1/17/2005

湯浅譲二「オーケストラル シーン」

  前回のろぐでウィスキーの話をした所為もあるのか、先週は外で酒を飲む機会が何回かあった。最近は、新しいお店をわくわくしながら探すということはあまりなくなってしまった。少し前なら「グルメ情報」に興味がないわけではなかった。それでも、僕はどちらかと言えば、気に入ったところができれば、そこに何度も足を運ぶタイプの人間のようだ。

 会社の宴会に参加するときも、案内状(サラリーマン的には開催通知という方が通りはいいかもしれない)にある宴会場の情報をみて、「へえ、この店は誰の行きつけなの?」と聞いてみると、実は誰の行きつけでもなく、幹事さんがインターネットで探しました、クーポンあります♪というようようなお店だと、結構げんなりする。それが開店間もない店で、駅前でクーポン付きティッシュを配っていたようなところだとなおさらである。チェーンの居酒屋(ダイニングバーとは大げさだ)など僕にとってはファミレスと同じだ。何の期待もない。

 僕はお店の人と親密になれるようなところが好きだ。もちろん酒や料理などの出し物や、お店の内装に多少のこだわりはあった方がいいが、それよりも店主の人柄、これが一番大事ではないだろうか。堅物の頑固親父もあまり有難くはない。店主の人柄にほれられれば、酒も料理にも愛着をもてないはずがない。逆に言えば、料理やサービスは店主の人柄次第というのは言い過ぎだろうか。まあ、今年も少しは新しいお店を訪ね歩いて、新しい馴染みを開拓するのも悪くはないだろう。でも結果的に新たにできるひいきの店はせいぜい数軒程度、そのうち今後数年にわたってお世話になりそうなお店は1軒あればいいほうというのが現実だろう。

 さて、前回に続いて、今回も日本の現代音楽を取り上げてみたい。湯浅譲二は日本の作曲家、今年76歳になる。実は僕自身は最近まで名前を知らなかった。詳しい経歴とうについては、関係のサイトを参照いただきたい。現代の日本の作曲家といえば、僕は正直なところ武満徹以外は全くと言って未知であった。前回の藤家溪子も山下和仁がとりあげなかったらずっと知らずに終わっていただろう。いまの時代において、作曲という領域で活動を続けてこられたことの、強さを感じないわけにはいかない。

 「現代音楽って何?」これは本当に悩ましい質問だ。同じ意味では「クラシック音楽って何?」という問いがあってもおかしくないはずなのだが。こちらはおかげさまで、ベートーベンの第5交響曲に代表される様な、国民的コンセンサス(あってるのか間違っているのかはもはや誰にも判定できない)があるから簡単なのだが、それと現代音楽が関係あるということ以前に、その存在自体を知られていないという現状は、やはり残念である。伝統とか前衛とか正統とか、作品の価値はそんなこととで決まるのではない。ただ作品を探求するのは作曲家の指名として、作品を知られる機会をつくるのは、誰の役割なのか、それを作曲家に求めるだけでいいのか、これは難しい問題だ。さっきの話で言えば、いいお店は料理の味やサービスのよさだけでその評判が広まっていく、これは本当なのだろうか。

 今回の作品は、湯浅のオーケストラ作品から最近のものを中心に4つの作品を収録したものである。誤解を恐れずに言えば、一般にはほとんど知られる機会のないものばかりであるが、CDショップの売り場でたまたま見かけて、僕には妙に惹かれるものがあり、購入してしまった。興味深いのは、このCDに収録された4つの作品のうち2つの作品が、俳句の先駆者にして巨匠である松尾芭蕉に因んだものである点だ。「交響組曲『奥の細道』」そして「芭蕉の情景」。いずれの作品も、各楽章のタイトルに芭蕉の句が引用されている。それらの作品が特に印象に残る。詳しくは、CDのライナーで湯浅自身が書いているので、そちらを参照されたいが、芭蕉の句を音楽で表現するという試みの面白さも手伝ってか、作品にある種の現代的なヴィジュアル志向を間接的に持ち込むことに成功している点が興味深い。

 僕の亡母は俳句を嗜んだ。いまとなって残念なのは、彼女が芭蕉の様な古典に始まり、現代の俳句も含めて、同じ俳人としてそうしたものをどう評価していたのか、そこまでを語りあえる機会がなかったのは残念だ。だが不思議と僕自身がそうしたものにいまこの時点で興味を抱く、そのことには偶然性とはことなるなんらかの運命的な必然を感じないわけでもない。ふとした時に気付く、自分のアイデンティティ、日本。最近、それをますます強く意識するようになっていると感じる。そんな思いが僕をこの作品に導いてくれたのかもしれない。

 自分にとって大切なことは何か。改めてそれに向き合う機会をくれたように思う。

湯浅譲二 東京コンサーツによる湯浅氏プロフィール
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