9/30/2007

アンドレイ=キリチェンコ「モルト オゥ ヴァッシェ」

 9月最後の日。東京は週末から急に気温が下がり、今日の日中は20度を下回るとのこと。早朝ベッドで寒くて目を覚まし、冬用の布団をかぶってまた眠った。朝から雨降りの空模様である。たまには雨が降るのも仕方ない。それは必要なことなのだから。

9月の最終週は仕事でレポート作りに明け暮れた。7月から一緒に仕事をするようになった若手の力もあって、なんとか約束の期限内に形にまとめることができた(それにしてもぎりぎりだったが)。僕はそのあたりの納期感覚というものがちょっとルーズだから、それをきっちりやり遂げるという意味でも、やはり物事は独りでやるより2人の方がいいと実感した。2人より3人の方がいいかどうかについては、また難しい問題が関わってくるように思う。僕の感覚ではそれはかなり次元の異なることだと思う。

今回のレポートでは最近のアップル社について少し分析してみたのだが、ある素晴らしい技術とかアイデアというものがあった時、それを活かすか殺すかは企業なり個人なりの才能次第だということを実感させられた。そしてもう一つは10年という時代観に対する姿勢ということ。技とか趣味とか何かのテーマについて、10年後の自分はあるいは自分たちはこうなっているということを見通し、それに向かって粛々と行動するというのは本当に難しいことだ。彼らはそれをやり遂げたし、その成果をいま享受している。

今日は、先々週に渋谷のタワーレコードで買った3枚のCDから1枚をご紹介しておく。

アンドレイ=キリチェンコという人は、ウクライナを拠点に活動するアーチストだそうだ。1976年生まれというから今年31歳。はじめは作詞や歌で活動しロックグループでギタリストとしてもやっていたそうだが、90年代の半ばから新しいテクノ音楽の流れとなった「エレクトロニカ」のアーチストとして活躍しているのだそうだ。僕はお店の試聴機でこの作品に出会うまで、彼の存在については一切知らなかったが、ウェブなどで調べてみるとその世界ではかなり知られている人物らしく、参加作品もかなりの数にのぼるようだ。

今回の作品は、最近アムステルダムで行われた彼の42分間のソロパフォーマンスを収録したもの。コンピュータから放出される存在感のある電子音と、彼が奏でるアコースティックギター、その音を拾ってエフェクタを通してループする音などが幾重にもかさなる音世界は、非常に完成されたオリジナリティと芸術性に溢れている。

僕が見た情報に間違いがなければこのパフォーマンスはライヴであり、ここに収録されている演奏がその一部始終なのだそうだ。もちろんコンピュータを使っているので、作品の構造をあらかじめ用意することは可能だし、事実そうなのだと思うのだが、それにしてもこのパフォーマンスの衝撃は相当なものである。お店で最初の2分を聴いて何かただならぬ雰囲気を感じ、家に買って帰って42分間を通して体験した僕は、一発でこの世界の虜になってしまった。

分厚いビニール(ユニットバスのカーテンみたいなもの)に必要な情報が印刷され、それを3つに折りたたんでCDを包んで、真ん中をピンで留めるという奇抜なジャケットも面白い。ジャケットの記載によるとこのCDの生産数は500枚とのことだが、実際のところはどうなのかなと考えてみて、やはりそれは本当なのかなと思った。

インターネット時代のいまとなっては、ネットワークによる自由な流通を本人さえ望むのであれば、ディスク媒体はせいぜい500枚もあればあとはネットワークやらディスクのコピーを通じていくらでも音楽は拡散してゆくと考えられる。参考までに、アルバムのジャケットやディスクの盤面には著作権に関する記載は一切ない(もちろんそれは著作権を放棄しているという意味ではない)。

僕はこれをタワー渋谷店の4階で購入した。まだ置いているかどうかはわからないが、この音世界はなかなか言葉で伝えられるものではないし、そうすべきでもないものだと思う。興味のある方は是非とも一聴することを強くお勧めする。毎回そういうふうにしているのだが、上記ジャケット写真をクリックするとこのCDの発売元である"Staalplaat Records"のサイトにジャンプして購入することができる。キリチェンコという人の作品については、これから少しフォローしてみたいと思っている。

