先週の水曜日に東京初台のオペラシティで、セシル=テイラーの来日公演があった。本来は1月初旬に予定されていたのだが、セシル自身の体調の都合で延期となり、この日ようやく実現したものである。忙しいさなかであったが、もうこれを逃しては彼の演奏を生で聴く機会はないだろうと、〆切が迫っているレポート作りも早々に放り出して会場に向かった。
ほぼ1年前にこのろぐでレビューしたオーネット=コールマンの時と同様、今回もなぜか山下洋輔とのジョイントコンサートになっていた。最初に言っておきたいのだが、個人的には今回の企画は音楽的な観点からは成功とはいえないという感想を抱いた。
オーネットの時もなぜ「わざわざ」山下を当てるのかという素直な疑問はあったのだが、結果的には新しい音楽を追究するオーナットの姿勢を聴衆の一人としてうまく受け入れることはできた。しかしながら、今回それはかなり難しいだろうことは初めからある程度予想はできたし、結果的にもその通りとなった。
コンサートは二部構成で、最初にそれぞれのソロを披露し、続いてデュオでの演奏した。セシル観たさに気持ちがはやったのか、僕はまず初めにセシルが出てくるものと思い込んでしまっていた。会場が暗くなって山下が登場した時は、大好物のとんこつラーメンを待っていたらみそラーメンが出てきた時の記憶がよみがえった。余談だが、その時僕はそのみそラーメンを食べたのだが、それは格別にまずかった。後日同じ店でみそラーメンを注文して食べたら、それはそれなりにおいしかった。ものの評価は必ずしもその本質だけでは決まらない。
山下はオーネットの時と同じ格好で舞台に現れ同じ台詞をしゃべった「とうとう僕の人生の中でこの時がやってきました」。彼は2曲の演奏を披露し、ピアノを交換する段取りの後いよいよセシルが登場した。彼が舞台に現れないうちから、木の玉で作ったと思われる楽器(もしかしたら首飾りかもしれない)のじゃらじゃらという音が響き渡った。続いて彼の即興詩の朗読が始まったかと思うと、セシルが牛歩戦術の様なダンスをしながら舞台に現れた。この登場にオペラシティに集まった聴衆はあっけにとられた。
おもむろにピアノの前に座ると彼は20分近くかけて、たっぷり1つの演奏を披露してくれた。その前の山下の演奏がなかったらもっとピュアに楽しむことができただろうが、それが非常に悔やまれる。山下がいかに偉大なアーチストであろうとも、セシルの前ではその影響でスタイルを作ったピアニストに過ぎない。
ピアノという楽器の特性上、一定の音楽の様式に乗っ取った演奏をするうえでは、同じ曲を演奏しても音楽の複雑さ(これもよく考えればあまり意味のないことだと思うのだが)とはまったく無関係に、演奏者の個性がそこに反映される様を楽しむことができる。ある意味それが現代のピアノミュージックの大きな楽しみ方になっている。
ところが、本来はより自由な表現を求めて様式の枠が取り払われたはずのフリーフォームな演奏となると、途端に表現の限界が露呈する。それでも現代音楽の様に一聴した感じではフリーフォームのように思えても、実は細部まで綿密に構成された音楽の場合は、やはりコンポジションとしての楽しみ方は不変である。しかし、インプロヴィゼーションとなるとピアノ本来の雄弁さは急に影を潜めてしまう様に思えてならない。今回のコンサートで僕が一番感じたのはやはりその点だった。
考えてみれば、ジャズの世界ではピアノはサックスやトランペットともに花形楽器の一つであるが、フリージャズの世界に限って言えば、そこはほとんど管楽器と打楽器の独壇場といっていい状況である。セシルはその世界で数少ない(もしかしたら唯一の)スタイリストでありその個性は強力であるが、フリーの世界で他にどんなピアニストがいるかと考えてみれば思いつく人がいない(もちろん山下は思いつくが)。
コンサートのことを「日米フリージャズの競演」とか「2人の強烈な個性が激しくぶつかり合い・・・」と表現することはまったく持って構わないと思うのだが、実際に聴いてみた僕の感想は、演奏が激しくなるほど2人の個性は薄れ、その交わりの中に何か新しいものが聴こえたかと言えばそれはなかったということになる。その意味ではやや残念な結果であった。個人的にはセシルの単独公演か、それが無理なら打楽器とか管楽器とかそういう人とのデュオなりを期待したかったところである。別に同じジャンルの人間で紫綬褒章の「文化人」である必要はないと思うのだが。
とはいえ、フリーピアノインプロヴィゼーションの醍醐味を存分に味わえる内容ではあった。前半はそれなりに民族衣装っぽい出で立ちでショーアップ(?)していたセシルだったが、後半のデュオでは大好きなスポーツウェア(膝丈のナイロンパンツにTシャツ)に着替えて現われ40分以上に及ぶ熱演を繰り広げてくれた。アンコールに応えて5分ほどのデュオパフォーマンスも披露してくれた。セシルは観客の拍手を浴びるのが苦手らしく、すぐに舞台から去ろうとするので山下が懇願して観客に再度挨拶するのが微笑ましかった。
会場にはかなりのご年配の方も含め年齢層の高い聴衆が集まっていた。考えてみればセシルはもう半世紀以上も演奏家として活動している。1960年代のジャズに青春を謳歌した人の中にも、密かにセシルを支持してきた人は少なくなかったのかもしれない。まぎれもなく彼は「ジャズジャイアント」なのだから。オーネットともにその姿と元気な演奏を生で楽しむことができたのは、僕の人生でも大切な体験である。
以後、セシルの演奏をいくつも聴いた。やはり一番のお気に入りでこのろぐでも初めの頃に取り上げた"Dark to Themselves"は、iPodで聴きながら思わずうなってしまう名演である。このユニットがもしいま僕の目の前に現れたらしばしの発狂を楽しめそうである。他にも何枚か持っているソロ演奏やユニット演奏、デュオ演奏などの作品を聴き漁った。やっぱりセシルの音楽は素晴らしい、万歳!
