7/30/2005

キース=ジャレット「ブック オブ ウェイズ」

  今宵は東京隅田川の花火大会だそうだ。他にもどこかで花火をやっているらしく、自宅で窓を開けて涼んでいると、遠くから花火の音らしい鈍い爆音が響いてくる。最近は花火大会だといわれても、きれいな花火を思い浮かべて少しは憧れるのだけど、実際にはなかなか観に行く気がしない。会場の混雑のことなんかを考えると、どうしても気が進まない。

 電車で浴衣姿の娘を見かけると、頭か身体のどこかで「おっ、今日はどこかで花火か」と思うか感じるかする。だけど自分がその会場に赴くというところまで進まないうちに、いつのまにか頭や身体は次のイベントに移ってしまうようになった。誰もいない海辺でぼーっとしていると、突然目の前で花火大会が始まる。そんな偶然はありそうにはない。

 独身だった頃、花火大会を観るということを何度かデートのイベントにしたことがある。早めに待ち合わせて、まだ日のあるうちから、いい場所を確保してそこでだらだらとおしゃべりしながら、ひたすら花火があがるのを待った。考えてみれば、独りで花火大会を観に行ったことなどないように思う。そういう意味では花火大会に悪い想い出はない。

 横浜に住んでいた頃は、夏になると週末ごとにどこからか花火の音が聞こえてきた。彼女がいない身には花火の音が空しくヒビいたのをよく憶えている。そんな時はさっさとシャワーを浴びて、閉め切ってエアコンのがんがん効かせた狭い狭い部屋で、音楽を聴きながらビールそしてウィスキーと酒を飲んだものだ。こういう時に限って、ハードな音楽を聴いてしまうもので、しまいには酒がマワって頭の中で花火があがり始めたこともあった。

 いまは多摩川のすぐ近くに住んでいるので、そのあたりまで出かけていけば、近くの橋から楽しむことのできる花火大会が、年に2、3回はある。それを少し遠目からながめる程度で十分楽しむことができる。面白いのは、花火大会のあった夜遅くに、河原で自分たちだけの花火大会を楽しむ若者が多いということ。どういう種類のエネルギーが彼等をそうさせているのかわからないが、真夜中の暗い河原で仲間うちで楽しむ酒と花火(若干危ないようにも思うが)というのは、僕には経験がないだけに、夜その音が聞こえてくると不思議な気持ちになる。

 さて、今週はいろいろな音楽を聴いた。特にそればかりを聴いたというものはないので、今日久しぶりに聴いてみた作品をそのままとりあげることにした。キース=ジャレットについては、以前に書いた通りである。この作品でキースはピアノではなく、クラヴィコードというチェンバロのような楽器を用いて、CDにして2枚分計19曲のソロ演奏を行っている。

 それでわかると思うが、この作品は彼のキャリアのなかではやや異色のものである。これをキースの代表作という人はあまりいないだろう。しかし、クラヴィコードという楽器の特性を十分意識しつつも、実際に出てくる音は、キースの音楽であることに変わりはない。楽器の構造上アコースティックギターのようにも聴こえる独特の音色で、なんともおくゆかしい世界を聴かせてくれる。

 僕はこれが結構好きで。ごくたまに、どちらかと言えば気分のそう悪くない時に、なんとなくこれに手が伸びてしまうことがある。クラシックのチェンバロ音楽は、どうしても音楽の講義を聴いているような気分になってしまうので、いまのところあまり聴く気にはならないのだが、キースの自由な音楽は楽器が変わったぐらいのことで変わるはずもなく、いつもと少し違う形で彼の世界のひと時を過ごさせてくれる。

 気がつくと花火大会の音もしなくなった。これから酒でも飲みながら、2枚のCDを何度も取り替えてこのままじっくりこれを楽しむことにしようと思う。今夜もきっと真夜中の河原に彼等が現れるに違いない。

7/27/2005

ウォン=カーウァイ「2046」

  久しぶりにDVDをレンタルしてみた。借りたのはウォン=カーウァイ監督の「2046」、劇場公開があっという間に終わってしまい、見逃していた映画だった。今回はこれをとりあげたい。