Andrey Kirichenko 公式サイト

9/24/2007

東京湾ダイヤモンド

涼しくなった。日本では今月2度目の3連休。初日の土曜日に久しぶりに妻と2人日帰りでちょっと遠出をした。いままで行ったところがないところということで僕らが向かったのは、房総半島の東京湾側いわゆる「内房」だった。

午前中に家を出発、電車で川崎駅に行って駅前のバスターミナルから東京湾横断道路を通って木更津に行く高速バスに乗り込んだ。所要時間は1時間。意外にも海底トンネルに入ってから、海ほたるを経て終点に着くまでには、それほど時間はかからなかった。この季節にしては暑い日だったが、日差しは真夏のそれよりはやわらかだった。

初めて訪れた木更津の街。少し前に映画で話題になったりしたので、若者の街というイメージを勝手に抱いていたせいか、実際に歩いてみて受けた印象は少しギャップを感じ、かつて栄えた海辺の町という感じだった。駅前の人通りは少なくのんびりした雰囲気がいやでもまとわりついてくる。駅から海側に向かって進んでみるとさびれたホテルが目立った。

港の先にある中の島大橋は気持ちのいいロケーションだったが、その先にある中の島公園は一面靴が隠れてしまうくらいの深い草に覆われ、都会の整備された公園の雰囲気とはまた違った懐かしいにおいがした。係留場につながれた数十隻のヨットが静かな波にだるそうに揺られ、マストに帆を張るロープの金具がぶつかって、乾いた金属音がランダムに響くのを聴くのが気持ちよかった。

木更津駅に戻ってそこから内房線に乗ってさらに南へ、浜金谷駅に向かう。途中車窓からの景色は海沿いのそれになり、一層田舎度合いを深めた。こういう景観をみるとなぜか心が晴れる。海は自然である。

浜金谷を目指したのはそこから横須賀市の久里浜に向かうフェリーに乗るのが目的だった。それだけだとつまらないので、近くにある景勝地「鋸山」にロープウェーで登った。高度300メートルちょっとを所要時間3分と少しで行き来する路線が、往復で900円もする。山上の駅に着くといきなり電気仕掛けの子供向け遊戯具が迎えてくれる。観光業もあの手この手と大変である。

鋸山はかつて建築用の石材を切り出す採石場であり、その跡が山肌を鋸のような形にしていることからその名前がついたらしい。山の上にはそうした石切り場を巡る山道が観光用に整備されている。

巨大な岩壁に大仏が彫られており、それを奉ったお寺(なぜか日本寺という)があるのだが、その大仏をはじめとする一連の採石場跡を見物するためには、寺の境内だということで拝観料600円を払わねばならない。時間がなかったというのもあるが、僕としてはそんな拝観料なら遠慮するよという思いで中に入るのは辞退した。山上のロープウェー駅の上にある展望台からの眺める景色も十分素晴らしかった。

ロープウェーで下に降りそのままフェリー乗り場へ。少し土産物を見たりしながら、時間にあったフェリーに乗り込んだ。人間だけなら大人600円というのは割と安い気がした。少なくともさっきの拝観料よりはずっといい。40分と少しの航海だったがちょうど日没の時刻に重なり、東京湾に沈む夕日と湾内を行き来するいろいろな船を見ながらのクルーズを甲板で楽しんだ。

フェリーは比較的混雑していた。途中、湾内で何隻もの船を見かけた。大きなコンテナ船やタンカーもあり、陸上の休日とは無関係に活動する東京湾の一面がうかがえた。大きな船の姿は僕に夢とか勇気に似たような感情を運んできてくれるように感じる。海と船はロマンに満ちている。空や宇宙もいいけど、僕にはやはり海が一番そういうものを感じられる。

金谷港で停泊しているときに船の周りを飛んでいたウミネコが、航海中もずっと船と一緒についてきてくれた。久里浜の港に入るとみんな水面に降りて一休みしている様子は、とても愛らしかった。彼らがそこで一夜を明かすのか、また一休みして金谷に戻るのか、それともまったく別のどこかに行くのかはわからなかった。

久里浜港に降りるともうすっかり暗くなっていた。普通だったらバスか何かで駅に向かうところだろうが、多少は土地勘があったので僕等は歩いて久里浜駅まで行った。そのままどこかで食事をして帰ろうかということになったのだが、結局のところ電車と徒歩で平間まで戻ってきて、近所の焼肉屋で遅い夕食をとった。山と海の空気をたくさん吸って歩いた後のビールと焼肉は格別だった。