2/24/2007
2/17/2007
デイヴ=リーブマン「ザ ブレッシング オブ ザ オールド ロング サウンド」
なかなか物事は思うようには進まない。あることが少し落ち着いたと思えば、今度は別のことが気になり始める。そういうことが交互に繰り返されているうちに、時間は経過してゆき、僕はその流れの中で時に焦り、時にもがき、時に居直る。この頃は少し居直ることが多くなったかもしれない。焦りもがくよりはマシなのではと思っているのだが。
東京ではとうとう初雪よりも先に春一番が吹き荒れる事態になった。気象庁の観測史上初のことらしい。僕の住んでいる川崎では、数週間前にほんの一時だったが雪が舞うのを見ることができた。季節の旬の表情は、ほんの一瞬でもやはり記憶にしっかりと残るものだ。あれがこの辺りで見かける最後の雪だった、などということにならなければいいと思うのはやや大げさだろうか。
そんな気分と季節のなか、不意に心によみがえってきた音があった。大抵の場合こういう音楽は既に押し入れの中に仕舞い込んであって、少し苦労してそれを取り出そうか、それとも面倒なので聴きたいのを我慢して記憶の中の音影をむさぼって過ごすかのどちらかになる。しかし今回は事情が違っていた。部屋にあるCDラックの中にその作品がちゃんと僕を待っていてくれたのだ。
作品の内容を象徴するように、ジャケットには複数の笛を口にしている様に見える不思議な石像の写真が掲げられている。僕はこの像を見ると、いつも何かまるで呪いのかかったような不吉なものが一瞬心のどこかをよぎるのを感じる。まるで「インディージョーンズ」の映画に出てきそうな、触ると何か不幸がおこる石仏の様な感じである。
この作品はジャズサックス奏者のデイヴ=リーブマンが、1990年にイタリア人のアフリカ音楽研究家ジャンフランコ=サルヴァトーレによる企画のもと録音したユニークな演奏集である。4人の管楽器(というより単純に笛といった方がいいだろう)奏者による合奏は、特殊な呼吸法で途切れることなく続く伴奏をベースにしていて、タイトルにある様な太古の音楽にリーブマンの洗練されたサックス演奏が絡む構成になっている。
演奏者によるオリジナル作品に加えて、リーブマンらしく"Africa Brass"と"The Drum Thing"という2つのコルトレーン作品が含まれている他、リッチー=バイラークの美しいバラード"ELM"なども演奏されている。いずれの演奏も非常に素晴らしい内容である。
この音楽の魅力は「原時間」とでも言える時間の流れにある。ここにある音楽のなかを流れる時間は、いろいろな音楽のなかでもとりわけゆっくりしている。そこにはもはや緩急のようなものはなく、何もない広大な原野にある空気とか、大きな川の下流に見られるひたすらゆっくりとした流れを感じさせる。自然本来が持つ時間の流れ、すべての日常生活のベースにある流れだ。この演奏は人間をそうした最もプリミティブな時間の底流にそっと戻してくれるように思う。
このCDを買ったのはたぶん横浜関内にあるディスクユニオンだった。会社の寮を出てやっとまた学生時代の様な1人部屋の時間が持てるようになった頃だったと記憶している。学生時代に比べて日常の時間の流れ方はまったく変わってしまっていたが、僕にはそれが新鮮でもあった。自分の時間を生きているのか、そうでない何かの時間を生かされているのか、そんなことも考えずに過ごしていた様に思うが、それでもこの作品を初めて聴いた時は、ゆっくりと確実な時間の流れに衝撃を受けたことは、いまでもはっきり覚えている。
残念ながらいまは既に廃盤になってしまっているようだが、都内を中心に中古CDを扱っている大きなお店でたまに見かけることがあるように思う。自分の時間を取り戻したいと感じている人は、リーブマンの名前とこの不思議な石像のジャケットを手がかりに、足を使ってこの作品を探し求めてみるのも悪くないかもしれない。
東京ではとうとう初雪よりも先に春一番が吹き荒れる事態になった。気象庁の観測史上初のことらしい。僕の住んでいる川崎では、数週間前にほんの一時だったが雪が舞うのを見ることができた。季節の旬の表情は、ほんの一瞬でもやはり記憶にしっかりと残るものだ。あれがこの辺りで見かける最後の雪だった、などということにならなければいいと思うのはやや大げさだろうか。
そんな気分と季節のなか、不意に心によみがえってきた音があった。大抵の場合こういう音楽は既に押し入れの中に仕舞い込んであって、少し苦労してそれを取り出そうか、それとも面倒なので聴きたいのを我慢して記憶の中の音影をむさぼって過ごすかのどちらかになる。しかし今回は事情が違っていた。部屋にあるCDラックの中にその作品がちゃんと僕を待っていてくれたのだ。
