3月最後の日に今月最後のろぐを書く。世の中的には仕事や学校などでひとつの区切りになるのが3月である。
子どもは4月から幼稚園の年中さんに無事進級見込み。お友達もできたようで、さっき寝る前にも「あしたようちえんあるの?」と、早く行きたくて仕方ない様子である。
金曜日にまたお休みをもらって家族で西伊豆土肥温泉に1泊旅行に出かけ、それはなかなかいい宿で楽しい旅になった。
伊豆は東より西の海がいい。初めて家族で訪れたのだが、あらためてそう実感した。本当はもうちょっとそのことを書いてみたいのだけど、今回はやめときます。
ひとつだけ書いておくと、久しぶりにというか、ちゃんとした記憶にあるという意味では初めてかもしれないが、美味しくて立派な「サザエの壷焼き」をいただくことができた。やっぱりアワビよりサザエである。
明日から始まる新しい仕事の年には、僕の気持ちはやっぱり前向きになれないままである。
過去1年間はマネジメントから外れてもっぱら専任職としてやって来て、まあ5割程度の力は出せたと思う。いまの職場に再び戻ってきてからのここ4年ほどの間では、一番まともに仕事をした1年間だったかもしれない。
今回、部門内でのメンバー異動などもあってまた僕がマネジメントをやることになってしまい、まあはっきり言ってご機嫌超斜めの鬱々状態である。
日曜日の今日は寒くて暗い空模様と同じく朝からどんよりした気分だった。
こんな内容のろぐで言うのもちょっと悔しいのだけど、2004年1月から始めたこの「えぬろぐ」は、今回のろぐで500エントリーを迎えることになった。
既に今年で10年目に入っていて、週末更新を原則にここまでほぼ順調にその通りやって来たわけだから、だいたいそういう計算になる。前にも書いたかもしれないが、自分でも驚きの様でもあり、自分らしいと思える様でもある。
最近はかなり愚痴まじりな内容も散見され、お見苦しさをお詫びしたい気持ちもあるけれど、まあここはなるべくストレートに行きたいと思っているので、お許しいただきたい。
かなりの深みに落ち込んだ気持ちを慰めるのに何かいい音楽はないかなと記憶に問うたところ、意外にまともな(?)ものが浮かんできたなと思えたのが、グールドの「ブラームス間奏曲集」。
どうしようもない諦めと何か叫びたいような衝動を、この極めつけ美しい旋律とお酒で少しでも紛らわせみようともがいてみることにする。
3/24/2013
焼鳥・桜・数理神秘学
仕事がそこそこ忙しい時期だが、会社のエラい人向けの資料を準備したりする一方で、子どもの誕生日を祝ったり、妻が人間ドックを受診するので仕事をお休みしたりと、気分が目まぐるしく変化した一週間だった。
金曜日の夜に、仕事上でよく世話になっている他の職場の人と、彼の地元である蒲田で一杯やった。「鳥樹」というとても素晴らしいお店。とても美味しくてお値打ち感も高く、いい飲み会となった。
「あんまり酒は強くないんですよぉ」が口癖の男だが、サシで呑みに行くのは初めて。お酒と素晴らしい料理のおかげもあって話が弾み、空いたグラスを指差して「も一杯行きます?」が続いて、ビールの大ジョッキ2杯の後に、ウィスキーの水割りを4杯ぐらい呑んだだろうか。
お互いの嫁さんのことも知っている仲とあって、いろいろとシリアスながら気さくな会話が弾み、久々に仕事関係の人でも理屈抜きに満ち足りた気分になった飲み会だった。料理の所為か翌日も喉はからからだったが頭はすっきりだった。
週末には例年よりかなり早く桜が満開となり、日曜日の午前中は散髪してもらった後、ママのお弁当を携えて近所の根岸森林公園でお花見。コンビニで牛肉コロッケと紙パックのお酒も購入した。
日照がイマイチだったのでちょっと肌寒い時間もあったが、酒をチビチビやりながらいい桜見物だった。
4歳になった子どもは以前と比べてこの広い公園での遊び方もずいぶん変わってきて、小さな森を自分から探検しようとするなど少しは逞しくなってきたように思える。単に軽く酔っぱらった親バカの勘違いだろうか。
音楽は相も変わらずかなり脈絡なくいろいろなものを聴いているのだが、最近ちょっとヘビロテ気味に気に入っているのが、デヴィッド=ギルモアの新作"Numerology-Live at Jazz Standard"。
(注:この作品のリーダーであるギタリストは、ピンクフロイドのあの人とは同名異人でありやす)
僕自身もしっかり解明してはいないのだが、音楽のリズムやハーモニー上の構造はタイトルが暗示するごとく、かなり複雑なものだが、いい音楽はそんなこと理解しなくとも自然にすっと入ってくるのが僕の持論だ。
M-Base系の音楽に浸るのは久しぶりだけど、これにはかなり強力な一発を食らった。しかも、これがライヴ録音だというから驚くばかり。とんでもない人たちである。このところご無沙汰していたスティーヴ(=コールマン)の新作も間もなく発売らしい。久しぶりに聴いてみるかな。
これは好き嫌い分かれるかもしれないけど、間違いなくジャズをベースとする音楽のなかでは現代最先端のものの一つ。どエラいものをさり気なく聴かせてしまうスリルがたまらない音楽で、最近聴いたなかではピカイチのオススメですよ!
金曜日の夜に、仕事上でよく世話になっている他の職場の人と、彼の地元である蒲田で一杯やった。「鳥樹」というとても素晴らしいお店。とても美味しくてお値打ち感も高く、いい飲み会となった。
「あんまり酒は強くないんですよぉ」が口癖の男だが、サシで呑みに行くのは初めて。お酒と素晴らしい料理のおかげもあって話が弾み、空いたグラスを指差して「も一杯行きます?」が続いて、ビールの大ジョッキ2杯の後に、ウィスキーの水割りを4杯ぐらい呑んだだろうか。
お互いの嫁さんのことも知っている仲とあって、いろいろとシリアスながら気さくな会話が弾み、久々に仕事関係の人でも理屈抜きに満ち足りた気分になった飲み会だった。料理の所為か翌日も喉はからからだったが頭はすっきりだった。
週末には例年よりかなり早く桜が満開となり、日曜日の午前中は散髪してもらった後、ママのお弁当を携えて近所の根岸森林公園でお花見。コンビニで牛肉コロッケと紙パックのお酒も購入した。
日照がイマイチだったのでちょっと肌寒い時間もあったが、酒をチビチビやりながらいい桜見物だった。
4歳になった子どもは以前と比べてこの広い公園での遊び方もずいぶん変わってきて、小さな森を自分から探検しようとするなど少しは逞しくなってきたように思える。単に軽く酔っぱらった親バカの勘違いだろうか。
音楽は相も変わらずかなり脈絡なくいろいろなものを聴いているのだが、最近ちょっとヘビロテ気味に気に入っているのが、デヴィッド=ギルモアの新作"Numerology-Live at Jazz Standard"。
(注:この作品のリーダーであるギタリストは、ピンクフロイドのあの人とは同名異人でありやす)
僕自身もしっかり解明してはいないのだが、音楽のリズムやハーモニー上の構造はタイトルが暗示するごとく、かなり複雑なものだが、いい音楽はそんなこと理解しなくとも自然にすっと入ってくるのが僕の持論だ。
M-Base系の音楽に浸るのは久しぶりだけど、これにはかなり強力な一発を食らった。しかも、これがライヴ録音だというから驚くばかり。とんでもない人たちである。このところご無沙汰していたスティーヴ(=コールマン)の新作も間もなく発売らしい。久しぶりに聴いてみるかな。
これは好き嫌い分かれるかもしれないけど、間違いなくジャズをベースとする音楽のなかでは現代最先端のものの一つ。どエラいものをさり気なく聴かせてしまうスリルがたまらない音楽で、最近聴いたなかではピカイチのオススメですよ!
