6/29/2014

イエス「海洋地形学の物語」

梅雨明けはまだですっきりしない空が続くけど、蒸し暑さはだんだん本格的になってきた。もう間もなく夏だ。夏といえばやっぱり海である。

今日は家族で観音崎に出かけてみた。独身の頃には季節を問わず(というか夏は混んでいるのであまり行った記憶がない)バイクでひょひょいと出かけていた。京浜急行の馬堀海岸駅からバスで走水を抜けて行く。

朝まで雨が残っていたが、昼には晴れ間が差してきて夏のような1日になってくれた。観音崎公園の入口にある小さな浜で、子どもとさっそく岩場に出てみたが、やがて小さな浜でビーチサンダルでびちゃびちゃやり始め、結局子どもだけはパンツとランニングだけになって、一足早い海水浴となった。

1時間ばかり波まではしゃいで、さすがにおなかが空いたので、近くに合ったカレー屋さん「ロミオ」で少し遅い昼食。カツカレーとポークカレーの大盛りを3人でシェア。辛口で美味しいです、ここのカレー。うちの子はもうバーモンドカレーは卒業だな。

お腹を満たしていつもの?岩場探検を観音崎でも楽しんだ。僕とママもそうだけど特に子どもにとっては、この天然のアスレチックは結構いい全身運動になる。こういう時はそれなりに冒険心を出して結構危なそうなところもチャレンジしたがる。

岩場と遊歩道を歩いて観音崎自然博物館まで出て、ちょっとした自然学習を兼ねて博物館をさっと見学して、バスに乗って帰路についた。子どもは車内でぐっすりしてしまったので、馬堀海岸を通り過ぎて終点JR横須賀駅まで乗って行った。

お疲れさま、楽しかったね。今度は水着とテントを持って行こう。

さて夏にはやっぱり海、ならば音楽も海にちなんだものを何か。ビーチボーイズ?いいえ。ボブ=マーレイ?いいや。山下達郎?違う。サザン・オールスターズ?ノー。ってどれも古いね(笑)。歳だよやっぱり。

以前から、ほんとずっと以前から、それこそ中学か高校の頃からずっと、その存在は知りつつも中身を聴く機会が無く、ひたすら「あれはどんな音楽なんだろう」と気になってきてたアルバムを、不意にiTunesでダウンロードしてようやく耳にする機会を得た。

イエスの「海洋地形学の物語」。

イエスと言えば?「ロンリーハート」と言われると苦笑の裏で寂しくなるものだが、まあプログレを聴いている人の間では、"Close to the Edge"と"Going for the One"の2枚が双璧ではないだろうか、とか勝手に書くとまたいろいろ言われそうなんだけど。

イエスのことを書いてあるのを読んだりしても、この「海洋地形学の物語」は好き嫌いがかなり分かれる。大別して「これを聴かずしてイエスを語るな」というものと「崩壊の始まり」というもの。

後者については、しばらくの時期を経て"Going..."が発表されるので、崩壊という言葉は必ずしもあたらないかもしれないけど、そういう人は大抵"Close..."を最高傑作と讃えているようである。

やっとこさ30年以上におよぶしこりを取り除いてこれを聴いてみたわけだけど、やはり諸先輩方のおっしゃることは非常によくわかると感じた。壮大なのかやりすぎなのか裏腹の4つの長編は、それぞれに個性的な存在であり、順番に進行するにつれて、大成功を収めた前作"Close..."の世界から離脱して行く様に感じる。確かに人間関係の変化を感じないわけにはいかない。

僕はまだ3回しか聴いてないけど、気に入りましたよ、これ。"Close..."も"Going..."も大好きだけど、その間に位置する作品として違和感はない(確かに"Close..."からの進化と言うか離脱は感じるけど)。

僕にとってこれがしっかりと聴けるのは、やっぱり安定感のある演奏テクニックがあるからだと思う。作品総監督のアンダーソンに対して、ここで音楽監督を務めたのはスティーヴ=ハウだ。そういう人間模様がはっきり音に現れている。本作でのハウの「弾きまくり」は尋常じゃないけど、どれもしっかり聴けるんだよね。

