骨折の夜から5日目になった。いまのところ痛みはそれ程でもない。ベッドに寝る際に姿勢を変えるのが一番辛いが、それも少しずつ慣れてきた。以前に患った椎間板ヘルニアの体験がよみがえってきた様に思う。痛みは慣れるとある程度までは(それがいずれ治まるものと信じながらではあるが)、それと付き合って生活を続けることはたやすい。父親のこともあるし、一日でも早く治さないと困るわけで、そのためには少し大げさでも静養することが必要だ。なので、今週後半はどうしてもやらねばならなかったあるプレゼンを除いて、基本的には会社を休むことにした。
おかげで、酒も飲まず毎日決まった時間に寝る生活が続いている。ちょうど2週間くらいお酒を飲まない期間をつくらないといけないかなと、考えていたところだった(言い訳がましいが)。姿勢の関係でベッドでテレビを見るのも難しいので、ベッドに入ったら眠るしかない。これが意外にすんなり眠れてしまう。たぶん寝るのが不自由するので、昼間でもあまり気軽に寝ることができないのがいいのだろうと思う。まあそれでも結構昼寝はしているが。
さて、今回は先週のろぐとして書きかけていた内容に、骨折後に少し手を加えて仕上げたものでご勘弁いただきたい。
先週の土曜日、僕と妻は再び和歌山に帰った。今回は明確な目的があった。それは、父親を彼が生まれ育った実家につれて行ってあげることだ。父が繰り返す「帰りたい」の意味は大きく3つあるように思う。以下ニーズの強い順に、一つは病院を出て自分のペースで生活をすること、もう一つは自分が建てた家に帰ること、そして最後が、自分の生まれ育った実家に帰り、事情があって病院に来ることができない自分の妹に会ったり、自分の両親の存在を感じるものに触れたいこと。今回は、その3番目を実現してあげようという企画である。お分かりかと思うが、ともかく実現するのが一番たやすいのがそれなのだ。
父の実家は、現在の家があるのとは正反対の方角にある。病院からは車で50分位はかかるはずだ。まあ地方の道なので、渋滞とかの心配は大したことではない。問題は父親の身体が往復の長時間のドライブに耐えられるのかということだった。これに関しては、病院の先生や看護士、それに叔母と兄と僕と妻でいろいろと話し合ったのだが、病院側はあっさりOKという一方で、身内の僕らはなかなか踏ん切りがつかないというのが実際だった。
それもそのはずで、この1週間でも父の状態は様々だった。週の前半はもうほとんどうつらうつらと寝るばかりで、ほとんど会話らしいものがなかったらしい。やはりこれでは難しいのではないか、そういう雰囲気が僕らの間に充満した。ところが週の半ばから調子を取り戻し、水曜日に電話で言葉を交わしたという兄の報告では、話している内容はいまいちはっきりしないものの、言葉のニュアンスやイントネーションなどはしっかりしていて、意識はかなりはっきりしている様子だったのだそうだ。さらにその2日後に病院に行ってくれた叔母の話からも、ほぼ同様の状態であることが確認され、結局、土曜日に僕と妻が病院に行き、そこで状態を判断したうえでよければそのままタクシーに乗せて連れて行こうということになった。
この日の和歌山はちょうど梅雨の合間で天気がよかった。病室を訪れてみると、僕らの顔を認めた父が微笑んだ。それを見た家政婦が「わたしらにはこんな顔は見せたことがないよ」と言って僕らは少し恐縮したが、まあそれは本当だろうと思う。話をしてみると、内容は相変わらずちぐはぐな部分も多かったが、言っていることはわかるし、意識がはっきりしていることは明らかだった。決行はすぐに決まった。
あらかじめ地元のタクシー会社に相談をしてあった。車椅子のまま乗れるタクシーや、寝台(ストレッチャー)のまま乗れる車両などもあったが、時間と距離を考えると金額もそれなりになった。なによりも事前に予約をしておく必要があり、そのことが今回の様な状況ではちょっとためらってしまうのも事実だった。しかし結果的にはいまの父の様子から、通常のタクシーで座った状態で乗せ、叔母と僕と妻も乗り込んで行けるところまで行ってみようということになった。
車椅子で病室を出て、エレベータに乗って病院の1階に降りたあたりまではうれしそうだった父だが、そもそも自分がどこに行くのかについてはあまりよく理解していないらしかった。車椅子が病院の玄関に止まったタクシーのところまで来ると、一瞬乗ることを躊躇する場面もあった。やはり病院を離れることにどこか不安を抱いているのだろう。トイレに行くとかなんとかいってゴネるので、叔母がオムツ履いてるから心配ないでしょうとか言いながら無理やりタクシーに乗せてしまった。
