7/29/2007

父を見送る(中)

父が亡くなったときのことは、僕も兄も叔母も直接は知らない。その日の朝、父はいつものように6時ごろに目覚めたのだそうだ。家政婦に話をし、看護士を呼んで身体を拭いて欲しいと頼んだそうだ。看護士2人が準備をしてやってくると、父はうれしそうだったらしく、看護士たちに何やら話しかけたという。その声を聞きながら、家政婦は病室を出て、近くにある病棟の談話コーナーで休憩をしていたそうだ。

そうして間もなく病室が急に慌しくなり、看護士や医師が出入りするようになった。家政婦はあわてて部屋に戻ったそうだ。兄や僕に電話連絡が入ったのはこの頃だった。そして、それから程なくして父は息を引き取った。僕が病院に電話したのがその直後だったというわけである。なので、兄は僕からのメールで初めて父が死んだことを知ったらしい。痛みはやはりあったのだと思うが、前日も眠れたということは、まだ薬でごまかせなくなるほど凄まじいものではなかったのだろう。酸素マスクをつけてモルヒネの注射で眠るだけの父を見るのは辛いと思っていただけに、父のあの安らかな顔を見た僕は、その最後がさっと訪れて父を連れて行ってくれたことを有難く思った。

葬儀屋が来ていろいろな打ち合わせをして帰った。喪主は兄ということになるから、彼はこれからいろいろと大変になる。支えてあげなければいけない。やがて僧侶が枕経をあげにやってきた。午後9時ごろだった。兄も僕もこうした仏事には皆目疎かった。父は長男だったが仏壇は実家にあり、それを見てくれる父の妹たちがいた。そして仏事についても叔母がいろいろとサポートをしてくれた。本当に感謝である。枕経で一先ずその日の用件は終わった。夕食のことは何も考えていなかったので、父が僕らが帰るたびに取ってくれた近所の寿司屋から出前を取り寄せた。父のいる部屋はエアコンをつけっぱなしにして、枕元にはお線香とロウソクが灯された。それを皆で代わる代わる番をした。

お寺や火葬場などの都合もあり、通夜はその翌々日の日曜日、葬儀は連休最後の日の月曜日と決まった。よかった。これで少しでも長く、あれだけ帰る帰ると言って騒いだ家に、父をいさせてあげることができると思った。おかげで通夜や葬儀の準備(といっても実際にはあまりすることはないのだが)も、ゆとりをもって臨むことができた。最初は、いろいろなところから電話で問い合わせがあったりするのかなと思っていたのだが、知らせを聞いた近所の人たちが時折逢いに来てくれたりする以外は、家のなかは比較的静かで、父もゆっくりと家の雰囲気を楽しむことができただろうと思う。

日曜日の午後、葬儀屋の人がやってきて、父の亡骸をお棺に納める作業を丁寧にしてくれた。棺の中には、父の愛用のめがね、長年勤め父の人生の最も重要な期間だったと思われる会社の社員証(なぜこれが家にあるのかはわからない)、そして父が若い頃から親しんだと思われる本として、宇宙の本、音楽の本、日本語の本を一冊ずつチョイスして入れてあげた。母がなくなる前に、僕がプレゼントしてあげた帽子をずっと愛用してくれていたのだが、それは棺に入れず兄に形見として持ってもらうことにした。あと、大好きだった茶粥の茶袋を妻がご飯と一緒に入れてあげた。

こうして準備ができた父の棺は午後5時ごろ、25年間住み慣れた実家を後にした。日本を縦断した台風もちょうど過ぎ去り、空は明るくなり始めていた。霊柩車のクラクションと同時に、父の枕元にご飯を盛って備えてあった愛用のお茶碗を、兄が玄関で割りこわした。続いて僕らもすぐ近くの式場に出かけていった。式場について間もなくお通夜が始まった。親戚や近所の人たち、僕の幼馴染やそのご両親などもわざわざお参りに来てくれた。

その夜、僕等は式場に泊まったのだが、母方の親戚の人が遅くまで残ってくれて、久しぶりに人気のなくなった式場で父の棺を前に酒を飲んだりして時間をともに過ごしてくれた。母が亡くなって以降、母方の親戚とのお付き合いはあまりなく、僕の妻はまともにあって話をすることもほとんどなかったのでいい機会になった。これもまた父が作ってくれた不思議な縁だったのかもしれない。

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