5/09/2007

ライ=クーダ「マイ ネーム イズ バディ」

 ろぐの更新間隔がずいぶんと空いてしまった。読んでいただいている皆様にはご心配をおかけしてしまった。お詫びしたい。

最初に言っておくと、父親の容態は現時点では小康状態が続いており、いろいろな問題はあるものの自分で食事をしたり、人と話をしたりするには何の問題もない。この一ヶ月ほどの間は詳しい検査を受けていなかったので、先の月曜日にCTなどの撮影を行い、間もなくその結果を医師から教えてもらう段取りになっている。

多少言い訳がましくなるが、ろぐが滞った経緯を含め近況をご報告しておきたい。4月の最終土曜日から始まったいわゆる「大型連休」に入ってすぐに、妻と僕は父親の様子を観に和歌山に行った。今回は会社から借りたノートPCを持参していたので、余裕があれば連休中に一度はろぐの更新ができるかなと思っていた。

ところが、帰郷する2日前に受けた注射で一時的に非常に気分がよくなっていた父が、勝手に自宅への一時外泊の手続きを進めてしまい、兄や僕らが和歌山に到着したその日の夕方には、もう福祉タクシーを呼んで家に帰るのだと言い張った。自宅への一時外泊は、ガン患者のケアにおいて非常に重要な意味を持つ。たとえ末期の状態でもよほどの事情がない限り、医師側もできる限りそれが実現できるような手配をしてくれるのが普通である。

痛みの発作が再発した場合に備えての緊急用の薬―貼り薬や飲み薬などいくつかが渡されたが、その多くはモルヒネ系のいわゆる麻薬である―をいくつか手渡され、僕らが病院を出発したのは夕方6時頃だったと思う。車椅子の父を乗せた福祉タクシーには兄が乗り込み、妻と僕は、病院の近所のスーパーで当面必要そうな買い物をして後からタクシーで追いかけた。

父を責めるわけにはいかないが、この外泊はかなり無理があった。先ず、それまでの度重なる帰郷である程度片付いていたとはいえ、自宅で父親を迎え入れる準備など何もできていなかった(もちろん僕らの心の準備も)。もちろん自宅には介護ベッドもナースコールもない。加えて、その2日前に受けた注射の効果は早くも失われており、父の意思とは裏腹に痛みの発作が再び起こり始めていた矢先だったのだ。

僕らが実家に着いて玄関を開けると、すぐになかから兄の悲痛な叫び声が聞こえてきた「早く来てくれー!」。あわてて応接間に駆けつけてみると、苦しそうな父親がソファーに座るとももたれるともいいがたい状態で寄りかかっている。口からはしきりに「痛い」と「寒い」を繰り返した。

その日は比較的暖かな気候だったのだが、父をいつもの部屋に運んだ僕らは、電気毛布やエアコン、石油ストーブを動員して部屋を暖め続けた。僕らにはパンツ一丁でも汗だくになる温度だったが、それでも父は寒がった。痛みに加えて、痩せ細って身体の脂肪分がほとんどないので、体温調節などの代謝機能が弱って新しい環境になかなかなじめずにいるのだろう。これは予想外のことだった。

結局、その日の夜遅くにかなり効果の強い貼り薬を処方し、漸く落ち着いた父はそのまま翌日に朝遅い時間まで眠り続けた。僕は兄と応接間にマットを敷いて寝た。この家ができて25年ほどになるが、もちろんこんな経験は初めてである。

2日目には少し状態が落ち着き、好物の茶粥やお刺身などを口にできるようになった。寒さを訴えることもなくなり、部屋の窓をあけて外の風を感じるのが気持ちいいといえるまでになった。山の斜面に開かれた宅地で、車がないと買い物にも不便な土地柄で、いろいろな苦労もあったが、実家の部屋で父が気持ちよさそうにしている姿は、そうした苦労を報いて十分余りあるものだった。

