5/15/2004

ジョン=コルトレーン「ライブ イン ジャパン」

John Coltrane:  僕にとって一番大切な音楽家は、いまのところ、ジャズ・サックス演奏家のジョン=コルトレーンである。僕の中でこのことはこの20年余のあいだ変わっていないし、たぶん、これから先も変わることはないだろうと思っている。これは、僕にとっての一番いい音楽が、彼の音楽だということとはちょっと意味が違っているかもしれないけど、今回とりあげるこの作品には、他の作品のようにこのログの主旨である「ある日僕が聴いた音楽」という気軽なものとは異なる、深い思い入れがある。もちろん、ここ数日よく聴いている音楽であることには違いないのだけれど。

 僕は、ある音楽家の一生涯の物語とそのほとんどすべての作品を実際に耳で辿るということを、コルトレーンを聴くことではじめて経験した。数十枚にわたる彼の主要な作品をCDや中古レコードで集めるということに、僕の大学生活の少なからずの時間が費やされ、彼の音楽活動や生涯について書かれたものをいろいろと読んだ。なかでも季刊誌「ジャズ批評」のジョン=コルトレーン特集は、本当に隅々まで何度も読んだ。それから20年近い年月が経ったいまも、コルトレーンの音楽を聴くときは、演奏された頃の彼の人生の背景や、そのスタイルの時代的な意味などを考えずにはいられない。

 コルトレーンは1926年に生まれた。10代後半からサックスを吹き始め、早くからプロを志すもいろいろな苦労があり、29歳でマイルス=デイビスのレコーディングに参加することで本格的な活動を始めた。そして1967年に40歳でこの世を去るまで、彼の演奏家としてのキャリアは10数年だったわけだが、そんな彼の音楽には実に4つもの「頂点」があると僕は考えている。「ブルー・トレーン」(1958年)、「ジャイアント・ステップス」(1959年)、「至上の愛」(1963年)、そしてこの「ライブ・イン・ジャパン」(1966年)である。この4つを彼の代表作品と考えることもできるわけだが、それらのスタイルは相当に異なっている。彼はプロの演奏家としての生涯を通じて、自分の音楽のスタイルを追究し、これら頂点に向けてあるスタイルを発展させ、それを破壊し、また次の頂点に向けて新しい創造を行うということを繰り返した。

 そして、コルトレーンは1966年7月、39歳の時に自分のグループを引き連れて初来日を果たした。この作品はそのときに東京で行われた2つのコンサートを、そのままCD4枚にわけて収録したものだ。元々レコード化する予定ではなく、2つの放送局が放送で1回だけ流すことを条件に録音したものだった。従って、録音の状態はモノラルではあるものの非常によい。コルトレーン本人はどの日の演奏がその対象になっているのかは知らなかったらしいが、こうして2日分の演奏がまるごと残されたものを聴くと、そのレベルの高さから、彼がそのことを事前に意識するような人ではなかったことがよくわかる。

 来日時のエピソードは先に紹介した雑誌(いまではバックナンバーというより中古を探すしかないのだが)に、多くのことが詳しく書かれている。到着時に開かれた記者会見で「私は聖者になりたい」と発言し、記者団から何か一曲吹いて欲しいと頼まれると、激しいソロ演奏を何十分にもわたって吹いた。移動中は小さな袋にお菓子をたくさん入れて持ち歩き、新幹線のグリーン車に招き入れた楽器商から琴や尺八を購入した。はじめて触れた尺八を手にしてすぐ音が出たので楽器商が驚いたそうだ。ヤマハの楽器工場を訪問した際には、アルトサックスをプレゼントされて大喜びした(7月22日演奏の「レオ」の一部でその楽器を使っているのを聴くことができる)。前日のコンサートで酒に酔ってステージにあがったベースのジミー=ギャリソンを「今度飲んだらクビだ!」叱り飛ばしもした。そして、常に楽器を携行して暇さえあればそれらを吹いていたのだそうだ。

