12/25/2006

二ノ宮知子/フジテレビ「のだめカンタービレ」

日頃、あまりテレビドラマを観ない僕だが、このシーズンは珍しく2本のドラマを全話通して観た。いずれもフジテレビ制作の作品「Dr.コトー診療所2006」そして「のだめカンタービレ」である。

前者は、以前のシリーズをちょこちょこ観ていたので、今回もそこそこ楽しめるかなと思って見始めたら、録画機の助けを借りながらも、結局最後まで観てしまうことになった。原作とはまるで異なる展開になっているらしいが、最終回が多少冗長だったことを除けば、なかなか楽しむことができた。人間のあたたかさというものは、やはり大切である。

そして、今夜最終回を迎えた「のだめカンタービレ」は、音楽学校を舞台にしたマンガが原作らしい程度のことしか知らずに、興味本位で見始めたのものの、これがすっかりドラマにハマってしまい、僕としては異例なことに毎回を心待ちにしながら、最後まで楽しませてもらった。

以前にも少し書いたが、主役の上野樹里と玉木宏は本当によくやったと思う。上野の「のだめキャラ」もさることながら、ピアノの演奏シーンは本当に演技としてウマいと思った。そして玉木の指揮も、いきなり代役で指揮をやらされる最初のいきさつから、最終話のサントリーホールまでの変化が、テレビ的によく表現されていた(おそらくは玉木自身の指揮者役に対する成長ぶりといってもいいだろう)。

この作品、1年前に他局でドラマ化直前にお蔵入りとなったいきさつがあるらしいが、その時も主役は上野樹里に決まっていたらしい。その破談経験から「ドラマ化はない」と言い切るようになった原作者を説き伏せ、それを見事にやってのけたフジテレビはさすがである。お金のかけ方もさることながら、配役や撮影場所の選考にも、制作者が本来持つべきこだわりがはっきりと感じられたように思う。ちなみにわが家の近場でも撮影が行われていたようで、散歩の時に見覚えのある風景がいくつか出てきた。

今シーズンは、僕の好きな長澤まさみを主役にした「セーラー服と機関銃」や、堀北真希を主役にした「鉄板少女アカネ」など、話題のドラマも多かったが、いずれも原作と主役の人気に頼るばかりで、制作が安易ないかにも現世代の悪い傾向が露呈した内容だったように思う。あれでは主役が可哀相である。その点「のだめ」は、昨年のいきさつも手伝ってか、制作側の力の入れ方がしっかりと伝わってきたと思う。

マンガの世界とは違って、実際の音楽を流すことができるのはテレビの大きな特長であるが、今回のドラマ化ではその点でもなかなか見事な演出で、映画「アマデウス」を思わせる音楽の使い方は非常に楽しめたと思う。その意味でも、毎回見どころが多かったドラマだった。僕が個人的に選ぶベストシーンは、最終回の1つ前の第10回で放映された、のだめが挑んだマラドーナピアノコンクール最終選考会の模様である。

ここで演奏されたストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」とその変奏(?)は、本当に素晴らしい名シーンだった。僕自身知らず知らずのうちに、あの審査員の外人先生に感情移入してしまった。途中で飛び出す「きょうの料理のテーマ」のスリル、そして呆れ驚く会場をよそに、そんなのだめを興味深げに見つめる先生の視線はたまらなく魅力的だった。まさに音楽における「カンタービレ」の素晴らしさである。あのエピソードは原作のマンガにもあるのだろうか(僕は読んでいないので知らない、誰か教えてください)。

「Dr.コトー」の例を考えるに、これまでのフジテレビのパターンだと、恐らくは1年後くらいにこの続きが制作されることはほぼ確実だろうと思う。今度は舞台が海外ということになるので、いろいろな意味でドラマ化のハードルは相当高いと思うが、フジテレビには、なんとかスポンサーを集めて挑戦してもらいたいところである。

今回は全話をハードディスクに残してあるので、そのうちDVDにダビングしてとっておこうと思う。見逃した方、お貸ししますよ。

12/24/2006

キース=ジャレット「メロディ アット ナイト ウィズ ユー」

 今回の投稿で、えぬろぐはまる3年が経過する。内容はたわいないものばかりだったが、投稿数は150件を超えた。こういうことを考えると、小学校の夏休みの宿題にあった絵日記とか観察日記、あるいは中学生や高校生になって親からやれと言われた添削学習のことを思い出す。もちろんいずれもことごとく三日坊主だった。僕はほとんど意に介さず遊んでいた様に思うが、積み上がるばかりの教材を見る親の気持ちを考えると、いまとなっては少し胸が痛む。