3/20/2013
3/17/2013
華麗なる自転車乗り
子どもがもうすぐ4歳の誕生日を迎える。早いものというかまあ時の流れとはこんなもの。
ほぼ1年前の3歳のお誕生日プレゼントには、まだ少し早かったのだが本人が気に入った様子だったので、子供用の自転車を買ってあげていた。
補助輪を外してしばらく室内でまたがっている状況がほぼ半年以上続き、結局は補助輪をつけて外で乗り始めたのは夏も終ろうかという頃だったと思う。
ストライダーに乗っていたので、最初から補助輪なしで何とかやらせられないかという親の期待も、やはりさすがにいきなり外で乗せるのは不安になってしまい、あっさりあきらめて補助輪をつけて乗せることになった。
最初は座席を一番低くしていたので、多少ペダルを漕ぎにくそうにしていたが、座席をあげてやるとずいぶんよくなったようで、それからは結構気に入って乗ってくれるようになった。
相変わらず慎重そのもので、ブレーキの使い方はこちらが見ていてちょっとじれったくなるほどであるが、そのぶんハラハラすることは少なくなるので、まあいいかと思っていた。
子どもの自転車を見た斜め向かいの同い年のお友達も、同じのが欲しいとサンタさんにお願いしたらしく、正月以降は2人で仲良く楽しそうに乗り回す冬となった。
ところが2週間前の金曜日、僕が仕事から帰宅してみると、子どもが「あした〇〇ちゃん(斜め向かいのお友達のこと)といっしょに、ほじょりんとって、しんりんこーえんでじてんしゃにのる、もうおにいちゃんだから」とか言っている。
聞けばママどうしの会話で「そのうちに補助輪を...」とか言ったのが、子どもたちに伝わってそうなったらしい。僕なんかはまだちょっと早いんじゃないかと思ったのだが、子どもはすっかりその気である。
翌日の土曜日、まあやってみるかと補助輪を外してまたがらせてみた。サドルはさすがに足がほとんど着かないのは危ないので、半分ほど下げることにした。
最初はよろよろしてなかなか足で進むことすらできずにいたが、そのうちちょっとずつストライダーのように、足で地面を歩きながらハンドルを握って進むようにはなった。
お昼ご飯前に一度だけ、僕がサドルの後ろにある小さな取手を握って、ペダルを漕がせてみたところ、なんとかペダルはまわしたものの、車体は完全に傾いたままかろうじて僕の手で倒れないで済むという状況だった。まあやっぱりそうだよなあ。
ご飯を食べて、ママと3人で森林公園へ。米軍住宅の入り口を過ぎたところにある通称「モーガン広場」まで行って、練習してみることにした。
そこに着くまでの10分弱の道中は、もっぱら親のどちらかが子どもの肩や背中に手を置いたりして、ストライダーのように足で地面を蹴りながら進ませたのだが、モーガン広場に着くまでにはそれにもずいぶん慣れたようで、さながら大きなストライダーという様になっていた。
モーガン広場は直径50メートルほどの円形の舗道に囲まれた芝生になっている。その舗道を使ってさあ練習。ところが、僕がサドルの取手をしっかり握って押しながらペダルを漕ぐ練習を始めてみると、妙に安定している感じがする。
ふーん、と思って「パパ、手離してみようかな」とか言うと、やはり不安になるのか一瞬手を離してもすぐによろけてブレーキとなる(実は補助輪を外してからここまで、まだ一度もコロんではいなかった)。しかし押している時の安定感はどんどんよくなっている感じがした。
そこで試しに手でサドルを押しながら、「パパ持ってるよ、いいねいいね、だいぶ漕げるようになってきたね、いいよいいよ、ちゃあんと持ってるからね、パパ」とかいいながら、手の握りを緩くしていくと、これは絶対にいけると僕は確信した。
そのまま声をかけ続けながら、僕は思い切って手を離し、両手を高く上げて一緒に走った。子どもは鮮やかに僕を置いて舗道を補助輪なしの自転車で駆け抜け、その向こうで様子を見ていた妻が驚いて手を叩くのが見えた。
家を出てたった30分、補助輪なしの自転車にまたがってから1時間ほどしか経っていなかったが、いともあっさりと補助輪外しの儀式は目的を達してしまったのでありました。
そのまま広場を数回周らせてみたけど、転ぶこともなく、止まるのもちゃんと自分でブレーキをかけて足を着いてできました。これには2人ともビックリ。ストライダーの効果はあったんだね。それとやっぱり本人が自転車が好きなんだろうなあ。
帰りも安定した走りでほとんど自力でペダルを踏んで、無事に自宅に着いたのであります。その夜はもちろん「お祝い」と称して飲んだのは言うまでもありません(笑)。
(おまけ)前回のろぐに書いたカートにやられた翌日、子どもと2人でお台場に行ってきました。先のCDショップ大賞記念ライブで訪れた、ダイバーシティTokyoにある実物大のガンダムを子どもに見せてあげたかったのです。
子どもはすっかり魅了されてしまい、結局館内にある展示スペースを見学したりしてあっという間に3時間が過ぎてしまいました。
帰る前にガンダムカフェの店頭でやったガチャガチャで、見事にガンダムが出てきてご満悦の様でした。ガンダムはまさに平成の大仏ですね。
しかし、結局帰りには銀座の博品館に寄らされてしまいました。お目当ては3階にあるブリオの木製レールコーナー(昨夏以来もう何回きたことか...)。この日は約1時間と短めの滞在で気が済んだ様です。
もうすぐ4歳だね。ありがとう。
ほぼ1年前の3歳のお誕生日プレゼントには、まだ少し早かったのだが本人が気に入った様子だったので、子供用の自転車を買ってあげていた。
補助輪を外してしばらく室内でまたがっている状況がほぼ半年以上続き、結局は補助輪をつけて外で乗り始めたのは夏も終ろうかという頃だったと思う。
ストライダーに乗っていたので、最初から補助輪なしで何とかやらせられないかという親の期待も、やはりさすがにいきなり外で乗せるのは不安になってしまい、あっさりあきらめて補助輪をつけて乗せることになった。
最初は座席を一番低くしていたので、多少ペダルを漕ぎにくそうにしていたが、座席をあげてやるとずいぶんよくなったようで、それからは結構気に入って乗ってくれるようになった。
相変わらず慎重そのもので、ブレーキの使い方はこちらが見ていてちょっとじれったくなるほどであるが、そのぶんハラハラすることは少なくなるので、まあいいかと思っていた。
子どもの自転車を見た斜め向かいの同い年のお友達も、同じのが欲しいとサンタさんにお願いしたらしく、正月以降は2人で仲良く楽しそうに乗り回す冬となった。
ところが2週間前の金曜日、僕が仕事から帰宅してみると、子どもが「あした〇〇ちゃん(斜め向かいのお友達のこと)といっしょに、ほじょりんとって、しんりんこーえんでじてんしゃにのる、もうおにいちゃんだから」とか言っている。
聞けばママどうしの会話で「そのうちに補助輪を...」とか言ったのが、子どもたちに伝わってそうなったらしい。僕なんかはまだちょっと早いんじゃないかと思ったのだが、子どもはすっかりその気である。
翌日の土曜日、まあやってみるかと補助輪を外してまたがらせてみた。サドルはさすがに足がほとんど着かないのは危ないので、半分ほど下げることにした。
最初はよろよろしてなかなか足で進むことすらできずにいたが、そのうちちょっとずつストライダーのように、足で地面を歩きながらハンドルを握って進むようにはなった。
お昼ご飯前に一度だけ、僕がサドルの後ろにある小さな取手を握って、ペダルを漕がせてみたところ、なんとかペダルはまわしたものの、車体は完全に傾いたままかろうじて僕の手で倒れないで済むという状況だった。まあやっぱりそうだよなあ。
