9/13/2009

フリーマン エチュード

さて、バルコニーのウッドデッキで夜にビールを飲みながら聴いた音楽とは、ジョン=ケージの「フリーマン エチュード」という作品。この音楽の詳細はウィキペディア(英語版)に詳しい。作品スコアの一部も掲載されており、非常に興味深いエピソードなので是非ともご一読をお勧めする。

簡単に紹介すると、曲名はケージにヴァイオリンのためのエチュードの作曲を依頼したパトロン、ベティ=フリーマンの名に由来する。ベティはこの作品をヴァイオリニストのポール=ズコフスキーに演奏してもらうことを企図し、そのポールがケージに出した作品の条件は「伝統的な記譜法によって一音ずつ記録された音楽」だった。

ケージがとった作曲スタイルは先に紹介した「エチュード オーストラルズ」と同じ、星図表に五線譜を偶然性に基づいて重ね合わせる手法(Chance Operation)だった。ケージはポールの要望に従って、得られた音列に音の長さや強弱などこまかな指示を書き込み、それを音楽として仕上げたのだが、実際に出来上がったものは極めて演奏することが難しいものとなった。

当初ケージは1巻が8つの作品からなるものを4巻作曲するつもりでいたのだが、ポールがこの作品を「演奏できない」と諦めたこともあって、実際には最初の2巻で作曲は頓挫してしまった。

最初の2巻が発表された数年後、現代音楽専門のアルディッティ弦楽四重奏団のリーダー、アーヴィン=アルディッティがこの作品に興味を示し、持ち前の超絶技巧で本作が、ケージが当初想定した通り(あるいはそれ以上に)演奏可能であることを示した上で、続編の作曲を促したことがケージの創造意欲を再びかき立てたのである。

こうして1990年に4巻すべてが完成し、アーヴィンによる初演が行われた。結果的にこの作品は、最初の2巻がベティに献上され、後半の2巻はアルディッティに献上される形になったのである。今回僕が購入したのはアメリカのモードレコードから発売されている、アーヴィンによる本作品の全曲演奏であり、CD2枚に全4巻が収録されている。

先の「エチュード オーストラルズ」を聴いてその素晴らしさに驚嘆した僕は、すぐさま本作の購入を決めてモードレコードに注文を出したのだが、同社のオーナーでプロデューサのブライアンから返って来た連絡は、残念ながらこれらの作品は現在廃盤でストックもないという意外なものだった。

ブライアンが僕にくれた提案は、マスターディスクをCD-Rにコピーしたものを安価で販売するという、インディーズレーベルならではものだった。しばらく考えた僕は彼の提案に同意したが、条件としてCDに添付されるブックレットのPDFファイルか紙のコピーをつけてくれと頼んだところ、結果的にブックレットだけは少しの余部があるということだった。

かくして、モードからは本作品ともう1枚のケージのオーケストラ作品(これもやはり廃盤だった)の3枚のCD-Rが、オリジナルのブックレット付きで送られて来たのである。CD-Rには作品のタイトルとモードの作品であることのクレジットが手書きで加えられて来た。もちろんこれらはそのまま通常のCDプレイヤーで演奏可能だ。
ヴァイオリンの技法の限界に挑んだこの音楽は、ピアノによる作品とはかなり表情が異なる。ピアノには残響を含めた複数の音の持続が可能な特徴がある一方で、ヴァイオリンの特徴はある意味ピアノとは対極的な特性を持っている。ひとつの音につけられる表情は明らかにヴァイオリンの方が豊富である。しかし、それ故に、その表現は演奏する側にもあるいは受け取る側にもかなりの幅を持つものになる。

誤解を恐れずに書くと、ピアノ(あるいはその延長にあるキーボード)による音楽が好まれる理由のひとつに、その表現上の特性としてある不安定さが少ない(ある意味での純粋さとも言える)ということがあると思う。揺らぎのない正確な音程と一定の音色があらかじめ保証されている安心感は、本来の音程から逸脱する揺らぎに対するストレス(一方でそこに例えようもない魅力があるのも事実である)から人々を解放する。

現代のピアノという楽器が持つ構造は実は極めて複雑で、先の「エチュード オーストラルズ」は音の持続性と響きという観点で、その特性をうまく使った作品になっているが、こうした特性に、実際には多くの人が気がついていない。その証拠にさらに現代化されたピアノである電子ピアノでは、そうした特性は完全に無視されている(当然のことだが、ケージのあの作品は電子ピアノでは演奏できない)。

なかなか簡潔に書くのは難しいのだが、一聴するとフリーマンエチュードは非常に表情が豊かである。しかしそれ故に、構造上ただでさえ親しみにくいこの音楽は、一層受け手に様々な揺らぎに対する寛容性を要求することになる。しかし、アーヴィンによって巧みに弾き出されるこの作品の真価はまったくもって素晴らしいものであると僕は思う。

もちろん、「オーストラルズ」が豊かでないと言っているのではない。その豊かさは音の響きという深みにあり、それを体感するにはそれなりの聴き方が必要になってくるということだ。それは一部の人には当たり前のことなのだと思うが、現代の多くの人にとっては忘れられたというかそもそも認識されていないことなのだと思う。先のろぐで僕がオーストラルズの楽しみ方として書いたものは、明らかにそういう現代的な聴き方に当たるのだと思う。

これらの音楽に少しでも興味を持たれた方は、やはりまず「オーストラルズ」を最初に聴いた方がいいと思う。ただその深い魅力を味わうには、それなりの環境でじっくりと向かい合うことが必要になる。一方の「フリーマン」は、ヴァイオリンという楽器の特性上、聞き手は否が応でも音楽の全貌にさらされることになる。あとはそれぞれの感性に従うしかない。

ところで、冒頭にあげたウィキペディアの記述の中で、アーヴィンの演奏がテンポというか速さの点において、ケージの意図を誤解しているかの表記があるが、これは個人的にはあたらないのではないかと思う。なぜならここに記録された演奏がケージ自身の監修の下に行われているからであり、ケージが作品の続編を作るに至った理由も、速さを含めたアーヴィンの技巧によるところがあったのは明らかなのだから。

実はこの週末は少し体調を崩してしまい、土曜日の早朝に目が覚めて、強い喉の痛みを感じた。久々に持病の扁桃腺炎を起こしてしまった。幸い高い熱が出るにまでは至らず、近くの病院でインフルエンザではないことも確認してもらった。いまはまだ少し熱っぽく、喉の腫れも感じられるが、症状はかなり落ち着いている。

皆様も体調に気をつけてください。来週は事情により少し更新が遅れます。

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