8/27/2005

デヴィッド=S.ウェア「ライヴ イン ザ ワールド」

  台風がやってきて、関東地方はまたまた一気に蒸し暑くなった。嵐が去った金曜日の夜9時でも、東京渋谷の気温は30度もあったそうだ。

 この夏は猛暑というわけではない、普通の夏だったように思う。「クールビズ」の効果だったとはにわかに思えないけど、ここ数年続いた連日の暑さというのとは、少し違った夏だったように感じた。

 まだ夏が終わったというわけではないのだが、来週からもう9月に入るという事実に、どことなく惜しい感じがする。やはり夏はいい。太陽がいいし、ビールがうまい。僕の大好きな辛い食べ物も特にうまく感じられる。

 僕はカレーが大好きである。インドカレーやタイカレーも好きであるが、一番好きなのはカレーライスだ。子供じみているとは言わせない。辛いヤツがいい。自分で作るのも好きだ。今年も2回ほど作ってみた。

 大阪にいた頃は、ずっと通いつめたカレー屋さんがあって、僕はそこのカレーがいまでも一番好きである。あちらにいく機会があるときはできるだけ立ち寄るようにしている。大阪梅田周辺に数店出している「インデアンカレー」というお店。大阪ではかなりメジャーなお店である。今度、東京の丸の内に出店するという噂を、インターネットで知った。嬉しいと思うなかにも、一抹の不安か心配がよぎるのはなぜだろう。

 今日も、夕食を自宅の近所にあるタイ料理屋さんですませた。JR横須賀線新川崎駅のすぐ近くにある「ラーイマーイ」というお店。家から歩いて20分ほどのところにある。ここはいろいろな料理を出しくれるし、値段もそこそこで美味しいタイ料理が楽しめる。お店の内装も落ち着いていて、場所柄それほど混んでいないので、居心地がいい。

 いままでなら、2人で3品ほど料理を注文してビールを飲み、最後にカレーでしめるというのがお決まりだったのだが、今日はビールを2杯飲んでしまったらおなかがふくれて、カレーは食べずに帰った。ちょっと名残惜しい。

 タイでは象が神様である。お店にも象をあしらったいろいろな壁飾りや置物が並んでいる。今回とりあげるCDのジャケットにも、鼻がサックスになった象がデザインされている。この一週間、通勤時にはほとんどこれを聴いて過ごした。

 デヴィッド=S.ウェアは、今年56歳になるサックス奏者である。決して若くはない。しかし、最近ジャズの世界ではなかなかこれと思えるサックス奏者がいない僕にとっては、ブランフォード(=マルサリス)とはまた違った意味で、とても貴重な存在である。今回の作品は、彼が自己名義の作品としてははじめてとなる本格的なライヴアルバムだ。ヨーロッパの3つの会場での録音をCD3枚組に仕立ててある。

 ウェアの名前は、このろぐで以前にセシル=テイラーの作品をとりあげた際に登場している。あの作品はほぼ30年前、ウェアが20代の時のものだが、今回の作品は1998年と2003年の録音。共演はマシュー=シップ(ピアノ)とウィリアム=パーカー(ベース)と、現代のフリージャズシーンをリードする名物トリオなのである。

 ウェアはアイラーに似たスピリチュアルな演奏と音色を持ちながら、セシルの影響か音楽の構造面での表現もしっかり併せ持った、現代的なフリージャズを実現できている人だ。

 アイラーの話がでたついでにいうと、ウェアは少年だった頃のアイドルは同じくソニー=ロリンズであり、ウェア自身その頃にロリンズからサックスの演奏を教わった経験を持っているという。今回のCDでも3枚目でロリンズの「フリーダム スウィート」全曲を演奏しており、ブランフォードとは全く異なる方向のジャズでありながら、曲のタイトルを地でいく見事な演奏をしている。ロリンズ譲りの(?)力強いローブローも随所で聴くことができる。

 CD1枚目の「アクエリアン サウンド」がいきなり30分を軽く超える長尺演奏。イントロで全体のテーマとなるパーカーが奏でるベースラインの、なんと切ないことか。拍子の観点から言えば4/4拍子の時間軸で書かれてはいるもののノリは全く変則的なパターン。でありながらそんな構造はお構いなしに、圧倒的エモーションが迫ってくる。このユニットが目指す音楽の深さが現れていると思う。