ご飯を食べて、ママと3人で森林公園へ。米軍住宅の入り口を過ぎたところにある通称「モーガン広場」まで行って、練習してみることにした。
そこに着くまでの10分弱の道中は、もっぱら親のどちらかが子どもの肩や背中に手を置いたりして、ストライダーのように足で地面を蹴りながら進ませたのだが、モーガン広場に着くまでにはそれにもずいぶん慣れたようで、さながら大きなストライダーという様になっていた。
モーガン広場は直径50メートルほどの円形の舗道に囲まれた芝生になっている。その舗道を使ってさあ練習。ところが、僕がサドルの取手をしっかり握って押しながらペダルを漕ぐ練習を始めてみると、妙に安定している感じがする。
ふーん、と思って「パパ、手離してみようかな」とか言うと、やはり不安になるのか一瞬手を離してもすぐによろけてブレーキとなる(実は補助輪を外してからここまで、まだ一度もコロんではいなかった)。しかし押している時の安定感はどんどんよくなっている感じがした。
そこで試しに手でサドルを押しながら、「パパ持ってるよ、いいねいいね、だいぶ漕げるようになってきたね、いいよいいよ、ちゃあんと持ってるからね、パパ」とかいいながら、手の握りを緩くしていくと、これは絶対にいけると僕は確信した。
そのまま声をかけ続けながら、僕は思い切って手を離し、両手を高く上げて一緒に走った。子どもは鮮やかに僕を置いて舗道を補助輪なしの自転車で駆け抜け、その向こうで様子を見ていた妻が驚いて手を叩くのが見えた。
家を出てたった30分、補助輪なしの自転車にまたがってから1時間ほどしか経っていなかったが、いともあっさりと補助輪外しの儀式は目的を達してしまったのでありました。
そのまま広場を数回周らせてみたけど、転ぶこともなく、止まるのもちゃんと自分でブレーキをかけて足を着いてできました。これには2人ともビックリ。ストライダーの効果はあったんだね。それとやっぱり本人が自転車が好きなんだろうなあ。
帰りも安定した走りでほとんど自力でペダルを踏んで、無事に自宅に着いたのであります。その夜はもちろん「お祝い」と称して飲んだのは言うまでもありません(笑)。
(おまけ)前回のろぐに書いたカートにやられた翌日、子どもと2人でお台場に行ってきました。先のCDショップ大賞記念ライブで訪れた、ダイバーシティTokyoにある実物大のガンダムを子どもに見せてあげたかったのです。
子どもはすっかり魅了されてしまい、結局館内にある展示スペースを見学したりしてあっという間に3時間が過ぎてしまいました。
帰る前にガンダムカフェの店頭でやったガチャガチャで、見事にガンダムが出てきてご満悦の様でした。ガンダムはまさに平成の大仏ですね。
しかし、結局帰りには銀座の博品館に寄らされてしまいました。お目当ては3階にあるブリオの木製レールコーナー(昨夏以来もう何回きたことか...)。この日は約1時間と短めの滞在で気が済んだ様です。
もうすぐ4歳だね。ありがとう。
3/16/2013
カート・ローゼンウィンクル@モーションブルー横浜
いやあ〜とうとう目撃しましたよ。この目でこの耳でこの身体でしっかり受けとめて来ました、カート・ローゼンウィンクルを!赤レンガのモーションブルー横浜にたった1日でしたが来てくれました。
モーションブルーに行くのは初めて。6時半スタートのファーストセットに間に合わせるべく、会社を少し早めに失礼させていただきました
m(_ _)m。
友人と待ち合わせてお店の受付に並ぼうとしたら、お店の前の階段を降りて来るどこかで見たことのある白人男性とすれ違いました。カートその人でありました(笑)。女性と一緒でしたが、リハ終えて奥様(?)と港の海風にでも当たりに行ったのかな。
店内は青山のブルーノートを思わせる造りで、シンプルなこじんまりとしたスペース。いい感じです。整理券に並んで入場したと思われる若きギターフリークたちがフロントのテーブルを埋め尽くしているのは嬉しかったです。
仕方ないので、ステージを左の真横から見るカウンター席に陣取りました。これ初めてのアングルでしたが、結果的にはなかなか楽しめました。カートの左手さばきが丸見えでしたからねえ。
さて今回はアルバム"Star of Jupiter"のツアーとあって、披露された6曲すべてがその曲でありました。もちろんメンバーはあのまんまの顔ぶれであります。もうこれだけで至福。
前半先ずは"Welcome Home","Something, Sometime","Heavenly Bodies"3曲を続けて演奏。まさにあの音あの声です。時折、ちらりと凄みを垣間見せつつも、まだまだ慣らし運転的な展開でした(この後に起こったことに比べれば)。
カートによるメンバー紹介などMCを挟んで、"A Shifting Design"に入ったのですが、いやあ〜きたきたキタキター!ついに伝家の宝刀が抜かれてしまいましたよ。どうするよ〜コレぇ〜。
興奮で一瞬凍りつく場内、まさにスリリングであります。若者たちよ、幸せだねえこんな素晴らしいものをその歳で目の当たりにできるなんて。みんないい顔で夢中に聴き入ってます。
続けて、カートのソロを冒頭にフィーチャーした"Under It All"をじっくり聴かせてくれて、緊張感は持続しつつもこれが恐ろしい終末への誘いであることはもう覚悟しなければなりません。
さあラストはアルバムタイトル曲とオープニング曲のどっちをやるのかなあと思ったけど、"Gamma Band"でしたねぇ。アルバム版にあるソロの前奏なしに、いきなりあのコードを畳み掛けるようなイントロが、カートの手で奏でられるとこちらは顔面からもう血の気が引きましたわ。
ジャスティン・フォークナーのドラムがもう最初から容赦ない激しさであのビートを叩き付け、会場全体が魔法の絨毯のごとく動き出したかと思うと、あの全音符3コードのテーマが恐怖の階段をゆっくりと着実に昇っていきます。降ろしてくれえぇー!と叫ぶ人はいませんが、もう遅いです、ハイ。
間髪入れずに突入したカートのソロは、もうスゴいのなんのって、松平健の殺陣も真っ青のまさしくギター暴れん坊将軍カートによる、真剣乱れ斬りのオンパレードで、場内は一瞬にして音符の血の海と化したのであります。視覚がおかしくなって赤以外の色感覚がなくなりましたよ、マジで。
ギターソロが終わってさらにまたあの恐怖の畳み掛けコードと全音符階段のテーマが奏でられ、曲が新たなステージに上がったと思うと、今度はアーロン・パークスのピアノ天国に突入。リズム隊のテンションはさらにあがって、エリック・レヴィスはベースを弾いてるのか抱きついてるのかわからんような仕種になってます。視覚はもはやシャッタースピード1秒以上のブレブレ世界です。
そしてピアノソロが終わったと見るや、カートがまた恐怖の旋律を弾き始めて、やっとテーマに帰ってきたかと思ったのも束の間、とうとうジャスティン・フォークナーのお時間がやって来てしまいました。僕含め数名の観客が絶叫する中、最上階まで昇りつめた全員がスティック百叩き無限地獄の刑であります。もうコワレタ。。。
アンコールは「まだやったことない曲なんだけど、聴いてみたいかい?」と会場に問いかけ、「曲名は"Unknown"です」と言って演ってくれました。これだけは楽譜見ながらでしたが、相変わらず緩急と密度の変化が凄まじいカート節でした。
いやあ、いろんなライブを見てますが、こんなに1曲の中だけでなく、ライブ全体を通してダイナミクスの変化が激しい演奏は初めてでしたね。やっぱり音楽は生ですよ!生!
