寒さが少しずつ増してくる。火曜日に新宿に勤める幼なじみと久しぶりに一杯やることになっていた。同じ会社に勤める同年の翻訳者もいっしょだった。このメンツだと新宿のどこかで熱燗でもやるのかなと期待していたのだが、今回用意してくれたお店は三丁目のタイ料理屋「バーン・キラオ」だった。まあ楽しく飲めるならどこでもいい。
地下鉄の駅まで迎えにきてくれた幼なじみとお店に向かう。入り口が下町の印刷屋さんの様な門構え(アルミサッシの引き戸である)で一瞬あっけにとられるが、店内の雰囲気からこの店はイケるなと感じさせてくれるものがあった。まあ地元の彼等ご推薦のお店に基本的にハズレはないのだが、この店の料理は本当にうまい。いままで食べてきたタイ料理店の中でもピカイチではないだろうか。
翻訳者の男は実はつい数日前に酔っぱらって転倒し、右の肩甲骨を骨折したところだった。事前に骨折のことは聞いていて、その日は来られるかどうかわからないとのことだったが、まさか骨折が数日前のこととは思っていなかったので、来てくれていることに感謝しつつも少し心配になった。先にどこかでやっていたという彼は、既に出来上がりの様子だったが、まあ酒癖の悪い男ではないのでその点は気にはならない。見た目はギブスも何もつけずに元気そうである。
僕の肋骨折から半年が経過しようとしていた。確か、医者からは骨がくっ付くのに酒はあまりいいとは言えないと言われ、確か1ヶ月くらいは酒を断った覚えがある(後半はかなりいい加減な禁酒だった)。まあ彼の場合は医者に何と言われたのかは知らないが、酒をやめるところまではいっていないところをみると、あまり気にしなくてもいいのかなと思い、僕もビールを飲み始めた。美味しいタイ料理に骨折のことはいつしか忘れ、いつもの宴にすべりこんでいった。
とりあえず話は骨折の顛末を前菜代わりに(と言っては失礼か)始まり、最近聴いている音楽(僕はiPod touchの映像を自慢げに見せびらかした)の話から、NHK朝の連続ドラマ「ちりとてちん」を皆が視ているというあたりでもうすっかりいつもの雰囲気になった。最近僕は毎日7時半には自宅を出ているので、ちゃんと視ているのは土曜日だけなのが残念だ。やはりNHKの朝ドラはいいなあと、それなりの年齢になった男3人が、少ないタイ料理をつまみながら次々とビールを空けていく様子に、隣のテーブルの客たちはややあっけにとられた様子なのが、目線の隅でかろうじてわかった。
今回は話のなかで、僕の幼なじみの男の家庭に最近になって起こったある出来事が披露された。詳しくは書かないが、ある年齢に達したお子さんのいる家庭では最近決して珍しくないことだ。まあどちらかというとあまり人には公にしたくはないことだと思う。彼も少しは酒の勢いを借りたのかもしれないが、やはり基本的には身内以外の誰かに話したかったのだと思う。僕らは少し神妙になりつつも、自然とその話題を論じることになった。親とか家族とか子供とか、いろいろな情の話題は宴に微妙な抑制をもたらし時間の流れが濃くなった。
途中から仕事の打ち合わせと称して、彼等の以前からの仕事仲間で僕も少し面識のある女性も合流し、打ち合わせを5分で済ませて、その先はいままで交わされたテーマ、骨折、音楽、ちりとてちん、幼なじみの家庭に起こったこと、等々をもう一度順番にリプライズして異なる視点から検討しようという、長い終楽章に突入したらしい。彼女用に料理が追加され、ビールやらタイウィスキー「メコン」の水割りなどが投入され、素晴らしい夜が更けていった。お店を出たのは夜の11時過ぎだったが、外はもうかなり冷え込んでいた。それでも4人で1万5千円だから、これはもう安いというしかない。
3連休前の木曜日は夕方から仕事で10人程度のお客様を相手に、僕が講演めいたお話をさせていただいて、そのままその人たちとの懇親会に参加した。まあ仕事は無難に済んだが、どうも食べたのか飲んだのかよくわからないままお開きになってしまったので、ちょうど仕事が終わったという妻と新丸子で待ち合わせ、最近開店した安い串焼き屋で一杯やって帰った。この時は久々に熱燗にありつけた。料理も安くておいしく、なかなかいいお店だったと思う。
週末、ディスクユニオンでCDの買取り強化キャンペーンをやるというので、今回は思い切って「箱もの」を中心にかなり処分した。「コンプリート何々」と銘打ったこの手のセットは、いまの僕の感想を言えば、蒐集心をくすぐり満足させるものではあっても、音楽を聴くうえでは結局あまり意味のないものだと言える。
これまでにも何度か書いた様に、未発表になった音源にはそれなりの理由があるのであり、アルバムにある順番で曲が並べられているのにも、その作品としてのある意図が込められているのである。前回のろぐで書いた様な想いもあって、僕の中でディスクを蒐集しようとする姿勢に変化が起こり、いままでその考えを捨てられないかすがいの様な役割を果たしていたそうしたセットを、いくつかのお気に入りを残してかなりの数処分してしまった。手元には4万円と少しの現金が入ってきた。
それと引き換えに1枚だけCDを買った。それが今回の作品である。カサンドラ=ウィルソンがマイルスの作品に取り組んだこのアルバムも、既に発売から10年が経過しようとしている。前回彼女の作品を取り上げて以来、あのアルバムを時折聴いている。ちょうど最近もそうだった。この作品はDVDも発売されており、本当はそれがお目当てだったのだが、お店にはなかったので中古品で並んでいたCDアルバムを買うことにした。
不思議なことに彼女の歌を聴くと、僕はなぜかベースに手がのびる。理由はよくわからない。どんな音楽にも大抵ベースは入っている。僕は当然それを耳にする。それは素直に耳に入ってくることもあるし、何の印象も残さないこともある。カサンドラがベースについて何か特別な思い入れがあるようにも思えなくもない。今回のアルバムでもやはりそれは起こった。彼女の音楽のスタイル上ベースは非常に重要な役割を担っている。
収録されている音楽はマイルスを広く聴いている人にはおなじみのものだろう。そこに彼女のオリジナルが数曲絡む構成。選ばれているのは、"Someday My Prince Will Come"の様な1950年代のものから、"Time After Time"や"TUTU"といった最晩年のものまで実に多彩であるが、この選曲がまた僕には非常に共感できるものばかりである。いずれも彼女の世界の音楽として見事に仕上げられている。これはもうカッコいいと言うほかはない。もっと早く聴いとけばよかったと思えなくもないが、やはりこの作品はいまの僕がこうして出会う運命になっていたのだと思うのが自然だ。
箱もののCDが退出して1列が空になったCDラックを見ながら、カサンドラの音楽を頭において久しぶりにベースを弾いてみた。音楽は人とのつながりを生み出すものでもあり、同時に極めて個人的なものでもある。
0 件のコメント:
コメントを投稿