8/28/2006

山下和仁/ラリー=コリエル「ヴィヴァルディ:四季」

 先の木曜日の夕方、会社で仕事をしていると、突然、携帯電話の着信音が鳴った。実家にいる親父が、救急車で病院に運ばれたという知らせだった。最近の父親の様子をある程度知っていたとはいえ、ほんの2週間前に会ったばかりで、その時は思っていたよりは全然元気だったので、報を受けた僕は大層驚いてしまった。

その後、詳しい事情を知っているらしい、叔母と電話がつながり、親父の病状や診断、治療方針等についての担当医師からの具体的な話を知って、ようやく事情が理解され始めた。本人や僕ら家族が知っている病気が直接の原因ではなく、頭の中に小さな出血があって血溜ができ、知らず知らずの内にそれが少しずつ大きくなってくるという症状だった。

確かに、少し前から頭が痛いとは言っていたが、それはいま疑われている別の病気に起因するものと思っていたのに、実際にはそういう症状が進行していたのである。大きくなった血溜は、脳を圧迫し、とうとうそれが具体的な運動機能の麻痺という形で発症したのである。実際、父親からの電話でヘルパーさんが実家に駆けつけてくれたとき、彼はまったく立ち上がることが出来なかったのだそうだ。

僕はすぐにでも実家に戻ろうと思ったが、既に時間が遅く、その日は状況がわかったところで我慢して、翌早朝の飛行機で、妻とともに関西空港に飛んだ。父親は強い頭痛で辛そうな顔をしていたものの、意識はハッキリしており、普通に会話をすることもできたので少し安心した。

叔母と僕達の3人で、脳外科の担当医から症状とこれからの処置(手術)について説明があり、僕はその場でいくつかの同意書にサインをした。CT画像で見ると、頭頂部の両側にそれなりの大きさの血溜があり、手術はそこに穴をあけて、溜まっている血を取り除くという内容だった。

頭部の該当部分の髪の毛を剃り、それぞれの頭皮に5cm前後メスを入れて開き、現れた頭蓋骨に1cm前後の穴をドリルで開ける。そこに血が溜まった部分の硬膜が現れるので、それを破って血を抜くのだそうだ。手術は程なくして午後から始まった。

驚いたのは、この手術を部分麻酔でやるということと、手術そのものが90分程度で終わると医師が言ったことだ。手術と言えば、患者は眠った状態でやるものと、勝手に思い込んでいた僕も古い人間になったようだ。しかも、骨に穴を開けて血を抜いてまた穴を塞いで、頭皮を縫い合わせるという、そんな複雑なことがわずか90分で済んでしまうという。

結局、手術は無事に成功し、左右合わせて300ccの血溜を抜き取られた父親は、きっかり90分後に病室に戻ってきた。感想は聞くまでもなかったが、頭部の痛み以外のほぼすべての意識があるままの状態で、頭蓋骨にドリルで穴を開けられるわけだから、それは生きた心地がしなかったそうである。元々、生きるための治療なのだが。その日は絶対安静なので、無事を確認しただけで病院を後にして実家に戻った。

翌日、病院に行ってみると、傷跡が痛むと言っていたものの、出された食事を旺盛に食べる父親を見て、僕は少し目が潤んだ。本当は、今回のことよりもシリアスな別の病気の疑いがあり、そちらの方が長い目で見て心配なのだが、とりあえず本人が訴えていた頭痛については解決しそうなので、ひとまずは大きく安心した。本当によかった。

そんなことがあって、ろぐの更新が遅れてしまったが、今回の作品はヴィヴァルディの協奏曲集「四季」を、アコースティックギターのデュオでやってしまったという、問題作である。以前、このろぐでもとりあげた山下和仁と、その相手を務めたのが前回のろぐでも登場した、ラリー=コリエルである。クラシック対ジャズのギターセッションと思いきや、意外にも両者の中間点あたりで融和した演奏は見事である。