今回、いつもこの手をライブに一緒に行っている同僚が、直前になってご不幸があって一緒に行けなかったのは残念でした。また行きましょうね。
代わって急遽のお誘いを快く受けてくださった元同期の友人には感謝でありやす。ライヴがはねた後は、2人にとって想い出の(?)「L.A.S.T.」で濃いお酒をやりながら、彼の極めて興味深い人生についてお話を伺えました。ここには何にも書けませんが、相変わらず脱帽ものの波乱万丈でありました。
とにかくスゴいもん観たよ。今夜は。
モーションブルーに行くのは初めて。6時半スタートのファーストセットに間に合わせるべく、会社を少し早めに失礼させていただきました
m(_ _)m。
友人と待ち合わせてお店の受付に並ぼうとしたら、お店の前の階段を降りて来るどこかで見たことのある白人男性とすれ違いました。カートその人でありました(笑)。女性と一緒でしたが、リハ終えて奥様(?)と港の海風にでも当たりに行ったのかな。
店内は青山のブルーノートを思わせる造りで、シンプルなこじんまりとしたスペース。いい感じです。整理券に並んで入場したと思われる若きギターフリークたちがフロントのテーブルを埋め尽くしているのは嬉しかったです。
仕方ないので、ステージを左の真横から見るカウンター席に陣取りました。これ初めてのアングルでしたが、結果的にはなかなか楽しめました。カートの左手さばきが丸見えでしたからねえ。
さて今回はアルバム"Star of Jupiter"のツアーとあって、披露された6曲すべてがその曲でありました。もちろんメンバーはあのまんまの顔ぶれであります。もうこれだけで至福。
前半先ずは"Welcome Home","Something, Sometime","Heavenly Bodies"3曲を続けて演奏。まさにあの音あの声です。時折、ちらりと凄みを垣間見せつつも、まだまだ慣らし運転的な展開でした(この後に起こったことに比べれば)。
カートによるメンバー紹介などMCを挟んで、"A Shifting Design"に入ったのですが、いやあ〜きたきたキタキター!ついに伝家の宝刀が抜かれてしまいましたよ。どうするよ〜コレぇ〜。
興奮で一瞬凍りつく場内、まさにスリリングであります。若者たちよ、幸せだねえこんな素晴らしいものをその歳で目の当たりにできるなんて。みんないい顔で夢中に聴き入ってます。
続けて、カートのソロを冒頭にフィーチャーした"Under It All"をじっくり聴かせてくれて、緊張感は持続しつつもこれが恐ろしい終末への誘いであることはもう覚悟しなければなりません。
さあラストはアルバムタイトル曲とオープニング曲のどっちをやるのかなあと思ったけど、"Gamma Band"でしたねぇ。アルバム版にあるソロの前奏なしに、いきなりあのコードを畳み掛けるようなイントロが、カートの手で奏でられるとこちらは顔面からもう血の気が引きましたわ。
ジャスティン・フォークナーのドラムがもう最初から容赦ない激しさであのビートを叩き付け、会場全体が魔法の絨毯のごとく動き出したかと思うと、あの全音符3コードのテーマが恐怖の階段をゆっくりと着実に昇っていきます。降ろしてくれえぇー!と叫ぶ人はいませんが、もう遅いです、ハイ。
間髪入れずに突入したカートのソロは、もうスゴいのなんのって、松平健の殺陣も真っ青のまさしくギター暴れん坊将軍カートによる、真剣乱れ斬りのオンパレードで、場内は一瞬にして音符の血の海と化したのであります。視覚がおかしくなって赤以外の色感覚がなくなりましたよ、マジで。
ギターソロが終わってさらにまたあの恐怖の畳み掛けコードと全音符階段のテーマが奏でられ、曲が新たなステージに上がったと思うと、今度はアーロン・パークスのピアノ天国に突入。リズム隊のテンションはさらにあがって、エリック・レヴィスはベースを弾いてるのか抱きついてるのかわからんような仕種になってます。視覚はもはやシャッタースピード1秒以上のブレブレ世界です。
そしてピアノソロが終わったと見るや、カートがまた恐怖の旋律を弾き始めて、やっとテーマに帰ってきたかと思ったのも束の間、とうとうジャスティン・フォークナーのお時間がやって来てしまいました。僕含め数名の観客が絶叫する中、最上階まで昇りつめた全員がスティック百叩き無限地獄の刑であります。もうコワレタ。。。
アンコールは「まだやったことない曲なんだけど、聴いてみたいかい?」と会場に問いかけ、「曲名は"Unknown"です」と言って演ってくれました。これだけは楽譜見ながらでしたが、相変わらず緩急と密度の変化が凄まじいカート節でした。
いやあ、いろんなライブを見てますが、こんなに1曲の中だけでなく、ライブ全体を通してダイナミクスの変化が激しい演奏は初めてでしたね。やっぱり音楽は生ですよ!生!
