレスティッジ時代、エヴァンスのリヴァーサイド時代の名アルバムについて、今一度その存在を確認することができた。これからはまたアルバム単位でこれらの作品をじっくり聴くことになるだろう。さらにそれらと同時代のジャズの名盤10名ほどを新たにiTunesのライブラリに加えた。キャノンボールの「サムシン エルス」、ウォルター=ビショップJr.の「スピーク ロー」、ポール=デズモンドの「テイク テン」等々。またこのろぐにもそれらの名前が出てくることになるかもしれない。

さて、今回は最近購入したCDの中からデイブ=ホランドの最新作を紹介しておきたい。

前作「クリティカル マス」も良かったのだが、今回の作品はECM時代から続いてきたバンド編成に大きな変化があった。それはピアノが加わっていることであり、その席を務めているのはなんとマルグリュー=ミラーである。

デイヴの音楽はコンポジションとインプロヴィゼーション両方の観点から、非常に優れた内容のものであるが、テンションの高い音楽である反面で難しさや近寄りがたさのような要素が感じられないわけでもなかった。今回、ピアノが加わったことで、その辺りについて少し柔らかさや親しみやすさを増しているように僕自身は感じている。

デイヴの心境にどの様な変化があったのかはわからないが、僕はこの編成で演奏される音楽にとても強い好感を持った。収録曲は従来から演奏されてきたオリジナル曲も多く、その意味ではピアノ入りのセクステット(6人編成)での新しい表現を楽しんでいるようにも思える。

アルバム後半に収録されたサム=リヴァースに捧げた"Rivers Run"、そしてエド=ブラックウェルに捧げたアルバムタイトル曲"Pass It On"は、このアルバムの大きな目玉である。特に前者はドラマチックでスリリングな展開が見事な作品である。ちなみにサムは1923年生まれで現在85歳(!)ということになるが、彼のウェブサイトを見る限りは未だ現役で、自身のオーケストラとトリオを率いて活動しているようだ。これは知らなかった。あれだけの吹きまくりを続けて、現在もなおご存命でなおかつ現役で演奏されているというのは、信じられないことである。

これを機会に過去のデイヴの作品をいくつかiTunesに入れ聴き直してみたりもしている。やっぱり僕自身が一番お気に入りのベーシストとして、すごい活動を続けているなあと、しみじみ感じ入ってしまった。今回の作品はこれまでの彼の音楽にちょっと距離を感じていた人にも、彼の世界を楽しんでもらえると思う。是非とも聴いてみてください。

 デイヴ=ホランド セクステット
「パス イット オン」

11/09/2008

世の終わりのための四重奏曲

寒くなってきた。今日も寒い一日だった。空はずっと暗いままだった。

世相も暗い。やはり経済のせいだろう。秋口に不景気が叫ばれ始めるというのは雰囲気が悪いものである。季節も経済も同時に冬になっていくわけだから、関係ないとわかっていても、妙に実感として気分がシンクロする。

仕事で市場経済の分析などということをなまじやっている自分が言うのも変かも知れないが、そもそも景気というのは経済のメカニズムが半分、人々の心理が半分というものだと思う。その意味では不景気は経済の病なのであり、「病は気から」というのも半分当たっているのだと思う。

世相が暗くなると思うのは、日本人はやっぱり先行きが大変とかそういう悲観論とか終末論みたいなものが好きなんだなあということ。それともう一つは、和の精神という一方で妬みとかひがみは、結構強いなあということ。具体的に何を見ていてそう感じるのかはまた別の機会にしたい。

そうは言っても、今日の経済が現状況に至ったのにはかなり明確な原因がある。いわゆるサブプライムローンに代表される、現在の金融システム運営の危うさがそれに当たる。日頃、そんなこととはほとんど無縁の生活をしているのに、いい迷惑だと感じている人もいるだろう。しかし忘れてはならないことがある。「カネは天下の回りもの」とはそういう意味ということだ。

先の金曜日の夜に、NHKの教育テレビで放映されている「芸術劇場」で、オリビエ=メシアンの生誕100年に因んだ内容のものがあった。前半が彼の代表作「世の終わりのための四重奏曲」の演奏、そして後半が9月に川崎のホールで行われた彼のオルガン作品の演奏会からの映像という内容だった。

メシアンについては、一度このろぐでもオルガン作品集を紹介したことがあると思う。元々が即興音楽だということもあるのかもしれないが、彼のオルガン作品には、本来そこに込められている宗教的なものよりも、ジャズやその後のフリーインプロヴィゼーションなどの即興音楽に通ずる音楽性を僕は感じる。だからメシアンの音楽はいわゆる現代音楽の中でも、他とは違う親しみ易さがあるようだ。

今回の放映された演奏も素晴らしい内容だった。「世の終わりのための四重奏曲」は自分でもCDを持っている。といっても、まだ入社して3年前後の頃に、音楽好きだった当時の上司からもらったものである。当時その人は、間違って自分が既に持っているCDと同じ演奏が収録されている廉価版CDを買ってしまったのだと言っていた。

少々変わった編成の四重奏だが、その理由も含めてこの作品に関する背景説明は、インターネットのいろいろなところに情報があるのでそれらを参照されたい。考えてみれば、ピアノとクラリネットを含めた編成というところが、ジャズのユニットに共通するところがあるのも親しみやすさに関係があるのかもしれない。

冒頭、不景気の話を書いた後にこの作品を紹介すると、何か「この世の終わり」を掛け合わせた終末論のように受け取られるかもしれないが、そういうつもりではない。そもそも作品の原題"Quatuor pour la fin du temps"の邦訳として「世の終わりのための四重奏曲」がふさわしいのかどうかということも、よく言われることであって、僕自身もこれには少し疑問を感じている。どうして「時代の終わりのための四重奏曲」ではなくて、「世の終わり・・・」なのだろうか。

やはり日本人は「世の終わり」が好きなのか、それは単に人の注目を集めるためだけなのか。今の世の中の状況についても、同じことを感じる。これは時代の変わり目なだけであって、世の中の終わりなどではないのだ。

まあそれはともかく、非常に素晴らしい音楽作品なので、まだ聴いたことのない方は是非ご一聴を。CDとして発売されているものであれば、きっとどれもそれなりにいい演奏だと思う。

11/03/2008

3連休の疲れ

文化の日を含んだ3連休。いずれも自宅からそれほど遠いところではないものの、僕らはいろいろなところに出かけ、いろいろな人やモノに出会った。いろいろなおいしいものも食べた。楽しい連休を過ごすことができたのだが、少し疲れてしまったようだ。

買ってからもう長い間ほとんど聴かずにおいてあった、フリー系の打楽器奏者アンドレア=センタッツォが主催するレーベル、"ICTUS"活動30周年を記念したCD12枚組のボックスセットの音源を、iPodに収録した。いままで大きな箱がずっとすぐ手の届くところに置かれていたのだが、どうも内容に向かう気になれずにいた。これから少しずつこれらの音源を聴いていくつもりだ。

ということで今回は簡単だがここまでにしておく。気候はどんどん寒くなってきている。風邪も流行っているようだ。皆さんも体調にはくれぐれもご注意されたい。

10/25/2008

ギターズ

アマゾンに注文したMacBookのハードディスクはすぐに届き、交換をしてシステムを再インストールすることで、なんとかMacは復活した。交換は簡単だが環境を整えるのは、結構手間のかかる作業だ。やっぱりバックアップは必要だと痛感した。

それから壊れてしまったドライブについては、外付け用の安価なUSB接続ケースを買って入れてみたが、やはり読み取ることはできなかった。どこかの宗教で唱えられているように、ディスクが何かの拍子に復活することを信じて、しばらくはそのままとって置くことにする。

そんなこともあって(というのは言い訳にすぎないのだが)、今週は仕事をしたのかどうかよくわからないような気分で、1週間が過ぎてしまった。金融の混乱ぶりは相当なところまで進み、少し前に自分たちが立てた見通しも、内容が当たったかどうかという以前に、あっという間に賞味期限が過ぎてしまったような感じだ。

こうなることは十分予測できたことではあるが、誰もそれを口にできなかった。希望的観測が先行して、そこまでひどくはならないんじゃないかという意見が多かった。悪くなるといった人もいるにはいたが、やはりその言い方は占いのように巧みだった。天気や経済の見通しは基本的には今現在の延長に大きく影響を受けるものだ。

最近買ったCDのなかから今回はマッコイ=タイナーの新作を。「ギターズ」と題されたこの作品、ロン=カーター、ジャック=ディジョネットからなるピアノトリオに、ゲストでギタリストを招いたセッションを収録するという企画である。

このギタリスト達の顔ぶれが面白い。マーク=リボー、ジョン=スコフィールド、ビル=フリーゼル、デレク=トラックスそしてベラ=フラックという面々である。かなり個性の強い人ばかりを選んでいるように感じられる。

いずれのセッションでも、構成やアレンジの緻密な作り込みなどはあまりなく、ジャムセッション的な和やかな雰囲気で進行してゆく。さながら大ベテランのトリオが毎日のジャムに少々飽きたので、ちょっと誰かギターでも呼んで遊んでやるかというノリである。

冒頭の短い即興演奏に続いて、マーク=リボーを迎えた"Passion Dance"がはじまる。マッコイのブルーノートでの名作"Real McCoy"で有名な曲だが、当のマッコイ自身がテーマで指がもつれ気味で「あれ、俺ってこんな難しい曲書いてたんだっけ」と苦笑いしているように思えて、それがどことなく微笑ましく聴こえてしまう。

マークをはじめとするギタリスト達はもう「大ベテランだかなんだか知らねえけど、俺は俺のやり方でやらせてもらうぜ」と、おかまいなしにこのトリオの懐の深さに存分に楽しんでいる雰囲気が伝わってくる。ジョン=スコによる"Mr. P.C."もかなり粗っぽい演奏に聴こえるが、随所で各人がさり気に聴かせるスーパープレイがさすがである。

唯一ギターではないのが現代を代表する超絶バンジョー奏者、ベラ=フラックである。ブルーグラスからジャズ、即興演奏まで幅広い彼の音楽は僕も以前から少し耳にしていたが、この作品に参加していると知ったときは、そのことでこの企画の意図を十分に語っていると感じた。彼が演奏する"Trade Winds"や"My Favorite Things"で聴かせる絶妙なプレイは、音楽が持ついろいろな意味での深さを再認識させてくる素晴らしい内容である。

面白いのはオマケでついてくるDVDだ。5人のセッションから1曲ずつセレクトし、スタジオでの演奏の様子がそのまま収録されている。ただすべてがいわゆるマルチアングルで収録されており、見る側は特定の演奏者だけをずっと見ることができるという、ちょっと教則ビデオ的な作りになっている。

僕の場合は、ベースのロンとドラムのジャックに固定してそれぞれの演奏技をじっくり楽しませてもらった。いうまでもなくいずれもなかなか貴重な映像である。演奏前のちょっとした打ち合わせなどレコーディングの雰囲気がそのまま味わえるのもうれしいオマケである。

今年で70歳になるマッコイだが、今回の作品の選曲にもこれまでのキャリアに対するなにがしかの大成の思いを込めていることは明らかだ。考えてみれば、彼の名を一躍有名にしたコルトレーンの黄金クァルテットについて言えば、いまやマッコイがその唯一の生証人なのである。2010年代に入れば1960年代は半世紀を過ぎることになり、それは僕自身も同じだけの年を経るということになるわけだ。

マッコイがこの企画を考えるにあたって、なぜギタリスト達と共演することを思い立ったのか、プロデューサーのジョン=スナイダー氏が綴ったライナーノートに少しそれに関する言及があるので、興味をお持ちの方は参照するのもいいだろう。

いろいろな楽しみをもったアルバムである。古い意味でのジャズにこだわる人には違和感もあるだろうが、僕にとっては実に素晴らしい作品だ。

McCoy Tyner "Guitars"

10/19/2008

ディスクとぶ

買って1年が経とうとしているMacBookのハードディスクが突然トンだ。マシンを落としたりしたわけでもなく、アプリを使っている最中に突然フリーズして命令を受け付けなくなった。仕方がないので、強制的に電源を切り、もう一度起動しようとしたが既にディスクは動かなくなっていた。

iPodのデータライブラリなどは別のMacに入れてあったので無事だったし、メールもブックマークもオンライン型のものを使っている。最近撮ったいくつかの写真とか、そういったデータが失われてしまったかもしれない。かもしれないと書いたのは、以前の経験からすると、動かなくなったハードディスクでもしばらくするとまた使える様になることがあるからだ。

アップルのサポートと電話で相談し、結局自分でディスクを交換することに決めた。無料の保証期間が切れるまでにはまだ2日間あったのだが、十中八九ディスク交換ということになるらしく、その場合古いディスクを返却してもらうにはお金がかかるらしい。幸いディスクの値段は随分安くなっている。僕はすぐにアマゾンに注文を出した。容量はいままでの2倍で値段は9000円だった。

ということで、本当はマッコイ=タイナーの新しいアルバムをご紹介しようと思ったのだが、それはMacBookが直ってからということにしたい。まあ2、3日のうちには戻ってくるだろう。

今回得た教訓は、やはりバックアップは必要だということだ。

10/11/2008

ホッピー

身の回りの要らないものを少しずつ処分しようと思い、使わないプリンターを分解してゴミとして処分したり、長らく押し入れに眠っていたMIDI関係の機材3点を、中古品として引き取ってもらうことにした。

今回得た教訓は「道具を衝動買いしてはいけない」ということ。本当に必要なものでそれをよく使うというのでなければ、自宅に備えるより外部のサービスを利用する方がかしこいという時代になった。使わない道具はダメになるのだから。いい状態で置いておくためには使わなければいけない。

メーカーに勤める人間としてはよーく考えなければいけないことでもある。いずれ買い替えるということを前提にものを作っていた時代はそろそろ転換点にさしかかっているようだ。

久しぶりに知人と飲む機会が2回あった。1つは以前の職場の後輩でジャズが好きな男との席。これは新丸子の焼き鳥屋でのこと。こぎれいな店内でなかなか美味しい焼き鳥を出してくれる。テーブルに置かれたこだわりの辛味噌がよい。音楽やら仕事やら家族のことやらといろいろな話を楽しんだ。

ちなみに新丸子駅前の手打ちラーメン「ゆうか」については、彼もそして彼の奥様もお気に入りのお店だったのだそうだ。先日妻と2人で会社帰りに立ち寄ったのだが、やはりその旨さにはあらためて唸ってしまった。肉野菜ラーメンはどのスープで頼んでも旨いし、一回り大きくなった餃子も最高であった。

2つめの飲み会は新宿に勤務する幼なじみとその同僚とのトリオセッション。僕はその日は遅い夏休みをもらって、髪を切ったり渋谷でラーメンを食べたり新宿をぶらぶらしたりして過ごした。いつも担当してくれる美容師から年内一杯で仕事を辞めるのだと言われ、理由を尋ねると結婚を機に一息つきたいのだという。お目出度いやら寂しいやらで少し複雑な気分だった。まあ年内にあと1回はお世話になることになるのだから。

知人との待ち合わせは紀伊国屋書店前だったのだが、金曜日の夜ということもあって大変な混雑である。少し時間があったが本屋で暇をつぶせない僕は、仕方なく同店の地下街をうろついてみた。小さな飲食店がいくつもあってなかなか興味をそそられる場所だと知った。

今回のお店は新宿サブナードの外れにある大衆酒場「トラノコ」である。ここで(自分でも意外ではあったが)僕ははじめて「ホッピー」を飲んだ。ホッピーはビールからアルコールを抜いたような炭酸飲料で、氷を入れたジョッキに焼酎を入れてそこにホッピーを注いで飲むのである。やっぱりホルモン焼きとか焼き鳥なんかには抜群の相性だろう。

ほのかに甘くて口当たりがいいのだが、最初からこれをぐいっとやってしまったので、これは酔っぱらうだろうなと予感した。話は折からの金融不安の話題で始まったので、4連休の初日から仕事を思い出させて有り難くなかったが、そこからまた家族の話や音楽の話などにどんどんすっ飛ばして会話が弾んだ。

お酒もおつまみも安くて美味しいので、なかなかご機嫌な酒席になった。途中熱燗に切り替え、何合か飲んだところでまたホッピーに戻りなどと蛇行したのも手伝って、今回は酩酊寸前のところまで酔っぱらってしまった。幸い無事に帰宅はできたが、満員電車の混雑と自分の中にある何かが障って、家に着く頃にはすっかり気分が滅入ってしまっていた。

ホッピーは楽しくもありあぶないお酒でもある。おかげで今朝はちょっと頭が痛かった。着ていたシャツや髪に酒や煙草や焼き物の臭いが染み付いていた。久しぶりの二日酔いである。まあたまにはこんなことがあってもいい。夏休みなのだから。

前回紹介したジョー=ヘンダーソンの"The Milestone Years"の全体を何度か聴き終えた。結局、iPodにはアルバム単位にわけて収め、それらをリリース順に何度か通して聴いてみた。

素晴らしさについてはあらためて書くまでもない。1960年代ブルーノートの名盤を彷彿とさせる"The Kicker"や"Tetragon"に始まり、1970年代のスタイルを確立した"Black Narcisus"や"Black Miracle"(いずれも超カッコいい作品!)に至るまでのステップをじっくりと味わって楽しんでいる。これは本当にいい買い物だった。

10/06/2008

ジョー=ヘンダーソン「マイルストーン イヤーズ」

音楽ダウンロードがとても便利で利用できる作品がどんどん増えてゆくので、CDの購入はしばらく抑えてきたつもりだった。ところが8月あたりからまたジャズを聴くことが多くなったのをきっかけに、またCDをいろいろと買うようになっている。

最近紹介したリーブマンらの「ペンデュラム」以降、そのあたりがかなり調子づいていて、ここ1ヶ月あまりで枚数にして十数点を買った。その中には久しぶりの大きな買い物も含まれていて、先日それがアメリカから届いてしまった。

今回買ったのはジョー=ヘンダーソンの"The Milestone Years"。その名の通り、ジョーがマイルストーンレーベルに在籍した1967〜1976年に収録された82曲を8枚のCDにまとめたBOXセットである。ここには12枚のリーダーアルバムと3つのゲストセッションが含まれている。

これを買うことになった経緯を簡単に。前回のろぐに書いたように、先週出かけたタワーレコードで、ジョーのマイルストーン最後のアルバム"Black Narcissus"が国内盤で復刻されているのを知った。1974〜5年にかけて製作されたこの作品は、当時のジャズシーンを色濃く反映する作品なのだが、試聴してみた僕の耳は1曲目からその素晴らしさの虜になってしまった。

ならばそれを買えばいいのにと思われるかもしれないが、その時僕の頭の中をいつもの計算癖が駆け抜けたのだ。2300円の国内盤は果たしていい買い物なのか?本当は自分でも欲しいと思ったら金のことなんか考えずに、その場でためらいなく買えればカッコいいのかなと少しは感じるのだが、どうも僕はお金には慎重な性格らしい。

とっさに頭に浮かんだのが、このコンプリートボックスのこと。仮に目の前のアルバムに満足したら僕はきっとその前のアルバム、そのまた前のアルバムというように、しばらくはこの時代のジョーの音楽を追い求めることになるだろうという、予感というか確信があった。それが何枚あるのかその時は知らなかったし、ジョーのマイルストーン作品で持っているのが初期の"Tetragon"1枚だけだということは間違いなかった。

ともかくその場でそれを買うのは必死の思いでガマンして僕は帰宅し、ネットにアクセスしてこのボックスセットの値段を調べてみたのである。結果、イーベイに出店しているところが45ドルと破格の値段であることがわかり、ペイパルが使えることも災いして即決購入と相成った次第だ。品物が届いたのは1週間後の土曜日の朝だった。

