12/25/2006

二ノ宮知子/フジテレビ「のだめカンタービレ」

日頃、あまりテレビドラマを観ない僕だが、このシーズンは珍しく2本のドラマを全話通して観た。いずれもフジテレビ制作の作品「Dr.コトー診療所2006」そして「のだめカンタービレ」である。

前者は、以前のシリーズをちょこちょこ観ていたので、今回もそこそこ楽しめるかなと思って見始めたら、録画機の助けを借りながらも、結局最後まで観てしまうことになった。原作とはまるで異なる展開になっているらしいが、最終回が多少冗長だったことを除けば、なかなか楽しむことができた。人間のあたたかさというものは、やはり大切である。

そして、今夜最終回を迎えた「のだめカンタービレ」は、音楽学校を舞台にしたマンガが原作らしい程度のことしか知らずに、興味本位で見始めたのものの、これがすっかりドラマにハマってしまい、僕としては異例なことに毎回を心待ちにしながら、最後まで楽しませてもらった。

以前にも少し書いたが、主役の上野樹里と玉木宏は本当によくやったと思う。上野の「のだめキャラ」もさることながら、ピアノの演奏シーンは本当に演技としてウマいと思った。そして玉木の指揮も、いきなり代役で指揮をやらされる最初のいきさつから、最終話のサントリーホールまでの変化が、テレビ的によく表現されていた(おそらくは玉木自身の指揮者役に対する成長ぶりといってもいいだろう)。

この作品、1年前に他局でドラマ化直前にお蔵入りとなったいきさつがあるらしいが、その時も主役は上野樹里に決まっていたらしい。その破談経験から「ドラマ化はない」と言い切るようになった原作者を説き伏せ、それを見事にやってのけたフジテレビはさすがである。お金のかけ方もさることながら、配役や撮影場所の選考にも、制作者が本来持つべきこだわりがはっきりと感じられたように思う。ちなみにわが家の近場でも撮影が行われていたようで、散歩の時に見覚えのある風景がいくつか出てきた。

今シーズンは、僕の好きな長澤まさみを主役にした「セーラー服と機関銃」や、堀北真希を主役にした「鉄板少女アカネ」など、話題のドラマも多かったが、いずれも原作と主役の人気に頼るばかりで、制作が安易ないかにも現世代の悪い傾向が露呈した内容だったように思う。あれでは主役が可哀相である。その点「のだめ」は、昨年のいきさつも手伝ってか、制作側の力の入れ方がしっかりと伝わってきたと思う。

マンガの世界とは違って、実際の音楽を流すことができるのはテレビの大きな特長であるが、今回のドラマ化ではその点でもなかなか見事な演出で、映画「アマデウス」を思わせる音楽の使い方は非常に楽しめたと思う。その意味でも、毎回見どころが多かったドラマだった。僕が個人的に選ぶベストシーンは、最終回の1つ前の第10回で放映された、のだめが挑んだマラドーナピアノコンクール最終選考会の模様である。

ここで演奏されたストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」とその変奏(?)は、本当に素晴らしい名シーンだった。僕自身知らず知らずのうちに、あの審査員の外人先生に感情移入してしまった。途中で飛び出す「きょうの料理のテーマ」のスリル、そして呆れ驚く会場をよそに、そんなのだめを興味深げに見つめる先生の視線はたまらなく魅力的だった。まさに音楽における「カンタービレ」の素晴らしさである。あのエピソードは原作のマンガにもあるのだろうか(僕は読んでいないので知らない、誰か教えてください)。

「Dr.コトー」の例を考えるに、これまでのフジテレビのパターンだと、恐らくは1年後くらいにこの続きが制作されることはほぼ確実だろうと思う。今度は舞台が海外ということになるので、いろいろな意味でドラマ化のハードルは相当高いと思うが、フジテレビには、なんとかスポンサーを集めて挑戦してもらいたいところである。

今回は全話をハードディスクに残してあるので、そのうちDVDにダビングしてとっておこうと思う。見逃した方、お貸ししますよ。

12/24/2006

キース=ジャレット「メロディ アット ナイト ウィズ ユー」

 今回の投稿で、えぬろぐはまる3年が経過する。内容はたわいないものばかりだったが、投稿数は150件を超えた。こういうことを考えると、小学校の夏休みの宿題にあった絵日記とか観察日記、あるいは中学生や高校生になって親からやれと言われた添削学習のことを思い出す。もちろんいずれもことごとく三日坊主だった。僕はほとんど意に介さず遊んでいた様に思うが、積み上がるばかりの教材を見る親の気持ちを考えると、いまとなっては少し胸が痛む。

そんな僕にしては、このろぐは本当によく続いているものだと思う。これもやはり第一には、音楽のおかげだろう。そして僕を音楽に導いてくれたのは、結局のところ両親に負うところが大きいのだから、いまさらながらだが、ろぐがここまで続いていることについては、親にも感謝しなければいけないのだと思う。

このろぐの運営を開始した時からお世話になっているグーグル社のサービス"blogger"が、最近になって大きなサービス強化を実施した。新サービスでは、ブログの運営が一層便利に行えるような工夫がなされている。それに伴い、えぬろぐもサイトデザインのリニューアルを施すとともに、今回思い切ってサーバの移転をすることに決めた。見やすさと使いやすさを重視して、シンプルなデザインを心がけたつもりであるが、いかがだろうか。

この週末は、わが家でもクリスマスを祝った。プレゼントの交換はいつの間にかやらなくなっているが、その代わりに今年は手料理の交換(?)で祝った。妻は、鱸(スズキ)をアサリと野菜を使って蒸し焼きにする料理と、セロリやラディッシュ、エノキダケとレッドビーンズを使ったサラダを作ってくれた。僕は、アンチョビとニンニクでソースを作って、そこにぶつ切りにしたタコを炒めてスパゲッティを作った。思いがけずシーフードクリスマスとなったわけだが、祝い事でいつも愛用のスパークリングワイン「フレシネ・コルドン・ネグロ」で今年も乾杯となった。料理はどれもとても美味しかった。

フレシネとともに、わが家でこういう席のテーブルミュージックとして決まって流しているのが、今回の作品である。これはもうかなり有名な作品になっているので、いまさらあまり説明の必要もないだろう。1990年代半ばに、突然見舞われた病気により音楽活動を休止せざるを得なくなったキースが、ブランクの後に復活の作品として、自宅のスタジオで録音したソロピアノ作品である。作品は次の言葉とともに、彼の妻に捧げられている。
"For Rose Anne, Who heard the music, Then gave it back to me."
実は、この作品を店頭で入手するのは意外に難しいということを最近知った。大きなCD屋さんでは大抵彼のコーナーが設けられているが、僕が最近入ったいくつかのお店で見た限りでは、ほとんどの所でこの作品だけが品切れになっているということに気がついた。確かに、僕も誰かに感謝の気持ちを伝えるとともに、音楽を添えるとしたらこのCDを選ぶことだろう。親しみやすさ、普遍的な芸術性、そして作品が持つ包容力といった点において、この作品がもつ力は計り知れないものがある。

この1年、僕はやはりキースの音楽を聴くことが多かった。この3年間のろぐでも、一番多く取り上げているのが彼の作品である。前回、キースを取り上げた時にも書いたが、彼は間違いなく、いま生きているあらゆるジャンルの音楽家の中で最も重要な人物の1人だろう。来年春にトリオでの来日が予定されている。もう30年以上にわたって数多くの作品がECMからリリースされているが、それでも彼等の即興演奏に対する期待は尽きることはない。僕は今回はチケットを買わないつもりだったのだが、ここに来てやはり気持ちが傾いてしまいそうである。

キースの偉業に比べれば、中身の薄い日記が3年続いた程度で喜んでいてはいけないのだろうが、ともかく今回はいろいろな意味で一つの区切りとなるろぐである。日頃お読みいただいている方々に、感謝の意をお伝えするとともに、これからの継続と内容の充実を誓いたいと思う。つまりは僕自身が充実した生活を送るということになるのだが、その意味では本当にいろいろな人にお世話になってここまでやってこれているのだ。

本当に、ありがとうございます。
今後とも、えぬろぐをよろしくお願いします。

12/17/2006

ジョルジ=クルターク「カフカ断章 作品24」

 ちょっと油断してしまい、週の半ばで体調を崩しかけてしまった。1日は会社を早めに帰らせてもらって、なんとか悪い方向には行かなくて済んだ。金曜日には、妻の勤務先のクリスマスパーティが、白金台の社長宅であり、僕も家族として参加させてもらった。このパーティは日頃、家で妻の口から話を聞いている人達と実際に会話ができ、独特のムードのなかでいつも新鮮な気持ちにさせてくれる。

社長がスウェーデン人なので、パーティは北欧スタイル(?)である。着いてすぐにシャンパンとオードブルが振舞われ、それでそこそこいい気分になってしまうのだが、正式なオープニングは、全員が揃ってから社長による乾杯の歌と、それに続くアクアビットのショット一気飲みが合図となる。

そこから、ケータリングサービスで饗されるタイ料理を、各自が思い思いにバイキングスタイルで食べまくり、やがて興が乗ってくると、社長がおもむろにサルサミュージックを流し出して、参加者の女性(つまり会社の部下)を片っ端から引っ張り込んで次々に踊り始めるという展開になる。

ダンスだから当たり前のことなのだが、誘われていきなり腰に手を回して向き合って手をつなぎ、ステップでリードされるわけであるから、真っ先に狙われる初めて参加する若い女性などはびっくりしてしまう。僕等はそれを(少し羨みながら)傍らで眺めて楽しんでいるわけである。まあ言うならば「些細な奔放」だ。こういうところはやはりおおらかな文化がいい。

あまり細かいことは書かないが、僕が勤める会社の宴とは随分と雰囲気が異なるこの世界は、非常に居心地がいい。前日にあった僕の出向元の職場における忘年会と比べると、本当のパーティとはせめてこういうものという気がする。

僕はこのところ「組織」という言葉が好きでない。どこか主体性がない、従属的な響きに聞こえてしまう。最近ではそこに「うまくいかないもの」というイメージさえ勝手に抱くようになってしまった。組織は人の集まりだから、雰囲気が淀むことで、人間のあまり見たり聞いたりしたくない面が出てきてしまう。そのどちらが原因でどちらが結果だかはわからないものだが、そういう時、自分の存在を確認できる異なる集まりに参加できるのは、幸せなことだ。

クルタークはルーマニアの作曲家である。現代音楽を聴く人には結構名の知れた人だが、つまり一般にはほとんど無名ということである。なかなか味のある音楽を書く人で、音楽的には「緻密な奔放」である。やはりヨーロッパなどでは人気が高い。

今回のCDは、この夏に発売されたもの。タイトルにあるカフカとは、あの作家フランツ=カフカのことである。この音楽は、カフカの手紙や日記、メモなどから集めた40の短文に、クルタークが曲をつけたという風変わりな組曲で、編成は女声ソプラノとヴァイオリンである。今回は、ソプラノをユリアーネ=パンセ、ヴァイオリンをケラー弦楽四重奏団のボス、アンドラーシュ=ケラーが担当している。

普段、ピアノ系音楽のように音程、旋律、リズムなどがはっきりしたもの(実は世の中の音楽はいまやほとんどそれになりつつあるのだが)ばかりを聴いている人からすれば、なんと気持ちの悪い音楽かと思われるかもしれない。おまけに歌詞はドイツ語である。しかし、実際に聴いてみると曲の出来、そして演奏ともに非常に秀逸な内容なのである。

その証拠というわけでもないのだが、この作品は今年の夏にECMから発売され、いままでにグラミー賞へのノミネートをはじめ、世界のいろいろなところで優れた音楽に与えられる賞を受けている。どういうものか僕もよく知らないのだが、わが国でも今年の日本レコードアカデミー賞というのを受賞しているらしい。

1、2分の短いカフカの断章から何を聴き取るか、もちろんドイツ語がわかる人には、カフカの生きた時代の背景と情景がちらりちらりと浮かぶことだろう。それが作品の意図するところであるには違いないだろうが、僕にはクルタークが持つ緻密な奔放さが、不思議な心地よさとなって伝わって来る様に聴こえる。もちろんiPodでも何度か聴いてみた。不思議なことに、仕事帰りにこの音楽を選んで聴くことが何度かあった。

近頃の僕は、世界の広さと人間の深さを実感するために、時折こういう音楽を聴くことを求めているのだろう。

12/10/2006

山本邦山「銀界」

 結婚した年に自由が丘の雑貨店で買ったクリスマスツリーを、今年も押入れから取り出して食卓に据え付けた。高さ40cmほどの模木にいくつかの小さなオーナメントと、10球足らずの簡単な電飾が巻付けてあり、コンセントにつなぐと緩く点滅するようになっている。別にどうという程のものではないのだが、この点滅の間隔に慣れ親しんでしまったのか、これを眺めていると妙に落ち着く。

会社からはありがたいボーナスが支給され、職場の忘年会もなんだか趣旨がよくわからないまま終了した。来週は出向元の職場の忘年会と、妻の会社を経営する社長宅で開かれる、恒例のクリスマスパーティが続く。仕事には妙に緊張感がない。時節的なものというより、僕の内面的なところから来ているように思う。

まだ冬本番というのには早いとは思うのだが、どうも気候がしゃんとしないと言うか、冬というには暖かい日が続くように思う。もちろん過ごしやすいに越したことはないのだが、外に出てみて「あれ寒くないや」と拍子抜けするのは、どこかありがたくない。僕は気候にまで当たっているのだろうか。

週末。土曜日は久しぶりに一歩も外出することのない一日だった。冷たい雨がほぼ一日中降った。最近取寄せたあるCDをじっくりと家で聴いた。まだ自分のなかには馴染んでいないので、この作品についてはまた近いうちにご紹介しようと思うが、やはり何か忘れがたい印象を人の心に刻んでいく音楽であるには違いない。

日曜日の今日は川崎の街まで出かけ、タワーレコードでCDを2枚買った。今日はそのうちの1枚を取り上げようと思う。「銀界」と題されたこの作品は、尺八の巨匠で人間国宝の山本邦山が、ジャズのフォーマットで自身の世界を表現したものである。共演は、ピアノに菊地雅章、ドラムに村上寛、そしてベースがゲイリー=ピーコックである。録音は1970年とあるからいまから36年前ということになる。

この作品は長らく入手困難になっていたものを、タワーレコードが"TOWER RECORDS VINTAGE COLLECTION Vol.3"として独自に復刻しているシリーズの一つとして、先頃CDで再発されたものである。少し話はそれるが、ここ2、3年、クラシック音楽CDの世界を中心にタワーレコードが取組んでいる名盤復刻は、なかなか素晴らしい業績を残していると思う。

山本邦山氏とこの作品が生まれるに至った背景については、LPレコード発売当時に本多俊夫氏が綴った名文がライナーとしてそのまま掲載されているので、作品に興味を持った方は是非とも買い求めていただいて、そちらをお読みいただきたい。非常に優れた解説だと思う。

作品は、

「序」
「銀界」
「竜安寺の石庭」
「驟雨」
「沢之瀬」
「終」

と題された6編からなる音楽で、本多氏も書いている通りこれらは一連の組曲を為している。

演奏内容はそれはそれは非常に素晴らしく見事なものである。当時のキース=ジャレット等がクァルテットで展開していた作風に共通するものが感じられるが、あくまでも主役である尺八が中心の和の世界に、ジャズというスタイルを合わせた独特の音楽世界を展開している。菊地、村上、そしてゲイリー=ピーコックという脇役は実に見事なキャスティングだ。

僕は決してレコードマニアではないし蒐集家でもない。ただ聴きたいと思ったものを買っているだけだ。でも僕は、安いということだけが購入の動機になってるなと自分で直感するものは、なるべく買わないようにしている。最近、著作権の切れた音源を中心に、過去の古い音源を安いBOXセットで提供する企画が珍しくないが、ああいうものにはなるべく手を出さないのが無難だ。

CDやDVD時代になって現れた「未発表テイク」とか「ディレクターズカット」と呼ばれるものは、資料としての価値は認めるが、あくまでもオリジナルからは捨てられたもの。もちろん例外はないわけではないが、現代よりも当時の方がよほど判断のセンスに混じり物は少ない。なので、それを本編に混ぜた形で提供して、付加価値があるように見せるやり方はどうも感心できない。

それよりもこうした企画のように、リリース当時のままの形で、求めやすい価格で復刻されることは非常にありがたいことである。今回同時に復刻された他の9作品もなかなか魅力的なものばかりで、値段が安いのでついつい欲しくなってしまう。とりあえずペンデレツキの作品だけは、無くならないうちに買っておこうと思っている。シリーズの詳細はタワーレコードのクラシック音楽のコーナーに掲載されている。

とにかく素晴らしい作品。これに巡り会わせてくれた企画に感謝である。

12/02/2006

スタン=ゲッツ「ピープル タイム」

 12月に入った。今月はいろいろと酒を飲む予定が入っていて、ほとんどがとりあえず「忘年会」という名目になっている。大人数が集まる宴会やパーティもいくつか予定されているし、少人数での約束も既にいくつか入っている。昨日の金曜日、会社の同僚2名とこじんまりと銀座にあるバー「Wisky's」で一杯やり、今年の忘年会シリーズがスタートした。

このバーは、1、2年前にある知合いの人に連れて行ってもらったのが最初だった。サントリーが日比谷から銀座にかけて十数件を展開するチェーン店のバーのなかでも、店名の通り特にウィスキーへのこだわりを看板にしたお店である。僕はウィスキーが好きな人と飲みにいく際に、何度かこのお店を使っている。と思ったら、前回行った時から既に1年と少しが経過していた。早いものだ。

実はこのところ、家でも少しウィスキーから遠ざかっている。家にボトルがあるのは幸せだが、どうしても少し飲み過ぎてしまう様な気がして、最近は自主的に少しお休みすることにしていた。しかも近頃お気に入りのウィスキーは、サントリーのものではない。そんなわけだから、妙に新鮮な気分で僕は店の階段を降りた。

久々にお店で飲むウィスキー。最初は、ここの名物であるウィスキーを炭酸系で割ったカクテルで飲み始める。それを2杯やった後、安めのウィスキーをソーダ割と水割りで1杯ずつ。同僚達との話も弾むなか、ようやく調子が出てきたところで、サントリーの看板商品「響」の17年をロックで1杯、2杯と飲み進める。量が少ないのが少し気になるところだが、やっぱりウィスキーはいい。薄暗いと感じた店内の景色が少しずつ明るく見えて来る。バーで飲む時の独特の酔い方である。

この店のおつまみは、チェーンのなかでもここだけが厨房に持つ燻製器を使っていて、なんでもすべてスモークされて出て来る。昨夜はお通しが蓮根の燻製、あとは豚トロ、牛タン、鳥の照焼、マグロのトロ、イベリコ豚等々と、次々にスモーク料理が立ちのぼる。どれもとても美味しいのだ。7時過ぎに始めた宴もあっという間に時間が過ぎ、気がつくとお店も超満員である。師走の最初の夜はいい感じで過ごすことができた。

今日は近所の美容院に出かけて、髪を切って色を染めてもらった。このところいつも僕の方からご指名でお願いしてきたスタイリストの女性が、今回も担当してくれたが、帰り際にお金を払う段になって、実は今月一杯でお店を辞めることになったのだと告げられた。美容師をやめるわけではないらしいが、詳しいことを聞ける状況でもなかったので、簡単にお礼を言ってお別れをした。

12月は何かと節目を迎える人も多いのだということを思い出しながら、僕はお店を後にした。美容院に限らず、日常でお世話になるいろいろなお店で馴染みに人は多いが、そういう人との別れというのは、大抵こういう形で突然やって来る。せっかくお馴染みになったところだったので、少し残念で寂しい気持ちになった。

髪はすっきりしたが、なんとなく気持ちはすっきりしなかった。家に帰って久しぶりにスタン=ゲッツの「ピープル タイム」を聴いた。この作品はゲッツ最後の演奏記録である。場所はコペンハーゲンのカフェモンマルトル。晩年にゲッツと多くの共演をしたピアニスト、ケニー=バロンとのデュオ演奏がCD2枚に収められている。

ゲッツは非常に長いキャリアを持つサックス演奏者である。特に有名なのはハードバッパーとしての1950年代、そしてボサノヴァイヤーズと呼ばれる1960年代のブラジル音楽と共演した一連の作品があるが、1980年代から亡くなる1991年までの晩年の演奏も素晴らしいものが多い。僕が一番好きなのはこの時代、なかでも一番のお気に入りがこの作品である。これも購入以来、何度聴いたことかわからない。ここに収録された演奏は寂しい時、疲れた時、落込んだ時、いろいろな人間の心を癒してくれる素晴らしい力を持っている。

そして、普段はジャケットやライナーノートはどうでもよくて、演奏内容だけで作品を判断すればいいと考えている僕だが、このCDのライナーノートにケニー=バロンが寄せている、ゲッツの想い出を綴った文章は数少ない例外だ。僕はこれを読む度に、人間が人間らしく生きるということについて、何か変な意味で楽観的な気持ちになる。もちろん音楽の道での厳しい生き方をしたゲッツだからこその話ではあるのだが。詳細はここに書くことはできないので、是非ともお読みになることをお薦めしたい。

いよいよ寒さも本番である。今年は景気の良さを反映してか、銀座に限らず年の瀬の街はどこも賑わいを見せている。そんな忙しさのなか、新しい生き方への準備を進める人もいる。僕にとってのそれは、まだ見えそうで見えない。動き出せずにいるうちに、このまま足下が凍りつくのだろうか。

11/25/2006

クロノス・クァルテット「ナイト プレヤーズ」

 めっきり寒くなった。朝の気温が10度を下回る毎日。今年はなぜか洋服関係に出費が続く。しばらくあんまり大した買物をしてなかったからの様にも思えるし、ある種、自分なりのファッションの方針の様なものが明確になったのかもしれない。購入の大半はネット通販である。これには理由があるのだが、ここでは書かない。

そんななか、秋分の日の祭日に川崎のショッピングセンターに出かけた。お目当ては「ブーツ」である。僕は以前からくるぶしが隠れる程度のショートブーツを愛用している。真夏を除けば、ほとんどオールシーズン履いている。履かない時はスニーカー。いわゆるビジネスシューズは、ビジネススーツとともにほとんど使わない。

僕にとってショートブーツの始まりは、中学生の時に流行したコンバースのハイカットだったと思う。もちろん厳密にはブーツではないが、ああいう形の靴にこだわり出したのは、その出会いがあったからだ。大学生になると、周囲の多くは、同じコンバースでもより洗練されたローカットに移り、デッキシューズだローファー、プレーントゥだウィングチップだと高級になっていった。

僕も一部そちらに興味を持ったのは事実だが、あくまでも主流はコンバースのままだった。なんだかんだ言ってくるぶしまで足をすっぽり包んでくれる履き心地は捨て難かったし、CDやレコードを買うお金も欲しかった。学生時代にはたぶん5、6足履き潰したと思う。それでも友達が自慢していたリーガルの高い革靴一足分の値段に満たない。リーガルなんて、いま考えれば全く大した靴ではないのだが。

いまは革のショートブーツを5足持っている。ブーツと言えば圧倒的に女性のアイテムという感が強い。最近は特に街を歩くブーツ姿の女性をよく見かけるようになった。あれはあれで非常にある種の魅力を感じるのだが(一部女性からは「変態!」呼ばわりされるかもしれないが、いちいち気にはしない)、やはり男のファッションにはなかなか取入れられないセンスである。

それに影響を受けたのかはわからないが、今年は少し長めのブーツを買ってみようかと、少しネットやお店で捜してみたりした。やはりあるのはいわゆるエンジニアブーツが中心で、あとはやや奇抜さを狙ったデザインブーツだけだ。前者は僕からすればいわゆる長靴だ。実用性を評価して買うことはあるかもしれないが、ファッションとしてはあまり好みではない。後者は、もうセンスの問題だろうが、どうも僕の求めるものとはかなり異なる世界から生まれているようなものしか見かけない。もっとシンプルなものはないのだろうか。

そうして、昨日立ち寄ったショッピングセンターで、ようやくそれに巡りあったのである。普通のショートブーツよりはもう少し丈が長く、足にはぴったりフィットする。デザインもシンプルだ。茶色と黒があります、と言われて両方欲しいと思ったが、我慢して茶色を買った。一足1万4千円也。まあいい買物である。

今日一日それを履いて、丸の内から神田、秋葉原と歩いてみたが、とても満足の行く履き心地であった。丸の内にある「インデアンカレー丸の内店」に行ってみた。休日なので思った程混んではいなかった。カレーの味は大阪で二百回以上は食べた味と変わりなく満足だったが、サービスがいま一つだった。

