連休直前の4月最後の週、僕は忙しく過ごした。自分たちで行なった調査の結果を分析して、その要約を作成したり、外部からのかなり無茶な分析業務の見積もりを考えたり、発刊されるレポートのチェックをしたり、部下達ひとりひとりと面接をしたり、会社の仕事に興味を持ってくれている人たちに仕事のお話をしたり、そんな毎日だった。嫌な仕事はなかった。連休前だという高揚もないわけではなかった。でも気分は虚ろだった。
久しぶりにピンクフロイドが聴きたくなった。「あなたがここにいてほしい」。この作品は1975年に発売された。この前のアルバムで、もはや伝説と化した傑作「狂気」の後、2年半のブランクをあけて発売された傑作である。前作の突然の大ヒットによってもたらされた苦悩を、その中で彼らが切に想い起こしたかつてのバンドリーダー、シド=バレットへのオマージュというかたちで昇華しようとした内容になっている。
おそらくは多くのフロイドファンにとって、この作品が持つ不思議な象徴性あるいは精神性は、ずっと心の奥底に潜み続けながら、時折何かをきっかけにそれが激しく溢れ出すというものであるに違いない。僕にとってこのアルバムだけは、どうしても部分的に聴くということが許されない作品になっている。自分のその掟に従って、今週僕はこの作品を何度も聴き、そこに僕のなかにある何かを映してみようとした。
アルバムは全部で5つの曲からなる組曲である。頭から順にたどってみよう。
1.狂ったダイアモンド(第1部)
第1部とあるが、実際には5つのパートに分かれた作品。始まりはシンセストリングスの神秘的なフェードイン。ダイアモンドのきらめきを表す効果音が散りばめられ、その光がはっきりし始めたところに、ホーンのシンセサイザーがこれから始まる苦悩に満ちた回想のプロローグを奏でる。デヴィッド=ギルモアのギターがそれを引き継ぎ、前奏は静かにそして確実に高まっていく。ロックギターのなかでおそらく最も哀しく切ない演奏である。
前奏に続いて、狂ったダイアモンドの象徴ともいえる4つの音からなる主題が、ギターで提示される。主題はあたりを見回すようにしばらく動かずに繰り返されるが、やがてニック=メイスンのドラムに生を受け、歩くことを始める。情熱的で多感な時期を象徴するかのように、ギルモアの自由なギターソロが展開されていくが、その世界は少しずつ影と熱を帯びてゆく。
ここまできたところで、突然ロジャー=ウォータースの歌が語り始める。「憶えているかい、若かった頃のこと。君は太陽のように輝いていたね」。だが優しい言葉はこれだけで、原タイトルの"Shine on you crazy diamond!"が高らかに歌われると、あとは狂人となってしまった旧友への嘆きと怒りが次々に投げつけられる。
そして最後の「輝け!」という叫びに押し出されるように、そのままの状態で成人した男になったことを表すかのような、ディック=パリーのテナーサックスが突然現れ、徘徊を始める。4つの音からなる主題はなおも提示されるが、すぐにそこから派生した憐れみの輝きを表す美しいギターアルペジオがきらめき始める。そのきらめきと絡み合いながら、まるでダンスを踊るように朗々と謳歌するテナーサックス。この部分は僕が本当に大好きなこの曲のハイライトである。
ダンスはリズムをを強めながら続いていくが、やがて力を失ったようにリズムたちは演奏をやめてしまう。アルペジオのきらめきだけが続く中、サックスは次第に狂ったよう歌い始め、深い闇のなかへ落ちてゆく。
2.ようこそマシンへ
空前の成功を収めた前作の後、フロイドのメンバーが音楽的目的を見失ってしまい、新作に着手することができなくなってしまった。一貫して「音響派」というレッテルの下で活動を続けてきた彼らが先ず考えたのは、既成の楽器を極力使わずに、石や木など自然のもので奏でる音だけでアルバムを作ることだったそうだ。実際に数曲の録音が行なわれたらしいが、すぐに行き詰まり、メンバー自ら方向性の間違いを悟った。このアルバムはそうした苦悩から生まれた。
そして、その失敗を消し去ろうとするかのような手法で演奏されるのが、続く「ようこそマシンへ」である。この曲は2本のアコースティックギターとヴォーカル以外は、シンセサイザーを大胆かつ全面的にフィーチャーしており、その意味ではフロイド唯一のテクノ作品といってもよい。