そう、やっぱりウマいんだよね、このバンド。演奏の安定感はもう抜群。この世界をほとんどそのままライヴでやっちまうというのだから、そりゃスゴい。

勢いで押し切るEL&Pとも、魔法で屈服させられるピンクフロイドとも、心を許したが最後あっという間に洗脳されてしまうクリムゾンとも、違うよね。しっかり聴かせてストレートに説得にかかってくる。曲が終わって初めてそこでサプライズって感じかな。

夏だ!海だ!音楽だ!で出て来る音楽としては、まったく以てえぬろぐ流ではありますが、まあこれも海の音楽には違いありません(?)。ロジャー=ディーン氏による素晴らしいジャケットデザインは、アナログ盤時代のデザインとして歴史に残る名作。ねっ、きれいでしょ?

ああ、また海に行きたいなあ!


6/22/2014

鶴田錦史「壇ノ浦」

琵琶奏者の鶴田錦史のことは7年前のろぐで触れた。最近、また武満の音楽を聴いているうちに琵琶の魅力に惹かれ、結果いくつかの資料を取り寄せた。

楽器の種類と演奏の形式に応じた代表的な琵琶の演奏を収録した、ビクターの2枚組CD「古典芸能ベスト・セレクション~名手・名曲・名演集「琵琶」」で、この楽器の大雑把な歴史と、そのなかでの鶴田錦史の位置などが何となくわかった。

ここにも「壇ノ浦」が収録されているが、僕がそれまで聴いていた「琵琶劇唱」に収録されているものとは別版で、鶴田さんが自身で歌と演奏を行っているものである。

「・・劇唱」に収録されている演奏がそうでないということも今回初めて知った次第。他に収録されている琵琶演奏に比べて、やはり僕には彼女の演奏が圧倒的な存在であると強く感じた。

それでますます鶴田さんについて知りたいと思ったのだが、とにかく情報が少ない。彼女についてはあのWikipediaにさえ一切記載がないというのが現状である。

そんななかいろいろと探しまわっているうちに佐宮圭さんの著書「さわり」のことをアマゾンで知った。これこそが現時点では極めて貴重な鶴田錦史の詳細な伝記である。本を読まない僕が、おそらくは「オン・ザ・ロード(スクロール版)」以来数ヶ月ぶりにした読書となった。

先週は仕事の行き帰りに電車のなかでこれを読み、3日間で読み終えた。素晴らしい内容だった。

「さわり」とは琵琶独特の音色の重要な要素であるびびり音を生み出すための、弦が柱(ネック)の駒(フレット)に微妙に接触する状況のことである。

鶴田錦史という人は、「男装の琵琶師」と呼ばれたり、ある時期は琵琶から離れて水商売の実業家として成功したことなどは、少し聞いていたのだけど、正直ここまで波瀾万丈の人生であるとは想像していなかった。それでも驚きが納得に変わるまではさほど時間はかからなかった。

鶴田錦史の琵琶は素晴らしい音楽であるが、伝統芸能と言ってもありのままを伝承することの至難と、そのなかで時代時代の状況や人の欲望などに翻弄されながらも、その存在をその時代の人々に認めさせ伝えていくことの尽力の凄まじさの一端をこの本で知って、その深さはまた一層奥行きを増すことになった。

そして琵琶の古典だと思っていた「壇ノ浦」が、実は映画のサウンドトラックとして鶴田錦史が書き下ろした作品だということも、今回初めて知った。

もちろん謡われている内容は、平家最期の戦いである壇ノ浦の合戦とそこで起こった安徳天皇の悲劇そのものであるのだが、恥ずかしながら、僕は勝手にそれを平家物語を琵琶で謡ったものだと勘違いしていた。

僕は日本史が苦手で、特にこの平安鎌倉の時代については、歴史の授業で習ったもののさっぱり理解しておらず、記憶にもほとんど残っていなかった。何度も行った鎌倉が源氏に、広島の厳島神社は平家にそれぞれ深い縁のあるものだということも、ほとんど意識することがなかった。