原曲の第一曲「春」の冒頭を知らない人は少ないだろう。もともとヴァイオリンを前提にした協奏曲なので、バロックから近代に至る時代の作品とはいえ、それなりに技巧的には難しい部分が多い。ましてや、オーケストラのアンサンブル部分も含め、たった2人でそれを演奏しようというのだから、アレンジの方もかなり困難を極めたに違いない。

個人的にはあまりクラシック作品としてこだわって聴く必要はないと思う。ギターデュオという編成の題材として、この作品をどう演奏するのかという観点から、ジャンルを超えたギター音楽の高みを味わうことができればいいのだろうし、もちろんその意味でこの作品が到達している点は、とんでもないところにあるのだし。時に情熱的に、スリリングに、叙情的にと表情を変えていく演奏は、ギターファンにとってはたまらない。

この音楽をiPodに入れて、実家への行き帰りに聴こうと思ったが、やはり往路ではとても音楽を聴く気にはなれなかった。父親のことはいまでも心配ではあるが、とりあえず大きな事態をなんとか乗り越え、以前と変わらぬ食欲で、病院食を平らげる様子をみた後の帰路においては、この曲本来の清々しさを確かに感じることができた。

日曜日まで実家にとどまって、病院との間を往復し、その日の午後からはまた叔母に面倒をお願いすることにして、僕等はひとまず川崎に帰ってきた。和歌山に滞在した3日間は毎日がとても暑かったが、日曜日に新幹線を降りた品川が涼しいのにはびっくりした。まだまだ暑いといっても、やはり秋の気配は確実にやってきている。

8/20/2006

ザ ジャズ コンポーザーズ オーケストラ

 夏休みの帰省中に放映され録画してあった、関野吉晴氏の「新グレートジャーニー〜日本人の来た道:第一弾」を観た。6月末のろぐで紹介した映画「プージェー」の記憶が新しいところだったが、今回の旅の出発点はモンゴル、そこで彼女の死についての話から物語は始まった。番組の内容については省略するが、それにしても、関野氏の度胸というかバイタリティは凄まじい。比べれば、なんとちっぽけな自分であることか。

今回とりあげる作品は、僕にとっては結構長い付き合いのものだ。はじめて聴いたのは、20年くらい前だろうか。最初に買ったのはLPレコードだった。確か、2枚組で通常の見開きジャケットではなく、そこそこ立派なボックスに入っていた。ただし、中古盤だったので盤面には若干のカビが認められたのを憶えている(それだけに値段も安かったのだと思う)。いまでも音を聴いただけで、あのカビ臭さが鼻によみがえって来る。いまはCD1枚になり、僕はいまでも時折この作品を取り出しては、じっくりと耳を傾ける。

その名の通り、この作品はオーケストラものなのだが、内容はいわゆる「フリー」のジャンルに属するものと観なされている。ある程度ジャズを聴いて来た人なら、ジャケットに記載された豪華な参加メンバーをみただけで、瞬時にそれなりの判断を下すことができることと思う。フリー系なのに、タイトルにある「コンポーザーズ(作曲家)」とは何事か、と気に留める人はもはや少ない。しかし、そこは割と重要なポイントなのである。

このプロジェクトで演奏/収録されている作品は、すべて予めマイケル=マントラーによって書かれたスコアに基づいている。マントラーは(おそらくは)楽曲でフィーチャーするソロプレイヤーを念頭に、楽曲の全体構成とオーケストラアンサンブルを用意したのである。当時使われたスコアの一部は、アルバムのライナーノートとともに収録されている。

オーケストラは管楽器のアンサンブルと、ベース、ドラム、ピアノからなる、いわゆるジャズオーケストラである。ただし、ベースだけはすべての曲で常時5人の演奏者が参加している。ロン=カーター、エディ=ゴメス、チャーリー=ヘイデン、レジー=ワークマン、スティーヴ=スワロウ等々の蒼々たる顔ぶれを見れば、このプロジェクトに託された当時のジャズアーチスト達の意気込みが相当なものであることがわかるだろう。

