この数日間、段階的に毎日気温が1,2度ずつ上昇し、先週半ば過ぎあたりから熱帯夜になった。その後も気温は上がり続けているように思う。これを書いている8月5日土曜日の午後、おそらく外の気温は34度くらいあるだろう。真夏だ、今夜はビールをしこたま飲もうと、樽型の生ビールを仕入れて冷蔵庫に冷やしてある。それを飲む前に、ろぐを書いてしまおう。
このところ仕事でかかりっきりになっていたレポートを書き上げた。国内のインターネット市場動向関する内容なのだが、しばらく見ていないうちにずいぶんと市場は深く広くなった。ここ数年に誕生した若い企業の動向をいくつもとりあげた。なかには最近上場を果たした企業もある。時代の変化を感じないわけにはいかない。
企業を永遠に存続させるなどというのは、まったくもって迷惑な幻想だろう。営んでいる事業の中味を時流に合わせる努力は必要だが、それがどうしても合わないのなら、いっそやめてしまう潔さも必要だ。それが何か他の理由でできないというなら、働いている人は決して幸せではない。規模の大小に関わらず、いまそういう(あるいはそうなりかけている)企業が多いように思った。
暑いと軽快で爽やかな音楽が聴きたい、と思うほど僕の耳は素直ではない。まあそもそも軽快で爽やかなとは、一体どういうものかが人によって違うということなのだろう。ラテンやレゲエ、あるは前回とりあげた沖縄民謡は確かにそうなのかもしれないが、少し前にとりあげた津軽三味線はどうなのか、あるいはクラシックと呼ばれるジャンル(この呼び方もそろそろ整理して再考した方がいいと思う)では、何がそうなのか、などと考えているうちに、どうでもよくなって、いま自分が聴きたい音楽は何かなと本能に問うてみた結果が今回の作品につながった。
ちょっと怪しげで怖いジャケットは、当時のマイルス夫人のポートレートを2重撮りしたもの。右目と左目が重なるようにあしらわれ、全体に赤いフィルターがかけられている。なかなか夏らしいジャケットである(笑)。タイトルはフランス語のオリジナル"Filles de Kilimanjaro"の直訳。どういう真意があるのかはわからないが、単純に「アフリカ美人」という程度の意味に考えてよさそうだ。そう考えると、少しは暑さと縁のある作品なのかもしれない。
この作品に対する評価を少しネットで見てみると、「迷える名作」とか「過渡期の云々」などと奥歯にものの挟まった様な「けなし」が多いことを知って少々驚いたりもした。「あんたらアホか、どんな耳しとるんじゃ」と素直に言っておきたい。この作品は掛け値なしの大傑作である。
収録された5曲のうち3曲が、マイルスと、ウェイン=ショーター、ハービー=ハンコック、ロン=カーター、トニー=ウィリアムスからなる、いわゆる「黄金のクィンテンット」による演奏。2曲でピアノとベースがそれぞれチック=コリア、デイヴ=ホランドに替わるが、録音された時期は3ヶ月程の間隔しか開いていない。ピアノはいずれもエレクトリックピアノで、デイヴはエレキベースを演奏している。
1曲目"Frelon Brun"の出だしに興奮するかどうかで、この作品に対するその人の評価はほぼ決まる。暑さや寒さのような自分のいまいる場所の空気を、一瞬にして忘れさせて、どこか真空の世界にひき込まれるようなこの陶酔を味わえる人は幸せだ。このアルバムで重要なのは、まさにこの最初の空間移動(ワープ)である。これがないと、以下に続く楽曲で起っていることがわからずに、退屈な思いをすることになるだろう。
面白いことに、音楽のテンポが少しずつ緩んでいくような順番で、5つの曲が配列されているように思えるが、テンポに関わらずスタジオに張りつめた緊張感がそのまま伝わってくるところが、この作品の魅力なのだろう。4曲目のタイトル曲のテーマが持つ美しさと厳かなイメージは、確かにキリマンジャロである。そして、その名にふさわしいマイルスそしてショーターのソロはまさに絶品だ。
不思議なテンポとリズムを持つラストの"Mademoiselle Mabry"は、リラックスを促されながら「ただし、息をしちゃダメよ」と言われているような作品。16分間の無呼吸はさすがに無理だが、ここに至って訪れるのはまさに究極のチルアウト(chill-out)だ。消え去った4ビートジャズの後の真空に、新たな音楽が生まれた瞬間である。
サブタイトルに有難く添えられている"Directions in music by Miles Davis"というのが、当時のレコード会社の心境を表しているようで、どこか哀れな気もする。明らかに彼等はこの内容に自信がなかったのだろう。無理もない、「黄金のカルテット」ではない若い(しかも白人の)メンバーが2人加わっているうえに、エレキピアノとエレキベース、しかもリズムはもはやどの曲も4ビートではない。一見、カッコいいコピーにも見えるが、僕にはそういうふうに思える。
新しいものが生まれ、育つ。その瞬間はいつの時代にもあることだ。それは決して恣意的なものではなく、むしろ必然である場合が多い。時代はそれを阻害してはいけない。そして、老体は自分の価値観や力に宿る影響力を常に自覚し、それが及ばぬことを悟ったら、素直に自分の役割を譲る必要がある。マイルスの様な例は、多くの人にとって憧れではあるだろうが、極めて稀な存在であることは認めるべきことだろう。
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