11/12/2006

キース=ジャレット「カーネギー ホール コンサート」

 僕が知っている人、知らない人、いろいろな人の命が消えていった一週間だったように思う。自ら命を絶つ人に対して、僕はあまりかける言葉を持つことができない。それについてはもう一つのブログに少し書いた。わずかな同情はあるものの、僕は彼等が大きな罪を犯したことを簡単に許す気にはなれない。

それから、病でやむなく終わらざるを得なくなった命で、僕が個人的に印象深いものが2つあった。漫画家のはらたいら氏。クイズ番組の「宇宙人」としても、そして彼の作品に描かれる不思議な存在感に満ちた人物も、僕は大好きだった。

そして、僕が勤める会社のある幹部。体調を理由に突然の交代を発表してからまだ10ヶ月も経っていなかった。術後に一度だけ見かけたが、交代直前にある件をご説明にうかがった時とは、およそ比較のしようがない程やつれていた。それでも経過はまずまずと勝手に思っていただけに、週末もたらされた突然の訃報に接したときは驚いた。

一方で、新しい命のことは一層新鮮に感じられる。週末に会社の後輩が、新しい家を買ったというのでお邪魔した。そこの4歳になる男の子と、近所に住むもう1人の同僚が連れてきた1歳と少しの女の子が一緒だった。こういう場合は、子供中心に時間を過ごすことになるのはやむを得ないが、それはそれで楽しいものだ。

最近のように、個人が豊かに自分の時間を楽しむ生き方が、大人の世界でも当たり前と考える世の中になってくると、結婚や出産の割合が低くなる傾向がはっきりしてきている。いわゆる少子化の原因について議論するのは、意味のないことだとは思わないが、人間が自分独りの生き方を、どこかで求めている部分があることはいまの時代の一側面だろう。

僕は結婚してまだ6年半余りで、いまのところ子供はいない。いま感じているのは、結婚して自分の生き方が制限されたり束縛されたりすることについて、それは確かにあるものの、さほど不自由や不満を感じることはないなということ。既に自立した2人の人間(幸いにして一応共に健康である)が、一緒にやっていくのは、そのことを十分納得してお互いに尊重し合って楽しむ(ここが重要なのだが)分には、失うものより得るものの方がはるかに大きいと思う。

それよりも、やはり新しい命を産んで育む労力は、未経験のこととしてはとても大変なことのように思える。時間の使い方を始め、基本的なところで生活のスタイルに大きな変化ができるだろうということは、周囲の人の様子を見ていてそう思う。それでもいくら社会が充実して自分の時間が楽しくなろうとも、やはり人間はそこに向かうのが自然な流れである。それに気付くのにいろいろな理由で時間がかかる時代になっているのは事実かもしれない。

命のことをいつになく強く感じた一週間の最中、キース=ジャレットの新作が届いた。今回は彼としては初めての米国でのソロコンサートを、そのまま収録した内容になっている。長いものでも10分に満たない短めの即興演奏が10曲、それに5曲の既存作品(オリジナル曲とスタンダードの"Time on my hands")からなるアンコール演奏が、会場の雰囲気そのままに収録されている。

アンコールを求め鳴り止まぬ観客の熱狂的な拍手や、ステージに戻ったキースが聴衆に語りかける声などが、そっくりそのまま収録されているのだ。この構成に対する賛否はあるだろうが、制作側の熟慮の結果と素直に受け止めるのが無難だろう。キースの作品に対する評価としてはもはや月並みな表現かもしれないが、作品の内容はもう掛け値なしに素晴らしいものである。

ソロの前作「レイディアンス」にも共通したある意味でシンプルで、非常にすんなりと身体に吸収されるピアノ音楽が、今回の作品ではさらに強く濃くなっている様に感じられる。それだけキースの音楽が成熟に向かって進化を続けている証拠だと思う。聴いてみて、彼が現代世界で最も重要なピアニストであり音楽家であるという想いはさらに深まった。いつもながら極めて完成度の高い「生命に満ちあふれた生の音楽演奏」だ。

命を産み出し育むことは、先天的に備わった能力である。その先天的な能力を元に、長い営みの中からいろいろなものが生まれた。マンガも会社も音楽も。キースの音楽はその中でも、ひと際高い頂点を持つ業績の一つだと思う。

そして命を人為的に奪うことは、それが自分のものである場合も含め、やはり人間には後天的に備わった行為であり、すべての営みを否定するものである。戦争も死刑も自殺も、必然性や是非についての議論に意味はあるが、やはりそれがあってはならないということが大前提であることに違いはない。

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