3/09/2008

いとこの結婚式

週末、父の妹の娘にあたる人の結婚式に親族代表として出席するため、再び和歌山に赴いた。結婚式は2年前に職場関係のものに出席して以来のこと。今回は特に挨拶やスピーチなどもなく、まあのんびりと披露宴を楽しまえてもらおうと思った。

よく考えてみると、今回の出席はいままで何度も参加してきた結婚式と異なる「初体験」がいくつかあった。まず妻と二人夫婦で参加するのが初めてのことだったし、兄と一緒に参加するというのも意外にも初めてのことだった。生まれ育った街、和歌山で行われる結婚式に参加するのも初めてのことだったし、加えて新婦の側で参加するのも僕にとっては初めての経験だった。

まあそれぞれの初めてに思い感じたことはいくつかあった。印象的だったのは、新婦側の立場から結婚式や結婚披露宴というものを経験したことだろうか。今回結婚した従妹は僕より15歳も年下なので、一緒に遊んだ様な経験はほとんどなく、従妹というより姪っ子のような感覚さえ抱いてしまうほどだ。彼女の母である叔母は彼女を産んだ後、自他にいろいろと困難があり、結果的には自分の実家で独りで彼女を育てることになったという経緯がある。

そうした彼女自身のいろいろな苦労を間接的に理解しているだけに、その従妹が叔母のもとを離れて嫁いでゆくということは、僕にも「お嫁に行く」ということを少しだけ実感させてくれることになった。宴の最後に、母への手紙を泣きながら読む姿は、いままでもいろいろな結婚式で何度も見てきたが、やはり今回感じた想いはいまでにない深いしっかりしたものだった。

宴席に先立って会場に併設のチャペルで執り行われた結婚式は、僕にはやはりキリスト教的スタイルを日本で行うことの違和感を感じるものだった。外国人の牧師の前での宣誓とか賛美歌とか、やはりあれは憧れなのだろうか。僕はどうもあれが未だに馴染めない。賛美歌の歌詞カードを見据えたまま口をつぐんでいる新郎の父の姿が印象的だった。

まあかくいう自分たちもそういうスタイルで結婚式を挙げたのだが。母の遺影を持って参列した父がずっと泣いていたことや、指輪の交換の後に接吻を交わす際に、僕が首を傾けることなくいつものように真っ正面からキスをしたので、後から「おまえはああいう場での正しいキスのやり方も知らんのか」と妻からなじられる結果になった。覚えているのはそんなことばかりだ。神父の説教の内容や賛美歌の歌詞などはさっさと忘れてしまった。

どのような儀式であるかは置いておいても、新しい夫婦が誕生する場に同席させていただくのは非常に光栄なことである。しかし、儀式の有無や内容はその後の夫婦生活にはほとんど関係なく、それがいい思い出になるかどうかは、その後の夫婦生活の方向性でいかようにでも変わる。満足と不満のバランスがちょうど均衡していれば、天秤はどちらに傾くこともない。少しでも不満が上回っていれば、結婚はその方向に傾いてゆくことになるし、もちろんその逆も同じことだろう。そこに程度の差はあまりないように思うのだがいかがだろうか。

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