そんな僕にしては、このろぐは本当によく続いているものだと思う。これもやはり第一には、音楽のおかげだろう。そして僕を音楽に導いてくれたのは、結局のところ両親に負うところが大きいのだから、いまさらながらだが、ろぐがここまで続いていることについては、親にも感謝しなければいけないのだと思う。

このろぐの運営を開始した時からお世話になっているグーグル社のサービス"blogger"が、最近になって大きなサービス強化を実施した。新サービスでは、ブログの運営が一層便利に行えるような工夫がなされている。それに伴い、えぬろぐもサイトデザインのリニューアルを施すとともに、今回思い切ってサーバの移転をすることに決めた。見やすさと使いやすさを重視して、シンプルなデザインを心がけたつもりであるが、いかがだろうか。

この週末は、わが家でもクリスマスを祝った。プレゼントの交換はいつの間にかやらなくなっているが、その代わりに今年は手料理の交換(?)で祝った。妻は、鱸(スズキ)をアサリと野菜を使って蒸し焼きにする料理と、セロリやラディッシュ、エノキダケとレッドビーンズを使ったサラダを作ってくれた。僕は、アンチョビとニンニクでソースを作って、そこにぶつ切りにしたタコを炒めてスパゲッティを作った。思いがけずシーフードクリスマスとなったわけだが、祝い事でいつも愛用のスパークリングワイン「フレシネ・コルドン・ネグロ」で今年も乾杯となった。料理はどれもとても美味しかった。

フレシネとともに、わが家でこういう席のテーブルミュージックとして決まって流しているのが、今回の作品である。これはもうかなり有名な作品になっているので、いまさらあまり説明の必要もないだろう。1990年代半ばに、突然見舞われた病気により音楽活動を休止せざるを得なくなったキースが、ブランクの後に復活の作品として、自宅のスタジオで録音したソロピアノ作品である。作品は次の言葉とともに、彼の妻に捧げられている。
"For Rose Anne, Who heard the music, Then gave it back to me."
実は、この作品を店頭で入手するのは意外に難しいということを最近知った。大きなCD屋さんでは大抵彼のコーナーが設けられているが、僕が最近入ったいくつかのお店で見た限りでは、ほとんどの所でこの作品だけが品切れになっているということに気がついた。確かに、僕も誰かに感謝の気持ちを伝えるとともに、音楽を添えるとしたらこのCDを選ぶことだろう。親しみやすさ、普遍的な芸術性、そして作品が持つ包容力といった点において、この作品がもつ力は計り知れないものがある。

この1年、僕はやはりキースの音楽を聴くことが多かった。この3年間のろぐでも、一番多く取り上げているのが彼の作品である。前回、キースを取り上げた時にも書いたが、彼は間違いなく、いま生きているあらゆるジャンルの音楽家の中で最も重要な人物の1人だろう。来年春にトリオでの来日が予定されている。もう30年以上にわたって数多くの作品がECMからリリースされているが、それでも彼等の即興演奏に対する期待は尽きることはない。僕は今回はチケットを買わないつもりだったのだが、ここに来てやはり気持ちが傾いてしまいそうである。

キースの偉業に比べれば、中身の薄い日記が3年続いた程度で喜んでいてはいけないのだろうが、ともかく今回はいろいろな意味で一つの区切りとなるろぐである。日頃お読みいただいている方々に、感謝の意をお伝えするとともに、これからの継続と内容の充実を誓いたいと思う。つまりは僕自身が充実した生活を送るということになるのだが、その意味では本当にいろいろな人にお世話になってここまでやってこれているのだ。

本当に、ありがとうございます。
今後とも、えぬろぐをよろしくお願いします。

12/17/2006

ジョルジ=クルターク「カフカ断章 作品24」

 ちょっと油断してしまい、週の半ばで体調を崩しかけてしまった。1日は会社を早めに帰らせてもらって、なんとか悪い方向には行かなくて済んだ。金曜日には、妻の勤務先のクリスマスパーティが、白金台の社長宅であり、僕も家族として参加させてもらった。このパーティは日頃、家で妻の口から話を聞いている人達と実際に会話ができ、独特のムードのなかでいつも新鮮な気持ちにさせてくれる。