「壇ノ浦」の後半で謡われる安徳天皇の悲劇は、昔、高校で古典を教えてくれた先生がほんの少しだけ口走った、天皇家の伝承に対するひとつの考えのことを鮮明に記憶から呼び覚まさせた。当時は先生変なことを言うなと思ったのだが、なぜか僕の記憶にはその言葉が深く残ることになった。

同時に、天皇家ということとは別に、安徳天皇ご自身の、つまりまだ言われるがままされるがままに受け入れるだけの存在でしかない、わずか6才の子どもの身に降り掛かった悲劇ということに関連して、最近もあった幼い子どもを自宅に残して餓死させるといった痛ましい出来事が重なって見え、ただただ切なくなるという感想も残すことになった。

変な感想ではあるが「壇ノ浦」は、日本の長い歴史のなかで受け継がれてきた琵琶という伝統を、現代においてなお受け継がれるようにと素晴らしい手法で進化させた結果としてある、極めて優れた芸術作品である。

「さわり」のなかに描かれる鶴田錦史の琵琶の存続と継承に注がれる情熱と、運命というしかない様々な人、とりわけ武満徹という人との出会いの数奇さは、僕のなかにしっかりとそのことを強く印象づけてくれた。

そしてそこで扱われる物語は、琵琶が日本の伝統として根付いた当時の重要な事件を、歴史的意味合いと普遍的意味合いを絶妙に含ませたものになっている。奇跡としか言いようのないバランスである。

今後、琵琶を知り、語り、受け継ぐうえでも避けて通ることのできない作品であると同時に、これを生み出した鶴田錦史という人物もまた琵琶と言うものを超えた存在として、受け継がれていくことだろうと思う。

「壇ノ浦」を先に聴くか、「さわり」を先に読むか。どちらが先でももう一方は必然的にその後に続くことになるだろうことは、僕が保証します。

是非!


6/15/2014

父の日

この週末は梅雨空も晴れて気温も上昇。土曜日の朝に大さん橋まで歩いてみたけど、午前6時にはベイブリッジのはるか上にお日様が昇っていた。夏至に一番近い朝の太陽だった。

「父の日週末」と称して、金曜日の夜からスパークリングで乾杯に始まって、なにかと大盤振る舞い?の週末だった。シメイやらヒューガルデンやらいろんな輸入ビールも買ってもらった。ありがとう。

飲んでばかりもいられない。土曜日は六本木、日曜日は三浦半島の油壺へと家族でお出かけ。子どもは新しいものをいろいろ吸収したようだけど、平日よりも睡眠時間が短くなってしまい、その点は親としてちょっと反省である。

父の日をこうやって楽しく過ごせたことはとてもよかった。今年は、家で朝からビール呑みながら自宅でのんびりサッカー観戦させてもらった、というお父さんも多かったのではないか。

ももクロの「泣いてもいいんだよ」の、父の日特別バージョンが数日前から公開され、父の日当日にはこのビデオにメッセージを添えてお父さんに送ると、限定で同曲が無料でダウンロードできるというサービスもあったらしい。

(この映像にはももクロちゃん達は登場しません:フルスクリーンで視ましょう!)


この映像、中島みゆきさん作の曲とともに、とてもよくできているのだけど、一見したところでは、「ここまで大変な思いしてるお父さんって、なかなかいないだろうけどねえ」と思ってしまう。

だけど実は、そこがもう一つのメッセージになっているのだと悟る。つまり「あなたはどれだけ頑張れていますか」ということ。僕にはそう視えた。泣いてもいいけど、やはりそれは誰も知らないところでそっとするべきことだと思う。

前回のろぐで予告した音楽に関係する内容は、新しい資料(珍しく書物)を解読中なので、そのことも含めて次回に取り上げられればと思っている。ちょっと内容が重いのでね。

今日は疲れたのと、もらったビールをゆっくり味わって、日曜日の憂鬱を癒したいので、ここまで。


6/08/2014

真夜中の来光

梅雨入り。週半ばから結構しっかりと雨が降り、まるで残り少なくなっている水を気遣いながらも、降水が途絶えるのを惜しむかの様に間断をつけながら、週末まで続いた。おかげでウォーキングはできなかった。