さてさて、内容の素晴らしさはもう想像以上のものであった。まだ通しで1回聴いただけなのだが、これを聴かずに素通りしなくて本当によかったと断言できる素晴らしさである。1960年代のブルーノート時代はもちろん素晴らしいし、1980年代のレッドレーベル、そして最後のヴァーヴ時代の諸作もいい。だけど本人の演奏技量の成熟に加えて、演奏される音楽の幅広さや奥深さということを考えると、マイルストーン時代のこれらの音楽は時代を経るごとに真価が出てきているように思える(もちろん単に僕の中でだけなのかもしれないが)。

セットは12枚のアルバムセッションを録音順に収録している。面白いのは、音楽性が前期と後期でかなり明確に分かれていることと、その両者の境界に位置するのが日本で収録されたライヴレコーディング"Joe Henderson In Japan"になっていることだ。

セットに付属しているブックレットには、レーベルプロデューサーであるオリン=キープニュース氏によるすべてのセッションに関する解説が載せられているのだが、この日本でのセッションに関する短い言及はなかなか興味深い内容である。

ここに含まれている音楽の何がどう素晴らしいのかについては、機会があればアルバム単位に紹介できればと思う。登場するメンバーが時代を追って変化してゆく様を考えるだけでも、楽しいものである。とてもその全部を書き記す余裕はないが、ハンコックやカーター、その後のエレキマイルスを彩った人たち、さらにはスタンリー=クラークやレニー=ホワイト、チェーリー=ヘイデンやアリス=コルトレーン、ジョージ=デューク、リー=リトナー、ハーヴィー=メイソンまで登場する。後半ではシンセサイザーはもちろん、ロン=カーターのエレキベースや、ソウルシンガーのフローラ=プリムとのセッションまであるのだ。

もちろん音楽は好みの世界だ。そこにいつの時代にも変らない何かを求めるのも悪くない。僕も以前はそうだったのかもしれないが、いつからか音楽にも変化の軌跡を楽しむようになった。そこに僕自身のいろいろな変化(気分や嗜好からもっと本質的な何かまで)が重ねられ、僕と音楽の関係性はその時々で一期一会のようなものになるのだろう。

いまのところ僕は音楽をそのように楽しんでいるし、しばらくの間それは変らないだろう。今回のジョーヘンのセットもその流れのなかの一つなのだが、明らかにそれは僕にとっても一つのマイルストーンになっている様に思う。

Joe Henderson
"The Milestne Years"

9/28/2008

ラッパを携えた男

また渋谷に独りで出かけ、ラーメンを食べてCDを物色しようと思った。博多ラーメンが食べたかったので、京王渋谷駅近くにある「博多天神」に行ってみたところ、お店の雰囲気が少し変っていて、店名は「博多風龍」となっている。店頭には券売機が置かれ、替え玉無料券を入れたかごはぶら下がっていなかった。

とまどってしまった僕はそのままお店をやり過ごしてしまった。こういう変化はどうも苦手だ。いっそ全然違うお店になっていてくれた方がまだいいのにと思いながら、そのまま味噌ラーメンの壱源に向かった。

ところが道玄坂から壱源のある路地を曲がろうとすると、その先を少し上がった百軒棚通りの角にまた「博多風龍」の看板を見つけた。博多天神が以前そこに出店していたのかどうか僕は知らない。でもそれを見た僕はこれはきっと天神がリニューアルしたのに違いないと思い、そのお店に入ることにした。それほど僕は博多ラーメンが食べたかったのだ。

博多ラーメンが一杯500円。それになんと替え玉は2つまで無料。さらに茶飯までがただでもらえるという。とにかく替え玉をしたかったので、茶飯は遠慮することにした。出てきたラーメンは博多天神のあの味と同じだと僕は思う。中国人か韓国人の元気なお兄さん達が店を切り盛りしている。満足だった。

今回もいろいろなCDに出会った。欲しいものはいろいろあった。ただそこはぐっとこらえて現代音楽の2枚組廉価盤を買うにとどめた。本当に買おうかどうしようか迷ったものがあったのだが、その欲も強引に押さえ込んだ。なぜなら、既に前日の夜にアマゾンでCD2枚を衝動買いしていたから。しかし、結果的にその抑制が帰宅後に大きな買い物をするきっかけになってしまったのだが、これについてはまた後日書くことにしよう。

アマゾンで買った2枚とは、いずれもマイルスの作品。1981年の"The Man With The Horn"と1984年の"Decoy"だ。前作は僕にとってはとても重要な1枚である。なにせ僕が初めてマイルスを聴いたのがこの作品なのだ。LPレコードはいまも僕の実家に置いてある。

1975年にリリースされたライヴアルバム("Dark Magus", "Agharta", "Pangaea")とニューポートジャズフェスティバルへの出演を最後に、マイルスは長い療養生活に入る。それは1981年まで6年間続き、その沈黙を破ったのが"The Man With The Horn"なのである。このリリース直後、マイルスは来日し新宿の高層ビル群をバックに演奏を行った。その模様はNHKでも放映され、厳密にはそれが僕の最初のマイルス体験となったのだ。

当時まだ高校2年生だった僕は、マイルスがどれほど偉大な人かも何も知らなかった。ただそこで演奏されるジャズともフュージョンとも異なる不思議な音楽はとにかく衝撃的だった。その後、大学に進んだ僕はマイルスの新作を追いながら、彼の音楽をどんどん過去に遡った。そうして僕はジャズの幅広さ理解したのだと思う。同時にコルトレーンからはジャズの奥深さを学んだのだと思う。

1987年の野外コンサート「セレクト ライヴ アンダー ザ スカイ」で来日した生身のマイルスを大阪万博公園まで観に行き、ラッパを吹きながら観客席に降りてきたマイルスを、わすか2、3メートルの至近距離で視るという有り難いハプニングもあった。

そして僕は社会人になり、3年目になった年の1991年9月28日にマイルスの訃報に触れた。これが僕のコンテンポラリーなマイルス体験だ。初めてマイルスの音を聴いてからちょうど10年が経っていた。そして今日は彼の17回目の命日にあたる。

いま一番好きなマイルスはと聞かれれば、1960年代後半のいずれかの作品をあげることになるだろう。そして僕は1950年代のマイルスよりは1980年代の演奏が好きだ。これは今後も変ることはないだろうと思う。

今回買った2枚のアルバムを僕はCDでは持っていなかった。いずれもLPレコードからダビングしたテープを通して何度も聴いていたから。そこから僕はいろいろなミュージシャンに出会った。マーカス=ミラー、ダリル=ジョーンズ、ブランフォード=マルサリス、ビル=エヴァンス、マイク=スターンそしてジョン=スコフィールド。

トラックでは、"The Man..."の冒頭2曲"Fat Time"と"Back Seat Betty"、そして"Decoy"の後半3曲"What It Is"と"That's Right"そして"That's What Happend"、これらの演奏は彼の生涯を通じた中でも珠玉のものだと思う。先に名前を挙げた6人の若き才能とマイルスのコラボレーションが実に見事である。

この後はポップチューンに進んでゆくことになり、それはそれで良さはあるのだが、僕にはそうしたスタンダード路線よりも、アドリブを中心とした80年代前半のマイルスが好きである。そこには1970年代のいわゆるエレクトリック・マイルス、そして1960年代の黄金クァルテットの時代同様、何ものにも縛られない果敢な音楽があるからだ。

Miles Davis
"The Man With The Horn"

Miles Davis
"Decoy"

9/21/2008

振り子

最近はネット経由で海外のレーベルやお店にCDを発注しても、結構早くに品物が届くことも多い。いつも世話になっているアランの店もそうだし、アマゾンなどに間借りしているカイマン等の安売り店でも、在庫があれば注文して1週間から10日間程で届くことも珍しくない。

さらに嬉しいことに、海外の通販で支払い方法としてPaypal(ペイパル)を採用するところが増えてきている。これは米国のネット販売大手ebay(イーベイ)が展開する決済方法で、簡単に言ってしまうと、支払いと受取りの双方がPaypalのアカウントを持っていると、Eメールアドレスと金額を記入するだけで、お金が送金できてしまうというものだ。もちろん個人間でも使うことができる。

8月の中旬にディスクユニオンのサイトで知ったCDセットがあった。3枚組なのだが、プレミアム性を売りにしているレーベルのもので、ユニオンの販売価格がやたら高かった。作品の存在を教えてもらっているので、悪いなあとは思うのだけど、結局は発売元のレーベルから直接購入することにした。送料込みでも2000円以上は得をしたと思う。

この作品を首を長くして待っていたのだが、届くのは少し遅かった。たぶん船便だったのだろう。到着するまでに約20日間ほどかかった。そしてようやくこの週末に僕の手元にやってきたのである。

作品は"Pendulum"というユニットのもの。メンバーは以下の通りである。

David Liebman (ts, ss)
Randy Brecker (tp)
Richie Beirach (p)
Frank Tusa (b)
Al Foster (ds)

このスゴイ顔ぶれによるユニットは、1978年にわずか1週間だけ、ニューヨークのヴィレッジバンガードに出演するために結成された。当時の演奏から3曲だけがLPレコード(本CDセットのディスク1に相当)として発売されただけで、長らく廃盤になっていたものらしい。

それがこの度、メデタクも米国の全集もの復刻専門レーベル"Mosaic Records"から突如CD3枚組のセットで発売されたのである。収録されているのは当時の演奏からオリジナルLPの3曲に加えて未発表の8曲を加えた、たっぷり2時間半の内容である。

ジャズが好きな人なら、メンバーについて特に説明しなくともかなり興味をそそられる内容だと思う。演奏内容はかなりストレートなジャズであり、かなりご機嫌なものである。リーブマンやリッチーのオリジナルに混じって、ショーターの"Footprints"やマイルスの"Solar"、コルトレーンの"Impressions"、さらには"Night and Day"や"Blue Bossa"といったスタンダードも演奏される。

実はまだしっかりとは聴けていないのだが、まあこのメンバーでやるライブにハズレがあるはずもない。その意味では、しっかりとしたコンセプトの元に作り込んだものというよりは、「よーし、一丁やるかあ!」みたいなノリで集まって、ぱあっと思う存分やってしまいましたという内容である。

これから少しビールをやりながら未聴のトラックを楽しみたい。最後が"Impressions"なのでいまから楽しみである。おっと"Blue Bossa"が始まった。。。うーん、やっぱりご機嫌。

ちなみにユニット名は日本語で「振り子」という意味。フリーやエレクトリックなどの荒波の後には、またストレートなジャズに戻ってくる、という意味が込められているのかもしれない。

あと、ついでに書いておくと、一応5000セット限定だそうだ。まあこの手の物としては十分な数が確保されているとは思う。国内であれば、タワーレコードやHMVの店頭、通販で取り扱いがあるかもしれない。ちなみにディスクユニオンの通販では既に完売のようだ。やはり聴くなら急げ!か。


PENDULUM
Live at the Village Vanguard
(Mosaicのサイトで試聴できます)

9/15/2008

食い道楽とブラクストン

長いこと手こずっていたレポートに一定の決着が見えたところで3連休に入った。途中でテーマの捉え方を大きくしてしまったことや、他の課題を工数と時間で解決しようとする仕事に巻き込まれたりしたことなんかが災いして、予定よりもずいぶん時間がかかってしまった。

あと少しというところまで来ていたが、週明けにやるにはまだ少し手がかかりそうだった。こればかりにいつまでも時間をかけていられないとの考えで、3連休の午前中はその作業をすることにした。せっかくの休みにそんなことをするのは不本意ではあるが、仕方がない。それでも午後から夜にかけてはじっくりと自分たちの時間を過ごすことができた。

この休み中で僕はまた一つ歳をとった。もう40歳台も半ば近くである。世に「アラフォー」という言葉があるらしいが、その最中にある妻に言わせればどうやら僕はもうその仲間ではないらしい。まあ別にどうでもいいことなのだが。

誕生日を祝って妻が何かをご馳走してくれるというので、何が食べたいか考えた。普段からすればちょっと贅沢なコース料理も悪くないのだが、安くてもいいのでもっとはっきりした満腹感で満足させてくれるおいしいものが食べたいと言ったところ、「具体的に」と言われ、とっさに頭に浮かんだのが渋谷のハンバーグ店「ゴールドラッシュ」だった。

3連休初日の午後に2人揃って渋谷に出かけた。妻は行ったことがなかったので、僕の話に期待と不安が半々という感じだった。今回はせっかくなのでしっかり堪能させていただこうと「ハーフ&ハーフ(普通のハンバーグとチーズハンバーグの組合せ)」を300グラムで注文、妻は同じものを200グラムで注文した。

300グラムとなるとハンバーグが3個、熱々の鉄板に乗せられてやってくる。それに店員さんがテーブルでソースをかけてくれ、ご覧の通りの有様となる。以前に200グラムを食べている経験からして、これはもうひたすら一定のリズムで食べ続けないと、途中で会話に興じたり休憩したりしようものなら、そこで終わってしまう。

100%ビーフでしっかりと練り上げられたハンバーグに、チーズとマヨネーズ、マスタードを織り込んだトッピング、これが非常にウマいのである。「ウマいウマい」を連発しながら、3個のハンバーグと付け合わせの大きなポテト、ミックスヴェジタブル、そしてライス1皿を無事に完食、妻もそんな僕のペースにつられて2個をぺろりと平らげてしまった。

これがその日午後2〜3時にかけての出来事で、さすがに2人ともその日は何も食べられなかった。僕は誕生日をいいことに4缶のビールを夜次々と飲んで満足した。少し前に購入してあったアンソニー=ブラクストンのDVDを聴きながら。

こんな調子で翌日も朝は仕事、午後にマンションのモデルルームを見学して(微妙な物件だった)、その後は夕方早くに新丸子の韓国料理「オモニ」で野菜チヂミ(旨い!)、ホルモン炒め(辛い!)、カルビクッパ(絶品!)を食べて、夜はビールと缶入りウィスキーとブラクストン。

続く月曜日も朝は仕事、午後に武蔵溝ノ口に出かけて和歌山ラーメンの「まっち棒」でラーメン、夜の食材とデザートを買って帰り夜は、妻が豆と野菜たっぷりのスープを作ってくれて、僕のカルボナーラと一緒に食べてデザートに銀座で話題のエクレア(まああんなもんでしょう)を平らげ、少し仕事をして、いまはブラクストンを聴きながらこれを書いている。

アンソニーは僕にとってとても大切な音楽家になっている。いつの間にか持っている作品も30枚を超えた。彼の精力的な創作活動は幸いなことにどんどんCD等になって発売される。いま気に入って聴いているのは、一番最近購入した"Nine Compositions 2003 (DVD)"である。

この作品、タイトル通りDVD作品なのだが、動画は入っていない。合計6時間以上に及ぶ9つの作品が1枚のディスクに収録されている。オーディオは通常のDVDと同じ24bit/48kHzの高品質のものだ。

収録されているのは2003年12月に開催された「ブラクストンフェスティバル」でのライヴ演奏と、その直後にスタジオ録音された作品。10分前後の小編成作品が5曲、12〜13人編成のアンサンブルによる60〜90分の長編が4曲収録されている。アルバムタイトルにもあるようにすべてはコンポジション、つまりあらかじめ作曲された音楽である。

こう書くと非常に散漫な作品かと思われるかもしれないが、これが非常に内容の濃い素晴らしい作品集なのである。その素晴らしさは冒頭の作品、かのライザ=ミネリ(!)に献呈された「作品328」からしてはっきりと伝わってくる。約1時間半という演奏時間はある意味長く、ともすれば漫然とした視聴姿勢を誘発しがちだが、ブラクストンの用意したコンテクストとその上で展開される彼の仲間達のアンサンブル(時にインプロヴィゼーション)は、常に緊張感を持続し、様々な音楽の表情を豊かに見せてくれる。

これが6時間も続くのだから、これはもう自宅でブラクストンフェスティバルが開催されているようなものである。一気に聴き通すのはさすがにいまの僕にはできないし、まだこのアルバム全体をじっくり聴き込むには至っていない。DVDからオーディオだけを抜き出してiPodに入れるやり方がまだわからない(手持ちのソフトでいくつか試してみたが上手く行かなかった)ので、これを聴くのは居間のオーディオセットか、DVDドライブのついたMacにヘッドフォンをつなぐしかないのだ。

とまあ、この3連休は、朝は仕事、午後は食い道楽、夜はビールとブラクストンというパターンでしっかり過ごさせてもらった。そうこうしているうちに僕はまた一つ歳をとった。ブラクストンのように精力的に活動し何かを残して生きたいと思うが、やはり彼は超人のようだ。


Anthony Braxton
Nine Compositions (DVD) 2003

9/07/2008

黒夢

まだ独身だった1997年頃、テレビの歌番組を視ていて気に入った曲があった。黒夢の「ナイト アンド デイ」という作品。静かな切ないメロディを持ったバラードだった。歌う清春の姿がまたカッコよかった。僕は住んでいたアパートのすぐ近くに当時あったレンタル店に行って、その歌が収録されたアルバム「ドラッグ トリートメント」を借りた。

黒夢というとヴィジュアル系といわれる人たちで、僕の興味とはほとんど無関係な音楽をやっているのだと思っていた。独特の奇抜な衣装に厚い化粧、そして派手なヘアスタイルの前髪の間から、怖そうで無関心な眼差しがこちらを伺っている、そういうものが頭に浮かんだ。しかしアルバムを一聴した僕はその考えを変えなければならなくなった。聴こえてきたのは強力だが自分にはずいぶんとしっくりと来るパンクロックだった。

確か秋の深まった頃だったと思うのだが、その年の年末に僕は少し体調を崩してしまい、予定していた実家への帰省を取りやめて、初めて独りでお正月を迎えることになった。たぶん体調の程度はそれほど重かったわけではなく、それよりもむしろ実家に帰らない口実が欲しかったのだと思う。

大晦日に渋谷に出かけ、フェアウェルセールでにぎわうディスクユニオンやタワーレコードでたくさん買い物をした。なにせ往復で3万円近くもかかる交通費がそれで浮いたのだから。最後に行ったタワーレコードで、大晦日恒例のダブルポイントをもらってカードが一杯になったので、それを使って結局気になっていた「ドラッグ トリートメント」を買ってしまった。

以来、僕は彼等の音楽のファンになった。意外に思われるかもしれないが、それ以降に出たライヴアルバムとラストのアルバム「コークスクリュー」の3枚のCD、そしてライヴの映像を収録したビデオを買い、それらはいまも僕の手元にある。ライブアルバムに付録でついていたポスターは、結婚してそのアパートを出るときまで部屋のドアの内側に貼ってあった。

こういう音楽は自分が演じているような気持ちになって聴きまくることが多く、自ずと内容は身体にしみ込んでゆくことになる。結婚してからは徐々にそれを聴くこともなくなったのだが、なぜかCDラックには2枚のスタジオアルバムが箱に仕舞われることなく置かれていた。

このところの忙しさや何となく仕事や会社に抱くやるせなさからか、2週間程前に急に彼等の音楽のことを思い出し、それこそ薬の代わりになればいいという思いで聴いている。10年前のいろいろな記憶をよみがえらせつつ、僕の疲れた心は彼等の音楽で奮い立たされた。クスリの効き目は抜群だったと言えるだろう。

僕のお決まり聴き方はこうだ。「ドラッグ トリートメント」を1曲目の"Mind Breaker"から7曲目の"Spray"まで通しで聴いて、その後12曲目の"Needless"に飛んで続く"Like A Angel"になだれ込む、そして最後に「コークスクリュー」収録の名曲"少年"を聴く。ここまで約40分ノンストップで彼等のギグを楽しむのだ。僕のいまの通勤時間にはこれがちょうどいい。

先々週や先週の会社の行き帰りはずいぶんとこれに世話になった。これを聴いている間、自分がどういう様子にあるのか、時によく覚えていないまま降車駅に着いたことに気づくこともあった。

