7/29/2007

父を見送る(後)

葬儀は月曜日の12時からだった。この日、和歌山は台風一過の夏晴れで、蒸し暑い太平洋の風が吹いた。にもかかわらずまたいろいろな人が父との別れにやってきてくれた。実家にタクシードライブをしたとき、到着した父は突然自分の葬式について話した。聞いていたのは僕だけだったが、その内容は「簡素に、できるだけ多くの人に参ってもらってくれ」というものだった。

簡素にというのはそう心がければできることなのだが、多くの人に来ていただくというのが難しい問題だということは、実際にお葬式をやってみてよくわかった。というのも、15年前に退職をした会社でお付き合いのあったいろいろな人、とりわけ父が最も精力的に活動した庶務課時代に交流のあった社外の方々については、彼の思い出話でそうした人の存在を知ることはできても、現在の消息を確認することは容易ではないからだ。遠方だったり、既に音信が途絶えていたりすることも多いうえに、何よりも我々家族には一切面識がない。仕事だけでのお付き合いという人間関係のはかなさとは、こういうことなのかもしれない。それでも、遠方から僕の友人や兄の会社の人、そして広島から妻のご両親も出席してくれた。

読経とともに焼香が進み、葬儀も終盤を迎えた。出棺前に最後に父の顔を見て、それを撫でてあげた。皆でお供えされた花を棺に入れ、ふたを閉じる。喪主である兄から、皆様へのご挨拶。これはなかなか辛いものがある。僕は母の死に際して、母の信仰していた宗教の集まりに参加し、そこに来てくれた人たちを前に挨拶をしたことがある。それまで涙を流すことはなかったが、何か母についてまとまったことを言おうとした瞬間に、急にいろいろな想いが込み上げ、涙と嗚咽を漏らしながらの挨拶となったことはいまでも忘れない。

火葬場に向かうべく、兄が位牌を持ち父と一緒に霊柩車に乗り込む。僕と妻、そして叔母がそれに続くタクシーに乗り込んだ。火葬場までは車で2~30分の道のりだ。兄と僕と妻は、後で拾骨にも行ったから往復2回を同じタクシーにお世話になった。このタクシーの運転手さんこそ、おそらくは一生忘れることのできないこの日の思い出になた人だった。

こういう場合、タクシーの運転手さんは悲痛な思いの遺族を相手にしなければならないわけだが、この運転手さんは実に上手に僕らの心を和ませてくれた。聞けば、地元ではかなり有名な運転手さんで、以前は県を訪れる皇族や政治関係者などをはじめとする賓客の対応をしていた人らしく、現在は独立して個人タクシーの運転手をしている。彼は様々な人生経験に基づいた面白くも示唆と和みに溢れたいろいろな話を、短い時間にたくさんしてくれたのである。

火葬場に着く。和歌山市の火葬場は、すたれていく市の情勢とは裏腹に、とても大きく立派な施設である。冷たく厳粛な雰囲気の施設に到着すると、遺族の代表として5名だけが炉の直前まで行くことができ、残りの親族はその光景をガラスで仕切られた別室から眺める仕組みになっている。兄と僕、僕の妻、そして2人の叔母が炉の前まで行き父を見送ることになった。読経に続いて父の棺が炉の中に静かに入っていく。閉まる扉を見ながら、僕は思わず右手を上げた。「行ってらっしゃい、お父さん」

いったん火葬場から式場に戻る車には、兄も一緒に乗り込んだ。そこでも運転手さんは、兄の心を和ませるようないろいろな話をしてくれた。途中、紀ノ川沿いの道端にある小さな傾いたラーメン店の脇を走ったとき、テレビ番組「鉄腕DASH」の「ソーラーカー」企画の取材をしている現場に遭遇し、一瞬だったがTOKIOの国分太一の姿を認めることができたのには、ちょっと驚いた。(この模様は本日付けの同番組で放映された)