土曜日は子どもの幼稚園で、どちらかの親が参加して子どもと3時間程を一緒に過ごすイヴェントに参加。休みの日ということで父の日が近いこともあってか、多くはパパが参加していて、僕も少しは面識があるパパやママもいたおかげか、さほど緊張することもなく過ごせた。

先ずは簡単な調理道具と材料を持ち寄ってカレー作りからスタート。野菜を切り終えると、別の部屋で(本当は園庭の予定だったのだが雨で屋内になった)親子が集まって、体操の先生の指導の元でゲームめいた運動を楽しんだ。

おなかが空いた頃に最初の部屋に戻るとカレーができていて、自宅からご飯だけを入れて持ってきたお弁当箱にカレーを入れて、みんなでいただきますというわけである。

あいにくの天気だったけど、こうして園内で子どもと過ごすのは初めての体験で、とてもいい時間を過ごすことができた。カレーも美味しかったし、体操も楽しかった。幼稚園はもう50年以上経過するという古い建物だが、やはり自分の記憶にも通ずる独特の雰囲気が妙に心地よい感じがした。

日曜日もまだ雨模様の空だったので、洋光台にある「はまぎん こども宇宙科学館」に行くことに。

あいにくの天気で館内は家族連れやら団体で混雑していたけど、子どもには初めての体験となるプラネタリウムを楽しむことができた。

満天の星空や宇宙の拡がりに時空を大きく膨らませた想いを巡らせていると、結果的にある瞬間それが自身の存在という根源にたどり着くのが宿命というものだ。

遠い宇宙のどこかに...科学や技術を駆使して探し求めるものは、やはり「自分」に他ならない。投影機が美しく魅せてくれる夜空に見入りながら僕はまたあらためてそのことを確認した様に思う。

この前にキースのピアノ音楽を取り上げて以降、週替わりで特定のアーチストを集中して聴いていて、以前ならそのことをろぐにしっかりとしたためていたのであるが、最近は無精というかそういうことを言葉で書いてもなあとか思う様になった。

キースの後はオーネットを聴きまくり、その次の週は武満をしっかり聴いた。この展開には僕にしかわからない因果はあるのだけど、それを説明することに多少の面白さを感じつつも、やっぱりそれは個人的なことであって、自分が表現するならそれを糧に自身で作った何かを表現しなければと思っている。

オーネットはやはりコルトレーンと並んで僕の永遠のアイドルだ。いまや僕にとってはマイルスやモンクを越える存在。いいよなあこの解放感。"free"ってきっとこういうもんだよ。

初期のドン=チェリー等との演奏は別格として、1960年代までのトリオを中心とした演奏もいいけど、やはりいまとなっては"Dancing in your Head"以降の演奏が圧倒的によい。このアルバムについては、2つのヴァリエーションが収録されたタイトル曲ばかりが有名な観があるけど、忘れてはならないのは"Midnight Sunrise"の素晴らしさ。

まだ84歳でご健在なオーネットだけど2010年を最後に演奏に関する記録はない。2012年の「トーキョージャズ」に参加するとの報があったが、体調不良を理由に小曽根真を代演にして払い戻しなしという悲劇を生んでいる。幸い僕はチケットは買っていなかったけど、無謀な企画の被害に遭われた方はお気の毒。

武満については所有している資料が十分ではないので、今回あらためてCDを2枚購入した。そのうちの1枚「琵琶、尺八、オーケストラのための「秋」他」はとてもよいアルバムだった。弦楽四重奏用に書かれた原曲を弦楽オーケストラ版にした"A Way A Lone 2"の素晴らしさは、今回の新たな嬉しい発見である。

彼の音楽は作品や演奏あるいはその時の気分に因って、少なからず受け入れる際の印象に影響があるのは確かだけど、それも含め彼の音楽とその関連は日本人として誇るべき文化遺産である。

ようやく雨もおさまり、少しだけ湿った涼しい夜の空気に武満の弦楽旋律が控えめな音でしみわたる。憂鬱なこの時間をすこしでも癒してくれる。

その武満の関連で先週はまた別の種類の音楽を聴き直してハマってしまい、こちらについても極めて資料が少ないので新たに2枚組のCDを買うことにした。これについては、どうやらこれからの1週間においてもまだ続きそうなので、詳しくは次回としたい。