今回、いつもこの手をライブに一緒に行っている同僚が、直前になってご不幸があって一緒に行けなかったのは残念でした。また行きましょうね。
代わって急遽のお誘いを快く受けてくださった元同期の友人には感謝でありやす。ライヴがはねた後は、2人にとって想い出の(?)「L.A.S.T.」で濃いお酒をやりながら、彼の極めて興味深い人生についてお話を伺えました。ここには何にも書けませんが、相変わらず脱帽ものの波乱万丈でありました。
とにかくスゴいもん観たよ。今夜は。
3/10/2013
CDショップ大賞スペシャルLIVE
先週、お台場のライブハウス「Zepp DiverCity Tokyo」で開催された、「CDショップ大賞スペシャルLIVE」に行ってきました。お目当てはもちろんももクロちゃんだったのですが...。
キャパが2000人ちょっとの会場で行われる、他のアーチストとの合同イベントなのですが、一度観てみたかったんだよねこういうの。彼女たちの生の姿を至近距離で感じられるっていうのは、やはり貴重な何事にも代え難いメリット。
そうは言っても東京のど真ん中で行われるイベントなので、キャパが少ない分競争率も大変なもの。しかしやはり申込まないことには当たりません、ということで申込んだところ、やったぞおぉぉっ〜!となりました。
正直、当選のメールを受け取った時は、最初何か間違ったものに申込んじゃったのかなと、ちょっと不安になったくらいでした。
早速、翌日に職場のももクロ仲間に報告したところ、大いなる動揺メールが返ってきましたが、ともかく当日は万難排して参加することを誓った2人なのでありました。
当日のライブが始まるまでの2人の行動は諸事情のため省略いたします(笑)
こういうライブハウスって、僕自身としてはブルーノートやドルフィーなんかのジャズクラブを別にすれば、社会人になって2、3年目の頃に憂歌団を聴きいった渋谷のクラブクアトロ以来のこと。実に20数年ぶりでした。
今回は、第4回CDショップ大賞受賞のももクロの他に、第1回大賞のやくしまるえつこさんのロックグループ「相対性理論」、そして今回第5回大賞のロックグループ「MAN WITH A MISSION」の3組が出演。
相対性理論は今回の当選が決まってから初めて聴いてみたのですが、これがイイのですよ非常に。すぐにハマってしまいました。
やくしまるさんのことは、ももクロの「Z女戦争」の作者として、あるいは子どもが視ているNHKの「みんなのうた」で放映された「ヤミヤミ」の作者&歌手として知ってたんだけど、バンドの方はまたウマい人が揃っていてスゴい世界。そちらも大きな楽しみになりました。
もう一組のMAN WITH A MISSIONは、受賞発表の当日まで僕はまったく視たことも聴いたこともないグループでした。オープニングを飾ったのは彼らでした。
トレードマークのオオカミの被り物で登場したメンバーたち。1曲目をスタートさせてすぐに、僕にも電気がビビビビビーッでした!。やっぱりロックっていいなあ〜バンドっていいなあ〜若いっていいなあ〜。
みんなすごくウマいんだよねえ。演奏のパワーと安定感は抜群であります。被り物がオチャラケではないことをしっかり感じさせてくれました。
会場はモノノフが多数を占めてましたが、彼ら目当ての人たちもいて、バンドのウネリにあわせて踊りまくる様子に思わずつられましたが、この調子でノレば明日会社に行けないかもという情けない自制が働いたのも事実です(悔)。
続いていよいよももクロの登場。スタンディングなので常に全身ばっちり見えるというわけではないのですが、それでも5メートルくらいの至近距離で観る彼女たちの輝きは超眩しかったです。正直他のバンドにも負けてない存在感ですよ。
僕の推しメンで、年初から喉の治療で声なしで活動している杏果ちゃんの声は今回も聴くことができなかったけど、やっぱり姿がすぐそこにあるというだけで、もう十分ですよね。本当にみんな輝いてました。素晴らしい!
受賞アルバム以後に発表された4つのシングルのタイトル曲を演じてくれたのですが、後になってそれが間もなく発売される次のアルバムに収録されるのだとわかりました。ニューアルバムも楽しみになってきたなあ。
3組目に登場した相対性理論では、いきなり冒頭で「Z女戦争」が演奏されてビックリ。やくしまるさんの存在感は圧倒的だったけどそれに負けず、やっぱりバックの4人がもうヤバいくらいにすごいのですよ。
iPodで聴いてきたスタジオ作品よりもはるかに強力なエネルギー感じました。ここでもやっぱりロックっていいなあ〜バンドっていいなあ〜と、身体と心のなかに熱いものが流れたのでありやす。
こうして日常生活から完全に切り離された3時間弱の体験は終わり、友達とりんかい線で別れた後は半分にやけながらも、じっとしてられないのに何も始められない虚しさのようなものを感じながら、ボーっと家路に着いたのでありました。
ももクロはもちろんですが、この日体験した2つのバンドもまた機会があれば観に行ってみたいと思います。オススメです!やっぱり日本の音楽文化はスゴいです!
キャパが2000人ちょっとの会場で行われる、他のアーチストとの合同イベントなのですが、一度観てみたかったんだよねこういうの。彼女たちの生の姿を至近距離で感じられるっていうのは、やはり貴重な何事にも代え難いメリット。
そうは言っても東京のど真ん中で行われるイベントなので、キャパが少ない分競争率も大変なもの。しかしやはり申込まないことには当たりません、ということで申込んだところ、やったぞおぉぉっ〜!となりました。
正直、当選のメールを受け取った時は、最初何か間違ったものに申込んじゃったのかなと、ちょっと不安になったくらいでした。
早速、翌日に職場のももクロ仲間に報告したところ、大いなる動揺メールが返ってきましたが、ともかく当日は万難排して参加することを誓った2人なのでありました。
当日のライブが始まるまでの2人の行動は諸事情のため省略いたします(笑)
こういうライブハウスって、僕自身としてはブルーノートやドルフィーなんかのジャズクラブを別にすれば、社会人になって2、3年目の頃に憂歌団を聴きいった渋谷のクラブクアトロ以来のこと。実に20数年ぶりでした。
今回は、第4回CDショップ大賞受賞のももクロの他に、第1回大賞のやくしまるえつこさんのロックグループ「相対性理論」、そして今回第5回大賞のロックグループ「MAN WITH A MISSION」の3組が出演。
相対性理論は今回の当選が決まってから初めて聴いてみたのですが、これがイイのですよ非常に。すぐにハマってしまいました。
やくしまるさんのことは、ももクロの「Z女戦争」の作者として、あるいは子どもが視ているNHKの「みんなのうた」で放映された「ヤミヤミ」の作者&歌手として知ってたんだけど、バンドの方はまたウマい人が揃っていてスゴい世界。そちらも大きな楽しみになりました。
もう一組のMAN WITH A MISSIONは、受賞発表の当日まで僕はまったく視たことも聴いたこともないグループでした。オープニングを飾ったのは彼らでした。
トレードマークのオオカミの被り物で登場したメンバーたち。1曲目をスタートさせてすぐに、僕にも電気がビビビビビーッでした!。やっぱりロックっていいなあ〜バンドっていいなあ〜若いっていいなあ〜。
みんなすごくウマいんだよねえ。演奏のパワーと安定感は抜群であります。被り物がオチャラケではないことをしっかり感じさせてくれました。
会場はモノノフが多数を占めてましたが、彼ら目当ての人たちもいて、バンドのウネリにあわせて踊りまくる様子に思わずつられましたが、この調子でノレば明日会社に行けないかもという情けない自制が働いたのも事実です(悔)。
続いていよいよももクロの登場。スタンディングなので常に全身ばっちり見えるというわけではないのですが、それでも5メートルくらいの至近距離で観る彼女たちの輝きは超眩しかったです。正直他のバンドにも負けてない存在感ですよ。
僕の推しメンで、年初から喉の治療で声なしで活動している杏果ちゃんの声は今回も聴くことができなかったけど、やっぱり姿がすぐそこにあるというだけで、もう十分ですよね。本当にみんな輝いてました。素晴らしい!
受賞アルバム以後に発表された4つのシングルのタイトル曲を演じてくれたのですが、後になってそれが間もなく発売される次のアルバムに収録されるのだとわかりました。ニューアルバムも楽しみになってきたなあ。
3組目に登場した相対性理論では、いきなり冒頭で「Z女戦争」が演奏されてビックリ。やくしまるさんの存在感は圧倒的だったけどそれに負けず、やっぱりバックの4人がもうヤバいくらいにすごいのですよ。
iPodで聴いてきたスタジオ作品よりもはるかに強力なエネルギー感じました。ここでもやっぱりロックっていいなあ〜バンドっていいなあ〜と、身体と心のなかに熱いものが流れたのでありやす。
こうして日常生活から完全に切り離された3時間弱の体験は終わり、友達とりんかい線で別れた後は半分にやけながらも、じっとしてられないのに何も始められない虚しさのようなものを感じながら、ボーっと家路に着いたのでありました。
ももクロはもちろんですが、この日体験した2つのバンドもまた機会があれば観に行ってみたいと思います。オススメです!やっぱり日本の音楽文化はスゴいです!