そして、収録された5つの楽曲に登場するソロプレイヤーは、セシル=テイラー、ドン=チェリー、ラズウェル=ラッド、ファラオ=サンダース、ラリー=コリエルという超豪華版。マントラーが解釈し綿密に作曲した、フリージャズの要素から構成されたアンサンブル演奏の上を、彼等のインプロヴィゼーションが縦横無尽に疾走する。安易な「即興大会」では決して味わうことの出来ない、極上の音楽表現に邂逅することが出来る。

はじめてこの作品に触れる方は、先ずは半ばに収録されている、ファラオをフィーチャーした小作品"Preview"をお聴きになることをお勧めする。そのタイトルが象徴するように、わずか3分半の演奏のなかに、このプロジェクトの音楽的構想のすべてが見事にまとめられている。もはや一切の説明は不要だろう。あとは最初から作品を聴いてみればいいと思う。当たり前だが、その作品も夢の様な素晴らしさに溢れている。

面白いのは、その作品を除く他のすべてのタイトルが"Communications"という名の連番作品になっていること。非常に基本的なことではあるが、単純に「フリー」と呼ばれるだけの軽々しさや安易さではなく、こうした音楽においても、またそうでない音楽においても、集団演奏そのものの根本的な目的や本質が「コミュニケーション(=交感)」にあることを再認識させてくれる。

音楽演奏は、それが何の楽器であれ何のジャンルであれ、すべて常に自分の外に向かって行われるもの。そしてその際、同時に演奏者は自分に向けられる音楽表現に対しても開かれた態度を持っていなければならない、ということだろう。恐らくは、音楽表現に限ったことではないと思うのだが。

ライナーノーツとともに収録された、レコーディング時の写真集もとても興味深い、なかでも有名なのはジャケット裏に掲げられた、セシルが演奏するピアノの譜面台を撮った1枚である。そこに何が置かれているのかは、ここには書かないでおこう。

蒸し暑い毎日が続く。どうか皆様、体調を崩すことなく、毎日の交感を楽しんでいきましょう。

8/16/2006

チック=コリア「スリー クァルテッツ」

 短い帰省の合間に、以前活動していたバンド仲間と大阪梅田で再会した。4人全員が会するのは、何年ぶりだろうか。とにかくよく飲みよく語り、結局最後まで一緒だった人とは、夜中の2時まで飲んでいた。外でこんなに遅くまで飲むのも、数年ぶりだと思う。

このところ、各メンバーの仕事や家庭の事情からなかなか活動ができず、自然休止のような状況になっている。今回集まってみても、やはり再開しようという話は盛り上がる。僕個人のことを考えてみれば、仕事の状況は以前よりも忙しくなっている。まあ、それはなんとかなりそうだと思うのだが、楽器の腕はかなり挽回する必要がありそうで、さらに耳だけはどんどん肥えていくので、その辺の割り切りがどこまでできるか心配なところではある。

梅田の街は華やかだった。一時は東京と変わらなくなったかなという気もしたけど、今回訪れてみて、やっぱり違うなあと感じた。自己主張とそのセンスの良さという点では、東京に比べてはるかに活気がある。人々の服装や、お店の内外装、飲み物や料理に至るまで、それなりの主張をしている割合が高いように感じる。僕は好きな街だ。

音楽活動の再開について考え、まあみんなで楽しくわいわいやろうやと、割り切って考えないとなあと思う反面、自分の耳が聴きたいと欲する音楽はそうでないのは辛いところである。今回の作品も、帰省する直前あたりから思い出したように聴き直しているものだが、帰りの新幹線でこれを聴きながら、音楽活動のことを考える自分は、どこかで分裂していた。

チック=コリアは、どちらかというとコンポジションやアレンジメントという意味での、才能が光るアーチストだろう。彼の作品から評して「メロディーメイカー」と呼ぶには、やや失礼かなと思う。かなりしっかりとしたスコアとして作り込まれた音楽のなかに、優れたインプロヴィゼーションを引き出す良質の温床が用意されているのだと思う。演奏者には、複雑なハーモニーやリズムからなるテーマを元にした、アドリブが要求される。