社長がスウェーデン人なので、パーティは北欧スタイル(?)である。着いてすぐにシャンパンとオードブルが振舞われ、それでそこそこいい気分になってしまうのだが、正式なオープニングは、全員が揃ってから社長による乾杯の歌と、それに続くアクアビットのショット一気飲みが合図となる。

そこから、ケータリングサービスで饗されるタイ料理を、各自が思い思いにバイキングスタイルで食べまくり、やがて興が乗ってくると、社長がおもむろにサルサミュージックを流し出して、参加者の女性(つまり会社の部下)を片っ端から引っ張り込んで次々に踊り始めるという展開になる。

ダンスだから当たり前のことなのだが、誘われていきなり腰に手を回して向き合って手をつなぎ、ステップでリードされるわけであるから、真っ先に狙われる初めて参加する若い女性などはびっくりしてしまう。僕等はそれを(少し羨みながら)傍らで眺めて楽しんでいるわけである。まあ言うならば「些細な奔放」だ。こういうところはやはりおおらかな文化がいい。

あまり細かいことは書かないが、僕が勤める会社の宴とは随分と雰囲気が異なるこの世界は、非常に居心地がいい。前日にあった僕の出向元の職場における忘年会と比べると、本当のパーティとはせめてこういうものという気がする。

僕はこのところ「組織」という言葉が好きでない。どこか主体性がない、従属的な響きに聞こえてしまう。最近ではそこに「うまくいかないもの」というイメージさえ勝手に抱くようになってしまった。組織は人の集まりだから、雰囲気が淀むことで、人間のあまり見たり聞いたりしたくない面が出てきてしまう。そのどちらが原因でどちらが結果だかはわからないものだが、そういう時、自分の存在を確認できる異なる集まりに参加できるのは、幸せなことだ。

クルタークはルーマニアの作曲家である。現代音楽を聴く人には結構名の知れた人だが、つまり一般にはほとんど無名ということである。なかなか味のある音楽を書く人で、音楽的には「緻密な奔放」である。やはりヨーロッパなどでは人気が高い。

今回のCDは、この夏に発売されたもの。タイトルにあるカフカとは、あの作家フランツ=カフカのことである。この音楽は、カフカの手紙や日記、メモなどから集めた40の短文に、クルタークが曲をつけたという風変わりな組曲で、編成は女声ソプラノとヴァイオリンである。今回は、ソプラノをユリアーネ=パンセ、ヴァイオリンをケラー弦楽四重奏団のボス、アンドラーシュ=ケラーが担当している。

普段、ピアノ系音楽のように音程、旋律、リズムなどがはっきりしたもの(実は世の中の音楽はいまやほとんどそれになりつつあるのだが)ばかりを聴いている人からすれば、なんと気持ちの悪い音楽かと思われるかもしれない。おまけに歌詞はドイツ語である。しかし、実際に聴いてみると曲の出来、そして演奏ともに非常に秀逸な内容なのである。

その証拠というわけでもないのだが、この作品は今年の夏にECMから発売され、いままでにグラミー賞へのノミネートをはじめ、世界のいろいろなところで優れた音楽に与えられる賞を受けている。どういうものか僕もよく知らないのだが、わが国でも今年の日本レコードアカデミー賞というのを受賞しているらしい。

1、2分の短いカフカの断章から何を聴き取るか、もちろんドイツ語がわかる人には、カフカの生きた時代の背景と情景がちらりちらりと浮かぶことだろう。それが作品の意図するところであるには違いないだろうが、僕にはクルタークが持つ緻密な奔放さが、不思議な心地よさとなって伝わって来る様に聴こえる。もちろんiPodでも何度か聴いてみた。不思議なことに、仕事帰りにこの音楽を選んで聴くことが何度かあった。

近頃の僕は、世界の広さと人間の深さを実感するために、時折こういう音楽を聴くことを求めているのだろう。

12/10/2006

山本邦山「銀界」

 結婚した年に自由が丘の雑貨店で買ったクリスマスツリーを、今年も押入れから取り出して食卓に据え付けた。高さ40cmほどの模木にいくつかの小さなオーナメントと、10球足らずの簡単な電飾が巻付けてあり、コンセントにつなぐと緩く点滅するようになっている。別にどうという程のものではないのだが、この点滅の間隔に慣れ親しんでしまったのか、これを眺めていると妙に落ち着く。