往路、父は少し痛がりもしたが概ね順調だった。僕は助手席に乗り、叔母と妻と父が後ろの座席に並んだ。タクシーが走り始めて、すぐに気づいたことがあった。おばが事前に今日は実家に帰るよと本人に説明していたにもかかわらず、やはり父は自分の家に向かうものと思い込んでいることだった。周囲の景色の移り変わりを見ながら、自分たちが逆の方向に走っていることは、ほぼはじめからわかっているようで、途中から「どこへ行くのか」とすねだしたりもした。車が実家に着く頃になると「もう降りる」とか言い出し、表面上は明らかに不満そうではあった。
父の実家は以前は理髪店を営んでいた。お店があったところには、昨年の春まで祖母が寝たきりになっていた介護用ベッドが置かれ、最近までそのうえに荷物が山積みになっていたのを、大慌てで片付けてくれたのだそうだ。といってもお世辞にも部屋はきれいに整頓されているとはいえず、父もそれをみてまた不平をまくし立てていた。この家に住む妹たちは、自分達の兄が到着しても、なかなか部屋に入ってこようとしない。大体察しがつくと思うがこれが父の兄妹そのものであり、彼らの性分であり、彼らの世界なのだ。
父は少しずつ落ち着きを取り戻し、やがて車椅子から降りて祖母が寝ていたベッドで横になりたいと言った。それを手伝った僕と妻は、しばらくして散歩に出かけると言ってその家を出た。それがどういう内容になるかわからなかったが、この家で父と3人の妹だけの時間を過ごさせてあげたかったのだ。わずか45分ほどの時間だったと思うが、そこで何があったのか僕等は知らない(まああまり大したことはなかったと思うが)。
滞在は1時間半ほどだっただろうか。寛ぎ始めた父がそこに居座りたいというだろうことは十分察しがついたので、帰らせるのは骨が折れるだろうなと予想はしていたものの、まあそこはなんとか車椅子に乗せることができた。僕と妻はタクシーが来るまでの少しの間、父を実家の近所をおして散歩した。隣のお宅がどうしたとか、牛乳屋だった家はいまはどうなっているだのと、昔の話をちぐはぐながらしているうちに、お迎えのタクシーが来た。
本来ならば少し回り道をして、彼が長年勤めた会社の工場がある辺りまで行ってあげたかったのだが、僕の方にどこか心の余裕がなく、早く病院に帰さないとという焦りからかまっすぐ戻る道を選んでしまった。
帰りのタクシーでも父は快調そのものだった。そして予想通り、病院に着いてそこで彼を降ろすのが少々骨だった。本人は僕らには降りてもらって、自分はこのまま家に帰るのだという気になっていた。座ったまま「運転手さん、じゃあ車を出してくれ」と言ったり、タクシーカードをホルダーごととってなにやらいじくり回したりとしているうちに、なんとか僕の説得に応じて車から降りてくれた。
こうしてドタバタではあったが、父を連れ出してのタクシードライブは終わった。僕と妻はその後1時間ほど父に寄り添っておしゃべりをし、あとは家政婦にお願いして病院を後にした。もっと長い時間連れ出してあげられればよかったとか、あそこを見せてあげたかったとかいろいろな反省はある。しかし、叔母も僕も妻も、とりあえずやり遂げたと言う思いに満足することはできた。それが父の満足にどこまでつながっているのかはわからなくても。
案の定、後で聞いたところではその夜父は興奮し、眠りもせずに盛んにベッドから降りようとしたらしく、以降、また「帰りたい」を連発する日々が続いているそうだ。なかなかそれに真っ正面から応えてあげられないのだが、父が元気になったのは嬉しかった。
父には悪いと思いつつ、妻と二人で和歌山駅前の魚料理店「銀平」の暖簾をくぐって、ささやかな打ち上げをした。海外出張の準備で来ることができなかった兄にはメールで報告をした。珍しい太刀魚の刺身など美味しい和歌山の魚を食べていると、父が僕らを育ててくれた海に近い社宅街に吹く磯の香りを含んだ風を思い出した。やっぱり帰りのタクシーにはそこを回ってもらうべきだったかなと思うと、少しビールが苦く感じられた。また機会がある、そう信じることで僕は僅かに震えたグラスを持つ手を落ち着かせた。
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