彼の活動の中で最も人気があるのは、おそらく「リターン トゥ フォーエヴァー」と呼ばれる一連のものだろう。だが僕はその作品を1枚も持っていない。楽器、特にピアノやキーボードを演奏する人には、熱烈なファンも多いが、即興演奏の要素が強いものを好む僕自身の耳には、あまり合わないようだ。

今回の作品は、チックがその活動に終止符を打ち、よりモダンジャズの色彩が強いスタイルの音楽を求めるなかで生まれた作品である。タイトルの通り、サックスを中心にしたクゥアルテットを念頭に書かれた、3つの(実際には4つだが)作品が収録されている。僕にとってチック=コリアの最高傑作は未だにこれだ。

マイケル=ブレッカー、エディ=ゴメス、スティーヴ=ガッドにチック本人で構成された、超モダンクゥアルテットに最適化された音楽は、いずれも超強力な内容。アドリブパート以外はかなり細かいスコアが用意されていると思うのだが、そうした枠や制約を一切感じさせず、ひたすら広がりを感じさせる演奏内容は、やはり演奏者達の卓越した力量だろう。

クレジットにはこの作品を完成させるに際して、インスピレーションを与えてくれたアーチストの名前が列挙されているが、マイルスやショーターなどジャズの巨人達に混じって、ベートーベン、バルトーク、ベルクらの名があるのもチックらしい。そしてそこにアンソニー=ブラクストンの名前がないのも.やっぱりそうなんだなあという実感がある。

CD化に際して、このレコーディング時に余興的に演奏された新曲のスケッチなどがオマケで収録されているが、ライナーノートでチック自身が「本編とのギャップがありすぎるので、収録しようかどうか最後まで迷った」と書いてある通り、いま考えてみてもあまり価値のないものである。僕自身は1、2度聴いてみたが、以降これらのトラックを聴くことは無い。

以前、知り合いに音楽好き女性がいて、この作品について面白い話をしてくれた。その人もジャズやクラシックなどいろいろな音楽を聴いていて、一緒に暮らしていた母親も大抵はそういう音楽を一緒に聴いていたらしいのだが、この作品を流すと、決まってその母親が狂ったように「止めてぇ止めてぇ」と懇願したのだそうだ。どうやらブレッカーの咆哮が、お母さんには堪え難かったらしい。まあわかりたくはないが、わからなくはない話だ。

この恐るべき傑作を聴きながら、僕は自分の楽器をじっと見つめてみたが、聴いている間に楽器に手を伸ばすことはなかった。

Chick Corea 公式サイト

8/05/2006

マイルス=デイヴィス「キリマンジャロの娘」

 この数日間、段階的に毎日気温が1,2度ずつ上昇し、先週半ば過ぎあたりから熱帯夜になった。その後も気温は上がり続けているように思う。これを書いている8月5日土曜日の午後、おそらく外の気温は34度くらいあるだろう。真夏だ、今夜はビールをしこたま飲もうと、樽型の生ビールを仕入れて冷蔵庫に冷やしてある。それを飲む前に、ろぐを書いてしまおう。

このところ仕事でかかりっきりになっていたレポートを書き上げた。国内のインターネット市場動向関する内容なのだが、しばらく見ていないうちにずいぶんと市場は深く広くなった。ここ数年に誕生した若い企業の動向をいくつもとりあげた。なかには最近上場を果たした企業もある。時代の変化を感じないわけにはいかない。

企業を永遠に存続させるなどというのは、まったくもって迷惑な幻想だろう。営んでいる事業の中味を時流に合わせる努力は必要だが、それがどうしても合わないのなら、いっそやめてしまう潔さも必要だ。それが何か他の理由でできないというなら、働いている人は決して幸せではない。規模の大小に関わらず、いまそういう(あるいはそうなりかけている)企業が多いように思った。