 音楽ほど熱心ではないけど、映画を見るのは大好きである。以前にも書いたかと思うが、僕はハリウッド映画といわれる様なロードショーものが好きではない。「ロード オブ ザ リング」「スター ウォーズ」「ハリーポッター」等々、どれも劇場で観たことはないし、観たいとも思わない。映画に求めるのは、監督の描きたいと考えるテーマとその表現であって、ストーリーなどはそのための材料にすぎないと思っている。

 カーウァイは、僕が一番好きな映画監督の一人である。最初に観たのは「恋する惑星」(1994年)だった。日曜日の昼間にNHKで放映されたのを観て、僕は何とも言えない衝動を感じ、いてもたってもいられなくなって、そのままわけもわからずに街に飛び出していったのを憶えている。一番強く感じたのは「斬新さ」だった。新しいものにうまく巡り会えたときの嬉しさは、想い続けた女の子からデートOKをもらえたときの様なものだ。僕が街に飛び出していったのも、そんな感じだった。

 それを機に、レンタルビデオ屋に置いてある彼の作品を片っ端から観たのだが、やはり「恋する惑星」が一番素晴らしいと思って、ビデオを買った。そうこうしているうちに、新作「ブエノスアイレス」(1997年)が公開され、僕はこれを渋谷のシネマライズという劇場で観た。冒頭のシーンに「えっ、そういう映画なの」と一瞬面食らったのだが、100分間はあっという間に過ぎた。これは「恋する...」よりイイかも、と思って、今度はまだ結婚する前だった妻を連れて観に行った。終わった感想は「エクセレント!」だった。

 彼の魅力は、表現の斬新さとテーマの奥深さだ。敢えてもう一つあげるとしたら、東洋の監督だということ。香港や中国のトップスターを奇抜な役柄に起用するキャスティングも魅力である。今回の作品はその意味で日本では特別な注目を集めた作品だった。その理由は木村拓哉(SMAP)を起用したこと。彼をアイドルと考えるか、男優と考えるかでこの作品の見え方は変わってくるのかもしれない。

 「ブエノスアイレス」発表後から作業に取りかかっていたこの作品は、長らく発表されないままになっていた。木村と監督の間で何らかの意見の相違が生じている、と噂されたりもした。実際のところはわからないが、僕はそれは本当だと思う。例えば、木村とフェイ=ウォンのベッドシーンを監督が企図したのに対して、木村側(本人というより事務所かもしれないが)がそれを拒否した、というのは僕個人の勝手な想像に過ぎないが、まあそういうようなことなのかもしれない。

 結局「2046」は完成し日本でも公開された。しかし、この作品は間違いだらけの評判に満ちあふれた作品になってしまった。公開に前後して、メディアやネットで語られた評判やふれこみを目にした僕は、「あれ、つまんない映画なのかな」と思ってしまった。それが観に行くのを一瞬躊躇した理由の一つである。しかし、そうこうしているうちにこの作品はあっという間に打ち切りになってしまった。シネマライズで10週間近いロングランになった「ブエノスアイレス」とは大違いである。

 一番多い誤解は、この作品が「SF映画」だというデマである。まったくおかしな話だ。物語は1960年代後半の香港を舞台にしていることは、観た人なら誰にでも明らかだと思う。タイトルは確かに2046年を想起させるものだが、実際には貸部屋の番号である。2046年というのは監督から観る人の想像に委ねられたメッセージであるはずなのだが、国内のプロモーションでは勝手に「2046年という近未来でアンドロイドに恋をする男の映画」、みたいな売り方になってしまった。理由は簡単、木村がそのシーンに大きく関係するからだ。

 ストーリは書かないが、木村はこの作品では脇役である。主役のトニー=レオンを巡る4人の女性の物語なのだが、木村はその一人フェイ=ウォンの恋人役に過ぎない。配給会社は「木村拓哉が世界のカーウァイ監督と...」という売り方をしたいがために、そういう紹介のされ方になったのだろうと思う。それにつられて劇場に足を運んだ人の目の前に、突然広がるカーウァイワールドに戸惑うのは無理もない。

 もう一つは、この作品より先に公開された「花様年華」(2000年)の続編であるとする見方。これも実際に観てみた僕にはおかしな話だと思った。続編ではなく「花様年華」は「2046」の習作、つまりスケッチに相当するというのが僕の考え方。そう考えると「花様...」が中途半端な作品だなと感じられたことが納得できる。