前曲がフェードアウトするに従って、低いエンジンのような機械音が立ちこめてくる。ブザーの合図とともに機械は少しずつ稼働を本格化させ、やがてその音がこの曲のベースとなるリズムを形成し始めるや、ギターが宿命的な響きをもつコードを奏で、ギルモアの高音ヴォーカルが歌い始める「ようこそマシンへ」。
かつて、この曲を「機械文明への痛烈な批判」と紹介した卑しい評文を目にしたことをいまでも思い出す。もちろんそのような歌ではない。マシンとは、些細なもの(音楽でも何でも)から巨万の富を生み出す仕組みを意味している。資本主義とかビジネスの世界、すなわち社会そのもののことである。ここではフロイドが生まれてからミュージシャンになるまでの過去が一気に振り返られる。
「おもちゃを買ってもらい、ボーイスカウトに入団させられた」子供時代。少年になると「母親から逃れるためにギターを買い」、やがて彼はスターを夢見て「マシン」に乗り込んだ。
途中、マシンの力強さと恐ろしさを象徴するように、アナログシンセサイザーのソロが挿入されるが、後のインタビューによるとこの部分はシンセの音をできるだけクリアに残したい一心で、ソロだけを最後にダイレクトで録音したのだそうだ。その甲斐あって、このシンセソロは他にも例を見ないほどその楽器の魅力をあますところなく表現している。ELPやイエスのシンセ演奏は、奏者の技巧による魅力の部分も大きいが、僕はそれらのグループの曲よりも、この曲が最もシンセサイザーをうまく使った音楽だと思っている。
少年は曲の最後でいったんマシンを降り、高速で移動する別の乗り物にのり換えてある場所へ向かう。入り口が開くと、乱痴気パーティーの狂乱と歓喜の声に迎えられる。しかしその中を通り抜けて、さらに奥の部屋へと進んでいく。そこで彼は、このショービジネス界の大御所に出会うのである。
3.葉巻はいかが
1970年代を象徴するへヴィーなロックナンバー。全編にギルモアのギターがフィーチャーされる。そしてこの曲を歌うのは、フロイドと同じブリティッシュロック界の盟友、ロイ=ハーパーだ。フロイドの成功とショービジネス界の狂気を歌ったこの曲の歌詞を考えると、フロイドのメンバーではない人間にこれを歌わせた意図がわかる。しかし、実際には狂ったダイアモンドで喉の調子を崩したロジャーの代役だったというのが真相らしい。
ショービジネスの大御所は葉巻をすすめ、デビューした少年の成功を喜び、一所懸命におだてる。突如として大成功を収めたフロイドの動揺がそのまま表現される。途中に挟まれた「ところで、ピンクってのはどれだい?」は有名な一節だ。そして2つのコーラスはいずれも次の歌詞で締めくくられている。
「そういえばこのゲームの名前をまだ教えてなかったよな、坊や。こいつは"Riding the Gravy Train"っていうんだよ」「甘い汁を吸う」という意味らしいが、それ以外にも麻薬のヘロインを示す隠語でもあるらしい。
歌が終わると、ギルモアのカッコいいへヴィーなギターソロが展開する。「狂ったダイアモンド」で聴かれた哀しみや気怠さなど微塵も感じさせない、ロックロックロックなギタープレイが楽しめる。盛り上がりが最高潮に達したかと思いきや、突然演奏がワイパーで拭い去られるように消されてしまう。初めて聴いた人はここで一瞬驚き、しばらくは何が起こったかとあっけにとられてしまう。もちろん故障ではない。
4.あなたがここにいてほしい
大御所との面会を終えた少年は自分の家に帰っていた。ラジオからさっきの大御所が売る音楽(葉巻はいかが)の続きが流れてくるが、少年はそのことを頭の中から消し去るように、ラジオのチャンネルを変えてしまう。しばらくチャンネルをいじっていると、やがて懐かしいブルースギターの演奏が流れてくる。
チャンネルをそこに停めて、ようやく部屋でくつろいだ彼は、おもむろにギターを手にしてラジオから流れてくるフレーズを相手に、遊びで即興演奏をして絡んでみる。ショービジネスとは無縁な素朴な音楽である。いつしか彼のギターはコードを伴奏し始め、それに合わせて、昔を懐かしむように、そしてそれが不意に口をついて出てきた言葉のように、このアルバムの中核となる意味深な歌詞を歌い始める。