それでも薬の作用からか時折言うことが理にかなっていないこともあった。夕方頃になると、以前僕らが母親とともにこの家で4人で暮らしていた頃に、父が家で部屋着として使っていた着物を着たいと言い出したり、食堂で僕らと一緒に食事をしたいなどと、無理難題ばかりを言い始めたりもした。父からすれば、そうしたことこそが家に帰ってきたことの確実な証であり、病気を克服して自分の人生を取り戻すことの象徴なのだろう。

3日目の早朝になると再び発作が出始め、痛みや息苦しさを訴えるようになった。このまま僕らに任せていて家にいることに、いろいろな意味で限界を感じたのだろう、昼前には病院に帰ると言い出した。一応、外泊許可はその翌日までとなっていたのだが、僕らもそろそろ限界かなと感じていたところだった。

当然のことだが父は機嫌が非常に不安定になり、僕らにも当り散らしたりした。結局、身体の状態から車椅子でタクシーによる移動は無理と判断し、事情を説明して救急車で搬送してもらうことにした。これまでの経緯から、目の前の父が今すぐに命にかかわる状況ではないとわかってはいるのだが、サイレンの音を常に頭上に聞きながら、救急車のなかで酸素マスクをつけて横たわる父を見つめていた僕の目には、うっすらと涙が浮かんだ。

こうして連休中で最も大変だった3日間が過ぎた。病院に運ばれた父は比較的落ち着きを取り戻し、すぐに眠り始めた。それを見届けた僕と兄は夕方には病院を引き上げ、実家に戻った。途中、スーパーでいろいろな食材を買い込み、家に帰って留守番をしてくれた僕の妻とともに3人でビールを飲んだ。後味の悪さと安堵感が入り混じった不思議な味だった。

父が病院に戻ったのは月曜日だった。僕はその後土曜日の朝まで実家にとどまり病院に通った。その間にもまたいろいろなことがあったのだが、それはまたいずれ機会があれば書くことにしたい。ともかく連休とはいえほとんど休んだという実感がないままに9日間が過ぎたというのが正直なところだ。いまさらだが介護というのは、情が基本にあることはその通りだと思う一方で、いまの世の中の仕組みはそれだけでは実が伴わないというのが現実だ。

滞在の途中、以前からこのろぐにもちょくちょく登場する同郷の2人が、和歌山市内まで出てきてくれて、つかの間の楽しいひと時を提供してくれた。僕らが通った小中学校がある県中部の町では、学校や町そのものの統廃合といった問題がさらに現実味をもって進んでいるらしい。僕自身はそれを単純に地域間格差だなどとは思わないが、これも情だけでは何にもことが起こらない問題なのだと思う。

8日ぶりに川崎に戻った。雨が降った日曜日はほとんど一日中ごろごろしていたが、目の下のクマが取れる気配はなかった。ろぐの更新を試みたのだが、ブログのシステムを運営しているGoogleのトラブルでそれができなかった。その状況は結局数日間続き、昨夜になってようやく会社側がトラブルを認め復旧作業に取り掛かったようだ。

職場の仲間には悪いと思ったが、たまたま仕事の予定が少なかった今日の水曜日に休暇をとらせてもらい、先ずはシステムが復旧したところでこのろぐを書いた。

この間、iPodを持っていたにもかかわらずほとんど音楽を聴くことはなかった。ヘッドフォンは癒しには向かないものだ。行き帰りの新幹線の中で聞き始めたライ=クーダの新作が心地よかった。ジャケットとタイトルにある通り、バディという名の猫の目を通してつづられる様々な世相が、ライ本来の音楽であるアメリカンルーツミュージックに乗って次々に展開するご機嫌なアルバムだ。

ジャケットは本の形式になっていて、各楽曲に関する本人の解説が掲載されている。歌詞とともにじっくり読んでみるとなかなか面白い内容になっている。参加ミュージシャンも豪華絢爛である。まあ言葉はこのくらいにして、是非とも音楽そのものを楽しんでもらいたいものだ。

昨日から真夏のような気候になっている。今日も昨日以上に気温が高そうだ。いまからコーヒーでも飲んで、半袖のTシャツで久しぶりに少し街をぶらぶらしてみようと思う。いろいろなものを目にするたびに、父のことを気にすることになるとは思うが、それもいいだろう。忘れるよりはずっといい。

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