 そして「難解な映画である」という評判。気取るわけではなく、まったくそんなことはないと思う。登場人物とその時代が多少前後して描かれたり、木村とフェイの話で使われるSF小説の挿話などで、ちょっと時間的なストーリーがややこしくなっていることは認めるが、難しいということはない。もちろん男と女は難解なものである、という意味でなら言えた話ではあるが。これを観て「難解」だという方は、映画を観る力が落ちているといわざるを得ないと僕は思う。大人の映画ですよ。

 断っておくが、僕は木村拓哉が嫌いなわけではない。しっかりした個性と雰囲気をもった俳優だと思う。本作への起用も、彼でなければならないというまでではないものの、成功していると思う。ただ彼の日本での異常な商品性が、作品そのものというより、作品をプロモーションの面からおかしくしてしまった。日本の映画市場の現状を象徴しているような出来事になってしまったように思える。

 僕はこれを劇場で観なかったことを大後悔している。素晴らしい作品だ。僕のなかでは「ブエノスアイレス」よりイイかもという感想。機会があれば是非劇場で観てみたい。

 2046:いまだにある本作の日本向けプロモーションサイト

7/16/2005

ウェイン=ショーター「ビヨンド ザ サウンド バリア」

  いや〜これは素晴らしい作品が登場したものだ。久しぶりに感激したジャズの傑作、僕が聴きたかった「21世紀のジャズ」だ。先週末に購入して以来、もう20回以上聴いたけど、聴けば聴くほど素晴らしさが明らかになってくる、そんな作品である。

 ウェイン=ショーターはサキソフォン奏者。本格的にデビューした1960年代当初から常にシーンに新しい風を吹き込んできた人物である。彼の特徴は大きく2つ。ソロ演奏において、ロリンズとコルトレーンの影響を受けながらも、全く異なるというか真似のできない完全なオリジナリティを持っていること。そして、その音楽センスから生み出されてくる優れた作曲能力である。

  そうした彼のセンスを象徴する演奏として有名なものに、彼の初期(いまとなってはそう言っていいだろう)に演奏された「枯葉」がある。これはマイルス=デイヴィスのグループの一員となって、初めての欧州ツアーに参加した際の模様を収録したライヴ盤「マイルス イン ベルリン」(写真右)に収録されているものだ。ここでのショーターのソロに関しては、いろいろな人が書いているので特には触れないけど、この演奏はショーターという人の音楽を知るうえで格好のものかもしれない。

 そしてマイルスグループでの活動に並行して行われた、1960年代後半からブルーノートレコードでの一連の作品。この頃のショーターを愛聴する人は多い。僕も8枚のリーダー作はすべてCDで持っている。そして20世紀最後の四半世紀は、ウェザーリポートの活動やCBSでのリーダー作で数々の優れた作品を残したが、ウェザー以外での活動はどれもプロジェクト的なもので、この人は自分のグループを作って活動するということはしないのかなと思われていた。

 ところが、21世紀に入ってレコード会社をヴァーブに移籍すると同時に、突然、彼は音楽人生ではじめてとなる、自己のグループでの活動を開始する。今回の作品はその3作目となるもので、2002年から2004年までに世界の様々な場所で行われた演奏から、厳選されたものを収録したライヴ盤である。ライヴ盤と言っても、一夜のライヴパフォーマンス全体を再現しようというような意図よりも、スタジオ盤のようなコンセプトがある世界を表現を指向したものである。

 一聴して多くの人が抱く印象は、広い意味でのショーターに対する第一印象そのものであると思う。ショーターを聴いたことのない人には「つかみ所のない音楽」に聴こえるかもしれない。一体、この音楽はどこまでが楽譜に書かれていて、どこからがアドリブ演奏なのか、そういう疑問のようなものをもって聴いてしまうのだが、結局、具体的にその答えがわからないまま、その疑問は驚きや感動に変化してしまう、そういう演奏だ。

 CDパッケージからディスクを取り出すと現れる彼の姿は、表情そしてポーズともにいまの彼をよく表していてとてもいいと思う。今年72歳ということになるのだが、そんなことは全く感じさせないこの演奏を聴いていると、一生かかって何かを追求して作り上げるという姿勢の、大切さや尊さの様なものを強く感じる。

