4/15/2007

再び和歌山へ

親父の様子を見に週の半ばの水曜日から3日間の休暇をもらい、再び和歌山に帰った。最初の2日間は、兄と僕の妻も一緒だった。それぞれ忙しいなかではあるが、なんとか時間をつくって集まることができた。結局僕は土曜日の夕方まで4日間を親父と一緒に病院で過ごした。

滞在中、特に前半は概ね非常に良好な時間を過ごすことができた。兄が一晩病室に泊まり付き添った。状態が良好なので主治医から久しぶりに入浴の許可が出て、看護の人に手伝ってもらいながら、兄が(おそらく三十数年ぶりに)親父の背中を流したりもした。風呂から上がって「最高のリラクゼーションや」と喜ぶ父の姿は、本当に微笑ましいものだった。

僕も食事や排泄の世話をしながら、調子がいいときはいろいろな話をした。3日目の午前中などは、和歌山県の現状と将来について僕の知らない知識をいろいろと披露しながら、1時間にわたって熱く語り続けた。その内容や語り口は非常にしっかりしたもので、叔母から聞いていた数日前までの様子がうその様だった。途中で少し顔を出した叔母は、もりもりと食事をする親父の様子に「狐につままれたみたいや」と驚いていた。

親父の様子は簡単に言うなら、体調としては深刻な病気を抱えながらも、僕達が訪ねた時点では思ったより落ち着いていた。その一方で、精神的な状態が非常に不安定になっていて、そのことが原因でいろいろな問題を引き起こしている様だった。父はある意味で自分の考え方ややり方に固執しがちな性分で、かなり神経質なところがある。人付き合いをするうえでは、その深さによってはやや難しい側面を持っている。

僕の滞在期間の後半になって、ちょっとした体調の変化やいくつかの些細な要因も重なって、その精神的なバランスが一気に崩れてしまった。それを理解するのはかなり難しい。看護や医師など病院の人にはもちろん、兄や叔母でさえ理解できないと嘆くこともある。それは僕も同じだが、この4日間で親父の心に少し近づくことができたという実感は持っている。不安定さを露呈した状態の父を残して、和歌山を離れることにはかなり抵抗があったが、それでも僕は川崎に戻り、できるだけいつもと同じように日曜日を妻と一緒に過ごした。

入院して医師の治療を受けたり、看護の人たちのお世話になるというのは、ある意味特殊な状況下で人間の信頼関係を築いてそれを維持してなければならないことである。しかし、そうした人々の努力にかかわらず、患者側はもちろん、提供されるサービスの側にもいろいろな見込み違いや不行き届きな部分―ある意味人間的部分と言ってもいいかもしれない―が出てくるのはやむをえない。そして、そうしたことにはお構いなく、病気はそれ自身の時間軸を持って活動を続けてゆく。

いまはあまり詳しく書くことはできないが、親父という人間のこと、癌という病気のこと、病院という仕組みのこと、そしてそれを見守る僕たち家族のこと、本当にいろいろなことを考えながら時間を過ごしている。僕が家に帰ってきた今日も、夕方になって病院で騒動が持ち上がり、家族としての判断を求められて電話で兄と話し合うなどあわただしい状況が続いている。

滞在中には、親父のこと以外にもいろいろな出来事があった。小学生からの旧友との和歌山市内でのひと時、まったくの偶然でもたらされた二十数年ぶりの従妹との再会、病院近くにある老舗ラーメン店など、それは親父のことがきっかけで僕にもたらされた日頃離れていた自分のふるさとでの時間でもあった。

父の状況はこれから短期間でさらに目まぐるしい展開が予想される。いまはそれが少しでも父にとってよい結果をもたらしてくれる様に、僕としてできることを考え、行ってあげたいと思う。

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