会社からはありがたいボーナスが支給され、職場の忘年会もなんだか趣旨がよくわからないまま終了した。来週は出向元の職場の忘年会と、妻の会社を経営する社長宅で開かれる、恒例のクリスマスパーティが続く。仕事には妙に緊張感がない。時節的なものというより、僕の内面的なところから来ているように思う。

まだ冬本番というのには早いとは思うのだが、どうも気候がしゃんとしないと言うか、冬というには暖かい日が続くように思う。もちろん過ごしやすいに越したことはないのだが、外に出てみて「あれ寒くないや」と拍子抜けするのは、どこかありがたくない。僕は気候にまで当たっているのだろうか。

週末。土曜日は久しぶりに一歩も外出することのない一日だった。冷たい雨がほぼ一日中降った。最近取寄せたあるCDをじっくりと家で聴いた。まだ自分のなかには馴染んでいないので、この作品についてはまた近いうちにご紹介しようと思うが、やはり何か忘れがたい印象を人の心に刻んでいく音楽であるには違いない。

日曜日の今日は川崎の街まで出かけ、タワーレコードでCDを2枚買った。今日はそのうちの1枚を取り上げようと思う。「銀界」と題されたこの作品は、尺八の巨匠で人間国宝の山本邦山が、ジャズのフォーマットで自身の世界を表現したものである。共演は、ピアノに菊地雅章、ドラムに村上寛、そしてベースがゲイリー=ピーコックである。録音は1970年とあるからいまから36年前ということになる。

この作品は長らく入手困難になっていたものを、タワーレコードが"TOWER RECORDS VINTAGE COLLECTION Vol.3"として独自に復刻しているシリーズの一つとして、先頃CDで再発されたものである。少し話はそれるが、ここ2、3年、クラシック音楽CDの世界を中心にタワーレコードが取組んでいる名盤復刻は、なかなか素晴らしい業績を残していると思う。

山本邦山氏とこの作品が生まれるに至った背景については、LPレコード発売当時に本多俊夫氏が綴った名文がライナーとしてそのまま掲載されているので、作品に興味を持った方は是非とも買い求めていただいて、そちらをお読みいただきたい。非常に優れた解説だと思う。

作品は、

「序」
「銀界」
「竜安寺の石庭」
「驟雨」
「沢之瀬」
「終」

と題された6編からなる音楽で、本多氏も書いている通りこれらは一連の組曲を為している。

演奏内容はそれはそれは非常に素晴らしく見事なものである。当時のキース=ジャレット等がクァルテットで展開していた作風に共通するものが感じられるが、あくまでも主役である尺八が中心の和の世界に、ジャズというスタイルを合わせた独特の音楽世界を展開している。菊地、村上、そしてゲイリー=ピーコックという脇役は実に見事なキャスティングだ。

僕は決してレコードマニアではないし蒐集家でもない。ただ聴きたいと思ったものを買っているだけだ。でも僕は、安いということだけが購入の動機になってるなと自分で直感するものは、なるべく買わないようにしている。最近、著作権の切れた音源を中心に、過去の古い音源を安いBOXセットで提供する企画が珍しくないが、ああいうものにはなるべく手を出さないのが無難だ。

CDやDVD時代になって現れた「未発表テイク」とか「ディレクターズカット」と呼ばれるものは、資料としての価値は認めるが、あくまでもオリジナルからは捨てられたもの。もちろん例外はないわけではないが、現代よりも当時の方がよほど判断のセンスに混じり物は少ない。なので、それを本編に混ぜた形で提供して、付加価値があるように見せるやり方はどうも感心できない。

それよりもこうした企画のように、リリース当時のままの形で、求めやすい価格で復刻されることは非常にありがたいことである。今回同時に復刻された他の9作品もなかなか魅力的なものばかりで、値段が安いのでついつい欲しくなってしまう。とりあえずペンデレツキの作品だけは、無くならないうちに買っておこうと思っている。シリーズの詳細はタワーレコードのクラシック音楽のコーナーに掲載されている。

とにかく素晴らしい作品。これに巡り会わせてくれた企画に感謝である。

12/02/2006

スタン=ゲッツ「ピープル タイム」

 12月に入った。今月はいろいろと酒を飲む予定が入っていて、ほとんどがとりあえず「忘年会」という名目になっている。大人数が集まる宴会やパーティもいくつか予定されているし、少人数での約束も既にいくつか入っている。昨日の金曜日、会社の同僚2名とこじんまりと銀座にあるバー「Wisky's」で一杯やり、今年の忘年会シリーズがスタートした。