彼等の人気の秘密はヴィジュアルよりも、やはり卓越したメロディーメイカーである2人から生まれる音楽の素晴らしさにあると思う。パンク調に入った後期においても激しいサウンドスタイルの中に美しく誇り高いメロディが息づいていて、それはいま聴いても決して色褪せるものではない。清春の歌詞は直情的に人の心をわしづかみにする。これに冷めてしまってはこの音楽を楽しむことはできないだろう。

もう一つ素晴らしいのはサポートメンバー、とりわけドラムを務めるそうる透氏の存在は強力だ。正確で揺れることのない強烈なビート、そしてそれをキープし続けるスタミナはライヴ映像からもしっかり伝わってくる。ドラッグトリートメント収録の歌詞が掲載されていない曰く付きの作品、3曲目の"Drive"から切れ目なしに続くパンクビートの嵐はもうひたすら圧巻である。

この音楽の僕にとっての中毒性のひとつがここにあり、僕がこのアルバムにひき込まれた大きな理由に彼のドラミングがあるのは間違いない。このスタイルはツェッペリンのジョン=ボーナムとともに僕にとってのロックドラムの一つの理想かもしれない。

おかげで少しは落ち着いてきたので、またいろいろと他の音楽を聴き始めている。今度これの世話になるのはいつのことかわからないような気がして、今回のろぐに書き留めておいた。

黒夢「ドラッグトリートメント」


黒夢「コークスクリュー」

8/31/2008

雷鳴

ある仕事に関わったことで、この木曜日から土曜日までの3日間、会社の研修施設に泊まり込むことになった。いわゆる合宿である。詳しい内容はとても書けないが、仕事や会社ということについていろいろなことを考えた3日間だった。もちろんこのプロジェクトを主催した人たちにとっても、それなりに実りのある3日間だったと思う。希望的な成果が少しあり、そうでない実感が少し深まった、そんなところだろうか。

施設は東京府中市の多摩川沿いにある。東日本全域で木曜日の夜から激しい雷雨が続いた。初日の夜中は特に雷が激しく、宿泊した部屋の窓から見える鉄塔や橋など高い建物にことごとく落雷する様が見られた。異常な閃光と轟音。日頃滅多に体験できるものではないので、僕は明かりを消した真夜中の部屋で、そうした窓の外をしばらく見続けていた。

雷の原理は理科で習う程度の理屈はわかっているつもりだが、輝く稲妻についてはともかく、雷鳴がなぜ起こるのか、そしてどうしてあのような音色になるのか、それがわからずにつくづく不思議に思った。しかしそこにある「電気的(エレクトロニカ)な音」の本質は、人工的な電子音の本来の姿をはっきり感じさせてくれる。僕はそこにある種の信頼感とか頼もしさの様なものを感じる。

仕事では僕は主催者のお手伝いをする役割なので、実際に検討の中心になって働いた人たちに比べれば、それほど忙しくしたわけではないと思うのだけど、やはり最終日にはすっかりくたびれてしまった。家に帰ったのは土曜日の夜だった。目の奥からじんわりとした疲れがわき上がり、それは日曜日の夜になったいまも残っている。外ではまた激しい雨が降ったりやんだりしている。

これで1つの仕事に一段落がついたことになるのだが、やはり明日から始まる9月のことを考えると、いろいろなことが僕を待っている。僕はそれらのことを考えながら、一方ではそれらと相対的な距離を置くことを考え、同じ期間の別の生き方について考えている。そうすることで僕は人生に膨らみを持たせることができる。

8/24/2008

15分の過去と未来

最近、またCDをちょくちょく買うようになっている。まだ手元には届いていないが、いま時点でも3つのCDアルバムを海外のサイトに注文していて、そのうち1つは3枚組のセットだ。今月は久しぶりにひと月に買ったCDの枚数が10枚になりそうだ。

音楽なら毎日聴いてるよと思っていても、特に新しい音楽に対する関心の強い弱いによって、この枚数は変るようだ。もしかしたら仕事が忙しいので、そのストレスを解消しようとしているという側面もあるのかもしれない。

音楽ダウンロードは便利だし、間違いなくこれからの音楽販売スタイルの主流だと思う。しかし、いまの時点では、簡易なスピーカーで聴いていても音質はやはりCDには劣るし、何かの間違いでファイルが開けなくなるという心配もある。だから本当に欲しいと思ったら、よほどのことがない限りまだCDを買うことになる。

しかし、やはり新品のCDを円建てで買うのは高くつく。僕が好んで聴いているマイノリティミュージックについては特にそうだ。その意味ではディスクユニオンのサイトなどで、面白そうな新作の情報を入手しては、申し訳ないと思いつつ海外のサイトからそれを取り寄せるということが多くなっている。送金に手数料がかからなくなったネットでの取引は、本当に有り難いものだ。

音楽を少しでも安く手に入れたいと思うのは、学生の頃に蒐集癖がついた名残だと思う。当時のアルバイトの収入からすれば、決して貧乏な学生生活ではなかったと思うが、そのほとんどを音楽とアルコールに回していた僕の生活は、周囲から見れば貧しい生活に映ったかもしれない。そういう僕の体験からは、欲しい音楽を手に入れる=CDを買うという感覚は、そう簡単に抜けそうにはない。

いま聴いているのは、日本人ベーシスト、菊地雅晃の「・・・15分なら過去にも未来にも行けるよ・・・」という作品。もう10年以上前の作品らしいが、ご本人のブログによるといまでもかなり納得のいっている自信作だとのこと。彼は日本のジャズピアノの巨匠「プーさん」こと菊地雅章の甥で、同氏のユニット「菊地雅章スラッシュトリオ」でもベースを務めている。

僕はこのCDを数年前にタワーレコードで買った。いまでもHMVのオンラインショップで取り扱いがあるようだ。内容はアコースティックベースのソロアルバムなのだが、マイクで拾った音を、コルグのアナログシンセモジュールなどを通して電子的に変調して独特の音世界を創造している。いわゆるフリーインプロヴィゼーションの作品だが、非常にしっかりした「作り」が感じられ、素晴らしい音楽だと思う。

雅晃氏は現在もいろいろと活躍しているようで、僕も是非一度ライヴを聴きに行きたいと思っている。ブログもなかなか面白く、「音楽 41泊45日」という最近のエントリーには、非常に共感を覚えた次第である。

だいぶん涼しくなった。忙しかったせいか、ちょっと身体が重い。風邪をひかないように気をつけないと、まだもう少し片付けなければならない仕事が残っている。

8/16/2008

ミステリー タイド

いわゆるお盆休みの週で、通勤の電車は比較的すいていた。僕も15日だけはお休みをもらった。しかし、どうしてもチェックしないといけない仕事があって、午前中の少しだけ職場に出かけるはめになった。人を頼りにしたいと思うのだが、それがなかなか思ったようにいかないというのは辛いものだ。

金曜日とそれに前後する3日間は猛烈に暑い毎日だった。そんな気候だったのと少し疲れがたまったのか、身体がだるくてどこにも出かけずに家でごろごろして過ごした。

土曜日の夜に世田谷区が主催する多摩川花火大会があったので、妻と2人で出かけた。妻もこのところあまり体調が優れないので、出かけられるのかと心配だったのだが、なんとか東急の多摩川駅まで電車で出かけ、そこから少し河原を歩いて適当な場所にシートを広げた。

結果的に花火を見物する場所としては、今ひとつだったのだが、川面からの涼しい風にあたりながらしばし夜空の下でのんびりした。僕らが座った場所は、打ち上げ場所からまだ2キロほど離れた場所だったが、結構多くの人があちらこちらに座って花火もそこそこに思い思いの時間を過ごしていた。

先週末に渋谷のタワーレコードで買ったエレクトロニカの作品を紹介しておく。アイルランド在住のアーチスト「ハルク」ことトーマス=ホウが今年リリースした作品「ライズ オブ ア ミステリー タイド」、直訳すれば「怪しげな上げ潮」とでもいうのか。

エレクトロニカといってもクレジットを見る限りは電子楽器は使用されておらず、チェロやクラリネット、バスーンといった楽器を録音して様々に加工して作り上げたと思われる、不思議な優しい音空間世界が広がる。渋谷タワーのニューエイジコーナーで試聴し、すぐに気にいってしまった。

トーマスはこれを完成させるのに18ヶ月間を費やしたらしい。自分で考える余地が少ない、人から言われた作業をして過ごす18ヶ月間のことを考えると、こんな濃密な成果とはほど遠いものだろう。


hulk
"Rise of a Mystery Tide"

8/10/2008

「スカイクロラ」を観る

8月9日土曜日。朝から髪を切って色を入れてもらいに行った。今回は暑いので髪を短くしてもらった。

このところ1年以上担当してもらっている美容師に、もし僕のヘアスタイルを自由にプロデュースするとしたら、どうしてみたいか聞いてみた。彼女とは毎回いろいろな話をするのだが、相手は接客モードなのでそんなことを聞いても愚かなことだとは思った。案の定、返ってきた答えはやっぱりはっきりしないものだった。いまとなってはどういう返事だったのかあまり覚えていない。

自宅に戻り、ケンタッキーで買ったチキンやビスケットなどを昼食として食べ、少し昼寝をした。夕方から妻と川崎に映画を観に行くことにしたから。

昨日に比べれば少し曇っていて過ごしやすい感じだった。上映時間まで少し間があったので、川崎ラゾーナで日用品の買い物をしようと立ち寄ってみると、広場のステージでD−51というヴォーカルユニットのステージが始まるところだった。歌はなかなか上手だし、曲も悪くない。30分程の短いステージだったが、こういうものを生で観ることはなかったので、とても新鮮で爽やかな気持ちにさせてくれた。

結局、買い物の時間はなくなったのでそのまま川崎チネチッタに直行した。

今回観たのは押井守監督の「スカイクロラ」。押井作品を劇場で観るのはこれが初めてである。以前から一度観てみたいと思っていたのだが、その度にいつの間にか公開期間が終わっているというお決まりとも言えるパターンが続いていたので、今回はそのあたりを断ち切る思いで行動を起こした。こう書くとずいぶん大層なことをしたような書き方だが、嫌みな感じがするだろうか。

この作品にひかれたのは、押井作品を劇場でしっかり観てみたいということと、予告編で観た戦闘機による空中戦のシーンの素晴らしさが主たる動機になっている。しかし実際に観てみると、作品自体が持つ深いテーマが僕自身のなかにある世界のドアをノックするような気がして、そのことが結果的に深い印象となって残る作品だった。

作品のテーマを形作る上で重要な設定となっている「キルドレ」によく似た考え方を、僕自身もずっと昔から持ち続けている。それは中学生ぐらいから心の中に芽生え始め、少しずつ形や周辺の設定を変えながら、結局いまに至るまで僕の心の中に居続けている。

社会人になったら、あるいは結婚したらそれはいつの間にかいなくなっているのかなあと、おぼろげに考えた時期もあったが、そうはならなかった。僕という人格のなかで無視できない存在になっているといった方がいいだろう。

キルドレの様な概念は、おそらくは現代の多くの人に共通しているものだと思う。僕のように積極的にそれを心のなかで飼っている(飼われているのかもしれない)人も少なくないだろうし、意識の底でその存在にほとんど気づかずにいる人も少なくないと思う。もちろんどちらがいいというようなことではない。

それはあまりにプライベートなものであるから、僕は自分のなかにあるそれについてこれ以上書くことはできない。作品に描かれたものが、原作者や監督のなかにあるそれの一部であることには、おそらく間違いはないとも思うが、これはそうしたプライベートなものをもっと普遍的な概念に翻訳して表現していると考えるべきだと思う。

作品は本当に素晴らしいものだった。テーマについてはもちろん、現代のアニメーション(もはやそう呼ぶのはおかしいのかもしれないが)が、こんなところまで来ているのかということに素直に驚きもしたし、絵作りだけでなく、台詞や物音にいたるまでの音作りにも感心した。もし観てみようと考えている人がいるなら、僕は積極的にお勧めしたい。

どんな映画もそうだが、この作品については最後のクレジットロールになっても席を起ったり気を抜いてしまわない方がいい、別に驚くようなことが起こるわけではないが、作品のイメージをはっきりさせて帰るにはそうした方が無難だとだけ伝えておきたい。

映画を視る前に偶然に楽しんだD−51とは真逆の世界ではあったが、僕のなかには程度の差はあるものの、どちらもしっかりとした印象を残してくれるものだった。今日もいい一日だったし、僕はまた前に進んだ。

スカイクロラ 公式サイト
D-51 オフィシャルサイト

エコー

8月8日の金曜日は会社の全社一斉休日だった。久々の3連休を楽しんでいる。

金曜日は予報通り東京はこの夏初めての猛暑日になった。せっかくの休みにもかかわらずなぜかじっとしていられない。日頃なかなかできない用事を済ませようという気持ちと、とにかく街に出かけてみたいと言う気持ちが入り交じる。

渋谷の証券会社に手続きをしに出かけ、その後、同じ筋にあるタワーレコードに立ち寄って、先週ガマンしたエレクトロニカ系のCDを買い付ける。その後、悪阻(つわり)がひどくて入院してしまった会社の同僚を見舞いに、恵比寿のとある病院へ向かった。

部下が入院したのでお見舞いに行かねばと、その程度のことしか考えずに教えられた病院に向かった。時間はちょうどお昼前、既に猛暑だったと思う。駅から10分程の道のりでは折りたたみの雨傘をさして歩いた。

病院はきれいな総合病院だった。受付で相手の名前を伝えたときに、自分が今日訪ねるのは産婦人科なのだということに初めて気がついた。本来の面会時間より時間がずいぶん早かったのだが、ナースセンターで相手の名前と僕の身分を伝えると、そこにいた看護士が本人に確認してくれ、産科病棟のロビーまで出てきてくれたので、なんとか面会は成立した。

新生児室とかは興味深かったが、他の妊婦さんが通路を通るたびに興味深げな視線を向けてくるので(当たり前だろう)、ちょっと不思議な居心地だった。当の本人は点滴をつけていて少しやせていたが、話をしたりするには何も問題はない感じだったので、僕はひと安心した。

生まれたばかりの赤ん坊の泣き声のする病棟を後にした。エレベータホールの近くできれいな女性が、何か不思議な仕草の体操をしている横でずいぶん長くエレベータを待った。外の日差しはさっきよりもいっそう強く僕を迎えた。

この日、妻は出勤で近々退職する同僚の送別会もあって帰りが遅かった。なので家でウィスキーを飲みながらステレオセットで先週から買い込んだ音楽を聴いた。今回はそのなかから特に気に入った1枚を紹介しておく。僕が大好きなピアニストのポール=ブレイと、富樫雅彦のデュオを収録した「エコー」である。

1999年にブレイが来日した際に企画されたこのセッションは。横浜のみなとみらい小ホールで収録されたもの。おそらくは観客なしのレコーディングセッションだと思われる。

この2人の音楽についてある程度知っている人からすれば、非常に魅力的な組み合わせに映ると感じることだろう。内容はその期待を十分超える素晴らしいものである。いちいち楽曲の解説はしないが、セッションに至る経緯がライナーにあってとても興味深い。

自分が音楽を演奏するなら、一番挑戦してみたいのはこうしたスタイルのものだと思う。それぞれの心あるいは身体の中にある音楽を、既存の楽曲によらずに自由に楽器を通して表現する。楽器を演奏する本当の目的とはそういうものだと思う。

もし既存のものを演奏するのなら、いまの僕にはジャズは難しすぎる。ロックとかブルースとか、ヴォーカルが入った(これも気に入った相手が見つかればの話だが)小編成のシンプルなものをライブ中心でやってみたいと思う。

この作品の魅力は、音色のニュアンスを十分に含んで表現される2人の演奏が、互いに呼応しあいながら展開されてゆく、その空間表現とでもいえるものである。何かの時にも書いたかもしれないが、演奏される内容はとてもヴィジュアルな表現を僕に感じさせる。ホールの残響はそのキャンバスとして素晴らしい役割を果たしている。


Paul Bley / Masahiko Togashi
"Echo"

8/03/2008

ドント ルック バック

このところの忙しさの主因となっていた仕事が、先週金曜日の朝に最終版の資料を提出してようやく落着となった。それなりに大事な仕事だと思うし、いろいろな資料の寄せ集めではあるがなんとかやり遂げたという自負もある。しかし要領の悪さやチームワークの問題もあって、過程や経緯に不満や反省を残す結果にもなったことはやや心残りである。

金曜日は会社で机上の整理をしたり、ちょっとした仕事を片付けたりしてある程度時間が過ぎたが、結局正規の終業時刻になる前に職場を失礼した。とにかく眠かった。先月は3日間の休出をした。僕にとっては異例のことだ。親父の法事などもありなかなかのんびりできる週末はなかった。

なのでこの週末は久しぶりにのんびりした。知人からご自宅へのお誘いなどもいただいていたのだが、それもお断りして自分の好きなように時間を過ごすことにした。先ず土曜日には久しぶりに渋谷に出かけた。渋谷は暑い東京でも特に暑い場所だ。

道玄坂の壱源でミソラーメンを食べ(やはりいつ食べてもウマい)、汗だくになりながらいつものCD屋巡りをした。ディスクユニオンジャズ館、レコファンそしてタワーレコード。このところ抑えてきたCD購入だったが、この日は割と積極的に欲しいと思ったものを買った。

いろいろと欲しいのはあった。特に最後に訪れたタワーは興味をそそるものがたくさんあったのだが、既にそれまでの2店で4枚のCDを買っていたので、今回はおあずけモードでガマンした。

レコファンで買ったCDにボストンの「ドント ルック バック」がある。懐かしさもあって以前から無性に聴きたかった。ダウンロードでも良かったのだけれど、自分にとってはかなり思い出深い作品なので手元に持っておくのもいいかなと思った。案の定中古品はダウンロードよりも安かった。

1978年発表というからもう30年も前の作品ということになる。僕は13、14歳で中学2年生の頃だ。いまでも自分で買ったLPレコードが実家にあるはずだ。僕にとってこの頃何度も聴いたアルバムというのは何枚もあるのだが、耳と身体を通して(このあたりの意味はお察しいただきたい)しっかり聴いた作品となると、そんなに数はない。これはそうした中でも特によく聴いた音楽だと思う。

自宅に戻って聴いてみる。たぶん20数年ぶりだと思う。まあ記憶というのはすごいものである。もうアルバムの隅々にいたるほとんどすべての音が頭のどこかに記録されている。それでもやっぱりいま聴くと自分の耳は肥えてしまったんだあということを感じた。

1曲目のタイトルナンバーのイントロに神々しいまでのオーラを感じていたあの当時からすると、それは普通のアメリカンロックという感じで耳に入ってきた。「ギターオーケストレーション」と称されたトム=シュルツの多重録音はやはり見事である、同時にブラッド=デルプが独りで重ね録りしたコーラスも素晴らしい。それらがいま聴くともっとカジュアルなものに受け止めることができたのは嬉しい気がした。

30分ちょっとの短いアルバムであるが中身はとても濃い。僕はとりわけ"A Man I'll Never Be"と"Used to Bad News"の2曲がお気に入りだった。どちらも非常に切ないメロディーと歌詞が魅力の作品だ。

他に買ってきたアルバムなども聴きながら昼寝をしたりして土曜日の午後を過ごした。どれもそれなりに魅力のある音楽のようだ。夜はこれも久しぶりにパスタを作って妻と2人で食べた。夜はまた音楽を聴きながらウィスキーをやったりした。暑い夜だった。

日曜日もお昼に近くの中華料理屋に食べに出かけた以外は家でゴロゴロして過ごした。昨日、買わなかった音楽のことが気になって、ネットでそれらを物色してみたり、エアコンをつけた部屋で昼寝をしたりしているうちに夜になった。妻の実家からいろいろなものが送られてきてその中に実家で採れたというミニトマトがたくさんあったので、それと鶏肉でまたパスタを作って夕食にした。

久しぶりにのんびりした週末が終わろうとしているいま、これを書いている。自分の周囲でいろいろな価値が回っているのを感じている。少し落ち着いてそれらについて考えてみたいと思っている。暑さは時に辛いものだが、もう少し続いて欲しいとも思う。


