5/15/2006

アンソニー=ブラクストン「フォー アルト」

 長い連休明けの一週間、これがなかなか心身共に疲れるものだった。やらねばならないことはわかっているのだが、どうも心も身体もなかなか言うことをきいてくれない。それでも木曜日あたりになって、頭の方はようやくそれらしい雰囲気になってきたのだが、身体の方がまた疲れてきていた。木曜と金曜には、それぞれプライベートと社用の飲み会があったのだが、どちらもあまりピンと来ない酒席に終わり、疲れはますます増大した。

そんな一週間を終えて迎えた土曜日。雨降りの空模様だったにもかかわらず、久しぶりに渋谷に出かけ、タワーレコードとディスクユニオンでいろいろな音楽を聴いてまわった。4月以降は初めての渋谷。新しく東京生活に加わった人達のにぎわいもあって、あいにくの空模様だったにもかかわらず賑わっていた。そういう街の空気は、僕を新鮮な気分にさせてくれた。

タワーでもユニオンでも、欲しいCDが本当にたくさんあった。普通に買えば1万数千円程度の買物にはなったはずが、今回はすべて我慢だった。1枚も買わない代わりに、試聴機にあるものをひたすら聴きまくり、勢い長時間の滞在になった。独りで外で過ごす時間として、これはこれで楽しいひと時である。昼過ぎに着いて、渋谷を出たのはもう夜になりかけていた。

なぜそこまで買うのを我慢するのか。前回のろぐで書いたように、先月と先々月にまとまって購入したものが、遅い到着ラッシュとなっていま集まって来ている。今月の前半は17枚のCDが届くことになっている。既に昨日までに7枚が到着。やっぱりこれは食べ物と同じ、買ったものはちゃんと聴かないわけにはいかない。枚数が多いとはいえ、以前のような暴飲暴食というか暴買暴聴ではない。一応、自分の興味関心をもとに、それなりに買う意味を考えて踏み切ったものなのだから。あまりつまみ食いとか、刹那的な感想だけを抱いて済ませたくはない。

さて、そのなかにリード奏者アンソニー=ブラクストンの4枚組CDが含まれている。これは5月の初日あたりに届いたもので、その内容はiPodで広島への行き帰りの新幹線をはじめに、この休み明けの仕事に気が乗らない一週間も、それなりに楽しませてもらっている。

本当は、今回はその作品をとりあげようと思ったのだが、その前にこれまで彼については何も書いていないことに気がつき、それならば、その序論として僕がアンソニーのことを気に入っている理由について書いてみるのも悪くないと思った。やはり先ず採り上げるべき作品は、僕にとって彼の最重要作であるところの「フォー アルト」かなと思った次第である。

アンソニーはいわゆる「フリー」系のジャズリード奏者であり、誤解を避けたいと願いつつ書くなら、同時に現代音楽の作曲家でもある。マルチリード奏者とも言われる様に、サックスに限らず、クラリネットやフルートなど様々な管楽器を演奏する彼だが、彼がメインとするのはやはりアルトサックスだ。そして今回の作品はそのタイトルが示す様に、アルトサックスを題材にその演奏技能と作曲の限界について、彼自身の音楽哲学を一気に収斂させた傑作である。

この作品は彼のアルトサックス1本のみの演奏で、伴奏など共演者は全くいない。当時、彼が尊敬したり親交のあった芸術家達に献上する主旨のタイトルがつけられた収録作品8つは、すべて一発録りでいわゆる多重録音やつなぎ録りは一切ない。

録音は1969年で当初はLP2枚組として発売され、いまではそれが1枚のCDで楽しめる。CD化されるまでにはそれなりの時間がかかった。僕がLPを買わなくなってもうかなりの年月が経つが、この作品は僕がそれなりの思いを持って買ったLPとしては最後の方になるものだと思う。震災前の神戸三宮にあったレコード屋で見つけて、6000円で買ったそのレコードは、いまでも大切にしまってある。

まあともかくこれを体験するには、これを聴くしかない。もちろん聴くことは本来とても簡単な行為であるはずなのだが、現代においてそれはある意味非常に容易ならざる行為になってしまっている。それは音楽に限ったことではない。文学、絵画、映像などの作品鑑賞だけでなく、広く人との付き合いや、個々の業務に始まりその集積であるところの仕事というもの、さらには恋愛やら子育てなど人間の行動全般について言えることなのだろうが、人は自由と時間というパラドックスのもと、狭い経験と乏しい情報という矛盾に束縛されていて、そのことが行動を逆に非常に限定的なものにしているということだと思う。

アンソニーの一連の作品のなかでも、とりわけ象徴的な今回の作品については、二重の誤解というか偏見があるように思う。ひとつはまったく何も知らない人が、この作品について抱くイメージの様なものなのだが、サックス1本のソロ演奏とは一体何ごとかというものである。よく知られたスタンダード演奏ではなく、それが奏者のアドリブというのは気味が悪いというもの。これは残念にしても、ある意味仕方がない偏見かもしれない。

もう一つの誤解、これは最初のものよりもある意味もっとたちが悪いものだと思うが、一度この作品を体験した人が抱いてしまう体験が、そのまま人に伝わってしまうというケースである。別に難しいことを言っているのではない。このマイナーな作品で一番有名な部分はどこかと言えば、わずか30秒に満たない静寂の演奏で終わる1曲目とは対照的に、ブラクストンのアルトサックスが10分間にわたって狂った様に咆哮する2曲目「作曲家ジョン=ケージに」であることは間違いない。