式場に戻って、お参りしてくれた親族に振る舞いをして間もなく、再び3人で火葬場に赴く。また同じ運転手さんが送り迎えをしてくれた。拾骨は僕には初めての経験だった。まだ熱気の残る炉から出てきた父の亡骸は、僕らが入れためがねのフレームや本の燃えかすなどと一緒になって、きれいに真っ白な灰となっていた。係りの人に言われるままに、身体のいろいろな部分の骨を少しずつ拾い、大小2つの骨壷に収めてあげた。その壷を兄が抱え、僕は位牌、妻は遺影を持って車に乗り込む。

この帰路に運転手さんがしてくれたお話が、僕らにはとても印象深いものだったのである。内容は単に仏壇に父をお祭りすることについての話だったのだが、これまでそうしたことの意味や目的について、ほとんど何も考えてこなかった僕ら、とりわけ兄にとって、この20分間のお話は僕らがこれから何をしていかなければいけないのか、ということについてしっかりした意識を持たせてくれる素晴らしいお話だったのである。言葉は悪いが、いきなり押しかけてお経をあげお金を持って帰るだけのお寺の人でさえ、そんな話はしてくれなかった。父のことを含め、僕はまだお寺の人がありがたいと感じたことは、正直言ってない。

その日のうちに初七日を済ませ(いまはそういうものらしい)、お世話になった葬儀場をあとにして、家に帰った。家には葬儀屋が用意してくれた簡単な祭壇に、父の位牌と骨、そして遺影をおまつりした。お線香とロウソクを灯し、用意された電気仕掛けの回り灯籠にも明かりを入れてあげた。

お供えの花や果物の間を抜ける灯篭の光を眺めているうちに、自分がこの期間を通じて涙を流さなかったことに気がついた。正直なところ、多分そうなるだろうという予感はあった。それが良くも悪くも父と僕の関係であったのだ。そして僕自身、そのことを恥じたり残念に思うことは少しもないし、おそらく父も同じ想いだろうという確信が僕にはある。

こうして父を見送る日々は過ぎていった。その後はお役所などで必要な手続きをしたり、遺されたものを整理する準備をしたりして過ごし、ひとまず僕等は川崎の僕の家に戻った。父の位牌と骨は兄が自分の家に持って帰った。

父はいまも僕の中に生き続けている。

父を見送る(中)

父が亡くなったときのことは、僕も兄も叔母も直接は知らない。その日の朝、父はいつものように6時ごろに目覚めたのだそうだ。家政婦に話をし、看護士を呼んで身体を拭いて欲しいと頼んだそうだ。看護士2人が準備をしてやってくると、父はうれしそうだったらしく、看護士たちに何やら話しかけたという。その声を聞きながら、家政婦は病室を出て、近くにある病棟の談話コーナーで休憩をしていたそうだ。

そうして間もなく病室が急に慌しくなり、看護士や医師が出入りするようになった。家政婦はあわてて部屋に戻ったそうだ。兄や僕に電話連絡が入ったのはこの頃だった。そして、それから程なくして父は息を引き取った。僕が病院に電話したのがその直後だったというわけである。なので、兄は僕からのメールで初めて父が死んだことを知ったらしい。痛みはやはりあったのだと思うが、前日も眠れたということは、まだ薬でごまかせなくなるほど凄まじいものではなかったのだろう。酸素マスクをつけてモルヒネの注射で眠るだけの父を見るのは辛いと思っていただけに、父のあの安らかな顔を見た僕は、その最後がさっと訪れて父を連れて行ってくれたことを有難く思った。