あとで地図を見てわかったのだが、この日僕等はちょうどダイヤモンド型に東京湾を巡ったことになる。こうした遠出をしたのは久しぶりだった。内房は東京からはかなり遠く通勤をするにはちょっと無理があるところだが、三浦や湘南の海岸とはまた異なる趣はやはり僕にはしっくり来るものだった。どうせ住むのならやはり海辺でのんびりと暮らしたいものだという気持ちは十分に感じられた。海はいいものだ。

9/16/2007

クリフォード=ブラウン「コンプリート エマーシー レコーディングズ」

 43歳になった。

最近はあまり誕生日といわれても特にピンと来るものはなかった。歳をとったなあということはわかるのだが、(くだらない内容にせよ)人生が充実していると実感できているので、まだ年齢の壁のようなものを感じて落ち込むということはない。40歳になったときも、40歳代かあという何か大台に乗ったような思いはすぐに忘れてしまっていた。

ところが今年の誕生日の実感は、最近のものとは少し違っていた。それは歳をとったという重みを感じたのではなかった。やはり父がいなくなったことが、何か年をとることをいままでと違ったように感じさせているようだった。それは寂しさのような要素ももちろんあるが、それとは別に何か新しい期待のようなものを感じさせる様でもある。ただそれだけのことだ。

妻が中目黒のイタリアンレストランを予約してお祝いをしてくれた。2人とも初めて行くお店だったが、とても満足できる内容だった。今回はお店のアラカルトメニューを組み合わせたコースにしたのだが、とかくイタリアンのコース料理というのは、どこかうそ臭い感じがするものと思っていたのだが、今回は単においしいというだけでなく、時間の過ぎ方とかお店の雰囲気とか、いろいろな意味での「ひと時」がとても心地よく感じられたのがよかった。

食事の前に僕は髪を切り、独りで渋谷で時間を過ごした。タワーレコードに長い時間居座り、新しい音楽に耳を傾け、結果的に3枚のCDを買った。これらの作品についてはまたいずれ取り上げてみたいと思っている。自分にとっての新しい何かを象徴するような3枚の様に感じている。

誕生日のお祝いというわけではないのだが、月初にアップルから発表された新しいiPodを待ってましたとばかりに購入した。発表当日の朝5時に起きて、同社のウェブ直販サイトで買った。もちろんお目当てはiPhoneで話題の新しいインターフェースを備えた"iPod Touch"である。いま使っているiPod Nanoは大のお気に入りだが、そろそろ新しいものが欲しいなとも思っていた。

品物が届くのは月末になる。これからはいままでの倍の容量の音楽が持ち運べるようになる。写真や映像が見られたり、無線LANでウェブを楽しめるのも魅力的だ。いまから待ち遠しい気持ちをもとに、手持ちのCDをデジタル化する作業を進めることにする。まず着手したのは、いくつか持っているジャズのボックスセットをデジタル化することだった。今回の作品はその一つである。

ジャズトランペット奏者クリフォードブラウンの、短い人生における絶頂期を収録した10枚組みのセットである本作は、間違いなくジャズの歴史の中での最重要音源の一つに数えられる名作である。1954年から56年にかけてのバラエティに富んだセッションは、この時代のジャズの様子を凝縮した音の巻物だ。

盟友で先月83歳で亡くなったマックス=ローチをはじめ、直後にブラウンとともに自動車事故で命を落とすことになるリッチー=パウエル、さらにハロルド=ランドやソニー=ロリンズといった多彩な演奏家とのアルバムセッションやジャムに加え、ダイナ=ワシントン、サラ=ボーン、ヘレン=メリルという素晴らしい女性ヴォーカルとのセッション、さらには僕が愛聴するストリングスを交えたセッションなど、内容の素晴らしさはいくつかあるこの時代のコンプリートボックスのなかでも一、二を争うものである。

しかし、こういう完全版と称するセットにもいくつか問題はある。一言でいってしまえば、いくらCDとはいってもやはり複数のディスクに分かれてしまっているものを、気軽に楽しむにはもはや少し面倒を感じる時代になってしまった。