 とにかく、こういうオリジナリティがあって存在感のある、力強いサックス演奏というのは、最近の作品にはあまりないように思う。ウェアはフリージャズだからと敬遠する人もいるかもしれないが、シップやパーカも同じく、より洗練され現代に息づくフリージャズという意味で僕はお勧めしいたい。見事なサクソフォンミュージックである。

David S. Ware official website ウェアの公式サイト
Thirsty Ear Recordings ウェア等の作品を発売するサースティイヤー社の公式サイト MP3での試聴もできます

8/20/2005

マルグリュー=ミラー「ライヴ アット ザ ヨシーズ Vol.1」

  暑い毎日が続いているが、真昼間にエアコンもつけず、サッカーパンツ一丁でマックに向かってこれを書いている。まあこれはこれで不愉快なものではない。

 さて、夏休みにふるさとを訪ねた記録を綴った前回だったが、何人かの人からメッセージをいただいた。同郷の人、そうでない人様々だった。やはり生まれ育った土地に思いを巡らすと、人は少しセンチに(センチってsentimentalのことだよ)なるのだろうか。いまの生活がもちろん自分の舞台であることはわかっているのだが、ふっと記憶に間がさしてふるさとが蘇り、それで少し気分がリセットされる。そういうところなのかもしれない。

 今回は、久しぶりに正統的な(?)ジャズピアノトリオの作品をご紹介したいと思う。

 マルグリュー=ミラーは今年50歳を迎えた黒人ジャズピアニスト。彼はちょうど僕がジャズを聴き始めた大学生の頃、新鋭の若手ピアニストとして注目を集めた。当時は、アート=ブレイキーのジャズメッセンジャーズでもピアノを担当するなど、なかなかの才能を見せていた。確か、僕もその頃の彼の演奏を収録したCDを持っているはずだが、いまは押し入れに眠っている。

 その後、いわゆるメインストリームジャズにとっては、少し地味な時代になってしまい、彼の名前が僕の音楽生活に登場することはなくなってしまった。ところが、最近、輸入CD各店のバイヤー情報で一斉に話題になった今回の作品で、僕は久しぶりに彼の名前を目にすることになった。

 彼が現在率いているトリオのライヴ演奏を収録したもの。場所はカリフォルニアのオークランドという街にあるヨッシーズというジャズクラブである。既にこの作品の続編(Vol.2)も発売されている。

 演奏は50年前のマイルス=デイヴィスの演奏で有名な「イフ アイ ワー ア ベル」で始まる。時報のチャイムのメロディで始まる軽快な演奏。すぐさまアメリカ西海岸でのジャズの夜にひき込まれてしまう。様々なスタンダードナンバーや彼のオリジナル曲が実にいい雰囲気で展開される。内容は決して軽々しいものではない。リラックスしたなかにもしっかり聴かてくれるジャズである。

 発売元のMAXJAZZというレーベルは、1998年に設立されたプライベートレーベルのようで、現在までに数十タイトルの作品を発売している。ピアノシリーズは本作をはじめ、デニー=ザイトリン、ジェシカ=ウィリアムズ等の非常に趣味のよい演奏を揃えているようだ。他にヴォーカルシリーズやホーンシリーズもあり、サイトを見る限りはなかなか充実したカタログになっている。

 久しぶりにいいジャズに触れることができて、いい気分である。MAXJAZZの他の作品にも手を出してみたいと思っているので、いい作品があればおってまた紹介していきたい。これから秋を迎えるまで、いい演奏に巡り会えそうである。

MAXJAZZ.com MAXJAZZのサイト いろいろな作品が試聴できます
mulgrew miller International JazzProductionsによるマルグリュー=ミラー紹介ページ

8/16/2005

散歩~僕の生まれ育ったところ

 短い夏休み。実家のある和歌山に帰った。親父が数ヶ月前から少し具合を悪くしていて、その様子を見に帰るのが大きな目的だった。そして、親父に代わって祖母のいる実家に出向いて、もう何年も寝たきりになっている祖母のお見舞いにいくこと、お墓の掃除をして祖父の仏壇にお参りをすること、そういった用を済ませているうちに、滞在期間が過ぎてしまうそんな計画の帰省だった。