葬儀屋が来ていろいろな打ち合わせをして帰った。喪主は兄ということになるから、彼はこれからいろいろと大変になる。支えてあげなければいけない。やがて僧侶が枕経をあげにやってきた。午後9時ごろだった。兄も僕もこうした仏事には皆目疎かった。父は長男だったが仏壇は実家にあり、それを見てくれる父の妹たちがいた。そして仏事についても叔母がいろいろとサポートをしてくれた。本当に感謝である。枕経で一先ずその日の用件は終わった。夕食のことは何も考えていなかったので、父が僕らが帰るたびに取ってくれた近所の寿司屋から出前を取り寄せた。父のいる部屋はエアコンをつけっぱなしにして、枕元にはお線香とロウソクが灯された。それを皆で代わる代わる番をした。

お寺や火葬場などの都合もあり、通夜はその翌々日の日曜日、葬儀は連休最後の日の月曜日と決まった。よかった。これで少しでも長く、あれだけ帰る帰ると言って騒いだ家に、父をいさせてあげることができると思った。おかげで通夜や葬儀の準備(といっても実際にはあまりすることはないのだが)も、ゆとりをもって臨むことができた。最初は、いろいろなところから電話で問い合わせがあったりするのかなと思っていたのだが、知らせを聞いた近所の人たちが時折逢いに来てくれたりする以外は、家のなかは比較的静かで、父もゆっくりと家の雰囲気を楽しむことができただろうと思う。

日曜日の午後、葬儀屋の人がやってきて、父の亡骸をお棺に納める作業を丁寧にしてくれた。棺の中には、父の愛用のめがね、長年勤め父の人生の最も重要な期間だったと思われる会社の社員証(なぜこれが家にあるのかはわからない)、そして父が若い頃から親しんだと思われる本として、宇宙の本、音楽の本、日本語の本を一冊ずつチョイスして入れてあげた。母がなくなる前に、僕がプレゼントしてあげた帽子をずっと愛用してくれていたのだが、それは棺に入れず兄に形見として持ってもらうことにした。あと、大好きだった茶粥の茶袋を妻がご飯と一緒に入れてあげた。

こうして準備ができた父の棺は午後5時ごろ、25年間住み慣れた実家を後にした。日本を縦断した台風もちょうど過ぎ去り、空は明るくなり始めていた。霊柩車のクラクションと同時に、父の枕元にご飯を盛って備えてあった愛用のお茶碗を、兄が玄関で割りこわした。続いて僕らもすぐ近くの式場に出かけていった。式場について間もなくお通夜が始まった。親戚や近所の人たち、僕の幼馴染やそのご両親などもわざわざお参りに来てくれた。

その夜、僕等は式場に泊まったのだが、母方の親戚の人が遅くまで残ってくれて、久しぶりに人気のなくなった式場で父の棺を前に酒を飲んだりして時間をともに過ごしてくれた。母が亡くなって以降、母方の親戚とのお付き合いはあまりなく、僕の妻はまともにあって話をすることもほとんどなかったのでいい機会になった。これもまた父が作ってくれた不思議な縁だったのかもしれない。

父を見送る(前)

父の訃報に対して、多くの方からお言葉をかけていただきましたことを感謝いたします。先週末までには既に川崎に戻っていたのだが、父のことをどう書いたものか考える余裕があまりなく、ろぐはお休みとさせていただいた。

4月の後半頃から実質的に小康状態にあった親父の病状に、新たな展開が見られ始めたのは7月に入ってからだった。定期的に見舞いに行ってくれていた叔母からは、その頃から父が癌の痛みを少し訴えるようになったことを聞いていた。叔母の口ぶりではそうは言っても従来と同じ調子であるようにも見えたらしいが、僕にファックスで送ってくれた、主治医が書いたCT検査の所見には、これまでとの明らかな違いがあった。そこには幾つかの新たな転移が見られると書かれてあったのだ。

その知らせを受けた週の水曜日、僕は肋骨の経過を診てもらいに病院に行った。この日はとても混んでいて、僕は予定した時間になってもなかなか呼ばれないでいた。会社の午前休暇を超過しないかが気がかりだったので、時折、隠れて携帯電話の時計に目をやっていたのだが、ある時そこに着信の記録があることを認めた。発信者は父が世話になっている病棟の看護士長だった。父の病状に変化が出ているので、できれば早いうちに病院に会いに来て欲しいという内容だった。

