5/30/2004

アレクサンドル=クニャゼフ「バッハ:無伴奏チェロ組曲」

Alexander Kniazev: この1週間、妻が仕事で海外に出かけてしまい、僕にとってはしばらく独身に戻ったような時間を過ごした。こういう機会はこれまでにもなかったわけではない。で、その度に、さて独りになったならそれはそれ、なにかちょっとはじけてみるか、とか考えたりもするのだが、結局、落ち着く先はいつも決まって、酒と音楽になる。確かに、独身の頃と比べて一番大きく変わったのは、誰とのおつきあいでもなく、それらとの関わりでの時間の使い方である。

 ともかく、この1週間は1日だけ会社の仲間たちと遊びに行ったのを除けば、ほぼ毎日仕事からまっすぐ帰って、さっさと食事とシャワーを済まして、毎晩遅くまで音楽を聴いて酒を飲んだ。シャワーを出て軽くビールで喉を潤したら、以後に飲む酒は最近はもっぱら焼酎が多くなった。巷で流行の理由はよくわからないが、僕の場合は、以前に会社の後輩が我が家に遊びにきてくれた際に、奥さんの故郷である奄美大島の黒糖焼酎「里の曙」を手みやげとしていただき、それ以来その味にハマり込んでしまったのだ。幸いにも近所のスーパーでそれを取り扱っていて、すっかり「またですかー」と自分で口にしながら、カゴにいれてレジに向かっている。甘みがあってクセもなく、糖分が少ないとくれば、悪酔いもせず気持ちよく楽しめる。おつまみの音楽もどんどん進むわけだ。

 音楽は、ここしばらくはジャズ一辺倒になり、相変わらずコルトレーンとその周辺の音楽を中心に聴いていたのだが、タワーレコードがクラシックとジャズ部門を中心に発行しているフリーペーパー"ミュゼ"を読んでいて、気になって購入したクラシックのCDが、なかなか衝撃的な内容で、僕の中でちょっと流れを変えつつある。それが今回の作品である。

 バッハの「無伴奏チェロ組曲」はおなじみの人も多いことと思う。知らないなあという人でも、第1番の第1曲(プレリュード)の冒頭を聴けば、「ああこれね」とうなづくに違いない。すべて無伴奏のチェロ1本で奏でられる6つの組曲集で、ベートーベンのチェロソナタとあわせて「チェロのバイブル」と言われている。ほとんどのチェロ演奏者にとって、大きな目標となる作品集である。少し前には、サックス奏者の清水靖晃氏が、全曲サックスだけで本作を演奏した作品集が発表され、テレビCFにも使われたりして話題になった。

 僕はまだ学生の頃に、ヨーヨー=マが若くして録音した全集を購入して一頃よく聴いていた。1回聴いただけでチェロという楽器の魅力に取り憑かれてしまった。天才チェロ奏者として、いまや幅広い活躍をしている彼が、若くして早々とこの全集を発表したことは当時相当話題になったらしい。彼の演奏は「さらりと弾いてのける」というような華麗な感じで、ある意味とても聴きやすいものだった。

 僕は、この音楽にずっとそれなりにこだわり続けている。楽譜も買った。ベースでちょろっと演奏してみたりもした。ヨーヨー=マ以外にも、パブロ=カザルスやムスティスラフ=ロストロポービッチといったチェロの大家の録音や、ギター演奏家の山下和仁が全編ギターで演奏した録音も持っている。でも一番よく聴いたのはやはり最初に聴いたヨーヨー=マのものだ。彼は1990年代後半に再度この作品を録音しているが、僕はお店で聴いただけで買わなかった。僕はもうこれ以上この作品に興味を持たないかなと思っていた。ただ、少し前に久しぶりにそのCDを聴いてみて、「あれ、こんな演奏だったっけ」というなにか物足りなさみたいなものを感じていたところだった。まあ言ってしまえば歳のせいなのかもしれない。

 そこへ、ロシアのチェロ奏者アレクサンダー=クニャゼフによる演奏のことを知った。はじめて名前を聞いた演奏家だった。僕が情報誌の紹介記事を見て興味を持ったのは、この人の演奏は曲によって非常に時間を長くかけてゆっくりと演奏されているということだった。他の大抵の演奏家の録音がCD2枚組で発表されているのに、この録音はCD3枚となっている。最終曲の第6番だけが3枚目に収録されているのだが、なんとそれだけで40分もかけている。3枚合計の演奏時間は2時間40分になる。それが僕が少し前にヨーヨー=マの演奏を聴いて感じた物足りなさを、埋めてくれるような気がしたのである。

 結果は大正解だった。僕は土曜日に開港祭でにぎわう横浜に出かけて、そこのタワーレコードでこれを購入した。家に帰ったのは夕方だったが、先ず夕食前に3枚を通して聴いた。彼のチェロの音がとても厚みがあり深い音色である。速いパッセージを華麗に弾きこなすヨーヨー=マとはずいぶん異なるが、とにかく引き込まれるような音色なのだ。スピードは似合わない。ゆっくりとした曲でその真価を発揮するという感じにいまのところは聴こえる。近所のラーメン店にキムチチャーハンを食べに出かけて、すぐまた帰ってきてそそくさとシャワーを浴び、早々に飲み始めてまた3枚を通して聴いた。うーん、素晴らしい。さて夜も更けて日付も変わった、他に何を聴こうかなと考えてみたが、結局またまた聴いてしまった。後から考えれば自分でもあきれた話だが、確かにこういう時間はなかなか過ごせるものではない。たまたま与えられた機会だったわけだが、酒だけでなく新しい音楽とも出会い、それを充実して過ごすことができた。よい休日だった。

 どこかで読んだ話だが、クラシック音楽のオーケストラメンバーに「あなたがいま担当している楽器以外に、何か楽器を演奏するとしたら何をやりたいか」と質問したら、多くの人がチェロと答えるのだそうだ。僕自身もできることならやってみたいが、住宅事情の問題があるのでいまだに手が出せないでいる。チェロの魅力は、その楽器が持つ音域と、弓による演奏の表現力だろうと思う。一言でいえばいろいろな意味で人間的な楽器とも思える。それはメカニカルなものではなく、このクニャゼフの演奏が表しているような懐の深いような、優しく暖かいようなものだ。なにかの栄養不足を満たしてもらえたような気がした。

 ちなみにこの情報誌"ミュゼ"は、毎奇数月の20日にタワーレコードの店頭で発行されるもので、クラシック、ジャズ、映画を中心に、なかなかいいセンスでそれらの芸術の最新の売り物を紹介してくれる。フリーペーパーというにはもったいないくらいの中身の濃さであり、僕も音楽を捜すうえでよくお世話になっている。僕は大抵、これを店頭でもらって帰ると、2、3日後には、お買い物リストに10タイトル程度が簡単にリストアップされてしまう。その意味では、発行者の意図はどんぴしゃというところだろうか。まあ今回の件はやはりこれに感謝しなければいけないだろう。

Alexander Kniazev,cellistアレクサンドル=クニャーゼフ(バイオグラフィやレパートリー一覧など)

0 件のコメント: