11/18/2007

配信と映像

iPod touchとMac Bookを使い始めてから、僕の音楽視聴のスタイルに少し変化が出てきた。簡単に言うなら「配信」と「映像」がその変化を表すキーワードになっている。

先ずは配信について。

僕はこれまで一生懸命CDを買い揃えてきたが、そろそろこうした購入スタイルを考え直す時期に来ていると感じ始めている。直接のきっかけは、米国のアマゾンで始まった音楽配信サービスのカタログを見たこと。このサービスは日本ではまだ受けることができないものの、その内容はかなり驚異的なものである。例えば、このところ熱心に取り上げているインドのタブラ奏者、ザキール=フセインのほとんどの作品がアルバム単位で揃っている。ジャズの大御所たちが1950年代から70年代にかけて録音した、代表的な名演についても同じ。レーベルごとのコンプリートセットまでしっかりと揃っているのだ。

もちろん大手のなかでも、ECMの様にまだ配信に関しては頑なにノーコメントを貫いているところも多い。僕のお気に入りで言えば、フリー系のレーベルもほとんどはまだ大手の配信サービスに楽曲を提供している訳ではない。障壁のなかで大きなものは著作権とコピーの問題、それと音質の問題だろうと思う。しかし、それももはや時間の問題ではなかろうかと思うようになってきた。

それらの問題にある程度の懸念は残りつつも、それよりも簡単に音楽を聴きたい人に届けることができる手段としてのインターネットの魅力は、あきらかに音楽会社にとっても懸念を上回るものを持っている。それは、LPからCDに移行する際にいろいろと意見が出されたのとよく似ていると思う。LPとCDのどちらが音がいいか、そこに明らかに大きな差異がある訳ではない。いまの音声圧縮の技術は相当なところまで来ている。加えて音楽を楽しむスタイルも多様化の一途をたどっている。ちょっとした音質の違いは、利便性の前にはさほど大きな問題ではなくなる。

音楽を購入するということの意味は、CDを買って手元に置くということから、データをダウンロードして手元に置くという時代を経て、さらに配信サービスにあるデータにアクセスする権利を所有する、という方向に変わりつつある。もちろん手元にCDなどを持っておきたい人はそうすればいい。僕は部屋の壁にずらりとCDを並べることには、さほど興味はない。

そして、もう一つの映像について。

iPod touchに映像を入れて持ち歩くことを覚えてから、どういう訳だか僕は映像を視ることの喜びがいまさらながら増えた様に感じている。以前までは、移動中に手元で映像を見るなんてとんでもないと思っていたのだが、音楽の映像に限って言うなら、そういう状況での説得力は(もちろん演奏や映像の表現内容が優れているという前提だが)相当なものだ。

特に僕の通勤の様に、30分かそこらの電車移動においては、映像表現を通じて音楽に接する方が、むしろ音楽そのものに集中してよりよく鑑賞できるようにさえ感じる。これが映画だと時間的な制約で難しいとは思うが、テレビのバラエティショーの様なものだったら、笑いが欲しいときなどは意外とイケるのではないかと思っている。いまはまだ始めたばかりなので、単にもの珍しさゆえに新鮮に映っているだけなのかもしれないが。

この週末には手元にある音楽関係の映像を、せっせとiPodに入れるのに時間を費やした。同時に、出かけた渋谷で、いままであまり積極的に購入してこなかった、ライヴ演奏の映像作品を少し購入してみようかなと、売り場を物色してみたりもした。結局、何も買わなかったのだが、中古を含めかなり面白そうな作品が世の中には出回っているのだなと思った。

そういえば、僕が上京した頃、まだ渋谷の東急ハンズ近く前の裏通りに店を構えていたジャズ喫茶「スウィング」のことを思い出す。ここの店主は相当に有名なジャズLPのコレクターであったのだが、ある時期からお店でそれらをかけるのをやめてしまい、レーザーディスクやビデオなどの映像ばかりを大きなテレビで上映するスタイルに変えてしまったのだ。理由の真相はわからない。20分前後で終わってしまうレコードを取り替えるのが、単に面倒になったのかもしれない。

変わったジャズ喫茶だと思ったが、僕はCDを買い漁った後に、よくそのお店に何度も足を運んだ。当時はそれくらいの映像設備を揃えるのは、かなりお金のかかることだったので、自分にはとても手の届かない贅沢だと思っていた。僕が上京して数年間はお店はあったが、1997年に突然閉店、店主は今年の春に92歳で亡くなったらしい。あそこで見せてもらったものはいまもはっきりと覚えている。

このように考えてみると、やはり表現芸術というものに対する時代的な要請というものが大きな影響を持つことがわかる。もちろん表現というものは、そういうことを意識してもしなくてもいい。どちらが優れた表現が可能かなどというのは、あまり意味のない話だろう。しかし、常に新しいものに意識を向けるというのは大切なことだ。深みや緻密さに欠けるとか退廃的だとか言うのは簡単だが、僕はそれはしたくはない。便利だと思えば、それは新しい素晴らしさなのである。

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