僕は音楽を探究することで自分を探求する。

6/01/2014

ありのままで

本牧山頂公園へウォーキングした土曜日、午後はママと子どもがお友だちのお宅に遊びにいくとのこと。暑い日で結局、家でうたた寝したりしてのんびり過ごさせてもらうことに。

夕方になってくると、少しは涼しい風が窓から入ってくる。それとともに家の前で遊んでいる近所の子ども達の声が聞こえてくる。誰ともなしに唄い始めたのをいつの間にかみんなで合唱になっている。

「ありの〜 ままの〜 すがたあ みいせえるのよお〜」

「アナと雪の女王」の主題歌である。うちの子どもも2ヶ月程前に映画を観てすっかり魅了されたよう。歌自体は、「プレーンズ」を観に行った時にすでに予告編で流れた英語版が印象的だったようで、「れりごー れりごお〜」と口ずさんでいた。

それがいまでは日本語の歌詞をほとんど覚えて何かの折に口をついて出てくる。あとよく口ずさんでいるのは「妖怪ウォッチ」のアニメ主題歌かなあ。歌をしっかり覚えてカラオケに連れて行ってみようかなと思っている。

僕は映画の方は観ていないのだけど、歌はダウンロードで購入して聴いている。確かにいい歌である。松たか子が唄う劇中歌と、May.Jが唄う日本語版のエンディング挿入歌の両方を持っているのだが、いずれも日本ポップミュージックの高い実力を示している名演だと思う。

最初、あまりよく分からずにMay.J版を購入し、テレビ番組で視たあの歌唱そのままなのをじっくりと聴いてやっぱりスゴいなあと思った。原曲にはない「ずうっとお〜、泣いてえい〜たけえどお」からエンディングに至るエスカレーションはお見事である。

名前が売れるのと引き換えに、ほとんど「カラオケの女王」みたいなイメージがついてしまって、ご本人としてはどう思ってるのか少し気になるところだが、そういう意味でも期待される彼女らしさが存分に発揮されたこのバージョンは間違いなく秀作である。

しかし、映画の物語に使われる歌にしては歌詞がずいぶん単純なんだなあと思っていたら、実は劇中歌は松たか子版の方で、May.Jのは映画のイメージソングとしてリメイクされているのだと知った。

松たか子の歌はあまりまともに聴いたことがなかったのだが、こちらは役になりきった熱唱で、スクリーンを視ながら聴いた人の多くがこちらの版を推すというのはよくわかるところだ。

歌詞も訳詞とはいえストレートな言葉なので、メロディーに乗せるのが結構難しかったと思うけど、そこはやはり女優の底力で見事に演じきったというところだろう。ラストの「これでえ〜」のところで絞り出されるエモーションは涙腺ものである。

こんな素晴らしい2つのヴァージョンを楽しめる日本は幸せな国だ。

映画は世界中で大ヒットしているらしいが、歴代の国内映画興行成績で3位になった(1位は千と千尋の神隠し、2位はタイタニックだそう)理由には、これらの歌の素晴らしさが少なからず影響しているのは間違いないだろう。

しかし、子どもや妻から少し聞いて想像する映画の物語を考えると、松たか子が謡う歌詞は僕にとっては非常に切ないものがある。

子どもにはありのままで、素直に育って欲しいと願う一方で、いまの自分が「ありのままで」生きられるのかと自身を考えてみると、やはり切ないというかやりきれないような感情を抑えるのに心にわざと大きな空洞をあけるような想いがする。

それは単に時を遡ることはできないのだと片付けられることではなく、自分のなかにある様々にある自身をどのように組み合わせて生きていくのが幸せなのか、それを模索することを続けることに苦悶して一生が終わるのだと言うことに対する漠とした畏れのように思える。

触れるものすべてを凍らせてしまう不思議な力は確かに恐ろしいが、人が心の奥に秘める望はそれと比較しても劣らぬ不思議で不可解なものなのだと僕は思う。気圧の様に中身は違えどそれは誰にでもあるのだと思わなければ、外とのバランスを保って自分が存在することは難しいのだろう。

「ありのままで」という言葉そのものが実は禁断の呪文なのかもしれない。