暑いと軽快で爽やかな音楽が聴きたい、と思うほど僕の耳は素直ではない。まあそもそも軽快で爽やかなとは、一体どういうものかが人によって違うということなのだろう。ラテンやレゲエ、あるは前回とりあげた沖縄民謡は確かにそうなのかもしれないが、少し前にとりあげた津軽三味線はどうなのか、あるいはクラシックと呼ばれるジャンル(この呼び方もそろそろ整理して再考した方がいいと思う)では、何がそうなのか、などと考えているうちに、どうでもよくなって、いま自分が聴きたい音楽は何かなと本能に問うてみた結果が今回の作品につながった。

ちょっと怪しげで怖いジャケットは、当時のマイルス夫人のポートレートを2重撮りしたもの。右目と左目が重なるようにあしらわれ、全体に赤いフィルターがかけられている。なかなか夏らしいジャケットである(笑)。タイトルはフランス語のオリジナル"Filles de Kilimanjaro"の直訳。どういう真意があるのかはわからないが、単純に「アフリカ美人」という程度の意味に考えてよさそうだ。そう考えると、少しは暑さと縁のある作品なのかもしれない。

この作品に対する評価を少しネットで見てみると、「迷える名作」とか「過渡期の云々」などと奥歯にものの挟まった様な「けなし」が多いことを知って少々驚いたりもした。「あんたらアホか、どんな耳しとるんじゃ」と素直に言っておきたい。この作品は掛け値なしの大傑作である。

収録された5曲のうち3曲が、マイルスと、ウェイン=ショーター、ハービー=ハンコック、ロン=カーター、トニー=ウィリアムスからなる、いわゆる「黄金のクィンテンット」による演奏。2曲でピアノとベースがそれぞれチック=コリア、デイヴ=ホランドに替わるが、録音された時期は3ヶ月程の間隔しか開いていない。ピアノはいずれもエレクトリックピアノで、デイヴはエレキベースを演奏している。

1曲目"Frelon Brun"の出だしに興奮するかどうかで、この作品に対するその人の評価はほぼ決まる。暑さや寒さのような自分のいまいる場所の空気を、一瞬にして忘れさせて、どこか真空の世界にひき込まれるようなこの陶酔を味わえる人は幸せだ。このアルバムで重要なのは、まさにこの最初の空間移動(ワープ)である。これがないと、以下に続く楽曲で起っていることがわからずに、退屈な思いをすることになるだろう。

面白いことに、音楽のテンポが少しずつ緩んでいくような順番で、5つの曲が配列されているように思えるが、テンポに関わらずスタジオに張りつめた緊張感がそのまま伝わってくるところが、この作品の魅力なのだろう。4曲目のタイトル曲のテーマが持つ美しさと厳かなイメージは、確かにキリマンジャロである。そして、その名にふさわしいマイルスそしてショーターのソロはまさに絶品だ。

不思議なテンポとリズムを持つラストの"Mademoiselle Mabry"は、リラックスを促されながら「ただし、息をしちゃダメよ」と言われているような作品。16分間の無呼吸はさすがに無理だが、ここに至って訪れるのはまさに究極のチルアウト(chill-out)だ。消え去った4ビートジャズの後の真空に、新たな音楽が生まれた瞬間である。

サブタイトルに有難く添えられている"Directions in music by Miles Davis"というのが、当時のレコード会社の心境を表しているようで、どこか哀れな気もする。明らかに彼等はこの内容に自信がなかったのだろう。無理もない、「黄金のカルテット」ではない若い(しかも白人の)メンバーが2人加わっているうえに、エレキピアノとエレキベース、しかもリズムはもはやどの曲も4ビートではない。一見、カッコいいコピーにも見えるが、僕にはそういうふうに思える。

新しいものが生まれ、育つ。その瞬間はいつの時代にもあることだ。それは決して恣意的なものではなく、むしろ必然である場合が多い。時代はそれを阻害してはいけない。そして、老体は自分の価値観や力に宿る影響力を常に自覚し、それが及ばぬことを悟ったら、素直に自分の役割を譲る必要がある。マイルスの様な例は、多くの人にとって憧れではあるだろうが、極めて稀な存在であることは認めるべきことだろう。