気になったのは次の3点。ピクルスの盛りが少ない(大阪梅田三番街店の半分程度)、大して混んでもいないのにカレーが出てくるのに時間がかかりすぎる(確実に2分は待った)、さらにルーを仕切る副店長の声がでかくてうるさい(客に向かって話すのと店員に指示する声が同じ音量である)。改善を期待したい。

さて、前回書いた新しいイヤフォンのおかげで、前よりも音楽をよりよく楽しめるようになったのは喜ばしい。お気に入りの作品でも、いままでiPodで聴くのはためらわれたものが、わりと抵抗なく楽しめる。一概にジャンルだけの問題ではないが、クラシックや現代音楽系のものは特にそうだと思う。

今回ご紹介する作品もその一つ。現代の弦楽四重奏団を代表するユニット、クロノス・クァルテットが1994年に発表した作品集である。これを買った当時は、心から気に入って本当に良く聴いたものだが、このところの僕の音楽試聴スタイルにはまったく合わずに、すっかりご無沙汰になっていた。

クロノスは現代音楽を中心にしたレパートリーで知られる。彼等はこれまでに実に多くのアルバムを発表している。僕はそのうち10枚程度を持っているのだが、その中で一番好きなのがこの作品である。

このアルバムには7つの作品が収録されており、冒頭のモンゴル・トゥバ地方の民謡をアレンジした作品を除いては、すべて20世紀に作曲されたもの。作曲者は一般には全く知られていない人ばかりだろう。僕も、4曲目のロシアの女性作曲家グバイトゥリーナと、ラストのアルバムタイトル曲を書いたグルジアのカンチェリの2人しか知らない。ウズベキスタンの作曲家ヤノフスキ—による作品を除くすべての作品は、クロノスのために書かれたもの。作品に共通するのはタイトルにある「夜の祈り」である。それは同時に密かな祈り、平和への祈りでもある。

サンフランシスコを活動拠点にするクロノスには、アメリカ系作曲家のレパートリーが多い中、ユーラシア大陸のマイノリティ達の祈りを中心に構成された本作は、やや異色の存在ではあるが、おそらく彼等の全アルバムの中でもかなり高い完成度を持つものだと僕は思う。

聴きどころは、ソプラノ歌手のドーン=アップショウをフィーチャーした2曲目「ラクリモーサ」、そしてゴムボールを弦の上に落とした音をテープに録り、それを効果的に使った4曲目グバイトゥリーナの「弦楽四重奏曲第4番」。そしてカンチェリによるクリスマスのない生活をテーマにした組曲の終曲「ナイトプレヤーズ」。

不遇の国政、そして不遇の現代音楽という時代を生きるそれぞれの作曲家達が産み出した音楽は、驚くばかりの名曲揃いである。20世紀の社会がもたらした戦争と民族問題、そして20世紀の音楽が楽譜から離れて追求した音楽表現手法、それらが見事に融合した素晴らしい作品集になっている。そしてこのアルバムは、現代人が踏み出すことのできない一歩を促しているように思える。

クロノスの新作が最近発表されたらしい。しばらくご無沙汰していたので、これを機にまた耳を傾けてみたいと思う。

Kronos Quartet クロノス・クァルテット公式サイト

(おまけ)ひとりおでん


妻が親孝行で実家に帰った週末。自宅で熱燗をやるのに何か温かいものをということで、「ひとりおでん」をやってみました。スーパーで買った500円のおでんセット(2人前練り物中心)を前夜に煮込み、そのまま鍋にふたをして24時間。電気鍋で温めなおして、お酒をお燗しました。なかなかおいしく出来上がりました。

11/18/2006

サン・エレクトリック「30.7.94」

 iPodで使うヘッドホンを買い替えた。最近多くなってきた、カナル型と呼ばれる耳の穴に差し込んで使うタイプのものにした。いままで使っていたオープン型は、気楽に使える反面、音漏れを起こしやすいし、逆に外の音も意外によく聴こえてしまうから、僕のように電車通勤で音楽を聴く者にとっては、少し不自由なところがあった。

特に外の音がうるさい環境が続くので、どうしても聴ける音楽が限られてくるのは、以前から不満ではあった。クラシックの様な音の大きい部分と小さい部分の差が激しいものはもちろん、ジャズでもバラードやベースソロになると、状況次第ではほとんど何も聴こえなくなってしまう。音量を上げればいいのかもしれないが、今度は音が大きい部分で外に漏れてしまうので、それはそれでマナー違反である。フラストレーションがたまる。

前回のキースの作品がとても気に入ったので、これまでの作品も含め彼のソロピアノをしばらく聴きたいと思い、意を決してカナル型を買うことにした。これまでそれを買わなかった理由はいくつかあった。一番の心配は、耳に差すといっても、従来のイヤホン同様、簡単に外れてしまうのが鬱陶しく思われたからだ。

お店に行っていくつかの商品を試してみたが、実際に通勤途中での装着感がどうなるのかまでは、やはりわからなかった。しかし、意外に耳にフィットするものだということはよくわかった。音は、機種による違いはともかく、低音がしっかり聴きとれるのはやはり心地よいものだと感じた。

結局、アマゾンでゼンハイザー社のカナル型イヤホンCX300を4500円くらいで買った。このメーカーにしたのは、自宅で使っているヘッドフォンと同じメーカーだから。実際に店で試聴することはできなかったけど、音に対する同社のブランドを信頼することにした。値段も手頃だったし、ユーザーレビューでも特に悪いことは書かれていなかった。

実際に使ってみて1週間が経過したが、いまのところ概ね気に入って使っている。低音は非常にはっきりしかも強く聴こえるのが嬉しい。もちろん慣れれば不自然さはない。また、外からの音が音楽を聴くのにちょうどいい程度にカットされるので、音の小さい部分でも比較的騒音に悩まされずに楽しめるのはよい。

一方で、耳に装着するには少し慣れが必要。耳栓だと思ってつけるといい感じだ。また、外を歩いたりする際にはそれなりに周囲の状況に気を配る必要があるし、身体や頭が動くことで少しずつイヤホンが外れたりするのはやむを得ない。耳への差し具合で音質がかなり変わるので、そういうときはその都度耳に差し入れる必要がある。周囲の音も完全に遮断されるわけではないが、車内アナウンスなどは聞き取りにくくなるし、駅の自動改札で定期券をかざすと聴こえていた「ピッ」という音は聴こえなくなった。

あと、イヤホンのコードが衣服などに刷れたりすると、その振動が音となって伝わって来る。同様に、底の硬い靴などで歩いたりすると、その振動が骨を伝わって頭まで響いてくる。つまり外歩きに使用するのは、安全性も考えればあまりお薦めできるものではないということだろう。まあ、ともあれ結果には満足している。

おかげでiPodの中身を大きく入れ替えることになった。これまで少し敬遠していたクラシックや現代音楽、あるいはベースのソロやピアノデュオなど、僕が大好きな編成の小さな音楽をたくさん入れてみた。もちろんキースの音楽もたくさん入れた。通勤が少し充実するように感じられた。

カナル型にして自分が聴いている音楽と向き合う際の距離の様なものは、少し近くなったと思う。一方、いままで邪魔だと感じることもあった「周囲の音」に対する態度も、少し変化があったように思う。いままでは意図的に避けていたようなところがあったが、今度は逆にこちらから無意識にそれを求めて耳を凝らすことも度々である。

アンビエントミュージックという言葉がある。ambientとは英語で「周囲の」という意味。環境音楽といわれるものと同義の様な少し異なる様な意味でもあるようだ。まあ大雑把には、「周囲の音」である日常的な環境音と同じ様な感覚で接することができる音楽、という意味で間違いはないだろう。今回は少し個人的な懐かしさも込めて、そういう種類の音楽を取り上げてみた。

1990年代の半ば頃、世界的なテクノミュージックのブームがあった。その頃の想い出は、以前このろぐでオウテカを取り上げた時に少し書いた。当時の代表的な作品のいくつかについては、僕自身いまも大切に手元において時折それを聴いている。僕が特に好きだったのは、アンビエントテクノと呼ばれた作品だった。これはダンスを目的としたビートよりも、シンセサイザーのロングトーンなどを中心に、ゆっくりとした時間の延びを促す様な作風の音楽である。

ドイツのテクノユニット、サン・エレクトリックによる「30.7.94」も、僕にとってはそうしたアンビエントテクノの大傑作だと思っている。デンマークの首都コペンハーゲンにあるクラブでのライヴを収録したこの作品では、3つのパートから成るおよそ1時間にわたる「音の夢」を体験することができる。

第1部"castor & pollux"、冒頭のやさしい光に誘われて聴くものはすぐに優しい光に包まれた心地よい世界にひき込まれる。後半では意表をつくように、ビートルズのある作品が遠くに去った俗界を思い出すかのように、効果的に使われる。

続く第2部"an atom of all suns"では、光は徐々に暗くなり、静かな迷宮に深く深くダイヴする。夢の一番深い部分である。ひたすら無欲に身を委ねる音空間が続いてゆく。

そして第3部"northern lights #5"。深くて暗い音空間に少し光が射して来たかと思うと、ゆったりしたしかし着実なベースに乗って、足下が少しずつ上昇を始める。上昇は少しずつ加速し、気がつくと解放的な気流にのって自分が空を飛んでいるかの様な世界に移っている。そしてゆっくりと地上に戻り、やがて音の夢空間から醒めてゆく。

重要なのは、この作品がライヴ演奏であるということ。テクノの生演奏というのは、少し馴染みにくい概念かもしれないが、ここに現れる音の一つ一つは、すべてその場で演奏者によって選ばれ、ミックスされて、空間に放たれている(つまり演奏されている)ものなのである。

この素晴らしい作品を、是非皆さんにも聴いていただきたいと思って採り上げたのだが、なんと驚いたことに現在は廃盤になっているようだ。なんとも残念である。運良く店頭などで見つけられた方は、迷わず購入することをお薦めする。

少し大きな音で鳴らしながら、お気に入りのソファー、ベッド、布団の上にごろんと横になってお楽しみください。「音の夢」によるトリップに心身を委ねれば、日頃のすべてを忘れさせてくれるはずだ。

11/12/2006

キース=ジャレット「カーネギー ホール コンサート」

 僕が知っている人、知らない人、いろいろな人の命が消えていった一週間だったように思う。自ら命を絶つ人に対して、僕はあまりかける言葉を持つことができない。それについてはもう一つのブログに少し書いた。わずかな同情はあるものの、僕は彼等が大きな罪を犯したことを簡単に許す気にはなれない。

それから、病でやむなく終わらざるを得なくなった命で、僕が個人的に印象深いものが2つあった。漫画家のはらたいら氏。クイズ番組の「宇宙人」としても、そして彼の作品に描かれる不思議な存在感に満ちた人物も、僕は大好きだった。

そして、僕が勤める会社のある幹部。体調を理由に突然の交代を発表してからまだ10ヶ月も経っていなかった。術後に一度だけ見かけたが、交代直前にある件をご説明にうかがった時とは、およそ比較のしようがない程やつれていた。それでも経過はまずまずと勝手に思っていただけに、週末もたらされた突然の訃報に接したときは驚いた。

一方で、新しい命のことは一層新鮮に感じられる。週末に会社の後輩が、新しい家を買ったというのでお邪魔した。そこの4歳になる男の子と、近所に住むもう1人の同僚が連れてきた1歳と少しの女の子が一緒だった。こういう場合は、子供中心に時間を過ごすことになるのはやむを得ないが、それはそれで楽しいものだ。

最近のように、個人が豊かに自分の時間を楽しむ生き方が、大人の世界でも当たり前と考える世の中になってくると、結婚や出産の割合が低くなる傾向がはっきりしてきている。いわゆる少子化の原因について議論するのは、意味のないことだとは思わないが、人間が自分独りの生き方を、どこかで求めている部分があることはいまの時代の一側面だろう。

僕は結婚してまだ6年半余りで、いまのところ子供はいない。いま感じているのは、結婚して自分の生き方が制限されたり束縛されたりすることについて、それは確かにあるものの、さほど不自由や不満を感じることはないなということ。既に自立した2人の人間(幸いにして一応共に健康である)が、一緒にやっていくのは、そのことを十分納得してお互いに尊重し合って楽しむ(ここが重要なのだが)分には、失うものより得るものの方がはるかに大きいと思う。

それよりも、やはり新しい命を産んで育む労力は、未経験のこととしてはとても大変なことのように思える。時間の使い方を始め、基本的なところで生活のスタイルに大きな変化ができるだろうということは、周囲の人の様子を見ていてそう思う。それでもいくら社会が充実して自分の時間が楽しくなろうとも、やはり人間はそこに向かうのが自然な流れである。それに気付くのにいろいろな理由で時間がかかる時代になっているのは事実かもしれない。

命のことをいつになく強く感じた一週間の最中、キース=ジャレットの新作が届いた。今回は彼としては初めての米国でのソロコンサートを、そのまま収録した内容になっている。長いものでも10分に満たない短めの即興演奏が10曲、それに5曲の既存作品(オリジナル曲とスタンダードの"Time on my hands")からなるアンコール演奏が、会場の雰囲気そのままに収録されている。

アンコールを求め鳴り止まぬ観客の熱狂的な拍手や、ステージに戻ったキースが聴衆に語りかける声などが、そっくりそのまま収録されているのだ。この構成に対する賛否はあるだろうが、制作側の熟慮の結果と素直に受け止めるのが無難だろう。キースの作品に対する評価としてはもはや月並みな表現かもしれないが、作品の内容はもう掛け値なしに素晴らしいものである。

ソロの前作「レイディアンス」にも共通したある意味でシンプルで、非常にすんなりと身体に吸収されるピアノ音楽が、今回の作品ではさらに強く濃くなっている様に感じられる。それだけキースの音楽が成熟に向かって進化を続けている証拠だと思う。聴いてみて、彼が現代世界で最も重要なピアニストであり音楽家であるという想いはさらに深まった。いつもながら極めて完成度の高い「生命に満ちあふれた生の音楽演奏」だ。

命を産み出し育むことは、先天的に備わった能力である。その先天的な能力を元に、長い営みの中からいろいろなものが生まれた。マンガも会社も音楽も。キースの音楽はその中でも、ひと際高い頂点を持つ業績の一つだと思う。

そして命を人為的に奪うことは、それが自分のものである場合も含め、やはり人間には後天的に備わった行為であり、すべての営みを否定するものである。戦争も死刑も自殺も、必然性や是非についての議論に意味はあるが、やはりそれがあってはならないということが大前提であることに違いはない。

11/04/2006

高柳昌行&ニューディレクション「エクリプス」

少しずつ気温が下がっている。木々の葉っぱも枯れ始めてきている。ビールや缶酎ハイの様な、冷たいお酒をあおって得られる喜びも、少し落ち着いたものになってきたようだ。代わってやってくるのが熱燗の季節である。

先週水曜日、このろぐにもたびたび登場する幼なじみの男と、彼の会社の同僚と僕の3人で、新宿三丁目の居酒屋「鼎(かなえ)」で一杯やることになった。彼らとはしばらくぶりだった。ちょうど僕が、初台の某企業でちょっとしたプレゼンをやることになったので、新宿までいくならその帰りにやっていこうと提案したら、彼らがお店を用意してくれた。

今年の2月頃だったか、同じメンバーで彼らのオフィス近くの御用達の居酒屋で一杯やったのだが、熱燗ではなくぬる燗しか出さないお店の主義に、立腹して帰ったのを憶えてくれていたらしく、「ちゃんと熱燗の飲めるお店にしといたよ」とは、口にも文字にも出さなかったものの、お店のホームページを見た僕にはすぐに伝わってきた。

このメンバーは同じ歳で、酒好き、音楽好きと来ている。僕ら2人は小学校以来の長い付き合いだし、また彼ら2人は共に翻訳会社を支えるパートナーである。10年くらい前には、他のメンバーもいたが一緒にバンドをやったこともある。考えてみれば結構長い付き合いである。

僕は仕事の都合で7時過ぎに合流。彼らは先に始めていたのだが、既にビールのジョッキはなく、熱燗のお猪口2つと鯵のナメロウの皿が挟んで、なにやら仕事の話を論じていた。僕は少しおなかが空いていたのでとりあえずビールにしたものの、さっさとそれを飲み干すとすぐさま熱燗に合流した。

このお店はしっかりとした熱燗が、お店の推薦で4種類の酒から選べる。冷酒の種類も多くお店のメニューに「正一合」とあるように、きっちり一合を出すのがポリシーになっているのだが、熱燗はすべて一合六勺の徳利で出してくれる。肴はどれも気の利いたものばかりで美味い。ちょこちょこ注文したが、3人とも飲ん兵衛なので、もはやしっかり食べる者などいない。

僕らは一番安い「一の蔵」の熱燗をそれはもう次々に飲んだ。僕が合流してからは、徳利1本では追いつかないので、常に2本ずつを4、5回注文したと思う。お店が珍しく空いていて、比較的静かだったのも幸いして、とても心地よい酒宴である。お店のおじさんも「いいよね熱燗は。どんどんやってください」と嬉しそうである。

話は先ず、最近のテレビの話から「のだめカンタービレ」は面白い、で3人が一致して始まった。それからは「ドクターコトー」の蒼井優がカワイいと誰かが言い出すと、「セーラー服と機関銃」は長澤まさみはいいけれど、この歳になるとこっ恥ずかしくて観れないよなあ、と民主的にオヤジ話が進み酒もさらに進む。そしてNHKの朝ドラ「芋たこなんきん」は面白い、でまたまた意見が一致してテレビドラマの部は幕となった。

僕はNHKの朝ドラが実は結構好きで、時間がある時は(大抵土曜日なのだが)チェックしている。「芋たこなんきん」は、主人公のヒロインを、若手女優ではなくベテラン(僕よりも6つ年上)の藤山直美が務めるという、異色のキャスティングで驚き、正直当初はやや期待が低かった(失礼)のだが、始まってみるとその不思議な魅力は、はやくも前作「純情キラリ」を上回り、最近の僕のお気に入り「風のハルカ」に迫る
勢いである。何ともいえない関西のリズム感、朝ドラというのに夜中に酒を飲んで語り明かすシーンが印象的だ。やはり「連ドラはNHK大阪放送局」の法則は今回も健在である。

さて、その後は音楽の話になだれ込み、テッド=ニュージェントとかフランク=マリノは一体いまどこで何をしているのか、とまたしてもオヤジロックの世界に拘泥してしまった。個人的には「カナダのジミヘン」ことフランク=マリノの当時の音源が無性に聴きたくなったが、当然手元にないので代わりに酒を飲むというどうしようもない展開になる。やがて微睡みとともに視界に客観性が感じられるようになってきたので、お開きとなった。3人で1万8千円ほどだったが間違いなく7〜8割は酒代だっただろう。満足。

時計を観てみるとそれほど遅いわけでもなかった。家に帰って、寝る前に何か聴いてみたいと思ったので、反射的に先日タワレコードで、マイクのDVDと一緒に買ったCDを聴いた。それが今回の作品である。高柳を知る人は少ないと思うが、知る人がいれば、なぜその状況でこれを聴くのかと思われるかもしれない。でも音楽とはそういうものだ。聴くのも演るのも本来は個人的なところから始まるものだと思う。

日本人の音楽アーチスト特にジャズに関連した人のなかで、高柳と阿部(薫)は特異な存在だ。だけどこの2人の音楽を愛する人はいまも多いと思う。その証として、今回の作品のように、当時100枚程度しかプレスされなかったプライベート録音に近い音源が、30年を経た現在になって突然CD化されたりするのだろう。高柳の作品はこれ以外にも、ここ1年で非常に多くの作品がCD化されていて、僕もその何枚かを手にしている。

ほぼ同一のスタイルを貫き、短期間で燃焼した阿部とは異なり、高柳は途中病気でのブランクがあるものの、1960〜1991年までの約30年間に渡って独創的な音楽活動を続けた。ニューディレクションは、そのちょうど真ん中にあたり、これは間違いなく一つの頂点である。

「エクリプス(侵蝕)」は、1975年3月に行なわれた彼のグループニューディレクションによるパフォーマンスを収録したもの。場所は東京の若菜会館という記録が残っているらしいが、同日渋谷での演奏記録があることから、おそらくは都内のどこかでのパフォーマンスであることは間違いない。内容は彼らの一時代を代表するかなりハードなフリーインプロヴィゼーションで、圧倒的な集団即興の素晴らしさが満喫できる。

最近、日が経つのが早いのかゆっくりなのかがわからない。何かを期待して早く早くという様な思いがある一方で、1〜2週間ほどの期間に実にいろんなことがあるとも思える。何かに腹を立てたりすることもあるし、くだらないことでもちょっとしたことに夢中になったりもする。楽器演奏のように、本当はとても充実したくても、なかなかそれができないこともあるのだが、それ以外にもやりたいことはいろいろあるようだ。

いまこれを書きながら、久しぶりに高柳の演奏をまとめていくつも聴いているのだが、こういう音楽が聴きたくなるのも、最近の気候や自分の状況が一因しているようにも思う。

takayanagi's data guitar氏による高柳昌行に関する情報サイト

10/28/2006

スティーヴ=コールマン アーカイヴス

 ちょうど過ごしやすい気候が続く。身につけるものも、ジャケットとか薄手のコートにシャツと身軽で、身体の形も隠れずに、それでいていろいろな組合せができて楽しめる。僕は別にお洒落さんではないが、出かける時に着ていくもののことを考えるのは好きだ。

今週の月曜日に、渋谷のあるところで仕事関係のセミナーがあった。ネット関係の商品説明会のようなもので、こじんまりとしたものだったが、お客さんは若い人が中心で、日頃の仕事をとは違う雰囲気があった。その帰りに僕は久しぶりに駅前にある楽器屋さんに立ち寄ることにした。

最近、音楽を演奏する趣味がまた盛り上がっているようで、新しい楽器屋さんもいくつかできているようだった。とりあえず昔からある大型店に入って、ベース売り場に行ってみた。もちろんお目当ては多弦ベースである。以前は、こういう楽器はなかなか売れないので、店頭に置かれている数はとても少なかった。でもお店にはかなり多くの種類のものが置かれていて、それなりに愉しかった。

雨の平日の夕方ということもあって、お店はヒマそうだった。売り場のお兄さんは、気前よく試奏をさせてくれた。TUNE社の7弦ベースという商品も触ってみた。思ったより弾きやすかったし、音域の広さは素晴らしい可能性を感じさせてくれたが、弦を交換していかねばならないことを考えると、ちょっと所有するには不自由しそうだと思った。

やっぱり買うなら6弦かなあなどと、売り場にいるとすっかりその気になってしまうのだが、実際には30万円くらいは覚悟しないといけないので、これはそうやすやすと決められる話ではない。もはやMacを買うよりも高いのだ。Macなら家にあれば僕以外にも使う人がいるが、ベースはもう純粋に僕だけの趣味だ。うーん、収入は増えたはずだし、特に借金をしているわけでもないのだが、支出には慎重になったものだ。賢くなったのだと独りで納得しながら、指に残った弦とネックの感触だけを持って店を出た。「またお待ちしてます」。お店のお兄さんが、まるでラーメン屋さんの様な言葉で送り出してくれた。

さて、多弦ベースのことを考えるようになったのには、いろいろな理由がある。先週取り上げたマイクのDVDもそうだし、「のだめカンタービレ」が何かを触発しているようにも思える。そしてもう一つ大きいのが今回紹介する音楽というか音源からの影響である。

今回取り上げるのはCDやDVDではなく、その名前からお分かりの通りサイトである。スティーヴは最近取り上げた最新作でも触れたように、僕の超お気に入りのアーチストである。そこでも彼のアーチストとしての革新さとタフネスについて書いたが、彼のもう一つユニークなところはインターネットでの活動にある。

スティーヴは過去のアルバムについては、レコード会社との販売契約が切れたものについては、そのほとんどすべてをインターネット上で公開している。もちろんアルバム全曲を公開していて、形式はmp3などの圧縮形式であるが、通常楽しむには何ら問題はない。その数は既にアルバムにして20枚以上に及ぶ。

そしてさらに凄いのが今回紹介するアーカイヴである。ここではスティーヴのグループが世界中で行ったライヴパフォーマンスの記録が、セッションごとにmp3などのオーディオファイルで整理され公開されているのだ。その数はざっとパフォーマンスにして300以上の数に上るとのことだ。

こうした記録は昔であれば「海賊盤」とかプライベートテープと言われるものにあたるわけだが、このサイトが凄いのはスティーヴ自身が運営するサイトではないものの、公式サイトにもしっかりとリンクが掲載されており、併設の掲示板にはしばしば本人も登場する。いわば本人も公認のサイトなのである。