3/03/2013
「オン・ザ・ロード」オリジナル スクロール版
以前にも書いたことだが、僕はあまり本を読まない。音楽のアルバムなら既に処分してしまったものも含めればそれこそ何千と耳にしてきた。だけどいま手元にある本はたぶん20冊くらいだと思う。手に取っておしまいまで読通す本は年間2、3冊くらいだろうか。これが人並みなのかどうかはわからない。
ひと昔前のライフスタイルかもしれないが、待ち合わせ場所に早く着いたので本屋さんで時間をつぶすなど、僕にはできない。何か魅力的な写真集でも眺められればいいのだが、その手の書物は大抵は中が見られないようになっている。店先に積まれた売れ筋と言われる書物は、ほとんど僕の関心外である。
本がたくさん並んでいる前に立つと、表紙やカバーや帯(いったい何のために付いているのだろう)に書かれたいろいろな宣伝文句が、風俗店の客引きみたいに僕に迫ってくるようで、ものすごく落ち着かない嫌な気分になる。本屋のメインストリートはどうしようもなくくだらない店が立ち並ぶ歓楽街のようなものだ。
おまけに活字に対する僕の目はあまり進化していなくて、音楽のように毎日いろいろなものを取り込むということができない。たいていはゆっくり意味を考えながら文字をたどるので読むのも遅い。
本当は文学にはとても興味はあるのだけど、文字で語られる世界はいい意味でも悪い意味でも理屈っぽくて具体的であり、自分の心の扉をそれに対していつでもどうぞと開けておけるほど、寛容な気持ちにはなれないのが僕の書物に対する基本姿勢のようなものなのだろう。それはもしかしたら、人間一般に対するそれと似ているのかもしれない。
さて、そんな僕が今年最初の1冊を完読した。少し前に書いていた「お楽しみ」とは、ジャック・ケルアックの小説「スクロール版 オン・ザ・ロード」のこと。
この小説は、以前、2回目に読んだ際にこのろぐでも取り上げたのだが、それがいつだったかなと振り返ってみたら、3年前の2月のことだとわかりちょっと驚いた。単なる偶然だったのか、時節からくる何かがそうさせるのか、よくわからない。その時は2週間かけて読んだと書いてある。
またこの小説のことが気になってネットで調べてみたら、草稿をそのまま出版した「スクロール版」の存在を偶然に知った。にわかに興味が抑えられなくなったものの、すぐにアマゾンでポチらないのが音楽との大きな違いである。
電子書籍がアメリカ並みに普及していればまた違ってくるのだろうが、日本のデジタルコンテンツ流通の業界はとにかく鈍く、おかげで国民は不幸である。政治家がポピュリズムに走って国のことを考えないとか言われるが、別に政治家に限ったことではあるまい。
市の図書館に蔵書があることを確かめ、都合がついたある平日の仕事帰りに立ち寄ったのがもう1か月前のことだ。カウンターで聞けばその書物は書庫にあるので出してくるのに15分ほどかかるのだという。そこでもやはり本を見ながら時間をつぶすことができず、勉強に来ているらしい若い人たちをぼんやり観察しながら待った。
今回は平日の通勤電車で座れる時間を使ってかなりマイペースに読んだ。貸出期間を延長してもらって(こういう手続きがネットで簡単にできるのは素晴らしいことだ)3週間かけて読み終えた。
読みたいという欲求の勢いに任せて早く読み終えるということをしなかったのは、この小説の世界にゆっくり浸りたかったから。読み始めてすぐに僕はそのことを悟った。
「スクロール版」とは何かについて、簡単に書いておく。
作者のケルアックは自身の生活や友人たちとの旅のなかからこの小説の構想を得たが、いくつかの試行錯誤を繰り返した後、1951年4月にようやくそれがあるひとつの確信にたどり着いた。
その確信が持つ勢いを妨げないために、彼はあらかじめロール状につながった長い紙を準備し、そこに巻物(スクロール)のごとく区切りや章立てもいれずに、ひたすらタイプライターで言葉を打ち続け、わずか3週間でこの125000語からなる長編小説を完成させたのだという。
この衝動に満ちた草稿は実にそれから6年の歳月をかけて様々な推敲を加えられ、1957年になって実際の小説作品として刊行された。ケルアック自身が所有していたスクロールの草稿は、1969年の彼の死後その行方がわからなっていたらしいが、2001年にオークションに出品され破格の落札となって話題になった。
全体のストーリー構成は刊行版とほぼ同じ内容だが、スクロール版では登場人物のほとんどが実名になっている。また刊行版につけられた第1部から第5部までのパート割りや、その中をさらに複数の章立てにする構成などもない。
スクロール版の刊行に当たっては、部や章の頭に該当する箇所にその旨の数字が振られている。これは無視することも比較的容易なので、ある意味親切な配慮だと言えるだろう。
多くの小説がそうであるように、この作品も、ケルアックが身を以て体験した実際の出来事が、彼自身の現実に近い空想でつなぎとめられたコラージュとなっている。ただおそらくは実際に目の前で起きた出来事がかなりの部分を占めているのは間違いない。
スクロール版は当時のケルアックの、後先のことを考えないストレートな感情がそのまま出ている。6年間の推敲は冷静になって、いかにして草稿が持つ衝動を傷を付けずに不都合な真実だけを消し去るかに注力した結果である。
詳しくは、河出書房のサイトにある特集コーナーなどをご覧いただきたい。また、本書の本編の後に、これを出版するにあたって尽力した研究家ハワード・キュンネルによる、極めて詳細な解説がある。
物語の中身をここで紹介するつもりはさらさらない。ある人はこれを最大級の言葉で絶賛し、ある人はなんともくだらない物語だと切り捨てる。僕はもちろん前者だ。今回初めてスクロール版を読んで、その確信はさらに間違いのないものになった。
僕は明らかにこの物語の世界に憧れている。もちろん酔っぱらいは苦手だし、Facebookが登場する60年も前に「いいね、いいね!」と連呼しながら車を走らせ、酒やそれ以上のものを呷るニールの様な男が身近にいたとしたら、興味は抱きつつもやはり早々に愛想を尽かしていることだろう。
たった数ドルでハチャメチャなどんちゃん騒ぎができるこんな生活は、半世紀以上前のアメリカだからあり得るんだとか、社会は本質的にこんないい加減さを許容しないとか、こんな世界に憧れるなんてバカげているとか、そういう意見はいくらでもあるだろう。
だけど、だからこそこの小説は素晴らしいのだと思う。実現しそうで到底実現しそうにない夢や憧れを描くのは、物語の大きな役割だ。憧れは常に未来にあるとは限らない。単に人の現実を超えたところにあるというだけだ。
世の中の平和や秩序は人々の願いであるのはもちろんだが、本来、憧れと願いは全く異なるもの。似ているとすれば、どちらも容易には叶わないし巡り会えないということだろう。
物語はある意味でもの悲しい場面で終わるのだが、今回はそれが近づくに連れて、何とも言えない切なさがこみ上げてくるのを禁じ得なかった。それは単にそのシーンで描かれる出来事に対するものではなく、この長くも短い「ロード」を降りなければならないことの辛さからくる切なさだ。
もっと続けていたい、もっと遠くに行ってみたい、もっといろいろな人々に巡り会ってみたい。そしてもっとこの狂った魂と一緒にいたい。とても現実にはできないことなのだが、その憧れがたとえ泡沫の夢であれ全身に感じさせてくれる、その力が素晴らしいのである。