肋骨の方は、本来であればその前の週の検診(骨折後1週間)で終わりのはずだったのだが、骨折時に肺の中に僅かに出血し溜まったものが認められ、それがもし増加していると問題なのでと、もう1週間観察をすることになっていた。つまり骨がくっ付くかどうかについては、もはや医師の関心事ではなかったのだ。幸いその影が大きくなっているということはなく、僕の診察はそれでおしまいということになった。写真を見ても明らかに骨はまだきれいに折れたままだったのだが、先生にそれを尋ねると「骨はまだまだですよ。1ヶ月はみておいてください。大丈夫、ちゃんとくっつきますから」と、妙に自身たっぷりな答えだった。

診察が終わってすぐに、父の病院からの電話について兄や妻に連絡を取った。元々、その週末の3連休に、僕と妻が和歌山に行くことになっていた。兄は主治医と電話で話したそうで、その時点で新たな転移のことと、今月いっぱいかもしれないという余命についての見通しを伝えられたという。その夜には、その日病院に行ってくれた叔母とも連絡がとれ、父の様子を聞くことができた。相変わらず痛がるとはいっており、食事も以前のようには摂らないとのことだった。週末には逢いに行くとして、その後はどうしようか。父はかつて母がそうなったように、やがては強い痛みに対してモルヒネを注射して意識のない状態になって、そのまま1週間ほどで死んでしまうのだろうか、そんなことを考えた。

7月13日の金曜日、僕は骨折以降このところそうしているように、従来より早く会社に出かけた。満員電車の混雑を少しでも避けるためだ。会社の最寄り駅に到着し、徒歩で数分の道を歩いている最中、何気なく眺めた携帯電話に着信記録を認めた。今度はメッセージは入っていなかった。会社についてすぐ病院の連絡をとったところ、そこで出た看護士から父がつい今しがた亡くなったことを知らされた。

少し驚いた、でも僕はとても落ち着いてその知らせを受け入れた。先ず、まだ出社前の準備をしていた妻に連絡をとり事実を告げた。続いて、兄に電話をしたがつながらなかったので、もう知っているのだろうとは思いながら、とりあえずメールを打った。職場の人間に事情を説明し、出向元のオフィスに出向いて出社していた部長代理にも事情を説明した。これから何をしなければいけないのかを考えながら、さっき降りたばかりの駅から再び電車に乗った。

1週間くらいの帰郷になる。慌しく準備をしても2時間程度はばたばたした。翌日に予約していた新幹線を変更し、品川を12時に発つことに決めた。和歌山駅に到着するのは午後4時になる。あらためて距離を感じる。既に知らせを受けて病院に到着した叔母から電話をもらい、僕等か兄のいずれかが到着するまで病院で待ってもらうことにした。結局、出張先から広島に戻りそこから駆けつけた兄とは、同じタイミングで和歌山に着くことがわかり、兄が病院に行って、僕達は先に実家に行って父を迎え入れる準備をすることにした。

父を寝かせてあげる布団に敷く真新しいシーツを駅前のデパートで買った。家の中はある程度片付けてあったので、開けられる窓をすべて開けて新鮮な空気に入れ替え、父が寝起きしていた部屋に布団をしいて父の帰りを待った。父が兄や叔母とともに帰ってきたのは午後6時過ぎ、外はまだ明るかった。病院での待ち時間の間に叔母が手配してくれた葬儀屋の人が同行して来て、父の亡骸にドライアイスを添えるなどの処置をしてくれた。

僕は病院から持って帰ってきたCDラジカセを枕元にセットして、病院でも何度か聴かせてあげた父のお気に入りの音楽を鳴らしてあげた。モーツアルトの「フルートとハープのための協奏曲ハ長調」、フルートはジャン=ピエール=ランパル、ハープはリリー=ラスキーヌである。実家へのタクシードライブ以来久しぶりに会う、そして死んでしまって初めて見る父の顔は、それはとても安らかなものだった。その瞬間、僕の心の底に漂っていた哀しみは消え去ったように思う。「お父さん、おかえりなさい」。