作品の内容を象徴するように、ジャケットには複数の笛を口にしている様に見える不思議な石像の写真が掲げられている。僕はこの像を見ると、いつも何かまるで呪いのかかったような不吉なものが一瞬心のどこかをよぎるのを感じる。まるで「インディージョーンズ」の映画に出てきそうな、触ると何か不幸がおこる石仏の様な感じである。
「ずいぶん久しぶりじゃないか、やっと思い出してくれたかね。」笛を吹く石像のくぼんだ目線は僕にそう語りかける。
この作品はジャズサックス奏者のデイヴ=リーブマンが、1990年にイタリア人のアフリカ音楽研究家ジャンフランコ=サルヴァトーレによる企画のもと録音したユニークな演奏集である。4人の管楽器(というより単純に笛といった方がいいだろう)奏者による合奏は、特殊な呼吸法で途切れることなく続く伴奏をベースにしていて、タイトルにある様な太古の音楽にリーブマンの洗練されたサックス演奏が絡む構成になっている。
演奏者によるオリジナル作品に加えて、リーブマンらしく"Africa Brass"と"The Drum Thing"という2つのコルトレーン作品が含まれている他、リッチー=バイラークの美しいバラード"ELM"なども演奏されている。いずれの演奏も非常に素晴らしい内容である。
この音楽の魅力は「原時間」とでも言える時間の流れにある。ここにある音楽のなかを流れる時間は、いろいろな音楽のなかでもとりわけゆっくりしている。そこにはもはや緩急のようなものはなく、何もない広大な原野にある空気とか、大きな川の下流に見られるひたすらゆっくりとした流れを感じさせる。自然本来が持つ時間の流れ、すべての日常生活のベースにある流れだ。この演奏は人間をそうした最もプリミティブな時間の底流にそっと戻してくれるように思う。
このCDを買ったのはたぶん横浜関内にあるディスクユニオンだった。会社の寮を出てやっとまた学生時代の様な1人部屋の時間が持てるようになった頃だったと記憶している。学生時代に比べて日常の時間の流れ方はまったく変わってしまっていたが、僕にはそれが新鮮でもあった。自分の時間を生きているのか、そうでない何かの時間を生かされているのか、そんなことも考えずに過ごしていた様に思うが、それでもこの作品を初めて聴いた時は、ゆっくりと確実な時間の流れに衝撃を受けたことは、いまでもはっきり覚えている。
残念ながらいまは既に廃盤になってしまっているようだが、都内を中心に中古CDを扱っている大きなお店でたまに見かけることがあるように思う。自分の時間を取り戻したいと感じている人は、リーブマンの名前とこの不思議な石像のジャケットを手がかりに、足を使ってこの作品を探し求めてみるのも悪くないかもしれない。
2/11/2007
キース=ジャレット「イン ザ ライト」
長いことモヤモヤとしたままになっていたあることに、ひとつの決着を付けることができた。かなり以前からそういう思いはあったのだが、特に今年に入ってここ1ヶ月ほどの間は、そのことで実際にあちこちを駆け回っていて、それでもなかなか満足のいく内容につなげることができなかった。いま、ひとまずそれは一つの段階を過ぎ、結果には非常に満足している。ことの詳細は、個人的なこととしてまだここには書かない。誰にでもこれに類似する様なことはきっとあるはずだ。
そのために、会社帰りの時間を川崎駅前で過ごしていた先週のある日、僕はもやもやした思いを少しでも和らげようと、中古レコード店「トップス」に立ち寄った。ちょうど3年前のろぐで取り上げて以降、えぬろぐでも何度かお店で出会った作品をとりあげてきた様に思う。今回の作品もその時に巡り会ったものだ。
トップスはジャズとラテンを中心に、主に中古LPレコードを取り扱うお店である。店内の多くのスペースがレコードで埋めつくされている。CDは壁際の棚のいくつかに置かれているが、枚数はレコードよりも少ない。ジャズのCDはレジの向こう側(マスターのすぐとなり)にきれいに整理されている。僕はそのコーナー以外はほとんど見ない。
おそらく現在の場所で開店してもうかなりになるのだろう(僕の推定では軽く30年は経っていると思う)。薄暗いビルの階段を登っていくと、たいてい1950年代のご機嫌なモダンジャズが店内に鳴り響くのが聞こえてくる。お店の入り口にかかっているビニールシートののれんをかき分けると、マスターが口笛か鼻歌で演奏に参加しているのが目と耳に入ってくる。
僕は未だにマスターと会話したことはない。彼は明らかに1960年代の日本でのモダンジャズブームを、コンテンポラリーに経験したと思しき人物である。これまでに一通りいろいろなジャズを聴いてきたのだと思う、そのことは棚にきれいに整理されたCDを見ればよくわかる。そして「やっぱり俺のジャズはこれだよ」と落ち着いたのが、50年代のモダンなのだと思う。もしかしたら同時期のブルーノートのラテンを中心にしたラテンジャズブームや、その後のスタン=ゲッツのボサノバシリーズなどを機に、ラテンの方にも目覚められたのかもしれない。