 まったくうらやむほどに素晴らしい人生である。

7/09/2005

アレクサンダー=クナイフェル「詩編50(51)/太陽を身にまとって」

  前回のろぐでとりあげたピンクフロイドをはじめとする、世界中のアーチストが共演したイベント「Live8」が終了した。CS放送でオンエアされたフロイドのライヴパフォーマンスを、友人がビデオに録ってくれたので、さっそく週末に自宅で見させてもらった。

 「生命の息吹」「マネー」「あなたがここにいて欲しい」「カンフォタブリー ナム」の4曲で約25分の短いパフォーマンスだったが、演奏は24年間のブランクなどウソのように見事だった。ギルモアのギターは素晴らしい唸りを聴かせ、フロイドの雰囲気作りに欠かせないメイスンの遅れ系ドラムも全く変わっていなかった。印象的だったのは、時折画面に映ったお客さんの多くが演奏に合わせて歌を口ずさんでいたこと。ハイドパークでこれを直に観ることができた人は幸せだ、まったく幸せだ。

 しかし、イベントそのものが無事に終了したのも束の間、そのロンドンで悲しいテロが起こってしまった。まったく残念である。怒りもさることながら、やはり悲しい、残念である。僕にはほとんど何もできないが、今回はテロの犠牲になられた方々に捧げるとともに、世界の平和を願う意味で、最近ECMからリリースされたクナイフェルの作品集をとりあげようと思う。

 アレキサンダー=クナイフェルは1943年生まれのウズベキスタン出身の作曲家。今回のCDには、タイトルにある2つの作品が収録されている。「詩編50(51)」は、彼の師でもあり現在存命しているなかでは最高のチェロ奏者ムスティスラフ=ロストロポービッチに捧げられた作品。ロシア教会の祈りの言葉を、チェロで表現したという音楽は技巧的にももちろんだが、精神的な意味でも大変な演奏であり、おそらくは彼以外にはこれを演奏できる人はいないだろう。冒頭から静かにしかし着実に展開されるハイノートの演奏はまさに祈りそのものである。

 もうひとつの「太陽を身にまとって」は、女性ソプラノ歌手タチアナ=メレンティエヴァに捧げられた作品。こちらもそのタイトルそのもののように、地球全体にやさしく降り注ぐ太陽の光が、宗教的な意味合いを込められて表現されている。こちらも音楽表現による美の極致である。

 2曲合わせて53分間の演奏時間中、音が突然大きくなるような部分はない。慣れない人が耳にして不快や不安な気分になる様な音も一切含まれていない。静寂が確保できる時間(できれば昼間がいいのだけど)に、どうぞいつもより大きめの音で安心して聴いてみて欲しい。聴くというか、音の世界に身を委ねるという姿勢にひとりでになってしまうはずだ。通勤とか移動のついでに、あるいは食卓のBGMでといったスタイルの聴き方は、この音楽には合わないと思う。

 僕らはもう少し「光のありがたみ」というものについて、考えなければならないのかもしれない。

7/02/2005

ピンク フロイド「アニマルズ」

  「原体験」という言葉がある。辞書には「その人の思想が固まる前の経験で、以後の思想形成に大きな影響を与えたもの」とある。僕にとって音楽の原体験というのは、思いつく出来事や作品がいくつかあるのだけど、具体的にどれかひとつということになると、やっぱりピンクフロイドということになるのだと思う。久しぶりにフロイドのある作品をじっくり聴いた週だったので、今回はこれを取りあげようと思う。

 ピンクフロイドは1965年に結成されたイギリスのロックグループである。「ピンク色のフロイド」とは何のことだろうかと考えてしまうが、バンド名の由来は当時メンバーが好きだったアメリカのブルースシンガー、Pink AndersonとFloyd Councilの名前をつなげたもの。「原子心母」(1970年)「狂気」(1973年)「ザ・ウォール」(1979年)の3つがバンド活動の変遷を知る上での代表作。なかでも「狂気」に続く「あなたがここにいてほしい」(1975年)「アニマルズ」(1977年)の「三部作」といわれる作品群の時代が、一つの絶頂期であることは間違いないだろう。

 僕が兄の影響を受けて洋楽を聴き始めたのが11歳のあたりで、ちょうど今回の作品が発表される前頃だった。同時にわが家に本格的なオーディオセットが導入された時期でもあり、僕も兄が購入したこれら3部作のLPレコードをカセットテープに録らせてもらい、何度も繰り返し聴いたものだ。