7/13/2007

お知らせ

7月13日の早朝、父が亡くなりました。享年75歳でした。

朝、会社に着いて知らせを受け、いま自宅に戻って和歌山に帰る準備をしながら、これを書いています。

とりあえずお知らせまで。

7/07/2007

山と階段

蒸し暑さは少し感じるものの、夕方以降は急に涼しさを感じる土曜日だ。早いもので骨折から12日目の夜を迎えた。

おかげさまでいまのところ日々順調な回復を続けている。直後にはまったくできなかった、仰向けの姿勢のまま床に就くこともいまはゆっくりとなら問題なくできる。寝返りをうつのにもほとんど痛みを伴うことはなくなった。それに伴って、痛み止めの薬も最近は1日1回で過ごせるようになり、今日は朝から薬も飲まず午後少し外出する際に病院でもらった痛み止めの貼り薬を、患部付近に貼って出かけ、それで効果は十分だった。

来週の半ばにもう一度病院で診てもらい、そこで異常がなければあとはしばらくは胸にサポータを巻きながら生活をし、自然に治癒するのを待つことになる。3連休が過ぎたあたりからは、お酒も普通に飲めるようになるだろう。ただ、これからは外で飲むのはいままで通りとしても、家で飲むお酒は少し控えめにしようかと考えている。骨を折ったこととは直接関係しないのだが、寝る前に飲むお酒はやはりいろいろな意味で心身によくないと思うようになった。

いま考えてみると、階段で足を滑らせたとき、僕はお酒のせいというわけではなく、何かいろいろな要因が絡まって、意識が少し空虚な状態になっていた様に思う。いま憶えているのは、自分が降りようとしている階段を見下ろして、こけたら危ないなあと一瞬思ったこと。にもかかわらず階段を2、3段降りたところで、僕の足は見事に滑ってしまった。ちょうど右足を前に出したときに、左足が前に滑ったのである。お分かりのように、そうすると両足が前に飛び出し、宙に浮いた身体はそのまま階段に落下した。その際、階段の角で左脇近くの背中を打ったというわけだ。

足を滑らせたのはもはやどうしようもなかったとして、浮いた身体をどこにぶつけたかは運命のわかれめだったのかもしれない。あれがもし後頭部だったらと思うと、いまでもゾッとするし、腰をぶつけてまたヘルニアが再発するというのも有難くない話である。そう考えると、肋骨の骨折程度で済んだのは不幸中の幸いだったのかもしれない。骨折の話を聞く度に、自分はこのまま一生骨折と縁もなく終われるのかなあ、と考えたこともあったのだが、その時は意外なほどあっさりと訪れた。人が命を落とす瞬間も、やはり同じように訪れるのかもしれない。


そう思わざるを得ない出来事が少し前にあった。僕の妻がいま僕がいる会社に入社したときの同僚で、数年前からアメリカの関係会社に出向している男がいた。僕らが結婚した頃、妻の同期入社の人たちが集まるバーベキューや飲み会に僕も何度か招かれたことがあり、僕はそうした機会を通じてその男とも面識を持つようになった。まあ仲間内ではなんというか天真爛漫で純朴で、少しヌケたところというか頼りなさげなところも感じさせる、ちょっと三枚目的な性格で皆に愛されていた。

予定では、この6月一杯で出向期間を満了し、日本に帰ってくることになっていたのだという。米国西海岸での滞在の記念にと思ったのか、もともとそういう趣味があったのかは知らないが、6月半ばの週末に彼は仲間3人と有名なヨセミテ国立公園内にある岩山「ハーフドーム」の登頂に出かけた。ここはその名の通り、ドームを縦に半分に切ったような形をした巨大な岩山で、垂直に切り立った壁面を麓から見上げた写真は、ヨセミテの風景写真の定番といってよい。彼はその登山中に不覚にも岩山の斜面で足を滑らせて滑落し、そのまま帰らぬ人となってしまった。

