6/17/2006

ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」

 人をあてにするというのは、一種の賭けだ。いつも信頼をおいている人だから、決して裏切られることはない、などということはあるはずがない。だからといって、全然頼りにしていない人が、時に思いがけない役割を果たしてくれる、ということも決してあり得ない話ではないが、滅多にあることではないし、それこそあてにするという性格のものではないだろう。

しかし、身近に存在するのは、いまあげたようなある意味両極端のものについては、実際には極めてレアなケースなのだと思う。大抵の人間関係は、多かれ少なかれ信頼と疑念が混在しているものだ。これを期待と不安としても構わないだろう。組織は信頼で成り立っているというのは、どんな組織についても一応、共通して言えることだとは思うが、別にこれを、組織は疑念で成り立っているとしても(逆説的ではあるのだが)間違ってはいない。

ついでに、「組織」というのも狭い言葉かもしれない。集団あるいは社会と言い換えてもいいだろう。信頼にはポジティブな響きがあり、疑念にはネガティブな響きがある。だからといって集団を形成する力が、前者にはあって後者にはないというのは、いささか安易ではないかと思ったりする。世の中でネガティブと思われる概念に耐えられない(耐えようとしない、我慢しない)、そういう人は増えているように思える。

2ヶ月ぶりに髪を切ってもらった。数年前から通っている美容院で、初めて前回と同じ人を指名した。いままで、美容師さんにいろいろアドバイスをもらうのだが、僕の髪は硬くてくせ毛で、おまけに白髪と来ているから、人によって微妙に言うことが違っていたりして、本当はこうしたいと思っているのだが、自分としても自信がないから、どうも話があるいは意識がすれ違うような(まあこちらが具体的に求めて来なかったのがいけないのだが)状況が続いて来た。それが前回担当してもらった人は、僕を望んでいる方向に導いてくれるというか、押してくれるような示唆をくれる人だった。

実は前回は髪を染めたものの、ほとんど切らなかった。それは僕が自分の希望を打ち明けた結果、その美容師さんが判断した結果だった。それで2ヶ月放っておいたので、髪は相当伸びた。確かに外見上はひどかったと思うが、僕にとっては新鮮な経験ではあった。四十過ぎの男が髪型で何を考え得るものかと、世の無関心をもよおしそうだが、別に構わない。今回はさすがに少し短くしてもらったが、基本的な僕の希望というか願いには沿っている。

さて、以前このろぐでも映画をとりあげて以降、4月頃から少しずつ読み進めていた小説「カラマーゾフの兄弟」を、先週早々についに読み終えることとなった。そんなにかかるなんて、どういう読み方をしているのか、と呆れる方もいらっしゃるかもしれないが、これが僕の読書である。でも1日につきひとつの章を読み進めるというやり方で、これだけの期間こつこつと読めたのは、やはり作品自体がもつ魅力に引っ張ってもらったところが大きい。

内容は映画よりもはるかに緻密で、深遠なものだった。僕は、時代や文化の差異を感じると同時に、現代という僕ら時代について、簡単に言葉にはできそうにないいろいろな想いを抱いた。それは信頼よりは疑念の色がやや勝っているものだった。劇作の舞台となった19世紀後半のロシアに想いを寄せることはほとんどなく、ひたすら現代社会とは何か、情報社会とは何か、そして人間とは何か、そういうことばかりが感想として残った。それは衝撃的というより圧倒的な感動だった。

西洋文明との根本的な違い(特に宗教観)故に、深く理解し難い部分がかなりあるのは事実だと思う。それでもこの小説が世界文学の金字塔といわれるのは、決して大げさな表現ではないと思う。一生に一度、これを読む機会を持てたことは感謝しなければいけないし、誇らしいことだと思う。

家族や兄弟、金、信条(宗教や伝統)、そういったものに悩む人は、悩みの渦中から少し離れた頃に、これを読んでみるのはいいと思う。言い換えれば、ほぼすべての人は、これからの時代においてもまだ当分の間は、この作品を一生に一度読むのがいい経験になるだろうと思う。ただしそれで何かお導きが得られると期待するのは、当たり前だが甘い考えだ。

僕にとってはどちらかというと、習慣的でないのが読書だ。今回は先に映像を観てしまっていたのだが、そのことは作品を読み進めるうえでのデメリットになることはなかった。といっても、多くの人は、いまや映像を観ることはかなり困難だと思う。僕の身近におられる方で興味のある方は、お声がけいただければ、よろこんで映像作品(DVD)をお貸しいたします。

こういう体験を音楽でというのは、もちろんあり得ないことではない。これを読んだ人の中で、音楽が好きな人のなかには、この作品のイメージに近い音楽作品をといわれれば、それなりの答えは用意できるかもしれない。いまの僕はそういうことは考えられないし、この先もないだろうと思う。

今日、美容院で髪を染めてもらっている間に眺めた雑誌で、読書の特集をしていて、様々なジャンルの書籍について、様々な人が紹介し語るという無謀な企画を見かけた。しかし、無謀なりにもある種のまとまりを感じたのは、それをそのような形でまとめてみる価値のあるテーマだったからに他ならないからだと思う。そして事実、その仕事はその意味ではかなりいい線をいっていたのだ。

この世界における人間の能力は、明らかに「退化」に向かっている。断っておくのはくどいかもしれないが、退化は進化と裏腹の現象であり、いずれも相対的な判断に基づくものに過ぎない。

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