このお店に4人以上のお客が同時にいるのを、僕はまだ見たことがない。この日は平日の夜7時半で、閉店の30分前だったからお客は僕ひとりだった。店にはエディ=コスタのスウィンギーなヴァイブ演奏が流れていて、マスターの口笛が高らかに鳴り響いていたのはいうまでもない。毎度のことだがこういう状況には少し緊張してしまう。
なぜなら、僕はCDの棚しか見ないし、しかも手にするには1960年代のフリージャズとか、ECMなど1970年代以降のヨーロッパ系ジャズがほとんどである。店内に醸し出されるマスターのモダンジャズワールドとはかなり違う。エディ=コスタやクリフォード=ブラウンが鳴り響き、ご機嫌にそれらを口ずさちょっぴり気難しい屋のマスターの前に、セシル=テイラーやデレク=ベイリーなんかの作品を差し出すのは、いくらこっちがお客だとはいえ、やはりちょっと気が引けるものだ。まあ最近ではそうした時のマスターの表情をチラ見するのが密かな楽しみでもあるのだが。
実は今回は、前回のろぐで取り上げたファラオの作品を中古で探すのが目的だったのだが、残念ながらお目当てのものは棚にはなかった。ひとりぼっちのお客としては、閉店間際のこの時間に手ぶらで帰るのも、何かお店に悪い様な気がしてしまう。マスターの「なんだ冷やかしか」という視線を背中に感じながらお店を後にするのも、やや自虐的で悪くはなかったのだが、僕としては晴れないモヤモヤのこともあったし、やっぱり何か買って帰りたい思いもあった。
しかし、この日の棚には、僕の興味を惹くものが珍しく少なかった。僕の気持ちがあんまり音楽の方にまっすぐではなかったことも一因かもしれない。そんななかで手に取ったのがキース=ジャレットの「イン ザ ライト」だった。
キースが1970年代にECMに残した作品は、ソロピアノと、ポール=モチアン等との1960年代クァルテットの延長のもの、そしてそれ以外のキースの個人的な音楽探求とでも言えるものに大別される。この作品はその3番目の部類に属するものだ。キースには失礼だが、この群に属する一連の作品はあまり人気がない。
それを反映してか、作品には珍しく本人がそのことを弁解するかのような、ラーナーノートを寄せている。その中でキースは「いままでの自分の作品とのいかなる関係も絶った状態で聴いて欲しい」と書いている。いま思えばまったく無用の断り書きだと思うのだが、当時これを発表することはそのくらい実験的だことであったのだろう。逆にこの作品の制作を勧めたECMのプロデューサ、アイヒャー氏のキースへの想いがいかに深いものだったかがわかる。
「イン ザ ライト」は一言でいうなら「キース=ジャレット作曲集」である。2枚組のCDに収録された8つの作品は、オーケストラ作品だったり、弦楽四重奏やブラスアンサンブルのための作品だったり、ピアノ作品だったりと実に様々な演奏フォーマットを前提にしたものが収められている。これらはすべてキースがバークレー音楽院を1年で中退した1960年代のある時期に、当時住んでいたアパートの一室で書き溜めたものだという。
僕はもちろんこの作品を知らない訳ではなかったが、内容が内容だけに、キースの音楽探究編のなかでもかなりエッジな部分に属する作品であることは間違いない。少なくとも、中身を聴く前に知ることができる情報だけから判断すれば、そうなってしまう。これまで、何度も中古屋でこの作品を見かけることはあったが、僕も手を出してこなかった。それを買うなら他に買うものがあるだろうとか、まあいま買わなくてもいいだろうという判断が働いてしまう。
その日トップスの店内で、僕の頭の中では意外にもあっさりとこの作品を買おうという判断が成立してしまた。これまでの経緯を読んでいただければお分かりの通り、それは自分の中での憂さ晴らしだったり、お店の雰囲気に追いつめられたりと、ある種音楽とは関係のないところを中心に行われた部分が多い判断だった。
マスターにこの作品を差し出すと、彼は鼻歌をやめて黙々と包装とレジ打ちをしてくれた。彼の頭の中ではもはやエディ=コスタとこの作品の比較すらあり得ないことだったことだろう。「はいはい、遅い時間にありがとうね」といった感じで淡々と執り行われた出荷の儀式は、おそらくこれまでこのお店で何千回と繰り返されてきたことの一部に過ぎない。そしてそれを通じて、僕らのもとにすばらしい音楽が届けられるのだ。だからこのお店は憎めないのである。
さて作品の内容は、僕には非常に楽しめるものだったとだけ書いておこう。先にも書いたように、キースがライナーに記した想いは杞憂に過ぎない。キースの音楽として、ほかの作品や演奏にも十分通じるものがあるし、彼のインプロヴィゼーションのスケール感を知る上で、大切な手がかりを提供してくれるという意味で、完全にキースの音楽世界そのものである。
