7/29/2007

父を見送る(後)

葬儀は月曜日の12時からだった。この日、和歌山は台風一過の夏晴れで、蒸し暑い太平洋の風が吹いた。にもかかわらずまたいろいろな人が父との別れにやってきてくれた。実家にタクシードライブをしたとき、到着した父は突然自分の葬式について話した。聞いていたのは僕だけだったが、その内容は「簡素に、できるだけ多くの人に参ってもらってくれ」というものだった。

簡素にというのはそう心がければできることなのだが、多くの人に来ていただくというのが難しい問題だということは、実際にお葬式をやってみてよくわかった。というのも、15年前に退職をした会社でお付き合いのあったいろいろな人、とりわけ父が最も精力的に活動した庶務課時代に交流のあった社外の方々については、彼の思い出話でそうした人の存在を知ることはできても、現在の消息を確認することは容易ではないからだ。遠方だったり、既に音信が途絶えていたりすることも多いうえに、何よりも我々家族には一切面識がない。仕事だけでのお付き合いという人間関係のはかなさとは、こういうことなのかもしれない。それでも、遠方から僕の友人や兄の会社の人、そして広島から妻のご両親も出席してくれた。

読経とともに焼香が進み、葬儀も終盤を迎えた。出棺前に最後に父の顔を見て、それを撫でてあげた。皆でお供えされた花を棺に入れ、ふたを閉じる。喪主である兄から、皆様へのご挨拶。これはなかなか辛いものがある。僕は母の死に際して、母の信仰していた宗教の集まりに参加し、そこに来てくれた人たちを前に挨拶をしたことがある。それまで涙を流すことはなかったが、何か母についてまとまったことを言おうとした瞬間に、急にいろいろな想いが込み上げ、涙と嗚咽を漏らしながらの挨拶となったことはいまでも忘れない。

火葬場に向かうべく、兄が位牌を持ち父と一緒に霊柩車に乗り込む。僕と妻、そして叔母がそれに続くタクシーに乗り込んだ。火葬場までは車で2~30分の道のりだ。兄と僕と妻は、後で拾骨にも行ったから往復2回を同じタクシーにお世話になった。このタクシーの運転手さんこそ、おそらくは一生忘れることのできないこの日の思い出になた人だった。

こういう場合、タクシーの運転手さんは悲痛な思いの遺族を相手にしなければならないわけだが、この運転手さんは実に上手に僕らの心を和ませてくれた。聞けば、地元ではかなり有名な運転手さんで、以前は県を訪れる皇族や政治関係者などをはじめとする賓客の対応をしていた人らしく、現在は独立して個人タクシーの運転手をしている。彼は様々な人生経験に基づいた面白くも示唆と和みに溢れたいろいろな話を、短い時間にたくさんしてくれたのである。

火葬場に着く。和歌山市の火葬場は、すたれていく市の情勢とは裏腹に、とても大きく立派な施設である。冷たく厳粛な雰囲気の施設に到着すると、遺族の代表として5名だけが炉の直前まで行くことができ、残りの親族はその光景をガラスで仕切られた別室から眺める仕組みになっている。兄と僕、僕の妻、そして2人の叔母が炉の前まで行き父を見送ることになった。読経に続いて父の棺が炉の中に静かに入っていく。閉まる扉を見ながら、僕は思わず右手を上げた。「行ってらっしゃい、お父さん」

いったん火葬場から式場に戻る車には、兄も一緒に乗り込んだ。そこでも運転手さんは、兄の心を和ませるようないろいろな話をしてくれた。途中、紀ノ川沿いの道端にある小さな傾いたラーメン店の脇を走ったとき、テレビ番組「鉄腕DASH」の「ソーラーカー」企画の取材をしている現場に遭遇し、一瞬だったがTOKIOの国分太一の姿を認めることができたのには、ちょっと驚いた。(この模様は本日付けの同番組で放映された)

式場に戻って、お参りしてくれた親族に振る舞いをして間もなく、再び3人で火葬場に赴く。また同じ運転手さんが送り迎えをしてくれた。拾骨は僕には初めての経験だった。まだ熱気の残る炉から出てきた父の亡骸は、僕らが入れためがねのフレームや本の燃えかすなどと一緒になって、きれいに真っ白な灰となっていた。係りの人に言われるままに、身体のいろいろな部分の骨を少しずつ拾い、大小2つの骨壷に収めてあげた。その壷を兄が抱え、僕は位牌、妻は遺影を持って車に乗り込む。

この帰路に運転手さんがしてくれたお話が、僕らにはとても印象深いものだったのである。内容は単に仏壇に父をお祭りすることについての話だったのだが、これまでそうしたことの意味や目的について、ほとんど何も考えてこなかった僕ら、とりわけ兄にとって、この20分間のお話は僕らがこれから何をしていかなければいけないのか、ということについてしっかりした意識を持たせてくれる素晴らしいお話だったのである。言葉は悪いが、いきなり押しかけてお経をあげお金を持って帰るだけのお寺の人でさえ、そんな話はしてくれなかった。父のことを含め、僕はまだお寺の人がありがたいと感じたことは、正直言ってない。

その日のうちに初七日を済ませ(いまはそういうものらしい)、お世話になった葬儀場をあとにして、家に帰った。家には葬儀屋が用意してくれた簡単な祭壇に、父の位牌と骨、そして遺影をおまつりした。お線香とロウソクを灯し、用意された電気仕掛けの回り灯籠にも明かりを入れてあげた。

お供えの花や果物の間を抜ける灯篭の光を眺めているうちに、自分がこの期間を通じて涙を流さなかったことに気がついた。正直なところ、多分そうなるだろうという予感はあった。それが良くも悪くも父と僕の関係であったのだ。そして僕自身、そのことを恥じたり残念に思うことは少しもないし、おそらく父も同じ想いだろうという確信が僕にはある。

こうして父を見送る日々は過ぎていった。その後はお役所などで必要な手続きをしたり、遺されたものを整理する準備をしたりして過ごし、ひとまず僕等は川崎の僕の家に戻った。父の位牌と骨は兄が自分の家に持って帰った。

父はいまも僕の中に生き続けている。

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