加えて、この全集の編集に音源の倉庫で骨を折られた児山紀芳氏には大変申し訳ないのだが、やはり別テイクといわれるものをいくつも重ねて収録してあるのはどうも使い勝手が悪い。未発表になったのにはそれなりの理由があるのだから、それらは参考資料として別にするなどの工夫が欲しかった。

そこで今回は10枚のCDからマスターテイクだけを取り出してデジタル化することにした。それでも全部で78曲、時間にして6時間程度になるだろうか。これらをごっそり手持ちのiPodにいれ、通勤時にそれを頭から順番に繰り返し聴いてみたのが先週である。

まあわかってはいるのだけど、なんとも贅沢なフルコースである。これらの演奏がすべてもう50年以上前に収録されたものというから、あらためてクリフォード=ブラウンという人の才能(演奏家としてだけでなくグループやシーンをまとめ上げるリーダーとしても)には驚かされる。ここに収録された演奏をしたとき、彼は若干24~26歳だったのだ。

すべての楽曲に貫かれる彼のトランペットの普遍性と、参加する演奏者の違いがセッションごとにはっきりと際立つジャズの魅力。こうしてマスターテイクだけを並べて聴いてみると、本当に1曲の無駄もない素晴らしさには、もはや圧倒とか脱帽とかそういう言葉も意味を成さないと思える。

久しぶりに超上質の1950年代のモダンジャズに浸った。それは誕生日を迎える直前の行いとしては、何かとてもいいタイミングだったように思える。もちろんこれからもこの音楽を何度も聴くことになるだろうことは確実だが、父のことや母のことも含めた、自分にとっての何か大きなものを、ここで一度総括したかのような気持ちがそこに重なった様に思えた。

ところで、これからクリフォードの演奏を聴いてみようと思われる方は、こうした高価なセットを購入する必要はないと思う。マスターテイクを収録した10枚の代表アルバムは、いまや定番中の定番としてとても安価に手に入れることができるし、おそらくは50年を経過したこれらの演奏については、何らかの形で非常に安価のボックスセットが出現するはずだ(すでにあるのかもしれない)。ともかく誰でも一度は聴いておく価値のある音楽である。この輝きは当面褪せることはないだろう。

僕はまた新しい時代とその音楽を求めて進んでいく。

9/09/2007

ピーター=コウォルド「オフ ザ ロード」

 夏休み前にアランの店で買った、ピーター=コウォルドのドキュメンタリー「オフ ザ ロード」について。

この作品は2枚のDVDと1枚のCDをセットにしたもの。いずれのディスクにも、ピーターが亡くなる2年前の2000年に行った全米ツアーの模様が収録されている。ツアーに同行した映像作家ローレンス=プティジュヴが記録した。

1枚目のDVDがツアー全行程を72分間にまとめたドキュメンタリー映像「オフ ザ ロード」で、同名のCDにはその中から8つのパフォーマンスがフルヴァージョンで収録されている。もう1枚のDVDは「シカゴ インプロヴィゼイション」と題された映像で、同ツアー中にシカゴで行われたライヴとスタジオセッションの模様を中心に構成された83分間の作品である。

ピーターについてはこれまでに2度このろぐで取り上げている。僕のお気に入りのベーシストであるが、彼の音楽スタイルはいわゆるフリーインプロヴィゼーションなので、演奏に対する印象にはやはり偏見が付きまとうことだろうと思う。

一つだけ書いておきたいのは、フリーといえどもそれぞれの演奏には明確な音楽的モチーフ(テーマ)、それもかなり簡潔なそれが存在する場合がほとんどだ。演奏はそれを土台に、演奏者の想像力と技量を自由に注ぎ込んで発展させてゆく。そのことを知っていれば、さほど聴くことに難しさはないのではないかと思う。その意味では映像のある演奏を聴く(視る)方が敷居は低いかもしれない。

もちろん優れた演奏やそうでない演奏は玉石混交であるが、それはどのようなジャンルの音楽についても共通のことだ。フリーミュージックのことを、取りとめのないものとか、難解なもの、あるいは滅茶苦茶なものというのは、外見で人を差別するようなものだと僕は思っている。ある意味において、こんな緻密で、人間臭い音楽は他にない。月並みだが、僕がこうした音楽を愛する一番の理由はそこにある。