特に、最後に収められた"In The Cave, In The Light"は、作るのに極めて苦労したというキースの言葉が物語るように、非常に素晴らしくかつまた重要な作品である。まだ3回しか聴いていないが、この曲は聴けば聴くほど限りなく深さが増していきそうに思える。たぶん僕の中での重要なキースの愛聴曲になりそうな予感(というかほぼ確信にかわりつつあるが)でいっぱいである。キースになじみ深い人にはわかるかもしれないが、彼が手に入れた広大な自宅に作ったスタジオは"The Cavelight Studio"であり、彼の楽曲を管理する著作権管理会社は"Cavelight Music"と名付けられる。この作品にはキースの音楽の原点というか核にあるものが込められているように思う。
冒頭に触れた僕のモヤモヤもそうしたことに関係があるのだが、「一般的」とか「普通」といわれるものとは異なる視点を常に持ち続けることを僕は大切にしたい。このアルバムはそういう姿勢に満ちたキースの挑戦であり、彼の音楽の重要な部分を表現している。これとの出会いを作ってくれたトップスにも感謝したい。
そのために、会社帰りの時間を川崎駅前で過ごしていた先週のある日、僕はもやもやした思いを少しでも和らげようと、中古レコード店「トップス」に立ち寄った。ちょうど3年前のろぐで取り上げて以降、えぬろぐでも何度かお店で出会った作品をとりあげてきた様に思う。今回の作品もその時に巡り会ったものだ。
トップスはジャズとラテンを中心に、主に中古LPレコードを取り扱うお店である。店内の多くのスペースがレコードで埋めつくされている。CDは壁際の棚のいくつかに置かれているが、枚数はレコードよりも少ない。ジャズのCDはレジの向こう側(マスターのすぐとなり)にきれいに整理されている。僕はそのコーナー以外はほとんど見ない。
おそらく現在の場所で開店してもうかなりになるのだろう(僕の推定では軽く30年は経っていると思う)。薄暗いビルの階段を登っていくと、たいてい1950年代のご機嫌なモダンジャズが店内に鳴り響くのが聞こえてくる。お店の入り口にかかっているビニールシートののれんをかき分けると、マスターが口笛か鼻歌で演奏に参加しているのが目と耳に入ってくる。
僕は未だにマスターと会話したことはない。彼は明らかに1960年代の日本でのモダンジャズブームを、コンテンポラリーに経験したと思しき人物である。これまでに一通りいろいろなジャズを聴いてきたのだと思う、そのことは棚にきれいに整理されたCDを見ればよくわかる。そして「やっぱり俺のジャズはこれだよ」と落ち着いたのが、50年代のモダンなのだと思う。もしかしたら同時期のブルーノートのラテンを中心にしたラテンジャズブームや、その後のスタン=ゲッツのボサノバシリーズなどを機に、ラテンの方にも目覚められたのかもしれない。
このお店に4人以上のお客が同時にいるのを、僕はまだ見たことがない。この日は平日の夜7時半で、閉店の30分前だったからお客は僕ひとりだった。店にはエディ=コスタのスウィンギーなヴァイブ演奏が流れていて、マスターの口笛が高らかに鳴り響いていたのはいうまでもない。毎度のことだがこういう状況には少し緊張してしまう。
なぜなら、僕はCDの棚しか見ないし、しかも手にするには1960年代のフリージャズとか、ECMなど1970年代以降のヨーロッパ系ジャズがほとんどである。店内に醸し出されるマスターのモダンジャズワールドとはかなり違う。エディ=コスタやクリフォード=ブラウンが鳴り響き、ご機嫌にそれらを口ずさちょっぴり気難しい屋のマスターの前に、セシル=テイラーやデレク=ベイリーなんかの作品を差し出すのは、いくらこっちがお客だとはいえ、やはりちょっと気が引けるものだ。まあ最近ではそうした時のマスターの表情をチラ見するのが密かな楽しみでもあるのだが。
実は今回は、前回のろぐで取り上げたファラオの作品を中古で探すのが目的だったのだが、残念ながらお目当てのものは棚にはなかった。ひとりぼっちのお客としては、閉店間際のこの時間に手ぶらで帰るのも、何かお店に悪い様な気がしてしまう。マスターの「なんだ冷やかしか」という視線を背中に感じながらお店を後にするのも、やや自虐的で悪くはなかったのだが、僕としては晴れないモヤモヤのこともあったし、やっぱり何か買って帰りたい思いもあった。
しかし、この日の棚には、僕の興味を惹くものが珍しく少なかった。僕の気持ちがあんまり音楽の方にまっすぐではなかったことも一因かもしれない。そんななかで手に取ったのがキース=ジャレットの「イン ザ ライト」だった。
