7/16/2006

高橋竹山「津軽三味線」

 蒸し暑さが続くようになった。少し前までは昼間は暑くても、夜になると涼しい空気が降りて来ていたものだが、先週あたりから、東京は熱帯夜となってしまった。この時期、仕事から帰って自宅の扉を開けると先ず感じるあの熱気、忘れたくても忘れられない感覚である。とうとう寝室だけでなく、居間でもエアコンを使い始めた。

このところ、少し仕事の方が落ち着いているせいか、音楽から得られるものが多い様に思う。前回のトリオ・ビヨンドはその後何度も聴いているが、あれはまったく素晴らしい演奏である。ECMレーベルにおけるディジョネット作品の中でも、抜きん出た素晴らしさだと思う。ギターファン、オルガンファンも含め、多くの音楽好きにお薦めしたい作品である。

先週の始めに、スティーヴ=コールマンの待望の新作2枚組がようやく届き、既にiPodでヘヴィーローテーションと化している。2回通して聴いたあたりから、満足笑いが止まらない状態になった。味覚では「ほっぺたが落ちる」、視覚では「目が釘付けになる」などというが、音楽の場合はなんと言うのか。ともかく素晴らしい。これについてはなんとか興奮を抑えつつ、次回のろぐでとりあげることにしたいと思う。

一つだけ先に言っておくとしたら、スティーヴの作品は国内では一度逃すとなかなか入手が難しくなるので、気になっている人はさっさと手を打っておいた方がいい。因みに僕は、値段に目がくらんでいつものカイメンで購入したのだけれど、久しぶりにかなり(ほとんど1ヶ月ほど)待たされる結果となった。

さて、前々回にフラメンコをとりあげたが、実はそれに前後して、手持ちのコレクションにあるワールド系の音楽数点にも手が伸びていた。どれもいずれこのろぐに登場することになるだろうという名作ばかりだ。その中に、わが邦楽を代表する津軽三味線の名手、高橋竹山のベスト盤がある。今回はこれをとりあげてみたいと思う。

以前、このろぐで尺八に関連する作品をとりあげたことがあり、確かその時に書いたかと思うのだが、自分が純邦楽を好んで聴くようになるとは、若い頃には想像もつかなかったものだ。いま聴いてみると、尺八も琵琶も琴も、そして三味線も、こんな素晴らしい音楽はないと素直に感動するばかりである。

音楽でも仕事でも、そして人物でも何でもそうだと思うのだが、早く経験するということにそれなりの有効性はあるとは思うが、必ずしもそれが最良の生き方とは思わないというのが、最近の実感である。それよりも、常日頃から重要なものに巡り会うべく感性を高め、巡り会うための行動を惜しまず、そして、その巡り会いを大切にしてそこからできるだけ多くのものを引き出す努力をする、そういう姿勢が大切なのだろう。

高橋竹山は1910年に生まれ1997年に没した。生まれて間もなくかかった病がもとで、視力をほとんど失い、やがて津軽三味線の門下に入った。戦後の日本において、津軽三味線の芸術を日本全国から世界にまで拡げた大功労者である。演奏はレコードをはじめ映像などもいろいろな形で残されていて、僕らはいまそれらを通して竹山の芸術に触れることができる。

今回の作品は、彼がビクターに残した演奏の記録からベストと思われるもの14曲を収録したものらしい。僕はまだこのCD以外で高橋を聴いたことがないので、あまり軽々しくは書けないのだが、内容の素晴らしさは少し聴いただけですぐに共感できるはずである。特に津軽三味線のすべてが盛り込まれたといわれる、冒頭の「津軽総合独奏曲」の素晴らしさは圧巻である。メロディー、ハーモニー、リズム、そして三味線の音色という、音楽の基本的要素のすべての面で強烈なメッセージが伝わってくる。

二代目の高橋竹山や少し前に人気の出た吉田兄弟のように、ジャンルを超えた三味線音楽への挑戦はもちろん素晴らしいことだとは思う。しかし、僕はいまはそういう演奏には興味がない。なぜならそれらは三味線本来の魅力を世に伝えるものとしては、僕にはとても中途半端に思えるから。僕が聴きたいのは、混ぜ合わされたものの源流にある音楽だ。

三味線は習得するのが難しく、芸としてはきわめて厳しいものと言われることもある。それ故に、津軽の気候や風土の厳しさを重ねることもできるかもしれないが、実際には、お囃子やお祭りなど楽しみの感情が音楽の本質になっている。だから身を入れて耳を傾けてみると、気持ちが楽になり力が湧いてくる様になるのだ。たまに通勤の行き帰りに耳にしてみると、これが不思議と心にまで響いてくるから面白い。

蒸し暑い夜、エアコンを少し効かせた部屋で独りこの作品に耳を傾けてみる。ほとんど何も進めず、何も残していない自分がそこにいる。世の中はいつも、その時々のやり方で厳しく難しいものである。でもそれをしっかりと楽しむことが重要なのだ。

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