BOSTON "DON'T LOOK BACK"

7/27/2008

ウィスキーと夏の夜

暑い毎日。忙しさも手伝ってただでさえ湿って重く感じられる空気が一層身体や意識にまとわりついてくる。天気予報では、「夕方雷雨が」などというのだが、結局僕の行動範囲である南東京と川崎の周辺ではそれらしいことは起こらなかった。いっそのことざっと一雨降ってくれれば家も少しは涼しくなると期待するのだが、雷様はここまでは来てくれなかったようだ。

先週の3連休も初日に妻の誕生日を祝って久々にフランス料理を食べに出かけたが、それに続く2日間は会社に出て、9時過ぎから夕方6時頃まで黙々と資料作りに明け暮れた。それでも出来上がったものはしょぼい内容で、案の定クライアント(といっても事実上の上司なのだが)のお目には適わなかった。発注側も少々混乱気味でこちらにも言いたいことはあるのだが、そこは我慢である。

少し余裕がなくなってしまったので、ウェブ媒体に毎月2本書いて連載を続けてきた原稿を、今月は1本で勘弁してもらうことになった。まあ本業の片手間ということなので仕方がない。お世話になている編集部の方々には申し訳ないと感じた次第である。

そういう状況の中、妻が2泊3日の出張で小豆島に出かけてしまい、せっかくだからとそのまま実家のある広島に帰ることになった。なので僕は今日の日曜日までの5日間、独り生活をすることになった。どういうわけか久しぶりにウィスキーをボトルで買って飲んでみようかなという気分になった。なぜか暑い夏にロックのウィスキーが飲みたくなる。

忙しいのであまり早く家に帰れるわけではない。でも久しぶりにオーディオセットの前で、夜中にグラスを傾けて音楽に耳を傾ける時間が持てたのはよかった。仕事の疲れも少しは紛れるというものだ。単に酔っぱらって眠りやすいというだけかもしれないが。

唯一、金曜日の夜だけは妻の会社の人で、以前からちょくちょく飲みに出かけている人に木曜日の夜中にメールをして、飲みに行くことにした。今回は中目黒の安いお店をはしごした。1軒目は有名な「大樽」の本店。店内は賑やかで僕の座った席は煙害の不運が付きまとうのがどうしようもなかったが、内容的には満足のいく超低価格である。いまどき熱燗1合が150円とは。。。

2軒目は以前行ったことのある沖縄料理屋に行こうと思ったのだが見つけられず、結局これも前から気になっていた串カツ屋の「串八」へ。カウンターだけのこじんまりしたお店だが、こちらもとてもリーズナブルで、しかも料理はおいしい。

2人でiPhoneの話から音楽の話になり、それから先はかなりディープな話を聞かせてもらうことにもなった。2軒で相当飲んだのだが、それでもお会計はあわせて1万円に満たないというのはすごいことだと思った。危うく終電を逃すところだったが、運良く事故か何かで遅れていたので、無事に家に帰りつくことができた。

週末は土曜日にゴロゴロして一日が過ぎてしまい、日曜日は少しまた会社に出かけて仕事をした。2時頃会社を出て川崎のラーメン店「花月」でにんにく入りげんこつラーメンを食べ、思い出したようにiPodとオーディオを接続するケーブルを買い求めた。案外便利なもので、もちろんCDよりは音質は劣るのだが、まあ昔のカセットテープなんかよりは全然マシだし、iPodを接続するだけで充電もできてしまうという使い勝手もいい。もっと早く買っておくべきだった。

帰る電車の中で、小学校3、4年生位の男の子の兄弟が向かいの席に座っていて、2人揃って縁日かなにかの金魚すくいで得た金魚の袋をいくつか下げていた。ところがそのうちの一つがどう見ても水が少なく、中の金魚が口をぱくぱくさせて苦しそうなのがなんとも見ていて気になってしょうがなかった。よっぽどどこかで水をいれてあげてと言おうかと思ったのだが、ぎりぎりのところでそこまで行動には至らなかった。あの金魚は無事に家について水槽にいれてもらえただろうか。

これだけではあまりに不健康だと思い、夕方になって雲がたれ込めてきていたが雨はなんとかもちそうだったので、ランニングウェアに着替えて近所の多摩川沿いで少しだけウォーキングをした。もちろん腕を振ってお腹にぐっと力を入れて黙々と高速で歩く運動モードである。本の短い距離と時間だったが、いい気分転換と運動になったと思う。

音楽については、そういうことなのでいつもより聴く時間は長く、いろいろ聴いた。書いてみたいこともあるのだが、今週はお酒モードということでお休みにさせていただきたい。先週ご紹介した「サイレンス」はやはりいい。もしかしてウィスキーを呼び込んだのはあのアルバムのせいだったのかもしれない。

7/19/2008

サイレンス

このところCDを買い控えていたようなところがあった。仕事は忙しく、毎日通勤で聴くiPodの音楽と、家に帰って少し飲むお酒が楽しみという一週間だったので、なんだかつまらんなあと思っていた。そこに少し前にネットで注文してあったデヴィッド=マレイとマル=ウォルドロンのデュオ「サイレンス」が届いた。

これはいい!素晴らしい作品だ。演奏はもちろんのこと録音も素晴らしい。マレイもマルもすごく近くで演奏してくれる。僕は冒頭のバラード"Free for C.T."でもう圧倒されてしまった。マレイのバスクラが静かに響き渡るこの心地、これはもう快感である。ちゃんとしたステレオセットを通して大きな音で聴くともっといいだろうなあ。

タイトルの通り演奏は比較的落ち着いた曲が中心。マルの特徴と年齢を考えればそれも納得できる。収録されたのは2001年の10月とある。場所はマルが住んでいたベルギーのブリュッセルである。マルが76歳でその地で亡くなったのは2002年12月だから、おそらくはこれが最後のスタジオ録音作品だろう。「モールス信号」などといわれた彼のピアノスタイルはここでもしっかり健在だ。

とりわけ素晴らしいのは4曲目の"I should care"。ここでのマレイの美しさはどうだろう。彼のことを「フリーの多作家」と片付けている人には、いますぐこれを聴いて改悛していただきたい。これにマイルスの"Jean-Pierre"が続き、楽しい和やかなセッションが展開される。この曲調からしてマレイがじっとしているわけがない。彼の暴走ぶりは聴いてのお楽しみだ。

ラストはマルのオリジナル"Soul Eyes"。コルトレーン初め多くの人が取りあげてきた名曲である。マルの短くも美しいイントロに続いてマレイのバスクラがテーマを歌う。かっこいい。そして続くソロがこれまた激しい。そしてメインを勤めるのはやっぱり作曲者だ。これがマルの最後の演奏かと思うとジーンとくるものがある。うーん・・・。

暑い毎日ですが、これはエアコンを効かせた夜の部屋でグラス片手にゆっくり聴くのもよし、暑い部屋で扇風機にあたりながら麦茶で聴くのもいい。とにかく悪いことはいいません。是非とも買って聴いてください。この夏の大推薦盤!


「サイレンス」

デヴィッド=マレイ (ts,bcl)
マル=ウォルドロン (p)

7/14/2008

あれから一年

この週末、父親の一周忌をお祈りするために和歌山に帰った。暑い日曜日、法事は無事にすんだ。前日には母方の親戚が一席持ってくれた。こうして親戚が集うのも、貴重な機会といえばそうかもしれない。

とにかく仕事が忙しく、いろいろな種類のやらないといけないことが積み上がっていて、気持ちに余裕が持てない。加えて、とうとう本格的な蒸し暑さがやってきた。開放的な格好で会社に行きたいところだが、やっぱりそうしたことがはばかられるというのは、なにがしか窮屈なものだ。

父がいなくなって1年。僕はこの間もやはり前に進んだと思う。何も変わっていないと嘆きたい気持ちもあるが、実際にはそうではない。ただ前に進んだはずの自分にはやはり満足というかどこか納得のいかない部分がある。

僕は何かをした様でもあるし、何もしなかった様でもある。そんなことを振り返ってもしょうがないのだろうと思う。ただもう少しじっくりと何かをやりたいのだろう。ある技にもっと長けたいとも思うし、人を育てたいとも思う。何かを持った人と出会いたいとも思う。そういう思いとは裏腹に、日々は過ぎてゆく。

しばらくこの余裕のなさが続きそうだ。

7/06/2008

ホワット アイ セイ

週明けの納期に向けた資料作りが佳境の最中、僕のデスクで携帯がなった。イタリアに住む知人からだった。仕事で東京に来ているのだという。滅多にない機会なので、木曜日のお昼を一緒に食べることにした。ちょうど頭の中も行き詰まり気味だったから、何かいい刺激にもなればいいと思った。

会社近くの駅ビルにある韓国料理屋で石焼ビビンバを食べ、その後、喫茶店(「ルノアール」である)でコーヒーを飲んだ。話はお互いの仕事のことを当たり障り内ない程度に交換し、欧州の景気とかアメリカ経済のこれからとか、一応ビジネスっぽい内容に発展しかけたが、やはりこっぱずかしくなったように、突然に自然な転換をみせてお互い大好きな音楽の話になった。

「最近、何聴いてるんですか?」の問いに答えるかわりに、僕はiPodを彼に手渡した。カバーフローに流れるジャケット写真をパラパラめくる彼の嬉しそうな反応を見るのは、僕にとっても楽しい光景だった。彼は最近行ったマンハッタンの話を聞かせてくれた。

それからは「ドルフィーは聴けば聴く程スゴイ」とか、「エレキマイルスはなぜいつまでも輝き続けるのか」とか、ヌルいコーヒーを挟んでそんな話が続いた。ほんの短い間だったが気分のいいひと時を過ごすことが出来た。彼は相変わらず溌剌としていたし、ご家族も元気だとのことだった。

いろいろと細かい仕事が重なってきて、なかなか一つの仕事にじっくりというわけにはいかなくなってきた。考えてみれば、本来はもう自分が何かを作るというような身分ではないのかもしれない。そう考えると、組織の中で人間の能力というのは、ある次元においてはきちんと粒を揃えておかなければならない。

今週はいわゆる「エレキマイルス」の傑作「ライヴ イーヴィル」をよく聴いた。なかでも、"What I Say"と題されたロックナンバーを何度も続けて聴いた。しまいには、本アルバムのオリジナル録音である「セラー ドア セッションズ」全6枚分をiPodに戻して聴き直したり、DVD「マイルス エレクトリック」のワイト島ライヴ映像を見直したりと、いつもの集中癖が出てしまった。

セラードアの"What I Say"は、「ライヴ イーヴィル」にも収録されたヴァージョンが最も素晴らしいが、この曲の魅力として、壮絶なディジョネットの8ビートの他に、キース=ジャレットの歪んだローズピアノ演奏が実にカッコいいということに気がついた。キースは途中何度も叫び声をあげているが、それもそのはずである。特にマイルスがテーマを吹くまでの出だしの部分で展開されるソロがやたらと素晴らしい。

今日は日曜出勤してしまって疲れたので、この辺でやめておく。


「ライヴ イーヴィル」マイルス=デイヴィス

6/29/2008

ナイト アンド ザ シティ

iPodに入れる音楽を整理してみた。

いま僕の家には2台のiPodがある。以前使っていた初代のNano、そしていま愛用しているiPod touchだ。Nanoはtouchを買って以降しばらく出番がなく、箱に仕舞ってあったのだけど、少し前に調子が悪くなってきたCDラジカセに代わって、dockを装備したラジオ付きスピーカーを買って以来、すっかりまた毎日お世話になっている。

Nanoは食卓でのBGM中心に、割と聴きやすいスタンダードな内容のものを入れてある。ビル=エヴァンスやマイルスのコンプリートものとかは、そっくりそのまま入っているし、それまで食卓の横に積み重ねてあったCDのなかで、特によく聴いていたものも入れてある。4GBという容量は、16GBのtouchを使っていると物足りない様にも思えるが、たまに中身を入れ替えることで、気分転換にもなる。

今日は雨降りの1日だったので、それをやってみることにした。

いま持っているCDをすべて手放したとしたら、これからの僕の人生は大きく変わるのだろうか。そんなことを考えた。結局、聴きたいものはまた買い直すだろうし、それがCDではなくダウンロードになるのかもしれないが、同じ音楽であることには変わりはない。何となくだが、いま持っている音楽の3割くらいは買い戻すことになるのではないだろうか。結果的に人生は大きくは変わらないだろう。

何らかの理由で耳が聞こえなくなってしまって、音楽を聴くことが出来なくなったとしたら、僕はたぶん持っているCDをほとんど手放すことになるだろう。その時は音楽を買い戻すこともなくなるだろうし、僕の人生は大きく変わることになると思う。それでも、その場合は音楽だけではない他の楽しみも、やはり大きく変るのだろう。

いろいろな楽しみから音が消えたら、それらの楽しみ方もやはり大きく変るのだろう。結果的に僕は本をたくさん読む様になるのだろうか、それとも苦手な絵を描くことを始めるのだろうか。それとも音のない映像を作り続ける様になるのだろうか。理由はわからないが、いまやりたいと思いながらもなかなか出来ないでいる、何かを作るということに没頭することになると思う。そしておそらくそれは映像だろう。

僕は音のない(あるいは少ない)映像が好きだ。それは音声のトラックを切るという意味ではない。僕が苦手なテレビは音を切って流すこともあるけど、僕が作りたいと思っている映像は音が少ない映像、もちろん中に出てくる台詞や音楽も少ない。以前は、ある音楽のイメージを映像化するというようなことに興味を感じたこともあったが、いまは映像そのものでの表現に興味がある。

そして僕の映像の主役はやっぱり「人」だ。いつか自分も何か映像の作品を作ってみたいと思う。

iPodの音楽を入れ替える、といっても内容をそっくり入れ替えるということはない。定番を外してしまうのは寂しいものである。ただ前回に入れた中には結果的にほとんど聴かれなかったものもある。これは日常的に使っているtouchでも同じだ。入れたときはその気でも、翌朝になると昨夜入れたことすら忘れてしまっていることもよくある。容量が大きくて曲数が多くなるとなおさらそうである。

Nanoの中にCDラジカセを使っていた頃はしょっちゅう流していた作品を、まだ入れていなかったことを思い出した。ベースのチャーリー=ヘイデンとピアノのケニー=バロンによる極上のデュオ演奏をライヴで収録した「ナイト アンド ザ シティ」という作品である。

これは間違いなく我が家の食卓で最もよく使われている音楽だ。落ち着いていて雰囲気のある7曲は、どれもじっくり聴くことができる非常に優れた名演であるのだが、別の意味で演奏者の強い主張というよりは、聴く人を落ち着かせてくれる演奏になっている。決して当たり障りのない演奏ではないのだが、そのように聴くことも出来るところが魅力なのである。

今回、これを書くにあたってあらためて少し大きめの音でじっくり聴いているのだが、こうして聴いてみるとこれはまったく凄いデュオ演奏である。達人の余裕とはまさにこういうことだろう。美しいタッチから時折さらりと飛び出すバロンのテクニックが見事かと思えば、ヘイデンのベースソロは終始メロディアスに優しく響きわたる。

夜が更ければふけるほど、この作品の味わいはいっそう深まっていくことだろう。またNanoのなかに定番が1つ増えてしまったようだ。


Charlie Haden, Kenny Barron
"Night and The City"

6/22/2008

イースタン・プロミス

何年かぶりで映画館に行った。しかもミニシアターではなくいわゆるシネコンで上映されるロードショーである。川崎ラゾーナにある109シネマズに行くのは初めてだった。

今回観たのは「イースタン・プロミス」という作品。監督は「スキャナーズ」「ザ・フライ」などリアルな肉体損傷シーンで知られるデイヴィッド=クローネンバーグである。

この映画に興味を持ったのは、先々週に和歌山と神戸に行った際、新幹線に乗る前に立ち寄ったコンビニに置いてあった女性向けのフリーペーパーの記事を見たことがきっかけだった。小さな囲み記事での紹介だったにもかかわらず、なぜかそれは僕の興味を強く惹いた。こういうことはこれまでにも度々あったが、大抵はミニシアター系の作品であることが多く、なかなか実際に映画館まで足を運ぶまでには至らなかった。

映画の詳細は公式サイトを見ていただければと思う。タイトルの意味は、東欧で行われている少女を中心とした人身売買のこと。舞台は現代のロンドンである。僕の記憶では映画の中で太陽の光があたるシーンはほとんどなかったと思う。

この作品では、従来のクローネンバーグに必ず出てくる暴力的な怪物などは出てこない。出てくる怪物は人間社会が形成した大きな組織である。タイトルにはそうした組織の「掟」という意味も重ねられていると思う。

とにかくこのところほとんどメジャーな映画を見ていないので、出演する役者のこともよく知らないまま臨んだわけだが、主演のヴィゴ=モーテンセンの演技はいろいろな意味で素晴らしかった。そしてもう一人の主人公で、ソ連製の大型バイクを転がす助産師を演じるナオミ=ワッツも魅力的だ。後にプロフィールを見て知ったのだが、彼女はピンクフロイドのサウンドエンジニアを勤めたピーター=ワッツの娘らしい。そこにもこの映画との何かのつながりを感じた。とても今年で40歳なる女性には見えなかった。

この作品は日本ではR-18指定でいわゆる成人映画になっている。作品のテーマを考えれば、もう少し年齢を下げてもいいのではないかとも思わないでもなかった。現代社会においては。高校生にもなればこのくらいの価値をしっかりと受け止められる人間で本来はあるべきではないか。

監督お得意のバイオレンスシーンも劇中いたるところに仕掛けられている。今回は妻も一緒に観に行ったのだが、あとで聞くとその辺はかなり目を細めての鑑賞だったらしい。見せ場は公衆浴場での乱闘シーンだが、詳細は観てのお楽しみだ(かなりの内容なのでそれなりの覚悟が必要ではある)。

全編を見終わった直後は何か物足りなさを感じるのも事実だが、そのことが却って後々作品のことを振り返らせ、味わいを深めさせてくれる。ラストで交わされるキスシーンは実に見事だ。

久しぶりに大きなスクリーンで観たということも手伝ってか、2人とも心に強く残った映画であることに異議はなしというのは共通の感想であった。僕が最初にフリーペーパーで知ったときに受けた印象とはかなり違った内容のものが深くあとに残った。それは暴力とか人身売買はいけないという様な単純なものではないと思う。人間やその社会とはこういうものだという表現、それがこの作品の第一義にある。

「イースタン・プロミス」公式サイト

マイク=スターンを観る

ブルーノート東京にまたマイク=スターンがやってきた。僕の記憶では、お店がまだ骨董通りにあった頃から毎年のようにやってきていて、お店の恒例行事の様になっている。

僕が勤めている会社の中国にある現地法人から、東京の本社に一人の中国人女性が研修でやってきている。彼女はこの春から僕の職場にも数ヶ月間だけ顔を出すことになっていて、調査のお手伝いをしてもらったりしている。研修の目的自体は「本社での人脈作り」とか、いまひとつ判然としないところもあって、ちょっと気の毒に思えるところもあるのだが、彼女は彼女なりに日本の生活を楽しんでいる様なので、まあいいのかなと割り切ることにしている。

短い期間では仕事で具体的に教えてあげられることもあまりないので、日本や東京そのものをいろいろ体験してもらうことも、その大雑把な研修目的からすれば案外はずれていないだろうと思い、いろいろなところに連れていってあげようと思ったのだが、実際にとなるとなかなか実現するのが難しい。

ちょうど仕事が一段落したこともあって、彼女をブルーノートに連れて行ってあげることにした。ジャズのことはあまりよく知らない(当たり前か)ようだったが、マイクの音楽はある意味わかりやすいし理屈抜きに楽しめるだろうと思った。