僕は最近になってようやく手続きを済ませて(登録は名前やメールアドレスなど、若干の個人情報を求められるものの一切無料である)、暇を見てはいくつかのセッションをせっせとダウンロードしている。録音の状態は様々であるが、FM放送のものやミキシングコンソールからの直接とられたものも多く、いまの時代の技術を反映していずれもクオリティは十分すぎるものだ。

おかげでiPodの中はいま彼のグループの演奏がぎっしり入っている。これだけ数があると全部聴くのにどれだけかかるかわからない。来日を待ち望む一方で、彼の演奏の醍醐味であるライヴパフォーマンスが存分に味わえるこの企画は本当に素晴らしい。

それにしても、こういうサイトの存在を考えると本当に時代の変化を感じざるを得ない。エレクトロニクス系の音楽アーチストでは、こうした活動はもはや珍しくないものになりつつある。それはCDやDVD、あるいは映画やテレビといったものが、即座になくなることを意味するものではないにしても、いままで起ってきた変化に比べて、その深さや広がりははるかに大きいわけで、何も音楽や映画に限らず、僕が仕事にしているレポートの流通などにも確実に広がっていくだろう。楽しい時代だ。

そして一方で、やっぱり生のスティーヴ=コールマンを体験したいと思う気持ちは、変わらないどころか一層強くなる。それがまたこうした新しいものが気付かせてくれる、物事の大きな側面であることも忘れてはならないだろう。同時にそれがあるから、この新しい仕組みは非常に優れた社会性と本質を備えたものなのである。ヴァーチャルな広がりは利便性を高め、同時にリアリティという物事の実体や本質を高めることにもなる。

steve coleman archives

10/22/2006

マイク=スターン「ライヴ」

 風邪ひきの先週末から、病み上がりで出発した1週間。しばらく先延ばしになっていたレポートを完成させるべく、管理業務以外はひたすらそれに集中した。熱が下がった結果か、頭はそれ以前に比べてクリアになっていて、いろいろなテーマが絡み合って全くまとまりがなかったものを、何とかシンプルに整理して仕上げることができた。

そうして木曜日の夜にレポートを発行し終え、金曜日は、数字のチェッックをしたり、他から頼まれていたもの書きの企画を提出したりして過ごした。この日の夜は、中目黒でジンギスカンを食べる約束をしていたので、僕はそれが始まる前に会社を抜け出し、渋谷のタワーレコードに向かった。

久しぶりに、1時間半かけて6階から2階までの音楽売場を総なめにしてみた。いろいろといいものがあった。手にしたものを全部買えば、1万5千円くらいになったはずなのだが、そこは我慢してCD1枚とDVD1枚の計6千円に抑えた。諦めたものの中には、ウェザーリポートのボックスセット「フォアキャスト トゥモロー」があった。

店頭で上映される、黄金期のライヴ映像は確かに魅力的だった。事実上あのDVDの為にお金を出す様なもののはずなのだが、なぜか企画の上では映像はオマケということらしい。最近はそういうものが多い。まあこれについては、ネットで買えばもっと安く手に入るだろうと割り切ることにした。事実、後でチェックしてみるとその時の売値の75%で買えることがわかり、危うく購入ボタンを押しかけた。

土曜日はその際に買ったDVDを昼間に観て、夜は久しぶりにウィスキーを飲みながら、買ったCDを聴いた。今回はそのDVDを紹介するのだが、その前に、先週月曜日からフジテレビで始まったドラマ「のだめカンタービレ」を録画していたのを思い出して観たので、少しだけ書いておこう。

僕は原作のマンガはまだ読んでいない。大きな楽器店にいくと楽譜や書籍の売り場に、あのマンガのコミックスが積んであり、その変なタイトルと、どうしてこんなところにマンガが置いてあるのか、という点で気にしていた程度だったのだが、それがドラマになると聞いて、そんなに人気があるのかと思った。

原作ファンからすれば、映像作品化は大抵煙たがられるのが常だ。僕の周囲にも何人か原作が好きと言う人がいるようで(やはり大抵は楽器をやっている人だ)、その人達からまだ感想は聞いていない。最近の音楽関係のマンガといえば、ロックバンドを舞台にした「NANA」があるが、「のだめ〜」は音楽大学を舞台にしたラヴコメ、つまりクラシック音楽が主役である。

まだ第1回しか観ていないので何とも言えないものの、僕はなかなか面白いと思った。CGを使ってマンガの絵的リズムを表現しようとしているのは、そこそこ成功していると思ったし、マンガではあり得ない、シーンに合わせてクラシック音楽効果的に使うことも、この作品らしさをうまく出していると思った。あとはそのテンションを最後まで飽きさせずに続けられるかどうかだろう。

原作の登場人物のキャラに精通していないから、その意味では無責任なコメントかもしれないが、主役の上野樹里と玉木宏はなかなか上手く音楽生を演じている。上野は「スウィングガールズ」でもなかなかの評判だった。確かに演奏家を演じるのは、あるレベルを過ぎると、表情とか指使いとか急にいろいろと難しいものが求められるところを、なかなか健闘していると思った。

久しぶりに面白ければ最後まで観てみようかと感じるテレビドラマだった。ただ、たぶん原作は違うと思うのだが、話があるテーマに単純化されて物語が進む様なので、それで連ドラとして安っぽくならないかは心配である。

さて、今回のDVD作品は3ヶ月ほど前に発売されたもので、僕の大好きなギタリスト、マイク=スターンの最近のグループのパフォーマンスが収録されている。今年の1月に、会社の知人と彼の演奏を青山のブルーノートに聴きに行ったことは、このろぐにも書いた。ここに収録されている映像は2004年11月のものというから、僕等が観たものよりもさらに1年くらい前のものということになる。

マイクのパフォーマンスはたまに無性に聴きたく、というか観たくなる。人によっては、ワンパターンとかマンネリと言って片付けることもあるが、僕にとってはとてもわかりやすい表面と、意外に深い音楽性の両面がたまらない魅力である。今回のDVDはそれを観たくなればいつでも観ることができるという意味で、買っておいていいかなと判断した。

内容は僕等がブルーノートで観たものと雰囲気が似ている。マイクのギター、デニスのドラム、ボブ(=フランチェスキーニ)のサックスは、いつものように超強力でハイテクニックだ。そして、このDVDではベースをリチャード=ボナが勤めている。彼は最近話題のベーシストなのだが、僕は全く音を聴く機会がなかっただけに、今回のお目当てはそこにもあった。

結果的には、ボナはやっぱりスゴイテクニシャンだし、個性的なスタイリストでもあると感じた。ただ個人的にはちょっとうるさく感じられる部分もないわけではなく「ちゃんとベース弾けよ」と思う場面がいくつかあったことは事実だ。まあ新しさというのはそういうものだろう。でも僕は以前観たアンソニー=ジャクソンや、リンカーン=ゴーインズの方がいいと思った。

それにしても、ボナもアンソニーもリンカーンも、そして上原ヒロミのグループのトニー(=グレイ)も、最近の有名なエレキベーシストはみんなフォデラ社のベースを使っているなあ。やっぱりいいんだろうなあ、と少しずつ興味を引き寄せられつつある自分が少々怖い感じもする。機会があれば、是非触ってみたいものだ。おそらく一度触ったらもはやそれまでだろう。

ああ、このところまたベースをご無沙汰してしまっている。楽器にのめり込むというのは、やはり若い時にどこまで深く潜ったかというのは大切だと思う。四十の手習いとかいっても、それはそれで別の楽しみ方だとは思うけど、所詮いく先は知れている(やる方もわかっている)。僕は学生の頃にそれほどバリバリやったわけではなかったけど、あの頃自分を楽器に向かわせていたものは何だったのかと、考えてみてもそれが言葉になるわけではない。「のだめ〜」とマイクのDVDを観て、そんなことを考えた。

10/14/2006

デイヴ=ホランド「クリティカル マス」

 気をつけてきたつもりだったのに、久しぶりにカゼをひいてしまった。金曜日は仕事を休んでしまい、その夜には39度近い熱が出た。こうなるともう食べること以外は眠るだけである(食欲がある分にはまだ安心の余地はある)。眠り続けた甲斐あってか、今朝には平熱まで下がったものの、まだ喉が腫れているのでしばらくは予断を許さぬ状況だ。

仕事は、いつもだったらなんとか理由をつけて休みたいと思う。しかし、いざこういう状況になってしまうと、最近の仕事で至らぬところばかりが気になってしまい、ああなんでもいいから体調が回復して欲しいと願うようになる。それから、全快したら今度こそ毎日ちゃんと運動をして、週に1回はジムに行こうなどとうわごとのように誓う。不思議なものだ。

前回のアクアで1回中断していたが、アマゾンドットコムで購入した3枚のCD、最後の作品は、僕の大好きなベーシスト、デイヴ=ホランドの最新作である。これまでにも彼の作品は2枚取りあげているのだが、ホランドの作品についてまあはっきり言ってしまえば、かなり玄人好みの音楽だろう。特に日本では一般にほとんど名前が知られていない。しかし、彼はジャズ部門でグラミー賞を受賞するほど大変に評価が高いアーチストなのである。

今回の作品、タイトルは「クリティカル マス」とある。発売元はECMではなく、昨年(一昨年?)自身で旗揚げしたDare2 Recordsからのもの。ECMとの契約は終了したものと思われるが、その意味では今回買った3枚のいずれもが、かつてECMで看板だったアーチストのものというのは、単なる偶然だろうか。最近のECMはキースの稼ぎを元手に、欧州現代音楽の新しい才能を発掘しようという方向になってきたようだ。

内容的には、ECM後半から続くクインテット作品の延長で、ドラムがビル=キルソンからネイト=スミスという人に変わっているものの、サウンド全体のは大きな変化はない。今回も多くの曲で変拍子(4分の4や4分の3など一般的な拍子ではないもの)が使われているが、こういったところが玄人向けと思わせる所以かもしれない。

音楽演奏にあまり詳しくない人には、どことなく聴いていて「変な音楽」に感じられるらしく、その一方で、音楽演奏とにかくフュージョンとかプログレに深入りした人(特に日本人か?)は、この変拍子というのが好きで、「格が高い」という思いを抱く人が少なからずいるようだ。まあ「匠」と映るのは理解できるし、演奏上かなりチャレンジングなものである(というかここにあるようにさらりとやってのけるのは相当なリズム修業が必要である)。

僕はホランドはある意味で、モダンジャズ(あるいはコンテンポラリージャズ)を継承する最重要人物の1人だと思っている。ECM後半から続いているクインテットの作品は、いずれも素晴らしい演奏の連続であるが、一方で「どれも同じに聴こえる」という意見があるのはわからないわけではない。今回の作品は僕にとっては、吸収されるのに少し時間がかかった。同時に買った2枚が、新鮮に響いたのに対して、この作品は従来からのものがさらに深まりました、という性格のものだったからだと思う。

それでも最近になってようやく耳がこれについていけるようになった。こういう音楽はなかなかiPodでは真価を見極めるのが難しいと思う。裏を返せば、ヘッドフォンやカーステレオ、ラジカセなど「ながら文化」から生まれてくる音楽というのは、底が知れているということか。同時にもう少し言えば、記録された音楽も生演奏には勝てないということだろう。

今回は少々まとまりがないが、このあたりにしてまた一眠りしようと思う。

10/09/2006

アクア「カートゥーン ヒーローズ」

 毎日音楽を聴いていると、ひとりでに音楽、というか音に対する感度が上がるものだ。いまの時代、求めなくとも音楽はどこででも耳に入って来る。正直、そういう音楽のほとんどすべては、その時の自分にとってはゴミ同然のものだ。それはその音楽そのものに問題がある場合もあるが、一番根本的な問題は、その瞬間、自分がその音楽を求めていないのに勝手に耳に入って来る、ということが原因だと思う。何事にも出会いは大切なのである。

最近は、気になる音楽というものが、音の形で僕の認識に入って来ることはあまりない。大抵は、ウェブサイトやフリーペーパーなど文字情報の形でその存在を知り、結果として気になって買ってみるなどの行為に及ぶことがほとんどである。世間一般の音楽認識パターンは、テレビ番組やCFやラジオなどが多いとも聞く。

そうした場合、大抵はその音楽が誰の何という作品かを知るのは、比較的容易いことである。CFの音楽として一部分しか耳にしなくとも、大抵はインターネットで捜せば何とかなるものだ。まったく便利な時代である。

僕はいままで自分から求めて聴いた音楽は、ほとんど記憶しているつもりだ。タイトルがおぼろげだったり、演奏者名を失念している場合もないわけではないものの、インターネットを使えば少しの労力でそれを見つけ出すことはできると思っている。もちろんそれを実際に聴けば確実に思い出せるつもりだ。(実際にそれが買えるかどうかはまた別の問題である)

ところが、冒頭に書いたように、いろいろなところで無意識のうちに耳に入ってきて、それが僕の中に突然ある種の興味となって現れるという音楽も、ないわけではない。こうした場合、うろ覚えで何らかの基本情報を持ち合わせていれば、そこから捜すことはできるのだが、それが何もないという音楽も時にはあるのだ。そういう音楽を偶然また耳にした時、その場で何らかの情報を収集することができるならいいが、そういうものに限って、お店のなかの有線放送のようにどうしようもないことが多い。

それは、先月の札幌出張の際に起った。現地の支社の人達とすすき野の夜を過ごしている時に、その音楽が有線放送から不意に耳に飛込んできたのだ。思わず踊り出したくなる様な楽しいリズムとメロディ、甲高いヴォーカル、いわゆるユーロビート系の音楽で、おそらくは日本でもかなりヒットしたと思われるその音楽は、ここ数年突然、僕の中に入ってきては少しずつ興味を組み立てていった。

その時いたお店は、少し変わったクラブで、お店の女の子がハウスバンドの演奏でオールディーズを歌うという嗜好の店だった。彼女達は普通のホステスというよりは、願わくば歌を仕事にしたいと頑張っている娘たちだった。だから確かに歌は上手かった。

僕はちょうどいい機会だと、それまでの話から突然話題を変えて、席にいた娘達に「いまかかっている歌は誰の何という曲?」と問うてみた。しかし、残念ながら彼女達の反応も僕と大して変わらないものだとわかった。「聴いたことはあるし、いい曲だけど、誰の何かは知らない」。

この時の経験でその音楽は僕の中に確実に存在するようになった。僕は帰りの飛行機の中でも、その音楽を思い出してみた。家に戻って、インターネットで検索してみたりもした。「ユーロビート」「女性」「甲高い」など、いくつかの検索ワードを組み合わせてみたが、見つかるはずもない。iTune Music Storeやアマゾンの試聴機能を使うことも考えたが、そもそも何を聴けばいいのか、その見当をつける手だてが何もない。これはもうお手上げである。

そんな状態がしばらく続き、それでもその楽しい曲は僕のなかに居座り続けた。先々週の金曜日の夜、再びネット検索に立ち向かったが、敢えなく惨敗だった。いわゆる人力検索なるものがあるが、これが今回の様な疑問に役に立たないのはお分かりだろう。

僕はその夜遅くに帰宅した妻に、酔った勢いも借りて自分のいまの状況を訴えたところ、返ってきたのは「じゃあ歌ってみてよ」だった。僕は記憶にあるサビと歌い出しの部分を歌詞なしで(英語の歌なので)鼻歌のように歌って聴かせたのだが、「はあ?知らない、聴いたこともない」しか返事はなかった。家にある電気ピアノでつま弾いて聴かせても結果は同じだった。

妻にこれ以上聞いてもダメだなと思いつつ、ここまで来るともう意地である。そこで僕はある決意をした。その夜はそのまま眠り、翌土曜日になって僕はその決意を胸に、近くにあるタワーレコード川崎店に向かったのだった。

売り場に入って、先ずユーロビートの作品が並んであるコーナーに行った。いろいろなけばけばしいジャケットがぎっしりと置かれている。1、2枚のCDを手に取ってみたが、それで何かがわかるわけではない。僕はそういう自分に一瞬あきれたような微笑みを浮かべた(と思う)。そこで意を決して、売り場を見渡した。

すぐに目に入ったのは、広いレジカウンターだった。しかし、そこにはお客さんが行列を作って並んでいる。うーん、あそこじゃない。少し歩いてみると、長いCDの棚の端に小さなテーブルがあり、そこで陳列商品の管理をやっている店員が目に入った。なぜか僕にはレジの人よりは音楽に詳しいように思えた。「あの人にしよう」。

近づいてみると、それは女性店員だった。「女性かあ・・・」恥ずかしさで、再び一瞬怯みかけたものの、もう後戻りはできなかった。僕はその店員のところまで行って声をかけた。「あのう、すいません。実は音楽を捜してるんですが・・・」あとは手短に事情を説明した。最初は一瞬緊張の表情を浮かべた彼女は、すぐに微笑むと「わかりました、ではお願いします」と、手を自分の方に招いた。

その付近だけ人通りは少なかった。店内には普通に何かの音楽が流れていたが、自分のなかではまるで静寂の空間に感じられた。僕はその人の前でサビの部分を2回と歌い出しの部分を1回歌った。ひとりでに自分の手が、指揮者かなにかのように拍子をとった。

その店員はうっすらと微笑みを浮かべながら、じっと聞いてくれていた。「うーん」と唸りながら、しばし腕組みして考えた後に、「ちょっとここでお待ちください」といって、すぐ近くの"STAFF ONLY"と書かれた扉の向こうに消えた。僕はそこで開き直ったつもりだったが、やはり顔を真っ赤にして待った。

1分程して、彼女はまた別の女性を連れて戻ってきた。観客が1人増えたなと思った僕には、期待よりも恥ずかしさが増えただけだった。案の定、僕はその新しい女性の前でも同じように芸を披露した。そしてその反応は驚く程、前の女性と(そして前夜の妻と)同じく、腕組みをして薄い笑みを浮かべて「うーん」唸るのだった。唯一の違いは、2人が互いに目を合わせて記憶を探ることだった。

やっぱりダメかなと思った。さらに人が増えたらどうしようと、自虐的な情景を頭のなかで描き始めた瞬間、後からやってきた女性が口を開いた「『アクア』かなあ」。そしてそうつぶやいた彼女の表情に、なにかまだ不完全ながらも確信を感じさせる表情が溢れ出し、そのまま、彼女は僕を最新の試聴機があるところまで連れて行ってくれた。

その機械はお店のおすすめCDが聴けるというものではなく、インターネットの試聴と同様に、アーチストやジャンルから曲名を選んで、その音楽を30秒間試聴できるというものだった。いま考えればこの機械の存在が大きかった。「こういう声の人ですか、先ずはそれだけ確認したいんですが」そう言って、彼女はアーチスト名で「アクア」と入力して出てきた、最初の曲を聴くようにヘッドフォンを僕に渡した。

そして音が耳から入ってきた瞬間、僕の心にあった闇はあと影もなく光に変わったのだった。「カートゥーンヒーローズ:アクア」それがその曲のタイトルとアーチスト名だった。僕はその人達に何度もお礼を言って、その作品が収録された彼等のベスト盤を買って店を出たのだった。それが今回の作品である。

アクアは北欧出身の4人組。1990年代後半から2002年頃まで活動していたようで、2枚のアルバムを残している。いずれの作品も世界中で大きなヒットとなり、日本でもかなり売れたらしい。「カートゥーンヒーローズ」は、2枚目のアルバムに収録された、彼等の最も有名な作品で、日本ではキリンの生茶の音楽としても使われた(確かにいま聴いてみるとそういう記憶がある)。その位メジャーな曲なのだそうだ。

家に帰って、妻にその音楽を聴かせると、案の定「ああ、これは知ってるよお」という反応。まあ僕も同じ状態だったのだから、別に腹は立たないものの、どうしようもない。たぶんもっと多くの人に同じように聞いていたら、やはり多くは結果的に同じ反応をしたのではないかと思う。そして、いまこの話を読んでいただいている人の多くも、「アクア?カートゥーン?」であって、実際に音を聴けば同じ様な反応の方が多いなのではないだろうか。タワーレコードの店員さんはさすがはプロであった。素晴らしい。

僕はこの手のサウンドをそれほど深く聴いていたりするわけではないものの、今回買ったアルバムに収められた他の作品も含め、アクアのサウンドには時代を反映した素晴らしさと、時代を超えた輝きがあることを確信している。「カートゥーンヒーローズ」はメロディの素晴らしさと歌詞の内容も含め、後世に残るユーロビートの名作である。

しかし、使い捨て時代の大量消費音楽の宿命とでも言おうか。最近のヒット曲というのは意外にこういうものなのかもしれないというのが、少し寂しい今回の教訓である。そして、いつもと異なり、音楽を捜すのにいろいろな人を通じたやり方で見つけだすことができたことに、いつもと違った充足感が得られたことには、嬉しさもある一方で、何とも皮肉な気持ちも少し感じている。しかし、何事にも出会いは大切だ。

(お断り)アマゾンで買った3枚目の紹介については、また別の機会ということにします。

9/30/2006

ビル=フリーゼル/ロン=カーター/ポール=モチアン

 このところ少々自分が変である。世間でいうところの五月病とはこういう気分を言うのだろうか。長年の目標が果たせなかった時の落ち込みの様もであるし、失恋の気分の様でもあるが、やっぱり少し違う。毎日の生活は、世間の平均(そういうものがあればの話だが)に比較して、それはそれはバラエティに富んでいると思う。ちゃんとした仕事もあるし、家庭もある、友達もいる、趣味もある、酒もある。しかし、それでもないものがある。

それは、別の仕事かもしれないし、友達かもしれないし、趣味なのかもしれない。もしかしたら、別の自分なのかもしれないし、別の場所かもしれない。少し思うところはあるのだが、何かが怖くて、その扉を開けないでいる様にも思える。僕は我慢しているのだろうか。それとも我慢が足りないのだろうか。いまはまだわからないし、この先そのことに答えが出るような気は正直あまりしない。

先週の水曜日、以前仕事の一環として参加した、いろいろな会社の人が集まった勉強会のようなものがあって、その時のメンバー数名が集まる飲み会が催され、僕も参加させてもらった。一応、集まりの主旨の様なものがいくつかあって、ある人の門出のお祝いだったり、趣味で偉業を達成した人の健闘を讃えたり、仕事で昇格(といっても課長が部長になったというレベルではない)した人を尊敬したり、異動で遠地に赴く人を景気づけたりと、まあそういうことである。

普段あまり会わない人と飲んで会話するのは楽しいものである。この集まりは、いろいろな人が集まっていて日頃の職場の面々で集まるのとはかなりわけが異なるので、一層楽しい気分になれる。それでも、今回会場と職場が近かったので、うちの妻も同席させてもらったのだが、彼女が日頃いる職場から見ると、「久しぶりにサラリーマンの宴会っていう感じで楽しかった」という感想だから興味深い。単なるオヤジ集団という意味に解釈しておくのが無難かもしれない。

前回に続いて、アマゾンドットコムで購入した3枚のCDから2枚目。タイトルがメンバーの名前そのままという意味では、前回と同じである。これは単なる偶然だろうか。同じレーベルから同じ時期に発売されているので、なにか意図というか、同じノリでつけられた感もあるが、その割にはジャケットデザインなどはまったく共通性はない。もちろん音楽の内容はこのユニットのメンバーから醸し出される独特のものだ。

ビルはこれまでにもいくつかの作品をとりあげてきているが、僕がいまとても気に入っているギタリストだ。彼は、いわゆる早弾きのようなテクニックはあまり出さない(ないはずはないと思うのだが)ところが、おそらく「現代的」な個性として輝くのだろうと思う。贅沢な時代なのか、ゆとりある時代なのか、満ち足りた時代なのか。

ビルが、そういうお馴染みの心地よいプレイを繰り広げてくれるのは、ある意味期待通り。今回の作品で特筆すべきは、リズムセクション特にベースのロン=カーターの素晴らしさにある。ジャズを聴く人なら知らない人はいないだろうし、日本でも昔(といっても、もう20年前になりますか)サントリーウィスキーのCMで、渋いベースワークを披露して評判になった。ストーブのよこでお湯割りを飲んでいた眼鏡のおじさんである。

冒頭、ロンのマイルス時代の名曲"Eighty-One"の素晴らしさが、特にそのことをよく表している。途中で繰り出される、ロックンロールのウォーキングベースはあまりにもカッコ良く、ゆったりした世界なのに度肝を抜かれた。ロンはまじめ一本というイメージが強かったが、この作品で聴かれる彼の姿は、まさに「チョイ悪ジジイ」そのものだ。