全米ツアーといっても、もちろんショービジネスとして行われる総勢百何十人で機材何トンとかいうものとはまったく異なる。映像はドイツからニューヨークのJFK空港にベース1本と手荷物で降り立ったピーターとローレンスが、タクシーでマンハッタンに入るところから始まる。ブルックリンブリッジ(たぶん)を渡る車窓からの映像に、はっきりとワールドトレードセンターが映し出される。時は西暦2000年である。

そのままダウンタウンに入ったところでタクシーを降り、翌朝ピーターがまず行うのは中古自動車の情報が載った雑誌に目を通すこと。向かった先は壁に"Cheap Cars"と書かれた中古自動車屋である。そこでベースを積むことができるバンを品定めし、怪しげな(といっては失礼か)店主の前にお金を並べ、それを店主が数えて商談成立のシェイクハンドとなる。ピーターの全米ツアーはここから始まる。

大体の雰囲気はご想像がつくと思うが、これはいわゆるロードムービーである。ニューヨークからシカゴ、アトランタ、オースティン、サンフランシスコなど全米の主要都市を車1台で周るのだ。ローレンスの映像もほとんど家族旅行の記録に近いタッチになっているのだが、随所にさすが映像作家と思わせるカットが散りばめられている。

各地で繰り広げられる奇想天外な音楽セッションの合間に、コンビニで買い物をしたり、道端のカフェで食事をしたり、自動車の修理屋に立ち寄ったり、友人宅で談笑したりする様々なピーターの日常が挟み込まれる。一方で、道すがら出会った人々にもしっかりとカメラとマイクが向けられ、映像を見るものにも旅全体の雰囲気が味わえるように工夫されている。そこに映されたピーターと彼の周囲を取り巻く世界は、やはり素晴らしい人間性に溢れている。

僕が初めてアメリカに行ったのは1994年頃だったと思う。以来もう十何年も行ったことがない。こういう自動車を使った旅というのもいいかもしれない。でもいまの僕にはこれだけの運転する自信は到底ない。ならば列車の旅でもいいのかな。地に足の着いた風を感じられるアメリカ旅行がしてみたい、ふとそんな気分になった。

9/02/2007

パウル=パンハウゼン「パルティータ フォー ロング ストリングス」

 土曜日の早朝、自宅から200メートルほど離れた木造アパートが火事で全焼してしまった。午前4時半ごろだったそうだ。そうだ、というのは僕も妻もその騒ぎには気がつかなたったから。

その日僕等は武蔵小杉駅まで歩き、そこから久しぶりに2人で渋谷に出かけた。妻にとってはお初となる「壱源」のラーメンを食べ(やはり旨い)、気の向くままに街をぶらぶらして買い物をした。途中、立ち寄ったアップルストアで、新しいiMacを品定め中にアクセスしたヤフーのニュースで火事のことを知った。「住所を見ると近くだね」などと話していたのだが、帰りに平間駅から自宅に戻る途中で、それがいつも前を通っているアパートだと知った。

電話線工事の作業車が出て、焼けたケーブルの補修にあたっていた。アパートは6世帯からなる2階建てのかなり古い木造建築で、ほぼ全焼という有様だった。ニュースによると2人の居住者が亡くなられたらしい。今日通りかかると、1回のある部屋のドアに花が供えられていた。

火の勢いが余程強かったらしく、アパートに隣接する3階建ての住居も、その側が半焼していた。あの家にはもう住めないだろう。さらに路地を挟んで向かい側に最近できた新しいアパートの窓ガラスが、熱で割れていたほどだ。そして一番気になるのが、この現場が大きな道路を隔てて消防署の真向かいに位置するということ。距離にして50メートルもないところなのだ。なのにこれほどの状況というのは、やはり出火時間から考えて発見と通報がかなり遅れてしまった結果だと思う。

いままでも火事の現場を何度か見たことがあるが、その恐ろしさとともに、後に残された残骸から受けるなんとも言いようのない虚無感が、一時意識を強く支配する。亡くなられた方含め、被害に遭われた方には本当にお気の毒に思う。