キースが1970年代にECMに残した作品は、ソロピアノと、ポール=モチアン等との1960年代クァルテットの延長のもの、そしてそれ以外のキースの個人的な音楽探求とでも言えるものに大別される。この作品はその3番目の部類に属するものだ。キースには失礼だが、この群に属する一連の作品はあまり人気がない。
それを反映してか、作品には珍しく本人がそのことを弁解するかのような、ラーナーノートを寄せている。その中でキースは「いままでの自分の作品とのいかなる関係も絶った状態で聴いて欲しい」と書いている。いま思えばまったく無用の断り書きだと思うのだが、当時これを発表することはそのくらい実験的だことであったのだろう。逆にこの作品の制作を勧めたECMのプロデューサ、アイヒャー氏のキースへの想いがいかに深いものだったかがわかる。
「イン ザ ライト」は一言でいうなら「キース=ジャレット作曲集」である。2枚組のCDに収録された8つの作品は、オーケストラ作品だったり、弦楽四重奏やブラスアンサンブルのための作品だったり、ピアノ作品だったりと実に様々な演奏フォーマットを前提にしたものが収められている。これらはすべてキースがバークレー音楽院を1年で中退した1960年代のある時期に、当時住んでいたアパートの一室で書き溜めたものだという。
僕はもちろんこの作品を知らない訳ではなかったが、内容が内容だけに、キースの音楽探究編のなかでもかなりエッジな部分に属する作品であることは間違いない。少なくとも、中身を聴く前に知ることができる情報だけから判断すれば、そうなってしまう。これまで、何度も中古屋でこの作品を見かけることはあったが、僕も手を出してこなかった。それを買うなら他に買うものがあるだろうとか、まあいま買わなくてもいいだろうという判断が働いてしまう。
その日トップスの店内で、僕の頭の中では意外にもあっさりとこの作品を買おうという判断が成立してしまた。これまでの経緯を読んでいただければお分かりの通り、それは自分の中での憂さ晴らしだったり、お店の雰囲気に追いつめられたりと、ある種音楽とは関係のないところを中心に行われた部分が多い判断だった。
マスターにこの作品を差し出すと、彼は鼻歌をやめて黙々と包装とレジ打ちをしてくれた。彼の頭の中ではもはやエディ=コスタとこの作品の比較すらあり得ないことだったことだろう。「はいはい、遅い時間にありがとうね」といった感じで淡々と執り行われた出荷の儀式は、おそらくこれまでこのお店で何千回と繰り返されてきたことの一部に過ぎない。そしてそれを通じて、僕らのもとにすばらしい音楽が届けられるのだ。だからこのお店は憎めないのである。
さて作品の内容は、僕には非常に楽しめるものだったとだけ書いておこう。先にも書いたように、キースがライナーに記した想いは杞憂に過ぎない。キースの音楽として、ほかの作品や演奏にも十分通じるものがあるし、彼のインプロヴィゼーションのスケール感を知る上で、大切な手がかりを提供してくれるという意味で、完全にキースの音楽世界そのものである。
特に、最後に収められた"In The Cave, In The Light"は、作るのに極めて苦労したというキースの言葉が物語るように、非常に素晴らしくかつまた重要な作品である。まだ3回しか聴いていないが、この曲は聴けば聴くほど限りなく深さが増していきそうに思える。たぶん僕の中での重要なキースの愛聴曲になりそうな予感(というかほぼ確信にかわりつつあるが)でいっぱいである。キースになじみ深い人にはわかるかもしれないが、彼が手に入れた広大な自宅に作ったスタジオは"The Cavelight Studio"であり、彼の楽曲を管理する著作権管理会社は"Cavelight Music"と名付けられる。この作品にはキースの音楽の原点というか核にあるものが込められているように思う。
冒頭に触れた僕のモヤモヤもそうしたことに関係があるのだが、「一般的」とか「普通」といわれるものとは異なる視点を常に持ち続けることを僕は大切にしたい。このアルバムはそういう姿勢に満ちたキースの挑戦であり、彼の音楽の重要な部分を表現している。これとの出会いを作ってくれたトップスにも感謝したい。
2/04/2007
ファラオ=サンダース「カーマ」
インフルエンザはなんとか無事に終息し、水曜日から3日間は仕事に出ることができた。まあいろいろと労を要することもあったわけだが、ようやく週末を迎えることができた。以前からの約束があったので、木曜日と金曜日の夜にはそれぞれの相手と飲みにも出かけた。少し遠慮がちにではあったものの、久しぶりに飲む酒や料理はおいしかった。
さて、2月になって最初の今回は久しぶりに音楽の話をしよう。マイケルとアリスの悲報以後、聴く音楽はほとんどその関係のもの中心になっていて、特にここ1週間はコルトレーンに直接縁のある音楽を聴くことが多かった。1月にはその関係で何枚かのCDを買った。そのなかに今回の作品である、ファラオの「カーマ」が含まれていた。