 親父の様子はちょくちょく電話をして確かめていたので、特に心配するようなところはなかったが、病気のせいで少し痩せたのか、また一段と年をとった印象を受けた。

 到着した翌日、兄と僕の妻の3人で親父の実家に出かけた。僕の実家がある和歌山市から電車で数十分南に下った、有田市というところが目的地である。兄にレンタカーを借りてもらって、自動車での移動ということにした。

 今回わざわざ車を借りて出かけたのには、理由があった。それは、自分たちの生まれ育ったところを訪ねるということだった。父の実家とは少し離れたところに、勤めていた会社の大きな工場があり、それに隣接するかたちで社宅や寮で形成された小さな地区があった。そこが僕の生まれ育ったところである。


 僕はその社宅の町で生まれ、高校2年生の終わりまでをそこで過ごした。そこからいまの実家がある和歌山市に越して以降、僕が自分の生まれ育った場所を訪れたことは一度もなかった。以前から、実家で兄と酒を飲んで話すたびに、この計画が話題になっていた。気がつけば24年間の年月が過ぎていた。今回ようやくそれを実行するときが来たというわけだ。

 僕や僕の妻や僕の兄のように、故郷を出て都会で働く人は多い。故郷に帰ったらそこが生まれ育った場所だという人も多いだろう。一方でまた、生まれて以来その場所から居を移したことがないという人もいるだろう。でも僕の場合は違っていた。

 僕は、途中二度ほど住む社宅を移ったが、17歳までは同じ場所に住んだ。そして次の場所(現在の実家)で大学受験の1年間を過ごしたら大阪の大学に進学し、卒業後はそのまま東京に就職したので、高校卒業以降、結婚するまでの17年間は基本的に独り暮らしが続いた。その間、住む土地は大阪から神奈川になり、住居については6回の引越しを経験した。その意味で、最初の17年間を過ごした場所が、いまのところ僕にとっては一番長く暮らした場所ということができる。正直、愛着はあまりないけど、想い出はいくらでもある。そんな場所だ。

 祖母を見舞い、お墓の掃除やなんかを済ませて、叔母らに見送られて父の実家を後にした僕らは、車を目的地に向けて走らせた。途中までの国道はその後も何度も通過したが、僕の生まれ育った場所へつながる、細い道に入る。24年ぶりということを考えると、ウソではなく胸が高鳴った。

 集落は4階建てで24世帯を収容するアパート8棟と、平屋で小さな庭のついた2軒長屋の住宅およそ20棟からなっていた。あとは小さな商店が3軒程と、風呂のないアパートの人が主に使う共同浴場があり、その界隈の園児が通う小さな幼稚園が一つと、住民の運動会などをするグランド、そして小さな集会場があった。僕も兄もその幼稚園に通い、その集会所で算盤や書道の習い事に通った。

 その道に入って先ず感じたことは、僕の記憶のすべてが子供の目線だったということ。死ぬ思いで自転車をこいで駆け上った坂道は、何てことはない平坦とも思える道だった。そしてその道のなんと狭く見えることか。ほどなくして、僕らの住んでいた社宅が建ち並ぶはずの場所に着いたのだが、そこには野草がボウボウに生えた広場があるだけだった。


 なんとなく話には聞いていたのだが、その草むらは社宅がしばらく前に取り壊された跡だったのだ。車を降りてみると、当時の家々の間にあった路地跡だけを遺して、個建ての社宅と幼稚園、共同浴場などはすべて取り壊されていた。僕らが住んでいた社宅があった場所に立ってみた。とても狭い。ここに庭付きの平屋建てが本当にあったのだろうか。路地も驚くほど狭かった。

 いま見ると決して広いとはいえない跡地から、まだ残っているアパート群が見えた。それらも現在も入居しているのは2棟のみ、残りは入り口を木材で封鎖された格好で廃墟になっていた。アパート群の一画に作られた花壇も、さびた枠だけを残して草がぼうぼうになっていた。それにしても狭くて小さい。


 驚いたのは、その地区の住民を主に相手にしている商店が、いまも細々と営業しているらしいことだった。この日はお盆休みで、どちらの店もシャッターが下がっていたが、自動販売機や店の横に積まれた箱などの様子からして、いまもお店をやっていることは間違いなかった。きっとお店をやっている人も、次の世代に移っているに違いない。