さて、土曜日に本当に久しぶりにベースに触れてみた。父が入院してからなくなるまでの間、ほとんどまともに触れたことがなかったから、もう数ヶ月ぶりということになる。時折、聴いている音楽にあわせて指を動かすことはあった。実際に弦を指ではじいてみると、意外にもすんなりとあの感触を取り戻せたような気がした。何を弾くわけでもなく、指の赴くままのフレーズを奏でながら、あっという間に1時間が過ぎていた。

僕は音楽が好きだ。なるべくいろいろな音楽に、その演奏者や作者の意識と表現に耳を傾けてきた。僕がそれを聴いてみたいと思う動機にはいくつか側面があるが、楽器という面から考えると一つの嗜好としてあるのは、弦楽器が好きだということだろう。ギター、ベース、ヴァイオリン、チェロに始まり、シタールや三味線、琵琶などいろいろな弦楽器に、どことなく魅力を感じ接してきた。弦が伝えてくる振動に何らかの安らぎとか興奮を感じるのだろう。すなわち「弦フェチ」だ。

ベースを久しぶりに触ってみたいと思ったのは、先にアランの店で買ったピーター=コウォルドのDVD作品を視たからだった。この作品についてもいずれは触れることになると思うが、その作品を体験し、久しぶりにベースを触ってみることで、自分の耳がこのところ触れることのなかったある種の弦の響きに向かっていることを感じた。それはある意味でアヴァンギャルドな響きだった。手当たり次第にそういう音楽のCDを取り出しては、その中に響きを自分の耳に入れた。

そうして何枚かのCDを聴くうちに、僕は久しぶりに今回取り上げた作品を手に取ることになった。これは作者の目的からすれば、厳密には音楽作品とは一線を画すものかもしれないが、音を収録した作品なのだから僕にとっては立派な音楽だと思っている。それはかなりの極地に位置する音楽だ。

作者のパウル=パンハウゼン氏は音楽家ではない。空間に何かをインスタレーションすることで表現を行うアーチストなのだそうだ。その彼が1982年から始めた作品に「ロング・ストリング」と呼ばれるシリーズがある。ある決まった空間に長い弦を張って視覚的な表現を構築するとともに、それを弓や指で演奏するというものである。今回の作品もその一環として行われた演奏を収録してある。

収められているのは3曲。以下にタイトルをそのまま書いておく。
1. Partita for 16 long strings of equal length
2. Partita for 16 long strings equally diminishing in length
3. Partita for 16 long strings propotionlly tuned

おわかりのように、いずれも16本の「長い弦」を使って演奏されるものなのだが、少しずつ条件が異なっている。1曲目が同じ長さの弦を同じ音程に調弦したもの、2曲目はある一定の間隔で長さを減じていった16本の弦を調弦したもの、3曲目はある一定の比率で長さを減じていった16本の弦を調弦したものを用いたものとなっている。

演奏の内容を簡単に書くと、1曲目は(当然のことながら)同じ音程とその倍音を交えた弦の響きが延々20分間続くのに対して、2曲目、3曲目は演奏される弦に応じて次々に現れる弦の響きが複雑に入り乱れる26分間の演奏である。2曲目が明確な調整を持たないのに対して、3曲目はある約束事に従った調性がある。そのあたりのこと含め、この作品に至るパンハウゼン本人やその協力者たちによる詳細な解説が、ライナーノートに記されている。

この音は毎日聴きたくなるものではないが、ごくたまに何かの機会に強く渇望してしまう異様に心地よい音楽である。「弦フェチ」にはたまらない、という表現が妥当かどうかは僕には自信がない。しかし心地よさのかなりの部分が、弦の響きそのものにもたらされることは間違いない。変な言い方になるが、ギターやチェロといったいろいろな弦楽器の表現を、究極の上流まで遡ったところにある源泉とでも言おうか、弦の響きの祖先みたいなもののようにも思える。そこには何の主張も感情もない、時間と空間そして純粋な音だけが存在する世界だ。

この世界に浸ると、まるで自分の中の音を感じる何かが掃除される様な気分になる。1曲目はとてもやさしい単調なブラシ、2、3曲目は感触の異なるやや刺激のあるブラシというところだろうか。どのブラシを使うかはそのときの気分次第だ。今回は3本まとめて何回かやってしまった。ブラシの使用前後で音楽に対する感性が変わるかどうかは、実際に試してのお楽しみである。