この演奏はかなり壮絶なもので、もちろん作品の重要な部分を占めていることには違いない。ここで彼がケージに対するメッセージとしているのは一体何かという問題(ブラクストンはケージのことを尊敬しているのかそれとも嫌いなのか?)についてはさておき、LP2枚組70分という全体の構成から考えて、ここで挫折あるいは満足してしまう体験者が、この作品に対するイメージをこれだけで決定的に形成してしまう危険性があるという、非常に大きな問題をはらんでいる。

この演奏を含め、収録されているブラクストンの作品は、"performance"ではなく"composition"である。8曲すべてをそれなりに聴いてみればわかることだが、ブラクストンはそれぞれの作品について、事前にかなり綿密な計画(つまり作曲)をしていることがわかる。ましてや(もはや言及する価値もないのだが)無茶苦茶に演奏してできるほど生半可なものではない。その意味で、この作品で聴かれるブラクストンのアルトは、同じアルトでも阿部薫の一連の作品で聴かれる演奏とは質的に異なる。言うまでもなく阿部のそれは"performance"であり、彼にとっての"composition"は楽器を口にして演奏するその瞬間に行われるものだ。

しかしながら、それらが結果的に同じ音楽である様に聴こえてしまうところに、もうひとつの誤解と不幸がある。実は、最近会ったある人が、阿部とブラクストンを全く同列に挙げて、あんな音楽は聴くべきでない的な発言されたのを目の当たりにして、僕はあらためてそういう認識の人が多いのだなと思った次第なのである。その人との出会いは素晴らしかったが、その台詞だけはいただけないと思った。

この作品を「無茶苦茶な演奏の記録」とするのはもちろん、阿部の作品に対するものの様に「溢れ出す(あるいはほとばしる)激しく狂わしいエモーション」などと考えるのは、やはり少しお門違いだと思う。断っておくが、僕は阿部とブラクストンのどちらが良い悪いということを言うつもりは全くない。それらはまったく異質のものであり、ある意味では異なる聴き方が必要になるのかもしれない。

ここに収録された音楽は、もちろん一音一音記譜されたものではない。彼は記譜の代わりに録音という手段を選んだだけなのだが、あくまでもいろいろな人に繰り替えし聴かれることで、自らの音楽的考えを伝えようとした作品に他ならない。8曲すべての作品に、非常に様々な音楽的アイデアやアルトサックスの技巧が盛り込まれている。しかもそのすべてが非常に高いレベルの完成度なのである。サックスの演奏を志す人はもちろん、音楽とは何かについて少し深い冒険をしてみようという人にとっては、とても多くの示唆を含んだ作品だと思う。そこにある種の未熟な偏見がつくのが残念でならない。

連休の終わり頃だったか、テレビの報道番組で、チェコのアニメーション映画監督のインタビューが放映されたのを観た。彼のアニメーションは日本のアニメとはかなり指向を異にしたものであり、セル画ベースのものではなく実物のものをコマ録りして動きやスト—リを表現するものだった。生の赤い肉片が床を這って、それがグラスの酒を飲み干したりとか、そういうシュールな表現が部分的に紹介された。

映像自体にも興味は惹かれたが、インタビューで彼が現代の芸術について、特にアーチストサイドに対して放った言葉が非常に印象的だった。「現代のアーティストに足りないものは経験である。彼等はアイデアは豊富だが、それを経験と結びつけることなく、すぐにアイデアとして作品にしようとしているように思える。結果的にそうした作品は単なるアイデアに過ぎず、芸術として必要な素質に欠けたままその多くは社会に埋もれてしまうだけになる。」確かそういった内容だったと記憶している。

僕にはこの「経験」というのが非常に深い概念になっていると感じた。ともすれば単純に「苦労が足りない」という意味に捉えられてしまうかもしれないが、僕が自分の考えていることとあわせて解釈したのは、彼が言いたいのは、実際の経験かどうかというよりも、経験ということについて深く「考える」ということだと思った。そして、良い作品というのはそれを体験する者に自然と促すような仕組みを提供する。

この話には、僕がブラクストンから得たもの、そして彼の音楽について感じることに非常に共通した部分があると思う。そしてブラクストンの音楽について、その経験という視点を最初に気付かせてくれたのが、この「フォー アルト」なのである。この作品はジャズとかそういうジャンルを超えた本当に素晴らしい音楽作品であると同時に、そのインパクトというか手応え(耳応え)も相当なものである。

僕らが日常務めている仕事について、それぞれの人間は皆プロフェッショナルのはずだ。では、日々の業務で営んでいる個々の仕事は、例えばそれが果たして"performance"なのか"composition"なのか、それを明確に答えられる人はいないだろう。それらがどう絡み合っているかを認識し、その複雑な構造に思い当たる人がいるとすれば、それはかなりその仕事にたけた人に違いないと思う。

その意味において音楽家かどうかというのは、もはや問題ではない。逆に言えば、人間の生業の本質とは、ある意味においてそういうものなのだろう。音楽ももちろんその一部である。「無茶苦茶に」とか「適当に」が通用する世界はもちろんあるだろうが、その存在は常に刹那的だ。

長々と変なことを書き連ねてしまったが、僕にとっては結構いろいろな思いのある大切な作品である。いまは非常に入手も容易になっているので、興味をもたれた方でまだ耳にされたことのない方は、是非とも臨んで取組んでみて欲しい音楽だと思う。もちろんある種の心構えは必要かもしれない。しかし、音楽を聴くと言う目的に対して、ある意味これほど純粋な形でそれなりの見返りを出してくれる作品というのも、そうそうあるものではないと思う。

次回は、最近届いたアンソニーの最近の作品を採り上げてみたいと思う。

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