8/18/2013

騒々しい天候が直島を翻弄するとき

妻と子どもが広島に行き、独りで過ごした一週間。月曜火曜は夏休みで仕事はお休み。水木金とお盆休みの最中の空いた電車で仕事に行き、定時にはさっさとまっすぐに帰宅して、のんびり過ごした。

こういう休みの時にやることと言えば、決まって家の片付け。とりわけCDの整理はこういう時にしかできない。将来の子ども部屋の片付け(なぜか散らかっている)とか大さん橋へのウォーキングとか、昼飯夕飯に出かけたりとかの合間に少しずつ整理を進めて、今回も200枚ほどを買取に出した。

年を経るごとに厳選されたものが残って行くことになるわけだが、同時に手放すことに対する後ろめたさのようなものが少なくなって行く様に思う。それだけダウンロードとかの方法で入手できる音楽の範囲が拡がったということだろう。

いま僕が手元に残して置きたいCDは、
・僕自身の共感にしっかり刻まれていること
・現時点で入手することが難しい音楽であること
・CDの形で子どもに伝えたいと思うこと
といった条件を満たすものだと思う。

いまとなっては整理するたびに自分のなかの大切な何かが煮詰められてどんどん濃縮されて行くような感覚である。現時点で手元にはまだ600枚余りのCDが残っている。一時2000枚を超えていたことを思うとずいぶん減った。でもいろいろな意味で僕自身と時代の流れを考えるに、これは納得感のある悪くない状況だと思う。

木曜日の夜に、デヴィッド=シルヴィアンがクリスチャン=フェネズ等とともに、2006年から2007年にかけて製作した"WHEN LOUD WEATHER BUFFETED NAOSHIMA"のディスクが、DVDなんかを入れてある戸棚から偶然に見つかった。

パッケージがDVDサイズのものだったので、ここに入れてしまったのだろう。買って何度か聴いたが、正直持ってることを忘れそうになっていた。

これはちょうどいい時にちょうどいいものが出てきたなあ。パッケージに描かれた鶴見幸代さんによる見事なデザインを眺めながら僕はそう直感した。こういうものをじっくり聴けるのはいまのような状況がちょうどいい。

自宅に独りというのももちろんだが、この週末の時点で僕という人間がおかれている実に様々な状況を見かねて、この作品の方から突然にひょっこりと僕の目の前に姿を現わしてくれた、まさにそんな気がしたのだ。

作品はデヴィッドやフェネズを含む5人の演奏家によるアンサンブルで奏でられる70分間の大作。誰が何を演奏しているのか、どこまでがあらかじめ書き込まれたものなのかは一切わからない。わかっているのは、この作品を委嘱した財団がある香川県直島の様々な音が、最後のミックスで加えられているというだけ。

アンビエントとか音響とか安易なジャンルで括ることのできないこの音楽を、果たして僕は金曜日の夜から翌日の土曜日、そして妻と子どもが帰ってきた日曜日まで、部屋の掃除などの合間合間に何度も聴いた。それは外で蝉が鳴きまくる暑い日中だったり、静まり返った真夜中に焼酎のグラスを片手にだったりした。

当たり前だがこのCDは手元に残してある。今度はちゃんとCDラックの端っこに、少しはみ出すけど邪魔にならない場所を確保した。

広島で従姉とたっぷり遊んで爺婆に甘えていろいろ買ってもらった子どもと、親に甘えて家事や子育てから少し離れてのんびりした妻を、新横浜駅まで出迎えた。今日も暑い1日だったが、やはり夕方になるとどことなく秋の気配がある。

瀬戸内海の近くを通って横浜にやってきた新幹線をホームで迎えながら、この列車が直島の一番近くを通ったのはいつ頃だったのだろうか、そのとき車窓から直島は見えたのだろうか、そんな軽い疑問が一瞬僕の頭の中にひらめいた。

海はいつも何らかのかたちで僕に合図を送ってよこす。


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