考えてみれば、ロンも昔からソロでの早弾きよりは、ベースパターンの中から生み出される独特の空間が魅力の人である。その意味では、ビルと長い付き合いになるドラムのポールとともに、ある意味似た者同士で構成されたトリオということができる。狙いは見事に素晴らしい成果を生んでいると思う。これこそコンテンポラリーなジャズの一つのスタイルであり、カッコ良さの象徴といっていいだろう。この作品も幅広い人に強くお薦めしたい。

先の宴会で、このろぐを読んでくれているある人から、「(えぬろぐは)前ふりが時々面白いんだよなあ。本論の音楽の話になると、はっきり言ってわからんよ」と直言されてしまった。まあそうだろうと思うし、僕もそのことは意識している。日常の部分と音楽の話を、分けようかと思ったことも何度かあるのだが、やっぱりこれはこのろぐのスタイルだからと、その都度思いとどまっている。

僕の中にあるものは、僕にもわからない部分がたくさんある。ろぐを書くことは、ごくたまにその部分的な姿を少しはっきりさせてくれる。そしてそれを読んでくれる人がいるのは、とても嬉しいことだ。音楽はこのろぐを続けるうえでとても重要な原動力の役割を果たしていると思う。こうして定期的に書き続けていることが、少なからず何らかの励みになっていることは間違いない。

ひとつだけささやかな想いがあるのだが、それは読んでくれている人の存在が、少しでも自分に感じられることができればという気持ちだ。カウンターはそのためにつけられているわけだが、やはり味気なさは否めない。コメント機能を使っていただいても構わないし、メールでもなんでも構わない。もちろん音楽の感想である必要はない。思いつきでも何かのついででも構わない。

曇り空だが、いい気候の週末になりそうだ。音楽を持って少し出かけてみようと思う。

9/23/2006

パット=メセニー&ブラッド=メルドウ「メセニー メルドウ」

 8月の下旬だったか、久しくご無沙汰になっていた米国アマゾンドットコムからメールが届いた。以前、僕が購入した商品に関連した新商品の発売を教えてくれる内容だった。このところ、円相場は決していい条件とは言えないのだが、お同じ商品でもアマゾンは米国と日本で随分値引率が違う。「予約販売は一律25%引き」につられて、僕はその商品とさらにその関連でレコメンドされた2枚の新作と併せて、3枚のジャズ関連のCDを注文した。先週末に届いたそれらの作品はどれもなかなか聴き応えのある素晴らしい内容だったので、今回から3連続でご紹介してみようと思う。

先ずは、ギタリスト、パット=メセニーとピアニスト、ブラッド=メルドウがデュオで組んだ作品。タイトルは2人の名前を組み合わせたそのまんまである。ジャケットは透明のプラスティックケースに刷り込んだ彼等の名前が、ネイビーと白のグラデーションの上に浮かび上がるようになっているという、なかなか凝ったものになっている。

メセニーについては、僕もかつては大ファンであり、来日公演に3回も足を運んだ程だった。しかし、最近の活動はどうもつまらなく、僕の中では「20世紀で終わったギタリスト」というレッテルが貼られていた。ECMからゲフィンレコードに続いた、一連のメセニーグループの作品は最高だったと思うし、その合間に出されたいくつもの共演プロジェクト(オーネット=コールマン、ジョン=スコフィールド、デイヴ=ホランド&ロイ=ヘインズ等々)も、まったく素晴らしい内容だった。ほとんどの作品はいまでも愛聴盤である。

僕の中で彼が「終わった」のは、世紀の変わり目に発表されたトリオ作品だった。ギタートリオのフォーマットでいままでの様々な作品を演奏するという、いわば「20世紀総括プロジェクト」のような企画だったのだが、これがはっきり言って超つまらなかった。スタジオ盤と2枚組のライヴが発売されたと思うが、購入後即中古屋に売り払った程だった。以降、彼の新作は何を聴いてもつまらないようにしか聴こえなくなった。

実はつい最近、メセニーグループの新作も買って聴いてみたのだが、音楽の濃密さと壮大さは従来の彼等のサウンドより一回りも二回りも進化していたが、僕にはやはりつまらなかった。思い込みというか自己暗示なのかとも思ったが、やはりいったん評価を下げてしまうとなかなか元には戻らない。我ながら恐ろしいことだと思う。さらに自分勝手な感想で恐縮なのだが、僕はやはりメセニー自身も疲れていたのだと思っている。もちろんその作品への気合いの入れ様は大したものだとは思うのだが。

メルドウは意外にも実は今回が初めてのCDである。アマゾンでキース(=ジャレット)の作品を買うと、必ずといっていい程、彼の作品がレコメンドに登場する。今回もそのシステムを使ってCDを買ったので、あまりエラそうなことは言えないが、ああいうシステムはアーチストにとっては有難迷惑な一面もあるに違いない。

僕はキースの作品をほとんど買っているから、メルドウの作品については、一枚も聴いていないにもかかわらず、薦められ飽きたような感情を持つに至ってしまっていた。何とも失礼な話だとは思うのだが、これは偽りのない事実なのだ。

さて、共にかつてはECMの看板アーチストだった2人が組んだ今回の作品は、ECMのライバルといっていいナンサッチレコードの企画によるものである。プロデューサとしてメセニーの名前がクレジットされており、全10曲中7曲が彼のオリジナルで残り3曲はメルドウの作品である。デュオフォーマットで演奏されるのが8曲、そして2曲でベースとドラムを加えた豪華クァルテットという趣向になっている。

内容は非常に素晴らしい。メセニーのギターは相変わらずだが、メルドウとのコラボレーションで引き出される面と、久しく聴いていなかった懐かしさのようなものも手伝ってか、とても素直に僕の耳に入り込んできた。デュオの作品はどれもとても表情が豊かだ。そしてクァルテットの作品も格別にカッコいい。"Ring of Life"の後半では、懐かしの(?)ギターシンセもしっかり登場する。この企画でツアーをやったら、見応え聴き応えはかなり期待できるだろう。僕も是非足を運んでみたいと思う。チケットは相当な値段になりそうだが。

というわけで、自分の中でしばらく評価が下がっていたメセニーと、リコメンドシステムの弊害で不遇だったメルドウ、2人のアーチストに対する僕の印象は、めでたくポジティヴに転換することになった。ちょうどいまの季節に相応しいような、気持ちのいい作品に巡り会うことができたのは幸せだ。そろそろ国内でも発売されてる様なので、いろいろな方に幅広くお聴きになることをお薦めしたい。

9/17/2006

ヴィム=ヴェンダース「アメリカ、家族のいる風景」

 先週はろぐをサボってしまい、日頃読んでいただいている皆様にはご心配、ご迷惑をおかけしました。お詫び申し上げます。特に何か事件があったというわけではなく、以下に書く仕事の関係で週末少しやらなければならないことがあり、そちらの方にかかりきりになってしまっただけのことである。

先週月曜日の夜から水曜日の朝まで、仕事で札幌に滞在した。4年半ぶりの北海道だった。仕事の内容については省略するが、本来は火曜日の朝出発すればいいところを、少しずるをして前日の夕方出発し、その日は自腹で宿泊をした。そこで、僕の幼馴染みである男と久々に食事をするためだった。彼は僕が付き合いのある友人の中では、一番古い友達で、現在は札幌で歯科医をやっている。雇われ身分だといっていたが、市内数カ所に病院を構えるグループでひとつの病院の院長を勤めている。

会食は彼の病院に近い居酒屋で、比較的夜遅めの時間から始まった。彼とはお互いの親のこともよく知っているので、僕の親父の近況も含め、話は先ずそう言う内容に展開した。ちょうど僕は、親父が入院して帰郷した二週間前に、僕の実家のすぐ斜め向かいにある彼の実家に立ち寄り、彼の母親と会話したばかりだった。お互いもういい大人であるので、かなりざっくばらんな話をしたが、それでもやはり隣の家の家族事情というのはなかなかわからないものである。

彼には奥様との間に3人のお子様がいて、いま札幌で楽しく生活をしている。この日はわざわざ僕に聴いてもらいたいものがある、といって、小学校5年生になるご長女の演奏するピアノを聴かせてもらった。発表会かなにかを録音したもので、曲目は僕の知らない作曲家が作ったショパン風の小品だった。正直どう思うかと聞かれて、僕は素直に「非常に上手いと思う」と答えた。予め説明を受けていなかったら、そういう人が演奏したものだとは絶対に思わなかったに違いない。

彼自身はいわゆる「プログレ」の大ファンで、学生時代から独学でキーボードやピアノを演奏していて、その割になかなか上手だった。娘さんがその影響をどの程度受けているのかはわからないが、その近辺では割と有名な先生に指導していただいていることもあってか、とても11歳かそこらの子供の演奏には聴こえなかった。彼はこれからこの才能をどうしたものかと考えているようで、目下の悩みは、本人がピアノをまったく楽しんでいないことだとこぼしていた。よくある話だ、僕は頭の中でそうつぶやき、ビールを一口やって、それをタバコの煙のように口から放った。

お互い明日の仕事のこともあるので、その夜は11時過ぎまで飲んで切り上げることにした。短い時間だったが、充実した一時だった。当たり前の話だが、ちょっとした居酒屋でも出て来る料理はどれもおいしかった。翌日の夜も、仕事の関係ですすき野でごちそうになったが、やはり同じことを感じた。慌ただしくでなく、もっとゆっくりと味わい楽しみたい街だが、今回は仕事目的なので仕方がない。またプライベートで訪れようと誓いながら、僕は札幌を後にした。

この2週間で、僕はいろいろな音楽を仕入れた。本当はそれらについても書いてみたいのだが、今回は先々週の末に自宅で観た映画をとりあげたいと思う。僕の好きなヴェンダース監督の最新作で、原題は"Don't come knocking"。日本では今年の2月に劇場公開され、先月末にDVDが発売された。

脚本がサム=シェパードと聞けば、20年前の名作「パリ、テキサス」を思い出さざるを得ない。今回はシェパード本人が主演もしている。テーマは邦題にもある「家族」であり、その意味で「パリ、テキサス」に大きく通じるものがある内容になっている。「パリ、テキサス」は映画の歴史に残る名作としていまもなお根強い人気を持っているが、今回の作品も負けず劣らずの見応えがあるものに仕上がっている。

内容はいつものようにここでは書かない。実力ある豪華なキャスティングと、テーマを裏打ちするに相応しいアメリカのアメリカらしい情景を捉えたカメラワークは、非常に見応えがある。内容について一つだけ書いておくとすれば、「家族を捜す旅」に一応の決着がついた後、ティム=ロス(「海の上のピアニスト」の人ですね)演じる男と、シェパード扮する主役が交わす会話があるのだが、これがこの作品における大きなメッセージとなって存在感を持っている。ここに描かれている現代的な家族の肖像を、実際の生き様として地で行くのがシェパード演じる男だとすれば、ティム=ロスの役柄はそれを現出する社会的な精神の存在を表現しているように、僕には思えた。その辺のところは、実際にご覧いただいて、皆さんなりに考えてみていただければと思う。

ちょうど「パリ、テキサス」がDVDで再発されたので、この作品を観て感銘を受けた僕は、早速購入した。この3連休のうちにゆっくり観ようと思っている。

この3連休に入る前に、僕はまた一つ歳をとって42才になった。今後もこのろぐは続けていきたいと思っているので、よろしくお願いします。

アメリカ、家族のいる風景 映画公式サイト
Wim Wenders公式サイト(英語)

9/02/2006

ラリー=コリエル&ミロスラフ=ヴィトウス「クァルテット」

 先週末を実家の急用で過ごしたまま、仕事に戻ってようやく1週間が経った。やはり少し疲れがたまったようだ。お昼を過ぎてパソコンの画面に向かっていると、時折強い睡魔がやってきた。あまり満足に仕事がはかどらなかった。

父親はなんと昨日退院したとの連絡があった。声はまだ少し弱々しかったが、しっかりしていた。もう少し病院にいればいいのにと思ったが、最近に医療制度では特に処置をする必要のない人を、病床で預かることができないのだそうだ。日本の単位人口当たりの病床数は、世界的に見ても多いらしいが、それでも足りないという背景には、単に医療制度の問題だけではないもっと深い人間的な問題があるのだろう。

今週末は兄が実家に行ってくれるらしく、来週からはまたヘルパーさんも定期的に来てくれるらしいので、その辺少し複雑な心境ではあるが、そうやっていくしかないのだと自分に言い聞かせた。

さて、このところちょっとしたラリー=コリエルブームになってしまったようだ。彼の参加したCDはそんなにたくさん持っていないが、コリエルの鈍く輝く個性は一度聴き始めると、しばらく尾を引いていくようだ。今回は、おそらく僕が彼の作品の中で最もよく聴いているものをとりあげてみた。

これは全編ラリーとヴィトウスのデュオ演奏が収録されているのだが、タイトルはなぜか「クァルテット」になっている。その答えは、ジャケット下に記載された「ビル=エヴァンスとスコット=ラファロに捧ぐ」でお分かりになるだろうか。彼らの精神を借りながら、あたかも4人で音楽を作り上げているというつもりでやりました、というわけである。

収録されている作品も、"Autumn Leaves"、"Some Other Time"、"Nardis"、"My Romance"等など、エヴァンスのその時代に関連するものを中心に、おなじみのスタンダードばかりだ。そして演奏も、2人の超絶演奏が、あたかもエヴァンス-ラファロのインタープレイのように、見事に絡み合いながら展開してゆく内容。聴くものには極上のひと時を提供してくれる。

作品が発売されてからもう20年近くになろうとしているが、この手の音楽はそう簡単に色褪せるものではない。朝の通勤、休日のお昼寝、家での食事のBGM、夜の一杯のお供と、本当にいろいろな場面でこの音楽を聴いてきた。これからも続くだろう。

発売もとのjazzpointレーベルは、現在も健在なようだが、インターネットなどより中古屋の店頭でたまに見かけるような気がする。最も最近僕自身が中古屋に足を運ぶ機会もめっきり減ってしまった。聴く音楽にはそれほど不自由していないのだが、なぜなのだろうか。

土曜日の真昼間、今日は気温も高めのようだが、蒸し暑さはもうほとんど感じられない。時折吹く風に、ダイニングのカーテンが揺れて、まるでヴィトウスのソロに合わせているように見える。

とりあえず心配事の一部は、解決したようだが、また新しい心配事が増えたようにも思える。年をとるとはこういう一面なのだろう。これから少し太陽の下を散歩し、外でお昼でも食べて帰ったらゆっくり昼寝をしようと思う。

8/28/2006

山下和仁/ラリー=コリエル「ヴィヴァルディ:四季」

 先の木曜日の夕方、会社で仕事をしていると、突然、携帯電話の着信音が鳴った。実家にいる親父が、救急車で病院に運ばれたという知らせだった。最近の父親の様子をある程度知っていたとはいえ、ほんの2週間前に会ったばかりで、その時は思っていたよりは全然元気だったので、報を受けた僕は大層驚いてしまった。

その後、詳しい事情を知っているらしい、叔母と電話がつながり、親父の病状や診断、治療方針等についての担当医師からの具体的な話を知って、ようやく事情が理解され始めた。本人や僕ら家族が知っている病気が直接の原因ではなく、頭の中に小さな出血があって血溜ができ、知らず知らずの内にそれが少しずつ大きくなってくるという症状だった。

確かに、少し前から頭が痛いとは言っていたが、それはいま疑われている別の病気に起因するものと思っていたのに、実際にはそういう症状が進行していたのである。大きくなった血溜は、脳を圧迫し、とうとうそれが具体的な運動機能の麻痺という形で発症したのである。実際、父親からの電話でヘルパーさんが実家に駆けつけてくれたとき、彼はまったく立ち上がることが出来なかったのだそうだ。

僕はすぐにでも実家に戻ろうと思ったが、既に時間が遅く、その日は状況がわかったところで我慢して、翌早朝の飛行機で、妻とともに関西空港に飛んだ。父親は強い頭痛で辛そうな顔をしていたものの、意識はハッキリしており、普通に会話をすることもできたので少し安心した。

叔母と僕達の3人で、脳外科の担当医から症状とこれからの処置(手術)について説明があり、僕はその場でいくつかの同意書にサインをした。CT画像で見ると、頭頂部の両側にそれなりの大きさの血溜があり、手術はそこに穴をあけて、溜まっている血を取り除くという内容だった。

頭部の該当部分の髪の毛を剃り、それぞれの頭皮に5cm前後メスを入れて開き、現れた頭蓋骨に1cm前後の穴をドリルで開ける。そこに血が溜まった部分の硬膜が現れるので、それを破って血を抜くのだそうだ。手術は程なくして午後から始まった。

驚いたのは、この手術を部分麻酔でやるということと、手術そのものが90分程度で終わると医師が言ったことだ。手術と言えば、患者は眠った状態でやるものと、勝手に思い込んでいた僕も古い人間になったようだ。しかも、骨に穴を開けて血を抜いてまた穴を塞いで、頭皮を縫い合わせるという、そんな複雑なことがわずか90分で済んでしまうという。

結局、手術は無事に成功し、左右合わせて300ccの血溜を抜き取られた父親は、きっかり90分後に病室に戻ってきた。感想は聞くまでもなかったが、頭部の痛み以外のほぼすべての意識があるままの状態で、頭蓋骨にドリルで穴を開けられるわけだから、それは生きた心地がしなかったそうである。元々、生きるための治療なのだが。その日は絶対安静なので、無事を確認しただけで病院を後にして実家に戻った。

翌日、病院に行ってみると、傷跡が痛むと言っていたものの、出された食事を旺盛に食べる父親を見て、僕は少し目が潤んだ。本当は、今回のことよりもシリアスな別の病気の疑いがあり、そちらの方が長い目で見て心配なのだが、とりあえず本人が訴えていた頭痛については解決しそうなので、ひとまずは大きく安心した。本当によかった。

そんなことがあって、ろぐの更新が遅れてしまったが、今回の作品はヴィヴァルディの協奏曲集「四季」を、アコースティックギターのデュオでやってしまったという、問題作である。以前、このろぐでもとりあげた山下和仁と、その相手を務めたのが前回のろぐでも登場した、ラリー=コリエルである。クラシック対ジャズのギターセッションと思いきや、意外にも両者の中間点あたりで融和した演奏は見事である。

原曲の第一曲「春」の冒頭を知らない人は少ないだろう。もともとヴァイオリンを前提にした協奏曲なので、バロックから近代に至る時代の作品とはいえ、それなりに技巧的には難しい部分が多い。ましてや、オーケストラのアンサンブル部分も含め、たった2人でそれを演奏しようというのだから、アレンジの方もかなり困難を極めたに違いない。

個人的にはあまりクラシック作品としてこだわって聴く必要はないと思う。ギターデュオという編成の題材として、この作品をどう演奏するのかという観点から、ジャンルを超えたギター音楽の高みを味わうことができればいいのだろうし、もちろんその意味でこの作品が到達している点は、とんでもないところにあるのだし。時に情熱的に、スリリングに、叙情的にと表情を変えていく演奏は、ギターファンにとってはたまらない。

この音楽をiPodに入れて、実家への行き帰りに聴こうと思ったが、やはり往路ではとても音楽を聴く気にはなれなかった。父親のことはいまでも心配ではあるが、とりあえず大きな事態をなんとか乗り越え、以前と変わらぬ食欲で、病院食を平らげる様子をみた後の帰路においては、この曲本来の清々しさを確かに感じることができた。

日曜日まで実家にとどまって、病院との間を往復し、その日の午後からはまた叔母に面倒をお願いすることにして、僕等はひとまず川崎に帰ってきた。和歌山に滞在した3日間は毎日がとても暑かったが、日曜日に新幹線を降りた品川が涼しいのにはびっくりした。まだまだ暑いといっても、やはり秋の気配は確実にやってきている。

8/20/2006

ザ ジャズ コンポーザーズ オーケストラ

 夏休みの帰省中に放映され録画してあった、関野吉晴氏の「新グレートジャーニー〜日本人の来た道:第一弾」を観た。6月末のろぐで紹介した映画「プージェー」の記憶が新しいところだったが、今回の旅の出発点はモンゴル、そこで彼女の死についての話から物語は始まった。番組の内容については省略するが、それにしても、関野氏の度胸というかバイタリティは凄まじい。比べれば、なんとちっぽけな自分であることか。

今回とりあげる作品は、僕にとっては結構長い付き合いのものだ。はじめて聴いたのは、20年くらい前だろうか。最初に買ったのはLPレコードだった。確か、2枚組で通常の見開きジャケットではなく、そこそこ立派なボックスに入っていた。ただし、中古盤だったので盤面には若干のカビが認められたのを憶えている(それだけに値段も安かったのだと思う)。いまでも音を聴いただけで、あのカビ臭さが鼻によみがえって来る。いまはCD1枚になり、僕はいまでも時折この作品を取り出しては、じっくりと耳を傾ける。

その名の通り、この作品はオーケストラものなのだが、内容はいわゆる「フリー」のジャンルに属するものと観なされている。ある程度ジャズを聴いて来た人なら、ジャケットに記載された豪華な参加メンバーをみただけで、瞬時にそれなりの判断を下すことができることと思う。フリー系なのに、タイトルにある「コンポーザーズ(作曲家)」とは何事か、と気に留める人はもはや少ない。しかし、そこは割と重要なポイントなのである。

このプロジェクトで演奏/収録されている作品は、すべて予めマイケル=マントラーによって書かれたスコアに基づいている。マントラーは(おそらくは)楽曲でフィーチャーするソロプレイヤーを念頭に、楽曲の全体構成とオーケストラアンサンブルを用意したのである。当時使われたスコアの一部は、アルバムのライナーノートとともに収録されている。

オーケストラは管楽器のアンサンブルと、ベース、ドラム、ピアノからなる、いわゆるジャズオーケストラである。ただし、ベースだけはすべての曲で常時5人の演奏者が参加している。ロン=カーター、エディ=ゴメス、チャーリー=ヘイデン、レジー=ワークマン、スティーヴ=スワロウ等々の蒼々たる顔ぶれを見れば、このプロジェクトに託された当時のジャズアーチスト達の意気込みが相当なものであることがわかるだろう。

そして、収録された5つの楽曲に登場するソロプレイヤーは、セシル=テイラー、ドン=チェリー、ラズウェル=ラッド、ファラオ=サンダース、ラリー=コリエルという超豪華版。マントラーが解釈し綿密に作曲した、フリージャズの要素から構成されたアンサンブル演奏の上を、彼等のインプロヴィゼーションが縦横無尽に疾走する。安易な「即興大会」では決して味わうことの出来ない、極上の音楽表現に邂逅することが出来る。

はじめてこの作品に触れる方は、先ずは半ばに収録されている、ファラオをフィーチャーした小作品"Preview"をお聴きになることをお勧めする。そのタイトルが象徴するように、わずか3分半の演奏のなかに、このプロジェクトの音楽的構想のすべてが見事にまとめられている。もはや一切の説明は不要だろう。あとは最初から作品を聴いてみればいいと思う。当たり前だが、その作品も夢の様な素晴らしさに溢れている。

面白いのは、その作品を除く他のすべてのタイトルが"Communications"という名の連番作品になっていること。非常に基本的なことではあるが、単純に「フリー」と呼ばれるだけの軽々しさや安易さではなく、こうした音楽においても、またそうでない音楽においても、集団演奏そのものの根本的な目的や本質が「コミュニケーション(=交感)」にあることを再認識させてくれる。

音楽演奏は、それが何の楽器であれ何のジャンルであれ、すべて常に自分の外に向かって行われるもの。そしてその際、同時に演奏者は自分に向けられる音楽表現に対しても開かれた態度を持っていなければならない、ということだろう。恐らくは、音楽表現に限ったことではないと思うのだが。

ライナーノーツとともに収録された、レコーディング時の写真集もとても興味深い、なかでも有名なのはジャケット裏に掲げられた、セシルが演奏するピアノの譜面台を撮った1枚である。そこに何が置かれているのかは、ここには書かないでおこう。

蒸し暑い毎日が続く。どうか皆様、体調を崩すことなく、毎日の交感を楽しんでいきましょう。

8/16/2006

チック=コリア「スリー クァルテッツ」

 短い帰省の合間に、以前活動していたバンド仲間と大阪梅田で再会した。4人全員が会するのは、何年ぶりだろうか。とにかくよく飲みよく語り、結局最後まで一緒だった人とは、夜中の2時まで飲んでいた。外でこんなに遅くまで飲むのも、数年ぶりだと思う。

