7/29/2007

父を見送る(前)

父の訃報に対して、多くの方からお言葉をかけていただきましたことを感謝いたします。先週末までには既に川崎に戻っていたのだが、父のことをどう書いたものか考える余裕があまりなく、ろぐはお休みとさせていただいた。

4月の後半頃から実質的に小康状態にあった親父の病状に、新たな展開が見られ始めたのは7月に入ってからだった。定期的に見舞いに行ってくれていた叔母からは、その頃から父が癌の痛みを少し訴えるようになったことを聞いていた。叔母の口ぶりではそうは言っても従来と同じ調子であるようにも見えたらしいが、僕にファックスで送ってくれた、主治医が書いたCT検査の所見には、これまでとの明らかな違いがあった。そこには幾つかの新たな転移が見られると書かれてあったのだ。

その知らせを受けた週の水曜日、僕は肋骨の経過を診てもらいに病院に行った。この日はとても混んでいて、僕は予定した時間になってもなかなか呼ばれないでいた。会社の午前休暇を超過しないかが気がかりだったので、時折、隠れて携帯電話の時計に目をやっていたのだが、ある時そこに着信の記録があることを認めた。発信者は父が世話になっている病棟の看護士長だった。父の病状に変化が出ているので、できれば早いうちに病院に会いに来て欲しいという内容だった。

肋骨の方は、本来であればその前の週の検診(骨折後1週間)で終わりのはずだったのだが、骨折時に肺の中に僅かに出血し溜まったものが認められ、それがもし増加していると問題なのでと、もう1週間観察をすることになっていた。つまり骨がくっ付くかどうかについては、もはや医師の関心事ではなかったのだ。幸いその影が大きくなっているということはなく、僕の診察はそれでおしまいということになった。写真を見ても明らかに骨はまだきれいに折れたままだったのだが、先生にそれを尋ねると「骨はまだまだですよ。1ヶ月はみておいてください。大丈夫、ちゃんとくっつきますから」と、妙に自身たっぷりな答えだった。

診察が終わってすぐに、父の病院からの電話について兄や妻に連絡を取った。元々、その週末の3連休に、僕と妻が和歌山に行くことになっていた。兄は主治医と電話で話したそうで、その時点で新たな転移のことと、今月いっぱいかもしれないという余命についての見通しを伝えられたという。その夜には、その日病院に行ってくれた叔母とも連絡がとれ、父の様子を聞くことができた。相変わらず痛がるとはいっており、食事も以前のようには摂らないとのことだった。週末には逢いに行くとして、その後はどうしようか。父はかつて母がそうなったように、やがては強い痛みに対してモルヒネを注射して意識のない状態になって、そのまま1週間ほどで死んでしまうのだろうか、そんなことを考えた。

7月13日の金曜日、僕は骨折以降このところそうしているように、従来より早く会社に出かけた。満員電車の混雑を少しでも避けるためだ。会社の最寄り駅に到着し、徒歩で数分の道を歩いている最中、何気なく眺めた携帯電話に着信記録を認めた。今度はメッセージは入っていなかった。会社についてすぐ病院の連絡をとったところ、そこで出た看護士から父がつい今しがた亡くなったことを知らされた。

少し驚いた、でも僕はとても落ち着いてその知らせを受け入れた。先ず、まだ出社前の準備をしていた妻に連絡をとり事実を告げた。続いて、兄に電話をしたがつながらなかったので、もう知っているのだろうとは思いながら、とりあえずメールを打った。職場の人間に事情を説明し、出向元のオフィスに出向いて出社していた部長代理にも事情を説明した。これから何をしなければいけないのかを考えながら、さっき降りたばかりの駅から再び電車に乗った。

1週間くらいの帰郷になる。慌しく準備をしても2時間程度はばたばたした。翌日に予約していた新幹線を変更し、品川を12時に発つことに決めた。和歌山駅に到着するのは午後4時になる。あらためて距離を感じる。既に知らせを受けて病院に到着した叔母から電話をもらい、僕等か兄のいずれかが到着するまで病院で待ってもらうことにした。結局、出張先から広島に戻りそこから駆けつけた兄とは、同じタイミングで和歌山に着くことがわかり、兄が病院に行って、僕達は先に実家に行って父を迎え入れる準備をすることにした。

父を寝かせてあげる布団に敷く真新しいシーツを駅前のデパートで買った。家の中はある程度片付けてあったので、開けられる窓をすべて開けて新鮮な空気に入れ替え、父が寝起きしていた部屋に布団をしいて父の帰りを待った。父が兄や叔母とともに帰ってきたのは午後6時過ぎ、外はまだ明るかった。病院での待ち時間の間に叔母が手配してくれた葬儀屋の人が同行して来て、父の亡骸にドライアイスを添えるなどの処置をしてくれた。

僕は病院から持って帰ってきたCDラジカセを枕元にセットして、病院でも何度か聴かせてあげた父のお気に入りの音楽を鳴らしてあげた。モーツアルトの「フルートとハープのための協奏曲ハ長調」、フルートはジャン=ピエール=ランパル、ハープはリリー=ラスキーヌである。実家へのタクシードライブ以来久しぶりに会う、そして死んでしまって初めて見る父の顔は、それはとても安らかなものだった。その瞬間、僕の心の底に漂っていた哀しみは消え去ったように思う。「お父さん、おかえりなさい」。

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