5/13/2018

キッス「コールド ジン」

大型連休明けの1週間。いつもながらの葛藤モードでなんとかやり過ごしました。

昨今は在宅勤務なる便利なやり方もあって(ボスの音頭取りはあるものの彼含めてほとんど誰も使わないけど)、それも使ってずいぶんとこういう状況も凌ぎやすくなりました。

連休に買ったウィスキーとジンもようやくこの週末で呑み終えそうな感じです。ジンをボトルで買ったのはほとんど学生の時以来だけど、やっぱりおいしいお酒ですね。

なんでジンなのかというと、これまで3年半の間会社で一緒に仕事をしてきた仲間が、この連休明けからロンドンに出向することになり、連休前に「いよいよ彼女もロンドンかあ」とか想っていると、急にロンドン=ジンが呑みたくなったのであります。

なのでボトルに"MADE IN LONDON"の刻印があるビフィーターズは、いまの心境にはうってつけのジンだったのであります。

僕がこの世に「ジン」というお酒があることを知ったのは、いまをさかのぼること42年前、僕が小学校4,5年生ごろのことだったと思います。

当時の洋楽シーンに衝撃的なインパクトをおよぼしていたのが、あのロックの殿堂 キッスでした。

彼らが初来日を果たしたのがこの年で、武道館で行われたライヴの模様はNHKの「ヤングミュージックショー」で和歌山の片田舎にも届けられ、初めていわゆる外タレのライヴを目の当たりにした僕にはホントに衝撃的な経験だったのです。

当時は放送を録画できるビデオデッキなど家にあるはずもなく、程なくして行われた再放送の時にこれをカセットテープに音だけ録って、何度も聴いたのを覚えています。

映像を視たのはたった2回だったにもかかわらず、この録音のおかげでその模様を隅々まで記憶しているのは我ながら驚きであります。

キッスの重要レパートリーとしてこの時のライヴでも演奏された彼らの代表曲が"Cold Gin"でした。「冷たいジン」という意味だとわかったのはしばらくしてからのことでした。

その時の演奏がこれです。



歌の内容は単純そのものの呑兵衛ソングで(笑)、「ああ俺はもう疲れたよ」だの散々自虐的なボヤキが続いた挙句に、サビで「よく冷えたジンの時間だぜ」「これさえあればもう最高」という歌が繰り返されるだけです。

この曲を作ったキッスの初代リードギターのエース・フレイリーの酒好きは有名で、ある意味で一番地味な存在の人ではありましたが、彼はショービジネスよりも、純粋にロックとギターと酒が好きな人だったのでしょう。

最近、とある芸能人の騒ぎでアルコール依存症の話題が聞かれますが、僕はそこでアルコール依存症のことを話題にするよりも、ショービジネスの世界の異常性を考えるのが本当は必要なのだと思います。まあこれについてはこれ以上はやめときますが。

エースの名誉のため?に少し音楽的な話をしておきますと、この曲のメインになっている印象的なリフ(イントロで聞かれる繰り返されるフレーズ)がありますが、これを聴いてすぐにギターとかで演奏できる人は、よほど耳のいい人だと思います。

私も今回気になってベースを手にちょっと演ってみましたが、ベースという楽器をやっているせいか、A(ドレミファのラの音)が通奏低音になっていることはすぐわかりましたが、その上に乗っている和音はロックらしい音遣いながら結構凝ったものだと思いました。

よくわからない人には全部同じ和音のようにも聞こえるはずです。この曖昧で不思議な音の感覚が、実はジンというお酒の感覚に通じるところがあると思うのです。

僕の勝手な想像ですが、ギターで曲のアイデアを探っている最中にこのリフを思いついたエースが、この不思議に惹かれる音の響きに「なんかジンの味みたいだな」と思ってこの曲を創ったのだとしても、なんら驚きではないです。

先にも書きましたが、もう一つ僕がお酒を呑むようになる前にジンのことを印象づけられたものに、カミュの小説「転落」があります。

詳しくは書きませんが、主人公のクレメンスが作品の中で愛飲するジンの感覚について「不思議な光のきらめきが見える」と言っています。

この小説の主人公が港町で愛飲する酒がなぜワインやウィスキーではなくジンなのかは、小説を超えたところに実はものすごく深い理由があるのですが、それはここには書きません。もちろん僕がそのことを知ったのはずっと後になってからのことでした。

とまあ、ジンには「たかが酒」では済まされない、長年にわたって多くの人を魅了してきた力があることを頼もしく感じながら(笑)、休み明けの気持ちを癒す一週間を、久しぶりにジンとともに過ごしたのであります。

今日この瞬間も、いろいろな人がいろいろな想いを抱きながら、時間が過ぎていきます。至福の人、とても辛い人、いつもと同じことしか感じない人...。いろいろです。

ジンのきらめきのように。生きているその瞬間にいくつの色を見ることができるか、それが人の器量なのかもしれません。


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