このところ、各メンバーの仕事や家庭の事情からなかなか活動ができず、自然休止のような状況になっている。今回集まってみても、やはり再開しようという話は盛り上がる。僕個人のことを考えてみれば、仕事の状況は以前よりも忙しくなっている。まあ、それはなんとかなりそうだと思うのだが、楽器の腕はかなり挽回する必要がありそうで、さらに耳だけはどんどん肥えていくので、その辺の割り切りがどこまでできるか心配なところではある。

梅田の街は華やかだった。一時は東京と変わらなくなったかなという気もしたけど、今回訪れてみて、やっぱり違うなあと感じた。自己主張とそのセンスの良さという点では、東京に比べてはるかに活気がある。人々の服装や、お店の内外装、飲み物や料理に至るまで、それなりの主張をしている割合が高いように感じる。僕は好きな街だ。

音楽活動の再開について考え、まあみんなで楽しくわいわいやろうやと、割り切って考えないとなあと思う反面、自分の耳が聴きたいと欲する音楽はそうでないのは辛いところである。今回の作品も、帰省する直前あたりから思い出したように聴き直しているものだが、帰りの新幹線でこれを聴きながら、音楽活動のことを考える自分は、どこかで分裂していた。

チック=コリアは、どちらかというとコンポジションやアレンジメントという意味での、才能が光るアーチストだろう。彼の作品から評して「メロディーメイカー」と呼ぶには、やや失礼かなと思う。かなりしっかりとしたスコアとして作り込まれた音楽のなかに、優れたインプロヴィゼーションを引き出す良質の温床が用意されているのだと思う。演奏者には、複雑なハーモニーやリズムからなるテーマを元にした、アドリブが要求される。

彼の活動の中で最も人気があるのは、おそらく「リターン トゥ フォーエヴァー」と呼ばれる一連のものだろう。だが僕はその作品を1枚も持っていない。楽器、特にピアノやキーボードを演奏する人には、熱烈なファンも多いが、即興演奏の要素が強いものを好む僕自身の耳には、あまり合わないようだ。

今回の作品は、チックがその活動に終止符を打ち、よりモダンジャズの色彩が強いスタイルの音楽を求めるなかで生まれた作品である。タイトルの通り、サックスを中心にしたクゥアルテットを念頭に書かれた、3つの(実際には4つだが)作品が収録されている。僕にとってチック=コリアの最高傑作は未だにこれだ。

マイケル=ブレッカー、エディ=ゴメス、スティーヴ=ガッドにチック本人で構成された、超モダンクゥアルテットに最適化された音楽は、いずれも超強力な内容。アドリブパート以外はかなり細かいスコアが用意されていると思うのだが、そうした枠や制約を一切感じさせず、ひたすら広がりを感じさせる演奏内容は、やはり演奏者達の卓越した力量だろう。

クレジットにはこの作品を完成させるに際して、インスピレーションを与えてくれたアーチストの名前が列挙されているが、マイルスやショーターなどジャズの巨人達に混じって、ベートーベン、バルトーク、ベルクらの名があるのもチックらしい。そしてそこにアンソニー=ブラクストンの名前がないのも.やっぱりそうなんだなあという実感がある。

CD化に際して、このレコーディング時に余興的に演奏された新曲のスケッチなどがオマケで収録されているが、ライナーノートでチック自身が「本編とのギャップがありすぎるので、収録しようかどうか最後まで迷った」と書いてある通り、いま考えてみてもあまり価値のないものである。僕自身は1、2度聴いてみたが、以降これらのトラックを聴くことは無い。

以前、知り合いに音楽好き女性がいて、この作品について面白い話をしてくれた。その人もジャズやクラシックなどいろいろな音楽を聴いていて、一緒に暮らしていた母親も大抵はそういう音楽を一緒に聴いていたらしいのだが、この作品を流すと、決まってその母親が狂ったように「止めてぇ止めてぇ」と懇願したのだそうだ。どうやらブレッカーの咆哮が、お母さんには堪え難かったらしい。まあわかりたくはないが、わからなくはない話だ。

この恐るべき傑作を聴きながら、僕は自分の楽器をじっと見つめてみたが、聴いている間に楽器に手を伸ばすことはなかった。

Chick Corea 公式サイト

8/05/2006

マイルス=デイヴィス「キリマンジャロの娘」

 この数日間、段階的に毎日気温が1,2度ずつ上昇し、先週半ば過ぎあたりから熱帯夜になった。その後も気温は上がり続けているように思う。これを書いている8月5日土曜日の午後、おそらく外の気温は34度くらいあるだろう。真夏だ、今夜はビールをしこたま飲もうと、樽型の生ビールを仕入れて冷蔵庫に冷やしてある。それを飲む前に、ろぐを書いてしまおう。

このところ仕事でかかりっきりになっていたレポートを書き上げた。国内のインターネット市場動向関する内容なのだが、しばらく見ていないうちにずいぶんと市場は深く広くなった。ここ数年に誕生した若い企業の動向をいくつもとりあげた。なかには最近上場を果たした企業もある。時代の変化を感じないわけにはいかない。

企業を永遠に存続させるなどというのは、まったくもって迷惑な幻想だろう。営んでいる事業の中味を時流に合わせる努力は必要だが、それがどうしても合わないのなら、いっそやめてしまう潔さも必要だ。それが何か他の理由でできないというなら、働いている人は決して幸せではない。規模の大小に関わらず、いまそういう(あるいはそうなりかけている)企業が多いように思った。

暑いと軽快で爽やかな音楽が聴きたい、と思うほど僕の耳は素直ではない。まあそもそも軽快で爽やかなとは、一体どういうものかが人によって違うということなのだろう。ラテンやレゲエ、あるは前回とりあげた沖縄民謡は確かにそうなのかもしれないが、少し前にとりあげた津軽三味線はどうなのか、あるいはクラシックと呼ばれるジャンル(この呼び方もそろそろ整理して再考した方がいいと思う)では、何がそうなのか、などと考えているうちに、どうでもよくなって、いま自分が聴きたい音楽は何かなと本能に問うてみた結果が今回の作品につながった。

ちょっと怪しげで怖いジャケットは、当時のマイルス夫人のポートレートを2重撮りしたもの。右目と左目が重なるようにあしらわれ、全体に赤いフィルターがかけられている。なかなか夏らしいジャケットである(笑)。タイトルはフランス語のオリジナル"Filles de Kilimanjaro"の直訳。どういう真意があるのかはわからないが、単純に「アフリカ美人」という程度の意味に考えてよさそうだ。そう考えると、少しは暑さと縁のある作品なのかもしれない。

この作品に対する評価を少しネットで見てみると、「迷える名作」とか「過渡期の云々」などと奥歯にものの挟まった様な「けなし」が多いことを知って少々驚いたりもした。「あんたらアホか、どんな耳しとるんじゃ」と素直に言っておきたい。この作品は掛け値なしの大傑作である。

収録された5曲のうち3曲が、マイルスと、ウェイン=ショーター、ハービー=ハンコック、ロン=カーター、トニー=ウィリアムスからなる、いわゆる「黄金のクィンテンット」による演奏。2曲でピアノとベースがそれぞれチック=コリア、デイヴ=ホランドに替わるが、録音された時期は3ヶ月程の間隔しか開いていない。ピアノはいずれもエレクトリックピアノで、デイヴはエレキベースを演奏している。

1曲目"Frelon Brun"の出だしに興奮するかどうかで、この作品に対するその人の評価はほぼ決まる。暑さや寒さのような自分のいまいる場所の空気を、一瞬にして忘れさせて、どこか真空の世界にひき込まれるようなこの陶酔を味わえる人は幸せだ。このアルバムで重要なのは、まさにこの最初の空間移動(ワープ)である。これがないと、以下に続く楽曲で起っていることがわからずに、退屈な思いをすることになるだろう。

面白いことに、音楽のテンポが少しずつ緩んでいくような順番で、5つの曲が配列されているように思えるが、テンポに関わらずスタジオに張りつめた緊張感がそのまま伝わってくるところが、この作品の魅力なのだろう。4曲目のタイトル曲のテーマが持つ美しさと厳かなイメージは、確かにキリマンジャロである。そして、その名にふさわしいマイルスそしてショーターのソロはまさに絶品だ。

不思議なテンポとリズムを持つラストの"Mademoiselle Mabry"は、リラックスを促されながら「ただし、息をしちゃダメよ」と言われているような作品。16分間の無呼吸はさすがに無理だが、ここに至って訪れるのはまさに究極のチルアウト(chill-out)だ。消え去った4ビートジャズの後の真空に、新たな音楽が生まれた瞬間である。

サブタイトルに有難く添えられている"Directions in music by Miles Davis"というのが、当時のレコード会社の心境を表しているようで、どこか哀れな気もする。明らかに彼等はこの内容に自信がなかったのだろう。無理もない、「黄金のカルテット」ではない若い(しかも白人の)メンバーが2人加わっているうえに、エレキピアノとエレキベース、しかもリズムはもはやどの曲も4ビートではない。一見、カッコいいコピーにも見えるが、僕にはそういうふうに思える。

新しいものが生まれ、育つ。その瞬間はいつの時代にもあることだ。それは決して恣意的なものではなく、むしろ必然である場合が多い。時代はそれを阻害してはいけない。そして、老体は自分の価値観や力に宿る影響力を常に自覚し、それが及ばぬことを悟ったら、素直に自分の役割を譲る必要がある。マイルスの様な例は、多くの人にとって憧れではあるだろうが、極めて稀な存在であることは認めるべきことだろう。

7/30/2006

「登川誠仁&知名定男」

 梅雨明け。ようやく夏である。とても気分がいい。人々の開放的な格好も、何かやっと季節にマッチした感がある。いくら蒸し暑くて半袖Tシャツやショートパンツでも、やっぱり太陽の光がないことには、どうもファッションとして輝きがない。いまそれが、やっと本来の姿になれる時節である。

いままで、どちらかというとショートパンツは敬遠してきた。最近はそれが抵抗なくなってしまった。個人的には職場でもショートパンツをはいていきたい気分だが、いくらカジュアル志向の僕でもさすがにそれはまだできない。その点、女性はいろいろな格好ができて、まったくうらやましい限りである。

前回とりあげたスティーヴ=コールマンの新作は、正直もうあまりに素晴らしい出来ばえだ。ここしばらく毎日あれを聴いている。確かにコールマン独特の少し複雑な音楽かもしれない。しかし彼の音楽は実際に耳に馴染むと、それがいろいろな意味での自然の要素に満ちあふれていることも事実である。慣れてしまえば嫌味どころか、旨味ばかりが次々に出てくる。

もはやジャズという言葉は陳腐だろうが、あの作品はモダンジャズをルーツにした音楽としては、近年まれに見る傑作であることは間違いない。前々回の末尾にも書いたが、彼の作品は一度入手できなくなると、なかなか苦労するので、未聴の方は是非とも早めに入手されることをお勧めしたい。

今回は梅雨明けを祝って、やはり最近になって購入した僕が大好きな邦人アーチスト、登川誠仁の作品をとりあげたい。タイトルの通り、この作品は誠仁に見出された現代沖縄民謡の巨人、知名定男とのジョイントアルバムである。2人が出会ったのが1957年というから、もう半世紀ということになる。

前回このろぐでとりあげた「スピリチュアル ユニティ」とは異なり、今回の作品に収録されているほとんどの演奏は、沖縄民謡の基本スタイルであるところの、三線と唄だけで演奏されていて、セイグワー(誠仁の愛称)とその一番弟子知名による現代の沖縄民謡の神髄が存分に味わえる。本当に深い深い音楽である。

収録されているのは、沖縄民謡とそれを元にした作品が中心である。唯一、新たにやまと言葉(標準語)の歌詞がつけられた「十九の春」は、うらさびしい三線に乗せて交わされる、男女の心の吐露がもの哀しい。そして、「油断しるな」「豊節」「新デンサー節」など、誠仁の代表的オリジナルもしっかり楽しめる。

ユニークなサビを持つ「前当小の主」もその一つ。実話に基づいた歌詞らしいが、小気味よいサビとは裏腹に、対訳を読んでみると意外なリアリティに驚かされたりもする。誠仁が相当な女好きであることは、歌詞やライヴの合間の語りなどでも疑いはないが、誰がなんと言おうと、やはり人の元気の源としてとても大切なことであるには変わりないのだ。

曲によっては島太鼓や琉琴などが入って、音楽の奥行きを加える。特に島太鼓の存在は、これまたとても味わい深いもの。なんというか、いわゆるスウィングとは正反対に、ただでさえ遅れ系(タメ系)の沖縄音楽のリズムを、いっそう際立たせるのだ。しかも、それは決して派手な演奏にはならず、リズムの最も重要なアクセントだけを、高低2つの太鼓で核心を優しくように撫でるように押さえていく。まさに「心の太鼓」である。沖縄音楽では先ずは三線が注目されるが、島太鼓はそれに劣らぬ重要な役割と、深い魅力を持っている。この作品では、収録曲のほぼ半分で島太鼓がたっぷり楽しめるのも嬉しい。

「挽物口説〜唐船ドーイ」は、2人に加えて吉田康子の唄と三板が加わり、誠仁の唄と島太鼓、知名の唄と三線が終盤にかけて三つ巴で盛り上がる様は、アルバムを締めくくるにふさわしい見事な演奏。これぞ沖縄音楽の醍醐味である。フェードアウトになっているのがもったいない位だ。

もうすぐ8月。沖縄ではそれがもう少し長いのだろうけど、梅雨が明けてお盆過ぎまでという本土の夏本番というのは意外にも短い。紫外線対策などとばかりいわずに、誠仁らの音楽を聴きながら、太陽とはしっかりつきあっておきたい季節である。

7/22/2006

スティーヴ=コールマン「ウィーヴィング シンボリクス」

 久しぶりに少し長めの散歩に出かけた。自宅がある川崎の中原区から多摩川にかかるガス橋を渡り、環八通りを渡って大田区池上を経て、JR大森駅まで足を伸ばした。大森駅東側の商店街にある「食堂富士川」でお昼を食べた。ここはいろいろな種類の定食が500円前後で食べられる、とてもよいお店だった。僕はミックスフライ定食(520円)、妻は刺身盛り定食(600円)を食べた。隣にある同じ名前の居酒屋も、非常に興味をそそられるメニュー(花咲ガニが1パイ780円と書かれていた)と雰囲気だったが、残念ながらまだ開店していなかった(午後3時では無理もない)。

満腹になったので、居酒屋はいずれということにして、さらにそのままJRの線路沿いに歩いて、隣の蒲田駅まで歩いて行くことにした。このあたりの道は毎朝通勤電車から眺めている景色なので、とてもなじみ深く感じられる。蒲田に着く途中、日本工学院付近で町内を流れる呑川沿いを歩くのだが、川のあまりの汚さと悪臭に2人で閉口してしまった。

川沿いに建てられた小さな一軒家に「オープンハウス」のノボリが建てられ、販売会社の人と思われる男性が、僕らに「どうぞ中をご覧になってください」と笑顔で話しかけてくれたのだが、僕は思わず無視して反対側の川面に目をやり「きったないなあ、この川」というのが精一杯だった。あれでは、とても人の住むところではない。

このところの雨のせいもあるのだろうが、いつも通勤の車窓から眺める川が、最近だんだんと汚くなっているように気がしていた。たまたま実際に川沿いを歩いてみることになったわけだが、正直ここまでひどいとは思わなかった。少し前まではコイが泳ぐ川だったらしいのだが。付近のおじさん達も足を止めて、悪臭の立ちのぼる川面を心配そうに見つめていった。

JR蒲田駅について、トイレ休憩をかねて少し駅ビルのお店をぶらぶらした後、結局そのまま東急目黒線沿いに歩いて帰ることにした。駅の西側の商店街ではお祭りをやっていて、わけもわからず人だかりに並んでみたら、冷えた発泡酒を1本ずつくれた。気前の良さに嬉しくなったのだが、もはや商店街で食べたり買ったりするものがなにもなかったので、少し申し訳ない気がした。

少し雲行きが怪しくなったりもしたが、なんとか雨は降らずに済んだ。武蔵新田を過ぎて多摩川沿いに出ると、空が開けて気持ちがよかった。この川沿いでは、いつものようにいろいろな人が思い思いに時間を過ごしている。そのまま下丸子の「オリンピック」で夜の食材などを買って、再びガス橋を渡って自宅にたどり着いた。距離にして十数キロだったが、曇り空にそこそこ風もあって、美味しい定食も食べられ、不快な景色もあったが、全体としては快適な散歩だった。

前回のろぐでも少し触れた通り、今回はスティーヴ=コールマンの新作をとりあげる。フランスのラベルブリューへの移籍第1弾となった大傑作「レジスタンス イズ フュータイル」から4年、早くも同レーベルで4作目の作品になる。ほぼ1年に1作というペースは、ジャズミュージシャンとしては決して珍しくはないのだが、彼の場合、常に複雑なオリジナルを中心に、毎回新しい音楽を盛り込んだ作品ばかりで、それを考えれば、僕にはかなり驚異的なクリエイティビティだと思われる。

「レジスタンス〜」が、それまでのスティーヴの音楽を総括したライブ演奏集だったのに対し、それに続く2作はスタジオ録音で、しっかりと新しい音楽のスタイルを追求して来たような印象があった。伴奏からピアノがなくなったり、新しいスタイルのヴォーカルを取り入れるなど、表面的な変化ももちろんだが、作曲のスタイルが、従来の作品に比較してさらに複雑にかつ洗練されたものになってきているようだ。

今回はスタジオ録音で2枚組という大作になっており、内容は極めてエキサイティングである。これほどまでに新しいジャズ、新しい音楽が連続して出てくる様には、ただただ圧倒されるばかりだ。前々回とりあげた「サウダージ」ももちろん良かったが、僕としては今回の作品が最近のベストアルバムだと思っている。もう何回聴いたかわからないが、19曲の演奏は大きな興奮のうちに過ぎ去る。

編成はソロ、デュオ、トリオから、ブラジルのリズム・アンサンブル・トリオ「コントラ」を含む11人編成のものまで様々だが、そうした異なる編成を使いながら、同一のモチーフを使った曲を多面的に展開したりしている。特に「リチュアル」と題された5つのヴァリエーションは、現在のスティーヴが持っている音楽観を非常によく反映したものだと思う。

スティーヴ含めそれぞれのメンバーの演奏は、超一流の最先端ジャズを存分に楽しませてくれる。特に今回注目されるのは、後半で素晴らしいソロを聴かせてくれるギターのネルソン=ヴェラス、そして韓国人女性ヴォーカルのジェン=シュユも、スティーヴの作品が求める非常に幅の広いヴォーカルを、個性的に聴かせてくれる。さらには、現在ブランフォードのグループを支えるリズムの重鎮、エリック=レヴィスとジェフ=ワッツによる2曲のサックストリオ演奏は、やはり圧巻の出来映えである。とにかく聴き所がいっぱいのアルバムなのである。

そして、一番驚いたのは、今回のディスクがそれぞれCDとDVDを片面ずつに収録したものであるという点。どういうことかというと、1枚のディスクの片面がオーディオCD、裏がDVDになっているのだ。1枚目には、スティーヴが自身の音楽について語るロングインタビューを収録、2枚目にはブラジル録音のリハーサル中に収録された、スティーヴとドラムのマーカス=ギルモアによる"Littele Willie Leaps"のデュオセッションが収録されている(輸入盤ではジャケット裏の最下段に小さく記載があるだけなので注意)。

とまあ、いろいろな意味で驚くことばかりの作品であるのだが、よくまあこれだけ次々と新しい音楽やそれにとどまらない試みをやれるものだと、本当に感心させられる。それは決して音楽的な創造性の問題だけではないだろうと思う。スティーヴはやりたいことが本当にたくさんある人なのだが、彼が凄いのは、それを着実に実現していくところにある。

今回のようなCD−DVDでのリリースは、レーベル会社やディスク製作サイドからすれば、非常にイレギュラーな案件だろう。企画を聞かされた段階で、それをビジネスベースで前向きに捉えられる人がどれほどいただろうか。スティーヴはそれをちゃんと説得して実現し、しかも、その間にはブラジルまでメンバーを引き連れて、コントラを含むセッションをレコーディングしたり、欧米を中心に演奏活動や音楽理論の教鞭をとったりしているわけである。

このあたりのタフネスが、彼の素晴らしい音楽を支える根本にあることは間違いない。少しでも良いから自分も見習わねばと思う。ともかく、早く来日公演を観たいものだ。いまの僕だったら、仕事を休んでもすべてのセッションにつき合ってもいいと思う。

M-Base Web Site Steve Coleman公式サイト

7/16/2006

高橋竹山「津軽三味線」

 蒸し暑さが続くようになった。少し前までは昼間は暑くても、夜になると涼しい空気が降りて来ていたものだが、先週あたりから、東京は熱帯夜となってしまった。この時期、仕事から帰って自宅の扉を開けると先ず感じるあの熱気、忘れたくても忘れられない感覚である。とうとう寝室だけでなく、居間でもエアコンを使い始めた。

このところ、少し仕事の方が落ち着いているせいか、音楽から得られるものが多い様に思う。前回のトリオ・ビヨンドはその後何度も聴いているが、あれはまったく素晴らしい演奏である。ECMレーベルにおけるディジョネット作品の中でも、抜きん出た素晴らしさだと思う。ギターファン、オルガンファンも含め、多くの音楽好きにお薦めしたい作品である。

先週の始めに、スティーヴ=コールマンの待望の新作2枚組がようやく届き、既にiPodでヘヴィーローテーションと化している。2回通して聴いたあたりから、満足笑いが止まらない状態になった。味覚では「ほっぺたが落ちる」、視覚では「目が釘付けになる」などというが、音楽の場合はなんと言うのか。ともかく素晴らしい。これについてはなんとか興奮を抑えつつ、次回のろぐでとりあげることにしたいと思う。

一つだけ先に言っておくとしたら、スティーヴの作品は国内では一度逃すとなかなか入手が難しくなるので、気になっている人はさっさと手を打っておいた方がいい。因みに僕は、値段に目がくらんでいつものカイメンで購入したのだけれど、久しぶりにかなり(ほとんど1ヶ月ほど)待たされる結果となった。

さて、前々回にフラメンコをとりあげたが、実はそれに前後して、手持ちのコレクションにあるワールド系の音楽数点にも手が伸びていた。どれもいずれこのろぐに登場することになるだろうという名作ばかりだ。その中に、わが邦楽を代表する津軽三味線の名手、高橋竹山のベスト盤がある。今回はこれをとりあげてみたいと思う。

以前、このろぐで尺八に関連する作品をとりあげたことがあり、確かその時に書いたかと思うのだが、自分が純邦楽を好んで聴くようになるとは、若い頃には想像もつかなかったものだ。いま聴いてみると、尺八も琵琶も琴も、そして三味線も、こんな素晴らしい音楽はないと素直に感動するばかりである。

音楽でも仕事でも、そして人物でも何でもそうだと思うのだが、早く経験するということにそれなりの有効性はあるとは思うが、必ずしもそれが最良の生き方とは思わないというのが、最近の実感である。それよりも、常日頃から重要なものに巡り会うべく感性を高め、巡り会うための行動を惜しまず、そして、その巡り会いを大切にしてそこからできるだけ多くのものを引き出す努力をする、そういう姿勢が大切なのだろう。

高橋竹山は1910年に生まれ1997年に没した。生まれて間もなくかかった病がもとで、視力をほとんど失い、やがて津軽三味線の門下に入った。戦後の日本において、津軽三味線の芸術を日本全国から世界にまで拡げた大功労者である。演奏はレコードをはじめ映像などもいろいろな形で残されていて、僕らはいまそれらを通して竹山の芸術に触れることができる。

今回の作品は、彼がビクターに残した演奏の記録からベストと思われるもの14曲を収録したものらしい。僕はまだこのCD以外で高橋を聴いたことがないので、あまり軽々しくは書けないのだが、内容の素晴らしさは少し聴いただけですぐに共感できるはずである。特に津軽三味線のすべてが盛り込まれたといわれる、冒頭の「津軽総合独奏曲」の素晴らしさは圧巻である。メロディー、ハーモニー、リズム、そして三味線の音色という、音楽の基本的要素のすべての面で強烈なメッセージが伝わってくる。

二代目の高橋竹山や少し前に人気の出た吉田兄弟のように、ジャンルを超えた三味線音楽への挑戦はもちろん素晴らしいことだとは思う。しかし、僕はいまはそういう演奏には興味がない。なぜならそれらは三味線本来の魅力を世に伝えるものとしては、僕にはとても中途半端に思えるから。僕が聴きたいのは、混ぜ合わされたものの源流にある音楽だ。