 三部作以前の彼らは「音と光の魔術師」などといわれ、幻想的なサウンドとライヴパフォーマンスが人気だったのだが、三部作以降は加えて歌詞を通じた社会的メッセージが大きな特長となる。「狂気」では人間の心の奥に潜む欲望や悩み葛藤などに焦点が当てられ、サウンドの斬新さと相まって大成功を収めた。続く「あなたがここにいてほしい」では、その成功をうまく消化できないメンバーの心境が、バンド結成当時の中心的存在で精神を病んで引退してしまったメンバー、シド=バレットへのオマージュとなって表現された。

 そしてこの「アニマルズ」では、資本主義的人間社会への風刺が、「犬」「豚」「羊」の3つの動物に象徴された人間へのメッセージとして歌われている。ちなみに大雑把には「犬」がホワイトカラー、「豚」は資本家、「羊」がブルーカラーを象徴している。3つの楽曲をはさんでアルバムの前後に収録された「翼をもった豚Part1,2」は、この作品が取りあげるテーマについての課題提起と結論という形になっている。イギリスのパターシー火力発電所の上空に巨大な豚の風船を浮かべたジャケット写真も話題になった。

 これを一生懸命聴いていたローティーンの僕。歌詞の意味はわからないわけではなかったけど、それをある程度理解するのにこのサウンドが大きく役立っていたのは間違いない。14歳でベースを手にした頃も、最初は、バンドでやれる当てもないのに、これらの作品のコピーを一生懸命やっていた。いま聴いてもこれらの作品は本当に音の隅々まで頭に記録されている。通勤電車のなかといううるさい環境で聴いても、一部の音が入ってくるだけで僕の頭の中には、作品のディテールが勝手にわき上がってくる。言うまでもないが、サウンドは全く色褪せていない、それどころか僕にはR&Bをベースにした究極的サウンドのひとつであると思えてならない。デジタルの時代にはなかなか思いつかないものだろう。

 あの頃と変わったこと、それは僕自身が「社会人」になったということ、すなわちここで歌われている人間になったわけである。初めてフロイドを聴いてからもう30年になるんだ。それだけにいま一番新鮮なのは、この作品の歌詞である。ここには掲載できないのが残念だが、とにかくいまになって聴いてみるとあらためてドキッとさせられる内容である。これを聴くと、あの当時のイギリスという国が、ちょうどいまの日本と似たような状況にあったのだなということがよくわかる。

 資本主義という言葉は、社会主義あるいは共産主義という言葉が表面上力を失ったことで、同様に世の中を説明する言葉としては存在感がうすいものになってしまった。でも世の中(経済社会と言うべきか)は「犬」「豚」「羊」を中心に構成されている、このことは変わっていないように思える。ブルジョワだブロレタリアだと対極的に捉える時代ではもはやなくなってしまっていて、その意味では、3つの動物の要素が多かれ少なかれ混在するようになってきているとも言える。

 それぞれの立場で仕事に行き詰まった人、あるいは人生に行き詰まった人が、この作品を聴いて何か答えが得られるというわけではないだろう。逆に、我々自身の心の中にいつの間にか出来てしまっている「開かずの間」の中身を、この作品は歌っている。つまり聞きたくないこと、言われたくないことなのだが、何らかの変化を求めるなら、その扉を開けてそのなかのメッセージに耳を傾けることは無駄なことではないだろう。

 ひとつの作品でこれだけまとまった世界観とメッセージを伝える音楽作品は、そうそうあるものではない。英語がちょっと、という方は国内盤を買えば対訳がついている。凝った訳は要らない。直訳で十分メッセージは伝わってくる。こういうサウンドが慣れない方には、少々退屈と思われる部分もあるかもしれないが、是非とも40分間を通して聴いてみられることをお勧めする。無駄のない音楽とはこういうものだ。

Pink Floyd 公式サイト
Live 8-The Long Way to Justice- Live 8公式サイト〜24年ぶりにピンクフロイドがフルメンバーで再結成されるそうです
ピンクフロイドについて プログレ愛好家KENさんのサイトより(情報が豊富です)
東芝EMIによる日本語サイト 本作品の曲目が間違っているなどいい内容ではありません