今回も4人編成だったのだが、いつもと違うのはサックスではなくトランペットを入れていたこと。そのトランペットがランディ=ブレッカーだというのは今回のグループの大きな楽しみでもあった。リズムの方はドラムにデイヴ=ウェックル、ベースにクリス=ミンドーキーという組み合わせ(いずれもなかなかのイケメンである)。これならもういつもの盛り上がりは約束されたようなものだ。

久しぶりのブルーノート。前回いったのはもしかしたらマイクだったかもしれない。今回は2日目火曜日のファーストセット。お客はだいたい7〜8割の入りだろうか。後方のテーブル席に座ったのだが、4人掛けの席を2人で利用することができた。このお店もいろいろ苦労しながらも頑張っているようだ。

内容はいつもの「マイク流」ギグだった。新しいアルバムが出たらしくそこから2曲演奏したようだが、それも含めていつもと大きく変わり映えしない。アップテンポで始まり、少しずつテンポを落とした曲が3曲続いて、最後はおなじみのドラムソロを大きくフィーチャーしたアップテンポの曲で盛り上がる。何かこうかくと単調な感じがするかもしれないが、僕が期待していた内容はまさにこれなのだから、何も不満はない。

ランディのペットは思ったよりもずっと健闘していた。エレクトリックのエフェクターをかけた音色中心だったが、途中、マイクのギターと掛け合いで演奏されたバラードで聴いたナチュラルなオープントーンは、ビックリする程きれいだった。最後の曲では、テーマが複雑で明らかに練習していない感じのランディではあったが、それもまあご愛嬌だろう。

ウェックルのドラムも、前回のデニス=チェンバースとはまた違った意味でのスゴ技は健在で楽しめた。デニスの千手観音+勝手に変拍子はもちろん聴き応えも楽しみもいっぱいだが、正直マイクとの組み合わせでは、DVDも出ているのでやや食傷気味だったから、今回のウェックルはいい選択だった。

ベースのクリスははじめて生で聴いたが、これがまた素晴らしかった。ウッドベースと同じポジションのアプライト型ベースと、通常のベースギターを交互に使いこなしていたが、リズム演奏もソロ演奏も素晴らしく、とても気に入った。さっそくアルバムをチェックしてみようと思う。

前日の演奏がどうだったのかわからないが、ファーストセットにしてはなかなかの盛り上がりで、マイク自身も終始ご機嫌だった。"You are very beautiful! Tahnk you!"を繰り返しながらいったんステージを降りたものの、アンコールに応えてくれた。

珍しくウェックルがカウントをとったと思ったら、始まったのはブレッカー・ブラザーズ・バンドの名曲"Some Skunk Funk"だった。これには僕も意表をつかれてしまい、同行者のことも忘れて狂乱してしまった。ランディの超絶はここでも健在で、結果的には大満足なライブだった。ステージを去る通路でマイクの手を握らせてもらったが、柔らかくて暖かい大きな掌だった。

中国人の彼女もとても満足してくれたらしく、「やっぱり本物の演奏は違う」と喜んでくれた。北京でもマイクの演奏がこうしてたまに聴ける様になるのも時間の問題だと思う。音楽はビジネスと違って、難しいことを考えなくても広がっていくものだ。また次にマイクがやってきたら、僕は足を運ぶに違いない。

(おまけ)YouTubeからブレッカーブラザースの演奏する"Some Skunk Funk"を。ギターにマイク、ドラムにデニスという豪華版(どちらもソロはない)である。在りし日のマイケルと今回観たランディーの強烈なソロが楽しめる6分半の演奏をお楽しみください(要ヘッドフォン)。

6/15/2008

ゆうかのラーメン

秋葉原の事件から1週間が経った。いろいろな真実が明らかになる一方で、模倣犯も後を絶たない状況である。小林多喜二の蟹工船がベストセラーになっているという話も聞く。それが正しいのかどうかはわからないが、個人的にはようやくそういう方に状況が向かいつつあるのかという気がする。

これまで何ももの言わぬ、あるいはもの言えぬ状態だった人たちも、やはり何かを表現しなければ始まらない。その舞台が政治なのか芸術なのか、そんなことはどうでもいい。そういう状況に追い込まれなければならないのだとすれば、それはやはり世の中にとて必要なことなのだろうと思う。

この一週間は仕事もそこそこにあって、割と淡々と毎日が過ぎていったように思う。帰りが遅かったりすることはなかったのだけど、会社と自宅を行き来する以外には、さほど大きな出来事もなかった。

週末は以前からやらせてもらっている月次の連載原稿に取り組んだ。今回から2000字を一つの単位として、それを毎月2本提出することになった。まあ小遣い稼ぎにはちょうどいいのだが、書くネタがあるのとないのとでは苦しみようもずいぶんと異なる。2000字というのも意外に難しいものである。今回は仕事の合間に少し構想を描いていたので、なんとかそれらしいものを書くことはできた。もう少し自分の情報発信として意識して取り組めば、面白い展開にもなるかもしれない。

土曜日曜と続けてお昼に妻と外食した。といっても特に贅沢なことをするわけでもなく、土曜日に向かったのは最近訪れて気に入っている新丸子のラーメン屋「ゆうか」である。少しメニューが簡略化され、2種類あったスープは1種類になって、名物の手作り餃子は以前より大きくなっていた。

いま、ラーメン屋さんも経営が大変な時期だろう。それでもここの店主は自家製の手打ち麺で頑張っている。この麺が何とも言えない心のこもったメッセージを伝えてくれる。4種のスープで展開する肉野菜ラーメンもこのお店の名物である。

妻にはミソ味の肉野菜ラーメンを勧め、僕は普通のとんこつラーメンを注文した。どちらのラーメンもとてもあたたかい店主のメッセージが伝わってくる。新丸子周辺に赴かれる機会がある方は、是非とも立ち寄られることをお勧めする。店主は一般的イメージでは必ずしも愛想のいい人ではないが、そこはラーメンがしっかりとフォローしてくれるはずだ。食べたあとの満足感はこの近辺では随一ではないだろうか。

というわけで今回は原稿書きに疲れてしまったので、この辺で。

6/08/2008

ナウ ヒー シングス ナウ ヒー ソブス

楽しく慌ただしい、そして最後に神妙な気持ちにさせられた1週間だった。こんなにいろんなことがいっぺんにあった週も珍しかったのでないだろうかと思う。

仕事では新しいレポートを立ち上げた。一緒にやっている人間といろいろな議論をした結果、ようやく一つの形にまとめられたもの。ただ立ち上げただけではダメで、これが自分たちの意図する結果につながるまでしつこくやり続けることができるか、それが自分たちに厳しく問われている。先ずは始めの一歩である。

レポートの製作が最終段階に向け佳境にあった水曜日の夜、大学時代からのバンド仲間でいまは中国に単身赴任している男が出張で東京にやってきた。久しぶりだったし、滅多に会う機会がないだろうからと、会社近くの居酒屋で食事をし、そのあと彼が好きそうなお店ということで六本木「バウハウス」に連れて行ってあげた。

演奏は相変わらずハイレベルでご機嫌だったのだが、客席が淋しかった。午後10時からのメインステージのスタート時は、僕ら2人しかお客がいなくなってしまった。気がつくと、席のレイアウトも以前と少し変っていて、テーブルでしっかりボックスを作っているところをみると、このところはいつもこういう感じなのかなあと気になった。あれだけの実力を備えたロックの殿堂なのだから、なんとか頑張って欲しいものである。

友人は仕事のぼやきを続けることもなく、あきらめ半分で中国の単身生活をエンジョイしているようだった。彼の口から直接聞く現地のいろいろなお話は興味深かった。それにしてもいろいろな意味で大変な国である。

金曜日の午前中にレポートを発行し、午後はお休みをもらって和歌山の実家に向かった。以前から計画していたのだが、このところ関西に行ってもなかなかそちら方面の友人達とゆっくり飲める機会がない。これからはその機会もますます少なくなるだろうから、一度、そのために時間を作ろうと決めたのだった。金曜日の夜、和歌山在住の幼なじみと飲み(彼とは最近しょっちゅう飲んでいる気がするが)、その日は実家に泊まり、翌日少し片付けをしてから神戸に赴き、いまは再び関西に集結したバンド仲間と飲むことにした。

和歌山では僕のリクエストでお店を決めてもらった。和歌山駅前にある大衆割烹「丸万」がそれ。以前から気になっていたのだが、なかなかのれんをくぐれずにいた。県庁に勤める幼なじみの彼は以前一度行ったことがあるというので、今回つきあってもらうことにした。

幸いお店はほどよい混み具合で、店主初め気さくなお店の人たちの雰囲気に安心して、ゆっくりと飲むことができた。名物「どて焼き」「湯豆腐」はとても旨い。他にも豆アジのフライやら一口カツやら、おすすめの料理を次々に出してもらった。大正時代の創業以来、日本酒の老舗菊正宗にこだわり続けたという熱燗は、そろそろ蒸し暑くなってきたにもかかわらず、僕にはほっとさせてもらえた味だった。

翌日はいつもと同じ時間に目が覚め、父親が物置代わりに使っていた小さな部屋を少し整理した。狭いスペースから本当にいろいろなものが出てきた。いちいち吟味していてはきりがないので、要領よく片付けた結果少しはきれいになった。お昼までにはすっかりくたびれてしまった。一度開け放ったすべての窓を再び戸締まりして、僕は実家をあとにした。

在来線で大阪に向かい、そこでいつもの定番「インディアンカレー」阪急三番街店でカレーを食べた。2時を過ぎていたので行列はできていなかったものの、相変わらず繁盛しているようだった。僕が初めてあのカウンターに座って25年が経とうとしている。以前と比べて変ったのはお客の注文。大盛り卵入りルーダブルという声をよく耳にする。みんな贅沢になったのか、せめてこのお店では贅沢をしようといういう想いなのか。僕はまだルーのダブルを注文したことはない。というかその必要は感じない、普通で十分なのだ。

梅田の街をぶらぶらしてから、阪急電車に乗って神戸三宮へ向かった。安いビジネスホテルにチェックインし、少しベッドで横になった。夜は三宮にあるもつ料理のお店「もつ鍋五臓六腑」三宮店に席をとってもらってあった。ここは以前恵比寿で入ったお店に近い感じで、きれいなもつ居酒屋である。もつ鍋のコース料理を4人で注文したが、牛レバ刺しと生センマイの刺身盛りとお店の看板もつ鍋はやはり旨かった。鍋には追加でいろいろなモツを注文して入れてもらったが、やはりホルモンが一番旨いと思った。贅沢は禁モツである。

久しぶりに4人で集まったのだが、皆少しやせたというか身体がこじんまりしてきたように見えた。二軒目はこのメンバーなら恒例、加納町のジャズクラブ「Y's Road」へ。予想通り(失礼)店内は閑古鳥だった。しばし4人で貸し切り状態でジャズを聴きながらウィスキーを飲んだ。マスターは1950年代のピアノジャズを中心にかなりのこだわりを持つ人。僕の様な変耳とは相容れないだろうが、このお店でそうしたジャズを聴くのは悪くない。ジョニー=グリフィンやらアート=ファーマーといった音楽が次々に流れた。

途中で2人が先に帰り、最初に出てきた中国からの男とともに大学時代から一緒にしている男と2人で、夜遅くまでいろいろな話をした。2人程お客が来てカウンターに陣取ってマスターと話をしていたので、僕らは僕らのいろいろな話に花を咲かせた。彼もいろいろな人間関係の問題に煩わされたりしているらしく、そうした話も含め、音楽やらいろいろな趣味の話を続けた。

2連チャンでこうした飲み会をするのは確かに身体にはこたえるものだが、今回はその覚悟できていたので望み通りの時間を過ごさせてもらった僕は幸せ者であると思った。やはり持つべきものは友、そしてやるべきことはいろいろなお話である。話のないところには何も生まれない。

結局、翌日はもう特にやりたいことも行きたいところもなかった、というか2日間に十分満足して少し疲れたので、予定を大幅に早めてお昼過ぎに東京に着く新幹線で早々に帰ることにした。結果的にはそのことが僕にある運命を感じさせることになった。

そのまま川崎のアパートに帰ってもよかったのだが、せっかく日曜日だし新幹線で東京駅まで行けるので、秋葉原に少し立ち寄って以前から気になっていた、iPodをオーディオコンポにつなげるケーブルなどを少し見てみようと思った。他にせっかく行くのだからソフト関係のお店にも行ってみようと思った。別にどちらも何かを買い求めにいくわけではなかったので、まあどうでもよかったのだが秋葉原駅のホームに降りた僕は、一瞬どちらに先に行こうかなと考えた。

軽い気持ちで先にソフト関係のお店に行き、そのあとメインストリートにあるMacの専門店にお邪魔しようと考えた。改札を出たのは午後0時30分を少し回ったところだった。僕はそのままメインストリートには向かわず、先ずは最初の目的地がある方面に行こうと秋葉原UDX方面に歩いていった。途中、路地から一本先のメインストリートを眺めると、いつものようにたくさんの人が歩くのが見えた。今日は歩行者天国の日である。

そのままお店のある雑居ビルに入り10分程店内を眺めて外へ出た。Macのお店があるメインストリートに向かおうとするが、様子がおかしい。人だかりができていてサイレンが鳴っている。火事かなと思いながらそれでも目的地の方へ行こうとすると、警察の人からこの先には行ってはいけないといわれた。救急車が次々と到着する様子に交通事故か火事か何かかと思いながらも、もう疲れていたので今日はいいやとあきらめて帰ることにした。

事件のことを知ったのは、そのあと近所のラーメン屋で昼飯を食べて家に帰ってネットを見てからだった。このろぐを書いている時点で17人の方が死傷してしまった。概要を知って驚いたのは、あの時もし僕が先にMacのお店に出向いていたら、改札を出た僕はそのまままっすぐ犯行時間にその現場を歩いていたことになることを理解したから。

人の運命とはそういうものかと言ってしまうのは簡単だ。何を買うつもりでもなく、ただぶらぶらしてどちらのお店に先に行くかなどどうでもいい選択のはずだった。でもそれはもしかしたらとてつもなく大きな分かれ目になっていたのかなと思うと、いやでも神妙にならざるを得なかった。いまこうして慌ただしい一週間が終わろうとしている。

行き帰りの新幹線ではいろいろな音楽を聴いた。その中から最近気にいって聴いているチック=コリアの有名なピアノトリオ作品をあげておく。タイトルの"Now he sings now he sobs"は「あるものは歌い、あるものはむせび泣く」という意味だが、中国の古典「易経」に出てくる一節「或泣或歌」の英訳であることは、オリジナルのライナーかあらも伺える。この世は偶然と必然の織りなすものだ。その結果に人は泣いたり喜んで歌ったりする。それはどうしようもないことでもある。


チック=コリア「ナウ ヒー シングス ナウ ヒー ソブス」
 
←国内盤は現在廃盤ですが、輸入盤はアマゾンでも簡単に手に入れることができます。

5/31/2008

カート=ローゼンウィンケルを聴く

もつ料理に意識が傾いた状態が続いている。今週も仕事関係でこじんまりと呑みに行く機会が2度あって、いずれも僕の希望もつ系のお店を会場に据えて開催してもらうことにした。

1回目は水曜日の夜、会社近くのオフィスビル地下に入っている「もつ兵衛」というお店。少し期待していったのだが、実体はモツ料理をおいている居酒屋だった。先週行った恵比寿のお店よりは値段はリーズナブルだが、雰囲気は「ダイニングなんとか」を意識した最近の居酒屋そのもので、興ざめだった。確かにもつ系のお刺身など味は悪くなかったけど、また行きたいかといわれれば答えはノーである。

金曜日の夜、以前同じ職場だった先輩と呑みに行くことになり、また僕の希望を聞いていただいて、今度は東京一円にチェーンで展開するもつ飲み屋の「加賀屋」に行くことにした。今回行ったのは目黒店。佇まいからして「え、ここ?」というじ。お店の中も小汚い(失礼)感じでいい雰囲気である。

別に雰囲気で味覚が研ぎすまされるということはないと思うのだが、このお店は僕の望んでいたものに近いところでとても満足だった。お店のお勧めホルモン串焼き(3本300円)に始まりもつ煮込みやハツなどの焼き物など、どれを食べてもとても旨い。こういうお店につきもののホッピーは飲まなかったがビールが進んだ。

先輩がもう一軒というので、雨の目黒を歩いて目黒駅北側にある有名店「丸冨水産」へ。いつも混んでいてなかなかお店に入れないらしいのだが、今回は雨だったことと行った時間が遅かったのとで、なんとか座ることができた。お刺身をお任せにしてあとはビールやらサワーやら熱燗やらを頼んで、いろいろなお話をした。

営業スタッフとしていろいろな経験をしている先輩で、話題も豊富で愚痴っぽさもなく一緒にいさせてもらって楽しい人である。これまでもそれほど呑みに行くこともなかったのだけど、こういう人と呑みにいける機会があるのは幸せなことだと思った。今回はっきりしたのはやはり愚痴はほどほどにということ。愚痴の原因はよくよく考えれば、その半分はそれを言っている本人にあるのだから。

この1週間はずっと同じ作品を聴き続けた。若手ジャズギタリスト、カート=ローゼンウィンケルの新作"The Remedy-Live at the Village Vanguard"がそれ。カートは1970年生まれでバークリー音楽院出身。パット=メセニーやジョン=スコフィールドといった、最近のトレンドを受継ぐアーチストとして注目されているらしい。

僕が彼のことを知ったのは最近のこと。ディスクユニオンのサイトでそのアルバムが紹介されていた。これを入手するのにちょっとひと騒動あった。本来なら紹介してくれたユニオンで買うべきなのだが、そこはネット時代の合理性も忘れてはならない要素である。いろいろと調べた挙句に僕は発売元のウェブサイトからダウンロードで購入することにした。値段が安く、出かけたり送料を払ったり品物が届くのに1、2週間首を長くして待つということもない。

発売元のArtistShareはその名の通りアーチストに様々な与えてインターネットによる音楽ビジネスのあり方を追求するユニークなレーベル。CD販売の一方でダウンロードや映像配信などいろいろな試みに取り組んでいる。今回も購入特典としてカートや競演ミュージシャンのインタビューや解説、ライブなどの映像配信プログラムがついてくる。そうした体系をプロジェクトと称してアーチストと聴き手の共同作業と位置づけている。

"The Remedy"は2006年のライヴパフォーマンスを2枚組CDにまとめた作品。といってもダウンロードではそういう言い方はあまり意味がなく、正味2時間分の全8曲の音楽が楽しめる内容になっている。初めて耳にする彼の音楽は、表面的には奇抜な特徴があるわけではないのだが、何度か聴き込んでいるうちにじわじわとその魅力が伝わってくる。これは素晴らしいものである。

カートのギターワークは、パット=メセニーやジョン=スコフィールドを感じさせるものはあるが、早弾きなどのテクニックが凄まじいというわけでは決してない。それでもそこに彼自身の独自のスタイルが存在するのは明白である。他のアルバムを聴いてみたいと思うだけでなく、是非とも一度生の演奏に接してみたいと思った。久しぶりにジャズギターの新しい展開を感じることができたと同時に、音楽を買って聴くというスタイルについても、その方法は確実に変りつつあることを改めて実感することができた。


The Remedy-Live at the Village Vanguard

こちらはArtistshareのサイトからの直販か、ディスクユニオンの通販で購入可能です









Deep Song

こちらはアマゾンで購入できます

5/25/2008

セグメント

今週はコルトレーンをよく聴いた。最近になって演奏された2つの「至上の愛」(ブランフォード=マルサリス、森山威男)を聴き比べ、僕にはやっぱりブランフォードの方がいいなあなどと思いながらいると、急に本当のコルトレーンの音が聴きたくなったのである。

幸いにも、時折中身が入れ替わる僕のiPodだが、いつも彼の音楽は何かしら入っている。最近になってiTunes Storeでダウンロードしたニューポートのライヴ(写真下)に始まり、インパルスのアルバムを中心にいろいろと聴いてみた。でもやっぱりアレが聴きたくなるんだよな、と結局はいったんiPodから外してあった「ライヴ・イン・ジャパン」にたどり着いてしまった。