三味線は習得するのが難しく、芸としてはきわめて厳しいものと言われることもある。それ故に、津軽の気候や風土の厳しさを重ねることもできるかもしれないが、実際には、お囃子やお祭りなど楽しみの感情が音楽の本質になっている。だから身を入れて耳を傾けてみると、気持ちが楽になり力が湧いてくる様になるのだ。たまに通勤の行き帰りに耳にしてみると、これが不思議と心にまで響いてくるから面白い。

蒸し暑い夜、エアコンを少し効かせた部屋で独りこの作品に耳を傾けてみる。ほとんど何も進めず、何も残していない自分がそこにいる。世の中はいつも、その時々のやり方で厳しく難しいものである。でもそれをしっかりと楽しむことが重要なのだ。

7/08/2006

トリオ・ビヨンド「サウダージ」

 比較的忙しい1週間だった。最近の僕にしては珍しく、夜の宴も3件あった。仕事は少々綱渡り的なところもあったが、なんとか無難にやり遂げた。自分たちの成果を記事にしてくれるという、新聞向けの参考資料をつくったり、自分の考えをプレゼンして、ディスカッションするという内容だった。新しい人との出会いなどもあり、新しい何かを期待できそうな側面もあった。自分の意見を持ったうえで、それをベースにいろいろな人と交わるというのは、とても大切なことである。

夜の宴の方は、それぞれに個性のある内容で、楽しい思いをさせてもらった。金曜日の夜に開催された男3人の飲み会では、清澄白河にあるどじょう鍋の老舗「伊せ喜」に行った。あの付近にいまも多く残る、江戸の文化を伝える老舗料理屋らしい雰囲気が新鮮に感じられ、広い相座敷で名物の「どぜう鍋」や柳川、鯉のあらいなどに舌鼓をうった。どじょうを食べるのは2回目だったが、あれはなかなか美味しいものだと思う。こういうものは食べられる機会に行っておいた方がいい。値段がやや高いのが気になるが、味や雰囲気は大満足だった。

今週は、久々にジャズの新作を聴きまくった。ジャック=ディジョネット、ジョン=スコフィールドに、オルガンのラリー=ゴールディングスを加えて結成されたユニット「トリオ・ビヨンド」が、2004年11月にロンドンに出演した際の模様を収録した2枚組ライヴアルバムである。

このユニットは、ジャックの呼びかけで結成されたもので、今は亡きジャズドラマー、トニー=ウィリアムスへのトリビュートとして企画された。従って、演奏されている内容もトニーに因んだ曲が多く含まれている。トニーについては、2年程前に一度このろぐでとりあげた。今回の企画も、特にトニーがマイルスの元を離れて、はじめて自己の音楽を追求したユニット「ライフタイム」をテーマにした内容になっている。

僕としては、企画の主旨だけで、これはもう聴かないわけにはいかないと思った。オルガントリオという編成になっているのも、非常に興味をそそられるところだ。音楽表現において特に個性とその発展に重きを置くジャックの様な人にとっては、やはりトリオというのは最も理想的な編成なのだろう。実際に音を聴いてそれが一番はじめに納得した点である。

マイルスグループに在籍し、その後自己のグループを結成したという意味で、2人のドラマーは共通の経歴を持っている。表面上の音楽性はかなり異なる(というかジャックの活動があまりにも多岐多様なのだが)ものの、それぞれのドラマーとしての強烈な個性を中核に、様々な演奏家とのコラボレーションを繰返しながら、着実に名作を積み重ねていった点も同じである。

ただ、やや残念なことに、トニーのライフタイムに対する評価については、正直まだ少し定着していない様に思えるのだ。ここ最近になって、ようやく当時の作品が復刻発売されるようになってきている。その意味で、いまこの時期にジャックがこうした主旨の企画作品を発表したことは、僕個人としても嬉しい気持ちで一杯である。

演奏内容の素晴らしさについては、もはやコメントの必要はないと思う。別にジャックがトニー風に叩くわけでもなく、いつものマジックが2時間弱のステージでたっぷり展開される。おそらく2部構成のステージをほぼそのままの形で収録したのだと思う。数回聴いたいまの時点では、2枚目に収録された最後の2曲、コルトレーンの"Big Nick"、そしてトニーの"Emergency"の聴き応えが特に気に入っている。

いろいろな意味で表現における「個性」というものの重要性と難しさについて、考えさせられた作品である。個性は確かに難しいものになりつつある様に思える。しかし、その基本は常に単純なものでもある。おそらくそれは音楽に限ったことではなく、いろいろな人間の営みに共通するものに違いない。
 

7/02/2006

ファン=マニュエル=カニサレス「ノーチェス デュ イマン イ ルーナ」

 あっという間に1年の半分が過ぎた。振返ってみると、世の中の出来事としてはスポーツのイベントを中心に、そして僕自身の仕事やプライベートでも「世界」というものを意識することの多かった半年だったと思う。

インターネットで世界は身近になったというのは本当だと思うが、依然として世界の壁は厚いものでもある。これまで遠かった世界のことを知るのが容易になった一方で、身近な世界の姿が深みを増したり、時にはそれがねじれたりしている様にも思える。そういう意味では、地球のいろいろな場所という意味の「世界」と、一人の人間の中に築かれていく「世界」という、2つの世界の相対的な距離は、あまり変わっていないのかもしれない。

僕はいまのところ積極的に海外に出かける方ではない。それが僕の中にある一つの限界を生み出してしまっていることは、僕自身もよくわかっている。そして、それがある種の苦手意識の結果として出て来ているものであることも、もちろんわかっているのだが、だからこそ自分では別の意味で「世界」を深める努力をして来たつもりだ。インターネットはその意味での道具として、本当に多くのものを僕にもたらしてくれた。だから僕はこれが大好きなのだろうと思う。

しかし、インターネットに限らず、所詮道具というものは、行動につなげて初めて意味があるものだ。僕のインターネット活用も、その意味ではそれがいろいろな行動につながっているから、充足感が得られているのだと思う。逆に、最近ちょっと手が遠のいてしまっているベースのことを考えると、反省ひとしきりである。あんなもの、傍らに置いてるだけでは何にもならないのだ。

さて、少し前のろぐで、妻の職場の同僚で、会社勤めの傍ら、フラメンコのバイレ(ダンサー)として、自己の世界を追求している人について触れた。今度その彼女が会社を辞して、フラメンコにさらに近づくべく、スペインのアンダルシアに向けて旅立つことになったのだそうだ。

僕自身は、彼女にはあの時の公演以外には2、3回お目にかかった程度だった。妻とはいずれ家にでもご招待して、ゆっくりお話でも聞かせてもらおうよなどと言っていたところだったので、少し残念ではあるが、(僕にはとてもできそうにない)大きな決断をされたことには、ただただ敬服するばかりである。短い旅行に行ってどうなるというものでもないだけに、長い滞在の安全と、何かが掴みとれることをお祈りしたいと思う。

そんな旅立つ人へのお餞別の意味を込めて、今回は僕が大好きなフラメンコギターの作品を選んでみた。ファン=マニュアル=カニサレスは、1966年生まれというから、今年で40歳になるフラメンコギターの名手。若い頃から頭角をあらわし、現代の巨匠パコ=デ=ルシアとの共演を10年間以上続けるなど、早くからその世界では名が知られてはいたが、そこはヨーロッパの伝統らしく、フラメンコの世界も極めて層が厚い。少し名が知れたからといって、そう簡単に若手が一人前扱いされる世界ではない。

今回のアルバムのタイトルを直訳すると「イマンとルナの夜」という意味。1997年に発売された、31歳の若きカニサレスによる記念すべきソロデビュー作である。イマンは「磁石」、ルナは「月」という意味がある。ともに長く大きな航海に出るうえで、欠かすことのできない大切なものである。長い修行を経た後、一人前のフラメンコギタリストとして独り立ちしようとする、カニサレスの決意がタイトルに込められているように思える。

そして彼のその決意は、この作品に収録された全8曲のすみずみに余すところなくみなぎっており、新しい時代のフラメンコギターの魅力が満喫できる。とりわけ素晴らしいのは、やはりアルバム冒頭の"Se alza la luna"(昇りゆく月)である。作品中唯一のギタ−独奏曲であるこの演奏は、タイトルにも表されているように、独り立ちに向けたカニサレス自身による強烈な決意表明である。

ザパテアード(フラメンコのリズムの1種)をベースに、細部に至るまでしっかりと計算された構成だが、フラメンコの醍醐味である即興性に基づく緊張感は、繰返し何度聴いても損なわれることはない。冒頭で静かに昇り始めた月が、確実な足取りで次第に明るさを増し、彼が目指す新しい音楽の姿を少しずつ照らし出してゆく様は圧巻である。白熱の4分間が経過して最後に訪れる簡潔だが圧倒的なエンディングも、鳥肌ものである。はじめて聴いた時は、ひたすら開いた口がふさがらない状態だった。衝撃的だった。以来、僕はこの曲をいままで何度聴いたことかわからない。

どんな人にとっても、将来は常に期待と不安が入り混じった、非常に不安定なものである。そこにおいて、これだけの自信に溢れた新しい世界を提示することができたカニサレスは、やはり超大物である。既に発売から10年近くが経過したが、現在も彼は着実に新たなフラメンコの歴史を切り開いている。聴いて感心している場合ではないのだが、やはり何度聴いても「オーレ!」と発する以前に「う〜ん」と唸るばかりである僕は、やはり小粒だ。

Cañizares JMCによるカニサレス公式サイト (日本語)

6/25/2006

「プージェー」そして「コルトレーン ライヴ イン ジャパン」再び

 妻に誘われて、東中野にあるミニシアター「ポレポレ東中野」に出かけた。上映作品は「プージェー」というドキュメンタリーだった。映画を観に行くのは、たぶん昨夏の「タッチ」以来だと思う。DVDや放送録画ではちょこちょこ観ているが、劇場は久しぶりだ。昨日の土曜日に、川崎に出かけた際、シネコンの前を通りかかったら、チケット売り場はそれなりの賑わいではあった。でも僕が観たいと思う作品は、そこには何一つなかった。

東中野には上京して間もない頃だか、「まだ見ぬジャズの中古盤を求めて」とかなんとかで、一度行った記憶があった。新宿から吉祥寺の中央線沿線は、横浜や神戸とはまた違う意味での「ジャズの街」というイメージが、いまでもある。しかし、実際に駅を降りてみると何も思い出せなかった。いま考えてみると、僕が行ったのは中野だったように思う。駅の周辺は想像していた以上に、賑わいのない街だった。

劇場は100席ちょっとの小さな場所で、朝から各上映時間帯別に、番号のついた入場券を販売する仕組みだった。今回の作品は、10時半からの最初の上映のみ日本語の吹替え版だったので、僕らはその次の午後1時からの回の券を買った。時間は午前10時20分だった。いま考えれば、昼頃に行ってもその回のチケットは問題なく買えたのだが、そこは用心深い性分が許さなかった。

日曜日の割には早起きして(それでも洗濯は済ませた)東中野に向かい、チケットを買ってから1時迄の間は、周囲の街をぶらぶらしてお昼ご飯でも食べて、ゆっくり映画鑑賞のつもりだった。まあ実際、そういう時間の過ごし方をしたのであるが、先に書いた様に(日曜日ということもあったと思うのだが)なかなか地味な街並だったので、新参者としてはひたすらうろうろするに終始した感があった。

まだ11時にもなっていないので、飲食店のほとんどは開店しておらず、野ざらしになっている看板やらを眺めては、ここなんかいいんじゃないかなどといくつかあたりをつけてみたりしたものの、結局日曜は休みだったり、あるいは夜だけの営業だったりするところがほとんどだった。

いまにも雨が降りそうな空模様の下、東中野駅から近所の落合駅周辺迄を1時間ばかりうろうろした。それでも何も食べないわけにもいかず、たまたま前を通りかかった「大盛軒」という中華定食屋に入ることにした。僕はお店の名物「鉄板麺」を、妻はその日の日替わりメニュー「エビ玉」セットを注文した。

家に帰ってから知ったのだが、東中野ではそこそこ有名なお店だったらしい。興味のある方は検索エンジンで「東中野 大盛」と入れてみてください。いろいろなレビューが出てきます。大抵はお店の名物「鉄板麺」のことが書いてあります。お店の名の通り、どのメニューもそれなりの量があるが、味はとても美味しくて満足できる内容だった。満腹でふらふらになりながら、いざ劇場へ。冒頭、今回の作品を監督した山田監督本人の短いトークがあった。

作品の内容については、関連サイトを見ていただきたい。ここには内容は一切書かない。少し前に、テレビで放映されたシリーズ「グレート ジャーニー」の冒険家、関野吉晴氏が旅の途中、モンゴルの草原で出会った少女プージェーとの交流を描いたドキュメンタリー作品である。人類として大切なこと、そして人間として大切なこと、そんなメッセージが伝わって、激しく心を揺さぶられる作品である。上映期間が7月7日迄延長されたらしいので、都合が許す方には、ご覧になることをお薦めしたい。

僕にとっては映画表現とはミニシアターのことである。そのことを改めて実感した。

さて、仕事が一段落したこの一週間、僕がひたすら耳を預けた音楽は、久々にコルトレーンだった。「ライヴ イン ジャパン」。CD4枚に遺された2夜のコンサート4時間の記録を、僕はひたすら求めた。これについては、このろぐで既に一度とりあげている。もう2年前のことだ。いま読み返してみて、何も異論はない。この頃の方が、文章がちゃんとしている様にも思える。

2年前に書いたものを読み返してみて、僕がこの壮大な記録に耳を傾けるのはどういう時なのかなと、客観的に考えてみたりもした。それなりの考えはあるのだが、あまりに個人的なことでもあるので、それはここには書かない。ただ僕にとってコルトレーンは引き続き最も重要な音楽家であるし、その作品の中で一番大切に想うのはやはりこの作品かなと思う。

John Coltrane: 現代という時代観において、あるいはコルトレーンの音楽作品として、音楽の鑑賞対象とするにはいろいろと問題のある作品であることは認識しないわけではない。だけど、一度この作品に心を奪われてしまえば、そんなことはまったく些末なことだ。自分が求めるものがそこにある、これ以上わかりやすい説得はあり得ない。

一夜のコンサートが2時間超でたった3曲という、ジャズのコンサートとしては異例の内容のそのものが、そっくり2夜分記録として遺されたという奇跡。その奇跡そのものだけでなく、その中味を十分に知らずに、今日の情報社会の様に事前に実体の片鱗に触れる準備などほとんどなく、それに晒された当時の聴衆達の反応も含め、生々しく蘇るドキュメンタリーを前に、僕はそれを受け入れいまの時代におけるその意味に置き換え、この先何度でも感動し唸ったり、笑ったり、涙したりすることが出来るだろうと思う。

今年はこの記録が行われてから、来月でちょうど40年目にあたる。残念ながら、現在は廃盤となっているようだが、大きなCD屋の店頭や中古店などでは比較的容易に見つけることができると思う。またいつの日か再発されることも疑いない。僕は自分の好きなものが、他の人にどう感じられるかはさほど興味はないが、僕が重要に思う音楽作品に、なんらかの理由で興味を持つ人がいるとすれば、僕はこの作品をお薦めしたい。

前回にも書いたが、苦労しながら自身の音楽を真摯に追求し続けた偉大な魂が、その短い生涯のなかで起こした奇跡の頂点のなかで、偶然にも最後の頂点を記録した作品である。

6/17/2006

ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」

 人をあてにするというのは、一種の賭けだ。いつも信頼をおいている人だから、決して裏切られることはない、などということはあるはずがない。だからといって、全然頼りにしていない人が、時に思いがけない役割を果たしてくれる、ということも決してあり得ない話ではないが、滅多にあることではないし、それこそあてにするという性格のものではないだろう。

しかし、身近に存在するのは、いまあげたようなある意味両極端のものについては、実際には極めてレアなケースなのだと思う。大抵の人間関係は、多かれ少なかれ信頼と疑念が混在しているものだ。これを期待と不安としても構わないだろう。組織は信頼で成り立っているというのは、どんな組織についても一応、共通して言えることだとは思うが、別にこれを、組織は疑念で成り立っているとしても(逆説的ではあるのだが)間違ってはいない。

ついでに、「組織」というのも狭い言葉かもしれない。集団あるいは社会と言い換えてもいいだろう。信頼にはポジティブな響きがあり、疑念にはネガティブな響きがある。だからといって集団を形成する力が、前者にはあって後者にはないというのは、いささか安易ではないかと思ったりする。世の中でネガティブと思われる概念に耐えられない(耐えようとしない、我慢しない)、そういう人は増えているように思える。

2ヶ月ぶりに髪を切ってもらった。数年前から通っている美容院で、初めて前回と同じ人を指名した。いままで、美容師さんにいろいろアドバイスをもらうのだが、僕の髪は硬くてくせ毛で、おまけに白髪と来ているから、人によって微妙に言うことが違っていたりして、本当はこうしたいと思っているのだが、自分としても自信がないから、どうも話があるいは意識がすれ違うような(まあこちらが具体的に求めて来なかったのがいけないのだが)状況が続いて来た。それが前回担当してもらった人は、僕を望んでいる方向に導いてくれるというか、押してくれるような示唆をくれる人だった。

実は前回は髪を染めたものの、ほとんど切らなかった。それは僕が自分の希望を打ち明けた結果、その美容師さんが判断した結果だった。それで2ヶ月放っておいたので、髪は相当伸びた。確かに外見上はひどかったと思うが、僕にとっては新鮮な経験ではあった。四十過ぎの男が髪型で何を考え得るものかと、世の無関心をもよおしそうだが、別に構わない。今回はさすがに少し短くしてもらったが、基本的な僕の希望というか願いには沿っている。

さて、以前このろぐでも映画をとりあげて以降、4月頃から少しずつ読み進めていた小説「カラマーゾフの兄弟」を、先週早々についに読み終えることとなった。そんなにかかるなんて、どういう読み方をしているのか、と呆れる方もいらっしゃるかもしれないが、これが僕の読書である。でも1日につきひとつの章を読み進めるというやり方で、これだけの期間こつこつと読めたのは、やはり作品自体がもつ魅力に引っ張ってもらったところが大きい。

内容は映画よりもはるかに緻密で、深遠なものだった。僕は、時代や文化の差異を感じると同時に、現代という僕ら時代について、簡単に言葉にはできそうにないいろいろな想いを抱いた。それは信頼よりは疑念の色がやや勝っているものだった。劇作の舞台となった19世紀後半のロシアに想いを寄せることはほとんどなく、ひたすら現代社会とは何か、情報社会とは何か、そして人間とは何か、そういうことばかりが感想として残った。それは衝撃的というより圧倒的な感動だった。

西洋文明との根本的な違い(特に宗教観)故に、深く理解し難い部分がかなりあるのは事実だと思う。それでもこの小説が世界文学の金字塔といわれるのは、決して大げさな表現ではないと思う。一生に一度、これを読む機会を持てたことは感謝しなければいけないし、誇らしいことだと思う。

家族や兄弟、金、信条(宗教や伝統)、そういったものに悩む人は、悩みの渦中から少し離れた頃に、これを読んでみるのはいいと思う。言い換えれば、ほぼすべての人は、これからの時代においてもまだ当分の間は、この作品を一生に一度読むのがいい経験になるだろうと思う。ただしそれで何かお導きが得られると期待するのは、当たり前だが甘い考えだ。

僕にとってはどちらかというと、習慣的でないのが読書だ。今回は先に映像を観てしまっていたのだが、そのことは作品を読み進めるうえでのデメリットになることはなかった。といっても、多くの人は、いまや映像を観ることはかなり困難だと思う。僕の身近におられる方で興味のある方は、お声がけいただければ、よろこんで映像作品(DVD)をお貸しいたします。

こういう体験を音楽でというのは、もちろんあり得ないことではない。これを読んだ人の中で、音楽が好きな人のなかには、この作品のイメージに近い音楽作品をといわれれば、それなりの答えは用意できるかもしれない。いまの僕はそういうことは考えられないし、この先もないだろうと思う。

今日、美容院で髪を染めてもらっている間に眺めた雑誌で、読書の特集をしていて、様々なジャンルの書籍について、様々な人が紹介し語るという無謀な企画を見かけた。しかし、無謀なりにもある種のまとまりを感じたのは、それをそのような形でまとめてみる価値のあるテーマだったからに他ならないからだと思う。そして事実、その仕事はその意味ではかなりいい線をいっていたのだ。

この世界における人間の能力は、明らかに「退化」に向かっている。断っておくのはくどいかもしれないが、退化は進化と裏腹の現象であり、いずれも相対的な判断に基づくものに過ぎない。

6/13/2006

エリック=リード「ヒア」

 週末、仕事とPCを家に持ち帰り、土曜の夜遅くまで根を詰めて頑張った(実は昼間はあまり捗らなかったのだ)。画面上で図や表の位置合わせをしたりする細かい作業が続いて、気がついたら日付が変わっていた。まだ少しやり残したことはあったけど、頭でまとめ方を考えてからでないと取りかかれそうにない作業だったので、その日はそこまでとした。

シャワーは翌朝浴びることにして、ウィスキーを持ち出して少しオン・ザ・ロックでやることにした。もう1時を過ぎている。風はほとんどなかったが、開けた窓からすーっと冷たい空気が流れ込んでくるのがわかった。

渋谷のディスクユニオンでお奨めCDになっていた、エリック=リードの新作"HERE"を(ユニオンで買わずに)アマゾンのカイマンで取り寄せてあった(モダンショッピングである)。気付いてみると、僕がCDを買う店は"n"で終わるところばかりだな。ウィスキーを口に馴染ませながら、僕はこのCDを聴いた。

エリックはウィントンのグループなどで演奏していたジャズピアニスト。その彼が率いるピアノトリオの最新作がこれだ。内容はとてもしっかりした聴きごたえのある演奏。1曲目に"Stablemates"を持ってくるあたり、ハンコックの名作に挑戦するかのごとくである。しかし、これがまたカッコいい。ミドルテンポでカッコいい演奏を耳にすると、僕はところかまわず深い唸り声をあげてしまう。

アルバムは彼のオリジナル中心に構成されているが、冒頭の曲の他、全部で3曲のスタンダードが入っている。その一つ"It's easy to remember"も見事な美しさ。キースの演奏にテンポやテーマのとり方が似ているのだが、エリックのはもう少し重みのある音色が、雰囲気に深みを増している様に思う。

そしてもう一つは、コルトレーンの"26-2"である。先のブラクストンのスタンダード演奏集に収録されていた。この曲はもともとLPには未収録だったもの。CD時代になってボーナストラックとして初めて知られる様になった曲だが、玄人の演奏意欲を惹き付けずにはいられない曲のようだ。他にもサックスのジョー=ロヴァーノなどもこれを演奏している。エリックの演奏もアグレッシブだが、あくまでも個人芸だけが突っ走るのではなく、トリオの枠でしっかりと演じきるところがよい。

さらに夜が更け、ウィスキーも3、4杯目になった。空気がいっそう冷たく感じられてきたので、窓を閉めてそのままソファーで寝ることにした。いま考えればこれがいけなかった。4時間後、目を覚ました僕は39度を超える熱を出していた。

昔から扁桃腺が腫れやすく、それも大抵は肩の疲れからやってくる。仕事をする様になってからの、僕の発熱パターンはいつもこれだ。このところ歳のせいか予防に敏感になり、少しでも異変を感じたらすぐに何らかの対処をしてきたので、ほとんどは発熱を水際で防いで来たのだが、今回ばかりは酔った隙にあっさりと上陸されてしまい、陥落である。

おかげで日曜日は仕事の続きも出来ず、一日ベッドで寝ていた。40歳を過ぎて39度はかなり身体に堪える。その状態は月曜日の朝まで続いて、結局会社を一日休んでしまった。それでもその日が報告書の入稿日だったので、僕は必要最低限のディテールを家で仕上げて会社に送り、部下にまとめてもらってなんとか締め切りに間に合わせた。

ここ2、3ヶ月間かけて取組んでいたものだけに、入稿の一区切りに伴う解放感をこんな形で味わうのは不本意だった。まあそれでもよく頑張ったものだ。

おかげで熱は月曜日の夜までには下がった。日本の多くの人がテレビで観戦したというスポーツ中継も、さして興味がないので、ひとり寝室で裏番組のヴァラエティを観ていたら、これがツボにハマってしまい、放映中に日本が劇的な逆転で破れたことなど知らずに、独り声をあげて笑いまくっていた。何故かわからないが、テレビを観てあんなに笑ったのは久しぶりだったように思う。