いまのご時世、イメージ検索をすればハーフドームの観光写真はいくつでも見ることができる。写真家アンセル=アダムスの作品で一躍世界に有名になったヨセミテの風景は、普通だったら僕らの心に何らかの癒しや啓示を与えてくれるものであるが、さすがに彼の訃報に触れてからは、しばらくそうした写真を直視することができずにいた。こんなところを滑り落ちたのかと少し考えただけで、その先の思考は強引にでも断ち切らねばならなかった。

ヨセミテの岩山と新宿の飲み屋の階段を同じに扱うのは、少々不謹慎と思われるかもしれない。でもこんな経験をした僕には、不注意で怪我をしたり命を落としたりすることは、どこでも起こりうるのだということを身をもって感じた。


 ジャズピアニストのポール=ブレイの新作"In Mondsee"が、ECMから発表された。新作といっても録音されたのは、2001年の4月というからそれから6年間ゆっくりと寝かせてCD化されたというところが実にECMらしい。因みに今年はブレイの75歳の年にあたるのだそうで、本作のリリースもそれを記念した作品としてのものであることが、同社のウェブサイトに記載されている。

内容は、オーストリアのモントゼーにある有名なピアノを使って行われたソロ演奏。ピアノソロと言えば、1972年にECMからリリースされた"Open to Love"がブレイの大傑作であるわけだが、その30数年後にリリースされた今回の作品もまた、ソロピアノの世界に大きな標を残す作品になることは間違いないだろう。10のインプロヴィゼーションで構成された1時間の作品は、何度も繰り返して聴いても尽きない深い味わいを予感させてくれる。ブレイの演奏は、彼独特のリリカルな表現をベースにしながら、時にジャズらしい力強さや、スタンダード曲のモチーフらしきものを織り交ぜたりしながら、自由に時空間を広げていき、その展開には思わず時間と我を忘れさせてしまう。これは非常に素晴らしいものだ。

このところピアノといえばキースを中心に聴くことが多かった僕だが、今回の作品は久しぶりにキース以外のピアノに深く感動させてくれた。しかし、"Open..."がリリースされたときのブレイの年齢がいまの自分と大体同じとは。。。まだ数回しか聴いていないこの段階で取り上げるのもどうかと思ったのだが、この作品に収められた演奏が秘める価値の永続性を信じ、それを不慮の事故で命を失ったあの男の魂を弔う音楽としてささげたたいとも感じた次第である。

7/01/2007

タクシードライブ

骨折の夜から5日目になった。いまのところ痛みはそれ程でもない。ベッドに寝る際に姿勢を変えるのが一番辛いが、それも少しずつ慣れてきた。以前に患った椎間板ヘルニアの体験がよみがえってきた様に思う。痛みは慣れるとある程度までは(それがいずれ治まるものと信じながらではあるが)、それと付き合って生活を続けることはたやすい。父親のこともあるし、一日でも早く治さないと困るわけで、そのためには少し大げさでも静養することが必要だ。なので、今週後半はどうしてもやらねばならなかったあるプレゼンを除いて、基本的には会社を休むことにした。

おかげで、酒も飲まず毎日決まった時間に寝る生活が続いている。ちょうど2週間くらいお酒を飲まない期間をつくらないといけないかなと、考えていたところだった(言い訳がましいが)。姿勢の関係でベッドでテレビを見るのも難しいので、ベッドに入ったら眠るしかない。これが意外にすんなり眠れてしまう。たぶん寝るのが不自由するので、昼間でもあまり気軽に寝ることができないのがいいのだろうと思う。まあそれでも結構昼寝はしているが。