それを実在の人物や出来事を通じて感じたのがケルアック自身であり、そのことを見事なまでに直感的な時空間として文字で表現しているところが、僕にとってのこの作品の素晴らしさなのである。平凡な表現ではあるのだけど。
ケルアックの「オン・ザ・ロード」に関するもう一つの嬉しいニュースを知った。2012年にとうとうこの小説が映画化されたのだそうだ。
監督は「セントラル・ステーション」や「モーターサイクル・ダイアリー」のヴァルテル・サレス。僕にはそれだけで胸が高鳴る。カンヌ映画祭にも出品されたようだが日本での公開は未定とのこと。これはなんとしても観てみたい。
僕は好きな文学作品の映画化には否定的ではない。難しいことだとは思うけど基本的にはとても素晴らしいチャレンジだと思う。以下はその予告編だが、これを視るに、日本公開時には「R15」指定はほぼ確実ではないかな。
ハンドルがある前の座席もソファーのように広々とつながった1940年代のシボレー。そこに仲良く全裸で並んで座って旅する若い3人の男女。原作でもとても印象に残るシーンで、ある意味この作品を象徴する素晴らしい場面だ。(再生ボタンを押してもいきなりこのシーンは出てきませんのでご安心ください:笑)
僕はこの小説をまた再び読むだろうか。答えはイエスだ。その際、僕はたぶんまたスクロール版を読むだろう。もちろん刊行版を先に2回読んでいたということもあるのだろうけど、たとえ翻訳であっても僕にはケルアックの見聞した世界をとてもリアルに体感することができた。
ケルアックが草稿を書き上げたのが3週間で、僕がその翻訳を読通したのも3週間。まるで両極端の才能がもたらした偶然ではあったが、実際にケルアックが書き進めたのと似た時間感覚で読み進められたことは、個人的にはとてもいい気分で満足なことだった。
実を言うと、読み終えた余韻に浸るなか、アマゾンのKindle Storeでこのスクロール版の原作を購入し、さらにiTunes Storeにあったその原作のオーディオブック(朗読)版(12時間40分だそうです)も購入した。まだまだ今後のお楽しみではあるが、いつかこれを楽しんでみたいと思っている。
物語が閉じられたとき、僕を強く包んだ何とも言えない深い寂しさ、物語にも何度も出てくる「またロードに戻りたい」という思いは、まさしくこれなのだろう。酒や麻薬や女や放蕩などのある意味表面的なアイテムは、大きな役割を持っているのは事実だが、この作品の本質を描くための道具に過ぎない。
それがこれまでの僕の人生やいまの僕の日常生活に深く大きく関係するのはもちろんだが、その関係は早々単純なものではないことは僕自身でさえ(そしておそらく誰にでも)容易に想像がつく。それもまた文学や音楽が人に与える感銘の奥深さであり、それを作る人が忘れてはいけないことなのだと思う。
もしこのろぐを読んでこの作品に興味を持たれた方がいらっしゃれば、僕はもちろん一読を強くお薦めする。その時はこのスクロール版ではなく、新訳の刊行版を読むのがいいと思う。現代の作品に比べるとそれなりのクセがあるのは事実だが、大袈裟にいうようなものは何もない。
いつか自分の子どもがこの作品を前にすることがあったなら、僕の大好きな音楽やなんかの作品と同様に、僕はそれを嬉しく思うだろうし、よろこんで背中を押したいと思う。自分からそれを勧めるということはしないだろうが、あえて子どもの目に触れさせぬようにする理由は何もない。
そして、僕自身はいつかこの物語の舞台となったアメリカ大陸のロードを、自分のこの身体で感じてみたいと思っている。これも憧れで終わってしまうかもしれないのだろうが。
少し長くなってしまったが、読み終えて以降に書き散らしたものを、熱が冷めないうちに今回ろぐにまとめておく。
ひと昔前のライフスタイルかもしれないが、待ち合わせ場所に早く着いたので本屋さんで時間をつぶすなど、僕にはできない。何か魅力的な写真集でも眺められればいいのだが、その手の書物は大抵は中が見られないようになっている。店先に積まれた売れ筋と言われる書物は、ほとんど僕の関心外である。
本がたくさん並んでいる前に立つと、表紙やカバーや帯(いったい何のために付いているのだろう)に書かれたいろいろな宣伝文句が、風俗店の客引きみたいに僕に迫ってくるようで、ものすごく落ち着かない嫌な気分になる。本屋のメインストリートはどうしようもなくくだらない店が立ち並ぶ歓楽街のようなものだ。
おまけに活字に対する僕の目はあまり進化していなくて、音楽のように毎日いろいろなものを取り込むということができない。たいていはゆっくり意味を考えながら文字をたどるので読むのも遅い。
本当は文学にはとても興味はあるのだけど、文字で語られる世界はいい意味でも悪い意味でも理屈っぽくて具体的であり、自分の心の扉をそれに対していつでもどうぞと開けておけるほど、寛容な気持ちにはなれないのが僕の書物に対する基本姿勢のようなものなのだろう。それはもしかしたら、人間一般に対するそれと似ているのかもしれない。
さて、そんな僕が今年最初の1冊を完読した。少し前に書いていた「お楽しみ」とは、ジャック・ケルアックの小説「スクロール版 オン・ザ・ロード」のこと。
この小説は、以前、2回目に読んだ際にこのろぐでも取り上げたのだが、それがいつだったかなと振り返ってみたら、3年前の2月のことだとわかりちょっと驚いた。単なる偶然だったのか、時節からくる何かがそうさせるのか、よくわからない。その時は2週間かけて読んだと書いてある。
またこの小説のことが気になってネットで調べてみたら、草稿をそのまま出版した「スクロール版」の存在を偶然に知った。にわかに興味が抑えられなくなったものの、すぐにアマゾンでポチらないのが音楽との大きな違いである。
電子書籍がアメリカ並みに普及していればまた違ってくるのだろうが、日本のデジタルコンテンツ流通の業界はとにかく鈍く、おかげで国民は不幸である。政治家がポピュリズムに走って国のことを考えないとか言われるが、別に政治家に限ったことではあるまい。
市の図書館に蔵書があることを確かめ、都合がついたある平日の仕事帰りに立ち寄ったのがもう1か月前のことだ。カウンターで聞けばその書物は書庫にあるので出してくるのに15分ほどかかるのだという。そこでもやはり本を見ながら時間をつぶすことができず、勉強に来ているらしい若い人たちをぼんやり観察しながら待った。
今回は平日の通勤電車で座れる時間を使ってかなりマイペースに読んだ。貸出期間を延長してもらって(こういう手続きがネットで簡単にできるのは素晴らしいことだ)3週間かけて読み終えた。
読みたいという欲求の勢いに任せて早く読み終えるということをしなかったのは、この小説の世界にゆっくり浸りたかったから。読み始めてすぐに僕はそのことを悟った。
「スクロール版」とは何かについて、簡単に書いておく。
作者のケルアックは自身の生活や友人たちとの旅のなかからこの小説の構想を得たが、いくつかの試行錯誤を繰り返した後、1951年4月にようやくそれがあるひとつの確信にたどり着いた。
その確信が持つ勢いを妨げないために、彼はあらかじめロール状につながった長い紙を準備し、そこに巻物(スクロール)のごとく区切りや章立てもいれずに、ひたすらタイプライターで言葉を打ち続け、わずか3週間でこの125000語からなる長編小説を完成させたのだという。