今週はその中の"Afro Blue"を通勤の途中で2回程聴いたのだが、やはりこの録音は何度聴いてもいいものである。僕にとってはファラオもアリスもなくてはならない存在。この素晴らしさを時折こうして確かめながら、これから歳をとっていくのかなあなどと考えた。もちろんそれはそれで悪くない。

アランの店"Jazz Loft.com"で、アンソニー=ブラクストンとギターのジョー=モリスによる、CD4枚組のライヴインプロヴィゼーションを購入してあったのだが、いざ届いてみると4枚すべてのディスクの盤面に著しい傷があることがわかり、店主にメールするとものの30分で返信が来て返送して交換ということになってしまった。

一応ディスクは再生はできたので1枚目だけを聴いてみたところ、これがもうやたらといいのである。面倒だからこのまま交換せずにおこうかなという気にもなりかけたのだが、やはりこういうことはきっちりしておかないとと気を取り直し、月曜日には郵便局から航空便で4枚のディスクを送り返した。送料を着払いにする手だてがないので、僕が立替えた送料(670円)はどうなるのか気になるところだ。この作品と交換の顛末についてはまた後日取りあげようと思う。

火曜日に以前職場の同僚だった男と恵比寿のモツ料理「黄金屋」で一杯やった。モツ焼きが食べたい一心でネットで検索してお店の予約をしたのだが、実はテレビなどでもよく紹介される人気店らしく、当日場所を確認しようとウェブサイトを見ていると芸能人もよく出入りしているのだという。実際に行ってみると僕らが座ったカウンター席のすぐとなりのテーブル席に、ジャ○ーズ事務所の若手大物タレントを含む一団がいて、ちょっとびっくりしてしまった。

お店の料理については、最初に変な子供だましの料理を注文してしまったおかげで、結局もつ焼きは「しまちょう」を食べただけで、最後にもつ鍋とチャンポン麺はしっかり食べたのだが、肝心の焼き物があまり食べられずやや不本意な結果に終わった。料理はうまいがいかんせんもつ料理とは思えない程の値段でちょっと興ざめな気もした。ビールのグラスは小さいしねえ。

この週末は雨だったこともあって何もたいしたことをしないまま過ぎてしまった感じだ。衛星放送で撮りためてあった映画を土日で1本ずつ妻と一緒に視た。「酒井家のしあわせ」という日本の作品と、「君とボクの虹色の世界」というアメリカの映画の2本。どちらも面白かった。映画を家で楽しむなら大きなスクリーンとプロジェクターがあってもいいなと思ったが、その前にそれを置くための部屋がいるなと思った。

少し前から気になっていたあるアルバムを、迷ったあげくに発売元からダウンロードで購入することにした。ドル建てで送料も要らないしすぐに聴くことができる。10年前にCDNowやアマゾンで海外からネットでCDを購入し始めていたことを思っても、ここまで便利になるとは到底考えられなかったものだ。この作品についてもまた次回以降で紹介したいと思う。

ということで、こうしてみるといろいろな刺激があった1週間だったのだが、それでも何か満たされない気持ちをひいたまま、再びこのろぐを書くことになった。贅沢な無為とはこういうことか、それともごく普通の人生というのはこういうものなのだろうか。

5/17/2008

五月の病

物事が上手く進んでいる実感がなく、不安や心配が先行する一週間だった。電車の中で放映されているテレビ(映像と字幕だけでも情報は伝わるものだが、画面でキャスターが話す顔を映す必要はあるのだろうか)で、五月病について解説するのが目に入った。僕は以前からこの病気には馴染みがある。といっても、毎年5月になると必ずというわけではなく、発現頻度はそう多いわけではない。いまから考えたら、それが何かの転機か、あるいはその後に続く自分の生き方に対する何かのサインだったように思える。

僕は入学してすぐに大学に対する興味を失った。もともと興味を持っていたのは大学の名前や学科のお題目だけで、そこで実際に何が行われるかについては、それはきっと立派な何かがあるに違いないと漠然と考えていただけだった。それがそうではないということがわかり、僕はそのまま五月病みたいになって大学に行かなくなってしまった。それ以降、大学は僕にとっては学び舎ではなく、家庭教師のアルバイトをするために自分の肩書きを提供するだけのものになった。

それでも大学を出て行くわけでもなく、留年しても卒業だけはしたいと思った。いまにして思えばなんと呆れた考えかと思うばかりだが、その考えや行動原理がいまも自分の中に引き継がれているのはほぼ間違いない。ああ自分は何につけても一貫性はないし、独自性もない、ホントにダメなやつだなと思い始めると、これが自分の中を埋め尽くそうとどこまでも広がってゆくように思えて、大きな空洞になって心の中に居座るのである。

自分を変えたいのか、自分の周囲の環境なり状況を変えたいのか、それもはっきりしない。ただ自分はもう変らないだろうという思いについては、ある種の確信に似たものがあるから、周りを変えようという気持ちが一時的に強くなる。しかし周りを変えることはすぐに自分にまた跳ね返ってくることになるから、ことは「気分転換」と簡単にいう程には進まないのである。だからこれはしばらく続く病気なのだ。

水曜日には翻訳会社に勤める幼なじみと自宅近くの新丸子で酒を飲んだ。不登校で中学卒業が危ぶまれた娘さんは、その後なんとか高校に通っているらしい。これには彼も一安心しているようだ。その夜は特に目新しい話題を交わすわけでもなく、新しいお店に行くわけでもなく、それでも僕らにとってはちょうどほどよい時間が過ぎて行った。

初夏の気候が戻った土曜日。以前、兄がやってきたときに鎌倉の街で偶然見つけた彼の御用達の鞄屋「土屋鞄製造所」で、カタログをもらっていた。妻がちょうど財布を買い替えたいと思っていてその店の品物が気になるというので、足立区西新井にある工房と店舗をかねたところに出かけることにした。

日暮里駅から舎人ライナーを乗り継いで西新井大師西駅で下車すると、すぐのところにそのお店はある。広々とした店内に同店の商品がきれいに展示されてある。お目当ての財布はたまたま店頭に展示された現品1点を残すのみとなっていて彼女はめずらしく早い決断でそれを買った。他にもいい鞄がいくつかあった。この商品についても僕の関心はやはり男性ものより女性ものに向いてしまう。

その後、西新井大師に行く途中、腹がへったので大師の裏にある小さな中華料理屋「餃子王」に入った。狭い店内の半分が座敷で半分がテーブルというやや不思議な空間、僕らは迷わず座敷に陣取った。メニューは驚く程たくさんある。お店の名物ということで担々麺、焼餃子、そしてエビチャーハンを注文した。料理はどれもうまかったがやはり店名の餃子はさすがの味だった。店内に張られた中国の地図をみると、お店の人はおそらく中国から来られた人なのだろう。四川のご出身なのかなあなどと震災のことが少しなった。

西新井大師を少し散策して、そこからはいつものように少し歩いてみることにした。結局、荒川を渡って王子駅までの約4キロ程を歩いて、あとは電車に乗って川崎まで帰った。途中の景色や街並にはひかれるものは何もなかった。北東京の何ともいえない雑然としたコンクリートのイメージが続いただけだったように思う。

週末は少し原稿書きをしなければならない。本当はもう少し早く出さないと行けないものなのだが、なかなか手を付けられないのと編集者との連絡が不通にになってしまったことも手伝って延び延びになってしまっている。もう今回でおしまい、といわれても仕方ないかなとも思っているが、やはり気持ちのスランプというのは恐ろしいものである。書く内容はだいたい決めているので、明日は頑張って仕上げたいと思う。

少し前に注文したCDのうち、先月の終わりに取りあげたJasper Leylandの2枚が郵送されてきた。素朴な音をさりげなく緻密に組み上げる感じで、彼が持つ才能を改めて感じさせるものだった。いまの僕の気持ちがここに現れている、聴いていてふとそんな気がした。

土屋鞄製作所
Jasper Leyland

5/11/2008

ジュウェル イン ザ ロータス

連休明けの3日間は意外にもすんなりと仕事モードに戻ることができた。大した仕事があったわけではなかったし、3日間勤めればまた週末というのも気分的に楽だった。外出して、セミナーなど人の話を聞くことも多かった。なかでも、マーケティングの業界団体が主催したインドの消費市場に関するセミナーは非常に興味深いものだった。

インド市場の急成長と将来性についてはいまさらながらの話題かもしれないが、では彼等の現代社会がどのようなものでライフスタイルがどうなっているのか、ということについてまとまった話を聞くことができる機会はこれまでなかった。現在のインドは自国の将来に世界で最もポジティブな国なのだそうだ。

今後数十年間で最も大きく変貌する国であるといわれているインドや中国であるが、大きな流れとして日本が戦後数十年でたどったのと同じ様な道を、あわせて20億の人口がいる2つの大国がたどるのかと思うと、地球の将来は明るいのか暗いのかますますわからなくなってくる。成長とはそういうものなのかもしれない。

その翌日の木曜日、別のセミナーというか研究会の様なものに参加するために地下鉄に乗った。車両に乗り込むと、優先席付近の一角だけ妙に人がまばらになって席が空いている。何かあるなと思ったのだが、別に異臭などもしないので空いている席に座ることにした。その空間の原因は僕の真向かいに座っているヘッドホンをした初老の男性にあるらしいことはすぐわかった。

この男性、よく通る声で次の3つの言葉をランダムに繰り返す。「おいコラァ」「バカやろう」「オマ○コ」。語調がちょっとヤクザっぽくて威圧感があるのとその内容に対する一般的な嫌悪感、この2つを気にしなければそこに座っていることはさほど苦痛ではない様なので、僕はこの男と5、6分間ほど向かい合って地下鉄の道中をともにすることにした。

こういう人の多くがそうであるように、彼は誰とも目を合わせようとしない。目に見えぬ誰かに語りかけているというよりは、人と目を合わせることができないのだ。3つのワードはひたすらランダムにいろいろな方向を向きながら発せられ続けたが、芸術性のかけらを感じることもなく僕は目的の駅に着いた。車両を降りたあとでも背後でそのパフォーマンスは続いていた。

週末はこれまでとはうってかわって急に冷え込んだ。あいにくの雨模様となった日曜日は特に寒かった。我が家でも仕舞いかけていたオイルヒーターを久々につけて部屋を暖めた過ごした。少し前に衛星放送で放映されて録画してあった映画「砂と霧の家」を視た。内容も何も知らずに録画してあったものだが、とてもいい作品だった。いわゆる9.11の直後にこのような作品が発表されているあたり、一見すると単純な娯楽ものばかりで嫌気がさしていたアメリカ映画も、まだまだ捨てたものではないと思い直させてくれた。

今回は少し前に購入したECMの復刻CDを紹介しておく。ベニー=モウピンといえば、マイルスの「ビッチズ ブリュー」でバスクラを吹いている人であり、リー=モーガンの「ライヴ アット ザ ライトハウス」でサックスを吹いている人でもある。その彼が1970年代半ばにECMに録音した作品がCD化された。

共演がハービー=ハンコックやバスター=ウィリアムスというのも意外な感じであるが、内容はこのメンバーから想像されるビートに溢れた音楽ではなく、非常にECM的な空間や音響の世界に仕上がっている。タイトルに表わされるように収録された作品はいずれも神秘的な輝きに満ちていて、じっくり耳を傾けると何か精神的なインスピレーションを与えてくれそうな気がする。

ジャズにエレクトリックの嵐が吹き荒れたこの時代に、ヨーロッパ人によるプロデュースでこのような作品が残されているというのは驚きであり喜びでもある。


Bennie Maupin ベニー=モウピン公式サイト

5/06/2008

連休の終わり〜横浜とFMラジオ

連休最終日。久々に横浜に出かけて、元町から山下公園、関内、野毛、みなとみらい、と一通りを歩いてみた。いろいろな思い出がある場所だ。少しずつ姿を変えているとこともあるが、そこにある雰囲気は相変わらず横浜だった。天気がよくて長袖のパーカーでは少し汗ばんでしまうほどの陽気で、さすがに後半は少し疲れが出て眠くなってしまった。

お昼は野毛の洋食屋さん「センターグリル」でランチセット。店主の「食べたい時間がランチタイム」という考えの下、いつ行ってもお腹いっぱいに食べることができる。妻はスパゲッティランチ(ナポリタン、トンカツ、サラダ、ライス)、僕は浜ランチ(オムライス、トンカツ、サラダ)でともに満腹である。

自宅に帰って休日恒例の昼寝。週末のいずれかは大抵、夕方4時過ぎから6時頃まで軽く眠るのが僕の習慣になっている。今日は疲れていてかなりぐっすり眠ってしまい、目覚めはあまりよくなかった。

そもそも休日なのに朝起きるのが早いからこうなるのだと思うのだが、僕はあまり遅くまで寝てお日様の光を無駄にするのが好きではない。元々は、独身のころに週末通ていたスポーツクラブから帰って、夕食までの間に少し昼寝をしたのが始まりだと思う。おかげで夜寝付きが悪くなることもあるが、その時はお酒を楽しめるからそれでいいと思っている。

午後7時前、妻が夕食の準備をする音で目覚めた。僕はテレビが嫌いなので、何か面白いラジオ番組はないのかなとネットで番組表を眺めてみると、NHKのFM放送欄に「ギター三昧」という特番を見つけた。DJにチャー、ゲストに石田長生、山崎まさよしを迎えて12時間生放送とある。惜しくも前半は聴き逃したが、後半は食事をしたりあと片付けをしたり、そしていまもお酒を飲みながら番組を聴いている。

1960〜80年代を中心とする代表的なギターミュージックが次々と流れる楽しい展開。フリー、ディープパープル、ロリーギャラガー、ボストン、ヴァンヘイレン等々。。。こういう番組はやっぱりラジオならではのものだ。僕もFM放送のDJを一度はやってみたいものだ。このろぐをそのままラジオにできたらいいなあ。そう考えれば、これが僕にとってもラジオみたいなものだ。

いまちょうど午後11時、ここからは「取りこぼし編」なのだそうだ。最初のアーチストはジョー=ウォルッシュとトミー=ボーリンのようだ。またしばらくウィスキーを飲みながらラジオに耳を傾けてみたい。

「明日からまた仕事だ」という改まった気持ちはいまのところない。

5/04/2008

連休と形見分け

ここ10年間ほどは5月の連休といえば9連休はあるのが当たり前だったような気がする。会社がそうなるようにうまく振替休日などを工夫してくれたり、自分で休みを1日増やしてそうしたこともあったかもしれない。今年は祝祭日の並びがどうにも意地悪な形になっていて、僕の勤める会社では、5月1日から6日までの6連休ということになっている。

それでも工場の操業を考慮した連休を設定する兄の勤める自動車会社の様に、飛び石連休の間にも休みを入れて11連休にしているところもあるようだ。その話を担当してくれている美容師の女性に話すと、半ば信じられないという表情で「私は11連休なんてとっちゃったらもう仕事には戻れないでしょうね」と言った。彼女のような仕事は、長くても4連休程度しか休みがとれないのだそうだ。

同じく本来ならカレンダー通りの4連休しかない妻と一緒に、30日の夜から新幹線と在来線を乗り継いで和歌山の実家に帰った。同じ時期に兄にも来てもらい、家の片付けやまだ残っている手続きなどを進めた。手続き関係は今回でほとんどのことをやり終え、遺された品々の片付もまだまだモノはたくさんあるが、どうやら先が見えたように思う。

今回は母親の品物を集中的に整理して、父や母の親戚(兄弟姉妹)たちに分け届けるということをした。洋服やアクセサリーなどを一通り整理し、分けられそうなものをより集め、それらをレンタカーを借りてそれぞれの実家に運ぶのだ。遺品の形見分けは財産の分与とは少し意味合いが違うはずなのだが、そこにはどうしても人の性分が少なからず姿をちらつかせるものでもある。

両家それぞれの親戚に別々に集まってもらい、あらかじめこちらでセレクトした品物を渡して、あとは自分たちで話し合ってくださいという形をとることにした。結果的には心配した揉め事などもなく形見分けは完了した(と思う)。後日、母の妹にあたる人からメールをもらったのだが、やはり品物を受け取った嬉しさというか安堵感が先立つも、やがて故人の不在に伴う寂しさが微妙に入り交じった感覚になり、涙があふれてきたのだという。

兄や僕そして僕の妻も、それぞれ少しずつ品物をもらうことにしたが、それにしてもまだ品物の一部に過ぎない。すべての品物の整理にはまだあと少し時間と労力を要するようだ。連休でそれらを一気にやってしまうという考えもあるのだが、とりあえず何かに追い立てられているわけではないので、父の一周忌なども含めもう少し時間をかけてやることにした。片付けばかりを続けるのは実際かなり疲れるものだ。

短い期間だったがいつもの和歌山グルメはしっかり楽しんだ。まだ少し気になるお店もあるので、次回からは少し趣向を変えて楽しみたいと思う。

和歌山から帰った翌日の今日は、まだ疲れも残っていた。それでも家でじっとしている気にもなれないので、目黒線の西小山まで電車に乗り、少し前に友達に教えてもらったイタリア料理店「コージー」でお昼を食べ、そこからまた武蔵小山や目黒不動尊、林試の森公園などを散策した。雨の降りそうな空模様だったがなんとかお天気は持った。ちょっとした散歩に身体にも適度な運動をしつつ、のんびりした気分を味わうことができた。

音楽は帰りの新幹線で先に紹介したエレクトロニカを聴いたりしただけだった。この手の音楽はお店でCDを買うのは難しいが、ECやダウンロードでは手軽に入手できる。ただまだ自分の知識や情報が十分ではないので、ネット上の専門店でいろいろと試聴したりしている段階である。十分に試聴ができるのはやはり嬉しい。実際に作品に触れてみると、こういう音楽の世界が非常に層の厚いものになっていることに驚かされる。

そんなことを言いながら、先ほどこのろぐを書く直前にダウンロードでアルバムを2枚購入した。合計で約13ポンド(2700円程度)になる。タワーレコードでCDを買うよりもかなり安いし送料も要らない。そしてなによりも自宅ですぐに作品を耳にできるメリットはやはり大きい。もしかしたらしばらく病み付きになるかもしれない。

実家に帰って親戚にあったり、自宅で少しのんびりしたり、どこかノスタルジックな音楽を聴きながら家でウィスキーを飲んだりしているうちに、また久しぶりにいろいろな友達と会って酒を酌み交わして語り合いたい、そんな気分がわき上がってきた。

4/27/2008

2つのエレクトロニカ

体調の方は、先週ひいた風邪がまだ少し尾を引いていて、咳と痰が続いている。これは今回の風邪の特徴の様で、職場でも同じ症状の人がいる。こうなったらもう市販の薬など飲んでも何の効果もない。あとはひたすら無理をせず沈静化するのをじっと待つだけだ。

酒を呑むのは、炎症を深めるのと体内の水分を奪うという意味でよくないのはわかっているが、こちらは家で少しずつやっている。先週、兄がやってきた際に安いスコッチウィスキーを2本買ってあった。今回は僕がほとんど呑まなかったので、最初に開けたジョニーウォーカーの赤が4分の1程度を残しただけで、もう1本のホワイトホースはいまだ封が解かれないままでいる。

残り物のジョニ赤を少しずつ飲んでみた。正直なところ旨くないと思った。こんな味だったっけ?日頃、角瓶を飲みつけている兄は「スモーキーやね」と言っていたが、僕には甘いシロップのような味わいにしか思えなかった。このところウィスキーはすっかりご無沙汰になっている。久しぶりに少し高めのシングルモルトかバーボンでも買ってみようか。

