12/07/2008

鏡の中の鏡

12月になった。今年もあと3週間と少しである。この週末はかなり寒くなるといわれていたが、実際にはそれほどでもなかった。

10月半ば以来で髪を切ってもらいにお店に行った。自宅近くの安いヘアサロンで、もうかれこれ2年間同じ人に担当してもらっている。その人がこの年末で結婚を機にお店を辞めるのだと聞いていた。

僕は自分の髪についてはあまり気に入ってはいない。生まれながらの太い髪質もそうだし、中学校で丸坊主を3年続けた後で伸ばしてみたらかかっていた天然ウェーヴもそうだ。おまけに仕事で猛烈な苦労をした訳でもないのに、二十歳代後半からかなり白髪が出始めた。

髪質を変えるのは容易なことではない。天然ウェーヴは一度だけストレートパーマを試してみたが、僕の太い髪にはあまりいい結果をもたらさなかった。白髪は家庭用の白髪染めを一度試したら見事にハマってしまい、以後ずっと髪を切るたびに自宅で続けてきた。

それが3年ほど前にいまのサロンに行くようになってから、お店で染めてもらうことの素晴らしさを知り、それからは自分でやることはなくなった。やはり仕上がりの美しさはプロにはかなわないし、冬に洗面所で寒い思いをしなくてすむ。

髪が太いと、髪の長さがある一定のレベルを超えると急激にヴォリュームが膨張し始める。おまけに強いクセが出るので頭の上に何かの巣か森をのせている様な感じになる。さらには生え際が白いので前髪を上げていると、その巣か森が頭の上で浮いて見えるようになる。頭が小さい方ではないし、身体は華奢な方だから、ますます格好が悪くなるわけだ。

僕の祖父は理容師だった。僕が大学4年生の時に病気で亡くなる少し前まで、娘である僕の叔母と2人で田舎で散髪屋をやっていた。僕は大学生になるまではその2人にしか髪を切ってもらたことがなかった。

そして大学生の間はほとんど自分で髪を切っていた。ストレートヘアの人には信じがたいことかもしれないが、くせ毛の場合、ある程度うまくやれば結構どうにかなってしまうものなのである。

社会人になって上京して寮生活を始めるとさすがにそうはいかなくなり、迷ったあげくに僕が足を踏み入れたのは、いわゆる散髪屋ではなく美容室(いわゆるヘアサロン)だった。なぜそうしたのかははっきり覚えていないが、おそらくはある種のあこがれの様なものを抱いていたのと、祖父や叔母に対する気兼ねの様な気持ちがあったのだろうと思う。

以来、僕を担当してくれる人は、必ず一度は「髪が太くて硬いので切るのが大変だ」という主旨のことを、別の言い回しでにじませてくる。そして大抵は担当してもらうのは女性である。理由は簡単でその方が僕にはいろいろな意味で気が楽だから。

いま通っているお店は担当者を指名するのに料金がかからないので、気に入った人がいると必然的に同じ人を指名することになる。今回で最後になる彼女の前はやはり結婚で退職した女性だった。

途中からうちの妻も同じ人に担当してもらっていたこともあって、僕も打ち解けていろいろな話をしてきたと思う。レスポンスはいまひとつな場合もあったのだが、それが意図的なものなのか天然なものなのかはわからない。

美容師さんというのは鏡を通して人と接する不思議な職業である。お客である僕らもほとんどは鏡で向き合いながらその人と接することになる。そして仕上げの最後に「後ろをお見せします」と言って、後頭部を映した鏡を目の前の鏡の中に見せてくれる。何とも言えない瞬間だ。

2年間も夫婦でお世話になったので、僕は彼女に何かCDをプレゼントすることを思いつき、それはすぐにアルヴォ=ペルトの「アリーナ」に決まった。

彼女のお相手も同じ系列店の美容師さんで、2人は同郷でもあり美容学校の同期だったのだそうだ。結婚のお祝いの意味と美容師という職業を考えると、このアルバムに3つのヴァージョンが収録された作品「鏡の中の鏡」は、とてもいい語呂だと思った。

これほどまでに無駄のない単純なストラクチャのなかに織り込まれた繊細な音の美はないと思う。このアルバムの美しさと素晴らしさを表すのにあまり余分な言葉は要らないだろう。ここに収録された音楽は、すべての人の心を落ち着かせ静かにその心に自身を向かい合わせてくれるはずだ。

音楽が人間に与える境地にはいろいろなものがあるが、この音楽の与えてくれるそれは、最も単純でありながら極めて深遠なものだと思う。


アルヴォ=ペルト
「アリーナ」

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