僕がインパルス時代を中心に、コルトレーンの音源を必死で揃えようと大阪市内のお店を駆け巡っていた大学時代、ファラオのこの作品にはいやというほどお目にかかったことを憶えている。ある程度大きなお店であれば、ほとんどどこの中古屋さんでも、ジャズのコーナーを漁っていると、この、ともすれば仰々しくとさえ思われる瞑想に耽るファラオの姿に出くわしたものである。
中古屋で頻繁に見かける作品には何か訳がある。レコードの蒐集に少し慣れてきた僕には、そういったことばかりが気になり、僕はとうとうこの作品を今日まで聴くことなく過ごしてきた。しかし、先のアリスの死をきっかけにいろいろと聴き直した音楽の中で、僕の中ではいやでもファラオの存在がクローズアップされてきたのだ。
収録作品は2曲。アルバムの大半を占める33分の長編"The Creator Has a Master Plan"が作品のメインであることは言うまでもない。タイトルは、ある会社のウェブサイト制作会議の席上、顧客側の度重なる仕様変更にぶちキレた制作会社の担当者が、思わず口走った一言に由来している(はずがない)。もちろんここでは、創造主たる神のみが知りえる摂理の存在を歌い上げた、ファラオの悟りの境地が表現されている。
冒頭からファラオのトレードマークである、フラジオトーンで朗々と歌い上げられるテーマと、それに続くベースのリフに導かれるリズムはとても印象的であり、そこにコルトレーンの音楽を継承しつつ新境地を拓いた彼の勇姿が、ジャケットの写真にだぶって想起されるあたり、非常に感動的な内容である。
一聴して感じる人も多いと思うが、ここではインパルス後期のコルトレーンとアイラーの音楽に通じるスピリッツが、より洗練された形で表現されている。例えば、僕の耳には、"The Creator..."の展開に、コルトレーンの「至上の愛」における「承認」や、アイラーの"The Truth is Marching in"等からの音楽的な影響を感じるのは間違いない。
このアルバムでは、ファラオと楽曲を共作しているレオン=トーマスの歌が全編にフィーチャーされ、アルバムの主題となるメッセージを歌い上げるのが大きな特徴になっている。しかし、この人のヴォーカルは、"The Creator..."の随所で聴かれる、ファルセット(裏声)を交えたヨーデルの様な野性的な歓喜の歌声は、非常に素晴らしい効果をあげている一方で、言葉をロングトーンで歌い上げる一般的な歌い方を聴くに(特に2曲目の"Colors")、まあ失礼かもしれないがプロとしての歌の才能については「音痴」と言わざるを得ないものがある。
まあ、そこがこの作品を、ある意味でコルトレーンやアイラーの代表作に聴かれる様なややシリアスに過ぎるような雰囲気から、一線を画したものにしているのだろう。別の言い方をすればそれは1970年代の新しい響きと言えるのかもしれない。ともかく作品全体は、そんなことを超えた素晴らしいエネルギーに満ちていることは間違いない。聴くものに不思議な悟りのパワーをみなぎらせてくれる音楽である。
僕はファラオをコルトレーン後期のフリージャズを中心に聴き始めているので、彼の真骨頂はやはりそうした混沌たる叫びにあると認識しているのだが、彼の演奏には一方できわめてハーモニーを強く意識した(変な表現だが)音楽的な側面があることを決して忘れてはならないと思っている。
最近、若い人が集まるインターネットの掲示板などでコルトレーンについて書かれているものを読んでいると、ファラオの音楽に「滅茶苦茶」「うるさい」といった言葉が記されているのを見かけて、何とも残念な思いをした。まあそれでもファラオやアリスは、一頃に比べれば十分前向きに聴かれるようになってきているのは事実ではあるが。
この作品を境に、ファラオは新たなスタイルを確立しての作品を発表してゆくことになる。僕もあまり多くは聴いていないものの、やはりこの「カーマ」が放つパワーは、ある時代の始まりとなるだけでの十分力強い明確なものがあると思う。これ以降の作品では、やはり何かの雑音や亡霊のようなものの存在に惑わされたような、不透明な何かを感じてしまうのだ。新しいステージへの転換を感じさせてくれるこの作品の醍醐味は格別である。
病み上がりの3日間、僕は毎日これを聴きながら仕事に向かい、これを聴きながら家に帰った。今日もこれを書きながら既に2回通して聴いている。こうして週末は体内に残存のウィルスを一掃するとともに少し英気を養い、また来週からは新しい転換を求めながら日々を過ごしていきたい。
さて、2月になって最初の今回は久しぶりに音楽の話をしよう。マイケルとアリスの悲報以後、聴く音楽はほとんどその関係のもの中心になっていて、特にここ1週間はコルトレーンに直接縁のある音楽を聴くことが多かった。1月にはその関係で何枚かのCDを買った。そのなかに今回の作品である、ファラオの「カーマ」が含まれていた。
