以前にも書いたことだが、僕はあまり本を読まない。音楽のアルバムなら既に処分してしまったものも含めればそれこそ何千と耳にしてきた。だけどいま手元にある本はたぶん20冊くらいだと思う。手に取っておしまいまで読通す本は年間2、3冊くらいだろうか。これが人並みなのかどうかはわからない。
ひと昔前のライフスタイルかもしれないが、待ち合わせ場所に早く着いたので本屋さんで時間をつぶすなど、僕にはできない。何か魅力的な写真集でも眺められればいいのだが、その手の書物は大抵は中が見られないようになっている。店先に積まれた売れ筋と言われる書物は、ほとんど僕の関心外である。
本がたくさん並んでいる前に立つと、表紙やカバーや帯(いったい何のために付いているのだろう)に書かれたいろいろな宣伝文句が、風俗店の客引きみたいに僕に迫ってくるようで、ものすごく落ち着かない嫌な気分になる。本屋のメインストリートはどうしようもなくくだらない店が立ち並ぶ歓楽街のようなものだ。
おまけに活字に対する僕の目はあまり進化していなくて、音楽のように毎日いろいろなものを取り込むということができない。たいていはゆっくり意味を考えながら文字をたどるので読むのも遅い。
本当は文学にはとても興味はあるのだけど、文字で語られる世界はいい意味でも悪い意味でも理屈っぽくて具体的であり、自分の心の扉をそれに対していつでもどうぞと開けておけるほど、寛容な気持ちにはなれないのが僕の書物に対する基本姿勢のようなものなのだろう。それはもしかしたら、人間一般に対するそれと似ているのかもしれない。
さて、そんな僕が今年最初の1冊を完読した。少し前に書いていた「お楽しみ」とは、ジャック・ケルアックの小説「スクロール版 オン・ザ・ロード」のこと。
この小説は、以前、2回目に読んだ際にこのろぐでも取り上げたのだが、それがいつだったかなと振り返ってみたら、3年前の2月のことだとわかりちょっと驚いた。単なる偶然だったのか、時節からくる何かがそうさせるのか、よくわからない。その時は2週間かけて読んだと書いてある。
またこの小説のことが気になってネットで調べてみたら、草稿をそのまま出版した「スクロール版」の存在を偶然に知った。にわかに興味が抑えられなくなったものの、すぐにアマゾンでポチらないのが音楽との大きな違いである。
電子書籍がアメリカ並みに普及していればまた違ってくるのだろうが、日本のデジタルコンテンツ流通の業界はとにかく鈍く、おかげで国民は不幸である。政治家がポピュリズムに走って国のことを考えないとか言われるが、別に政治家に限ったことではあるまい。
市の図書館に蔵書があることを確かめ、都合がついたある平日の仕事帰りに立ち寄ったのがもう1か月前のことだ。カウンターで聞けばその書物は書庫にあるので出してくるのに15分ほどかかるのだという。そこでもやはり本を見ながら時間をつぶすことができず、勉強に来ているらしい若い人たちをぼんやり観察しながら待った。
今回は平日の通勤電車で座れる時間を使ってかなりマイペースに読んだ。貸出期間を延長してもらって(こういう手続きがネットで簡単にできるのは素晴らしいことだ)3週間かけて読み終えた。
読みたいという欲求の勢いに任せて早く読み終えるということをしなかったのは、この小説の世界にゆっくり浸りたかったから。読み始めてすぐに僕はそのことを悟った。
「スクロール版」とは何かについて、簡単に書いておく。
作者のケルアックは自身の生活や友人たちとの旅のなかからこの小説の構想を得たが、いくつかの試行錯誤を繰り返した後、1951年4月にようやくそれがあるひとつの確信にたどり着いた。
その確信が持つ勢いを妨げないために、彼はあらかじめロール状につながった長い紙を準備し、そこに巻物(スクロール)のごとく区切りや章立てもいれずに、ひたすらタイプライターで言葉を打ち続け、わずか3週間でこの125000語からなる長編小説を完成させたのだという。
この衝動に満ちた草稿は実にそれから6年の歳月をかけて様々な推敲を加えられ、1957年になって実際の小説作品として刊行された。ケルアック自身が所有していたスクロールの草稿は、1969年の彼の死後その行方がわからなっていたらしいが、2001年にオークションに出品され破格の落札となって話題になった。
全体のストーリー構成は刊行版とほぼ同じ内容だが、スクロール版では登場人物のほとんどが実名になっている。また刊行版につけられた第1部から第5部までのパート割りや、その中をさらに複数の章立てにする構成などもない。
スクロール版の刊行に当たっては、部や章の頭に該当する箇所にその旨の数字が振られている。これは無視することも比較的容易なので、ある意味親切な配慮だと言えるだろう。
多くの小説がそうであるように、この作品も、ケルアックが身を以て体験した実際の出来事が、彼自身の現実に近い空想でつなぎとめられたコラージュとなっている。ただおそらくは実際に目の前で起きた出来事がかなりの部分を占めているのは間違いない。
スクロール版は当時のケルアックの、後先のことを考えないストレートな感情がそのまま出ている。6年間の推敲は冷静になって、いかにして草稿が持つ衝動を傷を付けずに不都合な真実だけを消し去るかに注力した結果である。
詳しくは、河出書房のサイトにある特集コーナーなどをご覧いただきたい。また、本書の本編の後に、これを出版するにあたって尽力した研究家ハワード・キュンネルによる、極めて詳細な解説がある。
物語の中身をここで紹介するつもりはさらさらない。ある人はこれを最大級の言葉で絶賛し、ある人はなんともくだらない物語だと切り捨てる。僕はもちろん前者だ。今回初めてスクロール版を読んで、その確信はさらに間違いのないものになった。
