今回の震災による被害については、現状ではまだまだわからないことが多い。行方不明とされている方々の無事をお祈りしたい。
しかし一方で、テレビなどの情報を見ているだけでも、亡くなられた方の数が、5の桁に達しているのはもはや明らかだ。
この数字をもって、この自然災害の人類にとっての重大さを受け止めなければならないし、人材や物資の援助のような短期的な視点はもちろん、災害対策や防災研究など長期的な意味でも、人間の力を信じていかなければならない。
直接的な被害を受けなかった人は、まずそのためにできること(いくらでもあるはずだ)を始めなければならない。「人は無力だ」とか嘆いても何も始まらない。
今回の災害では津波による被害が極めて大きく、震源地に最も近かった沿岸部において、地面の揺れによる建物の損壊やそれに伴う人々への危害が、どの様なものであったかをうかがい知ることをほとんど困難にしてしまっている。
その意味では、揺れを中心とした地震に関する様々な防災研究にとっても、非常に残念な(もう少し適当な言葉があるのかもしれないが)結果である。一方、津波については、防災的な見地から地質学的な見地まで様々な証を残したはずだ。
僕が気になるのは、今回の地震や津波が「現代の科学で想定していた範囲を大きく超えるものだった」とかいう表現。そんなことを約束した人が本当にいたのだろうか。なぜこの状況でそんな言い訳めいた表現を持ち出すのか、少し不思議な気がした。
僕が仕事で属している立場でも、地デジや携帯電話で提供される緊急地震速報については、まだまだ山の様な課題があることを思い知らされた。一方で、災害時のワンセグ放送の重要性については、改めて認識を新たにした。
メディアとしてのインターネットについては、固定や携帯電話網に比較した接続性を讃える表現が目立つが、Twitterなどによる情報の氾濫については、個人的な利便性はともかく、社会的な観点からはいろいろと問題も多いことが実感された。
後半は、地震発生当時の僕自身の体験について書いておきたい。被災された方々の現状からすれば、僕の体験など単なる「珍道中」に過ぎない内容なのだが。
僕は職場にいた。職場は43階建ビルの41階にあり、僕はその瞬間にはそのひとつ上の42階にある役員室で、会社役員と同僚2人といっしょにレポートのブリーフィングの最中だった。
資料の説明が終わり、役員がいろいろなコメント述べている最中にそれは来た。
東北地方など遠方である程度の地震が起こった時はいつもそうなのだが、今回も小さな縦揺れに少しずつ横揺れが加わりながら、それが徐々に大きくなってきた。
これまでの体験では、そうした揺れはあるレヴェルで増幅することをやめ、以後はしばらくその揺れが続いて徐々に収まってゆく。しかし、今回は違った。
増幅が止まらない。縦揺れはあるところで感じられなくなったが、横揺れはどんどんと増幅を続けた。棚においてあった陶器の置物が倒れて割れたと思ったら、直角の関係にある2つの壁に作りつけてあるキャビネットの扉や引き出しが大き開いて、なかのファイルや書物などがドサドサと落ちてくる。同時に僕らが座っているソファーやテーブルが動き始めた。
2つの面のキャビネの扉や引き出しは、一定のズレをもって開いたり閉じたりを繰り返す。もうおわかりと思うが、その地点の震度5強の揺れに加えて、いわゆる高層ビル特有の周期振幅による回転揺れが起こっていたのである。
自分が感じた体感震度は7かそれ以上。後にテレビで視た地震発生当時の福島や仙台の放送局の様子を捉えた映像よりも激しかったし、地震体験装置の実演で見た震度8の様子に近いものがあった。
幸い役員含め誰もケガをするには至らなかった。立ち上がれる程に揺れが小さくなるまでには、5分以上かかった。その頃になってやっと秘書がドアを開けて飛び込んで来た。もちろん彼等もそれどころではなかっただろう。
僕は生まれて初めて「もしかして死ぬのかな」という思いがよぎった。しかし、それはすぐに「大きく揺れてもこの建物は大丈夫」という気持ちが勝ち、幸いにも冷静さを失うことはなかった。
揺れが収まってすぐに部屋を出て、ひとつ下の自分のオフィスに戻ったら、大きなファイルキャビネットがいくつも倒れていた。幸いにもけが人はいなかった。後で聞いたところでは、数階下のオフィスやそれより下では、キャビネが倒れるなどの被害はなかったのだそうだ。
首都圏の交通はほとんどが運転を見合わせ、会社からは近距離の者には徒歩による帰宅、そうでないものには安全な職場での待機が指示された。近距離の最終的な判断は個々人に委ねられた。
僕の場合は30kmの距離があった。すぐにでも歩いて帰宅して一刻も早く妻や子どもに会いたいと思ったが、すぐにメールで彼等の無事を知ることができ、それは思いとどまった。
階下に見える道路は自動車のライトで埋め尽くされ、歩道は多くの人が歩いて帰宅するのが見えた。その日一杯やる予定だった友達も、30km近い道のりを6時間半かけて歩いたのだそうだ。
非常食が支給され、職場に残った20人ほどの仲間と一夜を明かした。余震が間断なく続き、その度にビルは揺れたが、さっきの揺れを体験していたので、全くと言っていいほど気にはならなかった。
インターネットやワンセグ放送を通じて、徐々に被害の実態が明らかになってくる。自分はここで一体何をやっているのか、そういう思いが湧き上がる。
空が明るくなり始めた午前6時に、やや不確定な鉄道運転再開予定の情報を得て、職場の上司ら数名とビルを後にした。といってもエレベーターは停止が続いているので、41階から階段で降りた。これは結構疲れた。
結局僕は最寄駅の次の駅である品川駅まで歩き、そこで1時間以上電車を待ってやっと横浜駅までたどり着いた。そこからはバスで自宅まで帰ることができた。
玄関まで迎えに来てくれた子どもを抱き上げ、妻が用意してくれた暖かいご飯と味噌汁と目玉焼きをかきこみ、布団で2時間ばかり眠った。どれも本当に暖かかった。
同じ暖かさが、少しでも多くの被災者の方々のなかに訪れてほしい。
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