この歌では、この時のフロイドが置かれた状況から、長年抑えてきたある人物への想いが無防備に吐露される。残念ながら歌詞の全文を掲載することは出来ないが、歌い出しこそはシド=バレットへのオマージュとして始まるものの、途中からは広く普遍的な意味で別離や隔絶を嘆く内容になっていて、それがある種同様の気持ちを抱く(その意味ではほとんど誰しもだと思うが)聴くものの心を激しく揺さぶるのである。
歌が終わっても、演奏は昔を懐かしむ様な雰囲気でいつまでも和やかに続けられていく。後にメンバーのインタビューで、この曲のセッションに今は亡きジャズヴァイオリンの巨匠、ステファン=グラッペリが演奏に参加していることが明らかになっている。残念ながら彼の音は普通に聴いていては絶対にわからないと思う。フェードアウトして演奏が風の音にかき消される直前に、一瞬その音色を確認することが出来る。
5.狂ったダイアモンド(第2部)
夜を吹き抜ける寂しく厳しい風の音。その中から、再び立ち上がろうとする気配を表すように、ベース、ギター、キーボード、ドラムが徐々に立ち上がりリズムを形成する。第1部とは異なり、気怠さや哀しみよりもある種の聡明さと決意感じさせるホーンのシンセの演奏が、少しずつ意識の覚醒を促す。
そしてその覚醒が完全に遂げられると、第1部同様に今度はギルモアのスティールギターがそれを引き継ぎ、今度は力強く大地を駆け始める。ギルモアを中心とするこの疾走は、まさに圧巻の一語に尽きる。この世には素晴らしいギターソロの名演は数あるが、僕はこのギルモアの演奏は、そうした中でもかなりレベルの高いものとして記録にとどめておきたいと思っている。
「狂気」のツアーが終わってしばらくのブランクを置いてスタジオに集まったフロイドは、もはやどうしようもないくらいにダラケてしまっていたらしい。しかしその状況で悩み苦しんだ挙げ句に、彼らはようやくこれだけの作品を演奏することが出来た。その復活を強烈に印象づけるのが、この部分だと思う。バンド全体が結束し、異様なまでにテンションを揚げていくギルモアのソロは、やがて天に向かって離陸する。
第2部でも、先ほどの歌とは別の立場から、短いシドへのメッセージが歌われる。嘆きや怒りが中心だった第1部とは異なり、ここでは承認と本当の意味での心からの送別の意が表される。そして、新しい旅立ちを象徴するかのような、期待にわずかな不安が入り乱れた心象が演奏される。これでシドの魂は葬られたのだろうか。
現実はそうたやすいものではない。この長い作品の最後の部分で、再び第1部冒頭に似たやりきれない様な感情が再び姿を現す。気持ち的には明るさや清々しさを取り戻せたかの様なふりをするが、演奏はそれらの気持ちを行ったり来たりするようで、暗く重い。現実として体験したものだけが味わう深い闇。しかし人は誰しも、それをかかえて進まねばならないのだ。
やがてリズムは疲れ果てたように止まる。残されたホーンシンセは、まるで酒に酔って無理矢理愉しい夢にまどろむかのように、気怠くも明るいこれからを期待する様な謎の笑みをフレーズで奏でながら去ってゆく。アルバムの冒頭と同じように、今度はシンセストリングスがそれらを乗せながらゆっくりとフェードアウトしてゆく。
少し長くなったが、これがこのアルバムの全体である。今週はほとんどこればかり聴いた。いままでにも、もう数百回は聴いてきたと思う作品だが、自分にまだこの作品を求めることがあるのは、驚きでもなんでもない。それでも今週これをこんな風に聴くことになったというのは、やはり意外だったと言えるかもしれない。
僕が映してみようと思ったものは、うまく映ったようでもあり、そうでないようにも思える。この作品を愛する他の多くの人も、多かれ少なかれ同じ様な気持ちでこれを聴くのではないだろうか。もちろん事情はひとそれぞれなのだろう。
それは、スタジオで互いの音楽をぶつけ合った人かもしれない。向き合ってディナーを楽しんだ人かもしれない。些細なメールを何度もやりあった人かもしれない。夜遅くまで会議室で話し合った人かもしれない。そっと握った手のぬくもりを忘れない人かもしれない。気の利いたジョークが小気味よい人かもしれない。どうしようもなく愚かな人かもしれない。
あなたがここにいてほしい。