僕がインパルス時代を中心に、コルトレーンの音源を必死で揃えようと大阪市内のお店を駆け巡っていた大学時代、ファラオのこの作品にはいやというほどお目にかかったことを憶えている。ある程度大きなお店であれば、ほとんどどこの中古屋さんでも、ジャズのコーナーを漁っていると、この、ともすれば仰々しくとさえ思われる瞑想に耽るファラオの姿に出くわしたものである。
中古屋で頻繁に見かける作品には何か訳がある。レコードの蒐集に少し慣れてきた僕には、そういったことばかりが気になり、僕はとうとうこの作品を今日まで聴くことなく過ごしてきた。しかし、先のアリスの死をきっかけにいろいろと聴き直した音楽の中で、僕の中ではいやでもファラオの存在がクローズアップされてきたのだ。
収録作品は2曲。アルバムの大半を占める33分の長編"The Creator Has a Master Plan"が作品のメインであることは言うまでもない。タイトルは、ある会社のウェブサイト制作会議の席上、顧客側の度重なる仕様変更にぶちキレた制作会社の担当者が、思わず口走った一言に由来している(はずがない)。もちろんここでは、創造主たる神のみが知りえる摂理の存在を歌い上げた、ファラオの悟りの境地が表現されている。
冒頭からファラオのトレードマークである、フラジオトーンで朗々と歌い上げられるテーマと、それに続くベースのリフに導かれるリズムはとても印象的であり、そこにコルトレーンの音楽を継承しつつ新境地を拓いた彼の勇姿が、ジャケットの写真にだぶって想起されるあたり、非常に感動的な内容である。
一聴して感じる人も多いと思うが、ここではインパルス後期のコルトレーンとアイラーの音楽に通じるスピリッツが、より洗練された形で表現されている。例えば、僕の耳には、"The Creator..."の展開に、コルトレーンの「至上の愛」における「承認」や、アイラーの"The Truth is Marching in"等からの音楽的な影響を感じるのは間違いない。
このアルバムでは、ファラオと楽曲を共作しているレオン=トーマスの歌が全編にフィーチャーされ、アルバムの主題となるメッセージを歌い上げるのが大きな特徴になっている。しかし、この人のヴォーカルは、"The Creator..."の随所で聴かれる、ファルセット(裏声)を交えたヨーデルの様な野性的な歓喜の歌声は、非常に素晴らしい効果をあげている一方で、言葉をロングトーンで歌い上げる一般的な歌い方を聴くに(特に2曲目の"Colors")、まあ失礼かもしれないがプロとしての歌の才能については「音痴」と言わざるを得ないものがある。
まあ、そこがこの作品を、ある意味でコルトレーンやアイラーの代表作に聴かれる様なややシリアスに過ぎるような雰囲気から、一線を画したものにしているのだろう。別の言い方をすればそれは1970年代の新しい響きと言えるのかもしれない。ともかく作品全体は、そんなことを超えた素晴らしいエネルギーに満ちていることは間違いない。聴くものに不思議な悟りのパワーをみなぎらせてくれる音楽である。
僕はファラオをコルトレーン後期のフリージャズを中心に聴き始めているので、彼の真骨頂はやはりそうした混沌たる叫びにあると認識しているのだが、彼の演奏には一方できわめてハーモニーを強く意識した(変な表現だが)音楽的な側面があることを決して忘れてはならないと思っている。
最近、若い人が集まるインターネットの掲示板などでコルトレーンについて書かれているものを読んでいると、ファラオの音楽に「滅茶苦茶」「うるさい」といった言葉が記されているのを見かけて、何とも残念な思いをした。まあそれでもファラオやアリスは、一頃に比べれば十分前向きに聴かれるようになってきているのは事実ではあるが。
この作品を境に、ファラオは新たなスタイルを確立しての作品を発表してゆくことになる。僕もあまり多くは聴いていないものの、やはりこの「カーマ」が放つパワーは、ある時代の始まりとなるだけでの十分力強い明確なものがあると思う。これ以降の作品では、やはり何かの雑音や亡霊のようなものの存在に惑わされたような、不透明な何かを感じてしまうのだ。新しいステージへの転換を感じさせてくれるこの作品の醍醐味は格別である。
病み上がりの3日間、僕は毎日これを聴きながら仕事に向かい、これを聴きながら家に帰った。今日もこれを書きながら既に2回通して聴いている。こうして週末は体内に残存のウィルスを一掃するとともに少し英気を養い、また来週からは新しい転換を求めながら日々を過ごしていきたい。
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