この衝動に満ちた草稿は実にそれから6年の歳月をかけて様々な推敲を加えられ、1957年になって実際の小説作品として刊行された。ケルアック自身が所有していたスクロールの草稿は、1969年の彼の死後その行方がわからなっていたらしいが、2001年にオークションに出品され破格の落札となって話題になった。
全体のストーリー構成は刊行版とほぼ同じ内容だが、スクロール版では登場人物のほとんどが実名になっている。また刊行版につけられた第1部から第5部までのパート割りや、その中をさらに複数の章立てにする構成などもない。
スクロール版の刊行に当たっては、部や章の頭に該当する箇所にその旨の数字が振られている。これは無視することも比較的容易なので、ある意味親切な配慮だと言えるだろう。
多くの小説がそうであるように、この作品も、ケルアックが身を以て体験した実際の出来事が、彼自身の現実に近い空想でつなぎとめられたコラージュとなっている。ただおそらくは実際に目の前で起きた出来事がかなりの部分を占めているのは間違いない。
スクロール版は当時のケルアックの、後先のことを考えないストレートな感情がそのまま出ている。6年間の推敲は冷静になって、いかにして草稿が持つ衝動を傷を付けずに不都合な真実だけを消し去るかに注力した結果である。
詳しくは、河出書房のサイトにある特集コーナーなどをご覧いただきたい。また、本書の本編の後に、これを出版するにあたって尽力した研究家ハワード・キュンネルによる、極めて詳細な解説がある。
物語の中身をここで紹介するつもりはさらさらない。ある人はこれを最大級の言葉で絶賛し、ある人はなんともくだらない物語だと切り捨てる。僕はもちろん前者だ。今回初めてスクロール版を読んで、その確信はさらに間違いのないものになった。
僕は明らかにこの物語の世界に憧れている。もちろん酔っぱらいは苦手だし、Facebookが登場する60年も前に「いいね、いいね!」と連呼しながら車を走らせ、酒やそれ以上のものを呷るニールの様な男が身近にいたとしたら、興味は抱きつつもやはり早々に愛想を尽かしていることだろう。
たった数ドルでハチャメチャなどんちゃん騒ぎができるこんな生活は、半世紀以上前のアメリカだからあり得るんだとか、社会は本質的にこんないい加減さを許容しないとか、こんな世界に憧れるなんてバカげているとか、そういう意見はいくらでもあるだろう。
だけど、だからこそこの小説は素晴らしいのだと思う。実現しそうで到底実現しそうにない夢や憧れを描くのは、物語の大きな役割だ。憧れは常に未来にあるとは限らない。単に人の現実を超えたところにあるというだけだ。
世の中の平和や秩序は人々の願いであるのはもちろんだが、本来、憧れと願いは全く異なるもの。似ているとすれば、どちらも容易には叶わないし巡り会えないということだろう。
物語はある意味でもの悲しい場面で終わるのだが、今回はそれが近づくに連れて、何とも言えない切なさがこみ上げてくるのを禁じ得なかった。それは単にそのシーンで描かれる出来事に対するものではなく、この長くも短い「ロード」を降りなければならないことの辛さからくる切なさだ。
もっと続けていたい、もっと遠くに行ってみたい、もっといろいろな人々に巡り会ってみたい。そしてもっとこの狂った魂と一緒にいたい。とても現実にはできないことなのだが、その憧れがたとえ泡沫の夢であれ全身に感じさせてくれる、その力が素晴らしいのである。
それを実在の人物や出来事を通じて感じたのがケルアック自身であり、そのことを見事なまでに直感的な時空間として文字で表現しているところが、僕にとってのこの作品の素晴らしさなのである。平凡な表現ではあるのだけど。
ケルアックの「オン・ザ・ロード」に関するもう一つの嬉しいニュースを知った。2012年にとうとうこの小説が映画化されたのだそうだ。
監督は「セントラル・ステーション」や「モーターサイクル・ダイアリー」のヴァルテル・サレス。僕にはそれだけで胸が高鳴る。カンヌ映画祭にも出品されたようだが日本での公開は未定とのこと。これはなんとしても観てみたい。
僕は好きな文学作品の映画化には否定的ではない。難しいことだとは思うけど基本的にはとても素晴らしいチャレンジだと思う。以下はその予告編だが、これを視るに、日本公開時には「R15」指定はほぼ確実ではないかな。
ハンドルがある前の座席もソファーのように広々とつながった1940年代のシボレー。そこに仲良く全裸で並んで座って旅する若い3人の男女。原作でもとても印象に残るシーンで、ある意味この作品を象徴する素晴らしい場面だ。(再生ボタンを押してもいきなりこのシーンは出てきませんのでご安心ください:笑)
僕はこの小説をまた再び読むだろうか。答えはイエスだ。その際、僕はたぶんまたスクロール版を読むだろう。もちろん刊行版を先に2回読んでいたということもあるのだろうけど、たとえ翻訳であっても僕にはケルアックの見聞した世界をとてもリアルに体感することができた。
ケルアックが草稿を書き上げたのが3週間で、僕がその翻訳を読通したのも3週間。まるで両極端の才能がもたらした偶然ではあったが、実際にケルアックが書き進めたのと似た時間感覚で読み進められたことは、個人的にはとてもいい気分で満足なことだった。
実を言うと、読み終えた余韻に浸るなか、アマゾンのKindle Storeでこのスクロール版の原作を購入し、さらにiTunes Storeにあったその原作のオーディオブック(朗読)版(12時間40分だそうです)も購入した。まだまだ今後のお楽しみではあるが、いつかこれを楽しんでみたいと思っている。
物語が閉じられたとき、僕を強く包んだ何とも言えない深い寂しさ、物語にも何度も出てくる「またロードに戻りたい」という思いは、まさしくこれなのだろう。酒や麻薬や女や放蕩などのある意味表面的なアイテムは、大きな役割を持っているのは事実だが、この作品の本質を描くための道具に過ぎない。
それがこれまでの僕の人生やいまの僕の日常生活に深く大きく関係するのはもちろんだが、その関係は早々単純なものではないことは僕自身でさえ(そしておそらく誰にでも)容易に想像がつく。それもまた文学や音楽が人に与える感銘の奥深さであり、それを作る人が忘れてはいけないことなのだと思う。
もしこのろぐを読んでこの作品に興味を持たれた方がいらっしゃれば、僕はもちろん一読を強くお薦めする。その時はこのスクロール版ではなく、新訳の刊行版を読むのがいいと思う。現代の作品に比べるとそれなりのクセがあるのは事実だが、大袈裟にいうようなものは何もない。
いつか自分の子どもがこの作品を前にすることがあったなら、僕の大好きな音楽やなんかの作品と同様に、僕はそれを嬉しく思うだろうし、よろこんで背中を押したいと思う。自分からそれを勧めるということはしないだろうが、あえて子どもの目に触れさせぬようにする理由は何もない。
そして、僕自身はいつかこの物語の舞台となったアメリカ大陸のロードを、自分のこの身体で感じてみたいと思っている。これも憧れで終わってしまうかもしれないのだろうが。
少し長くなってしまったが、読み終えて以降に書き散らしたものを、熱が冷めないうちに今回ろぐにまとめておく。
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