仕事は本業的なことではなく、管理仕事とその周辺雑務みたいなことばかりに手がかかってしまっている。ここでぼやいても仕方ないのかもしれないが、出来の悪い管理職(そもそもなぜその職に就けるのかが不思議なのだが)がまき散らす疫病とは恐ろしいものである。その役職が高ければ高いほど被害は広がるというものだ。僕もいままでいろいろな管理職を見てきたが、素晴らしい人というのは結局のところ、非常に珍しい存在であるということは認めないわけにはいかない。下手な役職なら置かない方がマシだろう。マネジメントに対するニーズは働く人ありきなのであり、マネージャーありきではないからだ。

久々にのんびりできた土曜日、髪を切ってもらい色を入れた。いつも担当してくれる女性はそのお店でとても人気のようで忙しそうだった。彼女は人の話を聞いているようで聞いていないのがはっきりわかるのだが、それが天性のものなのか演出によるものなのかは、いまひとつわからないところがある。ただ一つ言えることはそれが彼女の才能の一つであるということだろう。仕上がりは満足だった。残念だが僕の場合髪はある程度短い方がいいようだ。

その後、渋谷に出かけてみた。北海道ラーメンの「壱源」でみそラーメンを食べる。やはりここのラーメンはうまい。ニンニク少々と一味唐辛子をたっぷり振りかける。さっと炒めて水分を抜いたもやしと、メンマとわかめがトッピングとして乗っかっている。僕は大抵そうしたものを前菜としてあらかた先に食べてしまい、麺とスープとチャーシューを交互にゆっくり楽しむ。この日もスープまで完食だった。

その後、ディスクユニオンにいって棚を眺めてみて思った。僕のCDに対する購入意欲は明らかに消極的で慎重なものになったということ。以前から書いていることだが、音楽配信で手に入りそうなものはもはや買わない。CDが普及し始めた頃、これはCD化されないだろうと思っていたものが、結局のところどんどんそうなていった。それと同じことがまた起ころうとしている。配信の音質はいまよりもさらに向上するだろう。

だが忘れてはいけないのは、音質の善し悪しを決めるのはあくまでも録音である。これは時代的なもので決まるとは限らない。一番重要なのは、作者の徹底した音の存在感に対するこだわりだ。これが録音が出現して以降の音楽で重要な要素であり、音楽が人の心に深く印象づけられるのに大切な要素なのである。その価値の存在はいまひとつ地味なものだが、そのわかりにくさや曖昧さこそがこの要素のよさでもあると思う。

結局、僕が向かったのはタワーレコードだった。現代音楽のコーナーを少しチェックして、ジャズのコーナーをさっと見て、特に重要なものがないのを確認すると、まっすぐにエレクトロニカのコーナーに向かった。僕が最近CDを買うことに興味をそそられる数少ない音楽分野かもしれない。

ユーロ圏のアーチストが多くほとんどがインディーズレーベルなので、昨今のユーロ高の影響もあって1枚2500円くらいする。僕にとってはちょっとした高価な買い物になる。それでも今回も厳選してというか、バイヤーのお勧めに従って非常にいい作品2枚を購入することになった。イギリスで活動するJasper Laylandなる人物の最新作"Wake (carbon series volume 5)"と、ポーランドで活動するJacaszekの"Treny"というのがそれ。

エレクトロニカというジャンルがいつ頃から明確なものとなって来たのかはわからないが、僕がその言葉を耳や目にするようになったのは、少なくとも今世紀に入ってからである。テクノや現代音楽、プログレなどのジャンルが交錯してできているように思えるが、それぞれの領域では収まりが悪くなっているのも事実で、そういう意味ではいいネーミングでありいいジャンルであると思う。

ほとんどのアーチストが個人でウェブサイトを持っているので、作品の試聴などは気軽にできるのもこのジャンルの特徴だろう。今回の作品に関しても、上記のアーチスト名にそれぞれのウェブサイトへのリンクを貼ってあるので、興味のある方はそちらでサンプルを試聴してみて欲しい。

ただし断っておきたいのは、こうした音楽は、時間や気分のうえである程度余裕を持って対峙する必要があるということと、別名「音響派」とも呼ばれる通り、ある程度まともな再生装置を通して耳にすることをお勧めしておきたい。別に高級オーディオというわけではない。CDラジカセやパソコンの内蔵スピーカのようなもので聴くのであれば、できればヘッドフォンでじっくり聴いてもらいたい。先にも書いた音へのこだわりが彼等の音楽で最も重要な要素なのだから。


4/22/2008

風邪と訪問者

先の週末は本格的に風邪をひいてしまった。木曜日の午後あたりから調子がおかしくなり、のどが腫れて熱が出てしまった。運悪く、金曜日の夜から広島の兄が泊まりがけで遊びにくることになっていた。これはまずいなあと思い、金曜日は結局仕事を休んで昼の間中眠っていたのだが、それでも状況は少しマシになっただけで、根本的には治らなかった。

せっかく来てくれたのだからと、金曜日の夜は近所のお店で焼き肉を食べ、普段2人ではしないような贅沢を3人でした。といっても会計は8900円だった。以前から、川崎に来たら是非といってあったので、本人も楽しみにしていたようで、飲み物や料理の値段の安さと、絶品のハラミの味を絶賛しながら家に帰った。

夜は例によってウィスキーを飲む。僕は水割りでチビチビごまかしながら飲んだ。まだ喉が痛い。兄はおかまいなしに(それでも遠慮していたのだと思うが)ロックをウマそうに飲んでいたが、終盤ストレートでグイっと飲むのを見てストップをかけ、布団に寝てもらった。

最近、NHKの番組で睡眠時無呼吸症候群に関するものを視たのだが、兄は少しその兆候があり、本人も昼間にすごく眠くなることがたまにあるなど自覚があるようだ。僕が眠っている兄を見るのはたいてい呑んだ夜なので、それとの関係もあるのだろうが、やはりあのイビキは異常という他はない。ちなみに妻によると僕も飲んで眠ると大きなイビキをかくらしい。

土曜日は天気もなんとかもちそうなので、横須賀と鎌倉に連れて行った。横須賀はこの前僕らが行ったのとほぼ同じコース(海上自衛隊基地、アメリカ海軍横須賀基地、三笠公園、ドブ板通りでメキシコ料理)をたどった。子供の頃は一緒に軍艦のプラモを作ったぐらいなので、兄も興味深げにいろいろなものを見入っていた。今回は初めて戦艦三笠の中を見学したのだが、思いのほかいろいろな展示があり感心した。

足早に鎌倉の大仏を見物し、市内をぐるっと歩いて家に戻った。最後に雨が降ったが、なんとか家まで帰り着いた。兄が携行していた万歩計によると、その日だけで11kmを歩いたの出そうだ。まあそんなもんだろうと考えたら、どっと疲れてきた。

日曜日には調子はかなり回復したが、予定していた秋葉原には結局兄独りで行ってもらった。まあああいうところはたぶん独りで回った方が楽しいに違いない。案の定、ダイナミックオーディオ5555で目当ての80万円もする高級AVアンプを試聴し、店員さんの熱のこもった解説に相当洗脳されてしまったらしい。

それに比べると僕などは、先週にiPodを接続して使う小型のラジオ付きスピーカーを1万5千円で買ってご満悦なのだから、安上がりなものである。昔使っていた4GBのiPod nanoをさしてダイニングテーブルの横で使っているが、これはなかなか便利だ。

風邪はなんとか下火になり、月曜日から会社に行った。なんだかかなり長いこと休んだような気がした。少し気がかりなことがいくつかあり、心配だったのだが、それも休みの間に考えに整理がつき、実際その通りに事が運んだので一安心である。風邪は流行っているらしく、一緒に仕事をしている女性が僕に変って会社を休んだ。

とまあ、そんなわけで更新が遅れてしまった。まだ書きたいことがあるのだが、まだ少し調子が万全ではないので今日はこの辺にしておく。

4/13/2008

コンチェルト

なんとなく重苦しい春。新しい将来に向けて意気揚々と行きたいところが、足下がぬかるみ。周囲の景観もぼやけてしまっている。

会社生活を始めて20年がたった春。200枚のCDを持って上京したあの日から、結局のところここまで大きな転機らしいものはなかったように思う。両親が逝き、妻と結婚し、職場を異動しても、僕は僕のままだと感じている。もしかしたら、感じていられるというのが正しいのかもしれない。

仕事で引き受けていた会社のブログをこの4月でとうとう閉鎖することにした。このろぐとは異なる意味で、ずいぶんと文章を書く勉強にはなったのだが、結局のところ、うまく続けることはできなかった。いま考えると、ブログの企画をきちっと決めていなかったのがまずかった。更新のタイミングにしても、取りあげるテーマもあまりちゃんと決めず、どうとでもできるようなタイトルをつけてしまったのがいけなかったようだ。

一方で、月刊誌から少しだけお金をもらって書いている連載があり、どういうわけかこれが続いて3年目に入ってしまった。いまのところ雑誌に掲載された後にウェブでも公開されているのだが、6月からは紙のメディアがなくなりウェブのみになるらしい。これを機に打ち切りになるのかなと思っていたら、1回あたりの分量を少し減らして、月2回にできないかと編集部の人から打診された。

連載していること自体にはっきりとした手応えがあるわけではない。見ず知らずの人から「読んでますよ」と言われたこともないし、書いた内容について誰かから批判や賛辞をいただいたこともない。それなのにお金を払ってでもそれを続けて欲しいと言われるのが、なにかちょっと気味悪くさえ感じられる。それでも書くことを続けさせてくれるわけだから、これは何か目に見えない期待であっても応えなければいけないなと思った。

週末、妻が泊まりがけで出かけてしまったので、久しぶりにステレオセットの前でゆっくり酒を飲みながら音楽を聴いて過ごしている。ここ最近は、聴くものがかなりバラバラなのだが、いまは富樫雅彦と菊地雅章がデュオで録音した作品「コンチェルト」を聴いている。

ずいぶん前に誰かがこの作品のことを雑誌か何かで絶賛していて、気になっていたのだがなかなかお店で巡り会うことがないままの状態が続いた。それが3、4年ほど前に渋谷の中古屋で偶然に見つけ、それ以来これは僕の密かな愛聴盤となっている。

2枚のCDに収められた富樫のパーカッションと菊地のピアノによる14曲の演奏は、比較的音数の少ないゆっくりとした深い世界を形作って展開してゆく。絶えず同じテンポを保つことなく、様々に流れを変えながらあるしっかりとした時間と空間を作り上げてゆく。iPodのような移動中に聴く音楽ではなく、家の中でじっくりと味わたい音楽である。個人的には、Disc2の1曲目"Riding Love's Echoes"が特に気に入っている。

そろそろ再発されてもいいのではないかと思うのだが、なぜか未だに廃盤のままである。都内の中古CD屋で何度か見かけたことはあるものの、結構レアな状況になってしまっているのが残念な作品だ。もし見かけることがあったなら、それはもう運命に感謝して即買いだと思っておいた方がよい。

出会ってしまったら何でも当たり前のように感じてしまうのはよくないことだ。一期一会は難しい。

4/07/2008

音楽のこれから

2月頃からいろいろ立て込んでいた仕事が、今日でようやく一段落した。まあ徹夜で死ぬ様な思いというわけではなかったが、とにかくいろいろな情報を整理して現在の姿を明らかにしつつ、そこから新しいアイデアを出していかないといけない。

今日上げた仕事は音楽市場とインターネットに関するもの。音楽ならもう毎日聴いているし、これは得意分野だと思っていたのだが、やはり最近の若い音楽についてはほとんど何も知らない。今どんな音楽が流行っているかとか、そういうことはレポートの主題ではないのだが、新しい動きを始めるのは若いアーチストたちだ。

おかげでいろいろなことを勉強させてもらった。いくつかのミニ知識をここで披露しておこう。

これまで世界中で1億枚以上売上げたアルバムは、たった1枚しかない。マイケル=ジャクソンの「スリラー」がそれ。さらに意外と思われるかもしれないが、5千万枚以上売上げたアルバムはないのだそうだ。4千万枚以上売上げたのはビージーズの「サタデイ ナイト フィーヴァー」やピンクフロイドの「狂気」などわずかに6枚。ビートルズの「アビーロード」でさえ3千万枚なのだ。

アメリカのラジオ広告はいまでもインターネット広告とほぼ同じ市場規模がある。日本は既にラジオ広告はインターネットの半分以下しかない。アメリカで1週間に5分以上連続でラジオを聴いたことのある人は約1億4千万人。ラジオがいかに日常生活に根付いているかがよくわかる。

最後に、アメリカの音楽アーチストで稼ぎの多いトップ10の収益内訳を見ると、だいたい7割前後はコンサートツアーから得られる収益なのだそうだ。そのうちの一人であるマドンナのマネジメントを担当する人物の言葉として「昔はアルバムを売るためにツアーをしたけど、いまはツアーで儲けるためにアルバムを出すんだよ」というのが象徴的だ。

今回の仕事を通じてこんな知識を勉強した。それで音楽はこれからどうなるのかということなのだが、いま自分たちが楽しんでいるような「録音された音楽」の経済的価値、つまりそれを手に入れるのに払うお金については、どんどん安くなっていくのではないだろうか。それは高いものと安いものの差が広がるということでもある。そしてもちろん無料のものも多く出回る。代わって音楽本来の魅力である生演奏(つまりライヴ)の価値は上がるということになる。

自分はまだまだ音楽を買うということを続けていくと思うのだが、多くの人にとって音楽とはお金を払って楽しむものではなくなっていくように思う。それは例えば映像やゲームの付録だったり、携帯電話のボタンを押したら勝手に流れてくるものかもしれない。それでも僕らがいい音楽と思えるものは、人の気を引きつけることだろう。しかし、やはり音楽そのものの何かが薄いものになっていくような気がしてならない。

3/29/2008

スペアパーツ

比較的暖かい日が続いて東京近郊は桜が満開だ。仕事が片付かないのと、僕ではないが仕事関連で人事異動の話などがいろいろあって、落ち着かない毎日を過ごしている。この時期、ちょうど年末年始の慌ただしさにそっくりである。組織の中で人が動く。移動ではなく異動というのはとても日本語らしい組織指向の言葉だ。嫌な響きだ。

仕事が変わるのだから、やはり本人にはある程度の納得を持ってもらう意味で、受け止めるに十分な時間を与えてあげるべきだ。役割が重要な場合ほどそうだろうと思う。唐突な異動を言い渡された場合、それは現職に対するある種の「ノー」のサインだと受け止めることも必要だろう。そこにある反省について一番気がつきにくいのは当の本人である。

未来の買い物のレポートは無事に終わった。与えられた時間に対するアウトプットとしてはやや不本意な点もあるが、僕個人としては満足している。それでもお客には満足してもらえたかどうか、そこのところはいまひとつ確信が持てないから、僕の仕事はまだ半人前ということだろう。それでもこれをこのタイミングでやれたことは、僕にとってはよかった。

その仕事を納品する直前の数日間は、かなり精神的に追いつめられた感じがあって、以前に渋谷のタワーレコードで買った"Pomassl"というアーチストの作品を、何度も繰り返して聴いた。テクノから派生したジャンルで電子音を中心に構成された「エレクトロニカ」と呼ばれている部類の作品である。"Spare Parts"と題されたこの作品は、正弦波とかノコギリ波、ホワイトノイズといった、アナログシンセで用いられる基本的な電子音を中心に構成されている。

これを楽しむには断然ヘッドフォンがおすすめだ。一つ一つの音の存在が輪郭と定位をもとに実によく考えられていて、さながら金属製の耳掻きで、耳穴から脳みその中を丁寧に掃除してもらっているような感覚が味わえる。冷たく硬い刺激の電子音に慣れないという人にはちょっと辛いかもしれないが、これを心地よいと感じてしまうとやみ付きになってしまう。少なくとも僕にとってはそうだった。

考えてみればヘッドフォンの音像というのは不思議なものだ。頭の中にできる音像、これほどはっきりしたものは他にないと思うのだが、それはどこにあるのかといわれれば、肌で感じることのできる空間とは異なる場所と言わざるを得ない。そこが自分にとって一番確実な場所だということになるのだろうが、そう結論づけるのがなんとなくいけないことの様でコワい気もする。

これを気に少し機械系の音楽をいろいろ聴いてみたのだが、いいものはやはりいい輝きを保つことができることを確認した。歳を重ねるととかく時間の流れを遅らせたり止めてみたりしようとするものだが、流れに身を任せるというか、任せざるを得ない根本があるということは、忘れない方がいいだろう。


Pomassl "Spare parts"


MySpaceのPomasslのサイト(試聴ができます)

3/23/2008

仕事、仕事・・・

こうなることはほぼわかってはいたのだけれど、今月後半は仕事がかなりタイトな状況に追い込まれている。この週末も家で仕事。パワーポイントでせっせと「未来の買い物」についての資料を作成中である。

明後日の火曜日にこれを終えたら、続いてまた食の安全に関する原稿書きと、業界レポートの作成が待っている。あーあ。。。

時間があってもはかどるとは限らないわけだが、追い込まれてもいいものができない、というわけでもない。「火事場のなんとか」という言葉も少しは真実味はあるが、様はやらなければ何も生まれないということか。しかし、いつまでも自分がやっているようでは、管理職としては失格かもしれないな、などと反省もしたりする。

さすがに頭が疲れてきたので、今回はこの辺で。

3/15/2008

スプリング

 とうとうタートルネックのセータは着られないほどの陽気になった。土曜日の今日は20℃近くまで気温が上がり、半袖のTシャツにスウェットという格好でも十分に外を出歩ける1日だった。春だ。

先週の前半のある日、翻訳会社の幼なじみとその同僚の3人で呑みに出かけた。四谷三丁目にある島根料理のお店。サバを中心としたお魚が美味しかった。今回集まった趣旨は、幼なじみのお嬢さんが無事に公立高校に合格したお祝いというのが名目である。オヤジの飲み会の名目なんて何でもいいだろうと思われるかもしれないが、今回の趣旨はいささか真面目なものだった。

以前のろぐで少しだけ書いたのだが、そのお嬢さんというのはこの1年である問題を発現してしまっていた。いわゆる「不登校」である。不登校というと「いじめ」を連想しがちだが、不登校は必ずしもいじめで起こるわけではないし、彼女にいじめがあったのかどうか僕は知らない。しかし、父親の説明を聞く限りではそういうことではないようだ。

具体的なことはわからないが、「自分の生き方のある部分が周囲のシステムと合わない」、彼女が感じた違和感はそういうことだった。おそらくそれに気づいたのはかなり以前のことなのだと思う。しばらく彼女はそれを我慢し続けたが、これまでなんとか保っていたバランスが自分の心の成長と環境の変化によって崩れ、ある日から学校に行けなくなった。

人間は身も心も進化し続けている。いわゆる進化論では骨格的肉体的な変化ばかりが注目されがちであるが、心も確実に時代とともに変わり続けている。それは重視される価値が変化してゆくというよりも、感じ方が深くなってゆくという方が表現としてはより適当だと思う。その進化に情報は大きな役割を果たしているのは間違いない。

学校に行けなくなった彼女だが、それでも次の進学については自分なりに考え、志をもった。その結果、受験をし、努力の甲斐あって合格したわけだ。だからといって新しい学校に何の問題もなく通うことができるかはわからないのだが、本人は頑張るといっているらしい。環境の変化が人間の考え方や心にもたらす効果は大きい。それで本人が望む方向に生き方を引き寄せることができるのであればいい。とりあえずはその道を自分で選ぶことができたのだから、ある意味一番いい展開なのだと思う。

結局のところ飲み会はその話題で始まったものの、まあ酒と肴がはいればあとは流れに任せるいつもの展開である。熱燗を味わえるのもそろそろかなという想いからか、僕はかなり飲んでしまい翌朝が少し辛かった。まあそれでもいい酒だった。

翌日は京都に日帰り出張だった。京都もすっかり春の陽気だった。僕の会社の後輩が3年間休職をして大学で学位を取得したのだが、その彼が一度本格的に大学に身を置くことになり、正式に退職することとなった。それに伴い、お世話になった先生とこれからお世話になる先生に彼の上司であり、僕の上司でもある部長がご挨拶に伺うことになり、それに何故か僕も同行することになったのだ。