さて、今回は先週のろぐとして書きかけていた内容に、骨折後に少し手を加えて仕上げたものでご勘弁いただきたい。

先週の土曜日、僕と妻は再び和歌山に帰った。今回は明確な目的があった。それは、父親を彼が生まれ育った実家につれて行ってあげることだ。父が繰り返す「帰りたい」の意味は大きく3つあるように思う。以下ニーズの強い順に、一つは病院を出て自分のペースで生活をすること、もう一つは自分が建てた家に帰ること、そして最後が、自分の生まれ育った実家に帰り、事情があって病院に来ることができない自分の妹に会ったり、自分の両親の存在を感じるものに触れたいこと。今回は、その3番目を実現してあげようという企画である。お分かりかと思うが、ともかく実現するのが一番たやすいのがそれなのだ。

父の実家は、現在の家があるのとは正反対の方角にある。病院からは車で50分位はかかるはずだ。まあ地方の道なので、渋滞とかの心配は大したことではない。問題は父親の身体が往復の長時間のドライブに耐えられるのかということだった。これに関しては、病院の先生や看護士、それに叔母と兄と僕と妻でいろいろと話し合ったのだが、病院側はあっさりOKという一方で、身内の僕らはなかなか踏ん切りがつかないというのが実際だった。

それもそのはずで、この1週間でも父の状態は様々だった。週の前半はもうほとんどうつらうつらと寝るばかりで、ほとんど会話らしいものがなかったらしい。やはりこれでは難しいのではないか、そういう雰囲気が僕らの間に充満した。ところが週の半ばから調子を取り戻し、水曜日に電話で言葉を交わしたという兄の報告では、話している内容はいまいちはっきりしないものの、言葉のニュアンスやイントネーションなどはしっかりしていて、意識はかなりはっきりしている様子だったのだそうだ。さらにその2日後に病院に行ってくれた叔母の話からも、ほぼ同様の状態であることが確認され、結局、土曜日に僕と妻が病院に行き、そこで状態を判断したうえでよければそのままタクシーに乗せて連れて行こうということになった。

この日の和歌山はちょうど梅雨の合間で天気がよかった。病室を訪れてみると、僕らの顔を認めた父が微笑んだ。それを見た家政婦が「わたしらにはこんな顔は見せたことがないよ」と言って僕らは少し恐縮したが、まあそれは本当だろうと思う。話をしてみると、内容は相変わらずちぐはぐな部分も多かったが、言っていることはわかるし、意識がはっきりしていることは明らかだった。決行はすぐに決まった。

あらかじめ地元のタクシー会社に相談をしてあった。車椅子のまま乗れるタクシーや、寝台(ストレッチャー)のまま乗れる車両などもあったが、時間と距離を考えると金額もそれなりになった。なによりも事前に予約をしておく必要があり、そのことが今回の様な状況ではちょっとためらってしまうのも事実だった。しかし結果的にはいまの父の様子から、通常のタクシーで座った状態で乗せ、叔母と僕と妻も乗り込んで行けるところまで行ってみようということになった。

車椅子で病室を出て、エレベータに乗って病院の1階に降りたあたりまではうれしそうだった父だが、そもそも自分がどこに行くのかについてはあまりよく理解していないらしかった。車椅子が病院の玄関に止まったタクシーのところまで来ると、一瞬乗ることを躊躇する場面もあった。やはり病院を離れることにどこか不安を抱いているのだろう。トイレに行くとかなんとかいってゴネるので、叔母がオムツ履いてるから心配ないでしょうとか言いながら無理やりタクシーに乗せてしまった。

往路、父は少し痛がりもしたが概ね順調だった。僕は助手席に乗り、叔母と妻と父が後ろの座席に並んだ。タクシーが走り始めて、すぐに気づいたことがあった。おばが事前に今日は実家に帰るよと本人に説明していたにもかかわらず、やはり父は自分の家に向かうものと思い込んでいることだった。周囲の景色の移り変わりを見ながら、自分たちが逆の方向に走っていることは、ほぼはじめからわかっているようで、途中から「どこへ行くのか」とすねだしたりもした。車が実家に着く頃になると「もう降りる」とか言い出し、表面上は明らかに不満そうではあった。