居間でサッカーを観ながら、寝室からの僕の笑い声を聞いていた妻からは、後で「薬か熱でおかしくなったのかと思ったよ」と言われてしまった。だったら心配して看に来てくれてもいいのに。周囲が日本の敗戦に呆れ悲しんでいる間、アパートの僕の寝室からは素頓狂な笑い声がわき上がっていたというわけだ。まあ、しょうがないだろう。僕には笑う理由があったのだから。

というわけで、今週は変則的な更新になってしまった。まあ風邪も大事には至らず、報告書も入稿し(これからが大変なのだが)、とりあえずメデタシである。関東も梅雨に入った。僕は早くも短い半袖シャツや、ハーフパンツやらを買って、夏を心待ちにし始めた。

6/03/2006

ポール=ブレイ「フラグメンツ」

 前回は2年半前にえぬろぐを始めて以来、初めてのサボりモードで大変失礼をしました。別に仕事が忙しいからというのが理由ではなく、ちょっと間がさして、気が重くなってしまったのだ。その気分にマッチする音楽が見つからなかったというわけだ。

別に忙しさは変わらない。むしろこれからの一週間の方が大変だろうと思う。土曜日の今日も会社に出かけて、少しだけ情報の整理をしていた。

僕の会社は休日に出勤する人などほとんどない。静かなオフィスは悪くないが、ただでさえ重苦しい雰囲気のオフィスが、少し蒸した空気に満ちていてさらに重い感じだった。おかげでどっと疲れて、結果的にあまり作業ははかどらなかった。それでも先週の異様な重さよりははるかにマシである。ろぐを書きたいと思える気分にはなっている。

今日の帰り道、会社がある田町駅からいつもの様に京浜東北線に乗った。さすがに土曜日の夕方は空いている。iPodで音楽〜今週届いたアンソニー=ブラクストンのスタンダード集の続編〜を聴きながら空席の一つに座った僕は、すぐさまどこからともなく美味しそうな焼きたてのパンの香りがしてくるのに気がついた。ほのかに漂ってくるというよりは、「さあ召し上がれ」と言わんばかりに匂いがしてくる。

その出所はすぐにわかった。僕のすぐ隣の席に座っていた女性が、大事そうにというよりも、どちらかと言えば無造作に膝の上に抱えた紙バッグの中から、袋に包まれていないそのままの姿で、大きなパンが顔をのぞかせていたのだ。おそらくは本当の焼きたてだったので、お店の人が袋に入れなかったのだろう。その匂いには、手で触れると思わず「あちっち」となるくらいのパンの温度まで感じられたほどだ。

電車が動き始める。満員電車で通路に人がぎっしり詰まった状態ではわからないが、今日の様に立っている人などほとんどいない電車の中では、走り始めると進行方向から車両の後ろに向かって、かすかだがはっきりとした風が吹き抜けるのが感じられる。

パンを抱えた女性は僕の進行方向側の席にいた。その人は紙バッグに左手をかけたまま、右手に握りしめた携帯電話で一生懸命何かに興じている様子だった。焼きたてのパンは、買ってくれた主人の関心が薄れたことを知ってか、緊張が解けてボーッとしているようだった。

焼きたての身体から立ち上る熱気は、そう簡単には冷めないものである。パンが自身から立ち上る匂いを少しでも抑えようと努力するとは思えないのだが、緊張感の抜けた様なそのパンからは、もう出任せ状態で匂いがわき出している様に思えた。

立ち上るパンの香りは、がらんとした車内を吹き抜ける風にのって、電車の中に広がって行った。煙突のすぐ風下にいるのが僕だった。その状態は、田町駅から僕が降りる川崎駅までのおよそ20分間にわたって続いたのである。

僕はパン屋さんで働いたことはないし、パン屋さんに20分間居続けたこともない。焼きたてのパンを20分間食べ続けたこともないし、パンの風に20分間晒されのも今日が初めてだった。おいしそうなパンの匂いなのでもちろん不愉快な思いはしない。しかし、ミントとか柑橘の爽やかな風とは明らかに異なるその風の匂いを、なんと表現したらいいか。「美味しそう」に感じられた状態を、過ぎてしまった以降の感覚はとにかく不思議なものだった。

電車が川崎に着いて立ち上がった僕は、かすかだったがはっきりとした満腹感を抱きながら電車を降りた。晩ご飯がパンだったらどうしようかと思ったが、確か今夜はタイカレーにすることになっていたはず。アパートのドアを開けると、あのエスニックなスパイスとココナツミルクの甘い香りが漂って来て、そこで僕はようやくパンの風から解き放たれた様な気持ちがした。

さて、今回の作品は僕が大好きなピアニストの一人である、ポール=ブレイの作品を選んだ。先週からの重い気分に合う音楽がないなあと思っていたところに、突然ひらめいたのがブレイの音楽だった。それは見事に僕の気持ちのバランスをとってくれたのだ。

ブレイのピアノを言葉にするなら、平凡かもしれないが「透明な空間の広がり」と「刺激的に輝く音色」だと思う。どちらかというとフリー系の人とみなされているようだが、彼はフリー界のビル=エヴァンスである。偶然にも今回の作品でドラムを担当するのはポール=モチアンである。もちろん彼のスタイルも1950〜60年代のエヴァンスの頃からすると、かなり大きく変わっている。

今回の作品は1986年の作品。おそらく僕が数十枚目に買ったCDだと思う。ブレイの音楽を初めて聴いたのがこの作品だった。これがなかなか衝撃的だったのをよく憶えている。タイトルの言葉は、収録されている音楽の本質を巧く表現している。

他の共演者は、ジョン=サーマンのサックス(ソプラノ、バリトン)とバスクラリネット、そしてビル=フリーゼルのギター、そこにモチアンとブレイという4人編成。そう、このクァルテットにはベースがいないのである。そうしたユニットの特性が、実に見事な音楽表現に活かされているのがこの作品だと思う。

演奏されているのは、各メンバーが持ち寄ったコンポジションである。しかし、いずれもテーマをモチーフ的に奏でて、それを時間と空間のなかに浮き上がる様に放って、全員でそれに向かって風を送る様に音を出し合い、テーマを支えながら音楽が組み立てられて行く、そんな演奏だ。

収録された曲はどれも、その弾き放たれるテーマが比類のない美しさである。聴き所は、2曲目からの"Monica Jane"、"Line Down"、"Seven"そして"Closer"と続く4曲。このシーケンスが持つ美しさと透明感そして緊張感は、決してこのメンバーでなければ生み出せなかったであろう、見事で素晴らしい音楽的瞬間の記録である。20年たったいま聴いても、その輝きは少しも失われることはない。

ある程度懐の深さを持って聴き臨む必要のある音楽かもしれないが、それだけに聴くものの心に響いた瞬間にもたらされる感動は、尋常なものではない。相対的ではなく絶対的な意味で間違いのない銘盤である。

Paul Bley Home Page 公式サイト。相変わらず活発にご活動のようです。

5/28/2006

 

仕事のことを中心にいろいろなことが積もってしまい、なんとも心が重苦しい週末になってしまった。雨降りばかりだったことも影響しているのかもしれない。もちろん僕のことだから、終電とか徹夜とかそういうことが続いているというわけではない。ただやはり忙しいには違いないのだ。

音楽はいままで聴いて来たものを、相変わらず通勤とか自宅で聴いていたのだが、今週はなぜかこれを書こうというものがないままこの時間をむかえてしまった。僕にとって、音楽に安らぎとか元気をもらわないことはない。だけど、今週のことは振返ってみて、あまりここに書いてみようと思うこと、あるいは書くことができることがないというのが、実際のところである。

先週ようやく届いた12枚組のCDセット(前回のろぐで10枚組と書きましたが実際は12枚組でした)も実はまだ1枚も聴いていない。そのくらい余裕がない1週間だった。

少し考えたのだが、今週はろぐの更新はお休みということにさせていただきたい。毎週読んでくれている皆さん、ごめんなさい。

5/21/2006

アンソニー=ブラクストン「23スタンダーズ (クァルテット)2003」

 ぱっとしない天気の一週間。このまま梅雨入りするのでは、という観測もある。この時期に期待する気候があるわけではないから、別に構わないのだけど、通勤時の雨はあまり有難いものではない。この週末はかなり気温があがり、いまこれを書いている時間でも、部屋の中でTシャツ1枚で過ごせるようになった。

比較的忙しく過ぎた一週間。飲みに行く機会もなく、もっぱら家に帰って寝る前に少し音楽を聴きながら、缶酎ハイとかビールを飲った。小説「カラマーゾフの兄弟」は少しずつ着実に物語が進んで、ようやく最終巻である下巻に入った。まだ読んでいるのかと思われる方もいらっしゃるかもしれないが、僕にはちょうどいい進み具合だ。

前回、アンソニー=ブラクストンの「フォー アルト」で少々支離滅裂なことを書いた。今回はその最後でお約束した通り、最近購入した彼の新しい作品について。これは、僕が日頃お世話になっている、米国のJazz Loft.comからのメールで予約購入したものである。アマゾンでの取り扱いがない商品なので、今回はジャケ写から同店へのリンクを張ってある。

Jazz Loftを運営するアラン=ローレンスとの付き合いが、いつ、どの作品から始まったのか思い出せない。彼の店はその名の通りジャズを中心としたCDやDVDを取り揃えているのだが、とりわけ熱心なのが、ヨーロッパのインディーズ系フリージャズのカタログである。アンソニーをはじめとする様々なアーチストの作品が、非常に豊富に揃っている。

この手の作品は、それまでは首都圏のディスクユニオンで偶然見つけて購入することが多かったのだが、最近ではほとんど、レーベル各社のサイトなりDMで得た新譜情報を元に、アランの店で購入するのが僕のスタイルになっている。おかげで今ではレーベルの新譜情報よりも先に、彼から優先予約の案内をもらう様になり、それがまた有難いことに僕のツボを心得てくれているものだから、ついつい購入させられてしまう状況になってしまっている。

今回の作品は、アンソニー=ブラクストンが自己のクァルテットを率いて行った2003年の欧州ツアーから、タイトル通りいわゆるスタンダードナンバーと呼ばれるものをばかりのテイクを集めたもの。CD4枚組に23曲、4時間半の演奏が入ってる。後から知ったのだが、このリリースの直後に、同じくCD4枚組で20曲を収録した続編が発売されており、これも先日さっさと購入手続きをすませてしまった。

いずれのセットも1000セットの販売で、これはもちろん企画発売元のLEO Recordsの意図によるものだ。1000セットと聞くと、随分少ない様に思われるかもしれないが、果たしてアンソニーの音楽を好んで聴く人が、地球上にどのくらいいるのか、それを一番よく知っているのは、アンソニー本人よりも、彼の作品をこうして記録しては販売しているレコード会社の人ということになるのだろうから、彼等が決めた数はそれなりに妥当な目安なのだと思う。

日本では「限定」とか言ってもったいぶった商売をする貧しい風潮が、まだあるように見受けられる。確かにマスマーケットを前提にした商売ではそうした手法もわからないではないが、もはや時代はそういう状況ではない。特に音楽のような嗜好性の強いものほどその傾向は強いと思う。しかもそれがフリージャズとなればなおさらである。ともかく僕はアランのおかげでこの作品の存在を知り、それを実際に手にして聴くことで、素晴らしい体験をさせてもらったわけである。大げさかもしれないが、一期一会とはこのことだろう。

さて、ブラクストンのスタンダード集とは一体どういうものかと、興味をそそられる方もさほど多くはないとは思うが、これがなかなかどうして非常に面白い選曲なのである。収録曲のリストは上のジャケ写をクリックして見ていただければお分かりの通り、いわゆるコール=ポーター作品のようないわゆる狭義のスタンダードナンバーに加えて、コルトレーンやショーター、モンクと言った演奏者サイドからの名曲がずらりと並んでいるのが面白い。ある意味、やっぱりブラクストンも普通のサックスオタクなんだなと安心させられる内容である。

例えば、このセットではコルトレーン作品が3つ取り上げられている。"Giant Steps", "Countdown"そして"26-2"の3曲だが、いずれもいわゆる「コルトレーンチェンジ」(彼流の独特のコード進行をそう表現する)の代表作で、演奏技量があるレベルまで達した人なら、一度は挑戦するもの。現代音楽の作曲家として音楽の構造面でもかなりの研究を積んでいるブラクストンらしいところである。モンクの作品についても同様のことが言えると思う。

かと思えば、"Desafinado","Black Orpaeus","Recorda Me"といったボサノヴァ系の有名作品もまとまって取り上げられていたりして面白い。テンポなしの静かな集団即興のなかから、突然テーマが浮かび上がってドキリとさせられる"Desafinado"や、原曲好きの人からは「ちゃんとテーマ吹けよ、この下手クソ!」と怒号が飛びそうな後2曲など、それぞれに彼らしいやり方(ここはあまり軽く考えない方がよいと思う)で演奏がなされていて、やはりコイツは一筋縄ではイカンなあとほくそ笑んでしまう。まあそれがブラクストン流のスタンダード集の醍醐味なのだ。

ブラクストンのソロは、サックス演奏をする人からはある意味気味悪がられる演奏スタイルなのだと思う。タンギングが中途半端に聴こえるし、音も太くて力強いのとは対象である意味病的である。しかし、そのスタイルだけが醸し出す独特の雰囲気は、スローでの可憐さ、ミドルテンポでの気怠さ、アップテンポでの疾走感などどの曲についても見事な表現をしていると思う。「フォー アルト」で聴かれる計算された技巧の世界は、こうした演奏スタイルにおいても十分にその力を出していると思う。

クァルテットを編成するメンバーも素晴らしい演奏を聴かせてくれる。ドラムとベースのリズム隊は意外にも堅実な演奏で、長尺のソロで時に暴走するブラクストンをしっかりサポート。そしてギターのケヴィン=オニールはブラクストンに負けない超絶技巧でしっかりとソロを楽しませてくれ、ブラクストンとの対話も素晴らしい。

いずれ届く続編と合わせて、43曲9時間のスタンダード集だが、これはiPodで繰返し聴いてもなかなか飽きそうにない極上の演奏集である。これを企画したLEO Recordsにも拍手を贈りたい。

昨日、アランの店から、やはり別に購入していたCD10枚組のセットが届いてしまった。最近他に聴きたいものがたくさん出て来て嬉しいのだが、消化不良にはしたくないので、そちらはカラマーゾフの兄弟の様にゆっくりと聴いて行きたいと思っている。これがまた凝った作品集なのだが、またいずれ必ずこのろぐで採り上げることになるだろう。

まったく大変なものを買わせてくれる店である。でも僕はとても親しみを感じているのだ。

LEO Records Music for the Inquiring Mind and the Passionate Heart 今回の作品を含め試聴やダウンロードができます。

5/15/2006

アンソニー=ブラクストン「フォー アルト」

 長い連休明けの一週間、これがなかなか心身共に疲れるものだった。やらねばならないことはわかっているのだが、どうも心も身体もなかなか言うことをきいてくれない。それでも木曜日あたりになって、頭の方はようやくそれらしい雰囲気になってきたのだが、身体の方がまた疲れてきていた。木曜と金曜には、それぞれプライベートと社用の飲み会があったのだが、どちらもあまりピンと来ない酒席に終わり、疲れはますます増大した。

そんな一週間を終えて迎えた土曜日。雨降りの空模様だったにもかかわらず、久しぶりに渋谷に出かけ、タワーレコードとディスクユニオンでいろいろな音楽を聴いてまわった。4月以降は初めての渋谷。新しく東京生活に加わった人達のにぎわいもあって、あいにくの空模様だったにもかかわらず賑わっていた。そういう街の空気は、僕を新鮮な気分にさせてくれた。

タワーでもユニオンでも、欲しいCDが本当にたくさんあった。普通に買えば1万数千円程度の買物にはなったはずが、今回はすべて我慢だった。1枚も買わない代わりに、試聴機にあるものをひたすら聴きまくり、勢い長時間の滞在になった。独りで外で過ごす時間として、これはこれで楽しいひと時である。昼過ぎに着いて、渋谷を出たのはもう夜になりかけていた。

なぜそこまで買うのを我慢するのか。前回のろぐで書いたように、先月と先々月にまとまって購入したものが、遅い到着ラッシュとなっていま集まって来ている。今月の前半は17枚のCDが届くことになっている。既に昨日までに7枚が到着。やっぱりこれは食べ物と同じ、買ったものはちゃんと聴かないわけにはいかない。枚数が多いとはいえ、以前のような暴飲暴食というか暴買暴聴ではない。一応、自分の興味関心をもとに、それなりに買う意味を考えて踏み切ったものなのだから。あまりつまみ食いとか、刹那的な感想だけを抱いて済ませたくはない。

さて、そのなかにリード奏者アンソニー=ブラクストンの4枚組CDが含まれている。これは5月の初日あたりに届いたもので、その内容はiPodで広島への行き帰りの新幹線をはじめに、この休み明けの仕事に気が乗らない一週間も、それなりに楽しませてもらっている。

本当は、今回はその作品をとりあげようと思ったのだが、その前にこれまで彼については何も書いていないことに気がつき、それならば、その序論として僕がアンソニーのことを気に入っている理由について書いてみるのも悪くないと思った。やはり先ず採り上げるべき作品は、僕にとって彼の最重要作であるところの「フォー アルト」かなと思った次第である。

アンソニーはいわゆる「フリー」系のジャズリード奏者であり、誤解を避けたいと願いつつ書くなら、同時に現代音楽の作曲家でもある。マルチリード奏者とも言われる様に、サックスに限らず、クラリネットやフルートなど様々な管楽器を演奏する彼だが、彼がメインとするのはやはりアルトサックスだ。そして今回の作品はそのタイトルが示す様に、アルトサックスを題材にその演奏技能と作曲の限界について、彼自身の音楽哲学を一気に収斂させた傑作である。

この作品は彼のアルトサックス1本のみの演奏で、伴奏など共演者は全くいない。当時、彼が尊敬したり親交のあった芸術家達に献上する主旨のタイトルがつけられた収録作品8つは、すべて一発録りでいわゆる多重録音やつなぎ録りは一切ない。

録音は1969年で当初はLP2枚組として発売され、いまではそれが1枚のCDで楽しめる。CD化されるまでにはそれなりの時間がかかった。僕がLPを買わなくなってもうかなりの年月が経つが、この作品は僕がそれなりの思いを持って買ったLPとしては最後の方になるものだと思う。震災前の神戸三宮にあったレコード屋で見つけて、6000円で買ったそのレコードは、いまでも大切にしまってある。

まあともかくこれを体験するには、これを聴くしかない。もちろん聴くことは本来とても簡単な行為であるはずなのだが、現代においてそれはある意味非常に容易ならざる行為になってしまっている。それは音楽に限ったことではない。文学、絵画、映像などの作品鑑賞だけでなく、広く人との付き合いや、個々の業務に始まりその集積であるところの仕事というもの、さらには恋愛やら子育てなど人間の行動全般について言えることなのだろうが、人は自由と時間というパラドックスのもと、狭い経験と乏しい情報という矛盾に束縛されていて、そのことが行動を逆に非常に限定的なものにしているということだと思う。

アンソニーの一連の作品のなかでも、とりわけ象徴的な今回の作品については、二重の誤解というか偏見があるように思う。ひとつはまったく何も知らない人が、この作品について抱くイメージの様なものなのだが、サックス1本のソロ演奏とは一体何ごとかというものである。よく知られたスタンダード演奏ではなく、それが奏者のアドリブというのは気味が悪いというもの。これは残念にしても、ある意味仕方がない偏見かもしれない。

もう一つの誤解、これは最初のものよりもある意味もっとたちが悪いものだと思うが、一度この作品を体験した人が抱いてしまう体験が、そのまま人に伝わってしまうというケースである。別に難しいことを言っているのではない。このマイナーな作品で一番有名な部分はどこかと言えば、わずか30秒に満たない静寂の演奏で終わる1曲目とは対照的に、ブラクストンのアルトサックスが10分間にわたって狂った様に咆哮する2曲目「作曲家ジョン=ケージに」であることは間違いない。

この演奏はかなり壮絶なもので、もちろん作品の重要な部分を占めていることには違いない。ここで彼がケージに対するメッセージとしているのは一体何かという問題(ブラクストンはケージのことを尊敬しているのかそれとも嫌いなのか?)についてはさておき、LP2枚組70分という全体の構成から考えて、ここで挫折あるいは満足してしまう体験者が、この作品に対するイメージをこれだけで決定的に形成してしまう危険性があるという、非常に大きな問題をはらんでいる。

この演奏を含め、収録されているブラクストンの作品は、"performance"ではなく"composition"である。8曲すべてをそれなりに聴いてみればわかることだが、ブラクストンはそれぞれの作品について、事前にかなり綿密な計画(つまり作曲)をしていることがわかる。ましてや(もはや言及する価値もないのだが)無茶苦茶に演奏してできるほど生半可なものではない。その意味で、この作品で聴かれるブラクストンのアルトは、同じアルトでも阿部薫の一連の作品で聴かれる演奏とは質的に異なる。言うまでもなく阿部のそれは"performance"であり、彼にとっての"composition"は楽器を口にして演奏するその瞬間に行われるものだ。

しかしながら、それらが結果的に同じ音楽である様に聴こえてしまうところに、もうひとつの誤解と不幸がある。実は、最近会ったある人が、阿部とブラクストンを全く同列に挙げて、あんな音楽は聴くべきでない的な発言されたのを目の当たりにして、僕はあらためてそういう認識の人が多いのだなと思った次第なのである。その人との出会いは素晴らしかったが、その台詞だけはいただけないと思った。

この作品を「無茶苦茶な演奏の記録」とするのはもちろん、阿部の作品に対するものの様に「溢れ出す(あるいはほとばしる)激しく狂わしいエモーション」などと考えるのは、やはり少しお門違いだと思う。断っておくが、僕は阿部とブラクストンのどちらが良い悪いということを言うつもりは全くない。それらはまったく異質のものであり、ある意味では異なる聴き方が必要になるのかもしれない。

ここに収録された音楽は、もちろん一音一音記譜されたものではない。彼は記譜の代わりに録音という手段を選んだだけなのだが、あくまでもいろいろな人に繰り替えし聴かれることで、自らの音楽的考えを伝えようとした作品に他ならない。8曲すべての作品に、非常に様々な音楽的アイデアやアルトサックスの技巧が盛り込まれている。しかもそのすべてが非常に高いレベルの完成度なのである。サックスの演奏を志す人はもちろん、音楽とは何かについて少し深い冒険をしてみようという人にとっては、とても多くの示唆を含んだ作品だと思う。そこにある種の未熟な偏見がつくのが残念でならない。

連休の終わり頃だったか、テレビの報道番組で、チェコのアニメーション映画監督のインタビューが放映されたのを観た。彼のアニメーションは日本のアニメとはかなり指向を異にしたものであり、セル画ベースのものではなく実物のものをコマ録りして動きやスト—リを表現するものだった。生の赤い肉片が床を這って、それがグラスの酒を飲み干したりとか、そういうシュールな表現が部分的に紹介された。

映像自体にも興味は惹かれたが、インタビューで彼が現代の芸術について、特にアーチストサイドに対して放った言葉が非常に印象的だった。「現代のアーティストに足りないものは経験である。彼等はアイデアは豊富だが、それを経験と結びつけることなく、すぐにアイデアとして作品にしようとしているように思える。結果的にそうした作品は単なるアイデアに過ぎず、芸術として必要な素質に欠けたままその多くは社会に埋もれてしまうだけになる。」確かそういった内容だったと記憶している。

僕にはこの「経験」というのが非常に深い概念になっていると感じた。ともすれば単純に「苦労が足りない」という意味に捉えられてしまうかもしれないが、僕が自分の考えていることとあわせて解釈したのは、彼が言いたいのは、実際の経験かどうかというよりも、経験ということについて深く「考える」ということだと思った。そして、良い作品というのはそれを体験する者に自然と促すような仕組みを提供する。

この話には、僕がブラクストンから得たもの、そして彼の音楽について感じることに非常に共通した部分があると思う。そしてブラクストンの音楽について、その経験という視点を最初に気付かせてくれたのが、この「フォー アルト」なのである。この作品はジャズとかそういうジャンルを超えた本当に素晴らしい音楽作品であると同時に、そのインパクトというか手応え(耳応え)も相当なものである。

僕らが日常務めている仕事について、それぞれの人間は皆プロフェッショナルのはずだ。では、日々の業務で営んでいる個々の仕事は、例えばそれが果たして"performance"なのか"composition"なのか、それを明確に答えられる人はいないだろう。それらがどう絡み合っているかを認識し、その複雑な構造に思い当たる人がいるとすれば、それはかなりその仕事にたけた人に違いないと思う。

