先週の金曜日にまた仕事を休ませてもらい、再び和歌山に親父を見舞いに行った。病気が進むとともに肉体的な苦しみとは別に、深い心理的な葛藤に襲われてかなり混乱しているとの話が叔母からあり、これはさすがに彼女だけに続けて看病をお願いしておくわけにはいかないなと考えた。
金曜日の朝、僕が川崎を発つ直前に叔母からかかって来た電話では、その前の夜における父の荒れようは相当なものだったらしい。これはもう限界だ。その夜は僕が病室に泊まり、その翌日は幸運にも仕事の都合がついた兄も来られることになり、彼に替わってもらうという段取りになった。
僕自身も明らかに少し体調が悪いのを感じていたが、それでも夕方には病院に到着してさっそく病室に向かった。部屋は既に個室に移っていた。一週間前に比べて、やはりまた少し痩せたのは明らかだった。自分たち家族に会うことが、父にどういう精神的作用を及ぼすのか、期待と不安が入り混じりながら部屋に入った。
親父はベッドにごろんと横になって天井を見つめていたが、僕を見るなり表れた表情に、幸いにも短期的には僕の訪問は非常にいい方向に作用したことを感じた。叔母から聞いていたその日の朝までの様子は一変したようだった。そのことは、部屋に来てくれる看護士さんたちの様子からもはっきりとわかった。僕は内心やれやれと苦笑いするしかなかったが、まあそんなことを特に意識することもないように振舞うしかなかったし、それが一番自然だと思った。
担当の看護士さんに促されて、病院から歩いて5分ほどのところにあるラーメン店「まるやま」にラーメンを買いに行き、病室で親父と2人で食べた。もうもうと湯気をあげるラーメンを見て「こんなにようけ食われへん」(こんなにたくさんは食べられない)と言っていたが、それでもお椀に取りながら半分を食べてしまった。さすがに味が濃厚なのでこれ以上食べさせてはいかんと思い、そこまでにしてもらったのだが、親父は久しぶりのラーメンに満足したようだった。
病院で一夜を過ごすのは僕にとって初めての経験だった。考えてみれば母親が入院してそこで命を終えた時でさえ、僕は病院に泊まることは一度もなかった。そういうことはすべて父がやってくれていたからだ。精神的にも落ち着き、おなかも満足した父は、昨夜あまり眠っていないせいもあって、すぐに眠くなったようだ。疲れていた僕も早く横になりたかったので、夜の8時は早くも消灯となった。
病室の付き添い用に用意されたソファーベッドが最悪の代物で、寝心地はとてもいいとはいえなかったが、消灯してからも少し親父と話をしたり、時折求めてくる飲み物を飲ませてあげたり、夜中に一度排泄の処理ついでに看護士さんに来てもらって身体を拭いてもらったりするのを手伝ったりしながら、一夜は過ぎた。午前2時半に時計を見たのを最後に、気がつくと朝の6時半になっていた。
結局、その日土曜日の昼には僕の妻も来てくれ、夕方には兄も到着して、親父にとってはまた寛いだ週末になったことと思う。兄も見るからに調子が悪そうだったが、我慢して病室の寝心地の悪いソファーベッドで一夜を過ごした。日曜日に僕らが帰るときには、少し疲れたような寂しいようなそんな表情にも見えた。その日は叔母にも来てもらわずに一人で寝るといっていたが、その後どういう展開になっているのかいろいろな意味で気がかりである。
叔母から聞いている父の入院中の行状は、確かに理解しがたい部分もあるが、いろいろな事情や状況を考えてみると、僕にはそれがあながち不可解で不条理な出来事であるとは思えいなと考えるようになった。詳しいことは、またいずれ書く機会があるだろうと思う。でも、そのことから僕自身が自分の中で自覚したり確認したりすることはたくさんある。
ジャズピアニストのアンドリュー=ヒルが亡くなったそうだ。75歳で死因は肺がんだったらしい。今回の作品は彼が1964年にブルーノートに録音した代表作である。タイトルの意味は彼の音楽的キャリアの新たな展開を示唆するものであるが、それから42年後の今日が文字通り彼にとっての「出発点」になった。この作品に収録されたジャズの先進性は、いま聴いてもあまりにも斬新である。この音楽的輝きが失われることは当分ないだろう。
ヒルが僕の父と同じ歳だったことは、彼の訃報にふれた今日まで知らなかった。そして、今回の作品が録音されたと同じ年に僕は生まれた。その時、アンドリューや僕の父は33歳だったことになる。
父には少しでも長く生きていて欲しい。そして、少しでも長くそばにいてあげたいと思う。
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