父の実家は以前は理髪店を営んでいた。お店があったところには、昨年の春まで祖母が寝たきりになっていた介護用ベッドが置かれ、最近までそのうえに荷物が山積みになっていたのを、大慌てで片付けてくれたのだそうだ。といってもお世辞にも部屋はきれいに整頓されているとはいえず、父もそれをみてまた不平をまくし立てていた。この家に住む妹たちは、自分達の兄が到着しても、なかなか部屋に入ってこようとしない。大体察しがつくと思うがこれが父の兄妹そのものであり、彼らの性分であり、彼らの世界なのだ。

父は少しずつ落ち着きを取り戻し、やがて車椅子から降りて祖母が寝ていたベッドで横になりたいと言った。それを手伝った僕と妻は、しばらくして散歩に出かけると言ってその家を出た。それがどういう内容になるかわからなかったが、この家で父と3人の妹だけの時間を過ごさせてあげたかったのだ。わずか45分ほどの時間だったと思うが、そこで何があったのか僕等は知らない(まああまり大したことはなかったと思うが)。

滞在は1時間半ほどだっただろうか。寛ぎ始めた父がそこに居座りたいというだろうことは十分察しがついたので、帰らせるのは骨が折れるだろうなと予想はしていたものの、まあそこはなんとか車椅子に乗せることができた。僕と妻はタクシーが来るまでの少しの間、父を実家の近所をおして散歩した。隣のお宅がどうしたとか、牛乳屋だった家はいまはどうなっているだのと、昔の話をちぐはぐながらしているうちに、お迎えのタクシーが来た。

本来ならば少し回り道をして、彼が長年勤めた会社の工場がある辺りまで行ってあげたかったのだが、僕の方にどこか心の余裕がなく、早く病院に帰さないとという焦りからかまっすぐ戻る道を選んでしまった。

帰りのタクシーでも父は快調そのものだった。そして予想通り、病院に着いてそこで彼を降ろすのが少々骨だった。本人は僕らには降りてもらって、自分はこのまま家に帰るのだという気になっていた。座ったまま「運転手さん、じゃあ車を出してくれ」と言ったり、タクシーカードをホルダーごととってなにやらいじくり回したりとしているうちに、なんとか僕の説得に応じて車から降りてくれた。

こうしてドタバタではあったが、父を連れ出してのタクシードライブは終わった。僕と妻はその後1時間ほど父に寄り添っておしゃべりをし、あとは家政婦にお願いして病院を後にした。もっと長い時間連れ出してあげられればよかったとか、あそこを見せてあげたかったとかいろいろな反省はある。しかし、叔母も僕も妻も、とりあえずやり遂げたと言う思いに満足することはできた。それが父の満足にどこまでつながっているのかはわからなくても。

案の定、後で聞いたところではその夜父は興奮し、眠りもせずに盛んにベッドから降りようとしたらしく、以降、また「帰りたい」を連発する日々が続いているそうだ。なかなかそれに真っ正面から応えてあげられないのだが、父が元気になったのは嬉しかった。

父には悪いと思いつつ、妻と二人で和歌山駅前の魚料理店「銀平」の暖簾をくぐって、ささやかな打ち上げをした。海外出張の準備で来ることができなかった兄にはメールで報告をした。珍しい太刀魚の刺身など美味しい和歌山の魚を食べていると、父が僕らを育ててくれた海に近い社宅街に吹く磯の香りを含んだ風を思い出した。やっぱり帰りのタクシーにはそこを回ってもらうべきだったかなと思うと、少しビールが苦く感じられた。また機会がある、そう信じることで僕は僅かに震えたグラスを持つ手を落ち着かせた。