 僕らが通った幼稚園も、ブランコなどの錆びた遊具を残して取り壊されていた。当時、走り回るには十分すぎる広さに思われたその場所も、いま見てみると自分の記憶にある教室や広場や花壇は、本当にここにすべて収まっていたのかと思えるほど、小さい場所だった。園に隣接した集会所だけはかろうじて遺されていたが、習い事をやる教室というより、物置のようにしか見えなかった。


 両親が結婚して新しい生活を始め、僕らを産み育ててくれた場所。いまその頃の両親と同じ年頃になった僕は妻と二人で同じ土地に立っていた。地域にあの頃の活気はもはやなかったけれど、この狭い場所で僕らを育ててくれた両親が、当時肌で感じて考えていたことの一端に触れることができたような気がして、僕は思わず幼稚園の跡地で目を閉じてしまった。

 ありがとう、お父さん、お母さん。

(アパートの脇にあった共同水栓の跡。水を飲んだり、泥んこのクツを洗ったり、水鉄砲に水を入れたり、自転車を洗ったり・・・本当にいろんなことをしました)

8/09/2005

レインボウ「オン ステージ」

  懐かしい音楽に耳を傾けた。ロックギターの神様リッチー=ブラックモアが結成したグループ「レインボウ」の1977年の日本公演を中心に、彼等のコンサートを再現したライヴ作品である。当時はLP2枚組で発売された。

 この演奏に前後したヨーロッパ公演の模様が、当時NHKで海外のロックグループのライヴを放映することで人気だった番組「ヤングミュージックショー」でとりあげられ、中学生だった僕もそれを観て少なからずの衝撃を受けた。いまだに時折こうしてその光景が頭に蘇り、そんな時、僕はそっとこの作品を聴いてみる。

 ジャケット写真にあるようにステージには巨大な虹の電飾が設置されていて、暗い会場に映画「オズの魔法使い」の音楽が流れ、主人公ドロシー少女の"We must be over the Rainbow..."という声に続いて、「オーヴァー ザ レインボウ」のテーマが高らかに演奏され、メンバーがステージに浮かび上がるとともに虹が光で満たされる。客席を埋めつくしたギターの神様に魂を捧げた男達から湧き上がる野太い歓声。このときの光景と胸に沸き上がった興奮はいまでも脳裏と心に強く焼き付いている。

 「キル ザ キング」「銀嶺の覇者」「キャッチ ザ レインボウ」など彼等の名曲が次々に演奏されてゆく。各メンバーのソロをたっぷりとフィーチャーした長尺の曲を中心に展開され、ミュージシャン達が存分にクリエイティビティを発揮してやりたい音楽を楽しんでいた当時の様子がうかがえる。メンバーもコージー=パウウェル、ロニー=ジェームス=ディオ等、当時のベストメンバーによるもの、これで悪かろうはずはない。

 いいものは色褪せない。親父臭い言い方になるが、この時期のロックは本当にとてつもないエネルギーを持っていた。グループそのものの絶頂期であるだけでなく、ロックという音楽そのものの絶頂期である。そこではアートがビジネスを遥かに上回っていた。古き良き時代とは言いたくない。中身は変わってもいまもそれはあると信じたい。そういう音からは素直にそれが伝わってくるものだ。

 ブラックモアの音楽はディープパープルの頃から、クラシック音楽特にバロックとそれ以前のいわゆる古楽に強く影響を受けたものである。このアルバムに収録された音楽でも随所にそうした音楽が見え隠れする。

 彼はこの後もレインボウを中心に断続的に活動を続けて大きな成功を収めた。そして現在は、1997年に美しき歌姫キャンディス=ナイトと共に「ブラックモアズ ナイト」を結成し、ルネサンス音楽をベースにしたアコースティック色の強い作品を演奏して活動を続けている。グループ名からもわかるように、ブラックモアはキャンディスと生活を共にしている。ブラックモアは1945年生まれ、キャンディスは1971年生まれである(なんとまあ)。

 自分のルーツをしっかりと自覚し、それを一生かけて追求し続ける。まったく素晴らしいことである。

The Official Ritchie Blackmore & Blackmores Night Website 公式サイト
BLACKMORE'S NIGHT ポニーキャニオンによる日本公式サイト キャンディスのロングインタビューがあります
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