 当時は、現代のように世界の情報が瞬時に共有されるような時代ではなかった。日本で発売されていた作品は、3つめの頂点である「至上の愛」とそれに続くいくつかの作品までで、彼の新しいスタイルがいわゆるフリージャズのスタイルになっていることを知らない人も多かったという。この演奏に対する評価は現在においても様々であるが、当時これに生で触れることができた人(本当にうらやましい!)の多くが、相当なショックを受けたことは事実のようだ。演奏の途中や終了時に記録されている観客の熱狂ぶりは、当時のことを考えれば相当なものであったことがよくわかる。おとなしいといわれる日本の聴衆だが、この観客の少なからずの人が拍手を贈るだけでなく何やら叫び声をあげている。この数年後に記録され、「ライブ・イン・ジャパン」という言葉を有名にした、ロックグループ、ディープパープルの同名の作品があるが、そこに記録されている観客の熱狂でさえ、これには及ばないのではないかと思えるぐらいだ。(ウソだと思う人で、運良く両方をお持ちの奇特な方は確認してみてください)

 ここで演奏される音楽は、メンバーそれぞれのソロ演奏といい音楽のスタイルといい本当に神懸かった内容である。僕は、ツアー最終日7月22日の最後に演奏された「レオ」をよく聴く(CDには収録時間の関係で、同日の最初に演奏された「ピース・オン・アース」と同じディスクに収録されている)。これは45分程の演奏で、ベースを除く全員のソロ演奏をフィーチャーしながら展開してゆく音楽だが、これだけの長時間演奏を行っても、まったく緊張感が失われることなく、壮大なスケールの劇画の様に展開する音楽は何度聴いても感動ものである。演奏の最後にわきあがる観客の叫び声もただならぬ熱狂を現している(僕はいつもここで泣きそうになる)。それでも、当時の習慣だと思うのだが、コンサートの最後には司会者が登場して、「それでは花束の贈呈です。花束の提供は・・・」と記録されているのも面白く、最後には「ついに2時間10分におよぶ大熱演でありました。皆さんもさぞお疲れになったことでしょう」という大きなお世話のコメントまで入っていて、ここで我に返ることができるのは、制作者の計らいなのかもしれない。

 僕は、会社に入って2、3年目のある時期に少し落ち込んで悩み、夜に自分の部屋で独りで酒を飲みながらいろいろなCDを聴いているうちに、真夜中になってヘッドフォンでこれを聴きはじめ、そのときはじめてこの演奏の素晴らしさを悟ったのだった。その翌日は会社を休んで「うぉー」とバイクで南に向けて走り出したのも思い出す。僕はそのときに確かに何かが得られたような手応えを感じたし、それが何だったのかはうまく言えないが、単なる空元気のような一過性のものではなかったことは、いま考えても間違いない。あの夜を境に僕の中で何かが変わったのである。

 僕は、コルトレーンがプロとして活動しはじめたのと同じ位の年齢で彼の音楽を聴き始め、今年で彼が生涯を閉じた40歳になる。さて、自分がやってきたことについてはというと、いまだに何の頂点もないのが実際である。これから先にも、それができるのかいまのところわからない。あまり考えたくはないが、そう考えるとまったく情けないものだ。あの夜以来、何かの理由で悩んだり、落ち込んだ気分になったとき、僕はひとりでにCDラックにあるこの作品に手を伸ばしてきたが、今回はそのことに気がついて、一瞬さらに輪をかけて落ち込んでしまった。それでもこの演奏を聴くと、それは僕の中いっぱいに流れ込んできて、他のことをすべて押し流してしまった。

 僕は、この演奏をコルトレーンが最後に到達した云々というふうには考えていない。日本を去ったコルトレーンは、また新たなスタイルに向けて創造し始めている記録が残されている。それでもその方向性は、これまでの彼の変遷からしても十分納得のいく自然なものだと僕は思う。意外性などということのかけらもない。そんなものを狙っても意味はないのだ。大げさになってしまうが、やはり人生として音楽を追究した彼の軌跡は、自分の中で高めてゆけるものを持たなければ、どんなことでも強くはなれないことをあらためて教えてくれる。

 やはり、思い入れの強い作品をとりあげるのは難しいものだ。結果的に自分には文章の力があまりないなと思うだけで、いつもと同じような駄文になってしまったが、書き上げるのは思いのほか時間がかかってしまった。これまでの他の作品についてももちろんそうなのだが、もしこの駄文を読んでこの作品に興味をもつ人がいたら、僕はとてもうれしい。簡単な音楽ではないが、できるだけ多くの人に聴いてもらいたいと思う。

John Coltrane 公式サイト(代表作品の試聴や映像もあります)

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