その夜、京都で湯豆腐を食べて最終の新幹線で東京に戻った。なんとも忙しない話だが仕方がない。湯豆腐の季節は終わろうとしていたが、とても美味しいお料理をいただいた。やはり京都はいいものだ。できれば仕事抜きにゆっくりと訪れてみたいものだ。

そんな春だからというわけではないのだろうが、この1週間ほとんどこればかり聴いていたというのが、トニー=ウィリアムスの「スプリング」だ。僕は大学生の頃に初めてこのCDを手に入れて以来、この作品とは常に一定の距離を置いてつきあってきた様なところがある。このCDは聴きたいときに手の届くところに置くようにしているものの、これまではそれに手を伸ばすのは年に1、2回といったところだったろうか。iPodに入れたのも実は今回が初めてだった。

自己名義のアルバムとしては2枚目にあたるこの作品を収録したとき、トニーはまだ若干20歳だった。これが何よりも凄いことである。いまの時代でもこんなに完成された新しさを表現できる20歳はそうそういないだろう。ここで聴かれるトニーのドラミングは、いわゆるポリリズムやパルスビートと呼ばれるスタイルであって、1970年代以降のパワープレイとは異なるもの。競演はサム=リヴァースとウェイン=ショーターという2人のテナーサックスと、ピアノにハービー=ハンコック、そしてベースがゲイリー=ピーコックという面々である。

まあよく言われることだが、この作品に対する好みはかなりはっきりと分かれる。しかし僕が思うにこの作品は、トニーはもちろんここに参加している5人のアーチストの誰に対してでも、何らかの興味を持った人なら一度は必ず耳にするべき作品である。収録された5つの曲はいずれも個性的で極めて秀逸な演奏ばかりで、まさにアルバムと呼ぶにふさわしい作品になっている。

1曲目「エクストラ」の冒頭からして既に異様なテンションが漂い、アルバムの世界観を十分に表現している。リヴァースとショーターはこの曲含め3曲で競演するが、リヴァースの演奏が持つ存在感は時にショーターを凌ぐほど相当な内容のものだ。この曲でリヴァースが登場してしばらくのところ(5:00あたり)で聴かれるフレーズの美しさが、僕がこのアルバムで最も好きな瞬間でもある。

続く「エコー」は5分間にわたるトニーのドラムソロ。ここでアルバムはいきなりクライマックスを迎えると言ってよい。ここにはトニーのドラミングに対する考え方が大胆かつ繊細に表現されていて実に見事だ。もはやスウィングとかフリーとかではなく、現代にも通じるモダンジャズドラミングのお手本と言える神業である。できることなら、いつか最高のオーディオセットで大きな音でじっくりと何度も味わってみたいと思う演奏である。

このアルバムにおいて多くの人が名曲と賞する4曲目の「ラヴ ソング」だが、初めて聴く人は、このタイトルからあまり変な期待やイメージを持たない方がいい。ここでトニーが表現しようとしている「ラヴ」はどういうものか、とか言う話になると喜びそうな人もいるかもしれないが、まあそんなことは置いといて、続く「ティー」とともに後半2曲は明確なテーマを持っている曲だというにとどめておこう。それでももちろんアルバムの世界観では重要な作品に違いない。

トニーがアルバムにつけたタイトルとジャケットデザインは、極めてシンプルなものだがその分普遍的な存在感を持っている。春になって何か新しいことにむけてうずく気持ちを十分に刺激してくれる素晴らしい音楽だ。

3/09/2008

いとこの結婚式

週末、父の妹の娘にあたる人の結婚式に親族代表として出席するため、再び和歌山に赴いた。結婚式は2年前に職場関係のものに出席して以来のこと。今回は特に挨拶やスピーチなどもなく、まあのんびりと披露宴を楽しまえてもらおうと思った。

よく考えてみると、今回の出席はいままで何度も参加してきた結婚式と異なる「初体験」がいくつかあった。まず妻と二人夫婦で参加するのが初めてのことだったし、兄と一緒に参加するというのも意外にも初めてのことだった。生まれ育った街、和歌山で行われる結婚式に参加するのも初めてのことだったし、加えて新婦の側で参加するのも僕にとっては初めての経験だった。

まあそれぞれの初めてに思い感じたことはいくつかあった。印象的だったのは、新婦側の立場から結婚式や結婚披露宴というものを経験したことだろうか。今回結婚した従妹は僕より15歳も年下なので、一緒に遊んだ様な経験はほとんどなく、従妹というより姪っ子のような感覚さえ抱いてしまうほどだ。彼女の母である叔母は彼女を産んだ後、自他にいろいろと困難があり、結果的には自分の実家で独りで彼女を育てることになったという経緯がある。

そうした彼女自身のいろいろな苦労を間接的に理解しているだけに、その従妹が叔母のもとを離れて嫁いでゆくということは、僕にも「お嫁に行く」ということを少しだけ実感させてくれることになった。宴の最後に、母への手紙を泣きながら読む姿は、いままでもいろいろな結婚式で何度も見てきたが、やはり今回感じた想いはいまでにない深いしっかりしたものだった。

宴席に先立って会場に併設のチャペルで執り行われた結婚式は、僕にはやはりキリスト教的スタイルを日本で行うことの違和感を感じるものだった。外国人の牧師の前での宣誓とか賛美歌とか、やはりあれは憧れなのだろうか。僕はどうもあれが未だに馴染めない。賛美歌の歌詞カードを見据えたまま口をつぐんでいる新郎の父の姿が印象的だった。

まあかくいう自分たちもそういうスタイルで結婚式を挙げたのだが。母の遺影を持って参列した父がずっと泣いていたことや、指輪の交換の後に接吻を交わす際に、僕が首を傾けることなくいつものように真っ正面からキスをしたので、後から「おまえはああいう場での正しいキスのやり方も知らんのか」と妻からなじられる結果になった。覚えているのはそんなことばかりだ。神父の説教の内容や賛美歌の歌詞などはさっさと忘れてしまった。

どのような儀式であるかは置いておいても、新しい夫婦が誕生する場に同席させていただくのは非常に光栄なことである。しかし、儀式の有無や内容はその後の夫婦生活にはほとんど関係なく、それがいい思い出になるかどうかは、その後の夫婦生活の方向性でいかようにでも変わる。満足と不満のバランスがちょうど均衡していれば、天秤はどちらに傾くこともない。少しでも不満が上回っていれば、結婚はその方向に傾いてゆくことになるし、もちろんその逆も同じことだろう。そこに程度の差はあまりないように思うのだがいかがだろうか。

3/02/2008

シャンゼリゼ劇場のミシェル=ペトルチアーニ

 春一番が吹いて以降、時折寒い日もあるもののめっきり春らしくなった。仕事は期末が近づき徐々に余裕のない調子に戻りつつあるが、いまのところはまだなんとかというところ。3月の仕事模様はいろいろと荒れそうな予感である。

今日は母親の9年目の命日にあたる。母が信仰した宗教上の理由もあり、この日に関する僕らの過ごし方はいたって平穏なものである。それでもいままでは父がいたので、実家に花を送って父がそれらをまとめて母親の写真の周りに並べて供養の代わりをしていた。昨夏に父が亡くなり、そうしたことは僕ら自身が考えることになった。結局、僕は特に何か目に見える形での行いをするわけでもなく、母のことを思いふけることにした。テレビで人気の占い師からみれば罰当りな子息だということになるのかもしれない。

久しぶりに妻とどこかに出かけようということになり、横須賀の田浦にあるという梅園に出かけることにした。梅園といっても実家がある和歌山のそれとは比較にならぬ程小さなものだったが、景色のよい山の斜面に作られてありちょうど良い運動をかねた散歩になった。梅はまだ木によってはつぼみが堅いものもあり、少し華やかさには足りなかったものの、梅の花というのはこのくらいがちょうどいいように思う。


梅園を降りてそのまま少し横須賀の街に向かって歩いてみることにした。国道16号線は独身のころ何度もバイクで走った道だったので土地勘はあった。ただバイクだとすぐだと思っていた感覚は実際に歩いてみると意外に距離があるものだった。アメリカ海軍の基地がある横須賀の中心部に着いたのは30分かそこら歩いたと思う。

お昼を食べていなかったので何か横須賀らしいものを食べようということになり、米軍基地の近くの通りを歩いて見つけたメキシコ料理店「La Costa」に入ることにした。バイクで走っていた頃から横須賀でこういうお店に入ってみたいと思っていたのだが、なかなか機会がないままだったので、僕もうれしかった。


お店のランチメニューの名物「マンプクセット」のなかから、僕はホットドックとロコモコのセットを、妻はタコライスのセットを注文した。歯ごたえのあるソーセージにケチャップとマスタードたっぷりのホットドックと、ロコモコのハンバーグもふんわりしていてしっかりしたソースがかかっていてウマい。味も量も大満足のメニューである。こういう大盛り料理はとにかく黙々と食べることだ。ドリンクとスープがついて1000円は納得の値段だ。

その後、僕にとって横須賀を象徴する場所「三笠公園」へ妻を連れて行った。三笠とは日露戦争時の日本帝国海軍の旗艦であった戦艦であり、この公園にはその現物がそのまま保管されている、ある意味で非常に貴重な場所である。戦艦といっても本格的な大艦巨砲時代に入る前の話なので、実際にはかなり小さく感じられる。

公園の海はそのまま米軍基地の軍港と海上自衛隊横須賀基地の港に直結している。基地の対岸にあたるJR横須賀駅近くのショッピングセンターからは4隻の潜水艦をはじめ数隻の護衛艦が見られたほか、少し離れた場所には、いま騒乱の渦中にあるイージス艦「あたご」の姿もはっきりと見ることができた(写真下があたご)。仲間の船から離れた場所に停泊する「あたご」はどう見ても処分待ちで謹慎中の身分という感じであった。



戦艦三笠がロシアとの海戦で活躍していた時代から1世紀を経た現代においても、やはりこうした船は存在している。その是非についてはともかく、こうしたものが存在するにはそれなりの理由があるのだ。平和とは1人の人間が心の中で願うほど簡単なものではないのだ。そんなことを考えながら帰りの電車に乗り横須賀を後にした。

今回はフランスのジャズピアニスト、ミシェル=ペトルチアーニのソロコンサートを収録したライヴ盤を取りあげてみた。以前からたまに気が向いたら聴いていたのだが、このところ急に気に入ってしまい何度も繰り返し聴くようになった。母国の首都パリにあるシェンゼリゼ劇場で1994年に開催したソロコンサートの模様が、まるまる2枚のCDに収録されている。

素晴らしいのは冒頭に演奏される「メドレー オブ マイ フェイバリット ソングズ」。内容はタイトルの通りだが、「処女航海」から「A列車で行こう」まで続く40分の演奏は圧巻である。見た目からはなかなか想像できないパワーと楽しさにあふれた音符がシェンゼリゼの場内に溢れ出し、聴衆をジャズの興奮に導いてゆく様子がしっかり伝わってきて感動的だ。

キース=ジャレットやビル=エヴァンスのソロピアノとはまったく異なる、あまり難しいことを考えずにジャズ本来の楽しさが存分に味わえる。最近の上原ひろみの様なテクニックをにじませつつ、繊細さとストレートさを持ち合わせたジャズピアノを求める方にはかなりお勧めの作品だと思う。

さて、5年目にはいったこの「えぬろぐ」であるが、最近少しやり方をどうしようか考えるようになった。まだ結論はでていないのだが、もしかしたら近いうちに少し何かが変わることになるかもしれない。

2/24/2008

ジャズコーナーで会いましょう

 土曜日に春一番が吹いたらしい。春一番といっても今年のそれはちょっと不気味な嵐だった。昼過ぎまでは気温がぐんぐん上がりコートいらずの陽気になるかと思われたが、事前の天気予報で伝えられた通り、東京では午後2時を過ぎたあたりから急に北風が強まると同時に、気温が下がり始めた。

渋谷をぶらぶらしていた僕も、いろいろなCDやDVDに後ろ髪ひかれる思いを我慢して、そそくさと東急電車に乗り込んだ。車窓から去ってゆく渋谷の街を眺めていると、北の空に砂煙の様な雲が立ちこめているのがイヤでも目に入ってきた。その雲の暗さを見ていると確実に雨か雪が降ると思わせるものだったが、実際には違っていた。それは本当に砂煙を含んだ雲だったのだと思う。

自宅の最寄り駅を降りてみるとその雲がちょうど空の半分くらいまで覆いかぶさってきていて、自分のいるところがまさにそれに飲み込まれようとしているところだった。商店街を行く人も思わず足を止めて空を眺めている。数十メートル先の景色は砂埃にかすみ、路地を吹き抜ける風にも砂が混じっているように思えた。気温は渋谷で感じたよりもさらに冷たく感じられた。

スーパーで酒を買って足早に自宅に向かう。ちょうど北向きの路地を歩くのだが、行く先の空はいままで見たこともない異様な色の雲だった。吹き付ける風がこのところ穏やかで乾燥していた地面のあらゆる埃や砂を舞い上げた。それが大きくなってあの雲になったのだろう。

家に帰って洗面台で髪をバサバサとはたいてみると、白いシンクに砂粒がざらざらと落ちた。洗面所の窓を開けて出かけていたせいで、気のせいか洗面所の床がざらざらしているように思われた。その日の夜のニュースで知らされるまで、それが春一番だなどとは考えても見なかった。例年よりも遅いのだそうだ。

そろそろ花粉の季節でもある。気がつくと目の下が少し腫れているようだ。この季節になると先ず始めに目にこういう症状が現れる。今年はかなり飛散量が多くなるとの見通しらしいが、果たしてどうなることか。

本当の春が訪れる少し前のこの時期、どうにも気持ちがさえないことが多い。飛び始めた花粉に腫れる目しかり、期末が迫る仕事の重圧しかりというところだろうか。2月は街のいろいろな商売の人にとっても、一番入りが悪い時期なのだという。酒を飲むのも何か中途半端な感じだ。何か落ち着かないのがこの月だ。もっともそんなことをはっきりと感じるようになったのは、ごく最近になってのことだ。

このところ耳にする音楽はすっかりジャズづいている。そんななかでちょっと興味があって聴いてみたい音楽があったのだが、結局渋谷ではCDを買わずに家に帰ってiTunesのダウンロードですませてしまった。アート=ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズの"Meet You at the Jazz Corner of the World"。日本語ではそのまま「ジャズコーナーで会いましょう」で通っている。なんともいい感じのタイトルだ。

お目当てだったショーターとモーガンによる2管フロントが素晴らしいのはもちろんだが、聴いてみてあらためて思うのは、ジャズメッセンジャーズというグループのまとまりの良さというか、安心感のような懐の深さが心地よいなあということ。

はっきりいって思わずドキリとするような超スリリングな瞬間とか、唖然とする様な凄まじさがあるわけではないが、タイトルにある通り、いつの時代でも世界のどこの国でもこの作品が流れていれば、そこが「ジャズコーナー」と呼ぶにふさわしいご機嫌な場所になるのだから不思議だ。もやもやした時期に聴いても変わることのないジャズの素晴らしさがしみじみと伝わってくる作品である。

2/17/2008

時間の諸相

木曜日に妻の祖母が亡くなりまして、家内は次の日から日曜日までの予定で、実家のある広島の方に帰りました。自分も一緒に帰った方がいいのかどうか少し考えたのですが、このところずうっとホームで暮らしていらしたお祖母さんには、とうとう一度もお会いすることもなく、お通夜やお葬式にだけ参加させてただくというのもなんとなく気が引けておりましたところに、妻の方もまあ遠いところだし無理しなくてもいいんじゃないかと言ってくれましたので、今回は独りで家に残って週末を過ごすこととなりました。

急にそのようなことになりましたので、特に何をするという予定があるわけではなかったのですが、まあ自分の好きなことをやりたいようにして時間を過ごすしかありません。いつもそうしているではないかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、いざこういうことになってみるとあながちそうとも限らないなと感ずるところもないわけではありません。

時間というものは不思議なもので、本来は世の中にはひとつの時間の流れしかないはずなのですが、そのなかを行きてゆく者は皆めいめい己の時間というものがあると信じて疑いません。私がまだ独り身でいたころに、ある友人が私にこういいました。

「まったく最近は独り身のおまえがうらやましいわ。なんせ自分の時間というものがいっぱいあるやろ」
「そんなもんかね」
「そりゃそうや。おれらみたいに結婚して子供もおったら、そりゃそういうもんはないでえ。ええか、先ず結婚したら自分の時間は半分になるわけや。そこへ子供ができてみい、それで自分の時間はさらに半分になるようなもんや。そこへもてきて、仕事やら付き合いやらでさらにその半分、また半分とどんどん時間がなくなってゆくわけや」
「ちょっと待てや。僕にも仕事や付き合いいうもんはあるよ。まあ君ほどでもないかもしれへんけど」
「まあそうやな。それでも家に帰ったら基本的には独りやろ」
「そりゃそうやけど、それがホンマにエエんかどうか、最近の自分にはようわからんわ」
「まあ結婚を考えとるときはそういうもんやろなあ」
「そういう君はいまは違うということかい」
「うーん、やっぱり自分の時間はないね。っていうか激減したなあ、独身のころにくらべて。家で好きなように音楽聴けるわけやないし自由にCDも買われへんし、酒飲むのもなんか気い遣うようになってしもたしなあ。。。」

この男の言いたかったことはもちろんわかりますし、似た様なことを言う人はほかにもいます。自分自身も結婚してしばらくしてから、そういうことを感じたことがないわけではないです。「結婚したら半分、子供ができたらさらにその半分」という表現は面白いと思いましたが、結婚はまあ大人どうしでやることですから、時間の過ごし様はいろいろなことを通じてわかりあったりできるもんだと思います。子供ができると確かにしばらくの間は一方的に時間がとられてしまうということはあるでしょう。それでもそれと引き換えにあることに大きな価値があるわけですから、それだけ時間を費やすということがつまり愛情を注ぐということになるんではないでしょうか。

しかしいくら時間があったとしても、やりたいことがなければ何にもうれしいこともありがたいこともないというのも事実です。時間がないとか言う人は、それだけ何かやりたいことがあるけどできないという人かもしれません。しかし一方で、やりたいと思うてるのが果たしてどの程度のもんなのか、これがわかっている人は意外に少ないのではないでしょうか。自分にはやりたいことがあるんだという人でも、1日2日ほどの時間ができる程度であればあれをやろうこれをやろうと思えても、それが1週間1ヶ月となってくるとだんだんとその人の信じていたやりたいことの底が割れてくるというもんだと思います。

このさき一生フリーやと言われて、ずうっといろいろな音楽を聴いていられたら楽しく過ごせるかと考えてみれば、たぶんそれは違うと思います。一方では、自分には他にもやりたいことがいろいろあるんだと感じているのも事実ですが、この先自分の時間はまだ無限にたくさんあるという実感は徐々に少なくなってきたように思います。もうそろそろ未知なるやりたいことを想定する年ではないのでしょう。

一つ言えるのは、何にもやらないでやりたいと思うてるだけではいつまでたってもそれは本当にやりたいには育っていかんということでしょう。その意味ではいろいろと手を出してみるのは絶対にええことだと僕は思います。毎日が充実していると感じている人は、特別な何かをやらなくても毎日の生活がその人のやりたいことというわけで、もしかしたら一番幸せなのはそういう生き方かもしれませんが、自分はまだそんなところまでは至っていないのでしょうね。

結局、自分はこの2日間いままでとあまり変わりなく、買い物をしたりラーメンを食べたり酒を飲んだり音楽を聴いたりして過ごさせてもらいました。まあいろいろと得るものはあったと思います。妻は予定通りに日曜日の午後に帰ってきました。2日間のことをいろいろと話してくれましたが、特に何か大きな問題があったわけでもなくお祖母さんとのお別れは無事にすませることができたようです。

寒い週末でしたが少し違った時間と空気のある週末でありました。