その意味において音楽家かどうかというのは、もはや問題ではない。逆に言えば、人間の生業の本質とは、ある意味においてそういうものなのだろう。音楽ももちろんその一部である。「無茶苦茶に」とか「適当に」が通用する世界はもちろんあるだろうが、その存在は常に刹那的だ。

長々と変なことを書き連ねてしまったが、僕にとっては結構いろいろな思いのある大切な作品である。いまは非常に入手も容易になっているので、興味をもたれた方でまだ耳にされたことのない方は、是非とも臨んで取組んでみて欲しい音楽だと思う。もちろんある種の心構えは必要かもしれない。しかし、音楽を聴くと言う目的に対して、ある意味これほど純粋な形でそれなりの見返りを出してくれる作品というのも、そうそうあるものではないと思う。

次回は、最近届いたアンソニーの最近の作品を採り上げてみたいと思う。

5/07/2006

カサンドラ=ウィルソン「サンダーバード」

 連休はあっという間に終わってしまった。前半は家でだらだらと過ごし、後半は妻の実家がある広島に行った。ちょっとしたことはいろいろとあったが、時間の流れは慌ただしかった様な印象がある。気がつけばもう休みも終わりかという感じである。後半にちょっと体調を崩しかけたが、まあなんとかそれ以上悪化するのは避けられたようだ。

このところ新しく音楽を購入するのを控えて来た。というのも、海外に発注したいくつかの物件がなかなか納品されず、未着品として滞留してしまったからだ。いずれも組み物で、10枚組と4枚組と、3枚組がそれぞれ1セットずつ。最初の10枚組のものは、3月初旬に予約注文したものなのだけど、先日になってようやく発送の連絡がメールで届いた。4枚組のものは5月の初日に届いたばかり。そんなわけで、これからしばらくの間は納品ラッシュに湧くことになりそうだ。いずれもそれなりの際物であって、楽しみである。

そんな中にあって、唯一日本で購入してしまったのが今回の作品である。カサンドラは女性ジャズヴォーカリスト。スティーヴ=コールマンらを中心とするM-BASEの一派というイメージが強い。前にも書いた様に、僕はスティーヴの音楽にはある時突然目覚めて、ほとんどの作品を持っているのだが、カサンドラは1枚も持っていない。他人からCDを借りて聴いてみて、カッコいいと思ったこともあるのだが、どうしても自分で買って聴くまでには至らなかった。何か不思議な近寄り難さがあった。ヴォーカルものはそのへんの灰汁の強さがストレートに出てしまうようだ。

今回は、先に書いた様な事情もあって、ちょっとした新譜渇望状態におかれていた折りに、たまたま覗いてみたアマゾンのリコメンデーションに現れた本作に、何気にというかある意味素直に興味を惹かれた。試聴してみると、僕が知っているカサンドラの歌声はそのままだったが、どこか難しさよりも懐かしさを漂わせる内容に、知らない間に購入ボタンを押してしまった。さすがはアマゾンで押した翌々日には納品である。

連休中に興味を惹いた変わったものをいくつか書いてみると、広電(広島市内を走る市電)の車内で見かけた女性が履いていたローライズのジーンズが、見るものとしてより履くものとして妙に印象に残ってしまい、あれはなかなかカッコいいものなんだなと(遅まきながら)思ったこと。早速、ネットでいろいろ捜して1本買ってみた。こういう時、お店に出かけなくなった自分がいまや不思議でも何ともないのだが、時代も変わったものだと思う。

そしてもう一つは、ある理由で休日の救急病院というところに、半分酔っぱらった状態であったが、行かざるを得なくなったこと。これは、もちろんあまり好ましいことではないが、新鮮な経験だった。医者の世話になったのはもちろん僕ではなく、少し夜遅くから飲み始めて間もなく胃の痛みを訴えた、広島市内に住む僕の兄を連れて行ったのだ。

夜の10時を回っていたが、来院者の半分以上は子供だった。ほとんどの子は見た目は普通で、パジャマかなにかを着ていて、別になんてことはない様に見えるのだが、親が慌てた様子で「熱がある」とか「発疹がでた」とか「食べたものをモドした」と穏やかではない。大抵は特に大事ではなく、点滴とか投薬をしてもらって、親に手を引かれながらも自分で歩いて帰って行った。

兄は「急性胃炎」と診断され、痛み止めの注射と薬をもらって引き上げた。当然、宴は中止である。僕は独り深夜の市電に乗って、妻の実家に帰った。そういえば僕が昔過ごした和歌山にも、ある時代まで市電があった。夜の市電は、昼間とは違う、また普通の電車ともまったく違う独特の空間がある。暗く重い雰囲気。失敗したデートの反省を促すような雰囲気でもある(よくわからないが)。

さて、カサンドラの音楽はそうした雰囲気とは正反対に、いままでとはかなり趣を変えた陽気さと懐かしさの様なものに満ちた内容になっている。全編に漂うのはアメリカ中西部の空気。冒頭の"go to MEXICO"からそれはたっぷりと満ちている。

CDのライナーには歌詞とクレジットがあるだけだが、彼女のサイトを覗いてみると今回の作品を製作するに当たって、プロデューサーをはじめとするメンバーを一新したことなどが書かれている。また昨年秋にジョニ=ミッチェルへのトリビュートアルバムプロジェクトに参加したことなどにも触れられていて、そのあたりも今回のアルバムへの導線となっているようだ。

随所に聴かれるスライドギターに、ライ=クーダの世界に近いものが感じられる。その効果を全面的にフィーチャーした3曲目の"easy RIDER"はなかなかの大作。5曲目の"red river VALLEY"もカッコいい。今回、カサンドラ自身もアコースティックギターを弾いている。裏ジャケットでキャミソールに姿でウェスタンブーツを履いて、ギターを抱えた彼女の姿が凛々しい。

そしてもう一つ印象的なのはベースライン。2曲目の"closer to YOU"、4曲目の"it would be so EASY"、6曲目"POET"等で聴かれるアコースティックベースは、こういうベースの魅力を存分に伝えてくれる。不思議と夜中の市電にもマッチする。市電の車内は意外にうるさいのだが、これを聴いていると自分がどこか知らないところに向かっているような気分になる。

カサンドラの音楽を聴きながら、不思議なトンネルに入ってそれを抜け出たかの様な連休期間だったわけだが、なんとなくあっけなく過ぎてしまった。もしかしたらいまもまだトンネルの中なのかもしれない、などという想いも抱きつつ、明日からまた仕事である。そういえば休みの間は全くウィスキーを飲まなかった。これからシャワーを浴びて、連休の名残に少しやってみようかなと思う

Cassandra Wilson 公式サイト

4/29/2006

ピンクフロイド「あなたがここにいてほしい」

 4月は月の始めと終わりで一番寒暖の差が大きいのだそうだ。今月からシャツとジャケット中心の装いに切り替え、少し寒い時にはベストを着て体温を調節した。ベストの出番は日を追うごとにどんどん少なくなり、どうやら今週月曜日がシーズン最後になったようだ。

連休直前の4月最後の週、僕は忙しく過ごした。自分たちで行なった調査の結果を分析して、その要約を作成したり、外部からのかなり無茶な分析業務の見積もりを考えたり、発刊されるレポートのチェックをしたり、部下達ひとりひとりと面接をしたり、会社の仕事に興味を持ってくれている人たちに仕事のお話をしたり、そんな毎日だった。嫌な仕事はなかった。連休前だという高揚もないわけではなかった。でも気分は虚ろだった。

久しぶりにピンクフロイドが聴きたくなった。「あなたがここにいてほしい」。この作品は1975年に発売された。この前のアルバムで、もはや伝説と化した傑作「狂気」の後、2年半のブランクをあけて発売された傑作である。前作の突然の大ヒットによってもたらされた苦悩を、その中で彼らが切に想い起こしたかつてのバンドリーダー、シド=バレットへのオマージュというかたちで昇華しようとした内容になっている。

おそらくは多くのフロイドファンにとって、この作品が持つ不思議な象徴性あるいは精神性は、ずっと心の奥底に潜み続けながら、時折何かをきっかけにそれが激しく溢れ出すというものであるに違いない。僕にとってこのアルバムだけは、どうしても部分的に聴くということが許されない作品になっている。自分のその掟に従って、今週僕はこの作品を何度も聴き、そこに僕のなかにある何かを映してみようとした。


アルバムは全部で5つの曲からなる組曲である。頭から順にたどってみよう。

1.狂ったダイアモンド(第1部)

第1部とあるが、実際には5つのパートに分かれた作品。始まりはシンセストリングスの神秘的なフェードイン。ダイアモンドのきらめきを表す効果音が散りばめられ、その光がはっきりし始めたところに、ホーンのシンセサイザーがこれから始まる苦悩に満ちた回想のプロローグを奏でる。デヴィッド=ギルモアのギターがそれを引き継ぎ、前奏は静かにそして確実に高まっていく。ロックギターのなかでおそらく最も哀しく切ない演奏である。

前奏に続いて、狂ったダイアモンドの象徴ともいえる4つの音からなる主題が、ギターで提示される。主題はあたりを見回すようにしばらく動かずに繰り返されるが、やがてニック=メイスンのドラムに生を受け、歩くことを始める。情熱的で多感な時期を象徴するかのように、ギルモアの自由なギターソロが展開されていくが、その世界は少しずつ影と熱を帯びてゆく。

ここまできたところで、突然ロジャー=ウォータースの歌が語り始める。「憶えているかい、若かった頃のこと。君は太陽のように輝いていたね」。だが優しい言葉はこれだけで、原タイトルの"Shine on you crazy diamond!"が高らかに歌われると、あとは狂人となってしまった旧友への嘆きと怒りが次々に投げつけられる。

そして最後の「輝け!」という叫びに押し出されるように、そのままの状態で成人した男になったことを表すかのような、ディック=パリーのテナーサックスが突然現れ、徘徊を始める。4つの音からなる主題はなおも提示されるが、すぐにそこから派生した憐れみの輝きを表す美しいギターアルペジオがきらめき始める。そのきらめきと絡み合いながら、まるでダンスを踊るように朗々と謳歌するテナーサックス。この部分は僕が本当に大好きなこの曲のハイライトである。

ダンスはリズムをを強めながら続いていくが、やがて力を失ったようにリズムたちは演奏をやめてしまう。アルペジオのきらめきだけが続く中、サックスは次第に狂ったよう歌い始め、深い闇のなかへ落ちてゆく。

2.ようこそマシンへ

空前の成功を収めた前作の後、フロイドのメンバーが音楽的目的を見失ってしまい、新作に着手することができなくなってしまった。一貫して「音響派」というレッテルの下で活動を続けてきた彼らが先ず考えたのは、既成の楽器を極力使わずに、石や木など自然のもので奏でる音だけでアルバムを作ることだったそうだ。実際に数曲の録音が行なわれたらしいが、すぐに行き詰まり、メンバー自ら方向性の間違いを悟った。このアルバムはそうした苦悩から生まれた。

そして、その失敗を消し去ろうとするかのような手法で演奏されるのが、続く「ようこそマシンへ」である。この曲は2本のアコースティックギターとヴォーカル以外は、シンセサイザーを大胆かつ全面的にフィーチャーしており、その意味ではフロイド唯一のテクノ作品といってもよい。

前曲がフェードアウトするに従って、低いエンジンのような機械音が立ちこめてくる。ブザーの合図とともに機械は少しずつ稼働を本格化させ、やがてその音がこの曲のベースとなるリズムを形成し始めるや、ギターが宿命的な響きをもつコードを奏で、ギルモアの高音ヴォーカルが歌い始める「ようこそマシンへ」。

かつて、この曲を「機械文明への痛烈な批判」と紹介した卑しい評文を目にしたことをいまでも思い出す。もちろんそのような歌ではない。マシンとは、些細なもの(音楽でも何でも)から巨万の富を生み出す仕組みを意味している。資本主義とかビジネスの世界、すなわち社会そのもののことである。ここではフロイドが生まれてからミュージシャンになるまでの過去が一気に振り返られる。

「おもちゃを買ってもらい、ボーイスカウトに入団させられた」子供時代。少年になると「母親から逃れるためにギターを買い」、やがて彼はスターを夢見て「マシン」に乗り込んだ。

途中、マシンの力強さと恐ろしさを象徴するように、アナログシンセサイザーのソロが挿入されるが、後のインタビューによるとこの部分はシンセの音をできるだけクリアに残したい一心で、ソロだけを最後にダイレクトで録音したのだそうだ。その甲斐あって、このシンセソロは他にも例を見ないほどその楽器の魅力をあますところなく表現している。ELPやイエスのシンセ演奏は、奏者の技巧による魅力の部分も大きいが、僕はそれらのグループの曲よりも、この曲が最もシンセサイザーをうまく使った音楽だと思っている。

少年は曲の最後でいったんマシンを降り、高速で移動する別の乗り物にのり換えてある場所へ向かう。入り口が開くと、乱痴気パーティーの狂乱と歓喜の声に迎えられる。しかしその中を通り抜けて、さらに奥の部屋へと進んでいく。そこで彼は、このショービジネス界の大御所に出会うのである。

3.葉巻はいかが

1970年代を象徴するへヴィーなロックナンバー。全編にギルモアのギターがフィーチャーされる。そしてこの曲を歌うのは、フロイドと同じブリティッシュロック界の盟友、ロイ=ハーパーだ。フロイドの成功とショービジネス界の狂気を歌ったこの曲の歌詞を考えると、フロイドのメンバーではない人間にこれを歌わせた意図がわかる。しかし、実際には狂ったダイアモンドで喉の調子を崩したロジャーの代役だったというのが真相らしい。

ショービジネスの大御所は葉巻をすすめ、デビューした少年の成功を喜び、一所懸命におだてる。突如として大成功を収めたフロイドの動揺がそのまま表現される。途中に挟まれた「ところで、ピンクってのはどれだい?」は有名な一節だ。そして2つのコーラスはいずれも次の歌詞で締めくくられている。
「そういえばこのゲームの名前をまだ教えてなかったよな、坊や。こいつは"Riding the Gravy Train"っていうんだよ」
「甘い汁を吸う」という意味らしいが、それ以外にも麻薬のヘロインを示す隠語でもあるらしい。

歌が終わると、ギルモアのカッコいいへヴィーなギターソロが展開する。「狂ったダイアモンド」で聴かれた哀しみや気怠さなど微塵も感じさせない、ロックロックロックなギタープレイが楽しめる。盛り上がりが最高潮に達したかと思いきや、突然演奏がワイパーで拭い去られるように消されてしまう。初めて聴いた人はここで一瞬驚き、しばらくは何が起こったかとあっけにとられてしまう。もちろん故障ではない。

4.あなたがここにいてほしい

大御所との面会を終えた少年は自分の家に帰っていた。ラジオからさっきの大御所が売る音楽(葉巻はいかが)の続きが流れてくるが、少年はそのことを頭の中から消し去るように、ラジオのチャンネルを変えてしまう。しばらくチャンネルをいじっていると、やがて懐かしいブルースギターの演奏が流れてくる。

チャンネルをそこに停めて、ようやく部屋でくつろいだ彼は、おもむろにギターを手にしてラジオから流れてくるフレーズを相手に、遊びで即興演奏をして絡んでみる。ショービジネスとは無縁な素朴な音楽である。いつしか彼のギターはコードを伴奏し始め、それに合わせて、昔を懐かしむように、そしてそれが不意に口をついて出てきた言葉のように、このアルバムの中核となる意味深な歌詞を歌い始める。

この歌では、この時のフロイドが置かれた状況から、長年抑えてきたある人物への想いが無防備に吐露される。残念ながら歌詞の全文を掲載することは出来ないが、歌い出しこそはシド=バレットへのオマージュとして始まるものの、途中からは広く普遍的な意味で別離や隔絶を嘆く内容になっていて、それがある種同様の気持ちを抱く(その意味ではほとんど誰しもだと思うが)聴くものの心を激しく揺さぶるのである。

歌が終わっても、演奏は昔を懐かしむ様な雰囲気でいつまでも和やかに続けられていく。後にメンバーのインタビューで、この曲のセッションに今は亡きジャズヴァイオリンの巨匠、ステファン=グラッペリが演奏に参加していることが明らかになっている。残念ながら彼の音は普通に聴いていては絶対にわからないと思う。フェードアウトして演奏が風の音にかき消される直前に、一瞬その音色を確認することが出来る。

5.狂ったダイアモンド(第2部)

夜を吹き抜ける寂しく厳しい風の音。その中から、再び立ち上がろうとする気配を表すように、ベース、ギター、キーボード、ドラムが徐々に立ち上がりリズムを形成する。第1部とは異なり、気怠さや哀しみよりもある種の聡明さと決意感じさせるホーンのシンセの演奏が、少しずつ意識の覚醒を促す。

そしてその覚醒が完全に遂げられると、第1部同様に今度はギルモアのスティールギターがそれを引き継ぎ、今度は力強く大地を駆け始める。ギルモアを中心とするこの疾走は、まさに圧巻の一語に尽きる。この世には素晴らしいギターソロの名演は数あるが、僕はこのギルモアの演奏は、そうした中でもかなりレベルの高いものとして記録にとどめておきたいと思っている。

「狂気」のツアーが終わってしばらくのブランクを置いてスタジオに集まったフロイドは、もはやどうしようもないくらいにダラケてしまっていたらしい。しかしその状況で悩み苦しんだ挙げ句に、彼らはようやくこれだけの作品を演奏することが出来た。その復活を強烈に印象づけるのが、この部分だと思う。バンド全体が結束し、異様なまでにテンションを揚げていくギルモアのソロは、やがて天に向かって離陸する。

第2部でも、先ほどの歌とは別の立場から、短いシドへのメッセージが歌われる。嘆きや怒りが中心だった第1部とは異なり、ここでは承認と本当の意味での心からの送別の意が表される。そして、新しい旅立ちを象徴するかのような、期待にわずかな不安が入り乱れた心象が演奏される。これでシドの魂は葬られたのだろうか。

現実はそうたやすいものではない。この長い作品の最後の部分で、再び第1部冒頭に似たやりきれない様な感情が再び姿を現す。気持ち的には明るさや清々しさを取り戻せたかの様なふりをするが、演奏はそれらの気持ちを行ったり来たりするようで、暗く重い。現実として体験したものだけが味わう深い闇。しかし人は誰しも、それをかかえて進まねばならないのだ。

やがてリズムは疲れ果てたように止まる。残されたホーンシンセは、まるで酒に酔って無理矢理愉しい夢にまどろむかのように、気怠くも明るいこれからを期待する様な謎の笑みをフレーズで奏でながら去ってゆく。アルバムの冒頭と同じように、今度はシンセストリングスがそれらを乗せながらゆっくりとフェードアウトしてゆく。


少し長くなったが、これがこのアルバムの全体である。今週はほとんどこればかり聴いた。いままでにも、もう数百回は聴いてきたと思う作品だが、自分にまだこの作品を求めることがあるのは、驚きでもなんでもない。それでも今週これをこんな風に聴くことになったというのは、やはり意外だったと言えるかもしれない。

僕が映してみようと思ったものは、うまく映ったようでもあり、そうでないようにも思える。この作品を愛する他の多くの人も、多かれ少なかれ同じ様な気持ちでこれを聴くのではないだろうか。もちろん事情はひとそれぞれなのだろう。

それは、スタジオで互いの音楽をぶつけ合った人かもしれない。向き合ってディナーを楽しんだ人かもしれない。些細なメールを何度もやりあった人かもしれない。夜遅くまで会議室で話し合った人かもしれない。そっと握った手のぬくもりを忘れない人かもしれない。気の利いたジョークが小気味よい人かもしれない。どうしようもなく愚かな人かもしれない。

あなたがここにいてほしい。

4/23/2006

ダラー=ブランド「アフリカン スケッチブック」

 先週の土曜日、会社の同僚の結婚披露パーティに招かれ、日比谷の帝国ホテルにおもむいた。新郎は僕の部下で、数ヶ月前に僕が頼んでいまの職場に連れてきた男である。現在の職場の上司として、社長と僕が招かれ、社長は乾杯の発声を、僕は新郎紹介のスピーチをさせてもらった。

帝国ホテルの披露宴に出るのは初めてだった。新郎から披露パーティに出席して欲しいと言われた際、場所がそこだと聞いたので、お祝いしてあげたいという気分よりも、おいしい食事と酒が飲めるぞと喜んだのだが、それも束の間、スピーチを頼まれて少しがっかりした。スピーチが終わるまでは、酔っぱらうわけにはいかないし(そもそも披露宴で酔っぱらうものではないが)、緊張して料理と酒が楽しめないではないかと心の中でもがいた。

最近、なかなかこういう席にお招きいただく機会はない。年齢の近い知人や友人は、随分前に結婚して子供がいるか、いまだ結婚せぬままかのいずれかだ。一番最近出席したのを思い出してみると、もう4年前になる。それも当時の職場の後輩の結婚披露宴で、この時は明治神宮にある明治記念館が会場だった。

当時の僕の上司が新郎の上司でもあり、その時は彼がスピーチを担当したのだが、順番がかなり後ろの方で披露宴全体の雰囲気もなかなかフォーマル色の強いものだっただけに、彼の緊張は長く続き、あまり食事を楽しむどころではなかったようだ。その隣で、次々と料理を平らげ、職場の同僚等にジョークを飛ばしながら、水割りのおかわりを連呼する僕の姿をみて彼は言った「おめえはいいよなあ、気楽で」。

今回は僕の番かと、少し罰当たりな気持ちで臨んだのだが、パーティそのものはこじんまりとした雰囲気で、僕が司会の方からスピーチの呼び出しを受けたのも、コース料理の最初の皿を食べ終わった頃だった。

こじんまりとはいえ、やはり知らない人中心の場で何かをしゃべるのは緊張する。内容は少しネタをそろえてあったのだが、冒頭にご両家へのお祝いを述べたり、新郎と自分の関係を紹介したりすることなどについては何も考えていなかった。おまけに、緊張を和らげようと、乾杯のシャンパンを一気飲みして、ビールも飲んでいたので、ご指名を受けた時は少し頭がぼっとしてしまった。

そのあたりを即席でなんとか間に合わせて切り抜け、あとは幸いなことに用意していたネタがそこそこにウケたので、結びに自分からのアドバイスと称して、家事を分担しましょうとか、IT時代のお互いのプライバシーは十分尊重しましょうとか、訳の分からないことを並べてスピーチを無事に(?)終えることが出来た。まあ75点というところか。

終わってしまえばこっちのもの。あとは料理を堪能しながら、新郎の以前の職場の同僚らとおしゃべりしつつ、水割りコールを連呼した。僕はどうもこういう祝いの席ではワインなどに手が伸びない。料理のことを考えればワインなのかもしれないが、ウィスキーの水割りも意外にいろいろな料理に合うものである。水割のおかわりが運ばれてくる度に、僕の隣に座った新郎の元上司の女性マネージャは笑い、その声は杯を重ねるごとに大きくなっていった。

書くが後になってしまったが、新婦は非常に綺麗で明るくしっかりとした一面も持ち合わせた人だった。僕の後に行なわれた新婦の大学時代の友人によるスピーチを聞いていて、なかなか活発な方なのだなと思った。僕は席の関係で彼女の真っ正面に座ったので、最初少し緊張してしまったが、後半に入ってお色直しやスピーチが一段落した頃には、こちらの酔いもいい感じになってか、とても和やかな雰囲気のパーティとなった。

今回の作品を演奏しているダラー=ブランドは、現在アブドゥーラ=イブラヒムというイスラム名に改名した南アフリカ出身のジャズピアニスト。この作品は1969年に発表されたenjaレーベルとの契約における最初のアルバムで、内容は全編彼のソロピアノ(冒頭でフルートも演奏)となっている。

僕はこの作品を割と最近になって購入した。渋谷のディスクユニオンに行ったときに、店内で流れていたのを聴いて興味をもった。ブランドの名前は以前から知っていたが、あまり音を聴く機会はなかった。たまたま耳にしたその音楽は、独特のタッチとフレーズがとても印象的なピアノである。僕にとっては、音が遠くに広がっていくようなイメージがして、いつも気持ちよくさせてくれる。この季節に聴くのもいい。

結婚は人生のなかで大きなポイントであることは間違いない。だけどそれがどういうポイントなのかと言われても、答えは人それぞれとなるはず。でも共通して一つ言えるのは、それが皆でお祝いをしてあげる価値のある、人生に必要なポイントだということだ。それはいつ起こったとしても構わないのだ。理屈で迎えるものではないのだから。