6/22/2014

鶴田錦史「壇ノ浦」

琵琶奏者の鶴田錦史のことは7年前のろぐで触れた。最近、また武満の音楽を聴いているうちに琵琶の魅力に惹かれ、結果いくつかの資料を取り寄せた。

楽器の種類と演奏の形式に応じた代表的な琵琶の演奏を収録した、ビクターの2枚組CD「古典芸能ベスト・セレクション~名手・名曲・名演集「琵琶」」で、この楽器の大雑把な歴史と、そのなかでの鶴田錦史の位置などが何となくわかった。

ここにも「壇ノ浦」が収録されているが、僕がそれまで聴いていた「琵琶劇唱」に収録されているものとは別版で、鶴田さんが自身で歌と演奏を行っているものである。

「・・劇唱」に収録されている演奏がそうでないということも今回初めて知った次第。他に収録されている琵琶演奏に比べて、やはり僕には彼女の演奏が圧倒的な存在であると強く感じた。

それでますます鶴田さんについて知りたいと思ったのだが、とにかく情報が少ない。彼女についてはあのWikipediaにさえ一切記載がないというのが現状である。

そんななかいろいろと探しまわっているうちに佐宮圭さんの著書「さわり」のことをアマゾンで知った。これこそが現時点では極めて貴重な鶴田錦史の詳細な伝記である。本を読まない僕が、おそらくは「オン・ザ・ロード(スクロール版)」以来数ヶ月ぶりにした読書となった。

先週は仕事の行き帰りに電車のなかでこれを読み、3日間で読み終えた。素晴らしい内容だった。

「さわり」とは琵琶独特の音色の重要な要素であるびびり音を生み出すための、弦が柱(ネック)の駒(フレット)に微妙に接触する状況のことである。

鶴田錦史という人は、「男装の琵琶師」と呼ばれたり、ある時期は琵琶から離れて水商売の実業家として成功したことなどは、少し聞いていたのだけど、正直ここまで波瀾万丈の人生であるとは想像していなかった。それでも驚きが納得に変わるまではさほど時間はかからなかった。

鶴田錦史の琵琶は素晴らしい音楽であるが、伝統芸能と言ってもありのままを伝承することの至難と、そのなかで時代時代の状況や人の欲望などに翻弄されながらも、その存在をその時代の人々に認めさせ伝えていくことの尽力の凄まじさの一端をこの本で知って、その深さはまた一層奥行きを増すことになった。

そして琵琶の古典だと思っていた「壇ノ浦」が、実は映画のサウンドトラックとして鶴田錦史が書き下ろした作品だということも、今回初めて知った。

もちろん謡われている内容は、平家最期の戦いである壇ノ浦の合戦とそこで起こった安徳天皇の悲劇そのものであるのだが、恥ずかしながら、僕は勝手にそれを平家物語を琵琶で謡ったものだと勘違いしていた。

僕は日本史が苦手で、特にこの平安鎌倉の時代については、歴史の授業で習ったもののさっぱり理解しておらず、記憶にもほとんど残っていなかった。何度も行った鎌倉が源氏に、広島の厳島神社は平家にそれぞれ深い縁のあるものだということも、ほとんど意識することがなかった。

「壇ノ浦」の後半で謡われる安徳天皇の悲劇は、昔、高校で古典を教えてくれた先生がほんの少しだけ口走った、天皇家の伝承に対するひとつの考えのことを鮮明に記憶から呼び覚まさせた。当時は先生変なことを言うなと思ったのだが、なぜか僕の記憶にはその言葉が深く残ることになった。

同時に、天皇家ということとは別に、安徳天皇ご自身の、つまりまだ言われるがままされるがままに受け入れるだけの存在でしかない、わずか6才の子どもの身に降り掛かった悲劇ということに関連して、最近もあった幼い子どもを自宅に残して餓死させるといった痛ましい出来事が重なって見え、ただただ切なくなるという感想も残すことになった。

変な感想ではあるが「壇ノ浦」は、日本の長い歴史のなかで受け継がれてきた琵琶という伝統を、現代においてなお受け継がれるようにと素晴らしい手法で進化させた結果としてある、極めて優れた芸術作品である。

「さわり」のなかに描かれる鶴田錦史の琵琶の存続と継承に注がれる情熱と、運命というしかない様々な人、とりわけ武満徹という人との出会いの数奇さは、僕のなかにしっかりとそのことを強く印象づけてくれた。

そしてそこで扱われる物語は、琵琶が日本の伝統として根付いた当時の重要な事件を、歴史的意味合いと普遍的意味合いを絶妙に含ませたものになっている。奇跡としか言いようのないバランスである。

今後、琵琶を知り、語り、受け継ぐうえでも避けて通ることのできない作品であると同時に、これを生み出した鶴田錦史という人物もまた琵琶と言うものを超えた存在として、受け継がれていくことだろうと思う。

「壇ノ浦」を先に聴くか、「さわり」を先に読むか。どちらが先でももう一方は必然的にその後に続くことになるだろうことは、僕が保証します。

是非!


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