このバーは、1、2年前にある知合いの人に連れて行ってもらったのが最初だった。サントリーが日比谷から銀座にかけて十数件を展開するチェーン店のバーのなかでも、店名の通り特にウィスキーへのこだわりを看板にしたお店である。僕はウィスキーが好きな人と飲みにいく際に、何度かこのお店を使っている。と思ったら、前回行った時から既に1年と少しが経過していた。早いものだ。

実はこのところ、家でも少しウィスキーから遠ざかっている。家にボトルがあるのは幸せだが、どうしても少し飲み過ぎてしまう様な気がして、最近は自主的に少しお休みすることにしていた。しかも近頃お気に入りのウィスキーは、サントリーのものではない。そんなわけだから、妙に新鮮な気分で僕は店の階段を降りた。

久々にお店で飲むウィスキー。最初は、ここの名物であるウィスキーを炭酸系で割ったカクテルで飲み始める。それを2杯やった後、安めのウィスキーをソーダ割と水割りで1杯ずつ。同僚達との話も弾むなか、ようやく調子が出てきたところで、サントリーの看板商品「響」の17年をロックで1杯、2杯と飲み進める。量が少ないのが少し気になるところだが、やっぱりウィスキーはいい。薄暗いと感じた店内の景色が少しずつ明るく見えて来る。バーで飲む時の独特の酔い方である。

この店のおつまみは、チェーンのなかでもここだけが厨房に持つ燻製器を使っていて、なんでもすべてスモークされて出て来る。昨夜はお通しが蓮根の燻製、あとは豚トロ、牛タン、鳥の照焼、マグロのトロ、イベリコ豚等々と、次々にスモーク料理が立ちのぼる。どれもとても美味しいのだ。7時過ぎに始めた宴もあっという間に時間が過ぎ、気がつくとお店も超満員である。師走の最初の夜はいい感じで過ごすことができた。

今日は近所の美容院に出かけて、髪を切って色を染めてもらった。このところいつも僕の方からご指名でお願いしてきたスタイリストの女性が、今回も担当してくれたが、帰り際にお金を払う段になって、実は今月一杯でお店を辞めることになったのだと告げられた。美容師をやめるわけではないらしいが、詳しいことを聞ける状況でもなかったので、簡単にお礼を言ってお別れをした。

12月は何かと節目を迎える人も多いのだということを思い出しながら、僕はお店を後にした。美容院に限らず、日常でお世話になるいろいろなお店で馴染みに人は多いが、そういう人との別れというのは、大抵こういう形で突然やって来る。せっかくお馴染みになったところだったので、少し残念で寂しい気持ちになった。

髪はすっきりしたが、なんとなく気持ちはすっきりしなかった。家に帰って久しぶりにスタン=ゲッツの「ピープル タイム」を聴いた。この作品はゲッツ最後の演奏記録である。場所はコペンハーゲンのカフェモンマルトル。晩年にゲッツと多くの共演をしたピアニスト、ケニー=バロンとのデュオ演奏がCD2枚に収められている。

ゲッツは非常に長いキャリアを持つサックス演奏者である。特に有名なのはハードバッパーとしての1950年代、そしてボサノヴァイヤーズと呼ばれる1960年代のブラジル音楽と共演した一連の作品があるが、1980年代から亡くなる1991年までの晩年の演奏も素晴らしいものが多い。僕が一番好きなのはこの時代、なかでも一番のお気に入りがこの作品である。これも購入以来、何度聴いたことかわからない。ここに収録された演奏は寂しい時、疲れた時、落込んだ時、いろいろな人間の心を癒してくれる素晴らしい力を持っている。

そして、普段はジャケットやライナーノートはどうでもよくて、演奏内容だけで作品を判断すればいいと考えている僕だが、このCDのライナーノートにケニー=バロンが寄せている、ゲッツの想い出を綴った文章は数少ない例外だ。僕はこれを読む度に、人間が人間らしく生きるということについて、何か変な意味で楽観的な気持ちになる。もちろん音楽の道での厳しい生き方をしたゲッツだからこその話ではあるのだが。詳細はここに書くことはできないので、是非ともお読みになることをお薦めしたい。

いよいよ寒さも本番である。今年は景気の良さを反映してか、銀座に限らず年の瀬の街はどこも賑わいを見せている。そんな忙しさのなか、新しい生き方への準備を進める人もいる。僕にとってのそれは、まだ見えそうで見えない。動き出せずにいるうちに、このまま足下が凍りつくのだろうか。