7/05/2015

割れた鏡または化石の鳥

会社に長年勤続して50歳を迎えた社員を対象に行われる研修に参加した。まる2日かけて、これからの人生を考えましょうという趣旨のプログラム。

初日の前半がお金の話。退職金や年金の仕組みについての説明があり、それぞれの家庭の立場で今後の人生をお金の面から考えてみるわけだ。

僕の場合は子どもが小学1年生だから、今後子どもが中学高校と進学してゆく節目と自分の人生の節目を線表にまとめながら、退職金や年金をもらえるタイミングとかその金額(あくまでも仮定の話であるが)を知って、さてどうしたものかと思案せよというわけである。

その後、雇用延長や再就職支援などに関する制度や仕組みの説明があり、その気があれば会社としては一定のお手伝いはできますよということを伝えられる。

初日の後半から2日目にかけてはグループに別れて、自身の人生を振り返るチャートを作成したり、性格診断のアセスメントを試したりして、その内容をもとにグループでディスカッションをやりながら、自分という人間について主観的に客観的に見つめる。

こうして、お金や再就職や、自分という人間についての洞察を踏まえて、最後に無理やりではあるが、自分のこれからのキャリアプランなるものを作成し、その実現に対する自身の決意を文章にしたためて、それを参加者全員の前で一人ひとり発表してプログラムが終わる。

僕が宣言したことはいちいちここに書く程のことではない。というよりもほとんどここに書いてあることと変わらないように思う。

いろいろな意味で中途半端でバカバカしいことかもしれないのだが、僕にとってはそれなりに有意義なものだった。グループワークで一緒になった4人がなかなか面白い人たちで、来週にでも一度集まって呑みましょうということになった。

言い出しっぺは僕だったのだが、彼ら一人ひとりの考えていることやこれまでの人生のことについて、もう少しお話を聞いてみたいと思ったのだ。翌朝出社早々にメールで都合を伺い、来週半ばに適当な場所で集まることになった。

その金曜日の夜には、先月で退職した僕と同期入社の男の送別会に参加。主に米国シリコンバレーを中心にした、彼の仕事において関係があったいろいろな人が集まる席であった。

会社を去る人の常として、彼(そして集まっている人たち)がいまの会社に対して思うところ感じるところの一端を聞くことになるわけだが、いま自分が(そして事実上は彼もまた)所属する部門の責務を想うと、本当に勿体ない人を失うのだなと感じる。

それでも会社を去る彼は、これからは別の企業で活動することになるらしいが、そのことが結果的にはだからいまの会社を辞めるのだということの一番確たる理由なのだと思った。やはり彼の表情は酔いとは無関係に清々しかった。

前日まで受けた研修とこの送別会で感じたことは、一見とても対称的な内容である。それらが自分自身も属する同じ集団で同じ時間に起こったという事実は、いったい何を物語るものなのか、一瞬考えてみようという気にもなったけど、とりあえずようやく週末を迎える家路の電車では、そんなことよりも吉沢のベースを聴きたくなったので、その日はそれ以上そのことを考えることはなかった。

雨の週末。土曜日の午前中にわずかばかりの雨上がりに、少しだけ自転車に乗ることはできたけど、やっぱりこういう楽しみを持ってこの天候は恨めしいものである。

週末に、吉沢のベースを聴きながら、独り家で呑む酒のまどろみの合間に、ふと一度考えることをやめていたあの問題が顔をのぞかせたけど、やはりここでもそれよりいま流れている吉沢の音楽に耳を傾けることの方が、自分にとって大切なのだろうと思い、それはふたたびひも解かれることにはならなかった。

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