僕は明らかにこの物語の世界に憧れている。もちろん酔っぱらいは苦手だし、Facebookが登場する60年も前に「いいね、いいね!」と連呼しながら車を走らせ、酒やそれ以上のものを呷るニールの様な男が身近にいたとしたら、興味は抱きつつもやはり早々に愛想を尽かしていることだろう。
たった数ドルでハチャメチャなどんちゃん騒ぎができるこんな生活は、半世紀以上前のアメリカだからあり得るんだとか、社会は本質的にこんないい加減さを許容しないとか、こんな世界に憧れるなんてバカげているとか、そういう意見はいくらでもあるだろう。
だけど、だからこそこの小説は素晴らしいのだと思う。実現しそうで到底実現しそうにない夢や憧れを描くのは、物語の大きな役割だ。憧れは常に未来にあるとは限らない。単に人の現実を超えたところにあるというだけだ。
世の中の平和や秩序は人々の願いであるのはもちろんだが、本来、憧れと願いは全く異なるもの。似ているとすれば、どちらも容易には叶わないし巡り会えないということだろう。
物語はある意味でもの悲しい場面で終わるのだが、今回はそれが近づくに連れて、何とも言えない切なさがこみ上げてくるのを禁じ得なかった。それは単にそのシーンで描かれる出来事に対するものではなく、この長くも短い「ロード」を降りなければならないことの辛さからくる切なさだ。
もっと続けていたい、もっと遠くに行ってみたい、もっといろいろな人々に巡り会ってみたい。そしてもっとこの狂った魂と一緒にいたい。とても現実にはできないことなのだが、その憧れがたとえ泡沫の夢であれ全身に感じさせてくれる、その力が素晴らしいのである。
それを実在の人物や出来事を通じて感じたのがケルアック自身であり、そのことを見事なまでに直感的な時空間として文字で表現しているところが、僕にとってのこの作品の素晴らしさなのである。平凡な表現ではあるのだけど。
ケルアックの「オン・ザ・ロード」に関するもう一つの嬉しいニュースを知った。2012年にとうとうこの小説が映画化されたのだそうだ。
監督は「セントラル・ステーション」や「モーターサイクル・ダイアリー」のヴァルテル・サレス。僕にはそれだけで胸が高鳴る。カンヌ映画祭にも出品されたようだが日本での公開は未定とのこと。これはなんとしても観てみたい。
僕は好きな文学作品の映画化には否定的ではない。難しいことだとは思うけど基本的にはとても素晴らしいチャレンジだと思う。以下はその予告編だが、これを視るに、日本公開時には「R15」指定はほぼ確実ではないかな。
ハンドルがある前の座席もソファーのように広々とつながった1940年代のシボレー。そこに仲良く全裸で並んで座って旅する若い3人の男女。原作でもとても印象に残るシーンで、ある意味この作品を象徴する素晴らしい場面だ。(再生ボタンを押してもいきなりこのシーンは出てきませんのでご安心ください:笑)
僕はこの小説をまた再び読むだろうか。答えはイエスだ。その際、僕はたぶんまたスクロール版を読むだろう。もちろん刊行版を先に2回読んでいたということもあるのだろうけど、たとえ翻訳であっても僕にはケルアックの見聞した世界をとてもリアルに体感することができた。
ケルアックが草稿を書き上げたのが3週間で、僕がその翻訳を読通したのも3週間。まるで両極端の才能がもたらした偶然ではあったが、実際にケルアックが書き進めたのと似た時間感覚で読み進められたことは、個人的にはとてもいい気分で満足なことだった。
実を言うと、読み終えた余韻に浸るなか、アマゾンのKindle Storeでこのスクロール版の原作を購入し、さらにiTunes Storeにあったその原作のオーディオブック(朗読)版(12時間40分だそうです)も購入した。まだまだ今後のお楽しみではあるが、いつかこれを楽しんでみたいと思っている。
物語が閉じられたとき、僕を強く包んだ何とも言えない深い寂しさ、物語にも何度も出てくる「またロードに戻りたい」という思いは、まさしくこれなのだろう。酒や麻薬や女や放蕩などのある意味表面的なアイテムは、大きな役割を持っているのは事実だが、この作品の本質を描くための道具に過ぎない。
それがこれまでの僕の人生やいまの僕の日常生活に深く大きく関係するのはもちろんだが、その関係は早々単純なものではないことは僕自身でさえ(そしておそらく誰にでも)容易に想像がつく。それもまた文学や音楽が人に与える感銘の奥深さであり、それを作る人が忘れてはいけないことなのだと思う。
もしこのろぐを読んでこの作品に興味を持たれた方がいらっしゃれば、僕はもちろん一読を強くお薦めする。その時はこのスクロール版ではなく、新訳の刊行版を読むのがいいと思う。現代の作品に比べるとそれなりのクセがあるのは事実だが、大袈裟にいうようなものは何もない。
いつか自分の子どもがこの作品を前にすることがあったなら、僕の大好きな音楽やなんかの作品と同様に、僕はそれを嬉しく思うだろうし、よろこんで背中を押したいと思う。自分からそれを勧めるということはしないだろうが、あえて子どもの目に触れさせぬようにする理由は何もない。
そして、僕自身はいつかこの物語の舞台となったアメリカ大陸のロードを、自分のこの身体で感じてみたいと思っている。これも憧れで終わってしまうかもしれないのだろうが。
少し長くなってしまったが、読み終えて以降に書き散らしたものを、熱が冷めないうちに今回ろぐにまとめておく。
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